ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載補遺23)

2022-09-30 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(2)朝鮮王朝晩期の情勢
 14世紀末に創始された朝鮮王朝は、儒学教理を精神的な支柱としつつ、創始者・李成桂の子孫が歴代国王を世襲し、両班階級を支配層とする体制を一貫して保持し、王を廃位する政変は経験しながらも、王朝交代も革命も経験することなく、数百年にわたり安定的に存続していた。
 その秘訣は、江戸時代の日本とも似て、日本や琉球との通商関係を例外とする事実上の「鎖国」政策と中国歴代王朝への服属によって定常的に体制を維持していくという徹底した保守主義にあった。
 しかし、甲申事変が発生した1880年代の朝鮮王朝は充分な指導力を持たない最後の国王・高宗の治世下、西洋列強や明治維新後の日本からの圧力を受け、長い王朝史の中でも特に混乱を極めた晩期に当面しようとしていた。
 それに先立ち、1870年代から、ともに野心的な国王父君・李昰応(大院君)と国王正妃・閔玆暎(閔妃)が権力闘争を繰り広げていたが、両派の争点の一つは、西欧列強に対する開国か攘夷かという対外政策にあった。その点で、幕末期の日本とも類似し、列強の帝国主義的膨張に直面した「鎖国」体制晩期の動揺を示していた。
 朝鮮では大院君勢力が攘夷政策を追求したのに対し、閔妃勢力は開国政策を志向するという対立軸ができていたが、1873年の政変で大院君の追い落としに成功した閔妃勢力は、明治維新後、新体制を樹立した日本との修好条規の締結を皮切りに、西洋列強との通商条約の締結に進んだ。
 特に日本との関わりは強化され、日本の支援で軍隊の近代化が進められていたところ、劣遇されたことに不満を持つ封建的な旧式軍隊を扇動する形で、復権を狙った大院君が1882年にクーデターを起こし(壬午事変)、一時的に権力に返り咲くが、閔妃勢力は清国を頼り、復権大院君政権を打倒し、大院君は清国に連行された。
 こうして、以後は閔妃政権の時代となるが、清国を頼ったためにかえって清国への従属が強まり、中朝商民水陸貿易章程をもって朝鮮が清国の属国であることが明定される一方、壬午事変では朝鮮在留日本人も標的にされ、多数の日本人が殺害されたことから、改めて懲罰的内容を持つ済物浦条約が締結され、邦人保護を名目とした日本軍の朝鮮駐留を認めさせられた。
 このように清国と日本の挟み撃ちのような状況に陥ったことは、権力を取り戻した閔妃政権の自立的な政策遂行を制約し、権力維持のために清国と日本、後には極東に触手を伸ばすロシアの間を浮動する日和見主義に赴かせた。
 内政面では、閔妃政権は外戚門閥が権力と利権を独占する19世紀の朝鮮を特徴づけた勢道政治の流れの中にあり、元来はマイナーな一族であった外戚・閔氏による支配が行われていた。
 その中心にあったのは、言うまでもなく閔妃であったが、彼女は巫術に傾倒し、関税収入を含む莫大な国費を祭祀に充てるなどの専横が見られた。結果、財政難をまかなうため、悪貨鋳造策に走ってインフレーションを招くなど、社会経済の混乱も深まったことは甲申事変を誘発する動因となる。

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近代革命の社会力学(連載補遺22)

2022-09-29 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(1)概観
 東アジアでは日本の近代化革命である明治維新の直接的な余波事象はしばらく見られなかったが、朝鮮は1876年の日朝修好条規の締結以来、開国外圧となった日本との関わりが強化される中、長く続いてきた中国王朝(清朝)への封建的服属関係を維持するか、これを清算して独自の近代化を図るかで国論を二分する状況が生じた。
 この論争は、清朝との関係護持を主張する事大党と、清朝からの自立を図る独立党の党争として顕現してくるが、ここで言う「党」とは近代的な意味での政党ではなく、政見に基づいた政治的派閥を意味している。
 後者の独立党は日本遊学経験を持つ科挙官僚・金玉均に指導された両班階級の若手知識人を主体とする集団であり、この集団が日本軍の一部将兵の支援を受けつつ、事大党を排除して新体制を樹立するべく決起したのが1884年の甲申事変である。
 この決起は清朝軍の迅速な鎮圧により完全な失敗に終わったため、通称においては「革命」と称されず、単に「事変」(または「政変」)と称されているが、その内実は明治維新に範を取った革命(甲申維新)となるはずのものであった。そのため、ここでは未遂革命の事例として扱う。
 そのような視点で甲申事変を捉え直すと、それは君主制を打倒する共和革命ではなく、あくまでも君主制枠内での近代的開化を目指す革命であったと同時に、清朝への服属状態を脱することを目指す自立化革命としての性格を帯びたものであった。
 その点、君主制枠内での近代化革命という性格では明治維新の志向と共通するものがあるが、後者の自立化革命という性格は当時の朝鮮の地政学事情独自のものであり、「鎖国」政策下で独立を長く保持していた日本の明治維新には見られなかったものである。そのため、朝鮮の自立を恐れた清朝による軍事介入を招き、失敗に終わったのである。
 とはいえ、事変後、清朝の内政干渉が強まる中でも、朝鮮王朝はある程度の開化政策を導入していくが、国内での権力闘争の激化に加え、清国と日本、さらに極東進出を図るロシアなど欧州列強の思惑も絡み、朝鮮の自立的な近代化の過程は大きく制約され、最終的には、帝国化した日本への併合と植民地化という道へ収斂していくことになる。

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擬態するファシズム

2022-09-28 | 時評

25日のイタリアの総選挙で、戦前の独裁者ベニト・ムッソリーニが率いた旧国家ファシスト党の直系に当たる政党「イタリアの兄弟」―「同胞」と訳すのが定訳のようであるが、イタリア語党名Fratelli d'Italiaのfratelli(複数形)は男性の兄弟というニュアンスが強いので(意味的には兄弟姉妹を包括する)、あえて「兄弟」と訳す―が第一党に躍進した(以下、「兄弟」と略記)。

欧州でファシスト政党に直接源流を持つ政党が第一党となるのは戦後初めてのことであり、衝撃的と言える事態である。その点、イタリアでは、つとに2018年の総選挙でポピュリスト系の右派政党「五つ星運動」(以下、「五つ星」と略記)が躍進し、同党を柱とする右翼連立政権が成立したが(拙稿)、連立内の内紛から短命に終わった。

その後、コロナ・パンデミックとロシアのウクライナ侵略戦争に伴う経済危機の中、不安定な連立政権が続いた末の結果が、ファシストの躍進である。「五つ星」はファシスト党とは別筋から出たイタリア・ファーストを旗印とするファースティスト政党であったが、今度はファシスト直系政党の躍進であり、イタリアの右傾化が一層明瞭となった。

もっとも、「兄弟」は現在では単なる保守系右派を標榜し、実際、今般も他の保守系政党と連合を組んでの勝利である。といっても、下院400議席中119議席、上院200議席中65議席を押さえる躍進であり、連立政権の首相に同党の女性党首ジョルジア・メローニが任命される公算が高い。

問題は、同党の現在標榜が真実かどうかである。メローニ氏はファシズムの過去との絶縁を強調しているが、党は反移民政策の強化(海上封鎖)や反同性愛などの差別政策を公然掲げ、「五つ星」のファースティズムを超えた強硬路線を示している。

その点、現代ファシズムについて論じた以前の拙稿でも指摘したように、ファシスト党の後継政党であった「イタリア社会運動」が公式にファシズム路線を放棄し、「国民同盟」に「党名を変更、最終的に新保守系政党「頑張れイタリア」へ合流・吸収されたところ、こうした保守系への吸収に反発するメローニ氏らが2012年に再結成した党が「兄弟」である。

そうした経緯から見て、「兄弟」は今なおファシズムの理念に忠実であり、単なる保守系右派の標榜は世間を欺く擬態に過ぎないという厳しい評価が導かれる。言わば、「擬態ファシズム」である。その意味で、内外のメディアが「兄弟」を形容する極右政党という指称はミスリーディングである。

その点、筆者は、戦後のファシズムの特徴として、議会制を利用して隠れ蓑に隠れた状態で存続する態様を「不真正ファシズム」と呼び、次のように記した(拙稿)。

不真正ファシズムは民主主義を偽装する隠れ蓑として議会制を利用し、議会制の外観を維持したり、完全に適応化することさえもあるため、外部の観察者やメディアからは議会制の枠内での超保守的政権(極右政権)と認識されやすい。実際、単なる超保守的体制と不真正ファシズム体制との区別はしばしば困難であり、超保守的政権が政権交代なしに長期化すれば、何らかの点で不真正ファシズムの特徴を帯びてくることが多い。

ファシストが議会制を隠れ蓑として有効に利用するには、単なる保守系右派に擬態するという戦略が必要となる。「兄弟」の躍進は、そうした戦略を巧みに展開した結果であろう。

実際のところ、「兄弟」の祖党である戦前の旧ファシスト党も総選挙で第一党に躍進して独裁への足掛かりを得たし、史上最凶ファシズムであったドイツのナチスも総選挙で第一党に躍進し、当初は保守系政党との連立政権からスタートしており、選挙はファシスト政党にとって戦前から大きな武器である。

といっても「兄弟」の議席は単独過半数には遠い数字であり、イタリア人の大半が同党になびいたわけではない。イタリアの不安定な連立政治の慣習からして、組閣しても短命で終わる可能性もあるが、これが突破口となって欧州各国で同類政党の躍進が続けば、欧州連合というファシズムの防壁(拙稿)が倒壊することが懸念される。

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近代革命の社会力学(連載補遺21)

2022-09-27 | 〆近代革命の社会力学

八ノ〇 第二次メキシコ共和革命

(4)20世紀メキシコ革命への展望
 フランス傀儡帝政を崩壊させた1867年の第二次共和革命は、全く新しい体制の樹立ではなく、フランス軍に追われて国内亡命していたフアレス政権が復旧される形で完結した。その意味では、革命であると同時に、従前のメキシコ合衆国の復活でもあった。
 フアレスは67年12月の大統領選挙で、対仏レジスタンスの英雄として台頭してきたポルフィリオ・ディアス将軍を破って再選を果たしたが、以後はフアレスとディアスが復活合衆国における二大ライバルとして対峙することになる。
 フアレスはメキシコのみならず、ラテンアメリカ全体でも初の先住民出自の国家元首であり、農民家庭に生まれ、畑の見張りや下僕から身を起こして法律家の頂点としての最高裁判所長官、さらに政治家に転じて大統領にもなった稀有の人物である。
 その政権下では、自由主義的な政治思想に基づき、先住民族の権利の尊重や政教分離、軍の文民統制などの改革が進められたが、フアレスはその出自にもかかわらず、急進的な社会主義者ではなく、資本主義者として、市場経済化や先住民の伝統的な土地共有慣習の清算など、ブルジョワ自由主義の綱領を推進した。
 一方、民主主義という点では、フアレスが三選を狙って1871年大統領選挙に立候補したことは論争を呼び、この選挙で敗れたディアスが武装反乱を起こすなど、政情不安が深まる中、72年にフアレスが急死したことで流動化した。
 1876年のクーデターでフアレスの旧敵であったディアスが権力を掌握すると、彼は以後、1911年まで断続的に三度大統領を務め、特に1884年から1911年までは連続して長期の独裁政治を行った。
 ディアス体制下では大土地所有制アシエンダは護持されたばかりか一層拡大されため、搾取される農民は貧困層のままであったが、一方では外資導入を通じた経済の近代化が大々的に実行されていったため、ディアス時代はメキシコの資本主義的近代化の時代と重なる。
 このように、1867年第二次共和革命―その前哨としての1855年自由主義革命―は、総体としてブルジョワ自由主義革命としての性格を持ったが、ディアス体制はそれを換骨奪胎して一種の開発独裁制を樹立したと言える。
 このディアス独裁に対する革命運動が1910年頃から開始され、内戦を経て社会主義的な傾向を持つ革命が成立した。この20世紀メキシコ革命は、第二次共和革命では積み残された農地改革や民主主義といった課題の解決を目指して起こされた新たな変革の波である。

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近代革命の社会力学(連載補遺20)

2022-09-26 | 〆近代革命の社会力学

八ノ〇 第二次メキシコ共和革命

(3)傀儡第二帝政と第二次共和革命
 1855年の自由主義革命に対する反革命内戦の性格を持つ改革戦争は1860年にいったん保守派の敗北に終わることになったが、保守派はなおも散発的な抵抗を続けていた。とはいえ、抵抗は農村部にとどまり、独力での反転攻勢の見通しは立たなかった。
 一方、勝利した改革派フアレス政権も宿弊の財政難と内戦による元来未整備なインフラストラクチャーの破壊という難題に直面する中、新たな転機が海外からもたらされた。フアレス政権が国債の利息支払い停止を宣言したことがフランスをはじめとする欧州列強債権国の反発を招き、にわかに軍事介入の機運が乗じたのであった。
 フランスを筆頭にスペイン、イギリスを加えた債権国はメキシコ政府のモラトリアム宣言に対する武力制裁として、1861年末から共同出兵した。しかし、フランスがメキシコの占領を企てていることが明らかになり、スペインとイギリスが撤収した後も、フランスは単独でメキシコ侵略作戦を続行した。
 これに対し、メキシコ側も頑強に抵抗し、いくつかの個別的な戦闘ではフランス軍を打ち破る戦果も上げたが、1863年5月に力尽きて降伏、同年7月にはフランス軍がメキシコシティを制圧し、フランスが勝利した。
 フランス戦勝の要因としては、その圧倒的軍事力もあったが、レフォルマ戦争で保守派軍を率いたミゲル・ミラモンをはじめ、フアレス政権の打倒を望むメキシコの保守派による積極的な幇助があったことも大きい。
 その点、フランスの第二帝政を率いるナポレオン3世もメキシコをカトリック保守の衛星国に仕立て、ラテンアメリカに拠点を設ける狙いがあったから、メキシコ侵略はフランスとメキシコ保守派の同床異夢を超えた「同夢」の企てであり、反革命内戦の続戦としての反革命干渉戦争の性格を持つ事象であったと言える。
 戦勝したフランスは直接的な統治を避け、オーストリア皇室ハプスブルク家親戚のマクシミリアン大公を皇帝に招聘し、1864年以降、メキシコ入りしたマクシミリアン1世を戴くメキシコ帝国を樹立した。
 これは、独立直後の第一帝政に対し、王政復古した第二帝政と称される新局面であったが、実態はフランスの傀儡であり、メキシコ国民の広範な支持は得られなかった。そのため、マクシミリアンは自身に継嗣がないこともあり、第一帝政のイトゥルビデ1世の孫アグスティン・デ・イトゥルビデ・イ・グリーンを養子に迎え、第一帝政とのつながりを演出しようとした。
 一方、マクシミリアンはある程度自由主義的な思想の持主であったことから、推戴を支持したメキシコ保守派との関係も不安定なものとなり、帝政の運営が軌道に乗らない中、フランスの中米進出を望まないアメリカは傀儡帝政に反対を表明し、国内亡命中のフアレス政権の復旧を要求していた。
 こうした難局に直面する中、欧州ではドイツの強国プロイセンとの関係が悪化し、フランスが軍の撤収を決めたことが、仏軍の存在なくして存続し得ないメキシコ第二帝政の短命な命運を決めた。
 フアレス亡命政権軍が決起すると、1867年2月にはマクシミリアンは首都を追われ、同年5月、敗走先のケレタロで拘束、軍事裁判で死刑を宣告され、6月にミラモン他、帝政協力者のメキシコ人ともども銃殺刑に処せられた。
 こうして、一代限りの短命な第二帝政を打倒した1867年革命は、同じく一代限りの短命な第一帝政を打倒した1823年革命に対し、第二次の共和革命となるが、これは1855年自由主義革命の仕切り直しの革命でもあり、経過としては1821年独立革命の仕切り直しであった第一次共和革命と類似している。
 19世紀中に二度までも君主制と共和制の間を往還した末、最終的に共和制に落着した経過は同時代のフランスとも共通しているが、メキシコでは本性的に共和制志向の力学が強く、二つの君主制は持続することなく、いずれも短期間で崩壊することとなった。

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続・持続可能的計画経済論(連載第34回)

2022-09-25 | 〆続・持続可能的計画経済論

第3部 持続可能的計画経済への移行過程

第7章 経済移行計画Ⅰ:経過期間

(1)経過期間の概要
 最終的に全世界での貨幣経済の廃止に至る持続可能的計画経済体制の構築を目指す経済移行計画における三つの段階の出発点を成すのが、経過期間である。この時期は、資本主義市場経済を脱却する初めの一歩に相当する最も重要かつ機微なプロセスである。
 歴史上見られた経済システムの全般的な移行事例においても、この経過期間に相当する初めの一歩で大きな混乱が生じやすい。それは、移行を急ぐ政治主導で、しばしばショック療法的な一気呵成の移行が強行されるからである。
 そうした混乱を避けるためには、妥協なき漸進的な手法による計画的・段階的な移行準備のプロセスを確立する必要がある。ここで、漸進的な手法と言うと、しばしば妥協的と同義となり、移行が不完全になることが多い。しかし、漸進と妥協は同義でない。ここで言う漸進とは性急さを避けた着実な前進を意味している。
 具体的に言えば、持続可能的計画経済の柱を成す計画経済システムの構築及び貨幣制度の廃止へ向けた着実な準備を進めることが、この経過期間における最大の眼目である。
 その際、最も究極的かつ難関でもある貨幣制度の廃止に先立って、まず計画経済システムの構築を優先することが合理的である。その入口は、計画経済の対象となる基幹産業の統合である。
 その詳細は後述するが、簡単に言えば、現状ほとんどが株式会社形態で存在している基幹産業を業界ごとに統合した単一の包括会社に束ねるとともに、将来の経済計画機関の前身となる準備組織を設立することである。
 それに対して、貨幣制度の廃止は最も慎重に取り扱うべきプロセスとなるが、経過期間の段階では、まず消費財の貨幣交換によらない無償供給の試行から開始する。
 特に食品を中心とした日常必需品と一部の雑貨的有益品を対象とした物資の無償供給であり、この段階では市場経済と併存する配給制に類似するが、配給制よりも対象品目は多く、経過期間を通じて対象品目を漸次的に拡大していく。

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近代革命の社会力学(連載補遺19)

2022-09-23 | 〆近代革命の社会力学

八ノ〇 第二次メキシコ共和革命

(2)自由主義革命から「改革戦争」へ
 1846年8月に復旧された連邦制の第二次メキシコ合衆国では、第一次合衆国時代における連邦派と集権派の権力闘争が止揚されることなく、よりイデオロギッシュに、かつ内戦を伴う形でより激動的に展開されることになった。
 元来、集権派はカトリック教会の権威とサンタ・アナに代表されるクリオーリョ軍閥の政治経済上の権益を優先する傾向があったが、第二次合衆国ではこうした集権派がカトリック教会と結ぶ形で保守派として再編された。
 一方、連邦派は従前からカトリック教会の権威を否定する進歩主義の思想傾向を備えていたが、第二次合衆国ではベニト・フアレスのような先住民族出自の指導者も出現し、教会‐クリオーリョによる政治経済支配構造の改革を目指す自由主義改革派として台頭した。
 実際のところ、第二次合衆国の初期には、1844年の政変で一度は失権しながら復権し、1854年に最終的に失権するまで保守派のサンタ・アナが断続的に大統領を務め、睨みを利かせていたが、最後の在位となる1853年からの任期では「終身独裁官」を称し、独裁制を強化したことが政治生命を縮めた。
 サンタ・アナ独裁に対抗して内部に穏健派と急進派の対立を抱えていた自由主義派が糾合、1854年に発したアユトラ綱領に基づいて武装蜂起し、ゲリラ戦の末、1855年にサンタ・アナを最終的な失権に追い込んだ。
 この自由主義派の勝利は、1833年以来、断続的に都合11次にもわたり大統領を務めてきたサンタ・アナ実権支配体制に対する最終的な勝利を決する実質的な革命の性格を持つ画期的事変であった。
 実際、政権を掌握した自由主義派は「改革法」と呼ばれる一連の構造改革諸法を矢継ぎ早に打ち出した。その眼目は反カトリック教会であり、聖職者特権の廃止、教会の土地所有の禁止、さらに教会財産の国有化にも踏み込むものであった。その集大成として、1857年に個人の財産所有を強調するブルジョワ自由主義の新憲法を公布した。
 こうした改革は、当然ながら教会及び教会の権威と結びついたクリオーリョ軍閥の強い反発を引き起こし、当時の改革派大統領イグナシオ・コモンフォルトを脅迫して保守派に鞍替え辞職に追い込んだことを引き金として、反革命内戦(通称「改革(レフォルマ)戦争」に突入する。
 戦況は緒戦こそ保守派優位に進み、首都メキシコ首都を落として、改革派を南部の都市ベラクルスに追いやるが、保守派がベラクルスの攻略に失敗すると、ゲリラ戦術で反撃する改革派が盛り返し、1860年には保守派は降伏した。
 その結果、1861年3月の大統領選挙では、1858年に辞職したコモンフォルトから当時の最高裁判所長官として規定上大統領職を自動的に引き継いでいたベニト・フアレスが当選したことで、改革派の勝利は確定したかに見えた。

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近代革命の社会力学(連載補遺18)

2022-09-22 | 〆近代革命の社会力学

八ノ〇 第二次メキシコ共和革命

(1)概観
 メキシコは1846年‐48年の米墨戦争に敗戦した結果、北部領土の割譲を余儀なくされ、南方に縮小された形で再編された。その間、戦争初期の1846年8月には連邦制憲法が復活し、再び合衆国に復帰した。
 この復活合衆国の下では、米墨戦争後、1850年代にベニト・フアレスに代表される連邦主義‐自由主義派が大きく台頭し、これに政変による失権後、復権してきたサンタ・アナ、彼の再失権後、継承したフェリックス・マリア・スロアガらに代表される集権主義‐保守派が対抗する形で、事実上の内戦状態に陥った。
 この内戦は「改革(レフォルマ)戦争」と通称されているが、実態としては1855年にサンタ・アナ政権を打倒した後、1857年の新憲法の制定を経て、強力に展開された自由主義の改革政治に反対する保守派による反革命戦争であった。
 しかし、いったんは敗北を喫した保守派はフランスと通謀して1861年にフランスのメキシコ出兵を幇助、1864年にはハプスブルク家の一員マクシミリアン大公を擁立して、メキシコ第二帝政を樹立した。
 この事実上フランスの傀儡である第二帝政に対し、フアレスら自由主義派は武力抵抗を続け、1867年に帝政打倒と合衆国の復活に成功した。これは、1823年に第一帝政を打倒した第一次共和革命に対し、第二次共和革命の位置づけを持つ。
 メキシコはこれ以降、今日まで君主制が復活することなく共和制が定着、20世紀初頭のメキシコ革命も共和制枠内での社会主義的革命であったので、第二次共和革命は共和革命としては終局的なものとなった。
 同時に、第二次共和革命はフランス傀儡である外来の帝政を打倒した点でも特異的であるが、背後にあったフランスのナポレオン3世による第二帝政にとっても打撃となり、普仏戦争での敗戦を経て、第二帝政の崩壊を導く間接的な動因の一つとなった(拙稿)。
 フランスでは第二帝政の崩壊に続いてコミューン革命が勃発するが、メキシコの第二次共和革命はそうした大西洋を越えた新たな変革の波の前兆とも言える。とはいえ、メキシコ第二次共和革命にはさほど急進的な性格はなく、1855年の自由主義革命の延長上にある革命であった。
 そのため、大土地所有制や先住民差別などの社会経済的な構造問題は積み残しとなり、フアレスの急死後には開発独裁型の長期政権が立ち現れた。構造的な問題の解決は、20世紀の新たなメキシコ革命の課題となる。

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近代革命の社会力学(連載補遺17)

2022-09-20 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二ノ二 テキサス独立革命

(4)テキサス共和国の成立からアメリカ編入まで
 1835年3月の独立宣言、同年5月のベラスコ条約をもってテキサス共和国(以下、単に共和国)の独立が実現したが、この独立革命の過程で急速に台頭してきた新たな指導者が、テキサス軍最高司令官を務めたサミュエル・ヒューストンである。
 彼はオースティンと同様にバージニア州出身ながら、最初に移住したテネシー州で知事を務めた後にテキサスへ移住してきた新参者であったが、テキサス軍最高司令官として独立戦争を戦った功績やテネシー州知事としての政治経験が買われ、共和国初代大統領に選出されたのであった。
 一方、オースティンは1836年9月の大統領選挙に立候補したものの、三位に終わり、ヒューストンの圧勝であった。その後、オースティンはヒューストン政権の州務長官に任命されたが、2か月で急死した。
 こうして新指導者の下でスタートした共和国であるが、有力者の間では、独立を維持するか、アメリカへの編入を求めるかで対立があり、ヒューストン政権はアメリカへの編入を決定したのに対し、1838年に第2代大統領となった編入反対派のミラボー・ラマーは編入決定を撤回した。
 アメリカ政府は当時、領土拡張政策の一環としてテキサス編入に前向きであったが、編入に反対するメキシコとの戦争や南部奴隷制の拡大を懸念して躊躇していたこと、アメリカの領土拡大を警戒する欧州列強もテキサスの編入を牽制するため、続々と共和国の国際承認に動いたことから、共和国は1845年まで10年近く存続することとなった。
 共和国は人口7万人ほどの小国ながら、アメリカ合衆国の相似形的な構制を持っていたが、奴隷制と人種隔離に関しては南北戦争前のアメリカよりも過酷で、議会が奴隷貿易を制限する法律を制定したり、奴隷解放を宣言したりすることを禁ずるほか、黒人奴隷の解放は所有者ですら議会の同意なくしては許さず、アフリカ系自由人は議会の同意なくして永住することも許さないという強度の白人優越主義国家であった。
 また、少数派のメキシコ系住民も革命に際しては兵士として少なからず寄与しながら、共和国の白人優越主義の気風の中、元革命軍将校で共和国議員も務めたフアン・セギンのような例外を除けば、差別に直面することとなった。かれらは土地を奪われ、多くはメキシコに移住を余儀なくされた。
 そうした中、テキサス独立問題はアメリカと欧州列強、新興国メキシコの国際的パワーゲームの中に投げ込まれるが、1845年、時のジョン・タイラー米大統領の決断、併合に強硬に反対していたサンタ・アナ墨大統領の政変による失権という情勢変化の中、編入条約の締結と共和国議会の決議により、アメリカ編入が実現した。
 こうして、共和国は1846年2月をもって消滅、以後はアメリカ合衆国テキサス州として再編されるが、これに反対するメキシコは併合すれば戦争という従前からの警告どおり、アメリカに宣戦布告し、1848年まで米墨戦争となる(結果は敗戦)。
 その結果、戦勝したアメリカがメキシコの領有権主張を放棄させる形でテキサス編入が正式に承認されたが、アメリカにとっては南部の奴隷制存置州の拡大という問題を抱え込むことになり、ひいては1860年代の南北戦争の遠因ともなる。

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近代革命の社会力学(連載補遺16)

2022-09-19 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二ノ二 テキサス独立革命

(3)独立革命への過程
 テキサス独立革命は、1835年に発足した中央集権のメキシコ共和国に対する反作用として発生した各州の反乱の一環であったが、実際のところ、それ以前から、奴隷制や関税をめぐる紛争を契機に独立への蠕動が生じていた。
 1832年と1835年にテキサスのメキシコ関税事務所及び駐屯軍司令部が置かれたアナウアクで、メキシコ法令を厳格に執行しようとした地元司令官への反発から起きた二度の騒乱事件は、テキサスのアメリカ人入植者が自警団を組織し、団結する重要なステップとなった。
 この間、1833年に開催された入植者団の大会では、テキサス入植地の州への昇格を請願することが決議されたが、メキシコ政府に拒否され、1834年に集権主義者のサンタ・アナが大統領に就任すると、入植団指導者オースティンは逮捕された。
 その後、1835年6月の第二次アナウアク騒乱事件では、メキシコ軍部隊をテキサスから駆逐することに成功し、革命への下地となった。しかし、メキシコのサンタ・アナ政権は反乱を容赦せず、戦争の構えを見せていた。
 この後、1835年10月のゴンザレスの戦いから1836年5月のテキサス独立までは、テキサス‐メキシコ両軍間でのシーソーゲーム的な攻防戦の様相を呈する。
 緒戦では先住メキシコ系テキサス人(テハノス)を含めた寄せ集めながら高性能ライフル銃を駆使するテキサス軍が優位にあったが、態勢を整えたメキシコ軍が反撃に出ると、テキサス側は窮地に陥り、1836年2月から3月にかけてのアラモ砦の戦いで全滅の敗北を喫したのに続き、ゴリアド軍事作戦では勝利したメキシコ軍による捕虜の大量処刑が断行された。
 この間、テキサス入植者団は1835年11月に暫定政府を樹立したが、この段階では分離独立は掲げず、自治政府の性格であった。しかし、メキシコ軍の冷酷な反乱鎮圧作戦は入植者団の完全独立への希求を高め、1836年3月年の大会で正式に独立宣言が採択された。
 一方、メキシコ軍の激しい攻勢に対し、テキサス側は焦土作戦を展開しながらアメリカ合衆国との国境地帯まで後退する戦略的撤退作戦で応じる中、1836年4月、サンジャシント川の戦いで決定的な逆転勝利を収め、自ら従軍していたサンタ・アナ大統領の捕縛にも成功した。
 サンタ・アナ張本人の捕縛はテキサス側には決定的な交渉材料となり、最終的に、サンタ・アナの生命の保証と交換条件でテキサスの独立を認めさせるベラスコ条約が締結され、テキサスの独立が実現することとなった。

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近代科学の政治経済史(連載第20回)

2022-09-18 | 〆近代科学の政治経済史

四 近代科学と政教の相克Ⅱ(続き)

社会進化論と資本主義・帝国主義
 ダーウィン進化論は、そこから社会科学分野の派生的な理論として、社会進化論を生み出した。これは、英国の哲学者、社会学者、人類学者にして生物学者でもあったほぼ独学の多彩な知識人、ハーバート・スペンサーの提唱にかかる社会理論である。
 本連載は、広義の「科学」の中でも、いわゆる社会科学は論外に置く方針であるが、社会進化論の提唱者であるスペンサーは自身、生物学者でもあり、ダーウィンから直接的な触発を受けて理論を構築したため、通常は社会科学理論と目される社会進化論については、論究しておくことにする。
 スペンサーの社会進化論は、ダーウィンの自然選択説を「適者生存」と解釈し直したうえ、これは自然のみならず、人類の社会にも適用することにより、人類の社会もまた適者生存によって進化していくとする理論である。
 それだけにとどまらず、スペンサーは旧進化論者であるラマルクにも触発されつつ、人類社会の進化(進歩)を単純さから複雑さ、あるいは単一性から多様性への進歩ととらえつつ、多様性の極限が人類社会の理想的到達点であるとし、社会に過剰な介入をしない自由な国家こそが理想の国家体制であるというレッセ・フェールの自由主義政治経済思想を導き出した。
 このようにレッセ・フェールを進化論で根拠づける立論は、19世紀末から発達し始めた独占資本主義の拡大に理論的な根拠を与えたことは見やすい道理である。実際、当時新興資本主義国として台頭してきたアメリカの資本家の間では、より通俗化した社会進化論に基づいて独占資本主義を正当化しようとする議論が興った。
 ロックフェラーやカーネギーといったこの時代の産業資本家の多くが社会進化論者であり、独占企業体により市場支配は適者生存の帰結であるとして正当化され、また国家が産業活動に干渉することも社会の進歩を妨げることとして忌避されたのである。
 実際のところ、自然選択説は単純な弱肉強食論ではなく、場合によっては弱者が適者として生存し、強者が適応できず淘汰されることもあり得るということが眼目であったが、通俗化した社会進化論にあってはそうした機微な議論は排除され、弱肉強食による淘汰理論が風靡したのである。
 他方、通俗化した社会進化論は国際政治の分野にも拡大され、弱肉強食論が国家間にも適用されて、欧米列強や強勢化した日本による帝国主義的植民地支配を正当化する立論にまで到達するが、これはスペンサーの自由主義的国家観からも逸脱した俗流社会進化論の最も危険な帰結であった。
 こうして、進化論は社会進化論に〝進化〟して政財界では大いに風靡する理論となったが、他方で、本家本元のダーウィン進化論は聖界では依然として否定的であった。
 奇妙なことに、社会進化論の聖地ともなったアメリカでは公教育において進化論を教授することに反対するプロテスタント系福音主義派の運動が隆起して、20世紀初頭以降、いくつかの州では反進化論法が制定されるという分裂した現象が生じたのであった。

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近代革命の社会力学(連載補遺15)

2022-09-16 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二ノ二 テキサス独立革命

(2)テキサス開拓とアメリカ人入植者団
 テキサス独立革命の要因となったアメリカ人の入植活動は、メキシコ独立前のスペイン領ヌエヴァ・エスパーニャ時代末期に遡る。当時のスペイン政府はスペイン人の入植がほとんどなかったテキサスを開拓するため、入植を条件にアメリカ人に土地を払い下げる政策を導入した。
 この政策により入植した者は、スペイン帝国臣民かつカトリック教徒となることが条件づけられていたが、独立後のアメリカ合衆国で十分な土地を確保できなかった中流層のアメリカ人にとってテキサス植民者となることは魅力であった。
 そうしたテキサス入植事業で仲介者として活躍したのが、バージニア州出身のオースティン父子、特に息子のスティーブン・オースティンであった。彼は父親が開始した事業を父の死後に引き継ぎ、1821年に最初の入植団の誘致を開始したが、そのタイミングでメキシコ独立革命が勃発した。
 革命政府はスペイン統治時代の政策を一変し、入植移民の規制とスペイン政府による土地払い下げ契約の撤回を決定したため、入植事業は頓挫しかけた。そこで、オースティンは革命政府に働きかけ、植民の再認可に漕ぎ着けた。この際、入植事業の公式な斡旋代理人エンプレサリオが任命され、オースティンがその役目を担った。
 このエンプレサリオ制度は、メキシコにとっては、未開発の北部の開拓とアメリカ人移民の規制を両立させる得策でもあったが、1823年の共和革命は再び入植移民制限策に振り子を振らせた。しかし、ここでも再びオースティンが交渉能力を発揮し、各州に植民認可の裁量権を付与する法律の制定を導いた。
 これに基づき、当時のコアウイラ・イ・テハス州議会はエンプレサリオ制度を承認する州法を可決したため、ようやくテキサス植民事業が軌道に乗ることとなり、最初のアメリカ人移民300家族の入植が実現した。
 その後も、オースティンの仲介でアメリカ人入植者は急増し、一つのコミュニティーを形成するまでになったことから、自警団組織を結成した。この組織はテキサス独立後、共和国の国境警備隊兼警察であるテキサス・レンジャーとして確立され、現在もテキサス州警察の一部門として存続している。
 オースティンは政治力も発揮し、地元コアウイラ・イ・テハス州の州憲法にアメリカ的な要素を盛り込ませるなど、州そのものをアメリカナイズし、後の独立の芽となる政治文化的な影響力も行使していた。
 こうして、「テキサスの父」と称され、州都の名称由来ともなったオースティンの指導により、テキサスのアメリカ人入植者が武装部隊をも備え、団結したコミュニティーに成長したことは、来る独立革命を成功に導く動因ともなった。
 しかし、このようなテキサスにおけるアメリカ人入植者人口の急増とアメリカ化がメキシコ政府に領土浸食の懸念を抱かせるのは時間の問題であり、中央集権化を目指した1835年の政変は、再び入植移民制限策に振り子を振らせることになる。

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近代革命の社会力学(連載補遺14)

2022-09-15 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二ノ二 テキサス独立革命

(1)概観
 アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナが主導した1834年メキシコ政変の結果、連邦制のメキシコ合衆国が集権制のメキシコ共和国に改編されると、これに反対する諸州による分離独立運動が蠕動を始めた。しかし、唯一の例外を除いて、それら分離独立運動は失敗に終わる。
 その例外が、当時北東部のコアウイラ・イ・テハス(テキサス)州に属した地域の独立である。その結果、1836年にテキサス共和国が成立したことから、これはテキサス革命と呼ばれる。ただし、テキサス共和国は10年ほど後にアメリカ合衆国に編入され、今日のテキサス州となったため、独立共和国としては短命であった。
 テキサス革命は、その発生経緯からして、前章で見たメキシコ独立/共和革命の派生事象であるが、その担い手はメキシコ政府の政策に基づきテハス地域に開拓入植していたアメリカ白人層(テキシアン)であった点に特徴がある。そうしたことから、テキサス革命にはいくつかの複合的な性格が認められる。
 一つは、冒頭に記したとおり、反集権革命という性格。その限りでは、メキシコ合衆国に属した他州の反集権・独立運動と共通するが、アメリカ白人層を担い手とする点では、18世紀アメリカ独立革命の延長線上にあるとも言えるプチ革命でもあった。
 実際、宗教政策の面でも、メキシコ政府が信教の自由を保障せず、非カトリックのテキシアンにもカトリックを強制しようとしたことも、分離独立へ向けた大きな動機を形成しており、そうした自由をめぐる革命という性格があった。
 一方、政策的な面では、テキシアンは単に集権制に反対したばかりか、メキシコ政府が緩やかながらも施行してきた奴隷制廃止政策にも反対していた。こうした奴隷制をめぐる政策的対立が動機を形成している点では、アメリカ本国で1860年代に勃発した南北戦争の先駆け的な意義を持っていたと言える。
 さらに、白人入植者の革命という性格である。その点では、19世紀末のハワイ王国の白人入植者が担い手となったハワイ共和革命と共通している。最終的にアメリカ合衆国への自発的な編入に収斂し、今日までアメリカの州として持続している帰結の点でも、両事象には共通性がある。
 メキシコ側からすれば、テキサス独立革命は一地域の分離独立にとどまらず、1840年代のアメリカとの戦争(米墨戦争)につながり、敗戦の結果として、今日のカリフォルニアを含む北方領域の大半を割譲、喪失した要因であり、ひいては今日の米墨国境線を作り出す契機ともなった。

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近代革命の社会力学(連載補遺13)

2022-09-13 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二 メキシコ独立/第一次共和革命

(5)第一共和政とその破綻
 メキシコ第一帝政を打倒した1823年の共和革命は、独立革命時には妥協によって君主制を支持した共和派が、初代皇帝イトゥルビデの独裁化を契機に本来の主張を掲げ、改めて国造りを開始した、言わば仕切り直しの革命であった。
 さしあたりは、三人の有力者から成る合議制の臨時政府が樹立され、憲法発布までの間の移行統治を実施した。その間、1824年7月には、前皇帝イトゥルビデが亡命先から強行帰国を果たしたが、上陸地で地元当局に逮捕されたうえ、死刑を宣告され、処刑された。
 その後、1824年10月にメキシコ初の近代憲法が公布され、正式に共和制国家・メキシコ合衆国が発足した。この第一共和政は、名称どおり、アメリカ合衆国を範とする連邦制を採択しており、発足当初は19の州及び直轄地(その後の修正により首都の連邦区が付加)から成っていた。
 この憲法は全文171箇条から成る比較的詳細な法典であり、スペインのカディス憲法やアメリカ合衆国憲法、さらに先行する自国のアパチンガン憲法をも広く参照した、この時代における集大成的な先進憲法であった。初代大統領には、共和革命立役者の一人であったグアダルーペ・ビクトリアが就任した。
 しかし、この第一共和政のもとでは、憲法で採択された連邦制を支持する勢力と中央集権制を主張する勢力の対立が激化し、規定上の大統領任期を全うできたのは初代のビクトリアのみで、頻繁な政変による大統領の短期交代が相次ぐ政情不安が常態化した。
 この対立は、連邦派が軍やカトリック教会の権力を抑制する自由主義的社会改革を志向したのに対し、集権派はそれに反対するという形で、リベラル派と保守派の副次的な対立状況をも生み出した。とりわけ、共和革命立役者の一人であったアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナが集権‐保守派の実力者として台頭してきたことは、第一共和政の命運を縮める結果となった。
 こうした政体や政治思想をめぐる対立に加え、第一共和政の時代は、帝政時代から持ち越された財政難の解決のための新連邦税の適用が州によって拒絶されたことに加え、農業や流通の担い手であったスペイン植民者の追放・退去による農業生産力の低下、流通の混乱などの財政経済問題にも直面し、1827年には早くもデフォルトに陥っている。
 そうした中、カトリック教会の特権廃止に踏み込むヴァレンティン・ゴメス・ファリアス大統領の自由主義改革に対する反動として、1834年、サンタ・アナはクエルナバカ綱領を発して自由主義改革の廃止を宣言し、議会も解散、翌年には集権制導入を軸とする七箇条から成る実質的な新憲法(七憲令)を発布した。
 こうして、1824年憲法に基づく第一共和政・メキシコ合衆国は廃され、中央集権制に基づく第二共和政・メキシコ共和国が成立するが、当然にも連邦派はこれに抵抗し、第二共和政では一部地域の独立運動/革命に見舞われることになる。

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近代革命の社会力学(連載補遺12)

2022-09-12 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二 メキシコ独立/第一次共和革命

(4)第一帝政と共和革命
 メキシコ独立革命の基本テーゼとなったイグアラ綱領は、保守的なイトゥルビデの政治思想を反映し、立憲君主制を採択していたため、独立スペインは君主制国家として成立することとなった。
 もっとも、当初の計画では時のスペイン国王フェルナンド7世をメキシコ皇帝に招聘しつつ、同君連合の形でメキシコは独自の立法府を持つといういっそう保守的なものであったが、フェルナンド7世がメキシコ独立の承認を拒否したことから、プランBとして、その他のボルボン家王族を招聘することが検討された。
 しかし、フェルナンド7世の妨害もあり、適任の候補者を確保できず、暫定政府の摂政団議長という地位にあったイトゥルビデ自身に白羽の矢が立った。その際、ナポレオンにならって皇帝を称したため、メキシコは帝政国家としてスタートすることとなった。とはいえ、イトゥルビデの帝位はメキシコを統治すべき欧州の君主が招聘されるまでの暫定的なものとされた。
 そうした条件付きで、「神の摂理と国民議会による初代メキシコ立憲皇帝」という正式称号を与えられたイトゥルビデを推戴するメキシコ第一帝政が1822年5月に正式発足するが、帝国は最初から財政破綻状況にあった。
 というのも、独立に際して、メキシコから退去するスペイン人地主の土地を接収せず、基軸通貨で買収する協定を結んだため、保有通貨をたちまちに費消し、国庫は空の状態となっていたためである。
 そうした財政問題に加え、イトゥルビデの統治手法にも問題があった。「立憲皇帝」という立場を忘れたかのように、独裁統治を開始したからである。1822年8月に政府転覆計画が発覚すると、反対派の代議員を逮捕したのに続き、10月には議会を一方的に解散し、支持者のみで構成された国家評議会に置き換えたのである。
 これに対して、イグアラ綱領では妥協していた共和派の二人の将軍、アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナとグアダルーペ・ビクトリアとが決起した。二人は1822年12月、帝政を廃止して共和制を樹立することを旨とする11箇条から成るカサ・マタ綱領を発し、反乱を促した。
 これに呼応して、各地で反乱が起きるが、当初は帝国軍によって鎮圧された。しかし、帝国軍の寝返りにより、1823年2月、カサ・マタ綱領が全土に宣言され、各州に対して賛同が呼びかけられた。
 その結果、ほぼ全州が綱領を受諾したため、イトゥルビデは議会を再開したうえ、1823年3月に退位、イタリアへ亡命した。こうして共和革命が成功し、メキシコ臨時政府が樹立された。

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