ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第242回)

2021-05-31 | 〆近代革命の社会力学

三十五 第二次ボリビア社会主義革命

(4)革命前期:1952年‐56年
 1952年の革命は、前年の合法的な大統領選挙で勝利していたMNRが前政権と軍部によって不法に奪取された選挙結果を武装革命によって回復しただけのことであり、本来予定されていた政権が一年遅れで開始されたにすぎない。
 そのため、この先1964年までの12年に及んだMNR政権は同党共同創設者のパス・エステンソロとシレス・スアソが四年ごとの選挙で交互に大統領を務める形となり、外見上は通常の選挙政治の形態となったが、実質から見れば社会主義革命であた。
 そうした「長い革命」となったボリビア第二次社会主義革命はパス・エステンソロ政権一期目の1952年から56年までの前期と、シレス・スアソ政権の1952年から60年までの中期、そして、再びパス・エステンソロに戻る同政権第二期の1960年から64年までの後期の三期に区分できる。
 このうち、前期の1952年‐56年が革命の最盛期であり、最も急進化した時期でもある。ただ、MNRはマルクス‐レーニン主義の党ではなく、モデルとされたのは20世紀初頭のメキシコ革命以来、メキシコの政権党となった制度的革命党であり、MNRの政策の基軸となったのは、鉱業の国有化と農地再配分であった。
 鉱業に関しては、従来ボリビアの政治経済を支配してきた三大錫財閥の解体と主要鉱山の国有化及び労働者自主管理方式を導入した公営鉱山運営企業として鉱業公社の設立が導かれた。これによって、公社は当時ボリビア鉱業の三分の二を支配する独占企業体となった。
 農地再配分に関しては、メキシコから顧問を招聘して農業改革委員会を設置し、地主所有農地の分割と農民への再配分を実施したが、これは不徹底に終わり、最終的には地主への農地再集中を招くこととなった。
 とはいえ、新たに農民問題省が設置され、ほとんどが先住民である農民の権利が向上したほか、農民は独自の武力を保有することさえも認められた。
 一方、政治行政面ではメキシコ革命よりも踏み込んだ革命的な統治構造が形成された。すなわち、労働組合による統治である。労働組合員は52年革命で武装民兵としても決定的な役割を果たしたことから、労組はMNR政権において最も主要な権力基盤の地位を獲得した。
 ことに革命直後に産別労組を統合して設立されたボリビア労働者中央本部(COB)はそれ自体が準権力機関の性格を持ち、中央官庁を支配したほか、COBの中核を成す鉱山労働者には軍に対抗する独自の武力の保有が認められた。
 その点に関連して、52年革命では正規軍の縮小が実行され、如上の労働者・農民の民兵団に置き換えられたことも急進的な点であった。これは、同様に選挙結果が不法に転覆されたことに起因した1948年の中米コスタリカ革命でも常備軍廃止が実行されたことに影響されたものかもしれない。
 しかし、ボリビアでは軍の完全な廃止はなされず、縮小化とMNRによる軍の政治的統制が実現されるにとどまった。むしろ、軍は56年以降、再建され、民兵団に代わって復活するに至り、ついにはMNR政権を転覆するクーデターに乗り出すことにもなった点で、コスタリカとは異なる経緯を辿る。

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近代革命の社会力学(連載第241回)

2021-05-28 | 〆近代革命の社会力学

三十五 第二次ボリビア社会主義革命

(3)選挙結果回復闘争から革命的蜂起へ
 1946年のビジャロエル政権の悲惨な失墜から1951年の大統領選挙までの大戦直後の時期は保守勢力が息を吹き返した時期であり、パス・エステンソロらMNRの幹部も多くは海外亡命を強いられていた。しかし、この間、保守政権も安定せず、5年間で4人の大統領が入れ替わった。
 保守勢力は戦間期の第一次革命以来の社会主義運動を阻止し、二次的な革命を防圧することに努めたが、長期政権が生まれず、かつ戦後の不況対策にも失敗する中、かえって社会不安が高まっていた。
 労働運動は急進化し、ボリビアの鉱山労働者組合は、1946年10月、トロツキーの思想に影響され、永続革命や武力闘争を謳った「プラカヨ・テーゼ」を発し、支配層との対決姿勢を鮮明にした。これに対し、政府は労働運動への抑圧を強め、再びカタビ錫鉱山での労働者蜂起が弾圧された。
 この間、MNRは急進的な労働運動とは一線を画しつつ、労働者階級や先住民層の間で着実に支持基盤を拡大し、最も強力な野党勢力となっていった。そうした状況下、自信を得たMNRは1949年に一部将校と組んでクーデターを企てたが、この早まった決起は失敗に終わった。
 その後、MNRは合法的な方法による政権獲得路線に転じ、1951年の大統領選挙では、当時アルゼンチンに亡命中だったパス・エステンソロが立候補、共同創設者シレス・スアソも副大統領候補にそろって立候補した。
 この選挙は普通選挙制導入前の制限選挙ながら、パス・エステンソロが45パーセント余りの得票率で勝利した。しかし、この結果に衝撃を受けた時の退任予定大統領ウリオラゴイティアは選挙結果を覆すべく、軍部に介入を求め、軍事政権を樹立させた。
 この策動は簡単に成功したが、持続するものではなかった。経済的には保守政権下でインフレ―ションが亢進しており、頼みの錫産業も戦後の国際価格の下落により打撃を受けていた。臨時の軍事政権には、そうした経済問題に対処する能力はなかった。
 一方、明らかに不法な選挙結果の転覆は、幅広い国民階層の間で強い反発を招いた。首都ラパスでは失業者のデモ行動が広がり、軍部も動揺し、一枚岩ではなくなる中、MNRは1952年初頭から選挙結果回復闘争に乗り出す。
 この動きには軍事政権の批判的な内部者や軍と一線を画す国家警察も助力し、同年4月にはラパスで武装蜂起に成功する。これ以降、MNRは武器庫を襲撃し、押収した武器を市民に分配して決起を促す典型的な武装革命モードに入った。
 この時点で、政府軍はすでに士気を喪失して事実上の動員解除状態となっており、3日間の戦闘の後、政府軍が降伏、4月16日には選挙結果どおり、パス・エステンソロに大統領権限が委譲された。こうして、革命は成功した。
 このように、合法的な選挙結果の転覆という政権の不法な介入が革命を招いた先例としては、ほぼ同時代1948年の中米コスタリカにおける革命があるが、コスタリカ革命が常備軍廃止という点を除けば、比較的穏健な社会改革に急速収斂したのに対し、1952年ボリビア革命はより急進的かつ長期的な社会変革に振れていくことになる。

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近代革命の社会力学(連載第240回)

2021-05-26 | 〆近代革命の社会力学

三十五 第二次ボリビア社会主義革命

(2)国民革命運動の台頭
 1952年の第二次ボリビア社会主義革命で中心的な役割を担った国民革命運動(MNR)は、第一次革命が挫折して間もない1941年に、ともに弁護士のビクトル・パス・エステンソロとヘルナン・シレス・スアソによって創設された政党である。
 この党は第一次革命によって革新的な政治運動が刺激されたことを背景にして結党され、最初期の支持者は中産階級知識人が中心であったが、MNRが結党から間もなく台頭し得た契機として、結党直後の1942年12月、ボリビアを代表するカタビ錫鉱山で、軍により労働争議が流血弾圧されたカタビ虐殺事件の反響が大きい。
 この事件を機にMNRは鉱山労働者の組織化をベースに党勢を拡大し、翌43年には軍内の急進的な青年将校グループを率いていたグアルベルト・ビジャロエル少佐のクーデターに参加、ビジャロエル政権の与党となった。
 こうしてMNRは結党から一年で政権に参加することとなるが、ユダヤ移民禁止政策を主張していたMNRを親ナチスとみなしたアメリカの圧力により、1944年、MNRはパス・エステンソロをはじめ、閣僚を政権から引き上げることとなった。しかし、同年の総選挙で勝利すると、再び復帰している。
 実際のところ、MNRのイデオロギーには曖昧な点もあり、中産階級によって結党された当初は基本的に民族主義的な社会主義であったが、ソ連流のマルクス‐レーニン主義とは一線以上を画しており、革命の挫折後再生を果たした1980年代になると新自由主義に転じるなど、生存戦略に長けている反面、イデオロギー的一貫性を欠いていたことはたしかである。
 むしろ、ファシズムに傾斜していのは、ビジャロエルとその同志将校であったと考えられる。もっとも、ビジャロエル政権も、第一次革命の継承と社会改革を標榜し、保守勢力とは対立したので、完全なファシズムとも異なる曖昧な点が認められた。
 大戦をはさんで1946年まで続いたビジャロエル政権下では史上初めて全国先住民会議が開催され、先住民の権利保障の基礎が築かれたことは、社会改革という点で特筆すべき事績となったが、政権は左右両翼からの反対にさらされ、次第に政敵・反政府派に対する苛烈な抑圧に走っていったため、折からの経済悪化も手伝い、国民の強い抗議行動を招いた。
 その結果、1946年7月には抗議行動が革命的な様相を呈し、政権は崩壊、ビジャロエル大統領は暴徒によるリンチで虐殺され、まさにイタリアのファシスト、ムッソリーニと同様に遺体をさらされるという悲惨な最期を遂げた。
 NMRはビジャロエル政権の失敗にもかかわらず、その後も労働組合運動を基盤に着実に勢力を伸ばしていった。しかし、1946年以後、1951年の大統領選挙までは保守勢力が政権を奪回しており、NMRは野党勢力にとどまった。

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近代革命の社会力学(連載第239回)

2021-05-24 | 〆近代革命の社会力学

三十五 第二次ボリビア社会主義革命

(1)概観
 第二次世界大戦後の中南米諸国は、未だ西欧列強の植民地支配下にあったカリブ海域の島々を除けば、冷戦期にはアメリカの覇権追求の拠点となり、「アメリカの裏庭」として親米政権が林立する地域となっていくが、戦間期に第一次社会主義革命を経験した南米ボリビアでは異なる潮流が見られた。
 第一次社会主義革命は1939年、革命立役者でカリスマ的なヘルマン・ブッシュ大統領の自殺により収束するが、直ちに完全な反革命反動が起きたわけではなかった。
 3年間の「軍事社会主義」の時代に革新的な政治運動が刺激されたことを背景に、1942年に民族主義的な社会主義政党として国民革命運動(MNR)が結党され、鉱山労働者を最大支持基盤として急速に台頭した。
 MNRは1943年のクーデターで成立したビジャロエル政権に参加するが、ビリジャロエル大統領は社会主義者というよりはファシストに近く、反対派への苛烈な弾圧で国民の信を失い、第二次大戦後、1946年の民衆革命により崩壊した。
 その後は、1950年代初頭にかけて暫定や保守系の短期政権が続く不安定な情勢に陥る。しかし、1951年に実施された大統領選挙では、MNR共同創設者でもあるビクトル・パス・エステンソロが当選を果たした。
 この選挙結果が承認されていれば、第二次社会主義革命は生起しなかったはずであるところ、時の保守系政権はパス・エステンソロ候補勝利の選挙結果を認めず、軍部に政権を移譲した。その結果、軍事政権が成立し、MNRは抑圧された。
 このように合法的な選挙結果が覆された状況下で抗議行動が高まる中、翌1952年4月、MNRと支持者の鉱山労働者や国家警察などが革命的に蜂起、軍事政権を打倒して、MNR政権を樹立したのである。  
 これは先年の合法的な選挙結果を取り戻すための決起であったという限りでは純粋の革命とは異なるが、その後、1964年まで続いたMNR政権の下で急進的な改革が推進された点において「長い革命」という性格を持つに至った。
 その点、戦間期の第一次革命との間に担い手の連続性はなく、別個の革命現象であったが、12年間に及んだMNR政権の下で、錫財閥の解体、農地解放、普通選挙制、軍部の解体再編、先住民の権利保障など、第一次革命がやり残した多くの革命的課題が実現された点で、「長い革命」は第一次革命の継承・完成期とも言えた。
 しかし、経済政策に関しては失政があり、インフレーションが亢進する中、MNR内部の路線対立も深刻化し、1964年、皮肉にも革命後再編された新軍部の背信的なクーデターにより第二次革命は終焉したのである。その後もMNRは存続するが、革命性を失い、保守系政党へと変節していった。
 とはいえ、南米でボリビア第二次革命の規模と期間で社会主義革命を経験した国は他になく、ボリビアに社会主義的な志向性を刻印したことは否定できない。そのことが、時を経て冷戦終結後の21世紀、今度は先住民という新たな担い手によって再び社会主義政権を登場させる遠因ともなったと言える。

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比較:影の警察国家(連載第40回)

2021-05-22 | 〆比較:影の警察国家

Ⅲ フランス―中央集権型警察国家

1‐0:二重的集権警察の錯綜的構制

 前回見たとおり、フランスの中央集権警察は文民警察としての国家警察と軍事警察としての国家治安軍の二重構造となっているわけだが、それぞれが別個の沿革に基づいて発展してきたため、両者の関係性は競合的であり、錯綜している。
 まず両者の競合関係として管轄区域の問題が最も重要であり、運用上も混乱を生じかねないところであるが、大雑把に、都市部は国家警察が、地方部は国家治安軍が管轄するという住み分けルールが形成されてきた。
 その具体的な線引きには変遷があるが、現行法上は人口2万人以上のコミューン(市町村に相当)は国家警察、2万人に満たないコミューンは国家治安軍が管轄することとされている。
 このような住み分けが規定されているのは、現行国家警察の母体となった自治体警察は都市部のそれが中心であり、それぞれの管轄区域を引き継いだことによる(首都パリの警視庁は特別な地位を持つが、これについては次項で改めて触れる)。
 次いで、両者の所管官庁に関しては、文民警察としての国家警察は内務省(Ministère de l'Intérieur)、軍事警察としての国家治安軍は陸海空軍と並び軍務省(Ministère des Armées:2017年までは国防省)が所管するという分担関係が長らく基本であった。
 ただし、沿革上は軍の一部とはいえ、現代の平時における国家治安軍の実質的な役割は警察そのものであるので、実施部隊によっては内務大臣や県知事の指揮を受けるなど指揮系統が複雑化していたところ、2009年の法改正により、平時の指揮権は内務大臣に一本化されることとなった。
 ただし、国家治安軍はあくまでも軍の一部であることに変わりないため、有事の軍事作戦に関わる事務や軍人の身分を持つ隊員の教育に関しては軍務大臣が掌握するという二重の管轄系統を有する複雑な構造となっている。
 このように、国家警察と国家治安軍は次第に内務省管轄の警察組織として統合化の傾向にあるとはいえ、組織としては別個性が維持されているため、特に警備、対テロ作戦など、両者の管轄区域を越えた広域的な活動に関しては運用の重複が避けられない。

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比較:影の警察国家(連載第39回)

2021-05-21 | 〆比較:影の警察国家

Ⅲ フランス―中央集権型警察国家

[概観]

 フランスでは、王や封建領主が独自に私設警察を組織して自領地内の治安維持を図っていた旧体制がフランス革命を契機に変革され、コミューン(市町村)単位で警察を組織する体制となった。
 この体制が今日まで持続していれば、アメリカやイギリスと同様の自治体警察中心の警察制度に定着したであろうところ、フランスではそうはならなかった。
 19世紀後半の第三共和制時代に、官僚的な中央集権化が図られた際、警察制度も集権化され、都市部の自治体警察の国家警察化が順次進められた結果、治安所管官庁である内務省の下に国家警察(Police nationale)が整備された。
 一方、国家警察とは別に、フランス革命当時の1791年、軍事的な性格の強い武装警察組織として国家治安軍(Gendarmerie nationale)が発足した。これは自治体警察を補完する全国規模の治安組織であり、革命当時の軍事組織であった国民衛兵隊から分離される形で創設されたものである。*Gendarmerie nationaleは「国家憲兵隊」と訳されることがあるが、この組織は軍人・兵士の犯罪を主として取り締まる軍隊内警察組織である憲兵隊とは役割・性格を異にしており、紛らわしいので、本稿ではその任務に着目して「国家治安軍」と意訳する。
 順序からいくと、国家治安軍は国家警察に先立って発達した中央集権警察制度とも言え、19世紀以降、度重なる革命と体制変動の中で、国家治安軍の編成や規模には変遷があったが、制度そのものは廃止されることなく、名称ごと今日まで維持されてきた。
 その結果として、フランスの集権警察は文民警察である国家警察に加え、軍の一部を成す軍事警察としての国家治安軍の二本立てで成り立つ二重的な仕組みを備えるに至っている。
 さらに、広義の警察制度として、国内諜報機関である国内保安本部(Direction générale de la Sécurité intérieure)が内務省の管轄下に設置されており、「テロとの戦い」テーゼの中で、テロリズム対策の司令塔的な役割を果たすようになっている。
 その他、関税・間接税本部(Direction générale des douanes et droits indirects)、国家森林局(Office national des forêts)など、特定分野の法執行に限局された国家的な特別法執行機関も存在している。
 このように、フランスの警察制度は徹底した中央集権制に基づいており、影ならぬ顕在的な警察国家と言ってもよいが、自治体警察時代の名残として、一部の自治体に警察が設置されている。
 ただし、これらの自治体警察は自治体条例の執行や交通取締まりなどに限局された巡視隊的な地域警察であり、米英におけるそれのように完全な権限と装備を擁する自治体警察とは異なる。

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近代革命の社会力学(連載第238回)

2021-05-19 | 〆近代革命の社会力学

三十四 ハンガリー民主化未遂革命:ハンガリー動乱

(5)限定的自由化への収斂
 ソ連がハンガリーの民主化革命を軍事介入によって粉砕した1956年の出来事は、あたかもその二年前の1954年、中米のグアテマラでアメリカがクーデター支援介入によって当時のアルベンス革新政権を転覆した出来事に相応するものであり、米ソともども、自国の覇権を維持すべく、敵対的とみなした同盟内の政権を軍事的に排除し合った、まさに冷戦時代の産物である。
 軍事介入後に衛星的な政権に建て替えるやり方も両事象に共通した流れであるが、ハンガリー動乱後にソ連の衛星政権を託されたのは、カーダール・ヤーノシュであった。この人物は、前述したとおり、独裁者ラーコシの不興を買って一度は投獄されながら、第一次ナジ政権下で釈放された後、56年民主化革命渦中で、革命派からの批判が強かった保守派ゲレー勤労者党第一書記に代わって第一書記に復権していた。
 カーダールは当時まだ40代の中堅党幹部で、政治的立場が明瞭でないある種の日和見的な人物であったが、そのように中途半端な履歴はソ連主導で革命粉砕後の事態収拾を図るにはむしろ適任と言えたため、抜擢されたものと考えられる。
 彼はソ連との連携の下、1956年11月4日にナジ政権に代わる新政権の樹立を宣言した。この政権は「ハンガリー革命労農政府」なる大仰な革命的名称を冠していたが、実際のところは、ソ連の傀儡臨時政府にすぎなかった。
 カーダール政権の最初の仕事は、革命主導者・参加者に対する報復的な処罰であり、最終的に2万2千人が有罪判決を受け、229人が処刑された。前首相ナジも例外ではなく、いったんはユースラビア大使館に亡命した彼も逮捕され、秘密裁判によって死刑に処せられることとなった。
 このような報復裁判と並行して、カーダールは革命渦中で社会主義労働者党に党名変更していた支配政党内の粛清と再編を断行したうえ、以後、20世紀末の中・東欧民主化革命の潮流に先駆けて辞任に追い込まれるまで、30年以上もハンガリーの最高実権者として統治することとなる。
 この長いカーダール時代の件は56年革命の範疇を離れることになるが、革命との関わりで見ると、カーダール体制はその長期支配の中でもラーコシ独裁時代のような統制と抑圧とは一線を画し、体制が安定した1960年代以降、むしろ政治経済の限定的な自由化に向かったことは特筆すべきことである。
 56年革命について語ることや反ソ的言説はタブーとされながらも、検閲に合格しない書籍類の地下出版が黙認されるなど、文化的活動の自由はある程度保障されたほか、ソ連や近隣社会主義諸国で暗躍した冷酷な秘密警察の活動も限定的であった。
 経済的な面でも、農業集団化を緩和して農民の小土地所有を認めたほか、重工業偏重に赴いたソ連型社会主義とは一線を画し、西側からの外資の限定的導入を含めた市場経済の要素を取り入れ、消費を刺激し、大衆の生活水準の向上を意識的に目指す独自の社会主義路線を敷いたのであった。
 このようなカーダールの路線はしばしば「グヤーシュ共産主義」とも評された。グヤーシュとはごった煮スープのようなハンガリーの伝統的家庭料理であるが、この比喩はカーダール路線の消費政策を重視した混合経済的な社会主義政策を、ソ連式の教条的なマルクス‐レーニン主義のイデオロギーと対照して、いくぶん揶揄をも込めて標語化したものである。
 このように、カーダール体制がソ連の軍事介入によって民主化革命を粉砕して成立したにもかかわらず、最終的に限定的な自由化路線に収斂したことは、56年革命の遺産が完全に放棄されたわけではなく、極めて限定的ながらも、革命の残影が挫折後にも残されたことを意味すると言える。
 ただし、カーダール体制の「自由化」はあくまでも文化・経済政策を中心に限局されたものであり、体制の枠組みとしてはカーダール第一書記(1985年以後は書記長)を頂点とする社会主義労働者党の一党支配体制に変更はなく、複数政党制に基づく西側式の議会制は否定されていたし、56年革命時に立ち上げられた労働者評議会のような民衆的な組織も容認されることはなかった。
 そうした意味では、カーダールの「グヤーシュ共産主義」は56年民主化革命を換骨奪胎したうえで、ソ連の覇権の許容限度内で成立した新路線と言うことができるであろう。とはいえ、カーダール体制の限定的自由化はハンガリー民衆の間に改めて民主化への希求を醸成したことは否めず、そのことが冷戦末期、ハンガリーでいち早く民主化革命が始動する動因ともなったであろう。

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近代革命の社会力学(連載第237回)

2021-05-17 | 〆近代革命の社会力学

三十四 ハンガリー民主化未遂革命:ハンガリー動乱

(4)民衆蜂起の革命化と挫折
 ナジ首相の追い落としに成功したラーコシら保守派であったが、これに対する民衆の抗議活動が活発化すると、モスクワは1956年7月、改めて圧力をかけてラーコシに退陣を要求、ラーコシに代わってゲレー・エルネーが勤労者党第一書記に選出された。
 しかし、ゲレーは長年のラーコシ側近であり、ラーコシの名代にすぎなかった。この小手先の新人事が、大規模な民衆の抗議行動を誘発する契機となった。事態を憂慮したソ連は、ワルシャワ条約上の集団的自衛権を根拠にソ連軍を派兵し、暴動の鎮圧に当たった。
 しかし、1956年10月23日、首都ブダペストでの学生の抗議デモを嚆矢として、労働者も参加した大規模な抗議デモが警察との衝突に発展すると、狼狽した党指導部は再びナジの党籍を回復したうえ、首相に呼び戻した。
 こうして二転三転の末、10月24日、第二次となるナジ政権が発足したが、この政権は党指導部の方針急転で発足したとはいえ、事実上民衆の要求で成立したもので、勤労者党独裁体制内にありながら、革命政権としての性格を帯びていた。
 実際、同日には、公式政府と並行する形で、自主的な労働者評議会や国民評議会が立ち上げられた。こうした民衆の革命組織は、公式政府と完全に対峙する対抗権力ではなかったが、公式政府を下から突き上げる革命的圧力装置として機能するはずものであった。
 従って、民主化革命はこの第二次ナジ政権の発足に始まると言ってよいが、この革命は民衆の革命的な力動と支配政党内の力学、さらには支配政党の背後にあるソ連の思惑とが交錯する複雑な力学のうえに勃発したと言える。それゆえに、革命の進展には大きな制約があった。
 とはいえ、ナジは制約を超えて民衆の要求に答えようとした。まずはラーコシ体制の産物である大量の政治犯の釈放を行い、自由化を進展させた。さらに、勤労者党独裁を緩和するべく、10月31日には勤労者党を社会主義労働者党に改称・改組したうえ、11月3日に改めて、独立小農党などとの連立政権を形成した。
 この第三次の改造ナジ政権は、その構成上は第二次大戦終戦直後の連立政権に近い形まで戻したもので、ある種の臨時革命政府の性格を持つものではあったが、わずか1日で瓦解したこともあり、労働者評議会等の民衆組織との連携関係を構築する余裕はなかった。
 もう一つの制約は、ワルシャワ条約である。これはソ連を中核とする中・東欧社会主義同盟の根拠となる集団的安全保障条約であり、まさに東西冷戦の象徴でもあるが、50年代には事実上ソ連の覇権追求と加盟諸国への内政干渉の道具と化しており、民衆はワルシャワ条約からの脱退も要求事項に掲げ始めていた。
 そこで、ナジ政権はソ連当局者とソ連軍の撤退に関して交渉を進めた結果、ソ連側でも軍事介入消極論があり、10月27日には撤退が決まった。しかし、民衆の革命的なエネルギーはとどまることなく、勤労者党員や警察官を襲撃するリンチ行動などが多発する事態となった。
 そうした騒乱状況の中、ナジ政権はワルシャワ条約からの脱退と中立を宣言したが、これはもはやソ連の許容限度を超えていた。11月4日、一度は撤退を開始していたソ連軍が反転してブダペストに進撃し、短時間のうちに市内を制圧、ナジ政権はあえなく瓦解した。11月10日には、労働者評議会ら革命派もソ連との「休戦」を呼びかけ、革命は終結した。
 こうして、1956年ハンガリー民主革命は、期間にすれば同年10月23日から11月4日または10日までのわずか二週間程度の瞬時的なものに終始したため、革命というよりは動乱と呼ばれることも多いが、その実態は同盟主ソ連及びその独裁的衛星国の状況からの解放を希求する民主化革命であったと言える。
 しかし、短期で終結したわりに犠牲は大きく、ソ連軍との戦闘で革命派数千人が死亡したと見られ、一連の動乱及びその後の親ソ派政権による報復的弾圧の中で、約20万人が政治難民化し、海外亡命を強いられたのであった。

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近代革命の社会力学(連載第236回)

2021-05-14 | 〆近代革命の社会力学

三十四 ハンガリー民主化未遂革命:ハンガリー動乱

(3)脱スターリン化と政治混乱
 1952年に首相と勤労者党第一書記を兼任し、スターリン主義に基づく独裁を固めたラーコシであったが、翌年のスターリン死去と、それに続くソ連指導部によるスターリン批判により、情勢が一変する。
 ラーコシはポーランドのスターリン主義独裁者ビェルトのようにショック死こそしなかったが、党内の脱スターリン化の動きを阻止することはできず、秘密警察により厳しく統制されてきた一般社会でも、若手労働者を中心に体制批判の動きが生じてきた。こうした蠕動は、56年革命の最初の予兆であった。
 不穏な緊張が高まる中、モスクワもラーコシの恐怖政治を問題視し、1953年7月、圧力をかけて彼を首相の座から降ろした。代わって、ナジ・イムレが首相、党第一書記は引き続きラーコシという分業体制が敷かれた。
 ここで政府の前面に登場したナジは後に56年革命の主役となる人物であるが、一筋縄ではいかない人物でもあった。彼はハンガリー共産党が禁圧されていた1930年代にはソ連秘密警察の情報提供者として活動し、戦後は閣僚や国民議会議長を経験して、ラーコシ党指導部でも政治局員として遇されていた。
 興味深いのは、56年革命が挫折した後、親ソ派として新たに登場するカーダール・ヤーノシュが内相だった時、ラーコシの不興を買い、辞職に追い込まれた末、でっち上げの罪により終身刑を受け、収監されたことがあったが、ナジは党政治局員としてカーダールの逮捕に署名していたことである。
 こうした履歴上は、ナジもラーコシ体制の一員であったのだが、ラーコシの後任として首相に就任すると、彼は改革派としての性格を押し出した。一方、党は引き続きラーコシが率いて、依然影響力を保持する構成となった。
 こうして保守派ラーコシが睨みを利かせつつ、改革派ナジが政府を主導するというバランス策が採られた形であったが、情勢からして、改革の流れは抑圧し切れず、ナジ首相はラーコシ体制の修正に踏み込んでいく。特に、ラーコシ体制の象徴でもあった農業集団化と恐怖政治の緩和である。後者の一環として、54年にはカーダールも釈放されている。
 ただ、50年代のハンガリーでは、社会主義体制の下で工業化が進展する一方、労働条件の劣悪さや農業集団化に伴う食糧難により、勤労者党独裁体制下での勤労者の生活苦という皮肉な矛盾が生じており、労働争議が拡大していたが、これに対してナジ政権は十分な対応ができなかった。
 そうした情勢を見たラーコシら党内保守派は、1955年4月、党内クーデターを仕掛け、ナジ首相を辞職と党からの除名に追い込み、後任に30代の保守派ヘゲドゥシュ・アンドラーシュを据えた。しかし、彼はラーコシの返り咲きを望まないモスクワに配慮して据えられたラーコシの名代にすぎなかった。
 こうして再び事実上のラーコシ独裁体制が戻ってきたわけであるが、ナジ政権下で先鞭をつけられた自由化の流れを阻止することはもはやできず、ナジの解任・追放に対する党内外からの反発圧力が急速に強まっていく。

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近代革命の社会力学(連載第235回)

2021-05-12 | 〆近代革命の社会力学

三十四 ハンガリー民主化未遂革命:ハンガリー動乱

(2)スターリン主義国家の成立
 ハンガリーは、第二次世界大戦末期から終戦を経て1956年革命(ハンガリー動乱)に至るまでの十数年の間に、体制のめまぐるしい変動を経験している。
 ハンガリーでは、共産党による革命政権であったソヴィエト共和国が短期で崩壊した後、ホルティ・ミクローシュ海軍提督を摂政とする国王不在の王国という異例の体制―事実上はホルティ独裁体制―が1944年まで20年以上にわたって続き、独裁の中に一定の安定を得ていた。
 しかし、ホルティ・ミクローシュ摂政体制は、第二次大戦では枢軸国側に与しながら、大戦末期、連合国との単独休戦に踏み切ろうとしたため、これを阻止すべくドイツが侵攻し、ハンガリー版ナチス党も言える矢十字党による傀儡政権を立てた。
 これに対抗して、ソ連の進駐・占領地域で44年12月に共産党を含む挙国一致の臨時国民政府が樹立される。これを母体としながら、ソ連軍のブダペスト包囲戦により矢十字党政権・ドイツ軍が敗北・降伏した後の45年11月の総選挙を経て、翌年2月に成立したのが、第二共和国である。
 ハンガリーにおける戦後の出発点は、この第二共和国であった。「第二」を冠されるのは、先のソヴィエト共和国を「第一共和国」とみなすためである。
 第二共和国の出発点となった45年11月選挙では、中小農業者に支持基盤を置く独立小農党が過半数を征して政権を獲得した。他方、臨時政府段階から参加していた共産党は17パーセント余りの得票にとどまったが、選挙前の協定により政権に参加した。
 このように、農民政党が第一党となり、共産党が遠く及ばなかったのは、当時のハンガリーではいまだ工業化が進まず、農業経済を下部構造としていたことの反映であり、自然な成り行きであった。
 ただ、この連立政権(他に二党を加えた四党連立)は独立小農党が過半数を占めながら、ソ連の影響下にあったため自律性を制約されており、次第にモスクワを後ろ盾とする共産党の力が増していく。47年5月にはファシストや戦犯関係者の投票権を剥奪した制限選挙の下、総選挙が行われ、共産党を軸とする左派連合が第一勢力となった。
 とはいえ、なお単独では20パーセント程度の得票にとどまった共産党は、単独での党勢拡大を断念して48年に穏健左派の社会民主党と合同し、新たに親ソ派のハンガリー勤労者党を結成した。
 このやり方は第一共和国当時の政党合同を踏襲したものであったが、勤労者党は共産主義を前面に出さず、人民民主主義を打ち出した点で、当時の中・東欧の潮流に沿い、当時のハンガリーでは最大政党となり、その結果、49年5月の総選挙では勤労者党が圧勝した。
 結果、同年8月には勤労者党中心の政権が発足するが、これを率いたのは党第一書記ラーコシ・マーチャーシュであった。彼は若き日にソヴィエト共和国にも参加した古参の共産党活動家であったが、スターリン主義者を標榜し、政権獲得後は、直ちにスターリン主義に沿った国家再編を強行した。
 これにより、1949年8月には憲法が改正され、国名もハンガリー人民共和国に改称された。ここに、第二共和国は社会主義に基づく新たな第三共和国に移行した。
 もっとも、銀行や鉱工業の国有化や農地の無償収用などの社会主義的政策は共産党中心の左派連合が政権を獲得して以来、なし崩しに実施されていたが、ラーコシ・マーチャーシュが政権を握ると、彼は標榜通り、スターリン主義に沿って、農業集団化や秘密警察網を活用した恐怖政治を開始した。
 ラーコシは当初こそ独立小農党から勤労者党に移籍してきたドビ・イシュトヴァーンを名代的な首相に立てていたが、1952年に自ら首相となり、名実ともに独裁体制を樹立する。

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近代革命の社会力学(連載第234回)

2021-05-10 | 〆近代革命の社会力学

三十四 ハンガリー民主化未遂革命:ハンガリー動乱

(1)概観
 第二次世界大戦後、冷戦時代に多発した革命の多くは、その態様やイデオロギーに差異はあれ、社会主義革命の性格を有することが多く、成功した革命はソ連及びソ連を盟主とする東側陣営への加入・接近を結果したのであるが、例外的に反ソの立場からの革命現象も見られた。
 その初期の代表例が、1956年のハンガリーにおける民主化未遂革命である。最終的にソ連軍の軍事介入に至ったため、歴史上はハンガリー動乱と呼ばれることもあるが、実態としては民主化革命であった。
 1956年という時期に発生したのは、その三年前のソ連の独裁者スターリンの死去が大きな契機となっている。戦前からおよそ30年にわたって君臨し、冷戦の端緒を作ったスターリンの死後、ソ連内部でも新指導者ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判により、一定限度内の改革の機運が起きていた。
 そうした盟主国の変化に最初に敏感な反応を示したのが、ポーランドであった。ポーランドでは親スターリンの独裁者ボレスワフ・ビェルト統一労働者党書記長がモスクワ訪問中に急死し(スターリン批判に衝撃を受けたためとの説あり)、権力の空白が生じていた。
 折から、ポーランド西部の工業都市ポズナニの冠スターリン名称工場の労働者による労働争議が反政府デモとなり、さらに反ソ騒乱に発展した。しかし、この騒乱は革命的な展開を見せず、政府軍も迅速に鎮圧したため、一時介入姿勢を見せたソ連も介入を差し控え、事態は早期に収拾された。
 この1956年6月のポズナニ蜂起は同年10月のハンガリー民主化革命の直接的な契機とは言えないが、同じくスターリン死去後、脱スターリン化が始まっていたハンガリーにも触発的な影響を及ぼし、ここではより組織化された革命的展開を見せたのであった。
 しかし、革命はソ連軍の介入によって挫折、未遂に終わり、鎮圧後には親ソ政権の下で反革命暴動として断罪され、以後、ハンガリー国内では事件に言及することさえタブーとされていたところ、1980年代末の中・東欧連続革命の流れの中で再評価され、公式にも革命として認定されることになる。
 そのように、1956年の未遂革命は歴史的な評価の上でも変遷のある出来事であったが、客観的に振り返れば、1980年代から90年代初頭にかけて、まさにハンガリーを起点として東欧の社会主義諸国全域に拡大した連続革命の30年早い先駆けであったと言える。
 ただし、30年の時間差は決して小さくなく、1956年という冷戦真っ只中での反ソ民主化革命は時期尚早の早まった革命であり、挫折させられる運命にあったのである。
 とはいえ、未遂革命後のハンガリーでは親ソ政権の建前の下で一定の自由化が行われ、ソ連を含めた東欧社会主義圏の中では相対的に最も「リベラル」な体制に向かったことも確かであり、このことがおよそ30年後、ハンガリーが再び民主化革命潮流の起点に立つ伏線となった。

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続・持続可能的計画経済論(連載第25回)

2021-05-09 | 〆続・持続可能的計画経済論

第2部 持続可能的経済計画の過程

第5章 経済計画の細目

(2)産業分類と生産目標
 経済計画の策定に当たっては、産業分類とその項目ごとの計画期間における生産目標を数値的に明示することが求められることから、計画の細分化された枠組みとなる産業分類が重要である。
 産業分類と言えば、英国の経済学者コリン・クラークによる第一次から第三次までの産業分類が著名であるが、これは農林水産業を軸とする第一次産業から、工業を軸とする第二次産業を経て、無形的なサービスを軸とする第三次産業への経済発展を説明する道具概念として提唱された。
 クラーク産業分類自体はごく粗い分類であり、計画経済の枠組みとはならないが、持続可能的計画経済にあっては、第一次産業に係る経済計画(生産計画A)は、それ以外の経済計画とは区別されて策定されることになる。
 ちなみに、日本ではクラーク産業分類をベースに、より業種を細分類した標準産業分類が政府により公式に採用されている。これは三次の粗いクラーク分類を廃して、大分類・中分類・小分類・細分類の四段階で下位区分しており、生産活動に関わる全業種を総覧するには有効である。
 しかし、標準産業分類も経済統計上の分類であり、その中には文化関連事業や医療福祉関連事業その他持続可能的経済計画では計画外の自由生産となる業種も含んでいるため、計画経済における枠組みとして直接に使用することはできないが、自由生産領域を含めた経済統計分析においては有効性を持つ。
 これらの産業分類は、まさに分類することそれ自体を目的とした分類であるが、計画経済における産業分類は、より動的に計画生産の具体的目標を明示するうえでの基準となる分類枠組みである。
 その点、ワシリー・レオンチェフによる産業連関表は元来、マルクスが資本の再生産及び流通が円滑に進行していく過程を分析するために考案した再生産表式にヒントを得て新たに考案したものであるが、その使用目的は、現実の生産・流通活動におけるインプット/アウトプットの分析である。
 このようなインプット/アウトプットの予測計算は、各計画期間における生産目標を立てるうえで不可欠のプロセスであるから、産業連関表は持続可能的計画経済においても、大いに活用されることになる。
 もっとも、マルクス再生産表式に由来する生産財製造部門Ⅰと消費財製造部門Ⅱという大分類は、ソ連の経済計画において大きな二部門を分ける際に応用され、部門Ⅰを偏重する工業化が強力に推進されたのであった。
 しかし、われわれの持続可能的計画経済では、生産財部門Ⅰと消費財部門Ⅱのいずれに重点を置くかという発想ではなく、一般消費財に係る経済計画は全土的な一般経済計画からは区別され、地方ごとの消費計画として策定されるのであった。
 また、生産活動全般の動力源となるエネルギーに関しては、エネルギー計画として別途前提的な計画が策定されることになる。
 一般経済計画の策定に際しての細分枠組みとなる産業分類としては、特に環境的な持続可能性に最大の比重を置くことを反映して、大気・土壌・水資源・生物資源のいずれに主たる負荷を加える業種かという観点から分類することが考えられる。
 そうすると、単純に生産物の種類に応じた機械工業、金属工業、化学工業・・・といった分類ではなく、大気負荷産業、土壌負荷産業、水資源負荷産業、生物資源負荷産業といった大分類のもとに整理されることになるだろう。
 その点、目下最大の焦点となる温室効果ガスを生産過程で、またはその生産物が多く排出する業種は大気負荷産業に分類されることになり、これに分類される業種が最も多いであろう。*こうした環境負荷基準に基づく具体的な産業分類を的確に行うには、各業種の生産活動に対する環境科学的な詳細分析を必要とするが、ここではさしあたり立ち入らない。

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近代革命の社会力学(連載第233回)

2021-05-07 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(7)二次革命と社会主義体制の確立
 権力闘争を乗り超え、着々と権力を固めていくかに見えた初代大統領ベンベラは、1965年6月の政変で突如政権を追われることになった。政変の主導者は、ベンベラ政権の副大統領兼国防相でもあったフアリ・ブーメディエンであった。
 ブーメディエンは士官学校卒の職業軍人ではないが、若くしてFLNに身を投じ、20代にしてFLN軍事部門である民族解放軍の参謀長となったたたき上げのレジスタンス戦士であった。
 政治的な面では目立たない存在ではあったが、8年に及ぶ独立戦争の過程で、軍事部門のリーダーとして、隠然たる勢力をすでに築いており、ベンベラとしても無視できない存在であった。
 ベンベラは、独立後、民族解放軍を母体に編成された正規軍の長(大佐)にブーメディエンをそのまま据え、国防相として政権にも参加させたほか、副大統領の地位も与えて体制保証を図ったつもりであったが、そのような優遇によりかえって裏切られる結果となった。
 FLNは独立戦争中のスムマム会議以来、政治優位の原則を持っており、これがある種の文民統制の担保であったが、軍事部門から出たブーメディエンが主導した65年政変は実質的に見れば軍事クーデターであり、ここへ来て、政治優位原則が破られた形となった。
 しかし、ブーメディエンによれば、65年政変はクーデターならず、「革命の回復」であり、実際、政変後、ブーメディエンを議長とする革命評議会が設置され、改めて体制の社会主義的な再構築が行われた。
 なぜ、ブーメディエンがこのような挙に出たかについては定かでないが、ベンベラの農村共同体や労働者自主管理など理想主義的な理念への疑念、さらには現実主義者として知られたブーテフリカ外相(後の大統領)の解任といった人事への不満が背景にあったと見られる。
 そのため、言わば、独立革命に続く二次革命が、ブーメディエンを中心とする軍部を中心に実行されたと言える。実際、65年政変以降、ベンベラの社会経済政策は転換され、ブーメディエンが道半ばで病死する1970年代後半にかけて、石油の国有化をはじめとする国家主導の計画的社会主義が追求された
 このプロセスは、先行のエジプト革命で、初代のナギーブ大統領が短期間でナーセルに追放され、体制が再構築された過程にも似ているが、ここでは実質的な最高実力者であったナーセルが満を持して登場したのに対し、アルジェリアでは影の立役者が表舞台に登場しつつ、路線変更を実行した形である。
 ブーメディエンによって敷かれた新路線はソ連モデルの社会主義であったが、イデオロギー上はマルクス‐レーニン主義を採用することなく、経済開発に重点を置いたプラグマティックなソ連モデルの採用であり、この施策は少なくとも70年代までは成功を収めた。
 もっとも、政治的な面では、65年政変はFLNの一党支配体制を変更することなく、むしろこれを強化し、FLNはブーメディエンの没後も一党支配体制を固守したため、アルジェリアにおける民主化は繰り延べされた。
 しかし、長期独裁支配に対する反発が1988年の民衆騒乱と90年地方選挙におけるイスラーム主義政党の躍進を招き、後者を強く警戒した軍部による事実上のクーデターと、それに引き続く長い内戦を惹起し、FLNの一党支配体制はいったんリセットされることになる。
 こうしたブーメディエン大統領の死去(1978年)後の展開は本節で取り上げた独立革命の範疇を外れるので、後にアルジェリアにも波及することになるアラブ連続民衆革命(アラブの春)に関連付けて取り上げることにする。

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近代革命の社会力学(連載第232回)

2021-05-07 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(6)独立と初期政権
 エビアン合意から二つの国民・住民投票を経て、アルジェリアは1962年7月に独立を果たした。独立後の政権勢力は民族解放戦線(FLN)であった。
 この流れは第二次大戦時のレジスタンス組織がそのまま解放後に政権勢力に平行移動した諸国のレジスタンス革命と類似しており、アルジェリア独立革命もある種のレジスタンス革命であったと言える。
 ただし、多くのレジスタンス革命では、共産系のレジスタンス組織が革命後、改めて共産党または他名称共産党に再編されて政権勢力となった例が多いが、アルジェリアではFLNがそのまま政党化され、今日まで最大政党として存続しているという点で、まさにレジスタンスの記憶が維持されていることに特徴がある。
 その点、FLNは元来、イデオロギーよりも、まさに名称どおり民族解放(独立)の一点で凝集された包括的組織であり、内部には共産主義から穏健なイスラーム主義まで様々な要素があったが、そのすべてが急進化することなく、FLNの旗の下に対立が止揚されていたことも特筆に値する。
 一方、アルジェリアにおいても、多くのレジスタンス革命においてありがちなように、革命後、「裏切者」に対する報復的処断が大々的になされた。
 ここでは特に、戦争中フランス軍に協力した同胞アルジェリア人(アルキ)に対する報復的な大量処刑が殺戮のレベルで断行された。独立戦争は8年近くにも及び、FLNも多大の犠牲を払っただけに、「裏切者」アルキへの集団的憎悪は激しかったのである。
 ちなみに、独立革命前の旧支配階級コロン層は、独立後の報復を恐れ、戦争中からフランスへ続々と引き揚げていたところ、アルキに対してはフランス政府が本国移住を禁じたため、独立後、FLNの報復にさらされる結果となった。
 こうした報復の屍の上に、政党化されたFLNの一党支配体制が樹立される。とはいえ、FLNにはユーゴスラヴィア・パルチザンの指導者チトーのような傑出したリーダーがおらず、政権勢力となったFLNでは早くも権力闘争が勃発した。
 最初の対立は、獄中にあって有力者として台頭していたベンベラと戦争中、FLNの事実上の海外代表機関であった亡命臨時政府を率いていたベンユセフ・ベンヘッダとの間で生じた。この対立はベンベラの勝利に終わり、彼は憲法制定後、1963年9月に初代大統領に選出された。
 ベンベラは非同盟諸国運動に積極的に関わり、第三世界の旗手の一人として国際舞台にもデビューしたが、内政面では、労働者自主管理などユーゴスラヴィアの影響を受けたと思われる経済政策が低開発段階のアルジェリアでは十分機能していなかった。
 一方、FLNを離脱したホサイン・アイト・アーメドは、社会主義勢力戦線(FFS)を結成して反政府活動を開始した。実際のところ、FFSは主に少数派アマジク‐カビル系に支持された勢力であり、ここには独立戦争中は表面することのなかった多数派アラブ系と少数派アマジク‐カビル系の民族対立が隠されていた。
 FFSは1963年に大規模な反乱を起こすが、カビル系を超えた全般的な支持を得ることはできず、反乱は翌年までに政府軍により鎮圧され、内戦への進展はなかった。

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近代革命の社会力学(連載第231回)

2021-05-05 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(5)独立戦争の展開Ⅱ~終結まで
 民族解放戦線(FLN)の壊滅を目前にしながら、アルジェリア独立戦争に画期的な転回が生じたのは、1958年5月のアルジェリアの白人入植者コロン層によるクーデターと、その結果としての第四共和政の崩壊が原因であった。
 当時、フランス本土では国論にも変化が起き、次第にアルジェリア独立を容認・支持する世論も有力となり、国論が分裂し始めていたことに加え、国際社会ではフランスの苛烈な鎮圧作戦に対する批判の強まりと、ソ連をはじめとする東側陣営によるNLFへの支援態勢も構築されていた。
 そうした内外の情勢に対処できない第四共和政に対する不満が、アルジェリアのコロン層の間で高まっていた。かれらは第二次大戦におけるフランス解放の英雄で、いったんは政界を去っていたシャルル・ド・ゴール将軍の復帰を要求し、クーデターを起こした。
 これは当初、アルジェリア駐留軍による地方的な反乱という形で発現したが、反乱はアルジェリアを超え出てコルシカ島占拠、さらには本土にも上陸しかねない勢いとなった。このプロセスもまた、1930年代、モロッコ駐留軍の反乱に端を発したスペイン内戦の状況と類似していた。
 こうしてアルジェリア駐留軍の反乱が実質的なクーデターの様相を呈する中、第四共和政は事態を掌握する能力を喪失し、政府は総辞職、当時のルネ・コティ大統領はコロン層の要求どおり、ド・ゴールを首相に任命して事態の収拾を図った。
 ド・ゴールは就任早々、議会優位の第四共和政を改め、大統領権限を強化する憲法改正を通じて国家構造を再編した。こうして、1958年10月に新たな第五共和制が発足し、新体制の初代大統領には当然ながら、ド・ゴール自らが就いた。
 コロン層がド・ゴールの復帰を要求したのは、彼ならば対独レジスタンス当時のように、断固としてアルジェリア植民地を護持するだろうと期待したからであった。しかし、この期待は完全な誤算であったことがすぐに明らかとなる。
 現実主義者のド・ゴールは58年9月の時点で、アルジェリアの民族自決を容認することを明言した。そして、年末には自身の擁立に貢献した反乱主導者でもあるアルジェリア駐留軍のサラン司令官を事実上更迭したうえ、アルジェリアの軍政シフトを廃止した。
 一方で、ド・ゴールはサラン司令官の後任に空軍のモーリス・シャール将軍を据え、「シャール計画」と呼ばれる独立戦争過程で最大規模の攻勢をしかけ、1960年初頭までにFLN軍事部門をほぼ壊滅させることに成功した。
 ド・ゴールはそうしてFLNを軍事的に弱体化し、アルジェリア情勢を安定させたうえで、60年7月には「アルジェリア和平計画」を発し、アルジェリア独立のプロセスを明確にした。これに反発したコロン層は11月に暴動を起こすが、翌61年1月の国民投票では、大多数がアルジェリア独立を支持した。
 これによってアルジェリア独立戦争は終結に向けて動き出し、ここから先は、ド・ゴール政権に反発を強めたフランス国粋主義者とド・ゴール政権との間の紛争に転化する。一部の過激分子はフランコ独裁下のスペインで秘密軍事組織(OAS)を結成し、ド・ゴール政権に対するテロやクーデターなど数々の謀略を開始した。
 しかし、61年4月、ド・ゴールに裏切られたサラン将軍やシャ―ル将軍ら四人の将軍がアルジェで決起した軍事クーデターが五日で失敗に終わると、アルジェリア独立の流れは加速した。
 62年3月にはFLNとの間で休戦協定(エビアン協定)が成立し、これに基づくフランス全土における国民投票及びアルジェリアにおける住民投票で、いずれも独立が支持され、アルジェリアの独立が正式に確定したのであった。
 こうして、アルジェリア独立戦争後半は、ド・ゴール政権による方針転換により、政治主導で終結へと導かれた。フランスにとっては、軍事的にも敗北したインドシナ戦争の轍を踏まず、軍事的に勝利しつつ、政治的に譲歩して独立を容認するという巧妙な戦術と言える。

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