ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第185回)

2020-12-30 | 〆近代革命の社会力学

二十六 グアテマラ民主化革命

(5)反革命クーデターから「30年軍政」へ
 民主化革命後、二度目の大統領選挙となった1950年大統領選挙には、革命の立役者であった国防相のアルベンスが満を持して立候補した。前々回見たように、アルベンスはマルクス主義に共感的であったが、マルクス主義者ではなく、むしろ半封建的な大土地所有制を土台とするグアテマラを近代的に変革することを公約していた。
 にもかかわらず、アルベンスの真意を疑うアメリカは、保守系候補者の勝利を画策して、諜報工作によって選挙干渉を企てたため、選挙は複数回の決選投票に持ち込まれたが、最終勝者はアルベンスに確定した。
 こうして、革命後の革新民政の枠組みは継承されることとなったが、アルベンス政権は前アレヴァロ政権に比べ、より革新色が強まったことは否めない。それというのも、アルベンスにはアメリカが疑ったように両義的な面があり、中和的なアレヴァロよりも踏み込んだ構造的変革を構想していたからである。
 中でも、農地改革が最大の目玉政策となった。これはすでにアレヴァロ前政権下で着手されていたが、いささか微温的だった未耕作地の有償での収用と農民への再配分政策をさらに拡大する施策である。この施策は成果を上げ、一年半で150万エーカーの土地の再配分を達成した。
 しかし、アルベンス政権のもう一つの目玉政策、外資依存排除は最終的に政権の命取りとなった。この当時、グアテマラにおける最大の外資は中南米で砂糖やバナナのようなトロピカルフルーツの栽培プランテーションを手掛けるユナイテッド・フルーツ社(UFCO)であり、同社は民間資本ながら、アメリカの中南米支配を支える準国策企業でもあった。
 同社は当時のグアテマラにおいて、未耕作地の大半を所有する最大の法人地主となっており、農地改革における最大の障害でもあった。アルベンス政権は外資依存排除の観点からも、UFCOを農地改革対象から除外しない方針で臨んだ。
 しかし、UFCOは基準時における土地評価額相当の補償という農地収用の条件に抵抗し、アメリカ政府もこれを問題視し始めた。ここにおいて、当時の国際社会における力学が作動し始める。
 当時は東西冷戦の初期に当たり、アメリカでも第二次大戦の立役者である軍人出身のアイゼンハワーが大統領に当選し、ソ連とその同盟国、さらには潜在的な親ソ国に対し、軍事手段を含む強硬姿勢で臨む反共政策(巻き返し政策)を実施しようとしていた。
 この政策の最初の適用対象は、1953年のイランで、英米石油資本を排除して石油国有化を目指したモサデク政権を倒した軍事クーデターであった。この際は、米軍が直接介入せず、イラン軍部を支援してクーデターを起こさせるという手法によった。
 これを先例として、アメリカはアルベンス政権の転覆計画に着手する。その準備として、証拠もなくアルベンス政権を共産主義と結びつける宣伝工作を開始したうえで、グアテマラ人が指揮する反革命軍を隣国エルサルバドルで軍事訓練した。
 アルベンス政権が対抗上、軍備増強を図ると、アメリカは兵器禁輸措置の制裁で応じ、アルベンス政権が当時ソ連陣営のチェコスロヴァキアからの兵器調達を試みたことの揚げ足を取り、アルベンス政権を共産主義と決めつけた。
 対立が頂点に達した1954年5月、グアテマラが対米断交という措置に出ると、翌月、エルサルバドルで樹立宣言された「グアテマラ反共臨時政府」を承認・支援するという形で、アメリカはCIAを通じて反革命軍による侵攻・制圧作戦をバックアップした。
 軍備が貧弱なグアテマラ軍は反撃力を欠き、戦意を喪失した軍部からの支持を失ったアルベンスは辞職し、海外へ亡命した。新たに政権に就いたのは反革命軍の指揮官で、1949年の反乱事件で死亡したアラナ軍総司令官の支持者でもあった亡命軍人カルロス・カスティージョ・アルマス元大佐であった。
 カスティージョは三年後に暗殺されるが、彼の政権は革命の成果を反故にするとともに、強制収容、超法規的処刑や強制失踪などの不法な手段によって徹底的な革命派排除作戦を展開し、これは後継の軍事政権に継承されていく。
 この後のグアテマラでは、1986年の民政移管に至るまで、反共で固まった軍部がその内部に権力闘争を抱え、頻繁なクーデターによる政権交代を繰り返しながら、時に文民大統領を傀儡に立てつつ、ファシズムに傾斜した軍事独裁統治を30年以上にわたり行った。こうして10年にわたったグアテマラ民主化革命は、冷戦期の国際力学の中で、挫折していった(「30年軍政」については過去の拙稿参照)。
 旧革命派は1960年代以降、武装ゲリラ組織を結成し、農地改革を通じて政治的に覚醒した先住民を支持層に取り込みつつ、軍政と対峙したため、「30年軍政」時代の大半は凄惨な内戦を伴うものとなり、反乱鎮圧を名目とする先住民ジェノサイドが発生するなど、現在までトラウマを残す時代となった。

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近代革命の社会力学(連載第184回)

2020-12-28 | 〆近代革命の社会力学

二十六 グアテマラ民主化革命

(4)革新民政の樹立
 1944年の軍民連合の革命が成功した後、不安定な三党体制の革命統治評議会は政権に居座ることなく、1944年末に新たな大統領選挙を実施した。この選挙には評議会のメンバーは誰も立候補せず、革命派は当時はまだ無名に近かった哲学者・教育学者出身のフアン・ホセ・アレヴァロを擁立して、圧勝した。
 アレヴァロはウビコ独裁体制を逃れ、南米のアルゼンチンで学者生活を送っていたが、祖国での1944年革命を見て帰国、学生や教職員団体のほか、幅広い中産階級の支持を得て、急速に新たな指導者として台頭した。
 アレヴァロは精神主義に傾斜した「唯心論的社会主義」を標榜し、マルクス主義や共産主義には反対していた。このような穏健な―急進派からすれば、ブルジョワ的な―中産階級左派としてのアレヴァロは、革命の方向性が不透明な状況下で、革命の急進化を避け、保守勢力からも一定の同意を得られる存在として、言わば革命を中和するには適した人物であった。
 一方、前年10月の革命の際、軍内革命派をまとめて重要な役割を果たしたアルベンスは国防相の地位に就いた。しかし軍トップの総司令官には保守派のアラナが就き、軍部内には革命に反対的な保守派もなお多く、1951年まで6年続いたアレヴァロ政権下ではクーデター未遂がたびたび繰り返され、政権は常に崩壊の脅威にさらされていた。
 とりわけ、革命評議会のメンバーでもあったアラナは次第に野党的な立場を取るようになり、政権後半期の1949年にはアルベンス派の一掃を要求して反乱を起こした。革命派内部における内戦の恐れもあったが、これはアルベンス派の反撃により、銃撃戦の渦中、アラナが死亡し、ひとまず決着がついた。
 こうして、グアテマラ民主化革命は急進化することなく、かつ反革命派からの攻撃もかわして、革新民政の樹立という一応の着地点を得た。ただし、共産党に対して否定的なアレヴァロ政権下では、共産党の活動自体は保障されたものの、共産党寄りの労働運動は抑圧された。
 他方、農地改革に関しては、大土地所有制にメスを入れ、未耕作地の補償付き収用と先住民族を中心とした農民への土地の分配策を実施した。これもいさささ中途半端ながら、社会主義的な国有化政策を回避して地主階級を納得させつつ、農地改革を前進させるにはぎりぎりの妥協線であった。
 ただ、外交的にはファシズムのフランコ独裁下のスペインやカリブ海域周辺の親米独裁国家と断絶しつつ、カリブ海域での民主革命を推進する目的で戦後に結成されていた国際革命支援組織カリブ軍団を支持するなどしたため、アメリカ政府からは「容共的」との警戒を招いたが、干渉はなかった。
 こうして、革新民政最初の政権となったアレヴァロ政権は20回を越えるクーデター未遂に見舞われながらも、中和的なバランス感覚によって政情不安を乗り切り、6年の任期を全うした。ただし、この政権はアレヴァロ個人の哲学と性格とに支えられていた面が強く、その継承は困難であったことが革命の行方を左右した。
 もっとも、アレヴァロ政権下の与党として、革命行動党が結成されたものの、同党はその名称からしても、革命に参加した諸派の連合体であったため、統一的な政党としては育たず、急進派と穏健派の間で内紛と分裂を繰り返した末、次期政権下、1954年の反革命クーデター後の強制解散措置により、解体される。

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続・持続可能的経済計画論(連載第22回)

2020-12-27 | 〆続・持続可能的計画経済論

第2部 持続可能的経済計画の過程

第4章 計画化の時間的・空間的枠組み

(3)領域圏経済計画の地理的適用範囲
 全地球的に及ぶ世界経済計画の大枠に基づき、各領域圏ベースで策定される経済計画(領域圏経済計画)は、基本的に領域圏の施政権が及ぶ地理的範囲に適用されることになるが、この場合、領域圏の政治的な構制として、単独の領域圏と複数領域圏の合同から成る合同領域圏とでは、領域圏経済計画の地理的適用範囲が異なる。
 単独の領域圏の場合、領域圏経済計画は当該領域圏の施政権が及ぶ地理的範囲と一致する。ただし、領域圏の構制として、連邦的な連合型と、より集権的な統合型の二類型があり、連合型の場合、連合領域圏を構成する準領域圏(州)ごとに独自の経済計画を策定するかどうかは、各連合領域圏の自主的な判断に委ねられる。
 準領域圏が独自の経済計画を策定する場合、領域圏の計画経済は地方分権化されることになる。このような地理的な分権化の問題点として、各準領域圏ごとの利益配分競争が生じかねないことがある。これは、かつて連邦国家だった旧ソ連の計画経済システムにおいて地方分権化改革が実施された際にも生じた問題である。
 利益配分競争が激化すれば、汚職等の構造要因となるほか、領域圏経済計画の策定スケジュールにも遅れが生じる恐れがある。こうした弊害を回避するには、連合型領域圏でも、経済計画に関しては集権を貫くことが望ましいが、たとえ準領域圏が独自の経済計画を策定するとしても、それは連合全体の経済計画の枠内でのことであるから、準領域圏経済計画は領域圏経済計画の一部を組成することに変わりはない。
 以上に対し、合同領域圏は単独で経済計画を策定するには産業的な基盤が不十分な中小の領域圏が合同し、各領域圏の経済的な特性を生かしつつ、分業の形で合同共通の経済計画を策定することが、その制度的な主旨の一つである。従って、この場合の共通経済計画は、合同を構成する各領域圏のすべてに共通的に適用されることになる。
 ちなみに、より広い大陸的なまとまりから成る汎域圏は経済計画の策定主体とはならず、単に域内での経済協力その他の相互協力の地理的な構成体である。従って、汎域圏内の経済協力自体は域内協定であって経済計画ではないが、領域圏経済計画を補充するものとして、言わば各領域圏経済計画の外延部分を成す。

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近代革命の社会力学(連載第183回)

2020-12-25 | 〆近代革命の社会力学

二十六 グアテマラ民主化革命

(3)民衆蜂起から軍民連合革命へ
 ウビコの抑圧的で冷酷なファシズム体制は徹底した緊縮政策の断行により大恐慌後の経済再建を果たしたことがその長期支配の担保となっていたが、第二次世界大戦渦中の経済危機がそうした従前の経済政策の成功を相殺すると、にわかに揺らぎ始めた。
 体制崩壊につながる民衆蜂起の発端となったのは、隣国エルサルバドルで1944年5月に起きた民衆蜂起であった。これは、ウビコ体制とほぼ並行して1931年から続いていた同類のマクシミリアーノ・マルティネスによる軍事独裁体制を打倒した政変である。
 しかし、エルサルバドルではマルティネス失権後の権力の空白を新たな軍事政権が埋め、革命は不発に終わったため、多くのエルサルバドル人革命家がグアテマラに亡命してきた。そうした背景の下、グアテマラでも44年6月、学生による抗議行動が発生した。
 これを契機に、専門職を含む中産階級に労働者も加わった抗議行動に発展したが、ウビコは憲法を停止し、戒厳令を布告する弾圧措置で応じた。しかし、6月25日の平和的デモの渦中、デモに参加した一人の女性教員が死亡したことが民衆を刺激し、抗議行動が全国に波及する中、ウビコはついに辞任した。
 このように、無名のデモ参加者の死が抗議行動拡大の契機となる事例は、1960年、当時の岸内閣を退陣させた日本の日米安全保障条約改定反対デモ行動の渦中、一人の女子学生が死亡した際にも見られた。体制側からすれば、蟻の一穴が政権崩壊につながる戒めとなる事例である。
 もっとも、狡猾なウビコは自身の腹心の三人の将軍から成る軍事評議会に権力を移譲することにより、実権温存、あるいは将来の政権復帰の余地を残そうと図った。この策が功を奏していれば、民衆蜂起は革命に進展することはなかったはずであるが、軍内部に革命派の青年将校グループが形成されていたことが、革命の道を切り開いた。
 そうした革命派青年将校グループのリーダーは、スイス移民の父を持つハコボ・アルベンス・グスマンであった。軍の若手エリートであったアルベンスは、エルサルバドル人の進歩的な妻マリア・ヴィラノヴァの影響でマルクス主義など社会主義思想に覚醒していた。彼はまた、士官候補生団の長として士官の育成にも当たっていたことで、若手将校への影響力を持っていた。
 他方、ウビコの辞任を導いた民衆抗議行動であるが、ウビコ体制の延長にすぎない後継の軍事評議会に対しても対決姿勢を示し、退陣を迫っていたところ、武力を掌握する軍事評議会を攻めあぐね、膠着状態となっていた。
 革命の導火線となったのは、44年10月1日の野党系有力紙編集者の暗殺事件であった。これを機にアルベンスら軍の革命派と民衆の抗議運動が急速に連携し、軍民共同の革命集団が形成される。同月19日、アルベンスらに率いられた兵士と一部学生が、ウビコによって建設され、独裁の象徴でもあった壮麗な国家宮殿(大統領府)を襲撃し、短時間で首都を制圧した。
 この軍民連合の革命により、軍内部の支持をも失っていた軍事評議会は崩壊し、新たにアルベンス(大尉)のほか、アルベンスの同僚将校フランシスコ・ハビエル・アラナ(少佐)、民衆抗議行動のリーダーであったホルヘ・トリエロの三人から成る革命統治評議会が樹立された。
 このような職業軍人と民間の抗議行動リーダーという通常であれば敵対的な関係性にある人物が連合した革命政権は稀有であり、革命の方法論としては、グアテマラ民主化革命の成功を象徴する新体制であった。
 しかし、マルクス主義者ではないが、マルクス主義に共感的なアルベンス、反ウビコながら反共保守主義のアラナ、民間の活動家トリエロの三人の間には反ウビコ以外での共通点が薄く、この危うい寄せ集めの三頭政治は革命の方向性を不透明なものにしていた。

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近代革命の社会力学(連載第182回)

2020-12-23 | 〆近代革命の社会力学

二十六 グアテマラ民主化革命

(2)ファシズム体制の成立と抵抗運動
 1929年大恐慌は中南米にも波及的な影響を及ぼし、不況と窮乏を招いていたが、そうした中でも、南米チリでは、前々章で見たように、革新的な社会主義革命を誘発したのに対し、中米グアテマラでは反動的なファシズム体制を結果するという対照的な動向を示した。
 その点、グアテマラでは1898年から1920年まで、マヌエル・エストラーダ・カブレラが長期独裁体制を敷き、その下で、ユナイテッド・フルーツ社のような米国系農業資本と癒着しつつ、当時は人口の過半数を占めたマヤ人をはじめとする先住民族を、少数派の白人が大土地所有制を通じて支配する構造が確立されていた。
 カブレラ体制は欧州でファシズムの潮流が発生する以前の開発独裁型の体制ではあったが、1920年の大地震を契機とする民衆蜂起によるカブレラの失権というプチ革命の後も、独裁の後遺が残り、十数年を経て、今度は大恐慌を契機として、ホルヘ・ウビコのファシズム体制が出現した。
 とはいえ、ウビコのファシズム体制は、ほぼ同時期に並立したブラジルのヴァルガス大統領によるボルトガルのファシズムを模したファシズム体制に比すると、イデオロギー色が薄く、ウビコの職業軍人出自を反映して、軍事色の強いものであった。
 その点では、スペイン内戦後に成立したフランコ体制に近かったとも言える。実際、ウビコ政権下では本来は民生領域である郵政や教育、音楽等の分野にも軍人を配して、軍国化が推進された。
 一方、ファシズム体制は徹底的な反共政策を特徴とするが、ウビコも就任早々に共産党員を大量処刑し、壊滅させている。こうした経緯も、ナチス初期の共産党弾圧政策と類似している。そのため、グアテマラ共産党は革命後に再建されるも、革命過程で強い影響力を持つことはなかった。
 ウビコ体制は、ウビコ本人以外に自由人はいないと揶揄されるほど徹底した個人独裁体制に進展し、抵抗運動の余地もない状態に達した。米国資本を優遇して経済的な基盤とする目的からも、第二次大戦が勃発すると、イデオロギー的に近い枢軸国ではなく、連合国側に付いて宣戦布告、国内のドイツ移民経営のコーヒー農園を接収する見せしめ的な制裁措置に出たのも、ウビコのプラグマティックな体制防衛策であった。
 こうして内外共に安泰に見えたウビコ体制であったが、国民の全体主義的な統一が不十分であったことが盲点となる。ウビコは翼賛政党として進歩自由党なる一見自由主義的な党名の政党を設立して、自身の政治マシンとしていたが、この党は独裁のカムフラージュ政党であり、実効的に組織化されていなかった。
 一方、カブレラ時代からの社会開発と近代化は、グアテマラ白人層の間にも政治意識の高い中産階級を生み出し、1940年代になると、こうした中産階級が反ウビコの抵抗運動の担い手となっていく。終戦直前の1944年6月に発生した平和的な抗議デモは、中産階級の蜂起の象徴となった。

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近代革命の社会力学(連載第181回)

2020-12-21 | 〆近代革命の社会力学

二十六 グアテマラ民主化革命

(1)概観
 スペイン・アナーキスト革命が挫折した後、欧州における大規模な革命事象は途絶える。この時までにイギリス、フランスなど先発の西欧諸国はブルジョワ民主主義の枠内での民主化が進展していたのに対し、西欧でもドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガルのほか、東欧の後発諸国ではファシズムの潮流が起き、第二次世界大戦へとなだれ込んでいくからである。
 世界大戦のような国家総力戦の局面になると、総動員体制が敷かれ、戦争遂行へ向けた思想統一がなされるため、革命運動は停止の状態となることが通例である。大戦に対して中立を標榜し、参戦を回避したスペインやポルトガルではファシズム体制が内政を固めていたため、革命運動は抑圧され、長い冬の時代を迎えていた。
 そうした中、大戦末期の1944年に中米の小国グアテマラで勃発した民主化革命は、戦時中に発生した稀有の革命事例である。当時のグアテマラは、大恐慌後の混乱の中、1931年の大統領選で当選した職業軍人出身のホルヘ・ウビコがドイツやイタリアを模したファシズム体制を樹立し、徹底した独裁体制を敷いていた。
 大恐慌を契機とするこうした流れはナチスドイツの樹立過程とも類似しており、ウビコ自身、自らをヒトラーになぞらえていた。ウビコ政権の存続期間もナチスドイツとおおむね重なっているが、違っていたのは、ウビコ政権が地政学上の打算から親米・反独の立場を取り、連合国側に加わったことである。
 そのため、終戦まで政権が持続していれば、アメリカの庇護を受けて戦後も体制が長期間存続した可能性もあったところ、終戦直前の1944年に民主化革命に直面し、体制崩壊を来したのであった。
 その他の主要なファシズム体制は、“本家”のイタリア・ファシズムやナチスドイツ、さらに日本の軍国疑似ファシズムも含め、敗戦という外部要因的な崩壊契機なくしては打倒されなかったのに対し、グアテマラでは内発的な革命により打倒されたことは、注目すべき点である。
 世上「グアテマラの春」と呼ばれるこの1944年革命の後、グアテマラでは選挙を通じた革新民政が形成され、二代の民選大統領の下、全般的な社会・経済改革が実行されていく。この過程はアメリカが背後で操る反革命クーデターにより潰された1954年に至るまで、丸10年に及ぶ「長い革命」であった。
 そのため、厳密には1944年の民衆蜂起のみが革命であり、その後の10年間はポスト革命体制とみなすこともできるが、この10年間は1944年革命なくしてはあり得ないほど革命の直接的な所産の年月でもあったことからして、ここでは戦後を含めた10年にわたる長いプロセスの全体を「民主化革命」と把握して、叙述していくことにする。

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比較:影の警察国家(連載第27回)

2020-12-20 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

1‐2:北アイルランド警察の特殊性

 北アイルランド問題は、長年にわたり、イギリスにおける最大のアキレス腱であり、イギリス政府と独立派武装組織アイルランド共和軍(IRA)の間は1998年の和平成立まで一種の戦争状態にあり、その間、イギリスは北アイルランド独立派に対して、重装警察組織による強硬な警察国家的対応で臨んできた。
 しかし、和平成立後は、IRAの武装解除に伴い、北アイルランドの平常化が図られ、その一環として警察組織の再編も実施された。結果、発足した北アイルランド警察(Police Service of Northern Ireland:PSNI)は、連合王国構成主体の一つである北アイルランド全域を管轄する地方警察の一つであるが、和平後もなお、他の地方警察とは異なる特徴を備えている。
 まず、一つの地方全域を管轄する例外的な地方集権警察である点である。ただし、遅れてスコットランド警察も同様の構制で再編されたため、唯一の例外ではなくなったが、2001年の発足当時のイギリスにおいては初の警察形態であった。
 また、前身組織の王立アルスター保安隊(Royal Ulster Constabulary:RUC)が重装備の警察軍に近い組織であったことを反映し、PSNIも依然として武装化されている点である。イギリスでは一般警察官が武装しない伝統が維持されているところ、PSNIの警察官は常時武装し、防弾装備も備えていることが相違点となっている。
 さらに、武装組織の襲撃を想定した特殊作戦チームが豊富に配備されていることも特徴である。その中心は武装即応班(Armed Response Unit)である。これは厳選され、専門的な銃撃訓練を受けた要員から成り、緊急的な事案に対応する特殊部隊であり、アメリカにおけるSWAT部隊に近い存在である。
 その他にも、本部機動支援班(Headquarters Mobile Support Unit)や医療班を含め、様々に機能分化した戦術支援集団(Tactical Support Group)など、RUC時代の軍隊に近い組織構制が継承されており、北アイルランドが和平成立後も依然として厳しい治安警戒地域とみなされていることを示している。
 一方、北アイルランドならではの特殊な制度として、アイルランド島内で隣接するアイルランド共和国の国家警察(アイルランド治安警備隊)との人事交流制度がある。これは2002年の政府間協定に基づくもので、アイルランド島が南北に二つの国家に分割されている不自然な地政状況下で、両アイルランド警察機関の連携を図るものである。
 このように、北アイルランド警察は形式上は通常の警察組織として構制されているとはいえ、北アイルランドの地政学的特殊性を反映した特別警察的な存在であり、「テロとの戦い」テーゼの時代には他の地方警察にも参照モデルを提供し、イギリスにおける影の警察国家の重要な一部を形成していると言える。

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近代革命の社会力学(連載第180回)

2020-12-18 | 〆近代革命の社会力学

二十五 スペイン・アナーキスト革命

(8)共和派の敗北とファシズム体制の確立
 スペイン内戦における天下分け目となったのは、1938年7月から11月にかけてのエブロ河の戦いであった。すでに北部を反乱軍に制圧され、実効支配地を南部に追い込まれていた共和派は兵力10万人を投入し、粘り強く起死回生を図るも、ドイツ・イタリアの援軍を受けた反乱軍側に圧倒され、多大の犠牲を出して敗走することとなった。
 これにより、内戦は事実上終結したに等しかったが、38年12月以降、反乱軍は地方革命の要地でもあったカタルーニャ地方の制圧に向けて大攻勢をかけ、翌年1939年1月までに州都バルセロナを制圧した。残すは首都マドリッドのみであったが、ここでも、地方革命機関であったマドリッド防衛評議会はすでに解散しており、同年3月末までに反乱軍の手に落ち、4月1日、フランコによる勝利宣言をもってスペイン内戦は終結した。
 こうして、スペインはフランコが支配する軍事政権の軍門にくだることとなったが、待っていたのは、定番の白色テロであった。その点では、およそ70年遡るアナーキスト系革命であるフランスのコミューン革命後の状況と類似しているが、フランスではまがりなりにもブルジョワ民政による鎮圧措置であり、最終的には恩赦による国民和解が実現した。
 しかし、フランコ体制はファシズムの性格を持つ軍政であったため、白色テロは一層苛烈であった。その弾圧はアナーキストやコミュニストに限らず、穏健派も含めた旧人民戦線支持勢力全般に及び、人民戦線支持勢力の根絶を狙い、即決軍事裁判による大量処刑が断行された。
 しかも、敗戦した独・伊・日とは異なり、第二次大戦を表面上の中立政策(事実上は枢軸国寄り、特に親独)で乗り切ったフランコ政権は、第二次大戦後もフランコ総統の終身間にわたり継続し、その間、弾圧政策も、戦後冷戦構造の中、反共路線を採る西側諸国の黙認を受けて、フランコが死去する1975年まで続き、国民和解の余地はなかった。
 ちなみに、コミューン革命の挫折後に第三共和政が成立していたフランスでも、スペインに続き、共産党を含む複数の革新系政党から成る人民戦線が1936年4月の総選挙で勝利し、社会党のレオン・ブルムを首班とする連立政権が発足した。
 フランスでは、スペインのようなアナーキスト系地方革命も内戦も付随せず、平穏ではあったが、人民戦線を構成する主要政党間の内紛のために政局は安定せず、首相が短期で交代を繰り返した末、38年6月に総退陣した。 
 そのため、同時期のスペイン内戦でカウンターパートとなっていた人民戦線政府を支援することもできずに終わった。そのうえ、1940年にはナチスドイツに併合され、ドイツ占領下でナチスの傀儡政権が成立する。
 このようにして、スペイン、さらにはフランスの人民戦線政権もそれぞれの経緯をたどって挫折し、ファシズム体制へ遷移していった。特にスペインではファシズムが戦後も継続して一つの体制として確立され、およそ40年に及ぶフランコ独裁の下、全国に張り巡らされた秘密警察網の監視と抑圧により、新たな革命の芽は完全に摘み取られたのであった。

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近代革命の社会力学(連載第179回)

2020-12-16 | 〆近代革命の社会力学

二十五 スペイン・アナーキスト革命

(7)内戦の内外力学
 スペイン・アナーキスト革命の最大の後退・挫折要因となった内戦は、1936年7月から39年4月にかけて、およそ三年に及ぶ激戦となったことから、同時進行していた革命以上に焦点化され、関連資料も多い。しかし、ここでは内戦そのものではなく、革命と関連づけながら、内戦をめぐるスペイン国内外の力学について叙述する。
 この内戦は、前にも触れたように、モロッコ駐留軍の反乱が本土に波及することで全土規模の内戦に発展したものであり、基本的な対立構図は、共和国軍から事実上分離した保守派軍部と中央の左派連立政権である人民戦線政府と間の抗争であった。
 ただし、人民戦線政府は地方のアナーキスト系革命勢力とは拮抗関係にあり、統一的な勢力として凝集することはできていなかった。それでも、内戦が激化すると、前回見たとおり、政府は革命の担い手でもあった地方の民兵団を政府軍(共和軍)に統合しつつ、地方革命を強制回収して、内戦に総力戦で臨む態勢を作ろうとした。
 しかし、こうした中央政府の強権的とも言える集権化措置はアナーキスト勢力に不満を与え、共和派は最後までまとまりに欠けていた。その意味で、内戦当事者としての「共和派」という用語は多分にして便宜的な総称であり、その内部は事実上の分裂状態にあった。
 他方、保守反乱軍側は当初こそ劣勢にあったが、1936年10月に戦闘指揮能力に長けたフランシスコ・フランコ将軍が反乱勢力の総統兼総司令官に就任して以降、フランコを実質的な元首格としてまとまり、反撃態勢を整えた。
 スペイン内戦の大きな特質として、海外からの国際支援網が形成されたことがある。ことに、反乱勢力は当時欧州に台頭していたイタリア、ドイツ、ポルトガルのファシズム体制とイデオロギー的な親和性が強かったことから、これら三国の軍事的・経済的な支援を取り付けたほか、軍国疑似ファシズムの初期にあった日本も、限定的ながらフランコ側に武器を提供している。
 他方、共和派に対する海外諸国からの支援はソ連とメキシコに限られ、しかも人民戦線生みの親でもあるソ連がほぼ中心的であった。ソ連は、緒戦では軍用機を提供するなど共和派への強力な支援を行ったが、次第に親ソ派のスペイン共産党を操り、主導権を握らせようとしたことが裏目に出た。
 ソ連とその諜報機関を後ろ盾とするスペイン共産党は次第にアナーキストやそれと共闘する反ソ派コミュニストへの弾圧組織と化し、共和派内部に恐怖政治的な雰囲気を醸成することになった。それは、共和派の統一より分解を促進したことであろう。
 国単位の支援とは別に、共和派に対しては世界から徴募した義勇兵から成る国際旅団が支援した。国際旅団はソ連がコーディネーターとなって、各国の共産党員を中心とする義勇兵を募集して前線に送り込んだものであった。
 これとは別に、海外から個人単位で義勇兵として参加する文化人・知識人もいた。その一人であるイギリスの作家ジョージ・オーウェルは現地で、アナーキスト革命の理想郷とともに、スターリン主義者の横暴や欺瞞を見聞したことで、スターリン主義への批判を強め、後に、スターリン主義国家を念頭に、イデオロギーと戦争を支配道具とする独裁国家を戯画的に描写したディストピア未来小説『1984年』を著した。
 とはいえ、ソ連の影響力は否定しようもなく、内戦は次第に共産党対反共保守勢力という典型的な構図に近いものへと収斂していくことになる。このことは国際的な力学にも影響し、英米など反共自由主義諸国をスペイン内戦不介入の方向へ動かし、結果的には共和派を見捨て、反乱側勝利を容認する等しい状況を作り出したのであった。

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近代革命の社会力学(連載第178回)

2020-12-14 | 〆近代革命の社会力学

二十五 スペイン・アナーキスト革命

(6)人民戦線政府による革命回収措置
 地方ごとに展開されつつ、今回は割愛したものの、自主的な映画産業の育成や平等な一貫制教育制度などの文教政策にも及ぶ様々な革新的施策を試行したスペイン・アナーキスト革命であったが、同時進行の内戦が激化するにつれ、なし崩しに後退を余儀なくされていく。
 その過程は、一方において、内戦の敵方である保守派軍部の武力攻撃、他方では、共通の敵に対しつつ、中央権力を確立せんとする人民戦線政府による言わば革命回収措置という二方向からの圧迫であった。
 元来、人民戦線政府と地方革命勢力との関係性は複雑であり、少なくとも当初、人民戦線政府は地方革命に対してこれを容認し、体制内の自治的部分として取り込む態度を示していたが、潮目が変わるのは、内戦の激化により、中央政府の権力基盤の強化と民兵団を政府軍に編入する必要性が認識されてからであった。
 人民戦線は元来、ソ連及びコミンテルンの新方針に沿った政権構想であったから、内戦の激化に伴い、親ソ連派のスペイン共産党を介してソ連の影響が増すと、イデオロギー面でも、アナーキズムと当時のソ連のスターリニズムとの乖離が明瞭になってくる。
 その頃、スペイン共産党内では、強固なスターリニストであるドロレス・イバルリのような指導者が台頭し、アナーキストやアナーキストと共闘するコミュニストを排撃するようになっていた。彼女は、大衆の自然発生的革命を支持したローザ・ルクセンブルクとは対照的に、徹頭徹尾ボリシェヴィキ思想で固まった闘争的な教条主義者であった。
 1937年2月以降、政府はアナーキスト系出版物の検閲措置に動いたのを皮切りに、3月にかけてアナーキスト系民兵団の武装解除と正規軍への編入を完了した。同時に、各地の革命統治機関の強制解散や労働者自治組織の排除を進めていった。
 こうした人民戦線政府の強硬な革命回収措置に対し、革命派の反発が頂点に達したのが、1937年5月3日、カタルーニャの州都バルセロナを中心に発生したメーデー事件である。これは、5月3日から8日にかけ、CNT‐FAIを主軸とするアナーキスト勢力と人民戦線政府の間での武力衝突に発展した。
 この衝突事件の鎮圧に際しては、ソ連から派遣されていた諜報将校アレクサンドル・オルロフが事実上の指揮を執っており、これは人民戦線政府をモスクワから操作しようとするソ連の国策が姿を現した一件でもあった。
 最大推計で1000人の犠牲者を出した衝突は結局、ソ連の支援を受けた政府側が鎮圧に成功し、さしあたり人民戦線政府が権力を確立する契機となったものの、このような共和派内部の内輪もめのような内戦的衝突は共通敵である保守派軍部を利する結果になったであろう。
 この後、政府は依然勢力の大きなCNT‐FAIの禁圧措置は回避しつつ、元来は人民戦線にも参加していた反スターリン主義のマルクス主義統一労働者党(POUM)を血祭りにあげることにした。POUMは非合法化され、その指導者のカタルーニャ人アンドレウ・ニンは誘拐された末に惨殺、その他の幹部も逮捕され、政治裁判にかけられた。
 1938年に入ると、政府は労働者自主管理のシステムを最終的に終わらせ、農村から追われていた旧地主の土地返還請求にすら応じ、農村の自治管理コミューンの清算も順次進めていった。こうして、スペイン・アナーキスト革命は、1938年までに、人民戦線政府に回収される形で、事実上収束したと言える。

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比較:影の警察国家(連載第26回)

2020-12-13 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

1‐1:首都警察の二面性

 イギリスの首都警察(Metropolitan Police Service)は、都心部に相当するロンドン市を除く首都全域を管轄する地方警察であると同時に、国家警察を擁しないイギリスにあって、国家警察に準じた機能を持つ二面的な警察組織である。イギリスにおける最強の警察機関もある。
 このような複雑な構制であるのは、ロンドン都が都心部のロンドン市(City of London)とロンドン市を含めたより広域の大ロンドン(Greater London)の二層から成ることに対応し、前者はロンドン市域限定のロンドン市警察(City of London Police)が別途管轄するためである。
 首都警察は2011年の制度改正までは、内務大臣が直接に警察管理者となっていたが、改正後は警察管理業務が大ロンドン市長に継承され、管理上は地方警察としての性格が強まったように見える。しかし、その役割においては、国家警察に近い性格が維持されている。
 そうした性格が象徴的に表れるのが、公安・警備部門である。現在の首都警察の公安・警備部門は、特殊作戦群(Specialist Operations:SO)と呼ばれる特殊部門にまとめられ、国家保安や要人警護等に関わる業務を遂行している。
 SOは、現時点で、要人警護や政府施設警備に当たる警護指令部(Protection Command)、空港保安やイベント等の群衆警備に当たる保安指令部(Security Command)、テロリズム対策に当たるテロリズム対策指令部(Counter Terrorism Command:CTC)の三部門に分かれている。
 CTCは、「テロとの戦い」テーゼに沿って、労働党のブレア政権時代の2005年の制度改革によって創設された部署で、1500人を超える陣容で構成され、首都に限定されず、全国及び海外にわたるテロリズム対策に当たる諜報機能を備えた政治警察である。
 これとは別に、SO内で運用される全国警察長官評議会(NPCC)の合同作戦班として全国国内過激主義・騒乱諜報班(National Domestic Extremism and Disorder Intelligence Unit)という別動隊がある。この別動隊は、政府が国内過激主義者とみなす人物のデータベースを管理していることが2009年の報道で暴露された。
 部署名称に「過激主義」のみならず、「騒乱」が含まれる点にも示唆されるように、データベースの中には合法的なデモ行動に参加した個人の情報も含まれていることが判明したほか、要員が環境活動家を装って不法な潜入工作を行った事案が明らかになるなど、まさに秘密警察的な存在である。

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比較:影の警察国家(連載第25回)

2020-12-12 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

1‐0:地方警察網

 イギリスの分散型警察国家において中核を成すのは、全国に散在する地方警察である。イギリス地方警察は、連合王国を構成する四つの構成体のうち、一体性の強いイングランド‐ウェールズと独立性の強いスコットランド、治安上の問題を抱える北アイルランドのそれぞれで異なっている。
 イングランド‐ウェールズにおいては、準国家警察としての二面性を持つ首都警察を除くと、おおむね市域または名目上の郡(典礼郡)ごとに設置されることを原則としている。そのため、相当に細分化され、イングランド‐ウェールズだけで40を超える地方警察が設置されている。
 この細分化はアメリカの自治体警察ほどではないが、警察業務全体の効率を妨げる要因となるため、統合化が目指されてはいるものの、隣保制の伝統は簡単に崩すことができない。一方、警察官の教育や業務監督に関しては、次第に中央治安官庁である内務省の権限が拡大しており、内務省が緩やかに地方警察網を束ねる方向性にある。
 スコットランドでも、従来、イングランド‐ウェールズに準じて、分散的な地方警察制度を擁していたが、2013年の制度改正により、スコットランド警察(Police Service of Scotland)に一本化された。これはスコットランド限りで地方集権化がなされ、事実上の「スコットランド国家警察」を創出する動きと見ることもできる。
 これに対し、分離独立運動がくすぶる北アイルランドでは、長い間、重武装の王立アルスター保安隊(Royal Ulster ConstabularyRUC)が単なる警察を越えた一種の警察軍として強硬な治安維持に当たっていたが、RUCはしばしばアイルランド独立派に対する人権侵害で告発され、悪名高い存在であった。
 とはいえ、北アイルランド独立派であるアイルランド共和軍(IRA)による破壊活動が盛んであった時代、RUCは言わば「テロとの戦い」を先取りするような形で、北アイルランドの警察国家化を促進していたことは確かである。
 しかし、1998年のアイルランド和平合意後、RUCは2001年以降、北アイルランド警察(Police Service of Northern Ireland)に再編された。これにより、北アイルランドでも警察の平常化と通常の地方警察への転換がなされたと言えるが、これはスコットランドに先駆けた地方集権警察の形態であり、地方警察統合の動きの一環とみなすことができる。
 スコットランドや北アイルランドのような地方集権警察がイングランド‐ウェールズにも出現する可能性は高くないが、「テロとの戦い」テーゼや必罰主義的な治安思想が高まれば、イングランド‐ウェールズにおける地方警察のさらなる統合化が進む可能性はゼロではないだろう。
 なお、後に改めて触れるが、内務省とは別に、全国の地方警察本部長やその他の警察相当機関の長で構成される全国警察長官評議会(National Police Chiefs' Council:NPCC)は、地方警察網を統合しつつ、独自の合同作戦を行う全国的な警察統合運用組織として発達してきている。

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近代革命の社会力学(連載第177回)

2020-12-09 | 〆近代革命の社会力学

二十五 スペイン・アナーキスト革命

(5)革命的施策の展開
 スペイン・アナーキスト革命における政策面における最大の成果は、その実験的な経済政策に表れた。とりわけ、労働者自主管理システムの幅広い導入である。中でもスペインにおける工業中心地であったカタルーニャでは、産業の75パーセントが自主管理下に置かれた。
 このような自主管理経済は、中央の人民戦線政府がソ連式社会主義の範例に沿って産業の国有化という集産主義的な施策を志向したことと拮抗する形で、地方のレベルで進められた。同様の試みはロシア革命当時のロシアにも表れていたが、こちらでは、ボリシェヴィキ派が全国的な権力を確立するにつれ、国有化路線に収斂していったのに対し、スペインでは多党連立の人民戦線政府の不安定さが、地方での実験的な施策の展開を可能にしたと言える。
 自主管理システムには、労働者自身が直接に経営権を掌握する形態と、労働者委員会が労働条件の決定権を握る形態という二つのタイプがあった。前者が最も急進的な形態の自主管理であるが、これは外資の支配がなく、アナーキスト系労働組合の影響が強い企業体で導入された。
 自主管理システムにおける賃金に関しては、家族単位の世帯給制度が試行されたが、より急進的な経済政策は、地方農村部における貨幣制度そのものの廃止であった。これは、農村の革命的コミューンをベースに、貨幣制度を廃止し、労賃を世帯ごとのバウチャー制に置換するものであった。
 これにより、日常必需品は共同貯蔵所でクーポンにより取得し、余剰品は近隣コミューンに流通させる一方、貨幣はいまだ貨幣が廃止されていない地域との取引にのみ限局するというある種の混合経済が試行されたのである。
 このような農村コミューンは、革命的経済政策のもう一つの柱である農業の集団化を前提としている。ここでの「集団化」は、同時期のソ連で実施されていた中央主導の強制的集団化とは異なり、労働者の自主管理に照応する形で、農民が地主から収用した土地を集団的に所有したうえ、生産手段を共有しつつ、自主管理的なコミューンを通じて農業経営を行う、自主管理農業システムであった。
 こうしたコミューンは同時に地域の議決機関も兼ねており、全員参加型の直接民主主義が試行されていた。一方で、これらコミューンが連合してより広域的なまとまりを形成する場合もあった。そうしたコミューンとコミューン連合の形成が最も進展したのは、一大農業地帯であるアラゴンであった。
 スペイン内戦に義勇兵として共和派で参加し、こうした革命的コミューンを見聞したイギリスの作家ジョージ・オーウェルは、その印象を、「文明生活における普通の動機―俗物根性、金銭欲、ボスへの恐怖等々―が消滅している」とし、故国イギリスとの対比で、階級分断が消滅し、「農民とかれら自身の他には誰もおらず、誰も他の何者をも自分の主人としない」と書き記している。
 また、スペイン・アナーキスト革命は環境政策の面でも当時としては先駆的な施策を導入し、作物の多様化、灌漑の拡大、森林再生などを実行したほか、労働衛生面から、当時の国民病であった結核の予防のため、大気汚染の原因となる金属工場を閉鎖するなどの実績も上げた。
 こうした経済実験は、ソ連式の全体主義的社会主義・集産主義モデルに対する自由な自主管理型共産主義のオールタナティブとして一つの革命的な範例となり得たはずのところ、同時進行中の内戦の激化によって妨げられ、最終的に敗北したことで、挫折する運命にあった。

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近代革命の社会力学(連載第176回)

2020-12-07 | 〆近代革命の社会力学

二十五 スペイン・アナーキスト革命

(4)革命統治の構造
 スペイン・アナーキスト革命の過程で設立された地方ごとの革命統治機関はその名称や権限などもまちまちではあったが、主要なものとして、カタルーニャ反ファシスト民兵団中央委員会、バレンシア人民執行委員会、アラゴン地方防衛評議会、マラガ公衆衛生委員会、アストゥリアス‐レオン最高評議会、マドリッド防衛評議会などがある。
 ただし、これらの地方革命諸機関は住民による直接参加型の組織ではなく、それらを実質的に動かしていたのはアナーキスト勢力の中核である全国労働者連合(CNT)及びその他の周辺労働団体であり、所により、CNTの連携組織であるイベリア・アナーキスト連盟(FAI)が参加することもあった。
 中央政府や正規の地方政府とこれらの地方革命諸機関の関係性は当初、二重権力関係にあったが、完全な対抗関係ではなく、並行関係にあって、穏健な人民戦線系政府を牽制するような複雑な関係にあった。
 ただし、カタルーニャでは、後述するように、アナーキスト系勢力の自治政府参加に伴い、如上の反ファシスト民兵団中央委員会は解散し、自治政府に統合されたが、自治政府の権力は名目的なもので、事実上はアナーキスト系勢力が実権を持った。
 また、スペイン革命は内戦と同時進行する革命であったことから、地方革命諸機関は、一面、民兵団の戦争指導機関でもあり、カタルーニャのように、まさしく民兵団の中央組織がある種の軍政機関として革命初期を主導したのは、そのことを象徴している。
 こうした地方革命機関の統治領域内の農村部には数多くの革命的自治体(コミューン)が成立した。このように農村部にまで及ぶ革命的コミューンの誕生はかつてのフランスのコミューン革命では見られなかった現象であり、アナーキズムにとってはいささか逆説的ではあるが、スペイン・アナーキスト勢力の組織力の高さを物語っている。
 また、こうしたコミューンでは警察・裁判所といった既存の権威的な法秩序維持装置も解体され、ボランティアによる巡視隊や近隣会議による紛争解決などの新しい民衆的な秩序維持制度に置換されていった。所によっては、刑務所の開放化のような実験的取り組みもなされた。
 しかし、人民戦線政府は、こうした地方革命に対して、1936年8月以降、国家の統一性を維持・回復するための社会主義的な諸措置を発令し、9月にカタルーニャのアナーキスト勢力が人民戦線系のカタルーニャ自治政府に参加したのを皮切りに、10月には労働者全国連合(CNT)が中央政府に参加し、いくつかの閣僚ポストを獲得することも許したのである。
 このような人民戦線系の中央及び地方政府との協力関係については、アナーキスト勢力内で論争の的となり、こうした協力関係を重視するグループと非協力を主唱するグループの対立関係を惹起することとなった。同時に、マルクス主義の影響が次第に強くなる中央の人民戦線政府とアナーキスト系の地方革命諸機関の間の軋轢も生じた。
 このようなスペイン革命における中央権力と地方権力の拮抗関係は、革命の遂行にとっては足枷となったであろう。しかし、本質的に中央政府機構に否定的なアナーキスト系の革命では、「中央」における独自の革命組織の形成が困難となることは必然であり、このこともアナーキスト系革命の成功確率を低める要因となる。

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選挙政治の終わりの始まり

2020-12-06 | 時評

2020年アメリカ大統領選挙は、投票日から一か月を過ぎてもいまだに勝者が正式に確定せず、事実上敗北したとみなされているトランプ現職大統領側は「不正投票」の存在を指摘して、自身を勝者と主張している。コロナウィルスによる全米の死者が30万人に迫ろうとする中、来月の政権交代が円滑に実施されるのか、何らかの手段でトランプ現職が居座るのか、予断を許さない混沌とした状況になっている。

一体全体アメリカはどうなったのか、と問いたいところだが、このような混乱は、一般投票→選挙人投票と二段階を踏む間接選挙というアメリカ大統領選挙に特有の古典的な方式に固有の技術的な弊害とみなすこともできる。現時点では最終的に勝者を決する選挙人投票が未了であるので、勝者は法的に確定していないとも言えるからである。

トランプ大統領は、先月末、選挙人投票の結果、バイデン氏が勝利すれば退任すると表明したものの、彼は選挙人投票の前提となる一般投票上の「不正」を強く主張しているため、選挙人投票の結果いかんにかかわらず、最後まで敗北そのものは認めないだろうとも言われる。

「退任はするが、敗北は認めない」―。何やら禅問答のような話であるが、選挙における投開票と集計の正確性をめぐるこのような混乱は必ずしもアメリカ大統領選挙に特有のことではなく、本来、投票による選挙という制度全般につきものである。

選挙では通常、当局が集計し、投票結果を正式に発表すればすべての候補者がそれを信じ、従うことが言わば暗黙の了解事項となっている。ところが、今回、トランプ大統領は根拠を示すことなく「不正」を繰り返し高調することによる宣伝効果を通じて、選挙制度の信頼性を揺るがすという巧妙な戦術に出ている。

実際、秘密投票という原則からしても、投票→開票→集計の全過程を完全に透明化し、その正確性を確証する手段はない以上、候補者自身も一般大衆も、一連の過程は正確に遂行されたものと「信じる」しかないのが、選挙が本質的に持つ弱点である。その弱点を突いたトランプ大統領の悪知恵の鋭さも相当なものである。

これはアメリカにとどまらず、世界にとって重要な悪しき先例となるだろう。アメリカは政治職のみか、裁判官、検察官、保安官といった司法・警察職に至るまで、あらゆる公職を選挙する「選挙王国」。中でも、大統領選挙は一年余りもかけて、予備選挙・本選挙を通じて勝者を厳選する―二党支配政という狭い枠組み内ではあるが―世界でも例を見ない方式であり、世界における選挙の範例とみなされてきた。

そのようなアメリカが誇る最大の公職選挙において、選挙制度の信頼失墜戦術が先例となれば、これからは世界中の選挙で、敗者側が「不正投票」を主張して敗北を認めないということが普及する可能性がある。場合によっては、敗北した現職執政者が戒厳令の発動などの非常措置で「不正」な選挙結果を覆す強硬策に出ることも頻発するかもしれない。―トランプ自身がそうした強硬策に出る可能性も否定できない。

以前の時評『21世紀独裁者は選挙がお好き』でも論じたように、かつて民主主義のシンボルでもあった選挙というものが、今や独裁者の正当性獲得手段となってきている。トランプ大統領もまた、選挙における真の勝者であることを主張することで、自身のワンマン統治を正当化し、二期目を確保しようとしているわけである。

選挙王国アメリカで選挙制度の信頼性が損なわれたことは、選挙政治全般の終わりの始まりを画するものと言えるだろう。民主主義の方法として選挙が唯一絶対のものであるという前提は崩れようとしている。ただし、選挙政治の終わりの始まりは、民主主義の終わりを意味しない。むしろ、世界は、民主主義の方法として、選挙に代わる新しい方法を発見すべき時代の始まりに直面しているのである。

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