ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第404回)

2022-03-31 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(3)バルト三国独立革命

〈3‐1〉ペレストロイカと蠕動
 ソ連邦解体革命の端緒となったのは、エストニア、ラトビア、リトアニアのいわゆるバルト三国の独立革命であった。この三国はソ連邦を構成した15の共和国中でも連邦編入の経緯に最も大きな瑕疵があったことから、住民の間には抑圧された怨嗟の感情が鬱積しており、元来、ソ連邦のアキレス腱と言える地域であった。
 1917年ロシア革命を機に、その翌年、いったんはそろって帝政ロシアから独立を果たしたバルト三国がソ連邦に編入されたのは、第二次大戦初期の1939年にナチスドイツとの間で締結された相互不可侵条約に隠された秘密議定書による勢力圏分割の密約が契機であった。
 これにより形式上はバルト三国とソ連の「相互援助条約」に基づいて平和裏にソ連軍の駐留が認められたが、1940年には軍事的な圧力によってソ連に併合され、構成共和国の一つとして主権を没収されることになった。
 しかし、翌年には不可侵条約を破ってソ連領へ侵攻したナチスドイツに占領されたが、ナチスドイツの敗戦後に改めてソ連の占領を受け、以後はソ連邦構成共和国として確定された。そのため、バルト三国もソ連共産党の指導下に、三国の共和国共産党による地方的統治が強制され、反ソ派は追放または弾圧された。
 このような閉塞状況の転機となったのは、ゴルバチョフ新指導部によるペレストロイカの展開であった。もっとも、ペレストロイカ自体はあくまでも体制内改革であり、バルト三国の独立を容認する趣旨を含まなかったが、思想・言論統制の緩和はバルト三国の民族主義を解凍し、独立運動の蠕動を促したことは確かである。

〈3‐2〉三国独立運動の始動
 バルト三国における独立運動の始動はそれぞれに固有であるが、直接に連携することなしにほぼ同時発生した点で、そこには集団的無意識の協働関係という興味深い集団力学が作用していた。
 先導したのは、三国のうち人口では最小のエストニアであった。エストニアでは1970年代から独立回復運動が立ち上がっており、72年には国際連合に独立回復を訴える書簡が送られるなど、公然たる民族運動の先駆が見られたが、当時これらの運動は保安機関によって厳しく弾圧された。
 このようにエストニアが先駆的であったのは、元来、民族的にフィンランドと近く、西側に属しながら隣接するソ連との善隣関係を維持しつつ(フィンランド化)、福祉国家政策によって高い生活水準を達成していたフィンランドとの水面下での結びつきから、エストニアでは早くからソ連体制への異論が醸成されていたためである。
 一方、リトアニアとラトビアではチェルノブイリ原発事故の後、原発の新設を含むソ連の経済開発政策に対抗する環境保護運動が立ち上がり、これがエストニアにも波及し、それぞれに開発計画の見直しを勝ち取るなど、従来のソ連体制ではあり得ないような譲歩を引き出した。
 そうした中、エストニアでは1987年に、如上の秘密議定書の公開を求める市民団体が結成されたのを機に、88年からはソ連邦からの経済的自立を目指す動きが活発化し、ペレストロイカの推進を目的とするエストニア人民戦線の結成が提案された。
 この新たな動きにはリトアニアがすぐに反応し、88年6月にリトアニア改革運動(通称サユディス)が結成されると、同年10月にはエストニアとラトビアでもそれぞれ人民戦線の結成が続いた。
 これらバルト三国の同種新組織は、当初こそペレストロイカへの支持という穏健な目的を掲げていたが、次第に独立運動組織へと転回していく。それを先導するのも、再びエストニアであった。

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近代革命の社会力学(連載第403回)

2022-03-29 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(2)体制内改革とその限界
 東西冷戦構造の東側盟主として強固な基盤を誇っていたソヴィエト連邦が革命的に解体されるに至るには、数年前まで遡る体制内改革のプロセスがある。それは、1985年3月にソ連共産党書記長に選出されたミハイル・ゴルバチョフが主導したプロセスであった。
 ゴルバチョフが新書記長に就任した当時のソ連は、「発達した社会主義社会」を謳う中央計画経済が行き詰まり、生産力の長期的な低下と恒常的な物不足に見舞われるとともに、アフガニスタン軍事介入の泥沼化、さらには党指導部の高齢化に伴う書記長の頻繁な死亡交代といった閉塞状況にあった。
 その点、54歳で党書記長に就任したゴルバチョフには党の若返りと体制立て直しが期待されていた。そのゴルバチョフが打ち出した改革は「ペレストロイカ」(再建)と「グラスノスチ」(情報公開)という内外の人口にも膾炙した二つのロシア語のスローガンに集約される。
 前者は、それまでの思想・言論統制の緩和に始まり、1987年からは計画経済の大幅な修正に踏み込み、個人営業や自由設立型の協同組合企業の公認も行った。後者は、書記長就任早々の85年4月に発生したチェルノブイリ原子力発電所の大事故を契機に伝統的な秘密主義的施政の転換を進めたものであった。
 これらの改革はあくまでも主権国家としてのソ連邦の一体性はもちろん、ソ連共産党の一党支配制を護持したままでの体制内改革にとどまっていたうえに、中央計画経済の中途半端な修正はかえって生産活動を混乱させ、物不足に拍車をかけた。
 しかし、ゴルバチョフの外交面での新機軸である「新思考」に基づく同盟諸国への不介入方針により、1989年に始まる連続革命を容認し、同盟諸国の一党支配体制が続々と崩壊していったことは、ソ連体制にも跳ね返り、ソ連自身の一党支配体制の見直しが避け難くなった。
 その点、すでに連続革命前年の1988年の憲法改正により、国の名称由来ながら形骸化していた人民主権機関である最高会議(最高ソヴィエト)に代えて、より西欧式議会に近い人民代議員大会を創設していたが、1990年3月には、複数政党制の導入と大統領制(人民代議員大会による選出)の新設という政体変更に踏み切った。
 これが意味したのは、従来「指導政党」としてソ連共産党が国家権力を独占し―連邦構成共和国内でも各共和国共産党がソ連共産党の指導下で構成共和国を地方的に統治する―、党が国家に優位するという体制構造を改め、党と国家を分離したことである。
 この間、ゴルバチョフは党内に台頭してきたボリス・エリツィンに代表される改革の遅さを批判する急進改革派と改革そのものに懐疑的な保守派との間に挟まれ、急進派を追放することで保守派に配慮していたが、自身が導入した人民代議員大会制度により党指導部を追放されていたエリツィンが代議員に当選・復権し、後にソ連邦解体革命の立役者となるのは皮肉であった。
 こうして、1990年の時点では、ゴルバチョフ改革は体制内改革を超え出て、ソ連体制そのものを揺さぶる方向へ動き出していたが、同盟諸国のような民主化要求デモに直面することはなく、当面は新設の大統領に選出されたゴルバチョフの執権体制が継続されるかに見えた。

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近代革命の社会力学(連載第402回)

2022-03-28 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(1)概観
 前章でも触れたとおり、1989年に始まる中・東欧・モンゴルの連続脱社会主義革命はその渦中で「家元」に当たるソヴィエト連邦(以下、ソ連邦またはソ連と略す)の体制を動揺させる効果を持ち、実際、ソ連邦は1991年末に一挙解体されることとなる。
 この事象は通常「革命」とは呼ばれないが、おおむね1990年に始まるそのプロセスを見ると、リトアニア、ラトビア、エストニアのバルト三国の独立革命に始まり、ソ連共産党保守派のクーデターを阻止した民衆の抵抗を経て、急進改革派指導者によるソ連邦解体宣言に終わる革命的な展開が見られるので、その全過程を「連邦解体革命」と理解することができる。
 そのように見れば、この事象を1989年に始まる連続革命の一環と位置づけることも可能であるが、発生力学が大きく相違し、ソ連邦解体は市民の民主化運動に始まる民衆革命ではなく、連邦構成共和国の独立革命という性格が強いため、区別して扱う意義がある。
 また、その余波に関しても、1989年に始まる連続革命のそれを凌駕するものがある。それは、まさにソ連邦を産み出した1917年のロシア十月革命に始まり、第二次大戦後の世界を形成してきた国際秩序を大きく変革する結果―その意味では世界革命―を導き、その効果は30年を過ぎた現時点でもまだ継続していると言ってよいほどの大きさであった。
 それは社会経済システムから政治制度、社会思想にも甚大な影響を及ぼし、ソ連邦解体後の世界ではソ連体制が体現してきたとみなされていた共産主義やそれに類する思潮のすべてを退潮させ、資本主義市場経済と西欧流のブルジョワ民主主義を疑いない絶対公理とする風潮を作り出した。
 同時に、ソ連体制が共産党による一党支配とマルクス‐レーニン主義の教義によって凍結していた民族主義を解凍し、解き放つ効果も導き、中軸国ロシアを含め、最終的にソ連邦からすべて独立した旧構成共和国内及び共和国間でも深刻な民族紛争を惹起し、その多くが現時点でも未解決または進行中の状況にある。
 さらに、民衆革命ではなかったことを反映して、独立後の旧構成共和国では、バルト三国を除いて民主化が進展せず、程度差はあれ権威主義的で、一部はファシズムの性格を持つ体制が立ち現れ、改めて民衆革命が勃発した諸国もあるなど、負の遺産も多い革命である。

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比較:影の警察国家(連載第57回)

2022-03-27 | 〆比較:影の警察国家

Ⅴ 日本―折衷的集権型警察国家

[概観]

 日本の現行警察制度は戦後改革の結果、戦前の旧内務省に統合された純粋の集権型国家警察制度を改め、地方自治制度の導入に伴い、都道府県に警察を分散する広域自治体警察を基本としている。その点で、これまで見てきた中では、ドイツの制度に比較的近似する。
 しかし、ドイツのような連邦国家ではなく、あくまでも中央集権国家内での地方自治にすぎないため、実質上は国家公安員会に属する中央省庁としての警察庁が全都道府県警察の統括実務機関として機能する国と都道府県の折衷的な集権警察制度である。
 そのため、都道府県警察の警察官は基本的に地方公務員でありながら、東京都警察としての警視庁トップの警視総監はもちろん、各道府県警察本部長をはじめ、警視正以上の上級幹部警察官はいずれも国家公務員の地位を持つという形で、言わば頭は国、胴体は広域自治体というスフィンクスのような奇なる制度となっている。
 この警察庁を統括機関とする全国の都道府県警察は地域警察、刑事警察から公安警備警察まで全警察領域を網羅する自己完結的な総合警察であるが、海上については国土交通省に属する海上保安庁が海の警察として管轄する。
 さらに、海上保安庁を含め、特別司法警察職員という身分を与えられた要員を擁する国家機関(例外的に都道府県部署)が多数あり、それぞれが管轄する特定領域における特別警察機関として機能する。
 また政治警察に関しては、都道府県警察の公安警備部門のほかに、法務省に属する国内保安機関としての公安調査庁が機能的政治警察として存在するほか、防衛関連では自衛隊防諜組織である情報保全隊も防衛機密情報の保持という観点から政治警察機能を持つ。
 このように、日本の警察制度は警察庁が統括する都道府県警察を中核としながら、国の特別警察や機能的な政治警察がその周辺に補完的に散在する形で成り立つが、物量・権限の点で圧倒的な中心は総合警察としての都道府県警察である。
 その統括機関としての警察庁は、同庁上級職員で幹部警察官としての階級をも有する警察官僚が警視総監以下、都道府県警察の本部長職はもちろん、内閣官房を含む他省庁にも出向または転出し、政府中枢に人事面で浸透する形で影の警察国家を形成してきた点に特徴がある。

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近代革命の社会力学(連載第401回)

2022-03-25 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(11)革命の余波
 1989年に始まる連続革命は、あたかも大規模な地震動のような余波をもたらした。中でも最大級のものは、その渦中で、米ソ両首脳の会談により東西冷戦の終結が宣言されたことである。これは東ドイツ革命の結果、東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が打壊されたことにより導かれたグローバルなレベルでの効果である。

 より地域的に見れば、「家元」のソヴィエト連邦自身に及ぼした体制動揺効果が絶大であった。そもそも連続革命は、1985年に就任したソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフが掲げた「新思考外交」により、従来ワルシャワ条約を通じてソ連の同盟諸国を束縛してきた制限主権論(通称ブレジネフ・ドクトリン)を転換し、同盟諸国に自由な路線選択を許したことが一つの背景となっていた。
 この新たな「ゴルバチョフ・ドクトリン」は同盟諸国に革命を直接に促す趣意ではなく、同盟諸国の主権尊重の原則を再確認するものにすぎなかったとはいえ、連続革命に際しても、1968年「プラハの春」の先例を踏襲することなく、ソ連がもはや軍事介入せず放任したことが革命の成功を導いたことは確かである。
 このことが、ソ連自身にも跳ね返ってくることになる。ただ、ソ連では長年の思想統制政策により民衆は政治的な動員解除状態にあったため、同様の民主化要求デモが誘発されることはなかったが、不法な併合によってソ連邦構成共和国として編入された経緯を持つバルト三国では連続革命前から独立運動が隆起しており、連続革命の渦中にそろって分離独立の動きを示したことからソ連邦の崩壊プロセスが始まる。
 崩壊を阻止せんとする共産党保守派のクーデターが民衆の抵抗により挫折したことを契機に、崩壊は一挙加速し、1991年末にはソ連邦の解体が決するが、この「ソ連邦解体革命」には固有の力学が認められるため、本章で扱う連続革命とは区別し、次章で見ることにする。
 類似の事態は、ソ連と同様の社会主義共和国連邦体制でありながら、イデオロギー上の相違から長く対立関係にあったユーゴスラヴィアにも及び、1991年以降、構成共和国の独立宣言が相次ぎ、独立を容認しない連邦中心国セルビアとの間で順次内戦へ突入していった。
 一方、同様にソ連と対立関係にあった中国では、連続革命に先立つ1989年6月、学生の民主化要求デモが頂点に達し、人民解放軍によって武力鎮圧される天安門事件があった。これは連続革命前に起きた中国固有の事象であり、連続革命自体の余波とは言えないが―逆に連続革命に刺激を与えた可能性はある―、連続革命は天安門事件後の中国共産党体制に、社会統制の強化とともに市場経済化政策を加速させる動機付けの効果を及ぼしたと言える。

 以上は、連続革命がマルクス‐レーニン主義を教義とするソ連・ユーゴ・中国という当時の世界に鼎立した三大共産党支配体制に及ぼした余波であるが、類似の体制はアフリカ諸国や一部中東・西アジアにも広がっており、それぞれで一党支配体制の見直しが始まった。
 その多くは革命ではなく、支配政党や最高執権者自身の譲歩策による複数政党制への移行という形で上から実行されたが、後に見るように、東アフリカのエチオピアやソマリアでは内戦・武力革命による体制崩壊が生じている。

 さらに、連続革命は非社会主義体制の独裁国家にも一定の間接的な余波を及ぼしている。後に見る専制君主国家ネパールにおける民主化革命もこの流れに属する。また、革命ではなく、支配政党の譲歩策ではあるが、南アフリカ共和国における白人至上主義体制の人種隔離政策放棄という画期的政策転換も同時代的に生じている。

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近代革命の社会力学(連載第400回)

2022-03-24 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(10)革命の帰結
 1989年に始まった連続革命は最も遅発の国でも1992年までにはひとまず収束したが、この革命の帰結は毀誉入り混じるものとなった。
 まず、経済的下部構造面での最も顕著な帰結は、革命後の各国が雪崩を打つように資本主義市場経済へ合一化していったことである。
 その点、旧東ドイツで最初に民主化運動を担った知識人主体の「出発89―新フォーラム」などは、大量消費と効率至上の西欧式市場経済には否定的で、それとは異なる道を模索していたが、こうした新たな知的模索は革命の波に押し流され、速やかに西ドイツに吸収合併された統一ドイツでは無論、他の諸国でも無条件の資本主義化が革命後の既定路線となった。
 こうして中央計画の社会主義体制から自由市場の資本主義体制への転換が急激に行われたことで、各国の1990年代は程度差はあれ混乱の時代となった。統一ドイツでも、編入された旧東ドイツ地域は統一ドイツの新たな財政経済面での重荷となった。
 中でも、鎖国体制を脱したアルバニアでは、新たな政権党となった民主党のベリシャ政権が独裁化し、かつその下で国家ぐるみの腐敗したねずみ講事件が発生して被害者が続出し(拙稿)、大規模な反政府騒乱を誘発するなど、社会経済の狂乱が激しかった。
 しかし、諸国は社会主義計画経済時代に推進された工業化の遺産を活用しつつ、2000年代までにおおむね安定化を達成し、新興ないし中堅の資本主義国として収斂しているが、資本主義に付きものの格差社会や社会保障の弱化などの負の現象も顕著化し、東欧は西欧への出稼ぎ・移民労働力の給源となる形で欧州の東西不均衡も明瞭となった。
 
 また、政治的な上部構造の面から言えば、社会主義時代の共産党または他名称共産党による「指導」を大義名分とした一党独裁体制は全面的に放棄され、基本的に西欧式の複数政党制による議会政治に転換された。
 それに伴い、完全に解体されたルーマニア共産党を除けば、従前の独裁政党はほぼ一斉にマルクス‐レーニン主義教義を放棄して社会民主主義または民主的社会主義等の西欧左派政党と同等の理念に衣替えし、議会政党としての再生を図った。
 しかし、今日まで政権獲得可能な全国政党として生き延びることができたのは、社会党に改称したアルバニア労働党と人民党に改称したモンゴル人民革命党くらいである。―こうした相違が生じた理由として、アルバニア労働党はイタリア及びドイツに対するレジスタンス・独立回復運動(拙稿)、モンゴル人民革命党も中国からの独立運動にそれぞれ独自のルーツを持つのに対し(拙稿)、それ以外の旧独裁党はいずれも沿革からしてソ連共産党の言わば傀儡的衛星政党であったことが命運を分けたと言える。
 
 いずれにせよ、こうした上下の社会構造の変革を全体として見れば、この連続革命は、言わば「遅れて来たブルジョワ民主化革命」であったと総括することができる。
 振り返れば、連続革命のあった諸国では、第一次大戦後にブルジョワ民主化革命(ドイツ革命)を経験している(東)ドイツ及び遊牧国家としての性格を脱し切れていなかったモンゴルを別とすれば、ブルジョワ民主化革命を経験しないまま、未発達ながらも資本主義工業化の過程にあった。
 それら諸国は第二次大戦後、中・東欧への勢力圏拡大を狙ったソ連の浸透と政治操作によって、社会主義革命を経ないまま、ソ連式社会主義にあてはめられたのであった。―第二次大戦前に社会主義国家となったモンゴルはここでも例外であるが、やはりソ連の影響下でのことである。
 連続革命はそうしたお仕着せの社会主義体制からの脱却として、西欧より周回遅れで発生したブルジョワ民主化革命であったと言える。これは「ブルジョワ革命→プロレタリア革命」というマルクス主義の図式的な革命理論にあてはまらない逆転的なプロセスである。
 この逆転的ブルジョワ革命の前衛的主役は、皮肉にも社会主義体制が比較的注力していた高等教育制度の整備の成果として増加していた学生や知識人などの知識中産階級であり、かつ一党独裁下で党エリート階級が形成されることにより空洞化した「プロレタリア階級国家」で疎外されていた労働者階級も後衛的に参加したのであった。
 一方で、一党独裁時代の党指導部・最高指導者層の大半が貧困な労働者階級出自であったのに対し、革命後の各国では急速に富裕層が形成され、かれらが選挙を通じて政治的な指導者階級を形成するという形で、典型的なブルジョワ民主政治の特徴が発現してきている。
 
 ところで、円卓会議による平和的な体制転換の範例を見せて連続革命にも端緒を与えたハンガリーとポーランドでは、青年民主同盟(ハンガリー)や自主管理労組・連帯(ポーランド)といった民主化運動団体に沿革を持つ政党が近年、国家主義的な転回をきたし、それぞれでファッショ化を警戒させる権威主義的な政権を誕生させている(拙稿)。
 両国で旧民主化勢力が旧社会主義体制下の抑圧を再現するかのような反動現象を見せているのは、その体制転換が民衆革命によらず、旧体制との言わば談合を通じて上から実行されたことで自身の民主的な基盤が脆弱になり、反転現象を招来したためと考えられる。
 こうした両国の新潮流が周辺諸国に対して再びモデルを提供することがあれば、東欧諸国で同種の反動化と権威主義政権の形成が促進されることが懸念される。

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近代革命の社会力学(連載第399回)

2022-03-22 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(9)モンゴル革命

〈9‐2〉草原の国の無血革命力学
 モンゴルは、1989年に始まる連続革命が始動した中・東欧から遠く離れているにかかわらず、同年の12月初旬には最初の民主化要求デモが開始された。中心となったのは、青年知識人であった。同年12月10日の世界人権デーに結成されたモンゴル民主同盟が嚆矢である。
 もっとも、始動の時点ではごく小規模な知識人グループの運動にすぎず、その要求事項もソ連のゴルバチョフ改革への支持や人間の顔をした社会主義といった社会主義の枠内でのより積極的な改革にとどまっていた。
 しかし、同年12月末、アメリカの雑誌インタビューでソ連の著名なチェス選手ガルリ・カスパロフがソ連はモンゴルを中国へ「売る」可能性があるというという趣旨の発言をしたことが伝わったことを一つのきっかけとして、抗議デモが拡大した。
 これは権力外の民間人による憶測発言にすぎなかったが、中ソがモンゴルを売り買いするかのごとき風聞により60年以上に及ぶ衛星国体制下で眠らされていた民族感情を刺激されたことが革命の導火線となったとも言える。
 明けて1990年1月以降、民主派新党の結成が相次ぐとともに、知識人中心の運動に労働者も参加するようになり、デモ行動はハンガーストライキを含む多様な形態を見せつつ、革命的な規模に拡大した。
 転機となるのは、同年3月に首都ウランバートルで開催された10万人集会とそれに続く民主同盟による大規模なハンストであった。ここに至り、支配政党・人民革命党が動き出し、民主勢力との交渉に入ると同時に、裏では治安部隊による武力鎮圧方針に傾いていたとされる。
 しかし、武力鎮圧についてはバトムンフ書記長が断固反対し、命令書に署名せず、かえって書記長以下、党政治局の総辞職を決定した。これによりハンストも停止され、事態は新たな段階を迎えた。人民革命党は長年の一党独裁体制とマルクス‐レーニン主義教義を放棄し、実務的な新指導部は早期の自由選挙の実施を決定した。
 1990年7月の総選挙では、統一性を欠いた民主勢力に対し、長年の組織力を生かし、地方遊牧民の間に支持の強い人民革命党が圧勝した。しかし、党はあえて民主派との連立を選択したため、以後はこの挙国一致政権の下で新憲法の起草が進められ、1992年採択の新憲法に基づき、社会主義を脱したモンゴル国として再編されることとなった。
 こうして、モンゴル革命も「ビロード革命」の名を冠されたチェコスロヴァキア革命に近い無血革命として完了した。これはソ連に次ぐ長さの68年に及んだ社会主義体制の終わり方としては奇跡的とも言える。
 その秘訣として、人民革命党(現人民党)が民主化要求デモに際して柔軟に対応したうえ、遊牧民層の支持を基盤としつつ、議会政治にも速やかに適応したことがある。その点でも、やがてモンゴル革命渦中で起きる「家元」ソ連共産党体制の無残な崩壊とは好対照の事例となった。

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近代革命の社会力学(連載第398回)

2022-03-21 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(9)モンゴル革命

〈9‐1〉ソ連衛星国体制と体制内改革
 モンゴルは、1917年ロシア革命の後、ソ連の支援を受け、活仏ボグド・ハーンを推戴する君主制国家として1921年に中国からの独立を果たした後、24年のハーンの死去後、ソ連をモデルとする社会主義人民共和国として再編された(拙稿)。
 このように近代モンゴルは出発点からソ連との結びつきが緊密であったことから、その後も一貫してソ連体制に忠実な衛星国家としての地位を保った。その点では、社会主義モンゴルはアジア初の社会主義国家であると同時に、第二次大戦後に誕生した中・東欧の親ソ社会主義諸国の先駆けとなるモデル国家ともなった。
 支配政党は、他名称名共産党の性格を持つ人民革命党であった。隣接する中国における1949年大陸革命で中国共産党による社会主義体制が樹立されると、党内には親中国のグループも形成されるが、中ソ対立が深化すると、親中派は追放され、伝統の親ソ路線が純化された。
 実際、人民革命党支配下の社会主義モンゴルの歩みはソ連側指導部の変遷とも見事に符合している。初期は「モンゴルのスターリン」とも評されたスターリン主義者ホルローギーン・チョイバルサンがスターリンの死の前年まで独裁し、その実質的な後継者となったユムジャーギイン・ツェデンバルはソ連の脱スターリン化に歩調を合わせ、1984年に事実上解任されるまで長期政権を維持した。
 ツェデンバル引退の翌年、ソ連に改革派のゴルバチョフ指導部が登場すると、ツェデンバルを継いだジャムビイン・バトムンフは、ゴルバチョフ改革に歩調を合わせ、企業の独立採算制の導入を軸とする経済改革に着手した。
 しかし、この改革はゴルバチョフ改革以上に慎重・保守的なものであり、伝統的な親ソ路線の一環としての政策的な同調の域を出なかったが、遅ればせながら民主化運動を刺激する触媒となるには充分な契機となった。
 革命の出足は中・東欧諸国の連続革命にやや遅れたが、1989年の年末には最初の民主化運動が立ち上がった。その後の過程は中・東欧連続革命の後を追う形となり、長年忠実に追随してきた盟主ソ連に先駆けて、体制崩壊へ導かれていく。

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近代科学の政治経済史(連載第7回)

2022-03-20 | 〆近代科学の政治経済史

二 御用学術としての近代科学

近代科学はその出発点においてカトリック聖界との摩擦を引き起こしたものの、俗権との関係は良好であった。それどころか、近代科学草創期の王侯貴族は新しい思潮である科学に関心を抱き、積極的にこれを擁護し、パトロン的な立場に立つことすらあった。おそらく、科学を統治に利用できる可能性を想定してのことであろう。このことは、近代科学の最初期の発展において強い追い風となった。
 

メディチ家の「実験アカデミー」
 地動説を開陳したがゆえに異端審問により弾圧されたガリレオであったが、郷里のトスカーナでは大公メディチ家から厚遇されており、メディチ家が事実上のパトロンであった。ことに第4代大公コジモ2世によって宮廷数学者に任命された縁で、ガリレオはトスカーナ宮廷の権威を借りて研究活動を展開することができた。
 コジモ2世を継いだ息子の第5代大公フェルディナンドも父親以上に科学に関心を持ち、ガリレオの影響ないし教示により、密閉ガラス温度計を自ら発明したとされている。しかし、彼の時代、トスカーナ大公国は斜陽化し、フェルディナンド自身も統治能力の不足から、斜陽化に拍車をかけた。
 そのため、彼はガリレオの救援に何らの助力もできなかったが、有罪判決を受けた後、郷里での自宅軟禁を許されたガリレオを慰問するなど、フェルディナンドは終生にわたり、ガリレオを後援し続けた。
 フェルディナンドは、ガリレオの没後も、その高弟で、物理学的な意味での真空の発見や流体力学の基本公式トリチェリの定理の発見者として知られるエヴァンジェリスタ・トリチェリの後援者となっている。
 さらに、フェルディナンド同様に科学趣味のあった末弟レオポルドは、1657年、兄とともに学術団体アカデミア・デル・チメント(実験アカデミー)を設立するに至った。これは正式な科学学会としては最も先駆的なものである。
 この学会の特徴は、単なる名誉的な集団にとどまらず、種々の実験器具の開発や測定基準の制定、さらには先駆的な気象観測まで行うなど、名称どおり、実験に徹した実践的な活動を展開した点で、一種の科学研究所の先駆けであり、正確な器具と単位を用いた実験とその結果の公表という科学的プロトコルの開発者でもあった。
 しかし、この学会は長続きせず、共同創立者レオポルドが枢機卿に叙任された1667年に解散された。創立からちょうど10年の節目であった。解散の経緯は複雑であったようであるが、決定的だったのは解散が枢機卿叙任の条件とされたことのようである。そうした政治的経緯には、なお近代科学に敵対的な聖界との相克が透けて見える。

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近代革命の社会力学(連載第397回)

2022-03-18 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(8)アルバニア革命

〈8‐2〉学生・労働者蜂起から遅発の革命へ
 鎖国時代のアルバニアにおける情報統制は周辺の社会主義圏と比較しても各段に厳しく、通常のメディアを通じて西側の情報が伝えられることはなかった。ある程度統制が緩和されたアリア新指導部の時代になっても、周辺諸国での革命は一切報じられなかった。
 しかし、地殻変動的変化はベルリンの壁の打壊前年の1988年にはすでに起きており、西部の町カヴァヤを中心に、非合法な自主管理労働組合の結成や青年による反体制地下活動などが隆起していた。これらはアリア政権下の緩和政策の結果とも言える。
 もっとも、このような動向は直接に革命につながることはなく、1989年度中には大きな変化は起こらなったが、情報化社会の波は小さな鎖国でも押しのけることはもはやできず、1990年1月には、北西部のシュコドラでスターリン像を引き倒すという象徴的な抗議行動が発生したのを機に、抗議行動が拡散していった。
 同年7月には、数千人のアルバニア市民がイタリアをはじめとする外国公館に押し寄せ、出国を要求する事態となり、当局もこれを容認するほかはなかった。これにより、長年の鎖国体制に風穴が開いた。
 一方、首都ティラナではティラナ大学の学生がシュコドラ蜂起の直後から抗議行動を開始、同年12月にはハンガーストライキを実施したことを機に、抗議行動は全国に拡大した。そうした中、同月12日、労働党は一党支配の放棄と複数政党制に基づく総選挙の実施を約束するとともに、ネジミエ・ホジャ未亡人をはじめとする古参の党幹部連を解任した。
 これを受けて、同日には、かつて労働党政治局専属医師としてホジャの侍医も務めたこともあるサリ・ベリシャが率いる新党・民主党が結党されるなど、新党の結成が相次いだ。ベリシャはこれ以後、民主化運動の象徴となる。
 ここまでが革命第一段階であるが、続いて1991年2月、さらなる民主化を求める学生が再びハンストに出たのに対し、90年12月に結成されていた業種横断的な独立労組連合が呼応して蜂起、治安部隊と衝突しつつ、首都のホジャ像を引き倒す象徴的行動を起こした。これは革命第二段階を告げる転換点となった。
 同年3月には公約通り、複数政党制による制憲議会選挙が実施されたが、組織力で優位な労働党が過半数を征して勝利した。こうして選挙の洗礼を受けた労働党政権下で新憲法の制定がなされ、新設された大統領にはアリアが議会によって選出された。
 このように議会政党に衣替えして継続された労働党政権には選挙直後から労働者を中心に抗議行動が発生、91年5月には早期の再選挙を求める大規模なゼネストが発生し、社会機能は麻痺状態となった。そこで、同年6月、労働党はマルクス‐レーニン主義を放棄し、社会党に党名変更することで生き残りを図った。
 しかし、社会党政権が要求に応じて、翌1992年3月に実施された新憲法下最初の総選挙では、如上の民主党が社会党を破って過半数を征し、政権与党となるとともに、アリア大統領が4月に辞任することで、革命第二段階は完結、ひとまずアルバニア革命は収束した。
 こうして、アルバニアには周辺諸国より一足遅れで連続革命の波が及ぶとともに、およそ二年間のプロセスをかけて脱社会主義革命が完了した。代わって、民主党のベリシャが大統領、後に首相として新生アルバニアの指導者となるが、その政権下での新たな混乱については後述する。

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近代革命の社会力学(連載第396回)

2022-03-17 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(8)アルバニア革命

〈8‐1〉独裁者の死と限定改革
 アルバニアは、第二次大戦中にイタリア及びドイツの枢軸占領軍を駆逐したレジスタンスの指導者であったエンヴェル・ホジャを絶対的指導者とする他名称共産党である労働党の一党支配体制がホジャが病死する1985年まで継続された。
  ホジャのスターリン主義的独裁―後年ソ連・中国とも絶縁したため、ホジャ主義とも称される―の時代、初期には立て続けに反共武装蜂起が発生するも、ことごとく鎮圧され、反共勢力は海外を本拠にアルバニア市民の亡命を幇助する自由アルバニア全国委員会の活動に集約されていった。
 ホジャは教条的なスターリン主義者として、スターリン没後におけるソ連と中国の二大共産党支配国家いずれをも「修正主義」と断じて絶縁し、アルバニアを事実上の鎖国下に置いていたため(拙稿参照)、ホジャ死去時のアルバニアは孤立・閉塞した欧州最貧状況にあった。そのため、ある意味で、ホジャの死は平和的な体制転換の僥倖的チャンスであった。
  ホジャの後任の労働党トップ第一書記にはラミズ・アリア政治局員が選出された。彼は長年ホジャの側近であり、すでに1982年から象徴的な元首格である人民会議幹部会議長の職にあり、順当な昇進と言えた。
 アリアはホジャ忠臣として教条主義者と思われていたが、国が置かれた苦境を認識しており、就任するとホジャ主義から徐々に脱却する体制内改革に着手した。その点ではちょうど同時期にやはり前任者の死去を受けてソ連共産党の新書記長となったミハイル・ゴルバチョフに近いものがあったが、その改革はより保守的であった。
 というのも、党内にはホジャ時代からの古参幹部が残存し、中でもホジャ存命中から党幹部を務め、夫にも強い影響力を行使してきたネジミエ未亡人がなお睨みを利かせており、大胆な改革を阻んでいたからである。
 それでも、鎖国下で他の東欧諸国に見られたような対外債務問題を抱えていない利点はあったが、その反面で限界に達していた中央計画による自給体制を改革し、中央計画経済の緩和や価格改革などに取り組んだ。
 他方、1988年には反体制詩人ハヴジ・ネラに対する最後の政治的処刑を断行したが、ホジャ時代の苛烈な政治的弾圧や言論統制の緩和、旅行や観光の自由化なども段階的に進めていった。外交上も、鎖国を脱し、長く対立的だったユーゴスラヴィアなどバルカン半島諸国やイタリアとの関係改善に努めた。
 こうしたアリア指導部による体制内の限定改革策は、一方では党内保守派の間に体制崩壊の危機感を抱かせるとともに、知識人やレジスタンスを知らない戦後生まれの青年層の間にはより根本的な変革への待望を抱かせることになり、言わば新旧勢力による挟撃の状況に陥った。

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近代革命の社会力学(連載第395回)

2022-03-15 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(7)ルーマニア革命

〈7‐4〉救国戦線政府の権威主義化と分裂
 ルーマニア革命の突発的な性格は、革命後に革命政権となった救国戦線評議会(以下、単に評議会という)が革命渦中に突然出現し、一挙に政権を掌握したという点にも表れている。そのため、評議会の設立経緯や政権掌握過程の詳細には今なお不透明な点が残る。
 通常の革命政権は何らかの形で未然に結成され、一定期間の公然もしくは非公然の活動を経た革命組織が担うものであるが、評議会の土台となった「救国戦線」なる組織が未然に結成され、活動していた形跡はなく、評議会議長から革命後最初の大統領となるイリエスクも長く政治活動を封じられ、政治警察の監視下にあった人物である。
 確かなことは、チャウシェスク体制から離反した軍部の支援があったこと、さらに評議会はイリエスクをはじめとする主要幹部の大半が共産党出自であったことである。そのため、評議会が真の革命政権かどうかについて疑念が持たれ、一族独裁体制下で冷遇されていた共産党非主流派による「革命の乗っ取り」がなされたという否定的な見方もある。
 ともあれ、評議会はチャウシェスク夫妻の即決処刑という電撃的な荒療治で独裁体制に区切りをつけ、革命を早期に収束させることには成功した。そのうえで、共産党による一党支配体制を廃止したばかりか、党自体を完全に解散・清算するというドラスティックな政体変更に及んだ。
 一方、評議会自身が政党化することについては当初否定的であったが、1990年2月に救国戦線として政党化し、評議会を暫定国民統一評議会に改称した。そのうえで、同年5月に予定された複数政党制に基づく総選挙には独自候補者を擁立する方針を決めた。
 これに対し、90年3月、革命端緒となったティミショアラ蜂起の参加者を中心に、イリエスクも含む旧共産党幹部や旧政治警察要員の向こう10年間の公職追放や市場経済化の推進などを柱とする「ティミショアラ宣言」が発せられ、これに呼応する抗議のデモ活動が隆起した。革命政権が新たな二次革命にさらされるような新局面であった。
 この反救国戦線運動は、90年5月の総選挙で救国戦線が圧勝、イリエスクが革命後初代の大統領に当選しても同年7月にかけて継続されたが、これに対して救国戦線政府は政府支持の鉱山労働者らを動員して力で鎮圧した。死者も出したこの弾圧事件は後に反人道犯罪として立件されることになるが、裁判所はイリエスクに対する公訴を棄却している。
 このように救国戦線政府は発足当初から権威主義化の傾向を見せたが、92年になると救国戦線内部で脱社会主義化のスピードをめぐる対立などから、これに慎重なイリエスク派と反イリエスク派に分裂したことで、新たな独裁党が出現することは免れた。
 とはいえ、92年選挙ではイリエスク派の新党・民主救国戦線(翌年、社会民主党に改称)が第一党となり、実質上救国戦線政権が維持されたが、96年選挙では敗北、イリエスクも同年の大統領選挙で野党系候補者に敗れ下野したため、ひとまず救国戦線系政権は終焉することとなった。

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近代革命の社会力学(連載第394回)

2022-03-14 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(7)ルーマニア革命

〈7‐3〉革命勃発から大統領夫妻処刑への力学
 1989年のルーマニア革命は、それまで強固に築かれていたはずのチャウシェスク一族独裁体制がわずか一週間足らずで崩壊し、大統領夫妻の処刑に至るという突発的なプロセスを辿り、あたかも休火山が突然破壊的大噴火を起こしたかのような力学を見せた点でも特異的である。
 ルーマニアでは思想・情報統制が東欧社会主義圏でも特段に強力で、ベルリンの壁の打壊も一切報道されず、少なくとも89年12月(以下、断りない限り89年12月の出来事)後半まで、革命につながる動きは見られなかった。
 そうした中、革命の端緒となるのは首都ブカレストではなく、89年12月に西部の都市ティミショアラで発生した民衆蜂起であった。この地方は歴史的に少数派ハンガリー系住民が多いが、政権がハンガリー系人権活動家の牧師を弾圧したことに抗議する集会が大規模なデモに拡大し、16日には政治警察セクリターテの治安部隊と衝突、多数の死傷者を出した。
 しかし、政権側はこの時点では事態掌握に自信を持っており、チャウシェスク大統領は18日から20日までイランを外遊する余裕ぶりであった。しかし、情報統制にもかかわらず、ベルリンの壁やティミショアラの出来事は西側のラジオを通じて伝わっており、首都でも21日以降、抗議デモが発生する。
 21日には、政権側が首都の共産党本部前で10万人動員を称する官製の政権支持集会を開催したが、これは逆効果的な誤算となる。集会は中途から抗議集会と化し、チャウシェスク大統領の演説が妨害される事態に発展したからである。言わば、政権が官製集会に市民を動員したばかりに、かえって民衆の凝集性を高め、革命の導火線を用意したのである。
 他方、革命端緒のティミショアラでは18日以降、労働者らがゼネストに突入、21日までに革命組織が立ち上げられ、軍や共産党を排除して事実上の革命解放区を立ち上げていた。
 ここに至り、ようやく危機感を抱いたチャウシェスクはワシーリ・ミリャ国防大臣に反体制抗議活動の武力鎮圧を命じるが、大臣はこれを拒否した直後に死亡した。拳銃自殺と発表されたが、経緯から政権による暗殺説も流れ、以後、軍部が政権から離反していく。これが政権にとって第二の誤算であった。
 軍部の離反により政権崩壊を予期した大統領夫妻は22日、首都から軍用ヘリコプターで脱出を試みるが、操縦士の偽計により着陸させられた末に、陸路での逃亡中、通報を受けた軍により拘束された。
 大統領の逃亡を受けて、革命派が救国戦線評議会(以下、救国戦線)の結成を発表した。これは事実上の革命政権であるが、その中心メンバーは共産党非主流派であった。議長に就任したイオン・イリエスクもチャウシェスク側近として台頭、後継候補と目されながら、彼を警戒したチャウシェスクにより党中央から排除され、監視下にあった人物である。
 この後、チャウシェスク夫妻にあくまでも忠誠を誓うセクリターテ部隊と革命派・国軍の間で25日にかけて激しい市街戦となった。その間の死者は最大推計で約1300人超とされるが、この事実上の内戦状態に至った経緯には未解明の点が残る。
 そうした中、救国戦線は25日、チャウシェスク夫妻を拘束中の国軍基地で特別軍法会議に起訴した。その結果、夫妻はジェノサイドなどの罪で有罪・死刑判決を受け、即日銃殺刑に処せられた。これは明らかに結論先取りの略式処刑であったが、セクリターテ部隊の夫妻救出作戦を阻止するための緊急措置であり、かつてロシア十月革命時に廃皇帝一家を略式処刑したボリシェヴィキ政権の踏襲であった。
 こうして、ルーマニア革命は独裁者夫妻が処刑されるというまさにロシア革命以来の古典的とも言える流血革命に発展することになった。このような経緯を辿った革命の常として、革命政権自身が抑圧的な体制と化することが懸念されたが、それは現実のものとなる。

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続・持続可能的計画経済論(連載第28回)

2022-03-13 | 〆続・持続可能的計画経済論

第2部 持続可能的経済計画の過程

第5章 経済計画の細目

(5)広域圏経済計画の構成及び細目
 広域圏経済計画は、領域圏経済計画と連動しながら、主として消費に関わる経済計画である。その意味では、世界経済計画を頂点とする経済計画全体系の中で最も末端の需要に関わる特殊な経済計画である。そのような消費計画の中心を成すのは、日常消費財の供給計画である。
 その点、持続可能的経済計画の消費計画においては、既定された廃棄物の量及び質から逆算的に計測された想定上の需要に対応させて、環境的な持続可能性に適合する量及び質の消費財が計画的に供給されることになる。
 そうした廃棄物の量的質的な制御は全世界的な規準をベースに各領域圏において策定する必要があるため、廃棄物規制規準は、世界経済計画及び領域圏経済計画の中で示され、その規準をベースに広域圏経済計画が策定される。その限りでは、広域圏経済計画は持続可能的経済計画全体系上の三次的な計画を構成する部分である。
 その細目としては、基軸となる基本的な日常食糧品を中心に、現代的生活に欠かせない電化製品、調度品、衛生用品といった基幹的消費財の項目ごとに供給計画が提示される。食糧品の中でも、農水産物は領域圏経済計画中の計画Bと連動しているため、領域圏経済計画によって制約されることになる。
 また、電化製品や調度品の中でも大型で粗大廃棄物となりやすい製品については、リユースによる貸与制によって供給される。貸与品と譲渡品の比率は、廃棄物規準によって算出される。
 さらに、広域圏経済計画には、主として災害非常時を想定した余剰生産に基づく備蓄消費財の供給計画も盛り込まれる。備蓄消費財の供給には廃棄物の量的規定規準が適用されない反面で(質的規準は適用)、平常時にはその放出が禁じられることは当然である。

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近代革命の社会力学(連載第393回)

2022-03-11 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(7)ルーマニア革命

〈7‐2〉経済的下部構造の揺らぎ
 1980年代までに、政権世襲も視野に入れた一族独裁体制を固めたチャウシェスクであったが、その時点で階級支配の打破を原点とする共産党の理念から大きく逸脱していたことはさておいても、そうした強固な独裁体制が揺らぎ始めるのは、経済的下部構造の破綻からであった。
 元来ルーマニアではチャウシェスクの前任者の時代から、ソ連式計画経済のもとで工業化に成功しており、チャウシェスクの登場時には西側にも比肩し得る工業生産力を達成していた。しかし、チャウシェスクは、さらなる経済発展の上積みを狙い、経済開発資金として独自外交によって関係を深めた西側諸国からの融資を大幅に増やした。
 西側でも冷戦渦中でのルーマニアの独自路線を好感し、気前の良い融資を続けた結果、ルーマニアの対外債務は短期間で累積し、国家財政を圧迫したため、政権は一転して将来的に外国からの借款を禁ずるとともに、対外債務返済のためにいわゆる「飢餓輸出」政策を導入した。
 この政策のもとで農産物や工業製品などが大量に輸出に回されたため、生産力自体は維持されていても、国内消費に回される物資が欠乏する事態に陥った。これは同時期に消費経済に重心を置く「グヤーシュ共産主義」で一定の成功を収めていたハンガリーとは対照的な事態であった。
 結果、1980年代のルーマニアでは、生産力は維持されていながら戦時下のような食糧配給制が敷かれ、地方には軍の配給隊が巡回する事態となった。こうした物資不足に拍車をかけていたのは、チャウシェスクが権力を握って以来、目玉政策としてきた人口増加政策であった。
 チャウシェスクは宗教上の観点ではなく、人口増が国の繁栄を支えるという教条に基づく純粋に社会計画的な観点から、妊娠中絶と離婚の原則的禁止という策を採用し、人口増を政策的に推進してきたため、80年代には生産力が人口に見合わないアンバランスが生じていた。
 その副産物として、孤児問題が生じた。すなわち多産のために遺棄された子どもたちが孤児院に送られ、多くは劣悪な環境で虐待やエイズ感染などの危険にさらされ、革命後の90年代には孤児院の破綻によりストリートチルドレン化することにもなる。
 一方、チャウシェスク政権は飢餓輸出政策の傍ら、1970年代から「体系化政策」と命名された強制的都市化政策を実施していた。これは元来は農業国で小村が多いルーマニア全土の都市化を推進するという教条的な開発政策であり、結果として農村の破壊が進行するとともに、首都では国の中枢機能すべてを収容する3000室超の壮大な「人民宮殿」の建設などの大規模公共事業により国費の浪費を招いた。
 とはいえ、革命直前の1989年夏には対外債務は完済されており、経済正常化へ向けた新政策への転換も期待される段階にあったが、国民政策の窮乏は覆い隠せるものではなくなっており、強固に見えた体制も下部構造が大きく揺らぎ始めていたのであった。

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