ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第435回)

2022-05-31 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(2)セルビア革命

〈2‐3〉革命の不純化‐アメリカの操作的関与
 2000年のセルビア革命は同年のユーゴ連邦大統領選挙に対立候補を立ててミロシェヴィチに対峙した野党連合・セルビア民主抵抗が主導したと言えるが、中でも、その支持基盤ともなった青年運動組織・オトポール(セルビア語でレジスタンスの意)の働きが大きかった。
 この組織は元来、大学への権力介入策である大学法の制定に反対する学生運動組織として1998年に結成されたものであるが、NATOによるセルビア軍事介入後、運動目標がそうした限定的な政策批判から体制転換へと拡大され、革命組織に発展した。
 とはいえ、この組織はロシア革命その他の古い武装革命で見られた革命組織とは一線を画し、非武装平和革命を目標としていた。さらに、少なくとも標榜上はヒエラルキーのない水平的な指導体制を謳ってもいた。
 オトポールは短期間で数万人の支持者を抱える組織に発展していくが、そのような急成長の影には、アメリカによる資金援助とある種の「革命指南」があった。そうした事実は革命後に暴露されることとなる。
 それによれば、アメリカは同盟国/勢力への非軍事的な支援浸透機関である合衆国国際開発庁や複数の民間団体を通じてオトポールに多額の資金援助をしていたほか、別の団体はオトポールの指導的メンバーらに非暴力抵抗の手法について戦術的な指南さえ行っていた。
 こうしたアメリカによる操作的な革命関与は、冷戦時代のアメリカが反米的とみなした外国体制を軍事クーデターの背後的支援によって転覆してきた旧来の手法に代えて、新たに「開発」した体制転覆の技法という意味合いもあったと考えられる。
 セルビア革命が不正選挙に抗議する民衆の自発的な蜂起を契機として生起した事実に変わりないとはいえ、アメリカによる物心両面での操作的な関与の事実は革命に汚点をつけ、不純化したことも否めない。実際、オトポールはそうした事実の暴露や一部メンバーが豪奢な転身ぶりを示したことなどへの批判から評判を落とすこととなった。
 また、オトポールはそもそもミロシェヴィチ体制打倒の一点集中的な運動組織で、確固たる政治経済理念を共有していたわけでもなかったため、常設的な政党化には適さず、最終的に野党連合の中心政党であった民主党に吸収されていった。
 こうして政党としては失敗したオトポールであるが、その非武装平和革命の斬新な手法はユーラシア大陸の独裁諸国の青年運動に広く影響を及ぼし、ユーラシア横断諸革命では、オトポールメンバーによる指南を受けた青年運動が各革命で主要な役割を担うことになる。

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近代革命の社会力学(連載第434回)

2022-05-30 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(2)セルビア革命

〈2‐2〉民衆革命への力学
 新ユーゴ時代のセルビアは、ミロシェヴィチが旧共産主義者同盟の組織をもとに再編した左派政党・セルビア社会党が優勢であったが、ミロシェヴィチの独裁的手法への批判の高まりとともに、同党は複数政党制のもと、次第に党勢が低下していた。
 これに対して、民主化を求める反体制運動も90年代を通じて隆起していたが、ミロシェヴィチ政権は治安機関を用いて抑圧していた。しかし、96年地方選挙での与党による集計操作疑惑を機に、野党勢力や大学生による大規模な抗議行動のうねりが起きた。
 これは民衆革命の最初の予兆と言えたが、この時点でのミロシェヴィチ政権はなお強力で、大統領夫人ミリャナ・マルコヴィチが結党したユーゴスラヴィア左翼などと連合するとともに、97年の総選挙で躍進した極右民族主義のセルビア急進党を連立に引き入れて権力の維持を図った。
 一方、経済面では、旧ユーゴの解体以来、自主管理社会主義に基づく経済システムの崩壊から生産力が低下していたところへ、コソヴォ紛争の激化の影響を受け、生産力の一層の低下と国民生活の悪化を招いていた。
 コソヴォ紛争は本来、セルビア国内の地方的な民族紛争であったが、90年代末の世界で最も大きな国際的な関心事となり、セルビアの強硬姿勢は西側諸国の介入を招くこととなった。特に、冷戦終結後、その存在理由が問われていた北大西洋条約機構(NATO)にとって、これは新たな存在理由の発見機会でもあった。
 NATOは「人道的介入」を名目に、1999年3月から首都ベオグラードを含むセルビア拠点への空爆作戦を展開した。アライド・フォース作戦と命名されたこの軍事介入作戦は99年6月に終結し、ユーゴ連邦軍のコソヴォ撤退とコソヴォへの国連平和維持軍の展開が実現した。
 これはミロシェヴィチ政権にとって打撃となる敗北であったが、民衆革命の直接の動因ではなかった。より直接には、翌年9月の連邦大統領選挙での投票操作疑惑に対する抗議が動因となる。初めて二回投票制による直接選挙で実施されたこの選挙では、政権寄りの選挙管理委員会が当初、どの候補者も一回投票で過半数を獲得しなかった旨発表した。
 しかし、野党統一組織・セルビア民主抵抗の候補者ヴォイスラヴ・コシュトニツァの陣営は同候補者が一回投票で過半数を獲得したとして、政権側の集計操作を指弾した。これを受け、野党支持者らが10月にかけて、非武装の大規模な反体制行動を展開した。この抗議行動は新ユーゴの構成国でもあるモンテネグロからも支持された。
 これに対し、政権側は武力鎮圧を図ることも技術的に可能ではあったが、連邦相方のモンテネグロからも見限られた形のミロシェヴィチは政権維持を断念し、10月7日に大統領を辞職した。その結果、コシュトニツァが新大統領に就き、完全な政権交代が実現することとなった。この間、2人の死者が記録されているが、ほぼ無血での革命である。
 こうして、選挙不正疑惑が非武装民衆の大規模な抗議行動を誘発し、短期間で体制瓦解に至った点では、2000年のセルビア革命も、1986年のフィリピンにおける民衆革命と同様の経過を辿った民衆革命であったと言える。

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近代科学の政治経済史(連載第10回)

2022-05-29 | 〆近代科学の政治経済史

三 産業学術としての近代科学

近代科学は、18世紀以降、理論科学と実用科学に分岐しつつ、後者は産業技術の飛躍的な進歩を促進し、産業革命の主要な動因となる。近代科学なくして産業革命もなかったことは間違いないが、産業学術としての近代科学の発展は近代科学が純然たる学問的探究の世界を脱して経済界と結びつき、産学複合を形成する契機ともなる。


理論科学と実用科学の分岐
 近代産業社会の幕開けとなる産業革命が18世紀の英国に発したことは広く知られているが、英国が産業革命の発祥地となったのは、その一世紀前の17世紀における近代科学の創始と深い関連性がある。
 前章でも見たように、英国では近代科学がチャールズ2世の庇護を受け、御用学術として発展していくが、その象徴である王立学会は形式上御用機関でありながら、プロイセンやロシアの同種機関のように完全な御用機関とはならず、民間の自由な研究組織として発展していった。
 ただし、王立学会が直接に産業技術の母体となったわけではない。王立学会はロバート・フックが指導していた当初こそ、実用性をも伴った実験科学―ガリレオ以来、近代科学の伝統であった―を主流としたが、若き日にはフックの論敵でもあったアイザック・ニュートンが会長職に就き、以後24年間も「君臨」すると、ニュートンの嗜好を反映し、思弁性の強い理論研究が主流となったからである。
 このことは、理論科学(基礎科学)と実用科学(応用科学)とが分岐する最初の契機となったかもしれない。理論科学を代表する王立学会はニュートン自身もごく短期間、庶民院議員を務めたように、政界とのつながりを強め、歴代会長には一定の科学的バックグランドを持ちながら政界にも身を置く人物(貴族を含む)の任命が増し、権威を高めた。
 こうした理論科学と実用科学の分岐によって、後者からは工学が誕生した。中でも社会基盤整備の物理的な土台を成す土木工学の分野である。その重要な先駆者であるジョン・スミートンも英国人である。
 とはいえ、実用科学としての工学は当初においてはアカデミズムの外部にあった発明家によって開拓されていくのであるが、後に改めて論及するように、工学者として名を成すスミートンも、そのキャリアのスタートは職人であった。

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近代革命の社会力学(連載第433回)

2022-05-27 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(2)セルビア革命

〈2‐1〉新ユーゴスラヴィアの成立とコソヴォ紛争
 旧ユーゴスラヴィア(以下、旧ユーゴ)では、レジスタンス革命の指導者で建国者でもあったチトー終身大統領が1980年に死去した後、しばらくは集団指導制による連邦の運営が続いたが、チトー個人のカリスマ性に支えられていた連邦の結束はすでに揺らいでいた。
 そうした中で1989年以降、中・東欧の社会主義体制が続々と崩壊していくと、それらソ連圏とは長く対立し、独自の自主管理社会主義を標榜していた旧ユーゴでも、セルビアとモンテネグロを除く連邦構成共和国の独立へ向けた動きが加速化していく。
 この動きは、1990年の連邦憲法の大改正によって、従来、連邦全体をつなぐ鎖であった共産主義者同盟による事実上の一党支配体制が転換され、各構成共和国で複数政党制が導入されたことにより決定的となった。
 クロアチアとスロヴェニアの独立宣言を皮切りとする連邦解体の動きがソ連と異なり凄惨な内戦に発展したのは、旧ユーゴ中枢国セルビアが連邦解体には強硬に反対し、順次、各構成共和国との間で武力紛争となったからである。その点、ソ連の中枢国ロシア自らがソ連解体を革命的に主導したのとは対照的な経過を辿った。
 しかし、結局のところ、旧ユーゴ解体を阻止することはできず、セルビアは親密なモンテネグロとともに、改めてユーゴスラヴィア連邦共和国(以下、新ユーゴ)を結成した。新ユーゴでは社会主義は国名から削除され、旧ユーゴ自慢の自主管理社会主義も撤回、なし崩しの市場経済化が進められた。
 とはいえ、この「連邦」は二か国のみの国家連合に等しいもので、その実態は人口や国力で上回るセルビアの隠れ蓑に近かった。その点、セルビアでは旧ユーゴ時代に台頭してきたスロボダン・ミロシェヴィチが1990年に共和国大統領に就任し、最高実力者として権力を増強していた。
 ミロシェヴィチはチトー時代には抑圧されていたセルビア民族主義を活性化させる扇動者の働きをしてきた人物である。その一方で旧ユーゴ中枢国としてのセルビアの弱体化につながる連邦の解体には反対し、独立阻止のため連邦軍を投入したため、内戦を招くことにもなった。その点で、彼は旧ユーゴ内戦の総帥であり、最大の戦犯でもあった。
 連邦解体阻止に失敗した後のミロシェヴィチは、妻で政治的同志でもあるミリャナ・マルコヴィチと二人三脚でセルビア国内の独裁支配を強化するとともに、1997年からは新ユーゴの連邦大統領を兼任し、新ユーゴの主導権も掌握した。
 新ユーゴの枠組み内で新たに浮上したのが、セルビア国内で自治を認められていたアルバニア系のコソヴォ‐メトヒヤ自治州(以下、単にコソヴォ)の分離独立運動である。
 この運動はスラブ系のセルビア人とは民族系統を異にするアルバニア人によってチトー没後の旧ユーゴ時代から始動していたものだが、1990年に自治権が大幅に制限されたことにより活性化され、ユーゴ内戦を経て、改めて新ユーゴ体制下で武力紛争として顕在化したのであった。
 コソヴォ問題そのものは本連載の主題から外れるので詳論しないが、ミロシェヴィチ政権はコソヴォの分離独立阻止のため、ユーゴ内戦時と同様の手法で、連邦軍を投入して武力鎮圧を図ったため、コソヴォは国際的にも注視される人道危機に陥ることになる。

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近代革命の社会力学(連載第432回)

2022-05-26 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(1)概観
 2000年代に入って最初の革命事象は、セルビア(2000年)に始まり、グルジア(現ジョージア:2003年)、ウクライナ(未遂革命:2004年)、キルギス(2005年)と、東欧からコーカサス、中央アジアに至るユーラシア大陸の広い領域で群発した民衆革命である。
 未遂を含むこれら四つの革命は必ずしも連続的ではなく、むしろ散発的と言える事象であるが、起点となったセルビアの革命が後の三つの革命に波及的な影響を及ぼし、セルビア革命で主導的な役割を果たした青年運動組織が後発の革命を「指南」したというつながりもあるため、一定の連関性は認められる。そのため、ユーラシア横断革命と呼ぶことができる。
 これらの革命のうち、起点となったセルビアは旧ユーゴスラヴィア連邦、残りの三国は旧ソヴィエト連邦という、冷戦時代に対立的ながら共に相似形の構制を持っていた社会主義連邦共和国に属した旧連邦構成国に由来するという共通性もある。
 これら諸国では、社会主義連邦体制が内戦(ユーゴ)または革命(ソ連)によって解体された後の空隙を利用し、旧体制下で育成された権威主義的な人物が改めて権力を掌握し、独裁的な体制を再編していたところへ、民主化を求める民衆が蜂起し、革命に至ったものである。
 また、いずれの革命も選挙における政権による不正操作疑惑を契機とする抗議運動から民衆蜂起へと至っている点で、一定の民主化が進展する中、体制が選挙制度を有利に操作する形で権力維持を図らんとする時代趨勢を反映しているとも言える。
 この四革命に2005年のレバノンにおける民衆革命を含めて、しばしば「色の革命」としてくくられることもある。これは、それらの革命のいくつかで民衆がオレンジや赤などのシンボルカラーを使用したことにちなんでいる。
 しかし、すべての革命でそうしたシンボルカラーが使用されたわけではなく、またここでの「色」はイデオロギーの色とは異なり、ある意味では祝祭的なシンボルにすぎない。むしろ、これらの革命は脱イデオロギー化された民衆の蜂起によって長期支配体制が崩壊した民衆政変に近い革命であり、その点で20世紀末から今世紀にかけての新たな革命潮流を特徴づけるものであった。
 ちなみに、「色の革命」にしばしば包含される2005年レバノン革命は体制そのものよりも、駐留軍を通じてレバノン内政に干渉し、事実上属国化していた隣国シリアに対する自立革命という特殊な性格を持っていることから、本章のユーラシア横断諸革命とは別途、論じることにする。

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近代革命の社会力学(連載第431回)

2022-05-24 | 〆近代革命の社会力学

六十一 インドネシア民衆革命

(5)革命の余波‐東ティモール独立
 1998年当時のインドネシアは東南アジアにおける大国であり、そこでの30年支配体制を打倒した民衆革命のインパクトは大きかったが、近隣への革命の直接的余波となると、見るべきものがない。
 ただ、フィリピンでは当時のジョセフ・エストラーダ大統領が汚職疑惑を持たれ、弾劾手続きにさらされる中、2001年1月に民衆の抗議デモにより辞職に追い込まれる政変があった。
 これは革命に匹敵するほどの事象ではなく、実態は民衆政変であったが、大規模な民衆抗議デモのあった街路名にちなみエドサ革命と通称される1986年の民衆革命になぞらえ、エドサ革命Ⅱと呼ばれることもある。
 もっとも、この件はインドネシア民衆革命から3年近くを経過しての遅発事象であり、むしろ同年7月のインドネシアにおけるワヒド大統領の弾劾罷免に影響を及ぼした事象であった可能性もある。
 また、次章で扱うように、2000年以降、東欧のセルビアに始まり、中央アジアにまたがるユーラシア大陸のいくつかの諸国で継起した民衆諸革命も、広い視野で見ればインドネシア民衆革命が起点となっていると言えるかもしれない。
 より直接的な革命の余波として特筆すべきは、インドネシアの不法占領下にあるとみなされていたティモール島東部(東ティモール)の独立である。
 東ティモールは長くポルトガルの植民地支配下にあったところ、1974年のポルトガル民主化革命を機にポルトガル軍が撤退した後、75年、マルクス主義系独立運動組織の東ティモール独立革命戦線(フレティリン)が独立宣言を行った。
 これに対し、当時のスハルト政権は即時に国軍を派遣して東ティモールを占領、国際連合の撤退要求決議を無視して、東ティモールの併合を強行した。こうした強硬姿勢は、米・日をはじめとする西側援助諸国の黙認に支えられたものでもあった。
 以来、東ティモールではフレティリンの抵抗運動が続く中、インドネシア軍の掃討作戦により人口100万人程度の同地で最大推計30万人に上る犠牲者を出したと見られるが、これは1960年代の本国における共産党壊滅作戦にも匹敵するスハルト体制の暗部の一つである。
 この東ティモール問題は、民衆革命によるスハルト体制の崩壊が解決の糸口となった。その点でも、後継のハビビ政権は東ティモール問題のタブーを解き放ち、同地に高度な特別自治権を付与する提案を住民投票にかける方針を示し、国連及び旧宗主国ポルトガル(正式には領有権放棄を示していなかった)との間で合意した。
 1999年8月に実施された住民投票ではしかし、特別自治案が否決され、即時独立が支持されたことで、インドネシアは態度を硬化させ、国軍に支援された親インドネシア派民兵による破壊作戦に出た。
 しかし、基盤の弱い革命移行期のハビビ政権は長期の掃討作戦にはもはや耐えられず、結局、国連平和維持軍の投入と国連暫定行政機構の設立で合意し、2002年には東ティモール共和国の独立が成った。

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近代革命の社会力学(連載第430回)

2022-05-23 | 〆近代革命の社会力学

六十一 インドネシア民衆革命

(4)翼賛体制の終焉と残存課題
 1998年5月の民衆蜂起は30年に及んだスハルト政権を崩壊させたものの、後任の大統領にはスハルト側近のハビビ副大統領が自動的に昇格したため、この後継政権は「スハルト抜きのスハルト政権」となることが懸念された。
 実際、辞職したスハルトが隠然たる影響力を行使して院政を敷く可能性すらあり得る状況であったが、意外なことに、ハビビ政権は短期間でかなりの程度、脱スハルトに向けた改革を実施したのであった。
 その柱として、従来ゴルカル翼賛体制の法的基盤となっていた政党法を大改正し、ゴルカル以外の一般政党を不利に扱う政党規制を廃止し、対等な複数政党制を導入するとともに、選挙法も改正し、自由選挙の制度を整備した。
 ハビビ政権はこの新法制の下、民衆蜂起翌年の1999年には早速に総選挙及び大統領選挙(間接選挙制)を実施した。ハビビ自身も党内抗争の末に与党ゴルカルの大統領候補に指名されるも、ゴルカルは総選挙で第二位に終わり、大統領選挙でも穏健イスラーム主義者のアブドゥルラフマン・ワヒドが当選した。
 このような結果となったのは、まさにハビビ政権の政党法改正によって、インドネシア民主党を離れたメガワティが改めて結成したインドネシア民主党闘争派(闘争民主党)とワヒドの国民覚醒党が連携したためであった。
 こうして、従来抑圧されていた世俗系とイスラーム系の野党が連携するという力学の中で、ゴルカル翼賛体制は終焉したのであった。このことにより、1998年民衆蜂起は、結果としてゴルカル体制を打破する革命的な効力を持ったことになる。
 このような結末をもたらすことはハビビの本望ではなかったかもしれないが、ハビビ政権の改革なくしてこうした結果はもたらされなかったという点では、ハビビ政権は図らずも事実上の革命移行政権の役割を果たしたとも言える。
 一方、新大統領となったワヒドは、インドネシアでしばしば差別迫害の対象となり、民衆蜂起時にも攻撃の標的とされた中国系(客家)の血を引く点でも、これまでにない指導者であったが、任期を全うできず、2001年に弾劾罷免されるという不名誉な終わりを迎えた。
 ワヒド大統領の弾劾罷免には様々な要因があるが、革命との関わりでは、ワヒドが軍の利権排除のため、軍の改革に着手しようとしたことで軍部の支持を失ったこと、より直接には、01年7月の大統領令をもって上下両院の解散とゴルカルの完全解体を図ったことがある。
 これは、従来のインドネシア支配機構の一挙的な解体を狙ったものだが、かえってゴルカル以外の主要政党をも結束させ、国民協議会に大統領弾劾を決断させる要因となった。とはいえ、現時点までゴルカルは主要政党として存続しながらも、一人の大統領も輩出しておらず、ゴルカル翼賛体制はひとまず解体されたと言える。
 しかし、ワヒド政権、後継のメガワティ政権下でも積み残されたのは、スハルト時代に肥大化した軍部利権の排除である。前述したように、ゴルカル体制≒軍部支配体制であったところ、排除されたのは表層のゴルカルだけで、背後の軍部は温存された。
 その点、2004年に初めて直接選挙方式で実施された大統領選挙で国軍出身のスシロ・バンバン・ユドヨノがメガワティを破って当選、二期十年にわたり大統領を務めたことも、ある意味では軍部政権の部分的な復活であり(ただし、政権与党は2001年結成の民主党)、軍部利権の温存を後押ししたと言える。
 このことは、ワヒド政権以後も、軍が関与した1965年‐66年のインドネシア共産党員及び支持者に対する大量殺戮の真相究明と司法処理がなされていないことと合わせ、ポスト・スハルト時代のインドネシアにおける民主化を制約する要因となっている。

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続・持続可能的計画経済論(連載第32回)

2022-05-22 | 〆続・持続可能的計画経済論

第3部 持続可能的計画経済への移行過程

第6章 経済移行計画

(3)「経過制」か「特区制」か
 経済体制の移行に際しては、しばしば特定の地域に限り特別な法的地位を与え、他地域とは異なる経済体制を敷く経済特区が設置されることがある。その多くは統制的な経済体制を自由市場経済体制に転換する過程で見られる。これを最も大々的に活用してきたのは中国である。
 このような手法は、一挙に経済体制を移行する場合に陥りがちな経済混乱を緩和するとともに、まずは特区内で地域限定的に試行することで、新経済体制に社会経済を適応させていく意義もある。
 こうした経済特区制は、自由市場経済から持続可能的計画経済に移行するに際しても適用することは理論上可能である。例えば、都市部及び農漁村部の一定地域を「計画経済特区」に指定し、各地域限定的に持続可能的計画経済を先行的に試行するような方策である。
 しかし、特区制はどのような方向性のものであれ、政策的に指定された一定の地域の住民や登録法人に限り特別な経済特権を付与することになる点で、法の前の平等に反する結果となる。
 中でも、持続可能的計画経済は貨幣制度の廃止を本旨とすることからも、特区内に限り貨幣制度を廃止することの不公平さ、さらにはそれに伴う経済混乱も少なからず予想されることからして、特区制によることは適切と思えない。
 持続可能的計画経済への移行に際しては、特区制ではなく、全域一律的なシステム移行を想定するべきであろう。このような手法は「特区制」に対して「経過制」と呼ぶことができる。経過制は、前回も見たような段階を経過して、計画的に経済体制の移行を進めていく手法である。
 ちなみに、「経過制」と対照されるもう一つの手法として「即行制」がある。これは段階を設けることなく、新経済体制に一挙移行するもので、言わばショック療法的な手法である。これも、ソヴィエト連邦解体後のロシアなどで資本主義市場経済体制に移行する際に適用された実例があるが、市民生活を犠牲に供する経済混乱を生んだ。
 その点、貨幣経済の廃止を即行で実施することに伴い予想される混乱は、急激な市場経済化の比では済まないから、このような手法は論外である。結局、綿密な経済移行計画を伴う経過制こそが、持続可能的計画経済への移行を最も円滑に保証することになると考えられる。

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比較:影の警察国家(連載第60回)

2022-05-20 | 〆比較:影の警察国家

Ⅴ 日本―折衷的集権型警察国家

1‐1‐1:警察庁の集権化と行政浸透

 警察庁は、日本特有のスフィンクス型警察組織の頭部を成す警察行政機関として位置づけられるが、完全な国家警察ではないため、それ自身が犯罪捜査や警備・監視などの現場任務を実施するものではない。その点で、ドイツの連邦警察連邦刑事庁とは似て非なる機関である。
 とはいえ、警察庁は単なる形式的な管理機関ではなく、全都道府県警察の頂点に立ち、各警察本部の上級幹部人事を掌握する集権性を持った機関である。特に、1994年の警察法改正に際して、警察庁における言わば参謀本部である長官官房の職務権限を強化し、警察行政全般の総合調整の役割を付与したことで集権性を増している。
 また、この94年改正では、警察庁に生活安全局を新設したが、これは防犯や地域警邏、少年補導、風俗営業規制などの諸分野を統括する新たな部局の設置であり、それにより、都道府県警察業務の中でも最も地域密着型の分野を警察庁が中央から統制できる形となった。これも集権性を増強する制度改正である。
 日本の警察庁のもう一つの特質として、そこに所属する上級警察官である警察官僚が他省庁へ出向または移籍する形を取って、政府部内で横断的に活動することである。中でも、内閣の中枢事務を担う内閣官房である。
 その代表的なものとして、内閣危機管理監がある。これは、90年代の阪神淡路大震災やオウム真理教による化学テロ事件などの事変を契機として、1998年に大災害や大規模犯罪事件などに際しての政府の危機管理対策を統括するポストして新設された官職であり、歴代すべて警察官僚から任命される指定席である。
 もう一つは、同じく内閣官房に属する内閣情報官である。内閣情報官は日本における中央諜報機関である内閣情報調査室の室長を兼ねつつ、日本の諜報機関を束ねて内閣総理大臣に直接報告を行う事務次官級特別職であるが、これも2001年の設置以来すべて警察官僚から任命されており、指定席である。
 危機管理監や内閣情報官が属する内閣官房には三名の副長官が置かれるが、そのうち官僚から任命される事務系副長官は必ずしも警察官僚の指定席ではないものの、歴代しばしば警察官僚が任命されてきた。近年は2012年以来、二代連続で警察官僚から任命されており、指定席化の兆候が見られる。
 それとも関連し、2014年に中央省庁の幹部人事を統括する機関として新設された内閣人事局の局長にも、近年二代連続で警察官僚が官房副長官兼務で任命されており、これが慣例化すれば中央省庁人事全般に警察官僚の統制が及んでいく可能性がある。
 また、2011年の東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故を契機に環境省外局として設置された原子力規制員会の事務局となる原子力規制庁の長官も初代以来、現在まで歴代四人中二人が警察官僚であり、その他の下僚出向者と合わせ原子力規制の分野にも警察官僚の浸透が見られる。
 このように、警察官僚はその本拠である警察庁を超えて内閣中枢や他省庁にも人事上浸透し、政府の運営全般に影響力を行使している。このことは、日本における影の警察国家化が警察の活動そのもの以上に、警察官僚を通じて行政的に進行していることを示している。

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近代革命の社会力学(連載第429回)

2022-05-18 | 〆近代革命の社会力学

六十一 インドネシア民衆革命

(3)民衆蜂起から半革命へ
 アジア通貨危機はスハルト体制の経済下部構造を直撃し、脆弱な金融システムや軍部・スハルト一族、さらには取り巻き集団の経済利権に支えられていた縁故資本主義の限界を露にし、体制の動揺は政治的上部構造にも及んだ。
 とはいえ、体制に対抗すべき野党は脆弱であった。ゴルカル体制の下、合法的な野党は、いずれも政権による事実上の強制合併によって形成された官製野党であるイスラーム系の開発統一党と世俗系のインドネシア民主党の二党しか存在しなかったうえ、前回も触れたとおり、両党ともに地方の草の根レベルでの活動が制限されており、弱小政党にとどまっていた。
 ただ、民主党では90年代になって、スカルノ長女のメガワティ・スカルノプトリが指導者として台頭し、党首に就任したが、党内の反メガワティ派が政権と通じる形でメガワティを追放した。その際、党本部の明け渡しをめぐる両派の抗争に介入した治安部隊と一般市民を含むメガワティ支持派の衝突で多数の死傷者を出す事件があった。
 これは通貨危機前年の1996年7月のことであったが、この件が体制の打撃となったようには見えず、むしろ政権が野党の人事にまで介入できる力を誇示する形となった。結局のところ、通貨危機の時点で、体制に対抗できる力量を持つ野党は存在しなかった。
 そのため、通貨危機に起因する1998年以降の反体制運動の導火線となったのは、学生運動であった。学生運動も厳しく監視され、抑圧されていたとはいえ、フットワークが軽く、政治的に組織されていない学生運動は権力にとってしばしば死角となる。
 学生の抗議運動は98年1月から始まるが、ピークは政権が燃料費を70パーセント値上げした5月に訪れた。抗議運動はこの頃からスハルト大統領の辞任要求を掲げるようになっていた中、大統領がG15首脳会議出席のため外遊中の同月12日(以下、断りない限り日付は98年5月を示す)、首都ジャカルタのトリサクティ大学で抗議デモ中の学生に治安部隊が発砲し、4人の学生が死亡する事件が起きた。
 この事件が引き金となってそれまでは静観していた一般市民も決起し、全国各地での民衆蜂起に進展した。この蜂起は非暴力にとどまらず、略奪―特に中国系商店への―やレイプさえも含む暴動を伴ったため、世上「1998年5月暴動」と呼ばれることになった。
 しかし、この大暴動が直接に革命に達することはなかった。14日に急遽スハルトが帰国すると、暴動は自然収束したからである。その要因は不詳であるが、軍による流血の武力鎮圧を回避したい民衆と政権双方の意思が一致したことが自然収束を結果したようである。
 ところが、暴動収束後の18日になって、本来はスハルト側近であるハルモコ国民協議会(国会)議長が公然とスハルトの辞任を要求、これに呼応して有力なイスラーム指導者も大統領辞任を求める大規模なデモ計画を公表した。
 意外なことに、これを受け、3月に七選し権力に執着していたはずのスハルトが辞職の意思を固め、21日には公式に辞職した。こうして、30年に及んだスハルト体制が5月のわずか一週間余りの激動により、あっさり終焉したのであった。
 強力な軍部支配機構に支えられていたはずのスハルト体制がこれほど簡単に崩壊するに至った力学を合理的に説明することは困難であるが、経済的にも大損失を生じた通貨危機と民衆蜂起を経て、すでに高齢のスハルト本人や側近集団も政権維持への意欲を喪失する集団的なアパシーが生じた可能性がある。
 ただし、後任大統領には憲法の規定に従い副大統領が昇格したため、ゴルカル体制自体は当面継続した。結局、民衆蜂起はスハルトの辞職という結果を導くにとどまったため、98年5月の出来事自体は「半革命」と呼ぶべき不発的な革命事象であった。

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近代革命の社会力学(連載第428回)

2022-05-17 | 〆近代革命の社会力学

六十一 インドネシア民衆革命

(2)アジア通貨危機とスハルト体制の動揺
 1980年代まで、スハルト体制は近隣フィリピンのマルコス体制と並び、しばしば「開発独裁」とも称される経済開発至上の反共親米体制として比肩されていたが、一足先にマルコス体制を打倒した1986年フィリピン民衆革命はインドネシアに波及することはなかった。
 その秘訣として、ゴルカル支配機構の存在があった。ゴルカルとは実質上スハルトとその最大権力基盤である軍部が動かす政治経済支配のマシンであって、一政党にとどまらない職能団体の位置づけであった。選挙に際しては政党として機能するが、一般政党の地方における草の根活動を制限する一方で、ゴルカルは草の根レベルで組織されていたため、選挙では常勝するべく仕組まれていた。
 結局、スハルト体制の実態は、それ自身もビジネスを展開し、経済利権を有する軍部がゴルカルを通じて政治経済を包括的に支配するという形で、当時の世界にあって最もシステマティックに、かつ民主体制に似せて構築された軍事独裁体制と言えた。それだけに、所詮は文民独裁体制であり、最期には軍上層に離反されたマルコス体制よりも強固であり、1990年代に入っても揺るがなかった。
 それが90年代末に突然動揺を来たした要因としては、1997年のアジア通貨危機が決定的であった。当時のインドネシア経済は堅調で、充分な外貨準備を保有していたが、通貨危機発端のタイが自国通貨バーツの変動相場制を緊急導入したことで、インドネシアもあおりを受けた。
 ここでインドネシア通貨当局が為替介入し、さらに変動相場制へ移行したことで、ルピアが下落し、外貨準備の枯渇、インドネシア株の暴落という連鎖反応を招いた。その後、世界銀行や蜜月関係にあった日本など国際社会からの緊急支援も虚しく、97年11月以降、通貨危機が深刻化し、元来脆弱な金融システムは崩壊危機に瀕し、急激なインフレーションと物価高騰を惹起した。
 こうして、インドネシアはスハルト体制創始以来最大の経済危機に陥るが、スハルトは1998年3月の国民協議会(国会)による間接選挙(複選制)で、改めて大統領に選出され、連続七選を果たしたうえ、副大統領に技術者・財界人で閣僚経験も有するユスフ・ハビビを起用した。
 このようなスハルトの権力への執着も市場の警戒感を助長し、ルピアの下落は一層亢進した。そうした中で、政界やインフレに直撃された市民の間でも、スハルト自身を経済危機の元凶とみなす意識が急速に高まっていく中、98年4月以降、民衆蜂起の土壌が形成されていった。

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近代革命の社会力学(連載第427回)

2022-05-16 | 〆近代革命の社会力学

六十一 インドネシア民衆革命

(1)概観
 冷戦終結とソヴィエト連邦解体の余波が一段落し始めた1990年代末以降も、世界各地で革命事象は続いていくが、この頃から、明確なイデオロギーを標榜する革命組織によらない未組織民衆の蜂起によって体制が崩壊し、その後も革命政権が樹立されない「革命」が多くなる。
 これは、従来の革命の定式からすると、革命そのものより半革命的な「民衆政変」と呼ぶべき事象であるが、単に為政者の失権・交代にとどまらず、政治経済構造の変革にまで及んだ限りでは、非定型な革命に類別できる事象である。そのような伝統的な革命概念に当てはまらない非定型革命の代表的な事例は、21世紀まで残余数年に迫った1998年5月のインドネシア民衆革命である。
 インドネシアでは、1949年独立革命の指導者スカルノによる大政翼賛的な体制(NASAKOM体制)が60年代前半までに確立されていたが、体制に取り込んだ共産党と結ぶ一部将校による1965年のクーデターが失敗に終わった後、陸軍による鎮圧作戦を指揮したスハルト将軍が急台頭し、50万乃至100万人とも推定される共産党員や党支持者と疑われた者を大量殺戮したうえ、最終的に圧力でスカルノを辞職させ、1968年に自ら大統領に就任した。
 以来、スハルトは自身の出自組織である軍部と翼賛政治団体ゴルカルを権力基盤に、無競争での形式的な大統領選挙で多選を重ね、30年にわたりアジアで最も強固な親米派独裁体制を維持していたが、冷戦終結後も盤石と見えた体制をあっけなく崩壊に導いたのが1998年の民衆革命である。
 その発生過程は12年前のフィリピン民衆革命と類似しているが、結果はかなり異なり、インドネシアではスハルト大統領の辞職と副大統領の昇格という当時の憲法規定に沿った穏当な結果で収束した。
 この結果のみに注目すれば、これは為政者の合法的な交代をもたらしただけの民衆政変とも言えるが、政権を継承したユスフ・ハビビ新大統領はスハルト側近者の出自でありながら、脱スハルト化をかなりの程度推進し、言論自由化や民主的な政党法・選挙法の導入などの民主化措置やスハルト一族の不正追及にまで踏み込んだ。
 そのうえ、翌1999年の新制度下での総選挙ではスカルノ長女のメガワティ・スカルノプトゥリを擁する野党が第一党となり、続く大統領選挙でも従来は権力の外にあった穏健派イスラーム指導者アブドゥルラフマン・ワヒドが当選し、ゴルカル翼賛体制は解体された。
 ゴルカルは単なる政党にとどまらず、スハルト時代の政治経済構造全般の支配機構でもあったため、短期間でゴルカル体制の終焉をもたらした1998年の政変は革命的な変革に及び、さらに余波として東ティモールの分離独立も導いた点から見ても、やはり革命事象に数えられる。

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続・持続可能的計画経済論(連載第31回)

2022-05-15 | 〆続・持続可能的計画経済論

第3部 持続可能的計画経済への移行過程

第6章 経済移行計画

(2)経済移行計画の期間
 一般に、経済システムの全般的な移行には一定以上の期間を要する。従って、経済移行計画は数年という年単位の経済計画とは異なり、ある程度長期的な展望に立った工程的計画となることを免れない。
 まして、貨幣経済の究極である資本主義市場経済システムから、人類史的な変革となる貨幣経済の全廃を最終的な到達点とする持続可能的計画経済システムへ移行するには、一時代を要することは間違いない。
 実際にどれほどの期間を要するかを数字的に示すことは困難であるが、一般的に言って、資本主義市場経済の進展度の高さに比例して、経済移行計画には長期間を要することになる。
 従って、資本主義経済発展が遅滞しており、現在の基準では「途上国」に分類される諸国ほど、経済移行の期間は短期で済む。反対に、「先進国」(=資本主義先進国)ほど、持続可能的計画経済との関係では移行に時間を要する「途上国」となる。
 そのように長短差はあれ、経済移行計画のプロセスは、持続可能的計画経済が完全に定着した段階を到達点として、経過期間→初動期間→完成期の三段階に大きく分けることができる。
 最初の経過期間はまさにシステム移行の只中にあり、経済移行計画の中心的な期間である。この時期を性急に進めると経済破綻を来しかねないので、要注意である。特に現代の「文明人」がほぼ無意識のレベルで身体構造化している貨幣制度の廃止を性急に進めることは禁忌である。
 後で改めて検討するように、この段階でいわゆる経済特区制のような地域的試行制度を導入すべきかどうかは一つの問題である。いずれにせよ、この経過期間は経済移行の成否の鍵を握る最重要段階である。
 続く初動期間は、経過期間を経て第一次の経済3か年計画が施行され、持続可能的計画経済が動き出す期間である。この期間はおそらく世界的にはなお持続可能的計画経済への移行が限定的で、資本主義市場経済を維持している諸国も残されている段階であるので、完全にはまだ移行し切れていない。
 一方で、この期間は初動とはいえ、すでに持続可能的計画経済が始動している限りにおいては経済移行計画の期間を過ぎているとも言えるが、如上の事情から、まだ経済移行計画は終了しておらず、計画の延長期間とも言える。
 この初動期間を過ぎて、世界的にも持続可能的計画経済が動き出した時点で完成期に入る。この段階でようやく世界的にもほぼ貨幣経済が廃され、経済移行計画は完全に終了することになる。

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近代革命の社会力学(連載第426回)

2022-05-11 | 〆近代革命の社会力学

六十 メキシコ・サパティスタ革命

(5)革命の反響と展望
 サパティスタ革命はメキシコの一部地域限定の地方革命として収斂し、メキシコ全土に拡大されることはなかったため、その影響も限定的であり、革命の直接的な余波と言えるような事象はこれまでのところ存在していない。
 しかし、この革命は折しも汎用インターネットの急速な普及の時期と重なっており、EZLNも情宣活動を巧みに展開したことにより、反グローバリゼーション運動の潮流の中で、国内的及び国際的にも注目を集め、反響を呼び起こしたことは確かである。
 中でも、理念上の指導者であるガレア―ノ副司令官は匿名かつ覆面のまま活発な執筆活動や宣伝活動を内外で展開し、ある種の革命マスコットとして注目を集めてきたことは従来の革命に見られないメディア的宣伝効果を持ち、メキシコ政府をして柔軟対応に向かわせる要因ともなった。
 国内的には、首都でもサパティスタに共鳴する支援組織の結成や連帯デモ行動も呼び起こしたほか、前回も触れたとおり、革命当時のPRI長期支配体制が2000年の大統領選挙で敗北し終焉したことにも、サパティスタ革命が影を落としている。
 ただし、この政権交代はPRI体制末期以来の新自由主義グローバリゼーションをより一層強化する国民行動党の勝利であり、これは反グローバリゼーションを掲げるサパティスタ革命とは真逆の力学作用であった。このような連邦レベルでの新自由主義改革とサパティスタ地方革命の同居というねじれ現象も興味深いところである。
 その後も、メキシコの歴代連邦政権はサパティスタ自治を黙認する方針を継承しているが、これは公式の憲法上の自治の承認ではないため、政権交代等に伴う方針変更により再び武力掃討作戦に転ずる可能性も残されている点で、なお流動的な要素が存在する。
 また、国際的な反響として、20世紀末に相次いだ反WTO、反IMF抗議活動など、グローバル資本主義の指令機関に対する大規模な反対運動にもサパティスタ革命が理念的な触発の効果を持っていたと考えられるが、これらの運動は革命的なものではなく、グローバル資本主義が動かし難い「現実」として認識されるにつれ、退潮していったことも否めない。
 サパティスタ自体も、自治が定着するにつれ、以前ほどの注目は引かなくなっており、それどころか、かれらが資本主義的な賃金制度や貨幣交換を廃止していないことや、プラスチックの使用、牧畜用の森林伐採など環境保全に後ろ向きの行動を続けていることなどに批判も向けられるようになっている。
 こうしたことは理念追求と現実適応の狭間で格闘するすべての革命的体制が共通して直面する難題であるが、現時点でのサパティスタ自治域と後に取り上げるシリアのクルド自治域は、地球上で最も革新的な政治経済の小さな実験場となっている。

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近代革命の社会力学(連載第425回)

2022-05-10 | 〆近代革命の社会力学

六十 メキシコ・サパティスタ革命

(4)サパティスタ自治域の樹立

〈4‐1〉樹立までの経緯
 武装革命組織の活動に対しては大量人権侵害も辞さない徹底した武力掃討作戦で臨むことを「伝統」としてきたラテンアメリカにあって、1996年にメキシコ連邦政府とEZLNの間で締結されたサンアンドレス合意は異例のものであった。
 このような妥結を可能としたのは、EZLNがチアパス州を超えたメキシコ全土での革命という野心を持たなかったこと、他方、時のPRI支配体制自体も長い内乱を伴う20世紀の革命の結果成立した経緯があり、長期の内戦につながりかねない鎮圧作戦はあえて放棄するという両者の歩み寄りであった。
 その結果、合意には、先住民族の多様性の尊重や先住民族地域の天然資源の保全といった連邦の原則的な施策にとどまらず、EZLNに対し拠点となる地域において国家の枠組み内での自治を暫定的に認めるという異例の内容をも含んでいた。
 とはいえ、事実上の自治国家の樹立に等しい内容を含む合意内容は容易に履行されず、州政府に庇護された地元自警団による攻撃が合意後も続いていたところ、2000年の大統領選挙で野党・国民行動党のヴィセンテ・フォックスが当選、PRIが71年ぶりに政権を失ったことが新たな転機となった。
 フォックス新政権自体は新自由主義グローバリゼーションを強力に推進する立場でありながら、反グローバリゼーションを掲げるEZLNに対しては柔軟な対応を取り、チアパス州内の軍事基地の閉鎖やサパティスタ政治犯の釈放に応じるとともに、先住民法を制定し、各州に対して先住民自治を認めるかどうかの選択権を与えた。
 これはEZLNの自治を連邦政府として公式に承認する趣旨ではないが、黙認するに等しいものであった。これ以降、EZLNはチアパス州内の拠点地域で自治域を樹立することが可能となった。
 その結果、チアパス州の東部に、一部飛び地を含む「サパティスタ反乱自治体群(Municipios Autónomos Rebeldes Zapatistas:MAREZ)」と通称される地域が成立した。

〈4‐2〉自治の構造
 MAREZはあくまでもチアパス州に属する基礎自治体(先住民集落)の集合地域という建前ではあるが、連邦及び州の実効支配がほぼ及ばず、独自の制度によって統治される事実上の自治国家の体を成し、メキシコ領内の「サパティスタ自治国家」と呼んでも差し支えない状況にある。
 とはいえ、アナーキズムを理念とするため、「自治国家」ではなく、ここでは「自治域」と呼ぶこととする。この自治域がカバーする人口は推定で36万人前後と見られる。
 サパティスタ自治と言っても、本質的に武装組織であるEZLNは統治に直接関与せず、領域内は「カタツムリ(caracoles)」と呼ばれる小さな地区単位に分けられ、12歳以上の住民であれば誰でも参加できる直接民主主義的な民衆会議が議決機関として設置される。カタツムリは連合して、より広域の自治体を形成する。
 基本的にアナーキズムの理念によっているため、元首はもちろん、諸国に見られる自治体首長に相当する公職者も存在せず、日々の行政事務を担当する役場と森林管理や隣接自治体との紛争処理を担当する土地管理評議会、警察があるのみである。
 経済的な面では、個人所有物を除き私有財産(資本制)は廃止され、土地共有制が施行されつつ、農業を基盤とする自給自足経済が営まれている。ただし、農作物を国際市場に出荷し、金銭収入を得ており、国際的な次元での市場経済には適応している。
 経済組織としては、労働者協同組合と家族農場、地域商店を基本とし、日常社会生活は低金利融資や無償の教育・医療、ラジオ放送などのサービスを提供する「良き統治評議会」を通じて保障されている。
 また、前回見たように、元来、EZLNに女性メンバーが多いことを反映し、革命運動や革命統治における女性の対等な参加の権利を謳った10項目から成るフェミニズムのマニフェストとして「女性に関する革命法」が存在し、先進的なフェミニズムが実践されていることも特徴的である。

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