ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

続・持続可能的計画経済論(連載第14回)

2020-02-28 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第2章 計画化の基準原理

(7)自由生産領域の規律原理
 持続可能的計画経済においては、計画経済の対象領域は環境負荷的産業領域に限局され、それ以外の領域は計画外の自由生産に委ねられる。これは、厳密には計画経済というより、計画経済と市場経済の混合経済体制の一種と解釈されるかもしれない。
 こうした混合経済体制に共通する難点は、原理の異なる二種の経済体制を混合することで、機能不全を起こすことである。化学にたとえるなら、水と油のように混ざらずに分離されるならまだしも、混合の結果、毒性の強い物質が発生してしまうような事態が最も懸念すべきものである。
 それを防ぐには、「混合」という発想に替えて、計画外の自由生産領域を計画経済の残余領域として把握することである。すなわち、自由生産領域は計画経済の対象外ではあるが、間接的な形で計画経済の規律が及ぶ領域とみなされるのである。
 その点、自由生産領域といえども、結果的に生産財や重要な消費財、またエネルギー供給に関わる基幹産業分野をカバーする計画化対象領域から生産財や消費財、エネルギーの供給を受けるので、波及的に計画経済が妥当することは必然である。
 さらに、環境的な持続可能性の原理は自由生産領域といえども適用されるのであり、自由生産領域の生産活動も共通の環境法体系によって規律され、環境的持続可能性を害するような「自由」は容認されないことになる。
 ところで、持続可能的計画経済体制は貨幣経済を前提としない経済システムであるから、自由生産領域といえども、当然の貨幣経済ではなくなる。となると、ここでの「自由」とは、単に経済計画の適用を直接には受けないという含意にとどまり、自由生産領域=市場経済となるわけではない。
 理念型としては、完全に無償供給型の自由生産活動も想定できるが、現実にそのような活動がどの程度の規模で行われるかは、人類にとって未知の世界である。経済人類学的な予測として、人類が本質的に交換を欲する生物であるなら、何らの交換も伴わない純粋に利他的な無償の生産活動は、ごく限られたものとなるだろう。
 そこで、貨幣経済に代わって旧来の物々交換慣習が復活してくるなら、それは交換経済の一種であるし、物々交換の対象物が慣習的に定式化されれば、貨幣経済に近づく。そこから、特定の取引界でのみ通用する私的貨幣が発生し、定着すれば、慣習的な貨幣経済の段階へ進む。
 持続可能的計画経済体制において、慣習的な私的貨幣は公式の通貨として認証されることはないが、逆に禁圧されるわけでもない。こうした経済慣習も自由生産領域における私的自治の表出として尊重される。ただし、自由放任ではなく、民事法上の規律は受ける。

コメント

続・持続可能的計画経済論(連載第13回)

2020-02-27 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第2章 計画化の基準原理

(6)物財バランス③:数理モデル
 持続可能的経済計画における物財バランス基準の適用においては、厳密な数理化が必須であり、これを誤ると計画経済では需給関係の失調、しかもどちらかと言えば、需要を満たす供給が停滞し、物不足が恒常化することになりかねない。そこで、物財バランスの精緻な数理化が必要となる。
 その点、従来から、線形計画法の理論が開発されてきた。これは、主として旧ソ連の計画経済体制の中で、限られた資源の最適配分という観点から研究開発された数学的手法で、特にソ連の数理経済学者レオニート・カントロヴィチが、この分野の先駆者であった。
 線形計画法の理論自体は、市場経済下の個別企業の生産計画や輸送計画などにも応用可能であるため、市場経済の西側でも、オランダの数理経済学者チャリング・クープマンスが、一つの商品を生産するために必要な各生産要素の有限的な組み合わせを求めるアクティビティ分析の手法を開発した。
 カントロヴィチとクープマンスの両氏は、それぞれ東と西で別個に研究された業績により、1975年度ノーベル経済学賞を共同受賞しているが、ここで線形計画法を介して、計画経済理論と市場経済理論とが交差する形となったのは、興味深いことであった。
 これらの先駆的な線形計画法理論は、計画経済・市場経済いずれであれ、環境的な持続可能性という観点がまだ埋め込まれていなかった時代の研究産物であるから、これを持続可能的計画経済に応用するに当たっては、さらなる理論的進化を要するであろう。
 その点、線形計画法とは、簡単に言えば、第一次的な式で記述された制約条件の中で最適な目標値を得るための数学的な手法であるから、持続可能的計画経済においては、第一次的な基準原理となる環境バランスの制約条件内で最適な生産目標値を得るうえで応用できるであろう。
 もっとも、線形計画法は、およそ人間が何らかの計画を厳密に数理化する際の計算式を提供する広義の数理計画法の一つであり、数理計画法には、他にも線形計画法に対立する非線形計画法や、組み合わせ爆発を防ぐために最適化問題を多段階に分け、逐次段階を増やしながら解を求めていく動的計画法といった手法もある。
 おそらく環境バランスという予測困難で、複数通りの予測シナリオが想定される制約条件内での最適解を導出するうえでは、線形計画法を基礎としながらも、動的計画法を適用する必要があるかもしれない。いずれにせよ、こうした数理計画法の適用に当たっては、その物的基盤となるスーパーコンピュータや人工知能の利用が欠かせない。
 その点、旧ソ連の計画経済体制では、コンピュータ化の不備が厳密な計画策定の技術的な障害となっていたことが指摘されているが、思うに、これは旧ソ連型計画経済が貨幣経済と国家主導の上に成り立っており、国家による高度なコンピュータ化への投資力に限界があったがゆえであろう。
 それに対して、持続可能的計画経済は本質的に貨幣経済を前提としないので、貨幣による投資ということが必要なく―そもそも問題にすらならない―、貨幣経済下ならば国家であれ、企業であれ、巨額の投資を必要とする高度コンピュータ化や人工知能の活用も、決して困難なことではない。

コメント

近代革命の社会力学(連載第76回)

2020-02-25 | 〆近代革命の社会力学

十一 ハワイ共和革命:ハワイ併合

(2)白人既得権益層と「銃剣憲法」
 1874年の国王選挙によってハワイの新国王となったデービッド・カラカウアは野心家であり、即位すると直ちにアメリカと交渉し、ハワイの基軸産品である砂糖や米の対米輸出自由化を柱とする貿易関税撤廃相互条約(互恵条約)を締結した。
 これによってハワイとアメリカの関係は緊密化したが、その中に「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡し、または貸与しない」という趣旨の条項が含まれたことは、裏を返せば、ハワイがアメリカにだけは領土を割譲することもあり得るとの含意であり、ハワイ併合への道を開く最初の予兆であった。
 しかし、カラカウア自身の野望は、アメリカへの併合ではなく、ハワイを拠点にポリネシアを広く支配する「ポリネシア帝国」を建設することにあった。そのため、彼は農業を支える外国人移民を促進すべく、世界旅行を挙行し、その過程で、明治維新直後の日本を初めて公式訪問した外国元首となった。
 ちなみに、日本側の辞退で実現しなかったものの、カラカウア王は自身の姪と日本の皇族との政略婚を持ちかけており、日本皇室との縁戚関係を築いて、新興の近代日本とも連携するような構想を抱いていたと考えられる。
 一方、アメリカ側では自国農業にとっては不利な互恵条約を更新するに当たって、真珠湾の独占使用権の保障という取引を持ちかけた。ハワイにおける基幹港湾の独占使用はアメリカへの従属を促進する危険があり、カラカウア王は難色を示すも、条約更新のためのやむを得ない代償として、期限付きながらこれを受け入れた。
 この間、ハワイ国内では製糖利権を持つアメリカ白人層の支配力を低下させかねないカラカウア王の移民促進策に不満が高まっていた。また、彼のポリネシア帝国構想も白人層にとっては障害となりかねないハワイアン・ナショナリズムの企てであった。
 こうした危機感を背景に、白人支配層を中心とする政治結社「ハワイアン連盟」が結成される。いかにも土着ハワイ人の結社をイメージさせる名称のこの団体の実態は、1840年にアメリカ人宣教師の子孫が結成した「改革党」の流れを組む白人系政治結社であった。
 「ハワイアン連盟」は同時に、白人自警団組織の「ホノルル・ライフル隊」と連携し、実質的な新憲法の制定となる憲法改正を要求した。こうした武力を背景とする突き上げに直面したカラカウア王は譲歩を余儀なくされ、1887年、新憲法を発布する。
 その制定経緯から「銃剣憲法」の異名を取る新憲法は、当然にも白人既得権益層にとって有利な内容であり、王権を制限し、政府権限を強化する立憲君主制の外形を備えつつ、収入資産による制限選挙制度を導入し、結果として先住民系ハワイ人の選挙権を否認するという民族差別的なものであった。
 カラカウア王はこの憲法に否定的であり、これを廃案にしようと画策するが、1891年、滞在先のアメリカで死去してしまうのである。後継者として、妹のリリウオカラニ女王が即位した。彼女もまた「銃剣憲法」には反対であり、白人既得権益層との対決姿勢を強めた。
 ここまでの展開は、白人既得権益層と王室を中心とする先住ハワイ人勢力の対立状況とみなすこともできるが、これが憲法闘争を越えて、前者の決起による王政廃止の共和革命へと急進展するに当たっては、政治経済上の急激な情勢変化があった。

コメント

近代革命の社会力学(連載第75回)

2020-02-24 | 〆近代革命の社会力学

十一 ハワイ共和革命:ハワイ併合

(1)概観
 近代史上の革命をアジア・太平洋という枠組みで見た場合、フランス・コミューン革命に先立って勃発した日本近代化革命としての明治維新は、アジア・太平洋地域における諸革命の嚆矢と言えるものであったが、これが直接的に周辺アジア諸国に波及することはなかった。
 もっとも、独自の封建的な王朝体制が続いていた朝鮮や中国(清)では日本の明治維新にならった近代化を志向する勢力が現れたが、両国の王朝体制は、少なくとも19世紀の段階では、動揺しながらも王朝自身による限定的な近代化策で体制を護持する余力は残していたため、革命は不発であった(ただし、朝鮮では未遂革命があった)。
 そうした中、革命的な蠕動が最初に起きたのは、南太平洋の島国ハワイであった。従来、地域的な首長の割拠状態が続いていたハワイでは、1810年にカメハメハ王がハワイ史上初の統一王朝を樹立して以来、1840年には近代的な立憲君主制憲法を制定し、独自の近代国家としての歩みを始めていた。
 カメハメハ王朝は1872年に断絶し、国王選挙を経てカラカウア王朝に交代するが、この間も立憲君主国としての歩みを完全に止めることはなかった。
 しかし、帝国主義化した欧米列強がハワイを付け狙う中、欧米系の白人移民が増加し、土地を買い占め、地主階級として発言力を強めていく。特に太平洋を隔てて「対岸」とも言えるアメリカからの白人移民が多く、かれらは急速にハワイにおける外来の近代ブルジョワ階級として実力をつける。
 この米国系移民勢力の背後には、1860年代から太平洋進出の拠点として地政学上有用なハワイの併合を狙うアメリカ本国の見えない力が働いていた。こうした背景のもと、1893年に勃発したのが、ハワイ共和革命である。これによって君主制が廃され、翌年にいったんは「ハワイ共和国」が成立する。
 ところが、この新生共和国はわずか四年で終幕し、1898年にはアメリカの準州としてアメリカ領土へ編入されてしまうのである。最終的には、1959年に正式なハワイ州として合衆国50番目の州に連なる。
 こうして、ハワイ共和革命は、テキサス独立革命に続き、アメリカへの併合を結果し、アメリカの領土を太平洋地域に拡大し、アジアをも射程に入れたその帝国主義的膨張に寄与することになった。
 実際のところ、ハワイ革命は真の革命ではなく、アメリカ本国と結託してアメリカへの併合を企てた親米派白人勢力による実質的なクーデターだったと見ることもできる(その場合、「ハワイ事変」と呼ばれる)。
 しかし、この事変により二つの王朝をまたいでおよそ一世紀続いたハワイ君主制が廃止され、アメリカ合衆国への併合という変則的な形ではあれ、共和制に移行し、以後その状態が今日まで確定した事実にかんがみ、当連載ではこれを革命として扱うことにする。

コメント

共産法の体系(連載補遺)

2020-02-23 | 〆共産法の体系[新訂版]

第2章 民衆会議憲章

(6)憲章の解釈と適用
 
民衆会議憲章は一つの法規として司法的執行を予定した最高法規である。この点でも、国家憲法と重なる部分はあるが、国憲にあっては、憲法裁判所のような特別裁判制度を持つにせよ、司法裁判所による具体的な事件ごとの適用によるにせよ、憲法の司法的執行が消極的になりがちであることとは相違する。
 民衆会議憲章の司法的執行体制は、まず各領域圏のレベルを基礎に構築される。すなわち、民衆会議における常任委員会の一つである憲章委員会が憲章をめぐる裁判機関としても機能する。この点では、憲法訴訟専門の憲法裁判所と類似するが、司法裁判所も具体的な訴訟中で憲章を適用することが可能である。
 憲章委員会はまた、民衆会議代議員の提訴により、公的諸機関の活動が憲章に違反しているか否かを審理し、判決することができるというように、日常的な憲章監察機関としての役割も果たす。
 憲章違反を訴える場合は、まずこれら領域圏レベルの民衆会議に対して提訴することが前提となるが、それでも所期の解決が得られない場合は、世共レベルの司法機関に提訴することができる。
 そうした世共レベルの司法機関としては、違憲審査機関としての憲章理事会と、人権救済に特化した人権査察院の二系列の主要機関がある。
 憲章理事会は、領域圏や領域圏内自治体等の法令が世共憲章に違反しているかどうかについて審理・判決する終審的な権限を持つ。他方、人権査察院は個人や集団に対する具体的な人権侵害行為が世共憲章に違反するかどうかを審理・判決する終身的な権限を持つ。
 いずれの場合も、領域圏内部での司法的解決手段がすべて尽くされていることが提訴の要件となるため、世共レベルの司法機関への提訴は民衆会議憲章の司法的執行体制としては終局的な最後の砦という位置づけとなる。

コメント

共産法の体系(連載第12回)

2020-02-22 | 〆共産法の体系[新訂版]

第2章 民衆会議憲章

(5)民衆会議憲章の内容③
 民衆会議憲章は根本的には世界共同体(世共)憲章の形で表現される条約としての性質を有する民際法であるが、第二次的に領域圏内部の憲章としても表現される。すなわち領域圏憲章である。これは、世共を構成する各領域圏の域内で適用される言わば領域圏の「憲法」である。
 その意味では、現行の国家憲法(国憲)に匹敵する地位を持つ基本法であるが、国家主権に基づく国憲の内容がまさに国によりまちまちであり、言わば国連の憲法である国連憲章も加盟国の憲法に対して何ら制約的な地位を持たないのに対し、領域圏憲章は世共憲章の範囲内で成立する支分憲章であって、世共憲章の具体化法という派生的な地位を持つ。
 従って、先に指摘した世共憲章の三大原則(民衆主権・恒久平和・普遍的人権)に反する内容を領域圏憲法に盛り込むことはできない。その結果、各領域圏憲章は民衆会議制・軍の不保持・人権保障を共通項として共有し合うことになる。
 この点で、世共を構成する各領域圏の政体は、自由と平和を共有しつつ民衆会議を基軸とする会議体共和制に収斂していくため、君主制から共和制まで様々な政体を持つ主権国家の集合体である現行国連に比べて、はるかに均質性の高い共同体として機能するだろう。
 ただし、領域圏憲章は世共憲章に反しない限りで独自の内容を盛り込むことができるから、世共憲章よりもいっそう先進的な規定を設けることは何ら差し支えない。しかし、逆に、世共憲章の内容を後退させるような規定を盛ることは認められない。
 また独自の成文法としての領域圏憲章をあえて持たない不文法主義を採用してもよいが、この場合は世共憲章がそのまま領域圏憲章として自動適用され、その範囲内で実質的な憲章に相当する種々の基本法が制定されることになる。
 ところで、連邦型の連合領域圏における準領域圏や領域圏内の地方自治体も、それぞれの権限事項に関して固有の憲章を持つことができるということが民衆会議憲章体系の大きな特色であるが、それらも世共憲章及び領域圏憲章に沿った内容でなければならないことは当然である。

コメント

共産法の体系(連載第11回)

2020-02-21 | 〆共産法の体系[新訂版]

第2章 民衆会議憲章

(4)民衆会議憲章の内容②
 前回、世共憲章の三つの支柱的原則の一つとして、「普遍的人権」を挙げたが、ここで、この原則について若干の補足をする。
 普遍的人権は、今日でも国際人権規約に集約されている人権の集大成と指摘したが、こうした「国際人権」と「普遍的人権」の間には連続面と切断面とがある。
 まず連続面から見ると、普遍的人権は人一般が享有する基本権の集成であり、それ自体が司法的に適用・執行される法規範となるものである。そうした実際上の法効果の点では、国際人権と連続、共通する。
 しかし、普遍的人権の究極的な根拠は人は生まれながらにして自由・・・という天賦人権論ではない。共産法は自然法や自然権その他の超越的・神学的な観念には依拠しない、徹頭徹尾世俗的な人為法である。従って、普遍的人権の根拠も人類共同的な人権盟約にあり、この盟約に参加しない限り、普遍的人権も発生しない。
 人権条項を含む世共憲章はこうした人権盟約を兼ねるものであるため、同憲章の締結をもって普遍的人権も確定する。とすると、世界共同体に参加しない地域の個人や集団に普遍的人権は適用されないことになるが、個別的に参加を望み、世共域内へ避難した個人や集団には普遍的人権が及び、世共による法的保護を受けることもできる。
 この天賦人権ならぬ盟約人権たるところから、体系上も、自由権より社会権が先行することが帰結される。とりわけ生存の権利である。「生存なくして、自由なし」だからである。世界共同体の設立趣旨は人類の平和的共存にあることからしても、この理は当然である。
 ただし、このことは表現の自由に代表される自由権を軽視することを意味しない。社会権と自由権は普遍的人権における不可分の両輪であり、その間に優劣関係はない。あくまでも、論理的な順序関係である。 
 もう一つの切断面は、普遍的人権は国家主権を前提しないことである。国際人権は国家主権を前提としつつ、国境を越えて人権を押し及ぼそうとする努力の産物であるが、それゆえに国家主権によってその適用を妨害される宿命にある。国家なき世界を前提する普遍的人権にそのような障害物は存在せず、全世界に普く及ぶものである。
 それゆえ、普遍的人権は国家と個人の対峙状況を前提しない。国際人権は国家権力から個人を保護する意義を持つが、共産主義社会では国家という政治体はそもそも存在せず、民衆会議を通じた統治に移行するので、国家と個人の対峙状況はすでに止揚されていることが前提となる。
 民衆会議の統治は本質的に人権を基盤とする統治であって、世共憲章における第一の支柱的原則である「民衆主権」と「普遍的人権」とはコインの表裏関係にあるとも言える。言い換えれば、人権を無視する民衆会議は存在し得ない。

コメント

共産法の体系(連載第10回)

2020-02-20 | 〆共産法の体系[新訂版]

第2章 民衆会議憲章

(3)民衆会議憲章の内容①
 民衆会議憲章は世界共同体憲章(世共憲章)を究極の法源としつつ、領域圏憲章及び各領域圏内の準領域及び地方圏の憲章を包含した統一的な法構造を持つため、その具体的な内容も全体が統一化されることになる。 
 究極的法源となる世共憲章は地球規模における「憲法」であり、ここには世界共通の憲章原則が盛り込まれる。その根本は「民衆主権」である。民衆主権は 民衆が社会の運営主体であることを示す究極の政治原理であり、民衆会議を基軸とする統治機構の基盤となる。
 これに基づき、世共を構成する各領域圏が共通して備えているべき民衆会議の言わばグローバル・ミニマムな制度概要は、世共憲章に付属する「民衆会議規約」に委ねられる。
 次いで「恒久平和」である。これは単なる精神論にとどまらず、世共を構成する領域圏が軍隊を保有し、兵器を製造・配備する権利を全面的に禁止する原則であり、軍備廃絶条約の根拠となるものである。ただし、世共が平和維持のための最小限度の共同武力とその運用に必要な装備を共同保有することは認められ、それらの運用に関する原則的規定も盛り込まれる。
 第三は「普遍的人権」である。これはすでに現在でも国際人権規約A(社会権規約)及びB(自由権規約)の二本立てで一応集成されている国際人権規範の集大成となるが、現行人権規約が国連憲章とは別立てとなっているのとは異なり、新たな普遍的人権規約はA・Bの区別なく一本化されたうえで、世共憲章に統合される。ただし、内容上は共産主義社会の本質に適合したものへと進化する。
 世共憲章は世界の根本法であるがゆえに、原則規定に重点を置いた比較的簡素な構成となり、その内容を具体化する条約の性質を持つ世界法は別途制定される。また、世共それ自身の運営機構の細目を定めた種々の世界法も別途制定される。
 ところで、この世共憲章の制定・改正は世共総会の地位を持つ世界民衆会議において行われるが、その議決要件は代議員の五分の四の出席かつその三分の二の賛成によるものとし、民衆の直接投票は行わない。
 このような改正手続きのあり方は原理的な理由というより、全世界規模での憲章改正の直接投票が事実上困難であるという技術的・実際的な理由によるものである。その代償として、議決要件を上述のように厳格にする。

コメント

近代革命の社会力学(連載第74回)

2020-02-18 | 〆近代革命の社会力学

十 ブラジル共和革命

(5)寡頭的共和制への収斂
 ブラジル第一共和政は1889年の革命から、内乱・内戦を乗り切り、10年ほどでようやく安定を見たが、その結果出現したのは、主としてコーヒー農園を経営する大農場主を主要な支持基盤とする寡頭的共和制であった。そのため、この体制は揶揄を込めて「カフェオレ政治」とも呼ばれる。
 このような体制の性格がはっきりと姿を現したのは、第4代大統領カンポス・サーレスの時である。サーレスは法律家であると同時に、コーヒー農園主でもあり、内乱・内戦の不安定な時期を乗り越え、第一共和政を安定させるにはうってつけの人物であった。
 ブラジル共和制はアメリカ合衆国型の連邦共和制を採用していたため、元来州の自治権は強いが、サーレスはこうした分権体制を一層強め、州の内政自治権を大幅に強化した。これにより、政治の実権は各州知事に握られ、連邦政府は各州地主層を代表する州知事の談合の場となった。
 中でも、サーレス自身が出自したコーヒー生産の中心地サンパウロ州と畜産・酪農の中心地ミナスジェライス州が二大有力州となり、サ―レス以後の大統領は一部例外を除き、サンパウロ共和党またはミナスジェライス共和党のいずれかから選出されることが慣例として定着した。
 反面、共和革命で実働部隊を担い、最初の二代の大統領を輩出した軍部の地位は低下し、以後、1930年の軍事クーデターで第一共和政が終焉するまで、軍部が政治の前面に立つことはなかった。その点、周辺南米諸国では軍部の力が強く、しばしば軍人大統領が独裁したのとは異なる展開を辿ったのである。
 こうして、ブラジル第一共和政では、大規模農場主・牧場主の寡頭支配を軸とする共和制の上部構造が農業経済を軸とする経済的下部構造を保証するという典型的な農業資本主義が構造化されていった。その点で、唐突なクーデターに始まったブラジル共和革命は、事後的にブルジョワ革命として確定したと言える。
 この「カフェオレ政治」においては、農園労働者として働く農民は従属的地位に置かれていた。かのカヌードスの反乱も王党派の蜂起という側面以上に、農民の自治的共同体による反乱という性格が強かったのであるが、前回見たように、第一共和政はこれを絶滅作戦により力で粉砕したのであった。
 しかし、カヌードスの反乱が悲惨な失敗に終わっても、北東部を中心に農民層の抵抗は残存し、20世紀に入ってからも千年王国思想に触発された農民大反乱が勃発したほか、大地主に対する略奪を働く匪賊の活動などが見られた。しかし、こうした農民層の抵抗は、知的には十分練られておらず、中近世的な農民一揆の域を出ないものにとどまり、メキシコのように革命の契機とはならなかった。
 他方、帝政時代のように再び逼塞していた軍部内では、青年将校を中心に「カフェオレ政治」への不満が高まり、1920年代以降、しばしば武装反乱事件を起こしたが、これも一般民衆からは遊離した不満分子の反乱にとどまり、革命の機運は生じないままであった。
 最終的には、1929年大恐慌でブラジルのコーヒー産業が大打撃を被ったことが、まさに「カフェオレ政治」の命取りとなり、軍の不満分子と都市で成長してきた労働者階級の支持を背景とする軍事クーデターにより、第一共和政は終焉、以後、ヴァルガスのファシズム体制へ向かった。

コメント

近代革命の社会力学(連載第73回)

2020-02-17 | 〆近代革命の社会力学

十 ブラジル共和革命

(4)打ち続く内乱・内戦
 ブラジル共和革命はごくあっさりと成功し、革命から二年後の1891年にはブラジル初の共和制憲法が発布された。この憲法は主にアメリカ合衆国憲法を参照したもので、アメリカにならった分権型の連邦共和制が採択され、当時の南米にあっては民主的な内容を備えていた。
 ただ、この革命の背後にあった奴隷制農園主が望んでいた奴隷制の復活は結局、実らなかった。共和主義の知識人が主導した憲法制定過程では、反近代的な奴隷制を南北両アメリカ大陸でブラジルだけが維持するということはもはや時代が許さなかったのである。
 しかし、かれらが新生共和国に対して反乱を起こすことはなかった。かれらはポスト奴隷制の時代に素早く適応し、解放黒人奴隷を中心に多数の農業労働者を雇用する大農園主として自己再編し、第一共和政(しばしば旧共和政とも呼ばれる)の最大支持基盤となった。
 こうして滑り出しは順調すぎるほどに見えた第一共和政であったが、憲法発布後に、担い手を替えた王党派の反乱が相次ぎ、初期およそ十年は政情不安が打ち続くことになるのである。
 軍事クーデターの形を採ったため、革命の立役者となったデオドロ元帥が流れで初代大統領に選出されたが、彼は独裁志向が強く、しばしば憲法を軽視し、議会と対立した。それはデオドロ大統領が議会を解散したとき頂点に達し、海軍の反乱を引き起こした。
 その結果、デオドロは一年もたず辞任に追い込まれ、副大統領でやはり軍出身のフロリアーノ・ペイショトが大統領に昇格した。しかし、ペイショトは大統領が辞任した場合、二年以内の再選挙を義務付ける憲法規定に反して、大統領の座に居座り、前任者同様に独裁化したため、海軍が再び反乱を起こした。
 実のところ、軍部は一枚岩ではなく、海軍には王党派が多く、この第二次海軍反乱は幅広い王党派の支持を受け、93年から94年にかけて事実上の内戦に発展しかけたものの、ペイショト政権はどうにかこれを鎮圧した。
 海軍反乱と並行して、93年から95年にかけては、ブラジル南部で王党派が武装蜂起し、本格的な内戦となった。これには海軍将校のほか、一部反体制的な共和主義者や隣国ウルグアイの志願兵も加わり、大規模な内戦となった。
 反乱勢力は隣国アルゼンチンの一部や上述したウルグアイの勢力の支援を受けていたから、この内戦は不完全ながらも革命干渉戦争の性格をも持っていたと言える。
 この内戦渦中、ペイショトは大統領を辞任、94年3月の大統領選挙で、文民出身のプルデンテ・デ・モラエスが当選し、ブラジル史上初の直接選挙による文民大統領が誕生した。彼は就任後間もなく、反乱勢力と和平協定を急ぎ、内戦を終結させることに成功した。
 しかし、平和も束の間、今度は北東部で、宗教的な共同体カヌードスを形成していた3万人規模の集団が反乱を起こした。この集団はカトリック信仰をベースとしたカルト的な組織で、宗教性が強いものの、政治的には君主制の復活を求めた点では、王党派の一種であった。
 カヌードス民兵は農民で構成されていた。そうした素人集団にもかかわらず、信仰で結びついた集団は強力で、政府軍は鎮圧に手間取る。モラエス政権は最終的に絶滅作戦を選択し、カヌードス構成員2万5千人あまりを殺戮して、勝利を得た。この犠牲者数は、ブラジル史上の内戦中では現在に至るまで最大規模のものである。
 1897年に終結したこの凄惨な内戦を経て、ブラジル第一共和政はようやく安定に向かう。この後、王党派は、1902年にも当時推定皇位継承権者だったイザベル元皇女の次男ルイス・マリアを擁立して王政復古を狙う陰謀を企てたが、失敗に終わった。

コメント

世界共同体と伝染病対策

2020-02-16 | 時評

ウイルスは独立の生物ではないため、自力で生きられず、人間やその他の生物にとりついて自己複製する。従って、人間にとりついたウイルスが人間と共に国境を越えて移動拡散するときは、国境線が対策上の障壁となる。このところ、伝染病の国際的流行事態のつど、そのことが課題となっている。

その点、国境線という概念も物理的な装置も取り払ってしまう世界共同体の下で、伝染病対策はどうなるのか、想定してみると━

まず、そもそもウイルスが大量的な観光客の人流に伴ってグローバルに拡散するということが、起きなくなるかもしれない。というのも、観光業という20世紀以後の資本主義における典型的な第三次産業が成り立たなくなるだろうからである。

貨幣経済が廃される世界共同体の域内では、ホテルなどの宿泊施設を含め、観光客目当ての金儲けはできなくなる。となると、いったい誰が無償で他人の団体旅行をセットしたり、宿泊施設に泊めて接客などするだろうか。結果として、海外旅行は個人/家族単位でセットし、現地でも一部の公共宿泊施設を利用する形態が主流化するだろう。

世界共同体域内に国境線に相当するものはないので、原則として、域内の移動は完全に自由であるにもかかわらず、団体旅行が減少すること、宿泊施設が限られることで、海外旅行者数も激減するに違いない。

とはいえ、種々の海外業務のために人が移動することは避けられず、世界共同体の下でも伝染病のグローバルな流行は起こり得る。そうした場合、当然グローバルな緊急対策が必要になるが、世界保健機関のような民際機関は主権の観念に邪魔されることなく、全世界共通の効果的な対策を勧告し、世界共同体を通じて迅速に実施することができるようになる。

それに加えて、世界共同体の大陸的地域区分としての汎域圏のレベルでも、共同運営の医療保健ネットワークが稼働し、感染症医療センターのような医療機関も直営できるから、感染者の隔離的治療態勢は高度に整備されるだろう。

さらに、世界共同体を構成する領域圏における計画経済体制の中では、非常時に備えた余剰生産と物資備蓄が行われるので、現在すでに発生しているマスクの欠品状態や自宅待機者向けの糧食の欠乏といった事態など、需要の突発的急増や物流の停止により必需物資が欠如するような市場経済の最弱点は解消されるだろう。

コメント

世界共同体憲章試案(連載第28回)

2020-02-15 | 〆世界共同体憲章試案

第16章 特別人道法廷

〈意義〉

【第92条】

1.特別人道法廷は、人権査察院の決定に基づき、人道に反する罪に関与した個人及び団体の責任を追及するために特設される弾劾法廷である。特別人道法廷は、この憲章に定めがあるもののほかは、付属の規程に従って任務を行う。

2.特別人道法廷の設置場所は、中立性や地理的条件その他の事情を考慮しつつ、人権査察院の決定でこれを定める。

[注釈]
 特別人道法廷は、人権査察院とは異なり、個別事案ごとに設置される非常置型の司法機関である。この法廷が扱う人道に反する罪とは、既存の国際法におけるジェノサイド(大虐殺)とそれ以外の人道に対する罪を包括した犯罪概念であり、その定義規定は別途制定される特別人道法廷規程で定められる。

〈構成等〉

【第93条】

1.特別人道法廷の判事は、審理対象となる当事者が属する世界共同体構成主体を除く構成主体の中から抽選された構成主体が各1人ずつ選任する9人の判事及び補欠判事によって構成される。

2.判事及び補欠判事は、原則として、判決まで専従する。

3.特別人道法廷には、予審部及び検事局を置く。その詳細は、付属の規程でこれを定める。

[注釈]
 特記なし。

〈審理の対象〉

【第94条】

1.特別人道法廷における審理の対象となるのは、次の各号に該当する当事者である。

① 人道に反する罪に関与した者のうち、主唱者、計画者、実行指揮者、実行管理者及び末端実行者
② 人道に反する罪に主導的に関与した政党その他の集団

2.第1項に定める各関与形態に該当しない関与者は、その者が属する世界共同体構成主体の司法機関に送致する。

[注釈]
 人道に反する罪は大規模な集団犯罪であるから、全関与者を特別人道法廷で審理することはできず、第1項に掲げるような中核的な関与者及び関与集団にしぼって審理対象とするものである。

〈身柄の拘束〉

【第95条】

1.特別人道法廷の予審判事は、被疑者の身柄を勾留するため、世界共通令状を発付することができる。

2.前項の令状を執行された被疑者は、平和維持巡視隊が管理する拘置所に勾留される。

3.被拘留者の保釈は認めない。ただし、傷病のため入院加療を要するときは、勾留は停止される。

[注釈]
 特記なし。

〈判決及び執行〉

【第96条】

1.特別人道法廷の審理の結果、有罪と認定された者は、次の区別に従って処分される。

① 主唱者、計画者及び実行指揮者並びに実行管理者は、致死的処分に付する。ただし、改悛の状が著しい実行管理者は、次号本文の例による。
② 末端実行者は、終身間の僻地労役処分に付する。ただし、改悛の状が認められない者は、前号本文の例による。
③ 人道に反する罪に主導的に関与した政党その他の団体は、強制解散及び資産没収並びに再建禁止の処分に付する。
④ 公的機関が人道に反する罪を主導した場合、特別人道法廷は、再建禁止処分に代えて、適格な勧告を伴う再建命令を発することができる。

2.第1項第1号の処分は、狙撃によって執行する。狙撃は、規則に従い、平和維持巡視隊の要員がこれを行う。

3.第1項第2号の処分は、予め協定を締結した世界共同体構成主体の僻地において、当該構成主体の適切な管理機関に委託して執行される。

[注釈]
 特別人道法廷は単なる刑事法廷ではなく、個人的犯行を超えた集団的反人道犯罪の根絶を目指すある種の保安法廷であるから、その判決も制裁としての刑罰ではなく、再発阻止を徹底する根絶処分として言い渡される。

コメント

世界共同体憲章試案(連載第27回)

2020-02-14 | 〆世界共同体憲章試案

第15章 人権査察院

〈意義〉

【第89条】

人権査察院は、世界共同体憲章に定められた基本的人権を侵害された当事者を法的に救済する世界共同体の主要な常設司法機関である。人権査察院は、この憲章に定めがあるもののほか、付属の規程に従って任務を行う。

[注釈]
 現存国際連合では、人権理事会なる政治的な機関が加盟各国の人権査察を定期的に実施する体制が採られている反面、人権裁判所のような当事者救済型の司法機関が欠けているため、国際的な人権保障体制は政治化する一方、強制力を伴う人権救済がなされない。それに対して、世界共同体の人権査察院は常設司法機関であり、当事者からの直接的な審査請求を受けて、個別事案の救済を図る点に特長がある。

〈構成等〉

【第90条】

1.人権査察院は、世界共同体を構成する領域圏及び直轄自治圏の中から抽選された15の構成主体が各一名ずつ同時に選任する判事及び補欠判事によって構成される。

2.判事及び補欠判事の任期は五年とし、再任されることはできない。判事が任期途中で退任し、または執務不能により停職した場合、補欠判事は当該判事の残任期のみを務めることができる。

3.審査事案のいずれかの当事者が属する世界共同体構成主体に属する判事及び補欠判事は、審理及び審決に参加することができない。この場合は改めて抽選を行い、本項第一文の構成主体以外に属する臨時の判事及び補欠判事を選任しなければならない。臨時の判事及び補欠判事は、審決後に退任する。

4.判事は人権査察院の所在地に常駐しなければならない。

5.任期満了により退任した判事及び補欠判事が属する構成主体は、以後、二期を経なければ判事及び補欠判事の抽選に参加することはできない。

[注釈]
 人権査察院は、抽選された15の世界共同体構成主体から選任された15人の判事(及び同数の補欠判事)によって構成される

〈手続き〉

1.人権査察院は、世界共同体籍を有する個人または世界共同体構成主体のいずれか一つに籍を置く団体が、その所属する構成主体内の司法機関による適切な救済を得られなかった場合に、当該当事者の審査請求に基づいて審査を開始する。

2.前項の規定にもかかわらず、緊急性が高い場合は、当事者は直接に人権査察院の審査を請求することができる。

3.前二項の審査請求を受けた人権査察院は、公開の予備審査を開始する。予備審査では、必要に応じ、当事者または証人を召喚することができる。

4.予備審査の結果、本審査の必要があると認めるときは、事案を本審査に送致する。本審査の必要がないと認めるときは、請求を却下する。

[注釈]
 人権査察院の審査は、世界共同体の各構成主体内の司法機関による審理を受けることを前提とする二段階主義を採るが、緊急性が高い場合は各構成主体内の司法機関を飛び越えた跳躍審査を認める。

〈審決及び執行〉

1.人権査察院の審決は、15人の判事の多数決でこれを行う。ただし、多数意見に反対する判事は、個別に少数意見を示すことができる。

2.人権侵害の加害者に対する人権侵害行為の差し止めを命ずる審決は、強制的に執行される。その目的のため、人権査察院は審決執行者を派遣する。

[注釈]
 人権査察院の審決は、基本的に人権侵害行為の即時または将来の差し止め命令である。命令は、審決執行者を通じて加害当事者に強制執行される。加害者が構成主体の公的機関であっても、同様である。

〈特別人道法廷の設置決定〉

【第91条】

人権査察院は、審査の結果、当該事案が人道に対する罪に該当すると判断するときは、審決をもって、特別人道法廷の設置を決定することができる。

[注釈]
 審査事案が、単なる人権侵害にとどまらず、反人道犯罪に該当するときは、弾劾裁判の性格を有する特別人道法廷の設置を決定する。

コメント

近代革命の社会力学(連載第72回)

2020-02-12 | 〆近代革命の社会力学

十 ブラジル共和革命

(3)1889年11月共和国宣言
 ブラジル帝国に引導を渡す共和革命は、1889年11月15日、突然のように起きたが、予兆は1870年代から生じていた。三国同盟戦争が終結した1870年には、一部知識人グループによる「共和主義綱領」が発せられている。これを受けて、1873年に共和主義者の大会が開催され、以後、多くの共和主義政治クラブが設立される。
 ブラジルの共和主義運動の特徴は、オーギュスト・コントの実証主義哲学に触発されていることで、1881年には「ブラジル実証主義教会」なる一種の宗教結社まで結成されるほど、実証主義が疑似宗教化していた。それまで一部知識人の運動として事態を静観していたペドロ2世の帝国政府も、1886年になって、ようやく主要な共和主義者を検挙するという抑圧で牽制した。
 しかし、ブラジル大衆の間で、なお皇帝は崇敬されており、共和主義が大衆の間に浸透することはなかった。むしろ、皇帝、ひいては皇室への反感を強めていたのは、当時のブラジルにおける主要なブルジョワ階級であった奴隷制農園主層であった。
 前回も見たように、ペドロ2世は近代的な奴隷制廃止論者であり、農園主層の反発も配慮して漸進的な奴隷制廃止を進めようとしていたところ、娘のイザベル摂政皇女がより急進的な奴隷制全廃を進めたことで、農園主層の怒りを沸騰させた。これが革命の直接的な動因となった。
 かれらは思想的な共和主義者というよりも、奴隷制の維持という経済的権益に主たる関心があり、奴隷制廃止が撤回されるなら、帝政護持に回ることもあり得たが、次期皇帝候補がイザベル皇女以外にいない状況では、帝政廃止と共和制移行がかれらにとって唯一の利権保持の手段だったのである。
 しかし、武力を持たない農園主層だけで革命を実行することは不可能であるから、かれらは軍部に接近した。ブラジル帝国ではかなり厳格な文民統制が敷かれており、軍部は皇帝と文民政府に従属し、将校らは原則としてメディアで意見を表明することも禁じられていた。
 三国同盟戦争では帝国のために多くの犠牲を払いながら、十分に社会的な尊敬を受けることなく、束縛されている状況に不満を募らせた士官学校生や青年将校の間には、実証主義哲学が浸透していった。
 このような状況下で、農園主と軍部の利害が一致を見たため、急速に革命の機運が高まった。しかし、民衆蜂起に期待することは如上のような事情から不可能であったので、軍事クーデターの手法を採るほかなかった。その指導者に目定められたのが、軍の長老デオドロ・ダ・フォンセカ元帥であった。
 三国同盟戦争の英雄でもあったデオドロ元帥は元来、王党派であり、当初は革命の指揮を執ることを渋ったが、おそらくは軍人の地位の向上という口上や初代大統領の地位の保証で革命派に説得され、決起を承諾した。こうして、デオドロ元帥に率いられた国軍部隊が帝国政府を転覆し、帝政廃止を宣言した。
 あまりにも電光石火であっさりと決まったため、しばしば単に「ブラジル共和国宣言」と呼ばれることもある政変であるが、完全に無血というわけにはいかなかった。軍部も共和派の一枚岩ではなく、「宣言」の直後から翌年1890年初頭にかけて、一部の王党派部隊が反革命反乱を起こし、参加将兵が相当数処刑されている。
 しかし、こうした王党派の反乱は散発的なものに終わり、王党派の組織化はなされなかった。それはペドロ2世自身、健康を害しており、権力維持の意欲を喪失していたため、革命に抵抗することなく、退位とブラガンサ本家が支配するポルトガルへの一族亡命の道を選んだからである。
 こうして、ブラジル共和革命はひとまずあっさりと成功し、制憲会議を称する臨時共和国政府首班にはデオドロ元帥が就任した。しかし、臨時政府は革命の実働部隊を担ったデオドロら職業軍人と革命の背後にあった農園主層らのブルジョワ階級、さらには共和主義知識人を含めた寄り合い所帯であり、多難が予見されるものであった。

コメント

近代革命の社会力学(連載第71回)

2020-02-11 | 〆近代革命の社会力学

十 ブラジル共和革命

(2)ペドロ2世の革新的治世
 ブラジル帝国第2代皇帝にして最後の皇帝ともなるペドロ2世は、父帝から譲位されて帝位に就いたときはわずか5歳であったため、当然にも摂政なくしては統治できなかった。しかし、ペドロは早熟だったようで、14歳の時には親政を開始した。
 父帝の在位は1822年の建国から31年の生前譲位までであったから、結局、ブラジル帝国の存続期間の大半はペドロ2世の治世であり、ブラジル帝国≒ペドロ朝と言っても過言でない。この帝国の特徴は、政体上は「帝政」ながら、一足先に独立し、共和制を確立していた周辺の旧スペイン植民地諸国より自由であるということだった。
 そのうえ、ペドロ2世はブラジル生まれであり、本家が支配するポルトガルをはじめ、まだ専制的な要素を残した欧州君主制社会を知らずに育ったため、欧州的な君主像にとらわれることなく、新しいスタイルの統治を試みることができた。
 といっても、ペドロは思想上は確固とした西欧近代主義者であり、未開発状態だったブラジルを近代国家として成長させることに並々ならぬ決意で臨んでいた。工業化や鉄道敷設などの公共事業のほか、電話やタイプライターなど当時は「最先端」だった機器を自ら率先して使用してみせ、国民の範とした。
 一方で、好戦的なナショナリストとしての顔を見せたのは、治世中期のいわゆる三国同盟戦争である。この戦争の経緯は複雑であるが、緩衝国ウルグアイをめぐって、アルゼンチンを加えた三国同盟を結成してパラグアイを壊滅させた戦争で、ブラジルは勝利したとはいえ、数万人の戦死者を出す犠牲を払った。
 6年に及んだこの戦争の影響は大きく、経済的には戦費を英国から借款したことで、対英従属性が強まった一方、戦勝に貢献した軍の近代化と政治的な発言力の強化という権力構造の変異をもたらした。このことは、後に軍主導での共和革命の伏線となる。
 さしあたり、戦争が終結した1870年時点でのペドロ2世の権力基盤は安定であった。しかし、共和制アルゼンチンとの同盟関係から、軍部を中心にこの頃から共和思想が浸透し、これがオーギュスト・コントの実証主義哲学の流行と結ぶ形で、後の共和革命の思想的な支柱を成すようになったと見られる。
 しかし、ペドロが最も革新的だったのは、奴隷制廃止政策であった。奴隷制は南米周辺諸国ではすでに廃止済み、北米でもリンカーンによる奴隷解放宣言により奴隷制は終焉していたが、コーヒープランテーションの大規模農園制に支えられたブラジルでは、なおも奴隷制は経済の根幹であった。
 奴隷制護持論が根強いことを承知のペドロとしても、漸進的な廃止政策の道を選び、1871年に、さしあたりは奴隷女性が産んだ子どもを自由人とする限定的な奴隷解放から着手した。しかし、治世晩期、しばしば摂政を務め、存命中の嫡男のいないペドロから次期皇帝に指名されていたイザベル皇女は父よりも進歩的で、1888年、摂政として奴隷制を全廃する黄金法に署名した。
 この時点での奴隷制廃止は両アメリカ大陸でも最後列であり、アメリカ全体ではもはや特に進歩的とも言えなかったにもかかわらず、保守的な奴隷農園主たちは強く反発した。奇妙なことに、このような奴隷制護持論の反動が、共和革命の直接的な動因となるのである。

コメント