ザ・コミュニスト

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共通世界語エスペランテート(連載第10回)

2019-06-28 | 〆共通世界語エスペランテート

第1部 エスペランテート総論

(9)エスペラント語の検証②

エスペラント語の習得容易度
 今回は世界語たりうる条件のうち、相対条件としての習得容易性の観点からエスペラント語を検証してみることにする。
 まず文字体系についてみると、エスペラント語はローマ式アルファベットで英語より二つおおい28文字だが、そのなかに英語のアルファベットにはみられない記号を付す特殊文字が6文字ふくまれることは、やや文字体系をいささか複雑にしているかもしれない。
 文法構造に関しては、基本的には屈折語系の構造をもつが、英語以上に簡易化されている。特に英語とことなり、動詞の活用変化が厳格に規則的で一切の例外をもたないことは学習上大きな利点である。
 また語順の自由度がたかいうえ、名詞・形容詞・副詞の主要品詞に固有の語尾がわりふられる品詞語尾という独特の規則があり、このことが文中の品詞把握を容易にするはたらきをする。これは未知の単語の品詞を推定して意味を把握することをたすけるであろう。
 一方で、形容詞にも複数形が存する点は、学習者があやまりやすく、英語にもみられない難点といえるかもしれない。また定冠詞が存在するが、これは省略も可能であり、事実上は日本語などと同様の無冠詞言語とみなすこともできる。
 さらに、語彙についてはマレー語やスワヒリ語と同様に接辞が発達しており、接辞を利用した造語や品詞変化も可能であるため、実質的な語彙数は限定されているとみることもできる。まえに語彙数のすくなさを習得容易性の要件とみるべきでないとのべたが、便利な接辞の存在によって語彙数を人為的に制限することなく語彙暗記の負担を軽減できる利点はある。
 発音体系については、まえにのべたとおり母音は簡単明瞭な五母音体系で、日本語のように母音のすくない言語の話者にも習得しやすい。また母音終止語がおおいことも発音とききとりを容易にする(ただし、子音終止語も相当数存在する)。
 他方、子音に関しては歯茎側面接近音l、fやvのような唇歯音が存在するほか、ドイツ語に影響されたかにみえるhとĥの区別など、それらの音韻をかく言語の話者にはやや習得に難があるといえるかもしれない。
 このようにみてくると、エスペラント語の習得容易度は総合評価でAランクと評しうるレベルにあるが、指摘したとおり、いくつか難点もあり、それらをよりきびしく査定するなら、Aマイナスという評価もありうるかもしれない。

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共通世界語エスペランテート(連載第9回)

2019-06-27 | 〆共通世界語エスペランテート

第1部 エスペランテート総論

(8)エスペラント語の検証①

エスペラント語の「中立性」
  
序文でものべたとおり、筆者の創案にかかる共通世界語エスペランテートは、先行の計画言語エスペラント語を母体とする派生言語として提示される。
 実際のところ、筆者はかねてよりエスペラント語を暫定的な世界公用語に指定することを提起しており、現時点でもそのかんがえにかわりないが、その後の再考の結果、前回までみてきたような世界語たるべき条件にてらしたとき、エスペラント語も完全とはいいがたいとの結論に達したところである。
 そこで、今回からはエスペラント語が世界語たりうる条件にてらして、はたしてどのような問題を内包しているかをみていくことにしたい。まずは世界語たりうる絶対条件としての言語学的中立性である。
 その点、比較言語学上語族の決定要因の一つとなる音韻体系からみると、23個の子音体系は全般的にインド‐ヨーロッパ語族に準じているようにみえるが、そのどれとも同一ではなく、母音は現代日本語やスワヒリ語と同様5個に簡素化されている点からして、どの語族にも分類できないか、または多種の語族が合成されているといってよいかもしれない。
 統語に関してはおおむね英語等と同様のSVO文型を基本とするが、実際のところ、エスぺラント語の語順は厳格にきまっておらず、自由にいれかえが可能という融通性からすると、これも特定語族からは中立といえる。
 文字体系については、エスペラント語の正書法はローマ字アルファベットであるが、特有の特殊文字を含めて英語より2文字多い28文字であり、一応ローマ字体系の範囲内で中立的なものといえるであろう。ただし、各民族言語の文字体系での表記をみとめない点では問題がのこる。
 エスペラント語の中立性をめぐってもっとも問題をもつのは、中立性要件の中核をなす語彙である。エスペラント語の語彙は基本的にすべて独自の新造語とされるが、語源に関しては100パーセントちかくがインド‐ヨーロッパ語族系であり、なかでも75パーセントをイタリア語・スペイン語・フランス語などのロマンス諸語系がしめるとされる。 
 そもそも「エスペラント」という名称自体、スペイン語で希望を意味する「エスペランサ(Esperanza)」―イタリア語ではスペランツァ(speranza)、フランス語ではエスポワール(espoir)―に由来するし、特に基本語彙のおおくはロマンス語系である。
 そのため、エスペラント語は習得上ロマンス諸語を母語とするひとにやや有利とみられている。この点でエスペラント語は中立性をかくのではないかとみる余地がある。よりおおきくみれば「ヨーロッパ中心主義」との疑念はまぬがれないかもしれない。

 ただし、ポーランド人のエスペラント語創始者ザメンホフがなぜ語彙の語源のおおくをロマンス諸語にもとめたかをかんがえると、発音しやすさという実際的な理由にいきあたる。とりわけイタリア語やスペイン語の発音の簡明さは習得を容易にする有効な要素である。
 反面、ザメンホフがアジア、アフリカの言語への関心にかけた―みずからの民族的ルーツにかかわるヘブライ語をのぞく―のは、かれがいきた19世紀の西欧という時代という場所柄やむをえないことであったろう。かれはさしあたり、基本的にヨーロッパ内での共通語の開発をめざしたこともある。
 そうなると、エスペランティストからは異論もあろうが、エスペラント語はヨーロッパをこえた全世界共通の世界語としての絶対条件にはかならずしも適合しない要素をのこしているといえるようにおもわれるのである。

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共産論(連載第51回)

2019-06-25 | 〆共産論[増訂版]

第9章 非武装革命のプロセス

共産主義社会は民衆による非武装革命によって実現することができる。その有力な手段は集団的不投票であった。ではその具体的なプロセスとは?


(1)革命のタイミングを計る:Figure out the timing of the revolution.

◇社会的苦痛の持続
 本章では、前章で論じたもう一つの革命の方法、すなわち集団的不投票による革命を中心として、あり得る革命のモデルとなるプロセスを考えてみたい。その際、まず最初の関門は革命のタイミングを計るということである。
 革命は、クーデターのように日付を定めて決行するものではない一方、ある日突然、大地震のように勃発するものでもない。革命には機が熟するタイミングというものがある。中でも集団的不投票による革命は、自然発生的なデモのようなものを導火線とすることが多い民衆蜂起型革命とは違って、タイミングの把握に微妙さがある。では、そのタイミングとは?
 まずは、資本主義の限界性が多くの人々にとってはっきりと認識されることが必要となる。もはやこれ以上資本主義の下では暮らしていけないのではないかという不安が現実的な切迫感を帯びてくることである。
 ただし、突発的な大恐慌的事態が直ちに革命につながることはない。歴史上も、1929年に始まった「大恐慌」は、その震源地・米国はもちろん、欧州、日本などの波及諸国でも革命を引き起こすには至らなかった。
 思うに、突発的な経済危機の渦中では大衆も一時的な窮乏に耐えることができ、嵐が過ぎれば日はまた昇るという心境になるので、革命によって資本主義を終わらせようという意志は芽生えないのである。アメリカ独立宣言でも言われているように、「人類は、慣れ親しんでいる形態を廃止することによって自らの状況を正すよりも、弊害が耐えられるものである限りは、耐えようとする傾向がある」のだ。
 そうすると、革命のタイミングとは耐え難い痛みの持続という状況が定在化した時ということになるだろう。この資本主義的疼痛とでも名づけられるべき社会的苦痛とは、具体的に言えば環境危機の深刻化による食住全般の不安に加え、雇用不安・年金不安に伴う生活不安の恒常化、人間の社会性喪失の進行による地域コミュニティーの解体や家庭崩壊、それらを背景とする犯罪の増加といった状況が慢性化することである。
 一方で、既成議会政治(広くは選挙政治全般)がそうした危機の慢性化に対して何ら有効適切な対応策を取ることができず、無策のまま推移していくことに対して、人々の忍耐が限界に達する。このような状況がほぼ確定した時こそ、革命の始まりの合図だと言えよう。

◇晩期資本主義の時代
 それでは、革命の始まりはいったいいつ頃のことになるのであろうか。その点、現在進行・拡大中の「グローバル資本主義」は、ある一国での経済・財政危機が全世界的に波及していく「津波経済」の様相を呈しているため、一つの危機―異常気象や大災害、伝染病といった自然現象による経済活動の停滞も計算に入れておく必要がある―によって、全世界的な景気後退局面を惹起する。
 また、しばらく好景気・成長局面に転じたとしても、資本企業は不測事態に備え、これまで以上に人件費節約に努めるから(予防的搾取)、「(安定)雇用なき景気回復/経済成長」となる可能性は高い。そうなると「好況の中の生活苦」という逆説的現象もごく通常のこととなる。
 このように、「グローバル資本主義」は世界経済のシステムを不安定化させ、世界各国それぞれの仕方で資本主義の限界を強く露呈させていくだろう。そうとらえるなら、すでに資本主義は先ほど描写したような持続的苦痛を伴う晩期の時代―終末期とまでは言えないとしても―に入っていると診断することも許されるであろう。

◇民衆会議の結成機運
 そうすると、前章で提起した革命運動組織としての民衆会議の立ち上げの機運も到来しつつあると言えよう。その組織の基本的なあり方は前章で述べたので繰り返さない。
 ここで改めて総括しておきたいのは、21世紀(以降)の新しい共産主義革命は、世界民衆会議の結成に始まり、各国レベルの民衆会議による革命が一巡し、世界共同体の創設をもって終わる世界連続革命であるということである。そのプロセスの詳細をさらに詰めていくことが本章の主題となる。

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共産論(連載第50回)

2019-06-24 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

(4)まずは意識革命から

◇「幸福感」の錯覚
 今日、革命の前に立ちはだかるものがあるとすれば、それは警察や軍である前に、大衆の、我々自身の意識である。すなわち、前に引いたマルクスの言葉どおり、資本主義の発達に伴い、労働者階級を含めた資本主義諸国の大衆が資本主義を「自明の自然法則」として受け入れていることである。
 マルクスはその要因を「教育や伝統、慣習」の作用に求めたのであるが、現代ではそればかりでなく、より積極的な資本主義の文化戦略が強力な効果を発揮していると考えられる。
 この点でも、マス・メディアの文化帝国の役割は大きい。資本主義諸国のマス・メディアは日々、資本主義を自明のシステムとして人々に吹き込み、「資本主義以外に道なし」という教説(いわゆる「イデオロギーの終焉論」)を広めているのだ。
 しかし、それ以上に強力なのは消費文化である。これは、第1章でも指摘したように、資本主義が旧ソ連に代表される集産主義に勝利したフィールドでもあり、資本主義の十八番である。豊かな消費文化は、大衆を革命より買物にいざなう。我々はとりどりの商品に囲まれて幸せだと感じ、もはや自らが疎外されてはいないと信じ込むのだ。結果、労働者階級からは階級意識もかき消されていく・・・・。
 資本主義の文化戦略によって作出されたこうした社会心理的な「幸福感」の錯覚―フランスのマルクス主義社会学者アンリ・ルフェーブルの言う「一般化された疎外」―こそ、「労働者階級」というくくり方を事実上無効化してしまっている主観的な要因でもある。
 革命を成就させるには、まずこのような錯覚を逃れ出るための意識革命から始める必要がある(買物より革命!)。ここで、「消費も労働と並ぶ資本による搾取だ」という第3章でも見た命題が再び想起される。消費は言葉をひっくり返せば費消である。つまり我々の財布の中身が資本によって日々生き血のように吸われていることを意味しているのだ。

◇「老人革命」の可能性
 意識革命ということに関連して、発達した資本主義諸国で現在進行中の高齢化は革命にとってマイナス要因とならないのだろうかという問題がある。
 たしかに、革命とは一般に青壮年の政治行動であって、歴史上の革命家たちは皆若かった―少なくとも革命当時は―。加齢に伴う精神の硬直化は政治的には保守化と結びつきやすい。これは高齢化の進む発達した資本主義諸国で革命運動が退潮し、保守勢力が伸張してきている要因の一つと考えられる。
 しかし、意識の保守化は昨今、決して高年層だけの現象ではない。否、むしろかつて急進的な労働運動や革命運動をくぐり抜けた経験を持つ高年層よりも、そうした運動から完全に隔離され、政治的に漂白されてしまっている青壮年層の方が現実への順応性が高いとさえ言えるほどである。
 しかし、雇用不安・年金不安の高まりは現青壮年世代の老後を過酷なものにするであろう。人生やり直しは困難な一方、福祉財源は枯渇し、生活不安は極点に達する。現青壮年世代が高齢世代に達する頃には、おそらく生活苦の只中で意識の覚醒が進むのではないかと予測させる相応の理由がある。その先に薄っすらと見えてくるのは、前例のない「老人革命」の可能性である。
 従来は、若き日の革命的意識も年齢を重ね、現存社会へ適応・統合されていくにつれて弛緩し、ついに過去の革命的意識を全否定するまでに後退していくという保守的老化パターンが一般的に見られたが、これからは、若き日の弛緩した順応的意識が年齢を重ね、現存社会から脱落していくにつれて先鋭化し、ついに革命的意識に到達する急進的老化パターンが一般化するかもしれない。
 そうした意味で、高齢化の進行は革命にとってマイナス要因とは断定できず、資本主義の限界性が将来の高度高齢社会を直撃する状況の中では、むしろプラス要因ですらあり得ると考えられるのではないだろうか。しかも、集団的不投票による「在宅革命」の方法なら足腰の弱った老人でも簡単に実践できる。

◇文化変容戦略
 それにしても、この意識革命をどこから、どのようにして始めたらよいのだろうか。意識革命の第一歩は我々が資本主義の限界性をどれだけ深く意識することができるかにかかっている。
 この資本主義の限界性とは、第1章で論じたように、環境的持続性、技術の総革新、生活の安定性、人間の社会性の四つの領野における危機―すなわち「地球が持たない」「技術革新が停滞する」「生活不安が高まる」「人間性が劣化する」―を本質的に解決できないことにあった。
 ただ、我々はそんなことを抽象的に説教されただけでは容易に説得されない。そこで、こんな場合にこそ、文学や演劇、映画等の創造力が結集されなければならない。資本主義の限界性の問題に深く切り込むような創作は凡百の説教よりも効果的であるはずだからである。
 実際、かつてのプロレタリア文学やブレヒトの叙事的演劇、チャップリンの喜劇映画などにはそのような効力が備わっていたと思われるのだが、それらの継承者はいつしか途絶えてしまったように見える。ここでもまた、あの商品価値法則とそれに基づく市場の検閲という問題が立ちはだかっている。今日、文学、演劇、映画も商品価値法則に絡め取られており、創作家たちも小説、ドラマ、映画という名の商品のメーカーと化す傾向が著しいのが現実である。
 そこで、またしてもインターネット・コモンズの活用が助けとなるかもしれない。民衆会議運動としても、音楽なども含めた種々の反資本主義的創作活動を後援していくべきであろう。具体的には、民衆会議の公式ウェブサイト上で作品紹介の機会を提供したり、可能であれば民衆会議自身がインターネットテレビ/ラジオ局を保有して作品発表の場を提供したりすることが考えられる。
 また、以上のような伝統的創作表現手段に加えて、漫画やアニメといった現代的表現手段もとっつきやすさという点で利点があり、活用が検討される。このようにして文化的な領域に変化を起こし、意識革命を促進する戦略を「文化変容戦略」と呼ぶことができる。

◇有機的文化人
 そうした文化変容戦略の最前線を担う文化人を、イタリアのマルクス主義思想家アントニオ・グラムシの用語「有機的知識人」を拡張して「有機的文化人」と規定してもよいであろう。
 この「有機的文化人」は、グラムシの「有機的知識人」がしばしば誤解されたように、「党(共産党)の御用文化人」ではなく、民衆の中から出て民衆と有機的なつながりを保ちながら、自由な創作活動を通じて意識革命を促進する役割を担う者を指す。
 ちなみに、チャップリンはこのような意味での「有機的文化人」に直接あてはまる人ではなかったとしても、あの鋭い批判力を伴った風刺的な笑いの才覚は、商業的な“お笑い”とは全く異質の革命的効力を潜在的に備えていたように思われる。文化変容戦略にあっても、チャップリン風の娯楽性を兼ね備えた高質の批判的笑いの力は大いに有効ではないかと考えられる。

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共通世界語エスペランテート(連載第8回)

2019-06-21 | 〆共通世界語エスペランテート

第1部 エスペランテート総論

(7)ジェンダー中立性等

文法上のジェンダー中立性
 前回まで検証してきた世界語たりうるための絶対条件及び相対条件に対して、今回のジェンダー中立性は世界語としての完全性をめざす付加条件と位置づけられる。付加条件とはいっても、ジェンダー平等に関する現代的水準からすると、この条件はそなわればよしという以上に、可及的そなわるべきというレベルでかんがえられるべきであろう。
 その際、文法上のジェンダー中立性は形式的な規則の面からジェンダー中立性を担保するいりぐちとなる。この点で問題となるのは印欧語族系言語やセム諸語系言語に特徴的な名詞の文法的性別である。特に典型的な印欧語族系言語では名詞は男性・女性・中性の三種に厳格に分類され、それにおうじて冠詞や動詞の形態なども明確に区別される。
 このような文法的性別のシステムは、基本的に性別を厳格に区別するという社会的意識を根底にもつ点で古典的なものである。また非生物名詞にまで性別が不規則にわりふられることから複雑になりすぎるという点では、習得容易性にもかかわる。 
 その点で、印欧語族に属する英語は名詞の性別をほぼ喪失していることに特色があり、習得容易なだけでなく、ジェンダー中立性の点で他の印欧語族系言語にまさるものがある。 
 ただ、人称代名詞・第三人称に関しては、英語もふくめ、おおくの言語が男性・女性・中性の三性の区別をのこしているが、計画言語にあっては、人称代名詞においてすら性別を撤廃することが可能となる。

語彙上のジェンダー中立性
 語彙上のジェンダー中立性は、文法上のジェンダー中立性とあいまって実質的なジェンダー中立性を支えるもので、それは語源のジェンダー中立性と語彙そのもののジェンダー中立性とにわけられる。
 語源のジェンダー中立性として問題となるのは、英語のman/womanのような反意語的な対語の是非である。このばあい、womanという語の接頭辞wo‐は元来wif‐(=wife)で、要するに「おんな=おとこのつま」という含意があるからである。
 ただ、英語のmanは意味が拡張されていて、両性を包括したおよそひと一般という集合名詞としてもつかわれており、こうした包括的用法をもってジェンダー中立性を確保しようとしているとみることもできよう。
 ちなみに、語彙そのもののジェンダー中立性に関しては、日本語のように名詞の文法的性別がまったく存在しないにもかかわらず、語法のレベルで男性語法と女性語法が区別される言語も、ジェンダー中立性の点では問題をかかえる。
 もっとも、近年では日本語でも男性語法と女性語法の区別が相対化される傾向がみられるが、両者をあきらかに混同することは、一種のパロディーとして容認されるばあいをのぞき、社会常識をかいた語法として非難されることすらある。
 ただ、日本語以外の言語では日本語ほど厳格に男性語法と女性語法を区別する言語はほとんどみあたらず、エスペラント語にもそうした区別はみられないため、この問題をさほど重視する必要はないのかもしれない。

言語の非差別性
 以上にみたジェンダー中立性は、一般化すれば言語の非差別性という条件にまとめることができる。遺憾なことに、おおくの自然言語には辞書に搭載されていない俗語もふくめ、多種多様な差別語がふくまれている。これは差別という人間特有の行為が、言語使用をつうじて発現することのあかしでもある。
 この点に関しては、一般的にエスペラント語のような計画言語では語彙自体が計画的につくられていくため、差別語をそもそもはじめから排除することが可能となるので、自然言語ほどに差別語に神経をつかう必要がないという利点がある。

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共通世界語エスペランテート(連載第7回)

2019-06-21 | 〆共通世界語エスペランテート

第1部 エスペランテート総論

(6)自然言語近似性

 前回、世界語たりうるための相対条件として、習得容易性をあげたが、もう一つの相対条件として自然言語近似性(または近自然言語性)をあげなくてはならない。すなわち、世界語は計画言語でありながら、自然言語にちかい語彙や文法構造を有している必要があるということである。
 その点で対照されるのはプログラミング言語である。周知のとおり、プログラミング言語とはコンピュータを作動させるうえで不可欠なコンピュータプログラムを記述するために作成された計画言語の一種である。プログラミング言語はコンピュータに対する指令を記述する言語であるから、厳格な文法規則にしたがい、かつきわめて単純化された形式で記述されなければならない。
 しかし、プログラミング言語はひととコンピュータのあいだでの一種のコミュニケーション言語であるため、ひととひととのあいだのコミュケーションに援用することは―ある種の暗号文としてなら不可能ではないが―適していない。ひととひととのコミュニケーションはより複雑微妙であり、言語があまりに形式的でありすぎれば、かえってコミュニケーションに困難をきたしかねないからである。
 他方、自然言語にも文法規則は存在するが、通常はさほど厳格に形式的ではなく、程度の差はあれ、柔軟化されている。それによって、ひと対ひとのコミュニケーションを円滑なものにしている。エスペラントをはじめとする従来の主要な国際計画言語のほとんどが自然言語近似性をもって作成されてきたのも、首肯できるところである。
 その点で、注目されるのは、もっともあたらしい計画言語の一つであるロジバン(Lojban)である。ロジバンはエスペラントなどの旧世代計画言語とはおおきくことなり、論理学的な述語論理を文法規則の基礎におき、語源の点では世界の自然言語をはばひろく渉猟しつつ語彙を創出し、中立的なオリジナリティーを追求している。
 ここでロジバンについて詳論する余裕はないが、ロジバンの基本的な目的は、自然言語につきまとう曖昧さを徹底的に除去し、二義をゆるさない意味明瞭な言語表現を可能にすることにあるとされる。そのために、述語論理を基礎とし、プログラミング言語にちかい性質―いわばプログラミング言語近似性―をもたせようとするこころみである。
 これはロジバンが元来、「ひとは体得した言語によってその思考形態が左右される」という言語学仮説(サピア‐ウォーフ仮説)の検証のために開発され、人間同士のコミュニケーションの手段として普及させることを目的としない実験言語であるログラン(Loglan)をベースに開発されたことに由来している。
 しかし、曖昧さの排除に専心するあまりに、論理学の知識を要する述語論理に傾倒することは、かえって習得容易性という条件をみたさなくなる可能性もあり、ロジバンやそれに類する新世代の計画言語には世界語としての普及可能性に関して疑問符もつく。
 そうした点で、自然言語近似性は世界語の相対条件として維持すべきものとおもわれる。ただし、ロジバンには例外のない文法規則の一貫性や高度な言語学的中立性など世界語たりうる条件としてみるべき点もあるので、エスペランテートを考案するうえでも参考に供されるべきものである。

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共通世界語エスペランテート(連載第6回)

2019-06-20 | 〆共通世界語エスペランテート

第1部 エスペランテート総論

(5)習得容易性

習得容易性の要件
 以前、世界語の相対条件として、習得容易性ということをあげた。これは、文字どおり、当該言語が習得しやすい性質をそなえていることをさすが、このばあいの習得しやすさとは、別言語を母語とするものが後天的に習得しやすいことを意味する。
 ただ、言語の習得しやすさは母語体系の習得自体が途上のために柔軟な他言語学習能力をもつこどもと、母語体系を完全に習得しているためにその干渉をつよくうけやすく、他言語全般の習得が困難な成人とではことなるが、ここでいう習得しやすさとは、成人もふくめた他言語使用者にとっての習得しやすさとおおまかにとらえておく。
 こういう観点で習得容易性をとらえたばあい、その要件は一体なにか。といっても漠然としているので、ここでは文字体系・文法構造・語彙・発音体系の各項目ごとにわけて検証してみよう。
 上記項目のなかでもっとも重要なのは、文字体系の習得容易性である。世界語は絶対条件として文字言語でなければならないから、文字言語の学習上最初の関門となる文字でつまずくことは習得を困難にするからである。
 したがって、文字体系が簡素であることが習得容易性の要件である。逆にいえば、複雑な文字体系は言語習得のたかいかべとなる。その点、アジアの諸言語にはアラビア語やヒンディー語など独自の複雑な文字体系をもつ言語が少なくなく、これらの言語の習得を困難にしている。中国語の漢字も文字数の膨大さがかべとなる。日本語の場合も漢字に加え、ひらがな、カタカナをふくめた異例の三重文字体系が習得を困難にしている。
 つぎに、文法構造は、はなすこともふくめた言語運用上の基本ルール群であるから、文字についで習得容易性の重要な要素である。
 文法構造のなかでも、語形変化は言語習得上の主要なかべとなる。語形変化には動詞を中心とする品詞の活用変化と名詞の単複や性による変化とがあるが、これらが複雑であればあるほど習得は困難になる。よって、語形変化は一切ないことが理想ではあるが、あってもそれは限定的かつ規則的であることが習得容易性の要件となる。
 この点では、多岐にわたって不規則変化をふくむ語形変化をする言語―印欧語族に代表される屈折語系統の言語におおくみられる―は、文法構造面からの習得を困難にする。
 これに対して、語彙に関しては、語彙のすくなさが習得を容易にするかにみえる。たしかに語彙が限定されているかぎり、語学学習上の定番である単語のまる暗記の負担は軽減されるだろう。実際、英国のチャールズ・オグデンが開発したベーシック英語(Basic English)はわずか850語限定の簡易化によって英語をより普及させようとした先駆的なこころみであった。
 しかし、語彙の限定性はかえって基礎単語をくみあわせた代替表現のむずかしさというあらたな問題をうみだし、表現のはばをせばめ、かえってコミュニケーションを困難にするおそれもある。したがって、語彙の限定性についてはこれを習得容易性の要件とまではみなすべきでなかろう。
 最後に発音体系であるが、世界語は文字言語であると同時に音声言語としてもそれを使用して世界のひとびとがコミュニケートする手段であるから、発音体系も習得容易性の重要な要素であり、それは単純であるほどよい。
 その点、まず母音のすくなさと明瞭さは重要な要件となる。すなわち母音のかずがおおいとその発音上の区別も微妙で困難となるので、曖昧母音のない5個以下の母音体系が理想的である。一方、子音は多種類をさけがたいが、複雑微妙な発声を要する子音はすくないほどよい。
 さらに中国語に代表されるような声調も習得上のかべとなるため、世界語の発音体系には存在すべきでない。つまり声調で区別する同音異義語はあるべきでないということになる。

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共産論(連載第49回)

2019-06-19 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

(3)共産党とは別様に(続)

◇しなやかな結集体
 革命前民衆会議は中央指導部を持たない分散的なネットワーク型組織であると述べたが、このようなネットワーク型組織はえてしてメンバーシップが緩やかになりすぎ、安易なサークル活動化をきたしやすい。
 そこで、革命前民衆会議のメンバーシップはいくぶん厳正に編成し、革命前民衆会議の規約となる「民衆会議盟約」の全条項に逐条同意した人に限り(一括同意や部分同意は不可)、加盟を認める。盟約員は毎年一回盟約所定の下限金額以上の運営費を納入する義務を負う。
 中央連絡委員のほか、ローカルな各圏域民衆会議連絡機関の委員は盟約員の中から―ローカルなレベルの民衆会議の場合は管内の住民であることを要する―二年程度の任期をもって抽選で選出される。  
 このように組織内の役職は抽選によるローテーション制とすることにより、共産党組織のように指導部メンバーが固定化され、権威主義的な党内官僚制が形成されていくのを防止できるのである。  
 なお、民衆会議総会に出席する権利を有する「総会代議員」は地方圏(または準領域圏)及び地域圏民衆会議の連絡委員の中から互選するが、それ以外に所定員数の一般盟約員も先着順で総会参加者となることができる。  
 こうした核となる盟約員の数はある程度限られるであろうが、政党の党員獲得のようないわゆるオルグ活動は展開しない。その代わりに、専従員によるインターネットを活用した触発活動を展開し、外部の自発的な共感者の拡散に注力する。  
 民衆会議のメンバーシップ及び組織のあり方は決してサークル活動的ではないが、一方で共産党的な「鉄の団結」でもなく、限定された盟約員を核としつつ、外延部を成す多数の自発的共感者で構成され、アメーバ状に伸縮する組織―言わば「しなやかな結集体」と表現できるようなものとなるであろう。

◇赤と緑の融合  
 革命前民衆会議が共産党と理念的な面で異なるのは、エコロジズム(生態系保全主義)を内在化することである。このことは第2章で見た「持続可能的計画経済」という革命後に施行される新たな計画経済の手法にも現れていた。  
 その点、ソ連邦解体以降、地球環境問題への関心がかつてなく高まったことに対応して、「緑の党」のようなエコロジズム政党が欧州を中心に台頭してきたことが想起される。  
 しかし「緑の党」は一般に共産主義には否定的であり、資本主義の枠内で環境規制を強化することを主張するにとどまり、根本的な次元で生産様式の転換に切り込もうとしない。そうした意味で、かれらの立場は単に資本主義を緑色に染めるだけの「緑の資本主義」に終始する。  
 これでは資本をして“エコ・ビジネス”のような便乗的利潤追求戦略に走らせるだけである。その象徴的な例が地球温暖化対策を大義名分に掲げる原発輸出政策であるが、「緑の資本主義」ではこうした資本のエコ便乗商法を本質的に批判することができない。  
 一方で、環境規制の強化に伴う生産量の低下ないし生産コストの増大が人員整理を結果することを恐れる労働組合は経営側と歩調を合わせて環境規制に反対しがちである。そうした労組の立場に理解を示す共産党もまた連動して反エコロジズム―「緑の党」の躍進に対する警戒心も手伝って―の立場に赴きやすい。
 革命前民衆会議が目指すのは、こうした反共的な「緑の資本主義」と共産的な「反エコロジズム」との狭間にあって、エコロジズムを内在化させた新たな共産主義の再定義である。  
 共産主義の伝統的なシンボルカラーは「赤」であった。革命前民衆会議も共産主義を目指す以上「赤」を基調としてよいが、それに「緑」を加味する。といっても、それは赤と緑の単なるツートンカラーではなく、深層的な次元で赤と緑が融合されたアラベスクのようでなければならない。(※)

※その点、当ブログのテンプレートが赤基調に統一され、緑加味のアラベスクになっていないのは言行不一致であり、心苦しい。

◇集団的不投票運動  
 革命前民衆会議の主軸となる活動は、まず第一に新しい革命運動の方法となる集団的不投票運動の展開である。すなわち、世界民衆会議を拠点としつつ、連携する各国民衆会議を通じて、各種公職選挙での棄権者を漸次増やし、既存の議会や政府の正統性を弱化させ、最終的な革命につなげることである。  
 ここで注意すべきは、投票が罰則付きで義務付けられている諸国における運動である。この場合、棄権は犯罪行為とみなされる。しかし、たいていは罰金相当の軽罪であり、厳格な取締りもなされないのが通例であるが、仮に棄権に重罰が科せられる場合は、兵役拒否と同様の良心的不服従運動の形態となる。
 一方で、いまだに公職選挙制度が存在しないか、存在しても一党支配のため選挙が形骸化している諸国では、そもそも集団的不投票運動が有効に展開できない。このような場合の民衆会議では棄権運動よりも次項の対抗的立法活動に重点を置くか、それも困難ならば海外に亡命民衆会議を結成することになろう。  
 ちなみに、共産党が一党支配体制を確立している諸国における民衆会議運動は、一見すると共産主義が共産主義に対峙する矛盾行為のようであるが、既成共産党の党派的共産主義と民衆会議の共産主義には齟齬があるので、対峙することは矛盾ではない。  
 この場合は、独裁的共産党に対し、反共の立場から外在的に攻撃するのでなく、新たな再定義された共産主義をもって内在的に対抗する運動が展開されるのである。

◇対抗的立法活動  
 革命前民衆会議の活動主軸の二本目は、対抗的立法活動である。対抗的立法活動とは、既存の立法機関に対抗して、民衆会議が行なう立法活動のことである。もちろん、ここで「立法」といっても、革命前の段階では正規の法令としての効力を持たない民間綱領にとどまるが、革命成就の暁には公式の法令となる、言わば法令のさなぎである。  
 その中心にくるのは、憲章である。憲章とは既成の国法体系上は憲法に相当する最高規範であり、実質的には憲法と呼び得るものであるが、すでに述べてきたように、共産主義は主権国家を前提としないので、社会の最高規範たる憲法は憲章(民衆会議憲章)という形態で現れることになるのである。  
 こうした憲章は世界民衆会議憲章―世界共同体憲章を兼ねる―を統一法源としつつ、各国民衆会議憲章が制定され、さらに各国民衆会議憲章の範囲内でローカルな各圏域民衆会議憲章が制定されるというように、圏域ごとに重層的に制定され、憲章の網の目が形成される。  
 憲章の制定に加え、持続可能的計画経済の仕組みに関わる経済法制の制定も、革命前民衆会議の重要な対抗的立法活動を成す。ここでは貨幣経済の廃止という人類史的な大事業が控えているため、革命後の経済社会の大混乱を回避するためにも、革命前の入念な準備が欠かせないのである。

◇政党化の禁欲  
 以上のような活動二本柱を超えて、革命前民衆会議も選挙参加のような政党的活動を展開すべきかどうかということが一つの問題となるかもしれない。  
 新たな共産主義を目指す民衆会議の方向性に基本的に賛同しつつも、資本主義の生命力は強く、簡単に自壊するようなことはないとすれば、まずは資本主義の枠内で選挙を通じて実行可能な改革を志向していくべきではないかとの慎重な提言もあり得よう。  
 しかし、革命前民衆会議は政党ないしそれに類する政治団体と化すべきではない。ここが既成共産党との大きな分岐点となる。前に述べたとおり、ソ連邦解体後の世界では、残存共産党の多くが議会選挙に参加し、一定の議席を保有しているが、それと同時に、そのほとんどが共産主義革命を棚上げする形で事実上放棄し、資本主義に適応する転回を遂げているのは、そうしなければ議席獲得・保持が困難だからである。  
 それはまた、ブルジョワ議会制度が資本主義への同化を暗黙の議席保持条件として共産党を含む全議会政党に強いるからにほかならない。このことによって、「共産」という名辞の持つ意味が蒸発し、名目化してしまうのである。革命前民衆会議がそのような残存共産党と同じ道を歩むのでは全く意味がない。そのため、革命前民衆会議が政党化して選挙参加することは厳に禁欲すべきなのである。  
 結局のところ、革命前民衆会議は政党ではないが、非公然の地下活動団体でもなく、革命後には公式の社会運営機構となることが予定された公然運動組織という性格を堅持していくべきことになる。

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共産論(連載第48回)

2019-06-18 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

(3)共産党とは別様に

◇革命運動体としての民衆会議
 共産主義革命と言えば、その名のとおり共産党を中心に実行されるものと考えるのが従来の通念であったが、もはやそうではない。ここで提示される民衆による共産主義革命とは共産党はおろか、およそ政党組織によらない、言わば無党派民衆による直接革命なのである。
 といっても、いかなる組織化もせずに革命事業を完遂できると主張するほど筆者もシンプル(純真)ではない。革命運動の組織化はやはり不可避である。その組織とは?
 民衆会議―。この概念はすでに登場済みである。そこでは国家が廃止される共産主義社会における新しい統治機構として登場したのであったが、この民衆会議は同時に、革命前には革命運動組織として結成・展開されるという一貫性を持つのである。
 この「革命前民衆会議」とは、革命後には公式の統治機構となることが予定された―言わば「さなぎ」のような―組織である。その革命後における民衆会議の構制についてはすでに第4章で先取りしておいたので、ここでは革命前民衆会議について見ていく。

◇革命前民衆会議の概要①―世界民衆会議  
 貨幣経済と国家体制を廃する共産主義革命は一国だけで実践できるものではなく、各国における連続革命を経て最終的にトランスナショナルかつグローバルな世界共同体の創設にまで到達しなければならない。
 そのためには民衆会議はその初めの一歩から、現存する国家を超えた世界主義的な組織化を進める必要がある。すなわち「世界民衆会議」の結成である。世界民衆会議は将来世界共同体が創設された暁にはその総会として機能することが予定される民衆会議運動の世界センターである。  
 ただ、世界センターといっても、世界民衆会議と各国民衆会議との関係は本部‐支部の上下関係ではなく、各国における民衆会議の結成支援と各国民衆会議の活動に対する助言・支援、さらに各国民衆会議間の情報交換・情勢分析を柱とするフォーラムの位置づけとなる。  
 それと並行して、第4章でも触れた連関する大地域=汎域圏レベルでの民衆会議作りも重要である。これは最終章で改めて述べる五つの汎域圏ごとに結成され、将来は世界共同体の執行機関として機能する「汎域圏代表者会議」を構成する5人の代表者を選出する代議機関となるのであるが、それまでの間は将来汎域圏を構成する大地域に属する各国民衆会議の暫定的な協議会の役割を果たす。  
 特に国内的に民衆会議のような組織が弾圧・迫害の標的となるために国内活動が困難である諸国における亡命民衆会議の支援は、この汎域圏民衆会議の重要な任務である。従って、汎域圏民衆会議は民衆会議の活動が―全くのノーリスクでは済まないとしても―比較的自由に展開できる国に暫定的な拠点を置くことになるだろう。

◇革命前民衆会議の概要②―各国民衆会議  
 連続革命により世界共同体が創設された暁には主権国家は揚棄されるが、革命前にはさしあたり現存する一国ごとに、世界民衆会議と連携する民衆会議が組織されなければならない。  
 その際、上述した一貫制という性格に照らして、各国民衆会議の組織は結成の段階から革命後の展開に合わせて市町村、地域圏、地方圏(連邦国家の場合は準領域圏)―地域圏や地方圏に相応する自治体が革命前に未設置の場合は暫定的な区割りによる―、領域圏の各レベルごとに重層的に立ち上げていく。  
 しかし、ここでも領域圏民衆会議とローカルな各圏域民衆会議の関係は上下関係になく、領域圏民衆会議に中央委員会のような集権的指導機関は置かない。その代わりにローカルなネットワークをつなぐ機関として「中央連絡委員会」(連邦国家の場合は「連合連絡委員会」)を置くが、首都中心の運営を避けるため、同委員会は首都以外の都市に置く。  
 中央連絡委員会はそれ自身の定例会を定期的に開くほか、年一回の総会(民衆会議総会)を企画・主催する。しかし、総会は情報交換と情勢分析の場であり、政党の大会のように拘束力のある決議は行わない。  
 他方、地方圏(準領域圏)民衆会議と地域圏民衆会議にも「連絡委員会」を置き、各々の圏内民衆会議との連絡機関とする。また市町村民衆会議にも小規模な「連絡会」を置き、市町村内の組織化とともに、地域圏民衆会議とのパイプの役割を持たせる。  
 このように民衆会議は共産党とは異なり、中央指導部を持たず―従って、中央連絡委員会に委員長やそれに匹敵する書記長等々の筆頭職は置かない―、世界民衆会議を核として、各国民衆会議及びその内部のローカルな各圏域民衆会議が有機的に連携する分散的なネットワーク型組織として運営されていく。

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共産論(連載第47回)

2019-06-17 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

(2)革命にはもう一つの方法がある

◇革命の方法論  
 革命といえば、かつてのプロレタリア革命論は武装した労働者階級が武装して立つことを想定していた。しかし、基本的には武装革命論者であったマルクスも平和的な方法による革命があり得ることを示唆していた。とはいえ、彼が「平和的な革命」の具体的な方法論を明示することはなかった。  
 いかに革命を呼号しても、その実践の具体的な方法が見出せなければ、それは空文句に終わってしまう。しかし従来、革命を方法論的に突き詰めて考える風潮は乏しく、革命というものに人々がまだ大いにリアリティーを感得し得た時代にあっても、漠然と武装革命をイメージするだけに終わりがちであった。  
 しかし、革命がリアリティーを喪失しつつある今日であればこそ、革命の方法―特に前節で示したプレビアン革命にふさわしい方法―を突き詰めて問い直す必要がある。そのことを通じて革命のリアリティーも再び取り戻されるだろう。  

◇民衆蜂起  
 民衆蜂起は、その劇的な性格からしても革命のイメージの中では最も象徴的なものである。20世紀以降の民衆蜂起的革命の成功事例としてはロシア革命(1917年)が代表例であるが、青年たちがゲリラ活動を通じて武装蜂起したキューバ革命(1959年)もこの範疇に含めてよいと思われる。  
 この方法では通常、革命に参画する民衆は武装して立つが、非武装の民衆蜂起もある。「ベルリンの壁」を解体させ、旧ソ連の忠実な衛星国として、ソ連型集産主義体制と冷戦の象徴的存在であった旧東ドイツを消滅に追い込んだ大規模デモ行動(1989年)などは非武装型民衆蜂起の実例とみなすこともできる。
 いずれにせよ、民衆蜂起による革命の相手方は必ず専制的な抑圧体制と決まっている。大規模な民衆蜂起は体制に対する民衆の反感・憎悪をエネルギーとしてはじめて成り立つものだからである。  
 その意味で、民衆蜂起による革命は体制側との熾烈な対決状況を生み出す。体制側が鎮圧のために動員する警察や軍との全面対峙の局面が避けられないほか、ロシア革命がそうであったように、革命成就後にも旧体制側の反革命策動が内戦に発展することもある。  
 一方で、この方法による革命によって樹立された政権自身が旧体制に勝るとも劣らぬ抑圧的な体制と化すこともある。ロシア革命後の共産党による圧制はその最も苦い事例として記憶されるべきものであろう。
 総じて民衆蜂起による革命は、偶発的な民衆のデモ行動が導火線となることが多く、その勃発と展開の方向が読み切れないという難しさがある。  
 ともあれ、露骨な形の専制支配体制が次第に減少してきた今日、この方法による革命を目にする機会も減少しつつあると言える。プレビアン革命がこのような民衆蜂起の形を取ることは、抑圧的な全体主義体制下ではなおあり得るが、それは比較的限られたものになるだろう。

◇集団的不投票 
 近年は、多くの諸国でとりあえず「民主的」な選挙を実施することが増えてきた。その趨勢には喜ぶべき点もあるが、他方で、選挙を介した間接的な代表政治は多くの諸国で、職業政治家と民衆の遊離や腐敗した利益誘導などにより機能不全を引き起こし、終末的な限界をさらしている。  
 とはいえ、とりあえず「民主的」な規準を充たす選挙で成立した体制を民衆蜂起で打倒することは、事実上困難なことである。そこで、想定されるのが、集団的不投票という方法である。これは中央及び地方すべての公職選挙で有権者が集団的に投票しないことにより当選人を出させず、およそ議会も政権(地方自治体レベルのそれを含む)も成立させない方法である。 (※)
 そのようにして選挙法の規定に基づく合法的な選挙無効による「無政府状態」を作り出したうえで、残存する旧政権との交渉を通じて平和的に政権を移譲させる段取りとなる。従って、この方法は基本的に非武装の平和的革命であり、また不投票を実行するに際して市民は街頭に繰り出す必要もない「在宅革命」というユニークな性格も帯びている。  
 ただし、この方法による革命の実例は、筆者の知る限り、歴史上いまだ皆無である。その理由として、まさに集団的不投票という手段の技術的な困難さがあるだろう。  
 実際、選挙法では当選に必要な最低得票数はほとんど意図的に低く設定されているため、集団的不投票のような事態への備えもなされていることに加え、国によっては投票そのものを罰則付きで義務付けることもあり、体制側は処罰の脅しで大衆に投票を強制することもできるのだ。  
 そこで、集団的不投票は純粋な形ではなく、第一の民衆蜂起的な方法と組み合わせなければ成功には導けない場合もあるかもしれない。そうした未知の技術的な困難さは伴うけれども、この方法は、一種の市民的不服従を通じたもう一つの革命の方法として、プレビアン革命にふさわしいものと言える。

※従来、各旧版では、この方法を「投票ボイコット」あるいは「集団的棄権」と表記してきたが、前者では投票を暴力的に妨害するかのような印象を否めないこと、一方、後者では「棄権」という語が醸し出す怠慢の印象を否めないことから、「集団的不投票」という表記に変更した。ただし、意味内容に変更はない。

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共通世界語エスペランテート(連載第5回)

2019-06-15 | 〆共通世界語エスペランテート

第1部 エスペランテート総論

(4)言語学的中立性

相対的中立言語
 世界語の絶対的条件として、さきに言語学的中立性を指摘した。この中立性ということの意味について、よりくわしくかんがえてみたい。
 中立性ということをもっとも厳密にとらえるならば、文字体系にはじまり、音韻体系、語彙、文法の点でもおよそいかなる既存語族にも分類できないことが要求される。要するに、純粋にオリジナルな言語をゼロから開発することである。こうした絶対的中立言語の開発も理論上は可能であるが、そのためにはいつおわるともしれぬ長期間を要し、実際上はほぼ不可能であろう。
 そこで、ここでいう言語学的中立性とは、絶対的中立性ではなく相対的中立性を意味すると理解するほかはない。ただ、相対的中立性というかたちで条件を緩和する反面として、なにをどの程度相対化することがゆるされるかという問題が生じてくる。
 その点、比較言語学上語族の決定要因としてもっとも重要なものは基礎的語彙であるから、語彙的要素に関してはいかなる既存語族のそれからも独立した高度の中立性を要することになる。
 したがって、一つの民族言語の語彙をそのまま借用することは中立性をかくことになるが、純粋な新造語だけで構成されている必要はなく、複数の民族言語の単語と語源を同じくする語彙が包含されることはみとめられてよいだろう(ただし、そうした語源共有の割合については議論の余地がある)。
 その他、基礎的語彙にくらべれば二次的ながら音韻体系や文法構造(統語法)も語族決定要因となるが、これらの要因についても、既存語族からの相対的な中立性を要する。
 これに対して、言語の形式的な表記に関わる文字体系については、標準表記法をきめておく必要はあるが、唯一の規準的な表記法をさだめる必要はなく、各民族言語の文字体系に音写することをみとめてよいとかんがえる。これは次項で検証する習得容易性とも関わることであるが、各民族言語の文字体系による表記も容認したほうが世界語として普及しやすいとかんがえられるからである。

英語の混交性・弾力性
 ここで対照上、現在事実上の世界語としてひろく普及している英語の特質についてみておきたい。英語は元来、比較言語学上インド‐ヨーロッパ語族ゲルマン語派に属するれっきとした民族言語であるから、そもそも世界語の条件をみたすことはありえない。
 それにしてもアジアからヨーロッパにまたがり多数の言語をふくむ大語族であるインド‐ヨーロッパ語族のなかでも、またそのうちでもゲルマン語派の代表格ドイツ語をおしのけて、なぜ英語がこれほど世界にひろがったのかについては、十分解明されているとはいえない。
 「英語帝国主義」という政治的なみかたもあやまりではないとはいえ、それだけではなぜ旧英米植民地の新興諸国でいまなお英語が公用語として指定されたり、熱心にまなばれたりしつづけているのか説明しきれない。
 その点、英語の特質として重要なのはその混交性のたかさである。とりわけ語彙に関しては本来のゲルマン語起源の単語にくわえ、ラテン語やフランス語起源の単語をおおくふくみ、さらに、かずはすくないとはいえ、一部にまったく語族をことにするアラビア語や日本語起源の単語さえもふくんでいる。このような語彙の混交性は英語の世界的普及をおおいにたすけているといえる。
 一方、音韻体系や文法に関してはゲルマン語派の特徴が顕著ではあるものの、アジアン・イングリッシュとかジャパニーズ・イングリッシュといった言葉に象徴されているように、地域的なカスタマイズに対しても比較的寛大である。もちろんこうした非正規的な「英語」が正統英語として認証されることはないが、英語が他の言語とくらべてカスタマイズしやすい性質をそなえていることは英語の弾力性のたかさをしめしている。
 混交性や弾力性は上述の言語学的中立性とは別個の性質ではあるとはいえ、英語を事実上の世界語の地位におしあげた主要な要因として、こうした擬似中立性としての混交性・弾力性があることは念頭におくべきであろう。

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共通世界語エスペランテート(連載第4回)

2019-06-14 | 〆共通世界語エスペランテート

第1部 エスペランテート総論

(3)世界語の条件

世界語の三条件
 
(1)でみたように、世界語とは世界中で通用しうる共通語として計画的に創案された言語のことであるが、そのような言語であるための条件とはなにか。この問題は、特定の言語を世界語として普及させるうえで不可欠の検証事項であるはずであるが、意外に議論されていないようにみえる。

 当然ながら、特定の個人なり集団なりが特定の言語を単に世界語として企画・創案したというだけで世界語となるわけではない。ある計画言語が世界語でありうるためには、それなりの条件をそなえていなければならない。
 したがって、伝統的なエスペラント語が所期の目的どおり、現実的な世界語たりえていないとすれば、それはエスペラント語が世界語の条件に不足している点があるためではないかとの推定がはたらくのである。
 ここに世界語の条件とは、ある言語が慣用上でなく公式に世界語となるためにそなえているべき性質のことをいう。世界語でありうるための適格性といいかえてもよい。そのような条件にも、おおきくわけると絶対条件と相対条件、さらに付加条件とがある。
 絶対条件とは、そのなのとおり、世界語でありうるために絶対にそなえていなければならない条件、いいかえれば、それをかくかぎり、世界語とはなりえない条件のことである。
 これに対して、相対条件とは世界語でありうるために絶対そなえていなければならないわけではないが、そなえていなければ事実上世界語として普及しがたいような条件である。
 最後の付加条件とは、それをかいていても世界語たりうるが、そなえていれば世界語としての普及をより促進するであろうような条件のことである。

具体的な条件 
 世界語たりうるための上記三条件をより具体的にいえば、まず絶対条件として「言語学的中立性」がある。これは、その言語が特定の民族言語でないだけでなく、世界中のどの既存語族にも属しないことを意味する。
 したがって、かりにある計画言語が語彙や文法の点でインド‐ヨーロッパ語族なりシナ‐チベット語族なりといった特定の既存語族に分類可能であるかぎり、それは世界語たりえないことになる。
 世界語は言語ナショナリズムをのりこえ、世界中のすべての民族が共有する言語であるからには、特定の語族に属することは中立性をかき、言語ナショナリズムから自由になれないからである。 
 もう一つの絶対条件として文字言語であるということがあげられる。世界語ははなしことばとしての事実上の共通語ではなく、公式に公用語として通用するものでなくてはならないから、かきことばとしても完成している必要がある。したがって、文字言語であることは絶対条件である。
 このばあい、「言語学的中立性」からして、文字体系に関しても特定民族言語の文字体系に依拠してはならないかどうかについては議論の余地があるが、これに関しては次章であらためて検討する。
 次に、相対条件として「習得容易性」がある。要するに、どの民族言語を母語とするものでも簡単に習得できることである。習得困難な言語が世界語たりえないわけではないが、実際上世界語として普及しにくいであろうから、習得容易性は相対条件となるのである。
 なお、「習得容易性」と表裏一体の相対条件として、「教授容易性」を想定してもよい。これは、そのなのとおり、語学教育の容易性ということであるが、通常習得容易な言語は教授も容易であるから、独立の条件としてあげる実益はとぼしいかもしれない。
 これにくわえ、もう一つの相対条件として「自然言語近似性」がある。すなわち、世界語は計画言語でありながら、自然言語にちかい語彙や文法構造を有している必要があるということであるが、これに関しても、該当節で詳論する。
 最後に、付加条件として「ジェンダー中立性」がある。これは言語体系自体にジェンダー差別的な要素がないことを意味する。この点、おおくの民族言語がなんらかのジェンダー差別的な要素―とりわけ女性差別的要素―をもっているが、世界語は今日の世界規範となっているジェンダー平等に合致しているべきである。
 さらに「ジェンダー中立性」も包括される一般的な付加条件として、「非差別性」すなわち差別的語彙・表現をもたないことまで拡大することはよりのぞましい。

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共通世界語エスペランテート(連載第3回)

2019-06-13 | 〆共通世界語エスペランテート

第1部 エスペランテート総論 

(2)世界語の意義②

諸民族言語との関係
 あらたな共通世界語エスペランテートは、既存の諸民族言語との関係をどうとるか。これについては完全な並存関係であり、エスペランテートは決して諸民族言語を排除しようとするものではない。これは、伝統的なエスペランティストの回答とおなじである。
 たしかに、エスペラント語をふくむ世界語は諸民族言語を排してそれにとってかわろうとする言語帝国主義的な野心とは無縁である。しかし一方で、世界語の創案は人類の言語的分裂状況を克服することにある以上、多言語主義を無条件にことほぐわけでもない。
 エスペランテートは諸民族言語と並存しながらも、世界共通語としての地位を獲得する努力を放棄するべきではない。そうした意味で、エスペランテートは諸民族言語の単なる補完言語ではなく、諸民族言語とも対等な地位をめざし、とりわけ全世界の義務教育課程への導入を推奨していくことになるだろう。エスペランテートにとっての理想の言語使用像は、各人にとっての母語となる民族言語とエスペランテートとのバイリンガルである。
 このことはエスペランテートが絶滅危惧言語の保存に無関心であることを意味しないが、絶滅危惧言語の保存を世界語の普及よりも優先するというかんがえにはたたないであろう。一方で、「国語」の名において多数派の民族言語や国策的にさだめられた標準語を全国民に強制する国語政策には明確に反対するであろう。

英語との関係
 エスペランテートは、本来民族言語の一つでありながら慣用上事実上の世界語の地位をしめる英語との関係をどうとるのか。これについて、伝統的エスペランティストのおおくは、現在世界をおおう「英語帝国主義」に批判的なスタンスをとるかもしれない。
 たしかに、英語の世界制覇は19世紀と20世紀、それぞれ英語を国語とする大英帝国とアメリカ合衆国という二つの覇権国家があいついで世界を支配したことの結果であり、そこに言語帝国主義のかげをみることはできるが、のちに検証するように、英語の世界的普及の要因には「帝国主義」だけでは説明しきれない言語学的な要素もみとめられる。
 実際上も、エスペランテートにせよ、エスペラントにせよ、世界語の普及をめざすうえでは、さしあたり学習書を英語で記述することがもっともちかみちであるという皮肉な現実も否定できない。そうした点をかんがえると、「英語帝国主義」批判についてはいくらか留保が必要であろう。
 まず英語を母語・国語としない社会において、英語を「国際語」として学校教育のはやい段階から一律に児童生徒に強制することには反対すべきであるが、一方でエスペランテートをして英語の地位にとってかわらんとする対抗的な発想はもたない。
 むしろ英語がひろく普及している現状を有利に利用しつつ、エスペランテートの普及をはかるほうが有効とかんがえられる。実際、エスペランテートの学習上も英語は各自の母語とならぶ対照言語として有益な一面をもつのである。
 ただ、エスペランテートが普及したあかつきに英語の運命が最終的にどうなるかについては関知しない。それはエスペランテートの普及度いかんにかかるであろう。エスペランテートが習得容易性という利点で英語にまさるならば、英語はおのずと英語圏における一民族言語としての地位にたちもどっていくはずである。 

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共産論(連載第46回)

2019-06-11 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

(1)革命の主体は民衆だ(続)

◇「プロレタリア革命」の脱構築
 かつては威勢よく「プロレタリア革命」を呼号したマルクス主義者らも、労働者階級が資本主義を血肉化していく状況の中ではもはや困難な「プロレタリア革命」を断念し、資本主義に順応していくようになった。実は今日の世界の残存マルクス主義政党(ソ連邦解体以降も残存する各国マルクス主義政党)の多くも、「現実主義」の名の下、明示的または黙示的にこのような路線転回を図ってきたところである。
 しかし、ここではそうした自己放棄的なあきらめの「現実主義」には乗らず、どこまでも共産主義への道を模索してみることにしたい。そのためには「プロレタリア革命」を従来とは異なる名辞と方法論とによって、脱構築しなければならない。

◇「搾取」という共通標識
 ここで最初に確認すべきは、共産主義革命の潜勢的な中心主体はあくまでも労働者階級だという鉄則である。ところが、上述のように今日の労働者階級は深く分断されている。しかしこれを再統一することを可能にする標識がある。それが第3章でも論じた「搾取」である。
 その点、資本主義的用語法では「搾取」の意味を矮小化し、極端な低賃金労働の場合に限定しようとするが、第3章でも見たように、相対的な高賃金の労働者でも実際には様々な名目で不払労働を強いられており、「搾取」されているのであった。
 搾取されていることにおいて、一般労働者層と上級労働者層、一般労働者層中の安定層と不安定層、さらには民間労働者と公務労働者の間にも本質的な差異はない。差異があるとすれば、搾取の表れ方である。すなわち低賃金搾取で生計が立たず貧困に陥るか、高賃金搾取によって生計は立つが疲労困ばいし、過労死/過労自殺に至るか、その差にすぎない。
 また安定層と不安定層の差異も、正規労働者に対する解雇規制の緩和や正規労働者の賃金抑制―経営基盤の弱い中小企業では従来からそうなっている―によって一挙に相対化されていく。
 他方、現職労働者層と退職労働者層の世代間対立の止揚はなかなか困難である。しかしこれも「搾取の日延べ」という観点から一定の解決はつくように思われる。
 つまり、退職労働者層の年金給付額は、納めた保険料とともに現職当時の賃金水準を標準に算定されるから、現職時に低賃金で搾取されれば将来の年金受給額も低水準にとどまる。このように老齢年金とは老後まで続く「搾取の日延べ」にほかならない。このことは、受給と負担の関係が完全に対応する自己責任主義的な所得比例方式の年金制度が導入されればいっそう明瞭になる。
 従って、現職労働者が着々と納めた年金保険料に支えられた年金収入でのうのうと暮らす退職者というイメージは正確でない。現実には年金だけでは足りず、生活難に陥る高齢者も多い。それは将来のあなたや私の姿かもしれないのである。

◇「プレビアン革命」の可能性
 それにしても、「労働者階級」というようなくくり方がもはやリアリティーを持ちにくい時代である。そこで「搾取」を共通標識に統一されるべき新しい名辞として、「民衆」=プレブス(plebs)を提示してみたい。民衆こそ、共産主義革命の主体である。
 ところで、「民衆」の類語に「大衆」があり、このほうが膾炙しているかもしれない。しかし、ここでは「民衆」と「大衆」を明確に区別する。「大衆」とは政治的に覚醒しておらず、浮動的であるがゆえに日和見的であると同時に扇動されやすく、最悪の場合ファシズムへ誘い込まれるバラバラの個人から成る群衆、言わば烏合の衆にすぎない。
 これに対し、ここで言う「民衆」は政治的に覚醒した革命的階級として連帯・結合した諸個人の凝集である。その中核を成すのは賃労働者であるが、それに限らず貧農・小農、無産知識人、零細資本家等々、およそ資本の法則に痛めつけられ、共産主義社会の実現に活路を見出さんとする人々全般を包摂するのが「民衆」である。
 そして、各国ともこうした民衆こそが人口構成上もおおむね多数派を形成しているのである。よって、このような―少数派をも包み込んだ―真の多数派たる民衆の名において実行されるのが、共産主義革命である。要するに、それは「民衆による、民衆のための、民衆の革命=プレビアン革命(plebeian revolution)」という名辞にまとめることができる。

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共産論(連載第45回)

2019-06-10 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

共産主義を青い鳥に終わらせないためには、古い革命の常識(=武装プロレタリア革命)を破る新しい名辞と方法論を伴った新しい革命運動が必要である。それはどのようなものであり得るか?


(1)革命の主体は民衆だ:The leading actors of revolution are the common people.

◇「革命」という政治事業
 前章まで、共産主義社会の実際をかなり具体的に叙述してきたが、その共産主義はそもそもいかにして実現されるか、という大問題がまだ残されている。この大問題を解決できなければ共産主義などしょせん手の届かぬ青い鳥にすぎないことになろう。
 そこでまず、第1章で論じたことを振り返ってみたい。そこでは、資本主義の生命力は強く、自壊するようなことはないが、この「近代的な」経済システムは重大な限界を露呈している、と論じた。
 従って、もし我々が資本主義に異議を申し立てるにとどまらず、資本主義に見切りをつけ共産主義社会の実現を本気で望むならば―望まないという方には、本章及び次章は不要―、ひとまず「革命」という政治事業によって人為的に資本主義と決別しなければならないのである。では、その革命を誰が主導するのか。この問いに対する回答をめぐっての議論である。

◇マルクス主義的「模範」回答
 「正統的」と目されるマルクス主義の理論によれば、共産主義革命の主体は労働者階級(プロレタリアート)である。この回答は政治経済学的にはなお間違ってはいない。というのも、資本主義はその表面の姿形をどれほど変えようと根本的な次元ではブルジョワジーとプロレタリアートの階級対立を止揚し得ないからである。
 今日、発達した資本主義諸国では労使協調路線が定着してきているが、これは「右肩上がり」の時代の総資本が労働分配率を高め、相対的な高賃金経営を実現し得た蜜月時代の名残にすぎず、世界大不況のような経済危機に直面すればたちまちにして賃奴制の過酷な構造が表面化してくる。
 資本の論理に最も痛めつけられるのは賃労働者たちである、という事実はほとんど世界中で普遍的な政治経済学法則である。となると、資本主義を最終的に終わらせることに最も強い理由を持っているのも賃労働者=賃奴たちであって、共産主義社会の実現を目指すプロレタリア革命とは賃奴たちの蜂起だということになりそうである。

◇困難な「プロレタリア革命」
 しかしながら、以上はあくまでも政治経済学的な理屈のうえでの革命主体論であって、社会力学的に見ると「プロレタリア革命」はもはや成立し難い。なぜか。まず何よりも今日の労働者階級はこれを一つの階級的利害だけでまとめ上げることができないほど深く分断されているからである。
 この分断は第一に、現職労働者の内部で一般労働者層(ブルーカラー)と上級労働者層(ホワイトカラー)との二極化という形で生じている。前者はおおむね現業部門のノン・キャリア労働者であるが、後者は将来の経営幹部候補のキャリア労働者である。
 この両者は同じ労働者であっても置かれている位相が異なっており、上級労働者は全般に高学歴・高賃金であり、賃労働者でありながら将来の経営幹部候補として資本の論理を完全に身につけ、管理職の道を歩むエリートである。かれらは一般労働者層に対して優越的であり、時として敵対的でさえあり得る。
 この「青vs白」の分断は株式会社制度の発達とともに長い歴史を持つが、それに加え、近年は一般労働者層内部でも相対的な安定層と不安定層の二極分解が目立ち始めた。安定層は労組に加入し、何とか団結力を保っているが、不安定層は未組織で断片化された非正規労働者が多く、両者の利害は対立しがちである。
 さらに現代では国や地方自治体のような公権力も多くの賃労働者を雇用しているが、これらの公務労働者(いわゆる公務員)は民間資本の活動を監督する立場にあって、学歴・賃金水準も相対的に高く、賃労働者はこうした官民のセクターによっても分断されている。ただし、公務労働者内部も民間以上に明瞭な一般職と上級職の階級差があり、近時は常勤の安定層と非常勤・有期の不安定層によっても分断されてきている。
 こうした現職労働者内部の分断に加えて、老齢年金制度の整備に伴い、現職労働者層と退職労働者層という世代的な分断も深まっている。将来の年金受給額が減少する恐れのある現職労働者の納付する年金保険料で退職労働者の年金収入が担保されるとなれば、明瞭に世代間対立が表面化する。
 以上のような階級内分断はまた、ブルジョワジーとプロレタリアートの階級差をかなりの程度相対化することにも成功している。今日のブルジョワ階級の代表格である企業経営者層の多くは上級労働者層(場合により、一般労働者層)の中から昇格・抜擢されるが、このことによりプロレタリア階級とブルジョワ階級の間が階段―決してなだらかとは言えないが―で連絡していることになる。さらに、貯蓄の一部を投資に回している退職労働者は、プチ投資家階級としてブルジョワ階級に包摂されているとみなすこともできる。
 このように、実は「ブルジョワジー対プロレタリアート」という対立図式も―本質的には止揚されないまま―相当に液状化してきている。
 そのうえに、労働者階級自身の意識の中でも資本主義への同化が著しく進行している。このことはマルクスも、つとに『資本論』第一巻の中で「資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統、慣習によってこの生産様式の諸要求を自明の自然法則として認める労働者階級が発達してくる」と予見していたところであった。今や、労働者階級が資本主義をほとんど血肉化してしまっている・・・・。
 かくして「プロレタリア革命」なるものはもはや全く不可能とは言わないまでも、そのままの形では実現可能性の乏しいプロジェクトとなったと言わざるを得ないのである。

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