ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第88回)

2020-03-31 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(2)ロシア立憲革命(第一次ロシア革命)

〈2‐4〉「改革」と抑圧
 民衆革命が進展していく中、当初皇帝ニコライ2世は譲歩する意思を見せず、武力鎮圧方針で臨んでいたが、司令塔なきアナーキーな革命運動をもぐら叩きのように鎮圧することには限界がある中、思想的な影響を受けた専制主義者の叔父ロシア大公セルゲイ・アレクサンドロヴィチが社会革命党テロリストに暗殺されると、身に迫る恐怖から譲歩姿勢に転じた。
 とはいえ、ニコライ2世としては、何とか小幅の改革で切り抜けるべく、当初は新任の内相プルイギン名義で皇帝輔弼機関としての「議会」の設置を柱とする弥縫的な改革策を打ち出したが、その不十分さを民衆に見抜かれ、かえって大規模なゼネストを招く逆効果となったため、改めてより改革に踏み込む皇帝の詔勅として「十月詔書」が発せられた。
 この詔書の起草をとりまとめたのは、ベテラン政治家で日露戦争の全権代表も務めたセルゲイ・ヴィッテであった。彼は皇帝に改革か軍事独裁かの二択を迫り、無用の流血を望まない皇帝から前者の妥協を引き出したのであった。
 こうして、詔書では基本的人権の保障、普通選挙制に基づく独立した議会制度の創設を柱とする改革措置が打ち出された。その内容は近代的立憲主義に沿っており、これにより、ロシアはとりあえず立憲帝政の方向へかじを切ることになった。
 第一次革命は、帝政廃止まで要求する共和革命ではなく、憲法制定要求を中心とする立憲革命であったから、十月詔書によりいちおう革命の目的は達成されることとなり、革命運動は以後、収束に向かった。ただし、12月には第一次革命最後のハイライトとして、モスクワでボリシェヴィキが主導する労働者の蜂起が発生したが、これは死者千人の犠牲を残し、政府軍によって殲滅させられた。
 こうして、帝政ロシアの歴史は新たな段階に進んだのであるが、皇帝とその保守的な取り巻きらは、十月詔書に不満があり、その形骸化を狙っていた。詔書自体は憲法ではないため、改めて制定された基本法(憲法)では、皇帝が全権を握り、議会は皇帝の諮問会議よりも劣位にあるものとされるなど、立憲主義は後退し、日本の明治憲法に近いものとなった。
 それでも、基本法に基づくロシア初の第一議会では、リベラルなブルジョワ政党・立憲民主党を第一党として、皇帝の腰ぎんちゃくと揶揄されたゴレムイキン首相の保守的な政府と対決し、彼を辞職に追い込むなど存在感を発揮した。
 しかし、ゴレムイキンの後任となった内務・警察官僚出身のストルイピンが第一議会を解散し、保守派の躍進を期待して改めて総選挙を実施すると、社会民主労働者党など左派が躍進するやぶ蛇の結果となった。この選挙では、第一議会をボイコットしたボリシェヴィキが方針転換して参加してきたことも左派躍進を後押したのであった。
 しかし、事態を憂慮したストルイピンは実力行使に出て、左派議員の検挙と第二議会の解散を断行した。この1907年6月3日クーデターをもって、ロシア立憲革命は挫折を余儀なくされた。
 この後、ストルイピンは戒厳令下で、革命家らを大量検挙・大量処刑する徹底した弾圧を行う一方で、ある程度の改革を進めるというプロイセンの鉄血宰相ビスマルクにも似た「飴と鞭」政策で、帝政の立て直しを図るのであるが、最終的に、テロリストの凶弾に倒れた。この1911年ストルイピン暗殺事件は、第二次革命へ向けての新たな胎動が始まる合図でもあった。

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近代革命の社会力学(連載第87回)

2020-03-30 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(2)ロシア立憲革命(第一次ロシア革命)

〈2‐3〉民衆革命の展開
 皇帝への直訴行動が流血弾圧によりで阻止された「血の日曜日」事件は、それまでロシア民衆の間にあった皇帝への敬愛を憎悪に代えたことにより、民衆の間で意識革命が生じる歴史的な転換点となったと言える。それは、十数年後により階級横断的な第二次革命を誘発する動因ともなるのであるが、さしあたり、第一次革命の時点では、革命は階級ごとに分断化された形で進行した。
 当時人口的に最多の農民は、近世以来の一揆的な行動に出た。多くは地主の居館襲撃・略奪、土地の侵奪や森林での伐採や狩猟などの直接行動である。その過程で、より近代的な農民協議会も結成されるが、ロシア農民の間ではまだ近代的な農民運動が浸透していなかったため、結局、統一的な行動を組織することはできず、地域の農民集団が別個に動く状態であった。
 他方、勃興中の都市労働者はより洗練されており、各地でストライキを組織し、ペテルブルクとモスクワの二大都市でゼネストを起こした。さらに、社会民主労働者党(メンシェヴィキ派)の提言により、労働者評議会(ソヴィエト)が結成され、労働者自治も試行した。このソヴィエト制度は、第二次革命ではより明確に革命細胞として発現し、後に国名にも取り込まれたものである。
 また、1905年6月の戦艦ポチョムキン号水兵反乱も革命の重要な一幕であった。これは、試験運用中だった海軍戦艦ポチョムキン号で些細なことから兵士と上官の間で対立が起き、これが兵士らによる革命宣言を誘発したものである。革命兵士に乗っ取られた戦艦はオデッサでスト中の労働者と合流し、初の労兵合同の革命的蜂起へ発展した。
 第一次革命は、こうした農民、労働者、兵士による民衆革命の隆起という形を取っており、近代的な革命政党は必ずしも前衛的な役割を果たさなかった。この時点では最も有力だった社会革命党は農本主義政党のはずであるが、農民一揆を統制して、農民運動を組織化することには成功しなかった。
 一方、社会民主労働者党は、レーニンが率いるより急進的なボリシェヴィキ派と反レーニンの穏健派メンシェヴィキ派に分裂していたが、第一次革命の時点ではメンシェヴィキ派が優位にあり、同派の提言にかかる前掲ソヴィエトの形成に寄与した。ただし、労働者に対する党の指導性を重視するボリシェヴィキとの溝を埋めることはできなかった。
 民衆革命の動向と並行して、テロ手段による要人暗殺が横行した。その多くは、社会革命党戦闘団によるものであるが、アナーキストやその他諸派、ローンウルフ型の暗殺行動も見られた。こうした暗殺により、1万人近くが死亡したとも推計されている。
 こうして、第一次ロシア革命は、階級横断的に全体をつなぐことのできる革命組織を欠いたまま、自然発生的でアナーキーな民衆革命としての展開に終始したことで、帝政側は鎮圧に手間取る一方、革命運動としても着地点となる目標が定まらないまま、1905年10月に皇帝ニコライ2世が革命に一定譲歩して発した改革措置「十月詔書」を契機として、収束に向かうことになった。

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続・持続可能的計画経済論(連載第16回)

2020-03-28 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第3章 計画組織論

(2)計画過程の全体像
 計画組織による経済計画過程は、計画組織体系が簡素であるほどに簡潔的なものとなる。経済計画過程が簡潔であれば、計画の策定と発効・実施もより円滑・迅速に行われるというメリットを得られる。
 ここで、個別の計画組織について見ていく前に、世界共同体を前提とする経済計画過程の全体像を示しておくと、次の三段階に整理される。

①世界経済計画機関による世界経済計画の策定

⇒世界経済計画は、まさしく世界共同体における経済計画の全体的な設計図となるたたき台的な指針である。そこでは、エネルギー計画を前提に組み入れた全体的な生産計画と汎域圏ごとの環境状況及び人口を参酌した需要と供給の見通しを考慮した生産計画が軸となる。策定に当たっては、環境規準の定立に当たり、世界環境計画のような環境政策機関も関与する。計画案は、世界共同体諸機関での討議を経て、最終的に世界共同体総会で承認されて発効する。

②各構成領域圏における経済計画の策定

⇒領域圏経済計画は、世界経済計画の枠内で、世界共同体構成領域圏ごとの計画機関(経済計画会議)が策定する領域圏独自の計画である。この計画は、実際に民衆の日々の生活に直接関わる最前線の計画となる。これは、一般計画Aと農林水産に係る計画B、特殊な生産分野として製薬に係る計画Cの三分野に分けられる。また、災害や感染症パンデミック等に備えた余剰計画を伴う。計画案は、最終的に領域圏民衆会議で審議・承認されて発効する。

③地方における経済計画の策定

⇒地方における経済計画とは、各領域圏内部の地方における消費計画である。持続可能的計画経済では地産地消が原則であるので、領域圏経済計画を大枠としつつ、食糧を中心とする日常生活財の分配消費に関しては地方ごとに計画を策定する。計画案は、地方消費事業組合が策定する。

 なお、上掲①乃至③いずれのレベルにおいても、計画経済の最前線を担う企業体は各計画機関を直接に運営する主体でもあるので、計画機関とは別個に企業体として計画過程に関与するのではなく、世界経済計画機関、領域圏経済計画会議、地方消費事業組合の各計画機関が同時に、関係企業体による合議の場となる。

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続・持続可能的計画経済論(連載第15回)

2020-03-27 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第3章 計画組織論

(1)総説
 計画経済は、個別企業ごとの経営計画以外に全体的な計画が存在しない市場経済とは異なり、全体的な経済計画に従って期間的に運営されていくものであるから、計画の策定と運用に関わる計画組織を必要とする。この計画組織のあり方を探るのが計画組織論である。
 計画経済は、どのようなタイプのものであろうと、合理的な計画組織によって支えられていなければ、計画の原理原則だけで動くものではない。一方で、合理的な計画組織をあまりに複雑なものにすると、その運営に支障をきたすこともある。旧ソ連における計画組織はそうした教訓事例である。
 ソ連は15の主権なき共和国で構成された超大な連邦国家という特異な形態をとったため、計画組織も連邦全体のものと各共和国のものとに二元化されたうえ、連邦及び共和国の各行政機関も計画に関与し、さらに部門ごとの国有企業が計画最前線で関与するという何重もの複合体であった。しかも、計画全体を方向づけるのは支配政党であった共産党である。
 基本五か年を基準とした計画の策定に当たっては、共産党指導部の方針を至上命令としつつ、多数の計画関与機関がそれぞれ自身の権益を主張して、しばしば競争的関係に立ったために、計画の策定プロセスは不安定なものとなった。
 このような複雑かつ不安定な計画組織のもとで、ソ連が半世紀以上にわたってどうにか計画経済を切り盛りし、アメリカと対峙する超大国として存続し得たことは、奇跡に近いと言ってよいが、最終的にソ連が解体される以前に、この計画組織はすでに破綻しかけていたことも事実である。
 それには様々な要因があるが、一つには計画組織があまりに複雑化し、計画の策定に多大の時間と労力が費やされ、円滑な経済運営が阻害されていたことが想定される。ここから学ぶべき教訓は、計画組織はできる限り簡素であることが望ましいということである。原理的には、単一の計画機関が一貫して計画策定に当たるのがよいが、現実にはそこまで簡素化することはできない。
 その点、世界共同体を前提とする持続可能的計画経済にあっては、世界共通の経済計画を策定する世界機関を軸に、世界共同体を構成する各領域圏の計画機関が連携して計画を策定、運用する体制である。しかも、政府とか政党といった政治組織が存在しないうえ、計画機関は計画対象の企業組織自身の合議機関として構成されるので、計画組織の在り方はソ連のものより、各段に簡素なものとなる。

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近代革命の社会力学(連載第86回)

2020-03-25 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(2)ロシア立憲革命(第一次ロシア革命)

〈2‐2〉日露戦争と「血の日曜日」
 19世紀末から20世紀初頭のロシアで台頭した革命集団の担い手はアレクサンドル2世の限定的社会改革の主軸でもあった高等教育制度の整備の結果、誕生した知識人層(インテリゲンチャ)であったが、知識中産階級に属するかれらは社会の少数派に過ぎなかった。そのうえ、帝政側の締め付けも厳しかったから、革命集団が実際に大規模な革命を実行することはほぼ不可能であった。
 そのような閉塞状況を一変させたのが、日露戦争である。当時、ロシアより先に立憲帝政を整備し、東アジアの新興国として急速に台頭していた日本と極東権益を争う羽目になったロシアは、日本軍相手に予想外の苦戦を強いられた。戦争の長期化に伴い、ロシアでは、戦争の長期化に伴い、窮乏が進み、民衆の不満が鬱積していた。
 そうした中で、従来の革命集団とは別筋から、奇妙な民衆指導者が現れた。ゲオルギー・ガポン神父である。彼はコサック出自であるが、伝統的な神学校に進んだ後、近代的な神学大学を卒業して、ロシア正教聖職者となった。そうした点で、近代教育を受けた伝統的な聖職者という新旧ロシア社会にまたがるような存在であった。
 彼は間もなく、当時の首都ペテルブルクで労働者を集め、独自の団体「ペテルブルク・ロシア工場労働者会議」を結成した。この団体は短期間で数千人のメンバーを抱える大組織に発展するが、一介の若き聖職者がこのような大規模な組織化を実現できたことには裏があった。
 実は、この団体は元来、ロシアでもようやく現れてきた労働運動の高まりに対応して、革命を抑止するためにモスクワの秘密警察部長ズバートフが考案した「警察社会主義」とも呼ばれる政策に沿って、警察の資金で組織された官製労働者団体の一つであった。従って、ガポンも秘密警察の内通者にほかならなかった。
 このような舞台裏は後に発覚するが、さしあたりは社会民主労働者党のような社会主義政党が抑圧の中でオルグ活動もままならない中、代替的な労働者団体として表面上は成功していた。意想外だったのは、ガポンが内通者の任務を逸脱して、真剣の革命に打って出たらしいことである。
 日本軍が旅順要塞を落として、ロシア軍が苦境に陥った1905年1月、ガポンはゼネストを指導した。このゼネストはしかし、経済的な要求事項にとどまらず、戦争終結のほか、憲法制定会議の招集、労働者の権利の保障などの政治的要求事項を含んでいた。
 しかし、帝政廃止は求めず、あくまでも皇帝に直訴するという請願運動の形態であったが、ゼネストを越えて皇帝の居城である冬宮へ向かう20万人規模のデモ行進に発展したため、恐慌を来した政府軍が発砲し、数千人と言われる死者を出す惨事となった。
 結局、直訴は実現しなかったが、この事件はロシア史上初めて労働者階級が自らの意思表示を集団的に、かつ近代的な民主主義の思想に基づいて行った出来事であった。同時に、帝政側がこれに対し流血弾圧で応じたことで、それまではロシア民衆の間で広く共有されていた皇帝崇拝が崩壊した瞬間でもあった。
 ちなみに、「血の日曜日」の後、国外亡命したガポンは亡命先で、社会革命党と接触した。彼はこの時、関係者に自らの内通者としての立場を明かし、党員のリクルートをさえ試みたが、かえって党の不信を招き、帰国後、党員によって殺害された。ガポン自身は、二重スパイの活動がロシアを救うと信じていた節があるが、そのような際どい綱渡りは、自らの命を縮める結果となったのだった。

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近代革命の社会力学(連載第85回)

2020-03-24 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(2)ロシア立憲革命(第一次ロシア革命)

〈2‐1〉革命集団の台頭
 ロシアでは、第一次欧州連続革命の間接的な余波とも言える1825年のデカブリストの乱が拙劣な失敗に終わった後、大きな革命的動向は途絶えた。しかし、1861年に農奴解放を実行したアレクサンドル2世は歴代ロマノフ朝皇帝の中では最も改革的であり、限定的ながらも上からのリベラルな改革を断行した。
 そうして生まれた限定的な自由の風潮の中で、革命集団が形成された。最初に現れたのは、ナロードニキと呼ばれる農村社会主義的な革命集団であった。かれらは、農奴解放後も、貧農として地主貴族に搾取される農民大衆の中に飛び込み、貧農を扇動し、革命によって「土地と自由」という標語かつ結社名にも反映された農村共同体を基盤とする社会主義社会を建設することを夢想していた。
 しかし、夢想的知識人階級主体のナロードニキと、依然として皇帝崇拝が強く、ただよりよい暮らしを望むだけの農民階級の意識的ギャップは著しく、革命は進展しなかった。それでも、1877年にはナロードニキに感化された農民らと革命的な反乱を起こしたが、この拙劣な蜂起は直ちに鎮圧された。
 帝政側による弾圧が強まる中、より先鋭化したナロードニキ急進派は新たに「人民の意志」を結成した。この団体は、直接闘争と銘打って要人暗殺などテロ行動を通じて革命を遂行するという秘密結社の性格を持っていた。とりわけ、皇帝暗殺という壮大な陰謀を企てていた。
 この陰謀は、1881年、実際にアレクサンドル2世暗殺を成功させたのだったが、比較的リベラルで改革志向だった皇帝を排除したことは、かえって状況を悪くした。父帝を継いだアレクサンドル3世は、一転して抑圧的な専制政治に復帰したからである。「人民の意志」メンバーも検挙され、解体に追い込まれた。
 この後、1880年代以降、20世紀初頭にかけて、ロシアでも遅れて産業革命が勃興し、資本主義的工業化が進展すると、都市に労働者階級が誕生した。こうした社会の構造変化に合わせて、労働者階級を主体とする社会変革を構想する新しい知識人層の集団が出現する。1898年に結成された社会主義労働者党はその代表例であった。
 この党は西欧で浸透し始めていたマルクス主義を綱領とするロシア最初の社会主義政党であり、そこには後に1917年の革命で主役となる若きレーニンも参加していた。しかし、歴史の浅い小政党であり、しかも結党直後に当局の弾圧を受け、活動不能となるなど、結党時点では革命集団とは言えないものであったが、後の革命集団の萌芽ではあった。
 他方、ナロードニキの流れを汲むグループも、1901年に改めて社会革命党を結党した。この党は近代的な政党の形態を取っていたが、党内政党とも言える急進派の社会革命党戦闘団は、旧「人民の意志」の路線を継承し、再び要人暗殺のようなテロ活動を展開した。
 こうして、ロシア第一次革命前夜にはナロードニキ系の社会革命党が革命集団の前衛として派手な立ち回りを演じており、マルクス主義系の社会民主労働者党はまだ言論活動を中心とした思想運動団体の域を出ない状態であった。そして、帝政側も強大な秘密警察組織を保持し、革命運動の監視と抑圧に努めていた。

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近代革命の社会力学(連載第84回)

2020-03-23 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(1)概観
 19世紀には、欧州諸国で立憲革命が進んだが、アジアにもまたがり、アジア的要素も内包するロシアでは絶対主義的なロマノフ帝政が続いていた。農奴解放は19世紀半ば過ぎにようやく成ったが、これも皇帝主導の上からの改革によるもので、革命の機運は訪れなかった。転機は20世紀に入ってから、1905年乃至07年の立憲革命である。
 より大規模な1917年の革命に対して、第一次ロシア革命とも呼ばれるこの先行革命の主要な背景となったのは19世紀末からの長期不況であり、直接の導火線は日露戦争での屈辱的な敗北であった。1917年革命も第一次世界大戦での敗戦に匹敵する膠着状態が導火線であり、20世紀の二つのロシア革命はいずれも戦争を導火線としている。
 ロシアの第一次革命は、西アジアのイラン―当時の国名は「ペルシャ」であるが、ここでは便宜上、現国名「イラン」で表記する―にも波及した。イランでは、18世紀後半以来、トゥルクマーン人のイスラーム教シーア派王朝であるカージャール朝による異民族支配が続いていたが、19世紀後半には近代化の過程で英国とロシアの権益争いの舞台となり、大国への従属が進んでいた。
 そうした中で、19世紀末からナショナリズムの波が隆起し、タバコボイコット運動などの抗議行動が発生するが、これが20世紀に入り、第一次ロシア革命の波及により、同様の立憲革命の動きにつながった。この革命は長期化し、1906年から11年にかけて継続された。
 イラン立憲革命の渦中で、イランと国境を接するトルコでも立憲革命が発生した。トルコは13世紀以来のオスマン朝帝政が続く歴史的な長期支配体制下で、19世紀後半には上からの改革により近代的憲法が制定されながら、わずか二年で停止され、非立憲的な専制に復帰する反動が起きていた。
 そうした中、19世紀の西欧近代化の過程で誕生した近代的な青年トルコ人集団がロシアやイランの立憲革命に触発されつつ、立憲体制の復活を求めて1908年に決起した。この青年トルコ人革命はロシアやイランのものよりも長期的な成功を収め、最終的にはオスマン朝600年の歴史を終わらせる1923年の共和革命にもつながった。
 以上のロシア、イラン、トルコの各立憲革命は必ずしも連続革命という形で直接に連動していたわけではないが、ロシアを皮切りに、歴史上ロシアとも地政学的に密接な関連を持ってきたイラン、トルコへと波及した前近代的な専制君主制に対する下からの革命的突き上げの動きとして、共通の要素を持つ。
 また、いずれの革命も君主制そのものを廃する共和革命に進展することなく収束しており、長期的成功を収めたトルコの革命を除けば、失敗した革命と評されるところではあるが、いずれも君主制は大きく揺らぎ、ロシアとトルコでは歴史的な長期の帝政が数年から十数年後の共和革命により打倒されている点で、共和革命への橋渡しとなった革命である。
 ただし、イランだけは共和革命を誘発することなく、軍事クーデターによる王朝交代という形で新たに専制的なパフラヴィ―朝が成立し、共和革命は遠く20世紀後半まで持ち越しとなったが、地政学的な近接域で発生し、重要な点で共通性を持つ三つの立憲革命事象について、本章ではこれらを包括して扱うことにする。

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共産法の体系(連載第17回)

2020-03-21 | 〆共産法の体系[新訂版]

第3章 環境法の体系

(5)環境法の執行
 環境法の執行という場合、まず世界共同体(世共)レベルのものと世共構成領域圏レベルのものとが区別される。
 世共レベルの法執行体制とは、すなわち世共機関である世界環境計画による領域圏レベルにおける環境法執行状況の監督がそれである。
 世界環境計画は、世共主要機関である持続可能性理事会の下に下部機関として置かれる世界レベルの環境政策の立案・執行機関であって、定期的に各領域圏における環境法執行状況を審査し、必要に応じて勧告やより効力の強い警告を発する権限を有する。
 当該領域圏が警告に応じない場合、理事会は環境査察団を派遣し、強制的な調査を行なう。査察の結果、問題点があれば、理事会は、改めて強制力を伴う是正命令を発し、従わない場合は、世共総会は当該領域圏の世共構成資格を停止する制裁を加えることができるものとする。
 以上に対し、領域圏レベルの執行は、政府機構を持たない共産主義社会にあっては民衆代表機関である民衆会議が直接にこれを担うことは、環境法にあっても同様である。
 その場合、環境法執行機関の中枢を担うのは、民衆会議の常任委員会の一つでもある持続可能性委員会である。同委員会は環境政策の立案・立法の中心であると同時に、領域圏から地方自治体の民衆会議それぞれに各個設置され、環境影響評価から環境法の執行までを一貫して担当する環境法の統括機関となる。
 特に領域圏民衆会議の持続可能性委員会の下には、法執行の現場を担う機関として各地方に環境事務所が設置される。同事務所は持続可能性委員会による環境影響評価の実務機関であると同時に、環境法違反事犯を摘発する環境法執行機関でもある。
 同様に、地方自治体または連合領域圏の準領域圏の持続可能性委員会の下にも、独自の環境法執行機関を設置することができる。 

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共産法の体系(連載第16回)

2020-03-20 | 〆共産法の体系[新訂版]

第3章 環境法の体系

(4)統一環境法典
 共産主義的環境法の世界共通法源である世界地球環境法(条約)は、世界共同体を構成する各領域圏に対し、固有の環境法の制定を義務付ける。この領域圏環境法は各領域圏ごとの環境条件に適合した具体的な環境保全の根拠法として機能する。
 領域圏環境法は個別法令の単なる集成ではなく、初めから一本の法律として制定される統一法典である。例えば日本の現行環境法は多数の個別法令の寄せ集めであるが、これら個別法令間の重複・齟齬を修正して全法令を一本の法律に包括するようなイメージである。
 こうした統一環境法典は領域圏全体の共通法であるから、連邦型の連合領域圏にあっても、連合全体に適用される連合法として制定される。
 その内容は、世界地球環境法における三つの基本原則、すなわち①生物多様性の保全②天然資源の保全③気候変動の防止を反映して、各領域圏ごとの環境条件を加味した具体的な環境保全の体系を規定するものとなる。
 こうした統一的な領域圏環境法は単なる理念法ではなく、領域圏法体系の中で最も憲章に次いで優先度の高い法である。従って、それは次章以下で見る経済法や市民法、犯則法等々に対しても指導原則を提供する。
 この全土共通法としての領域圏環境法の枠内で、地方自治体や連合領域圏を構成する準領域圏は独自の地域的な環境法を制定することができるほか、領域圏環境法ではいまだ規定されていない独自の環境規制を先駆的に制定することもできる(先行規制法)。
 環境保全の現場に位置する地方における先行規制法は、その内容が広く認知されれば、領域圏環境法の内容に取り込まれ、全土的法定事項となり得る可能性を持っていることから、領域圏環境法においても、こうした先行規制法の制定が明示的に奨励される。

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近代革命の社会力学(連載第83回)

2020-03-18 | 〆近代革命の社会力学

十二 フィリピン独立未遂革命

(5)キューバ独立戦争(革命)との対比
 19世紀末、二次にわたったフィリピンの独立未遂革命は、スペインとアメリカの新旧両帝国による覇権抗争と絡み、カリブ海のキューバの独立運動とも連関していた。ただ、キューバの場合は、革命よりも独立戦争の性格が強く、当連載では個別の革命の事例としては扱わないが、フィリピンの独立未遂革命と対比する形で、簡単に言及する。
 キューバも、16世紀以降、スペイン植民地となり、製糖プランテーション基地として搾取されてきたが、他の中南米諸国とは異なり、独立が最も遅れた。転機は19世紀後半であった。
 キューバの独立戦争も二次にわたるが、第一次はフィリピンに先行する1868年に勃発した。中心となったのは、プランテーション農園主であったカルロス・マヌエル・デ・セスペデスである。セスペデスは自身、支配層の側に身を置く立場でありながら、先鋭な独立思想の持主であり、1868年10月、わずか数十人の同志と自身の農園奴隷を解放した少数の革命軍を組織して、決起したのであった。
 革命軍はスペイン軍の反撃の前に苦戦しながらも、東部や中部を押さえて、中部で共和国の樹立を宣言し、初代大統領にはセスペデスが就いた。こうした経緯は、フィリピンの革命とも似ており、セスペデスは言わば、フィリピンにおけるアギナルドであった。
 この地域的な「共和国」も基本的に革命的独裁であったが、政治的なサバイバル術に長けたアギナルドとは異なり、セスペデスは独裁を批判されて失権し、山中に逃亡・潜伏していたところをスペイン軍に発見され、殺害された。
 こうして、セスペデスが失権・殺害された1873年以降、キューバ最初の共和国はスペイン軍との長期戦に巻き込まれ、最終的には1878年に停戦協定が成立する。勃発から10年、犠牲者20万人という代償を伴う「十年戦争」であった。
 停戦協定の後、キューバでは奴隷制がようやく廃止され、解放奴隷が労働者階級に転化し、没落した農園主が中産階級に落ちる形で、近代的な資本主義社会が形成されるようになるなど、革命に匹敵する社会変革があった。
 このような状況で、1892年4月、中産階級出自の革命家ホセ・マルティが革命党を結成し、新たな独立運動を開始した。95年2月以降、各地で反スペインの民衆蜂起が多発すると、同年4月、マルティは第一次戦争にも参加したベテランのマクシモ・ゴメス将軍らとともに革命軍を結成して滞在先のドミニカ共和国からキューバに上陸し、進軍を開始した。
 マルティが5月に戦死した後も、ゴメスを指揮官とする革命軍はさらにスペイン軍とのゲリラ戦を継続していくが、戦線は膠着状態となった。転機は、98年4月に始まる米西戦争であった。この戦争はアメリカ議会がキューバの独立を支持する決議を採択したことに端を発するものであった。
 この戦争に勝利したアメリカは12月の講和条約で、前回見たように、フィリピンを買収するとともに、スペインはキューバの主権をも放棄し、独立を認めた。その結果、キューバはアメリカの暫定軍政を経て、1902年に独立した。かくして、キューバの独立は米西戦争の結果によって実現したのであった。
 アメリカは独立派を利用しつつ植民地化したフィリピンに対するのは異なり、キューバに対しては独立を支持したが、この「独立」はカッコつきのものであり、実質上は第一次独立戦争後からキューバに進出していたアメリカ資本を土台に、キューバを保護国化し、内政干渉を続けていくのである。こうした対米従属は、遠く1959年の社会主義革命まで不変であった。

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近代革命の社会力学(連載第82回)

2020-03-17 | 〆近代革命の社会力学

十二 フィリピン独立未遂革命

(4)1898年第二次独立革命から対米戦争へ
 1896年独立革命に失敗したアギナルドは、スペイン当局と交渉し、香港への亡命を認められた。その点、より穏健なリサールを処刑したスペインが、アギナルドを赦免した理由は定かでないが、キューバも含めて、対米戦争の足音が近づく中、フィリピンでの独立運動鎮圧に注力することを避けたということも考えられる。
 こうしてアギナルドは香港に雌伏したが、1898年2月に米西戦争が勃発すると、彼はアメリカに接近し、アメリカから独立援助の承認を取り付けることに成功した。実は後にこれはアメリカの罠であったことが判明するが、さしあたり、アメリカはフィリピン征服の意図を隠し、独立勢力を利用する戦術であった。
 こうして、アメリカから武器の援助も得たアギナルドはフィリピン革命軍を組織して、フィリピンに帰還、対スペインの独立革命に進んだ。米西戦争対応で十分な対処ができなかったスペイン軍はアメリカ軍に支援された革命軍に対し 劣勢に置かれた。その結果、98年6月にはアギナルドの本拠地カヴィデで革命政府の樹立を宣言した。
 ただ、これはまだ宣言的な色彩の強い未然革命の段階であった。この後、革命政府はアメリカ軍の支援を受けながら地方に進軍し、支配を全土レベルに拡大していった。その過程で、革命政府は次第に統治機構を整備したが、この段階はアギナルドを中心とする革命的独裁であった。
 ところが、首都マニラの陥落を前に、アメリカは本来の意図を覗かせ、革命軍のマニラ進軍を許さず、単独占領下に置いたのである。革命政府はやむを得ず、マニラ近郊のマロロスを臨時首都に定め、明けて1899年1月に正式なフィリピン共和国の樹立を宣言した。初代大統領はアギナルドである。
 この共和国はアギナルド大統領に代表されるような地方名望家階級を主体とするブルジョワ共和国であり、ボニファシオらの構想とは隔たりがあったが、とりあえず、アジアでは初の近代的共和国としての意義を持つ。今日までフィリピンが比較的民主的な共和政体をおおむね維持してきた歴史的な原点でもある。
 このフィリピン史上初の共和国はしかし、アメリカが本来の狙いを露にしたことで、早くも崩壊の危機に瀕した。アメリカは講和条約によりスペインから2千万ドルでフィリピンを買収し、主権を獲得したからである。これを受けて、時のマッキンリー米大統領は植民地化をオブラートに包んだ「友愛的同化宣言」を発し、フィリピン独立を否定したのである。
 こうして完全に裏切られる形となったフィリピン共和国は、対米独立戦争に出ることになった。しかし、革命軍から衣替えしただけの共和国軍が圧倒的な戦力を擁するアメリカ軍に太刀打ちできるはずもなく、臨時首都マロロスも陥落、共和国は中部から北部山岳地帯に追い込まれていった。
 この後、再び革命軍に立ち戻った独立派は、旧ボニファシオ派も再結集し、総力的なゲリラ戦によってアメリカ軍に抵抗を続けるが、1901年4月にアギナルドが捕らわれ、投降し、独立派に降伏を呼びかけたのを機に、対米戦争は下火に向かう。
 それでも、一部勢力は投降を拒否して戦闘を継続したため、アメリカが1902年7月に公式に鎮圧を宣言してもなお、地方では農村部でのゲリラ抵抗は続き、最終的にアメリカがフィリピン全土の支配を確立したのは、1910年代になってからであった。

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近代革命の社会力学(連載第81回)

2020-03-16 | 〆近代革命の社会力学

十二 フィリピン独立未遂革命

(3)1896年第一次独立革命
 1880年代、ホセ・リサールに代表されるフィリピン知識人はジャーナリズムや文学を通じた情宣活動を開始するが、彼らのこの時点での目標は独立には置かれていなかった。にもかかわらず、スペイン当局は彼らを弾圧し、リサールを拘束した。
 リサールは逮捕直前に「フィリピン同盟」という民族団体を結成しており、このことが直接の逮捕理由となったと見られるが、この団体はリサールの逮捕後、穏健派と革命派とに分裂した。このうち後者の革命派の指導者として台頭してくるのが、アンドレス・ボニファシオである。
 ボニファシオは改めて、独立を明確に志向する秘密結社・カティプナンを結成する。しかし、秘密性はすぐに露呈し、スペイン当局の弾圧作戦が開始される。これに誘発される形で、1896年8月末にカティプナンが武装蜂起する。こうして始まったのが、1896年の独立革命である。
 一躍革命遂行組織となったカティプナンは一枚岩の組織ではなく、自身貧困層から出て民衆を代表するアンドレス・ボニファシオに対して、地方名望家層を代表するエミリオ・アギナルドが対抗する形で、階級対立を内包していた。前回見たように、アギナルドらの地方名望家層は革命初動をボニファシオらの労働者階級の決起に頼り、これを利用しようとしていたのである。
 この対立関係は武装蜂起後すぐに顕在化し、96年10月にはアギナルド派が地元カヴィテ州にて分離独立した。この早期の分裂はスペインを利し、独立革命の行方を危うくしたことから、翌97年の幹部会議で両派の和解が目指されたが、結局修復はできず、ボニファシオ派が退席して物別れに終わった。
 この後、ボニファシオ派の反撃を恐れた策士アギナルドは、ボニファシオを捕らえ、処刑したのである。こうして、ボニファシオ派を粛清したアギナルドは、カティプナンの全権を掌握することに成功した。しかし、これが終わりの始まりでもあり、ボニファシオ処刑後、カティプナンはスペイン軍の掃討作戦により北部山岳地帯へと追い詰められていった。
 アギナルドらは山岳地帯で共和国の樹立を宣言するも、象徴的な意味以上のものではなく、間もなくスペイン総督と和平協定を締結し、香港へ亡命していったのである。こうして、1896年革命は挫折した。
 結局のところ、この革命は形式上、カティプナンという単一の革命組織によって遂行されたように見えながら、実質的には地方名望家階級と労働者・貧民階級の同床異夢的な合作にすぎず、初めから分裂していたのである。
 それにもかかわらず、両者が一つの革命組織を共有したことから、96年革命の性格をどう見るかに関して歴史的評価は分かれるが、組織内力学においても、ボニファシオがあっさり粛清されたように、地方名望家層が優位に立っており、96年革命が総体としてブルジョワ革命であったことは否めない。

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世界共同体憲章試案(連載第31回)

2020-03-15 | 〆世界共同体憲章試案

〈表決〉

【第105条】

1.社会文化理事会の各理事領域圏は、一個の投票権を有する。

2.経済社会理事会の決定は、出席しかつ投票する理事領域圏の過半数によって行われる。

[注釈]
 特記なし。

〈手続〉

【第106条】

社会文化理事会は、社会的分野における常設または臨時の委員会、人権の伸張に関する委員会並びに自己の任務の遂行に必要なその他の委員会を設ける。

[注釈]
 社会文化理事会の任務は多岐にわたるため、問題ごとに種々の委員会を設置する必要性が高い。

【第107条】

社会文化理事会は、理事領域圏を除くいずれの世界共同体構成主体に対しても、その構成主体に特に関係のある事項についての審議に投票権なしで参加するように勧誘しなければならない。また理事領域圏を除くいずれの世界共同体構成主体も、自己に特に関係のある事項についての審議に投票権なしで参加させるよう求めることができる。

[注釈]
 利害関係を持つ構成主体のオブザーバー参加に関する規定である。

【第108条】

1.社会文化理事会は、必要と認めるときは、専門機関の代表者を理事会の審議及び理事会の設ける委員会の審議に投票権なしで参加させることができる。また、理事会の代表者は、必要と認めるときは、専門機関の審議に参加することができる。

2.社会文化理事会は、その権限内にある事項に関係のある民間団体と協議するために、適切な取極を行うことができる。この取極は、国際団体との間に、また、適切な場合には、関係のある世界共同体構成主体と協議した後にその構成主体域内の団体との間に行うことができる。

[注釈]
 社会文化理事会の扱う事項は専門技術性が高く、専門機関または関係民間団体との密接な連携を必要とするため、その相互関係を規定したものである。

【第109条】

1.社会文化理事会は、議長を選定する方法を含むその手続規則を採択する。

2.社会文化理事会は、その規則に従って必要があるときに会合する。この規則は、理事領域圏の過半数の要請による会議招集の規定を含まなければならない。

[注釈]
 特記なし。

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世界共同体憲章試案(連載第30回)

2020-03-14 | 〆世界共同体憲章試案

第18章 社会文化理事会

〈構成〉

【第100条】

1.社会文化理事会は、総会で抽選された30の世界共同体構成領域圏及び直轄自治圏で構成する。

2.理事会の理事領域圏は、三年の任期で抽選される。退任する理事領域圏は、引き続いて抽選される資格はない。

3.理事会の各理事領域圏は、総会代議員をもってその代表者とする。総会代議員に支障があるときは、その代理者をもって代表させることができる。

4.直轄自治圏は、直轄自治圏特別代表またはその代理者をもって理事会の代表者とする。この場合、第2項の規定は適用しない。

5.理事でない世界共同体構成領域圏は、理事会に各一名のオブザーバーを送ることができる。

[注釈]
 社会文化理事会は、人権保障、社会サービスや文化事業に関する世界共同体の任務を統括する主要機関である。その構成は、基本的に持続可能性理事会に準じている。

【第101条】

社会文化理事会は、社会的、文化的、教育的及び保健的分野並びに関係分野において専門的な見地から所要の任務を遂行する専門機関を設置することができる。

[注釈]
 こうした専門機関の代表例として、世界保健機関や世界教育科学文化機関がある。いずれも、現行国際連合体制下では、国連と連携する専門機関という曖昧な位置付けであるが、世界共同体体制下では、社会文化理事会に直属する専門機関となる。

【第102条】

1.理事会は、社会的、文化的、教育的及び保健的事項並びにその関係事項に関する研究及び報告を行い、または発議し、並びにこれらの事項に関して総会、世界共同体構成主体及び関係専門機関に勧告をすることができる。

2.理事会は、すべての者のための人権及び基本的自由の尊重及び遵守を助長するために、勧告をすることができる。

3.理事会は、その権限に属する事項について、総会に提出するための世界法案を作成することができる。

4.理事会は、世界共同体の定める規則に従って、その権限に属する事項について専門家及び実務者会議を招集することができる。

[注釈]
 社会文化理事会は、現行国連社会経済理事会の社会的側面の機能を継承する機関でもあるから、その権限はほぼ同様である。

【第103条】

社会文化理事会は、平和理事会に情報を提供することができる。社会文化理事会は、また、平和理事会の要請があったときは、これを援助しなければならない。

[注釈]
 社会文化理事会は、平和理事会による紛争解決等に際し、社会的、文化的、教育的及び保健的事項並びにその関係事項に関して、必要な情報提供と援助を行う任務を持つ。

【第104条】

1.社会文化理事会は、総会の勧告の履行に関して、自己の権限に属する任務を遂行しなければならない。

2.理事会は、世界共同体構成主体の要請があったとき、または専門機関の要請があったときは、総会の承認を得て役務を提供することができる。

3.理事会は、この憲章の他の箇所に定められ、または総会によって自己に与えられるその他の任務を遂行しなければならない。

[注釈] 
 特記なし。

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世界共同体憲章試案(連載第29回)

2020-03-12 | 〆世界共同体憲章試案

第17章 民際捜査機関

【第97条】

1.世界共同体総会は、領域圏または直轄自治圏の境界を越えた捜査活動または人道に反する罪に該当する事案の捜査活動を展開するために、民際捜査機関を設置する。

2.民際捜査機関の運営は執行委員会が統括し、各領域圏または直轄自治圏に常設される事務局が運営を補完する。

3.民際捜査機関は、毎年定期に、または必要に応じて、その活動を総会に報告しなければならない。

4.民際捜査機関に関する細目は、本憲章に定めるもののほかは、別に定める規程による。

[注釈]
 世界共同体民際捜査機関(正式機関名称は未定)は、現行の国際刑事警察機構(インターポール)の任務を継承しつつ、独自の捜査権限を加味して再編される総会下部機関である。
 インターポールとの最大の相違点は、世界共同体総会に付属すること、及び国家主権を前提としない世界共同体のシステム内で、独自の捜査活動を全世界で展開できることである。複数の領域圏または直轄自治圏にまたがる事案や反人道犯罪など、領域圏単位では捜査し切れない事案を担当する。

【第98条】

1.民際捜査機関は、捜査のために必要と認めるときは、人権査察院の判事が発付する令状に基づき、被疑者を逮捕することができる。

2.世界共同体を構成する領域圏または直轄自治圏は、民際捜査機関の捜査に対して、被疑者の身柄の管理その他あらゆる必要な協力をしなければならない。

3.民際捜査機関が世界共同体の域外で捜査活動をする場合は、予め当該地域の権限ある機関の許可を受けなければならない。

[注釈]
 民際捜査機関は、世界共同体域外でも捜査活動を展開できるが、その場合は当該地域の権限ある機関の許可を要する。民際捜査機関は、あくまでも世界共同体の機関だからである。

【第99条】

民際捜査機関の捜査結果に基づき、被疑者の司法処理を行う場所は、人道に反する罪の場合を除き、民際捜査機関執行委員会がこれを決定する

[注釈]
 民際捜査機関が捜査する事案を審理する場所(複数も可)は、世界共同体特別人道法廷で審理される反人道犯罪の場合を除き、いずれかの領域圏または直轄自治圏となる。それを決するのは、執行委員会である。

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