ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第373回)

2022-01-31 | 〆近代革命の社会力学

五十四 ハイチ民衆革命

(3)民衆蜂起と外圧
 デュヴァリエ世襲体制下での民衆の抗議行動は1970年代末から始まるが、本格的に隆起したのは1980年代に入って、デュヴァリエ世襲体制の弱体化が進行する中でのことである。最初の明確な始期は、1984年5月、北部の都市ゴナイーブでの抗議行動である。
 ゴナイーブはハイチ史においては象徴的な場所であって、1804年には、独立革命の功労者で初代の皇帝ともなったジャン‐ジャック・デサリーヌがこの町で独立宣言を発している。言わば、革命発祥の町である。
 この時、デモ隊は運動を「蜂起作戦」と呼び、革命には至らなかったものの、ある程度まで計画的に行動した。これに対し、政権側は武力弾圧を試みるも、抗議行動は他都市に拡大した。この「蜂起作戦」は、これ以後、民衆運動のキーワードとなる。
 抗議行動の全国的な進展を恐れた政権は、二つの対策を講じた。一つは、抗議行動の背景にあった食糧価格の高騰を抑えるため、日常食糧価格の10パーセント削減という価格統制、もう一つは憲法改正である。
 しかし、新憲法では終身大統領の権限をかえって強化する焼け太りを画策し、1985年7月に行われた国民投票では99パーセントの高率で承認されたものの、不正な投票操作の疑念も相まって、抗議活動はかえって激化した。とはいえ、抗議行動の波は首都ポルトープランスにはまだ到達しなかった。
 しかし、国民投票後、85年後半期には、学生も授業ボイコットのストライキで抗議に加わり、抗議行動の全国的な拡大が見られた。これに対し、政権は学校や放送局の閉鎖で応じたが、11月には治安部隊との衝突で学生が死亡する事件が発生した。
 これは民衆運動のクライマックスとなり、86年1月には野党勢力が全国ゼネストを呼びかけ、カトリック界も政権の非道さを非難する声明を発する中、首都では、独裁の拠点を孤立させるため、デモ隊が首都につながる道路を封鎖する戦略で対抗した。
 その結果、86年1月以降、抗議行動は全国規模化し、各地で暴動の様相を呈した。政権が統制不能に陥る中、ここで最大の援助国アメリカが事態収拾に動く。先代からの強固な反共政策を高く評価していたレーガン政権の援助は国家予算の半分以上にも及んでおり、独裁者と言えどもアメリカの圧力には逆らえない従属状況にあった。
 レーガン政権は先行のニカラグアのように、一族独裁に対する革命が高揚して親ソ連・親キューバの左派政権がハイチにも出現することを恐れ、予防的に政権の立て替えを画策していた。そこで、仲介者を立てて説得したうえ、86年2月7日、アメリカが用意した航空機でデュヴァリエ一家を旧宗主国フランスへ出国させた。事実上の亡命であった。
 これにより、29年に及んだデュヴァリエ父子世襲体制があえなく終焉した。しかし、革命運動は組織化されておらず、野党勢力も30年近い独裁下で逼塞し断片化していたため、革命政権を形成することはできなかった。
 代わりに現れたのは、出国直前にデュヴァリエ自身が立ち上げた国家統治評議会であった。評議会の議長はデュヴァリエ政権下の軍部を掌握していたアンリ・ナンフィ参謀総長であり、メンバーも旧体制派の軍人と文民から成る軍民混合政権であった。
 この人事はおそらく、完全な革命を阻止したいアメリカ政府との事前の打ち合わせによる政権引き継ぎの結果である。こうして、民衆運動はデュヴァリエ体制打倒の目的は果たしたものの、1986年の段階では、民主化革命としては全く不完全なものに終わったのであった。

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近代革命の社会力学(連載第372回)

2022-01-28 | 〆近代革命の社会力学

五十四 ハイチ民衆革命

(2)デュヴァリエ世襲体制の弱体化
 前回も触れたように、ハイチでは1957年以降、フランソワとジャン‐クロードのデュヴァリエ父子による世襲の終身大統領制というほぼ王朝に近い特異な独裁体制が確立されていった。
 初代のフランソワは、西アフリカから捕縛・移入された旧黒人奴隷たちが持ち込んだ伝統宗教ブードゥー教を研究したうえ再活性化し、自らその祭司をもって任じることで、公式にはカトリック国でありながら、ブードゥー教信仰者が多いハイチにあって、ブードゥーを通じた全体主義的な一種の宗教ファシズム体制を構築した点において、カリブ海域にあっても極めて特異な統治手法を見せた。
 一方で、彼は大統領就任直後にクーデター未遂を起こした正規軍を信用せず、新たに自身に絶対的忠誠を誓う親衛隊的な民兵組織・国家保安義勇隊(通称トントン・マク―ト)を創設し、小作農から没収した農地を無給の要員に割り当てるなど封建的とも言える特権を与えつつ、法を超越した暴力団的な秘密政治警察としても活用し、恐怖政治の道具とした。
 しかし、このようなブードゥー・ファシズム体制は、子息のジャン‐クロードの時代になると、変化する。ジャン‐クロードは19歳という―おそらく世界史上も―最年少で大統領に就任したこともあり、当初は前ファースト・レディの母親とテクノクラートの補佐に依存し、自身は放蕩している状態であった。
 そのため、ムラートの知識階級を多数登用したことで体制がより合理化され、宗教ファシズムから一種の管理主義体制に変化した。また、政治犯の釈放や検閲の緩和など、ある程度の自由化を進めたものの、父親の遺産であるトントン・マク―トを活用した恐怖政治は不変であった。
 ジャン‐クロードが「親政」を開始した70年代後半以降は、アメリカ資本と結び、立ち遅れていた経済開発を急ぐが、如上の小作農地没収策とも相まって、農業の衰退とそれに起因する都市スラムの拡大を招くなど、農政の欠陥が経済不振の原因となった。78年に発生したアフリカ豚熱ウイルスの蔓延も、重要産業である養豚への打撃となる。
 一方で、外交上は父の時代から強固な反共親米の立場を維持し、アメリカの庇護を受けていたことも体制護持の鍵であったが、前出アフリカ豚熱ウイルス対策として、アメリカ政府と共同で豚の大量殺処分に乗り出したことは、養豚農家に打撃となり、反政府感情を強めた。
 加えて、人間のエイズ・ウイルス問題がハイチで深刻化しているとの報告から、重要産業でもあった観光も打撃を受け、80年代前半期のハイチ経済は不況に見舞われ、貧困がいっそう深刻化していった。
 そうした中、83年にハイチを公式訪問した当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世がハイチの現状に懸念を示し、富の公平な分配や社会構造の平等化、国民の政治参加を求めるという異例の政治介入を行ったことは、先鋭なカトリック聖職者や民衆を刺激し、その後の民衆運動に少なからぬ影響を及ぼした。
 こうした状況にもかかわらず、デュヴァリエ一族はタバコ産業の私物化による蓄財に励み、ムラート財閥出自のファースト・レディともども豪奢な私生活を享受していたことも民衆の反感を強め、抗議活動の誘因となった。
 このように、初代のようなカリスマ性を欠く二代目デュヴァリエ終身大統領の時代は、合理化された反面、代償として政治経済の両面で弱体化が緩慢に進行していく過程にあったと言える。

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近代革命の社会力学(連載第371回)

2022-01-27 | 〆近代革命の社会力学

五十四 ハイチ民衆革命

(1)概観
 1980年代のアフリカ諸国における第四次革命潮流は、大西洋を越えて、カリブ海のアフリカとも呼ぶべきハイチにも飛び火し、1986年2月に始まる民衆革命を惹起した。もっとも、この革命はアフリカのそれとは性格を異にしており、直接の連関性を認めることは困難だが、冷戦時代末期の同時代的な革命事象の一つには数えられる。
 ハイチ民衆革命は、同年同月に生じ、より国際的な注目を引いたフィリピン民衆革命を経て、80年代末に始まる中・東欧の社会主義圏における民衆による民主化革命へと連なる起点ともなった。
 ハイチは18世紀末から19世紀初頭の黒人奴隷勢力による独立革命によってラテンアメリカ地域でいち早く独立を勝ち取った輝かしい歴史を持つが、その後の歩みは内政の混乱と旧宗主国フランスからの多額の独立賠償金要求に制約され、国家的発展が著しく阻害された。
 20世紀に入ると、ラテンアメリカを勢力圏として確保せんとするアメリカの帝国主義的侵出の標的にされ、実質的な占領状態に置かれるが、その占領下で旧軍隊を解散したアメリカの肝入りにより創設された治安部隊を前身とする軍の政治力が強まり、たびたびクーデタにさらされるようになる。
 社会経済構造の面では、建国以来、白人との混血である少数派ムラートが財閥を形成して支配階級の地位にあり、大多数を占める黒人を搾取する体制が構造化されており、深刻な貧困問題も根本的に未解決であった。
 そうした中、戦後、1956年の大統領選挙で、貧困層への医療活動に貢献してきた医師フランソワ・デュヴァリエが当選した。彼は伝統的なムラート支配階級の外部から現れた黒人系の大統領として、当初は多いに期待された。
 しかし、彼は次第に恐怖政治により独裁化し、終身大統領の地位を固めたうえに、1971年に持病の心臓病で急死すると、その子息で当時わずか19歳のジャン‐クロードが後継の終身大統領に推戴されるという王朝的な権力の世襲まで実現させた。
 このようにして、共和制の枠組みのまま事実上の世襲王朝化したデュヴァリエ一族による29年に及ぶ支配体制を民衆蜂起によって打倒したのが、1986年に始まる革命であった。
 ただし、デュヴァリエ体制が崩壊した86年の段階では革命政権は成立せず、この後、主導権を握った軍部内の権力闘争を反映したクーデター合戦の二転三転と民衆の抗議運動の継続の末、1990年の大統領選挙をもって、民衆運動の指導者であったカトリック司祭ジャン‐ベルトラン・アリスティドが大統領に当選したことで、革命はひとまず収束した。
 このように、ハイチ民衆革命は約4年という長いプロセスを経たが、今日における革命の主流となってきている無党派層による民衆革命の先駆けという歴史的意義を持つ革命であるとともに、革命後に待ち受けていた現在時点にまで及ぶ政治混乱により、こうした無定形でイデオロギー的に凝集することのない民衆革命の困難さをも示している。

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「新冷戦ゲーム」は止めよ

2022-01-26 | 時評

米欧露首脳らによるウクライナをめぐる軍事的な緊張ゲームが熱を帯びてきている。ウクライナを獲物のように奪い合う政治ゲームでもあり、2年越しのコロナ対策に飽きてきた首脳らの火遊びの様相である。

ゲームとはいえ、ウクライナが獲物となるには理由がある。現状、ウクライナは(バルト三国及びジョージアを除く)旧ソ連邦構成諸国が加盟し、ロシアの同盟体とも言える独立国家共同体(CIS)には加盟せず、西側軍事同盟体の北大西洋条約機構(NATO)にも未加盟という宙摺り状態にあるため、ロシアと米欧とで奪い合いになっているからである。

緊張の発端がロシアの軍事的示威行動にあることは明らかであるが、その意図として、ウクライナのNATO加盟を阻止するだけの狙いなのか(そうだとすると全面侵攻の必要はない)、旧ソ連領土で歴史的にはロシア国家発祥の地でもあるウクライナを「回収」したいのか(そうだとすると全面侵攻もあり得る)、ロシア帰属を望むロシア系住民が多いウクライナ東部地域を併合するつもりなのか(そうだとすると東部のみの一部侵攻にとどまる)、狡猾なロシア政権がどうとも取れる素振りで揺さぶっているため、現時点では読み切れない。

いずれにせよ、状況としては、1968年、旧ソ連が望まない「改革」を潰すために断行したチェコスロバキア軍事侵攻と似てきたが、その再現にはならない。当時のソ連が侵略を正当化する「制限主権論」のよりどころとしたワルシャワ条約機構はすでに消滅して久しく、CISは英連邦に近い親睦的・儀礼的な連合体にすぎない。

他方、ワルシャワ機構に対抗していたNATOも冷戦時代の遺物である。冷戦終結・ソ連邦解体後もロシア対策で温存されてきたが、アメリカと肩を並べる欧州連合(EU)が形成された現在、冷戦時代のようにアメリカの旗の下に一致団結することは、もはやない。アメリカとEUを脱退したばかりのイギリスが前のめりになっている状態である。

それでも、米(英)露首脳は、時代錯誤を承知で冷戦を再現したいようだ。それが各自、陰りや動揺の見える政権基盤の強化につながると見ているからである。

その点、米大統領バイデンは民主党員にしか支持されておらず、今なお2020年大統領選挙を不正と信じる党員が多い共和党からは、不正選挙で地位を詐取した大統領僭称者とみなされている状況。EU脱退で名を上げた英首相ジョンソンもロックダウン違反パーティーを官邸で開催していたことが発覚し、政権存続が危うい状況。露大統領プーチンは技術的な意味では安定した基盤を持つ長期執権者であるが、生命まで付け狙う露骨な野党弾圧策は国内でも批判にさらされている状況。ついでに、ウクライナのゼレンスキー大統領は近年多いポピュリストとして、ロシアの尾をあえて踏む形でゲームに一枚噛んで、大衆的支持をつなぎとめようとしているフシもある。

タイトルには「ゲームを止めよ」と書いたが、新冷戦ゲームの主要なプレーヤーたちは、いずれもこのタイミングで緊張感を高めることにメリットを見出している以上、少なくとも米露いずれかで政策変更を伴う政権交代があるまで、今後もやめてくれないだろう。

しかし、この種の政治的火遊びが思わぬ大火に転じて犠牲となるのは、いつでも庶民である。軍事訓練に動員されているウクライナ市民の時代錯誤的な映像は痛ましい。訓練が訓練で終わることを願うほかない。

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近代革命の社会力学(連載第370回)

2022-01-25 | 〆近代革命の社会力学

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(5)ウガンダ革命

〈5‐2〉非政党民主主義とその変節
 アミン政権崩壊後に復活した第二次オボテ政権は、結局のところ、第一次政権の焼き直しであり、否、奪回した権力への執着から、第一次政権当時以上に部族主義に依存し、反体制部族の弾圧作戦を発動して最大推計30万人という大量の犠牲を出すなど、部族主義独裁の傾向を強めたのであった。
 その結果、オボテは求心力を失い、国民抵抗運動(NRM)との内戦にも対処できない中、85年7月、軍事クーデターで失権、再び亡命に追い込まれた。第一次政権時と同様の結末であったが、今回は軍内で自身の出身部族を優遇する人事を行い、他部族将校の反発を招いたことが原因であった。
 クーデター後に成立した軍事政権はNRMとの和平を目指し、ナイロビで停戦合意がいったんはなされるも、合意は履行されることなく内戦は継続、明けて86年1月に国民抵抗軍が首都カンパラを制圧し、革命は成功した。
 すぐにNRM指導者ヨウェリ・ムセヴェニが大統領に就任し、当初は4年間の暫定統治を公約した。この時に構築された新たな制度は、部族主義の抑止を目的とした政党によらない非政党民主主義と呼ぶべきユニークな試みであった。
 すなわち、地方レベルまで多層的に構成された抵抗評議会が新たな代表機関として設置され、政党は禁止されないものの、政党ベースで抵抗評議会選挙に立候補することはできず、すべての候補者は個人単位で立候補するというものである。
 さらに地方の抵抗評議会は政治問題のみならず、経済問題、特に固定価格品の分配のような生活最前線の問題をも所管することとされた。これは直接民主制とは異なるが、西欧式の政党ベースの議会制とも異なる草の根民主主義の実験であった。
 他方、国レベルでの経済政策に関しては、初めからIMFや世界銀行主導の構造調整を導入し、社会主義政策は追求せず、資本主義経済の整備を急ぐ方向を取った。こうした脱社会主義の流れは、アフリカ諸国革命の第三次潮流に共通するものであった。
 このように、上部構造の革新性と下部構造の保守回帰という奇妙なミックスの体制は、ムセヴェニ体制が長期化するにつれて次第に変節していく。元来、抵抗評議会制度は非政党ベースと言いながら、事実上はムセヴェニの党派とも言えるNRMの一党支配制の性格を強めていったからである。
 こうした傾向は、革命直後、前軍事政権が基盤を置いた北部の部族に対するNRMの過酷な報復行動によって惹起され、その後も根強く続いた北部の武装反乱への対抗上からも、体制が次第に統制的な治安管理体制を取るようになっていったこととも関係していただろう。
 2005年の憲法改正による複数政党制の導入はそうした変節の集大成であり、これ以降は、全国に根を張るNRMのネットワークを支持基盤に多選を重ねるムセヴェニの権威主義的な支配が前面に押し出されることになる。
 ムセヴェニは現時点ですでにウガンダ史上最長の36年にわたり連続して大統領の座にあり、この間、建国以来混迷続きだったウガンダに「安定」をもたらした点で、救国革命が成功したことは間違いないが、現時点の到達点は革命性を失い、現代型ファシズムの一形態に変節している(拙稿)。
 一方、ムセヴェニNRM体制は90年代後半以降は対外的な介入戦争にも加わり、とりわけ旧ザイールのモブトゥ独裁政権の打倒やその後に発生した第二次コンゴ戦争に関与するなど、覇権主義的な傾向も見せてきたが、これは同時期のアフリカ諸国革命の第四次潮流の動因ともなっているので、該当章で後述する。

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近代革命の社会力学(連載第369回)

2022-01-24 | 〆近代革命の社会力学

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(5)ウガンダ革命

〈5‐1〉混迷と救国革命運動の隆起
 ウガンダでは、1960年代の革命を主導したミルトン・オボテの社会主義政策が空転失敗し(拙稿)、1971年のイディ・アミンの軍事クーデターを経て、アミンによるその後の暴虐な軍事独裁統治が1979年まで続く。このアミン時代の詳細は、戦後ファシズムという観点から論じた別稿に譲る。
 アミン政権樹立後、ケニアを経てタンザニアへ亡命したオボテは、権力奪回のため、武装勢力を結成、翌72年にタンザニアの支援の下、同勢力はウガンダへ攻め入るが、無残な失敗に終わった。しかし、この武装蜂起がその後のウガンダ革命運動の礎となる。
 アミン政権は78年に反乱軍が拠点を置く隣国タンザニアに侵攻したが、これが藪蛇となり、タンザニア軍が反撃、反アミンの武装勢力も合流して、戦争となった。アミンはリビアの支援を受けて抗戦したが、傭兵の多いウガンダ軍からは離脱者が続出し、79年4月、アミン政権はついに崩壊、アミンは国外へ亡命した。
 このアミン政権の打倒はタンザニアによる軍事介入の要素が強かったが、ウガンダ側でもオボテのウガンダ人民会議を中心に10を超える反アミン派組織で構成されたウガンダ国民解放戦線(UNLA)が戦い、アミン政権崩壊後、暫定政権を形成したため、この政変には革命に近い要素もあった。
 しかし、部族を背景とした10以上の組織から成るUNLA政権は安定せず、再編された軍が主導するクーデターが発生し、1980年には軍管理下の選挙でウガンダ人民会議が勝利し、オボテは大統領に返り咲きを果たした。
 こうして、第二次オボテ政権が開始されたが、80年選挙を不正と主張するヨウェリ・ムセヴェニがUNLAを離反して独自の武装勢力を結成し、81年以降、第二次オボテ政権の打倒を目指した。
 ムセヴェニはタンザニアで学んだ汎アフリカ主義かつマルクス主義の活動家で、大学時代からゲリラ訓練を受けた戦士でもあった。第一次オボテ政権時代にはその諜報機関に短期間籍を置き、UNLAの執行委員の一人としてUNLA政権の国防相も務めるなど、若くして頭角を現していた。
 彼はUNLAを離反した後、他の反政府組織を統合しつつ、国民抵抗運動(NRM)を立ち上げ、その軍事部門である国民抵抗軍を組織して、オボテ政権に対する武装闘争を本格化させた。これ以降のウガンダは、86年1月のNRMによる首都制圧と革命政権樹立まで、内戦期となる。
 その間、NRMは将来の政権綱領として、民主主義の回復、治安、国民統合の強化、独立の維持、独立かつ統合された自律的経済の確立、社会サービスの改善、腐敗と権力濫用の根絶、不平等の縮小、アフリカ諸国との協力、混合経済体制という10項目を掲げていた。
 これを見る限り、ムセヴェニは、その経歴にもかかわらず、マルクス主義を離れ、混合経済を軸とした脱イデオロギー的でプラグマティックな政策志向を見せており、NRMの本旨は社会主義革命ではなく、アミンとオボテという二人の独裁者に蹂躙されてきた国家の再建を目指す救国革命にあったと言える。

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比較:影の警察国家(連載第52回)

2022-01-23 | 〆比較:影の警察国家

Ⅳ ドイツ―分権型二元警察国家

1+x:残存都市警察機関

 ドイツの現行警察制度は基本的に連邦と州の二元制に整理されているとみなしてほぼ間違いないが、実際には、いくつかの都市のレベルにも警察機関が置かれている場合がある。
 その点、沿革的には、旧西ドイツ建国当初、少なからぬ都市に独自の警察が設置されていたが、1970年代までに実施された制度改革によって、その多くは州警察に吸収され、姿を消した。他方、旧東ドイツは中央集権性が徹底された公然たる警察国家であり、そもそも都市警察の制度は存在しなかった。
 旧西ドイツ都市警察はドイツ再統一後も全廃されることなく、いくつの都市では、市条例上の犯罪行為の取締りその他の行政警察活動を目的とする小規模な警察として現在も残存している。そのため、多くは非武装要員で構成され、原則として州警察の警察官のような強制権限も持たない。
 とはいえ、都市警察機関の要員は行政警察活動を通じて都市当局の耳目たる監視員の役割を果たすため、小規模ながら情報機関的な要素がなくもないことは、影の警察国家という視座から注目すべき点である。
 これら残存都市警察の機関名称は様々であるが、大別すれば、市警察(Stadtpolizei)と公共秩序局(Ordnungsamt)に分けられる。前者はまさに市の警察であるが、アメリカの自治体警察のように自己完結的ではなく、基本任務は上述したような行政警察任務に限局される。
 一方の公共秩序局は、より一般的な都市警察機関であり、かなりの数の都市に設置されている。機関名称として警察を名乗らないが、実質的な役割は都市警察に準じ、要員は何らかの制服を着用する。
 その点、ヘッセン州内の独立都市であるフランクフルト・アム・マインでは、公共秩序局の執行部門という形で市警察(Stadtpolizei Frankfurt am Main)が、2007年という比較的最近になって新設された。このフランクフルト市警は要員も200人以上とかなり多く、武装もするなど、「本格派」の市警察の陣容を備えている。
 また、バーデン‐ヴュルテンベルク州の公共秩序局職員には逮捕や追跡、捜査の権限まで与えられており、実質においては「市警察」と変わらない。
 こうした残存都市警察機関の武装化と本格化という新装が進めば、ドイツ警察は事実上、連邦と州に州内都市を含めた三元制に拡張される可能性もあり、影の警察国家化が進行する。

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近代革命の社会力学(連載第368回)

2022-01-21 | 〆近代革命の社会力学

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(4)ブルキナファソ革命
 旧フランス植民地オートヴォルタは、「アフリカの年」1960年に他の16か国とともにオートヴォルタ共和国として独立を果たした。しかし、モーリス・ヤオメゴ初代大統領は間もなく独裁と腐敗というアフリカで定番の陥穽に陥った。
 オートヴォルタでは、進歩的な学生や労働者、公務員などが比較的早くから育っていたため、60年代半ばには、そうした進歩勢力による反政府抗議デモやストライキが頻発し、1966年1月にヤオメゴは辞職に追い込まれた。
 しかし、この民衆蜂起は革命に発展することはなく、権力は軍のサンゴール・ラミザナ将軍に移譲され、軍事政権の登場となった。とはいえ、これは民衆勢力の要請に沿った政変であったので、現代的な民衆政変の先駆けとも言える事象であった。
 そうした特異な経緯から成立したラミザナ政権は、軍事政権でありながら、民主主義と権威主義の間を揺れ動く傾向にあった。干ばつ問題に直撃された70年代以降は次第に独裁化していくが、77年の新憲法に基づく78年の比較的民主的な選挙によって、ラミザナは改めて民選大統領に納まった。
 しかし、ラミザナは1980年に急進的な将校グループが参加するクーデターで失権した。この後、1983年の革命で軍内部の派閥抗争を反映したクーデターによる二転三転が続くが、その過程で、間もなく革命指導者となるトマ・サンカラ大尉が大衆的な人気を獲得し、83年1月には首相に就任した。
 しかし、サンカラは軍事政権内の政争から同年5月には罷免・投獄される。これを援助国フランスの策動とみなして反発した民衆の声に答え、サンカラ同志の青年将校らが7月に決起し、サンカラを救出したうえで、翌月には当時33歳のサンカラを最高権力に押し上げた。
 実際のところ、この決起を指揮したのはサンカラの盟友だったブレーズ・コンパオレ大尉であり、彼がサンカラの背後にいる革命の実質的なマスターマインドであったことは、後にサンカラ自身の命取りともなる。
 この1983年政変も形の上ではクーデターを伴った民衆政変と言えるが、この後、84年のブルキナファソへの国名変更を経て、87年に暗殺されるまで、事実上の国家元首である国家革命評議会議長サンカラの下で急進的な社会主義的政策が展開されていったため、クーデターを超えた革命としての意義を持つこととなった。
 このような若手の下級将校による革命はアフリカではしばしば見られる現象であるが、ブルキナファソ革命の特質は、青年将校が民衆の直接的な支持に支えられていたことである。その点、オートヴォルタ時代から、この国の軍事クーデターは民衆の支持を得た民衆政変の性格を帯びる伝統があった。
 サンカラはマルクス主義に感化されていたとされ、実際、革命最初期には、オートヴォルタ時代に結党されたマルクス主義政党・アフリカ独立党が政権に参加したが、間もなくサンカラと決裂し、排除された。
 その後、約4年間のサンカラ時代に展開された政策を見る限り、教条主義的ではなく、その重心は教育や福祉の充実、鉄道の整備、環境保全、女性の地位の向上、前近代的な女子割礼や強制結婚の禁止などの近代化に置かれていたと言える。
 また、外交的には反帝国主義を掲げ、植民地時代を引き継ぐオートヴォルタから二つの民族語を組み合わせたブルキナファソ(高邁な祖国の意)への象徴的な国名変更を主導するとともに、キューバをモデルとした親東側路線の外交政策を展開し、援助国による対外債務返済要求やIMF・世界銀行の構造調整介入に反対した。
 一方で、人民革命法廷を通じた旧体制派への恣意的な処断や、キューバの制度にならって各地に設置された革命的隣保組織である革命防衛委員会による人権侵害などの負の側面もあり、次第にサンカラの大衆的人気に乗ったポピュリスト型独裁の傾向を強めていったことは否めない。
 そうした中、機を窺っていたマスターマインドのコンパオレは1987年6月、サンカラを排除するクーデターを起こし、政権を奪取した。その際、サンカラは銃撃により死亡したが、コンパオレ政権はこれを意図しない事故として処理し、サンカラを秘密裏に埋葬した。
 コンパオレは、政権掌握後、サンカラの政策の大半を撤回し、親西側の立場で、市場経済化の構造調整を遂行した。こうした構造転換は、ガーナのローリングズ政権のそれと類似するが、ガーナでは革命指導者自ら方針転換を遂行したのに対し、ブルキナファソでは革命指導者の排除という新局面を要したことになる。
 コンパオレは90年代の形式的な民主化の後も、抑圧と懐柔を組み合わせた政治技巧を駆使して多選を重ね、27年間にわたり大統領として君臨したが、2014年の大規模な抗議デモとその後の軍事クーデター(民衆政変)により失権し、国外へ亡命した。
 なお、新政権下で行われた検視の結果、サンカラの死亡は意図的な銃撃によるものであることが判明し、改めてコンパオレによる暗殺の疑いが強まり、コンパオレら13人が起訴され、昨年に裁判が開始されている。

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近代革命の社会力学(連載第367回)

2022-01-20 | 〆近代革命の社会力学

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(3)ガーナ革命
 ガーナは、1960年代のアフリカ独立の波に先駆けて、1957年、革命や戦争によらず、宗主国イギリスとの交渉を通じて独立を勝ち取った輝かしい歴史を持つ。初代大統領は長く独立運動を率いてきたクワメ・ンクルマであった(別連載拙稿)。
 大統領としてのンクルマは、非同盟主義と汎アフリカ主義に基づき、内政面ではアフリカ社会主義を推進し、農業集団化や国有企業を通じた工業化を主導しようとしたが、いずれも機能しなかった。さらに、部族主義を排除するため、部族単位での野党を弾圧し、翼賛的与党・会議人民党による独裁支配に陥った。
 そうした中、ンクルマが外遊中の1966年、ンクルマの外交姿勢を親東側陣営に傾斜しているとみなし不満を抱くアメリカの支援を受けた将校団によるクーデターが発生、ンクルマは失権した。
 69年には、民政移管のための大統領選挙が実施され、有力野党政治家のコフィ・ブシアが当選、脱ンクルマ路線を展開するも、出身部族優遇などンクルマが排除した部族主義の台頭、主産品カカオの国際価格の下落などが重なり、民衆の信を失う中、1972年の軍事クーデターで失権した。
 この後、ガーナでは主導権を握った軍部内の権力闘争を反映したクーデターが相次ぐ政情不安に陥るが、四度目のクーデターが1979年6月に発生する。このクーデターを率いたのは、当時31歳のジェリー・ローリングズ空軍大尉であった。
 ローリングズは当時、自由アフリカ運動という軍内地下組織の一員であり、79年5月に政府の腐敗や社会的不平等を訴えてクーデタ決起したが失敗し拘束、死刑判決を受けて獄中にあったところ、翌月、獄外の同志将校の再クーデターによって救出されていた。
 ローリングズは青年将校を中心とした国軍革命評議会を樹立し、三人の元国家元首を含む軍事政権高官のほか、300人余りの旧体制高官を即決処刑した。こうした過激な象徴的手法から、しばしばこの79年6月クーデターが革命(6月4日革命)と称されることもある。
 たしかに、この政変は旧体制幹部の大量即決処刑という手法を含め、前回まで見た翌年のライベリア革命に影響を与えた可能性はあるものの、ライベリアの人民救済評議会とは異なり、ガーナの国軍革命評議会は実質的な政策を展開することなく、79年9月には民政移管の大統領選挙を実施し、権力を移譲したため、力学的に見れば、これは革命ではなく、クーデターの範疇に属する。
 むしろ、実質的な革命は、ローリングズが再び決起し、文民政権を打倒した1981年12月末日の政変である。ローリングズが再決起した動機として、権力移譲した文民政権の指導力不足や変わらぬ政治腐敗への不満があったとされる。
 二度目の決起の後、ローリングズを議長とする軍民混合の暫定国防評議会が樹立され、93年の民政移管まで、この体制が継続した。とはいえ、その政策展開は、初期とその後とで180度異なるものとなった。
 初期は輸出入の国家管理や農産品の価格統制を軸とする社会主義政策が志向され、部分的にはンクルマ時代への回帰となった。また大衆動員組織として、労働者防衛委員会や人民防衛委員会などの新たな革命的組織が立ち上げられた。
 しかし、農産品の価格統制は人口の大半を占める農民にとっては収入減をもたらす失策となり、経済の国家管理も失敗する中、1983年には構造的な経済危機に直面する。ローリングズはここでプラグマティックな政策転換を断行し、一転して市場経済化の構造調整策を導入した。これは、アフリカ諸国における同様の構造改革策の先駆けとなった。
 この構造転換に成功し、経済成長が軌道に乗ると、東欧・ソ連圏での民主化の波を受け、ローリングズは1991年から民政移管準備に入り、翌年には複数政党制に基づく議会選挙及び大統領選挙を実施、自身が結党した国民民主会議を基盤に、民選大統領として1993年から2001年まで二期四年を務めて退任した。
 このように、ガーナ革命は社会主義経済から資本主義の構造調整経済へ、さらに軍事政権から文民政権へという上下社会構造転換の全過程をローリングズという一人の指導者のもとで履行した点で、極めて特異なものとなっている。
 さらに、21世紀のポスト・ローリングズ時代のガーナは、社会民主主義を標榜する国民民主会議と保守系の新愛国党の二大政党による政権交代が根付き、アフリカ全体でも最も政情が安定した状況にあることも特筆すべき点である

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近代革命の社会力学(連載第366回)

2022-01-18 | 〆近代革命の社会力学

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(2)ライベリア革命

〈2‐2〉下士官革命から内戦へ
 前回見たように、1970年代のトルバート政権下では、先住諸部族の権利向上が建国以来最も進んだとはいえ、ライベリアの先住諸部族は、西アフリカでは一般的なように、多岐に分かれて統一性を欠いており、連合して革命運動に乗り出す用意は出来ていなかった。
 70年代後半から野党として台頭してきたライベリア進歩連盟(PAL)も、基本的にはアメリコ・ライベリアン内部からの青年知識層による反作用を反映した政党であったうえ、革命ではなく、穏健な政治運動を志向していた。
 それが一気に革命へ急転するに当たっては、トルバート政権による農業政策の失敗が契機となった。1979年、政権は農民の収入増のためとして、米価引き上げを発表した。これに対し、野党勢力はトルバート一族もその一人である裕福な米作農家への利益誘導であるとして、平和的な抗議デモを組織したが、これがリベリア史上最悪の暴動に発展し、多大な経済的な損害を生じさせる事態となった。
 この「米騒動」はトルバート政権の威信は大きく低下させたとはいえ、政権は翌年、 PALを非合法化し、幹部らを検挙する弾圧に踏み切ったため、革命を抑止したかに見えたが、意外な死角から革命が突発することとなった。
  PAL弾圧の翌月、1980年4月、当時28歳のサミュエル・ドウ曹長に率いられた下士官グループが決起し、大統領府に進撃してトルバート大統領を殺害したうえ、人民救済評議会を立ち上げ、政権を掌握した。
 この電撃的な政変は形式上は軍事クーデターであったが、ドウをはじめ決起した下士官は皆、先住部族の出身であり、彼らは明確にアメリコ・ライベリアンの支配を終わらせることを目的とし、そのクーデターは貧しい民衆からも歓迎されたため、革命的な意義を持ったのである。
 人民救済評議会(People's Redemption Council)政権は、キリスト教で「贖い」や「救い」を意味するredemptionという革命事象には珍しい単語を冠していたが、その意味するところは、人民の救済と旧体制の贖罪の両義であったようである。
 ただ、初動段階では「贖罪」に重心があり、トルバート前政権の閣僚の大半を逮捕し、略式裁判で死刑を宣告、公開処刑するという強硬策によって旧体制の一掃を演出した。ちなみに、この時、処刑を免れ、海外に脱出した前閣僚の中には、後年、アフリカ大陸初の民選女性大統領として、内戦終結後の国家再建を主導することになるエレン・ジョンソン・サーリーフ前財務相(拙稿)もいた。
 この下士官革命はドウら先住部族系下士官が独自に実行したもので、野党勢力と直接のつながりはなかったが、前出 PALの創設者でもあるガブリエル・バッカス・マシューズはドウ政権の外相として入閣した。しかし、すぐにドウと決裂して一年で辞職、 PALをベースとした統一人民党を結成し、ドウ政権下の有力な野党政治家となった。
 下士官の革命政権は当初は暫定的と見られたが、ドウは意外にプラグマティックな政治能力を発揮し、10年間政権を維持した。その秘訣としては、親米・親西側の外交姿勢を一貫させ、タックスヘブン化により、西側の投資を呼び込んだことがある。
 1985年には自身の翼賛政党・ライベリア国民民主党を基盤に大統領選挙を実施して当選、いちおう民主的な体裁を整えたが、この選挙は一部の野党しか参加が許されず、かつ不正投票が組織的に行われるなど、正当とは言えないものであった。
 とはいえ、いちおう民選大統領に納まったドウであるが、元来、政権が支持基盤とする先住部族勢力は一枚岩でなく、政権内部での部族対立が表面化した。特に85年の選挙直後に元革命同志によるクーデター未遂事件が発生すると、ドウは報復としてクーデターに関与した部族に対する虐殺を行なった。
 こうして流血で始まったドウ政権の後半期は、人権抑圧と政治腐敗に満ちたものとなった。これに対して、抑圧された部族勢力などが中心となって反政府武装組織が結成され、89年末以降、ドウ政権転覆を目指して進撃を開始する。
 特に、革命直後のドウ政権で調達庁長官を務めたチャールズ・テイラーを中心に結成されたライベリア愛国戦線(NPFL)は89年以降、反体制部族を糾合してドウ政権の打倒を目指し、強力な武装活動を開始した。こうして内戦が勃発し、翌年1990年までに死者1万5千人と大量の難民を出す事態となる。
 そうした中、革命当時は軍でドウの上官だったプリンス・ジョンソンがNPFLから分派して結成したライベリア独立国民愛国戦線(INPFL)が抜け駆け的に首都に進撃、和平交渉を装いドウを誘い出したうえ、ビデオ撮影下で残虐に拷問・殺害するという異常な挙に出た。
 これによりドウ政権は崩壊、野党を中心とする暫定政権が発足したものの、内戦は終結せず、テーラー派にジョンソン派、さらにイスラーム系ほか多数の武装勢力が相対立する凄惨な内戦(第一次内戦)が、国際監視下の選挙でテーラーが大統領に当選する96年まで続くことになる。―その後の第二次内戦については、先行別連載の拙稿参照(当時は「リベリア」と表記)。
 こうして、ライベリア革命は最終的に国を破綻へと追いやる内戦の動因となり果てたが、これはドウらの下士官グループが統一的なイデオロギー的軸を示す知的力量を欠いたまま、アメリコ・ライベリアンに代わり急遽体制側となった先住諸部族の対立関係を止揚できなかったことによるところが大きい。

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近代革命の社会力学(連載第365回)

2022-01-17 | 〆近代革命の社会力学

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(2)ライベリア革命

〈2‐1〉解放奴隷支配体制の動揺
 西アフリカのライベリア(和称リベリアは本来は誤称のため、以下ではライベリアと表記)は、自由=リバティに由来する国名が示すとおり、1847年にアメリカ合衆国の黒人解放奴隷のアフリカ「帰還」事業の帰結として建国されたアフリカ大陸でも特異な歴史を持つ独立国家であるため、西欧列強の植民地支配を免れてきた。
 ただ、建国経緯から、国の政治経済は人口構成上の少数派である黒人解放奴隷子孫―アメリコ・ライベリアン―が独占し、先住黒人諸部族を支配する構造が続いてきた。特に、1878年以降は、アメリコ・ライベリアンの包括政党である真正ホイッグ党から歴代大統領が選出されることが100年以上にわたり慣例化していた。
 このアメリコ・ライベリアン体制は、アメリカ合衆国憲法にならった選挙に基づく立憲共和体制を取りつつ、人口的少数派のアメリコ・ライベリアンが先住諸部族に参政権を認めず、ゴム生産を経済基盤にアメリカ資本(特にタイヤ資本)に従属する形で寡頭支配するという、言わば黒人間でのアパルトヘイト体制構造を特色とした。
 しかし、1944年から71年まで史上最長の任期を務めたウィリアム・タブマンと後任のウィリアム・トルバートの両大統領の時代に先住諸部族の参政権を含めた権利の向上が図られ、歴史的な構造に変化が生じる。とりわけ、アメリコ・ライベリアン支配最後のトルバート政権の時代は様々な点で、ライベリアの転換期となった。
 トルバートは長年の支配政党真正ホイッグ党内や支持勢力の反対を押して、憲法改正により大統領任期を8年に限定し、先住部族の登用をより積極的に進めた。75年には左派系のライベリア進歩連盟を合法的野党として認可し、事実上の一党支配体制も転換した。
 トルバート政権は、外交政策に関しても、タブマン前政権同様にアメリカのベトナム戦争を支持し、親米政策を堅持しつつ、従来の親米一辺倒政策を修正し、ソ連やキューバ、中国、その他の東側諸国との多角的な外交関係の構築に動き、パレスチナ人の権利を擁護した。
 こうした外交政策の変化は経済にも反映され、長くリベリアのゴム産業を特権的に支配してきた米系資本ファイアストン社に会計検査と厳正な徴税を行う一方で、リビアやキューバなど「反米」諸国からの経済援助を受け入れるようになった。
 このようなトルバート政権による内外政策全般に及ぶ改革は、建国以来、差別構造の上に築かれてきたアメリコ・ライベリアン支配の安定性に動揺をもたらしたことは否定できない。特に、先住諸部族の権利向上政策は長く被差別状況に置かれてきた先住諸部族を覚醒させ、革命に土壌を提供することになったであろう。

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近代革命の社会力学(連載第364回)

2022-01-13 | 〆近代革命の社会力学

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(1)概観
 1980年代は東西冷戦末期に当たるが、この時期は、ソ連を「悪の帝国」とみなして対決姿勢を強めるレーガン米共和党政権の登場によって、ベトナム敗戦後アメリカ側に陰りが見えた70年代以降の緊張緩和モードが、再び米ソの対決モードに転化したかに見えた時期である。
 しかし、実際のところ、ソ連はこの時期、社会主義計画経済体制が行き詰まり、アフガニスタンで膠着・長期化する内戦干渉もマイナス要因となり、アメリカと対等に渡り合う力量を喪失しつつあった。当然、第三世界の友好諸国への関与も消極化していった。
 そうした状況下、建国過程が一段落してきた第三世界にとっても、ソ連体制をモデルとし、ソ連の援助に依存する方向性は現実的ではなくなり、革命の潮流にも変化が生じる。そうした80年代以降の変化を最初に体現したのは、ソ連の関与が元来手薄なアフリカ諸国であった。
 従来、アフリカ諸国では、独立・建国前後の主として60年代における第一次潮流、建国から一定期間経過後の主として70年代における第二次潮流と、二度の革命潮流が見られたが、それらに続く三度目の革命潮流が80年代に現れた。
 この80年代革命潮流は、特殊な経緯から19世紀半ばに建国されていたライベリア(和称リベリア)を除けば、建国からおおむね20年程度を経た段階で発生したものであった。ただ、潮流といっても、さほど大きなものではなく、ここに包含されるのは、ライベリア、ガーナ、オートボルタ、ウガンダにおける革命だけである。 
 東アフリカのウガンダを除いて、西アフリカに属する諸国での革命が相次いだのは、インド洋上の島嶼部を含む東アフリカに圧倒的な中心があった前の二つの革命潮流との相違点である。
 その点、長期独裁政権の下で相対的な安定が担保されていた小国群が多い西アフリカでは構造的に革命が発生しにくく、政変は多くの場合、軍事クーデターによっていたが、80年代になって、いくつかの国が革命的政変を経験した。
 といっても、いずれも下士官や下級将校による革命蜂起に端を発しており、形式上はクーデターである点では従来の潮流にもしばしば見られたアフリカ的な革命力学が踏襲されているが、ライベリア、ガーナ、オートボルタの三国では、単なる権力奪取を超えた社会経済構造の変革にも及んだ点で、革命の性格を帯びたのである。
 この1980年代革命潮流は70年代潮流で風靡したマルクス‐レーニン主義を離れ、イデオロギー的には流動化・多様化し、かつ政策志向的な性格を見せたことが特徴的である。このような特徴は、80年代以後、21世紀にかけての世界の革命における予兆的な先駆けと言えた。

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近代革命の社会力学(連載第363回)

2022-01-11 | 〆近代革命の社会力学

中間総括Ⅲ:東西冷戦と革命

 第二次世界大戦後の冷戦期には、新規に独立を果たしたアフリカ・アジア、さらには19世紀中に独立を果たしたラテンアメリカなど第三世界諸国での革命が集中した。冷戦時代のたかだか40年程度の期間中にこれほど革命が継起した時代は、歴史上も異例である。
 しかも、その革命の多くが、急進性の程度差やイデオロギーの差はあれ、社会主義を志向しており、なおかつ、少なからぬ革命がソ連邦の体制教義であったマルクス‐レーニン主義を標榜したことも、特徴的であった(イスラーム化を志向した1979年イラン革命は例外的)。
 その背景としては、戦後、超大国として台頭してきたソ連が、米国への対抗上、第三世界諸国に同盟国・衛星国を培養すべく、積極的に社会主義勢力の革命を支援していたことがある。そして、受け止める側でも、ソ連モデルは短期間での社会経済開発にとって有益と見ていたことがある。
 こうした言わば第三世界革命にも、大別すれば、建国過程での開発革命と、建国から一定以上の時間を経ての社会経済革命の二種類のものが見られたが、前者は主として、戦後独立したアフリカやアジアの新興諸国で多発化し、後者は独立から一時代を経過したラテンアメリカ諸国、あるいは独立から一定の時間を経過した中東諸国などで見られた事象である。
 このうち、前者の開発革命は独立から間もない諸国での革命ということもあり、土台となる経済構造が固まらないままでの「早すぎた革命」となることが多く、その担い手も未成熟のため、最も近代化された社会セクターであった軍の青壮年将校が主導するケースが多かった。そのため、短期で失敗に終わる事例や、軍事独裁化していく事例が少なからず見られた。
 後者の社会経済革命の場合は、ある程度成熟した中産知識階層による革命となることが多く、長期的に成功した事例もあるが、ソ連体制をモデルとした限りでは、ソ連式一党支配体制のコピーとなり、民衆による政治という意味での民主主義の確立には程遠い結果に終始した。
 また冷戦時代の諸革命は、戦争一歩手前での米ソ両超大国の対峙という大状況による制約を必然的に受けたため、両国による直接間接の介入・干渉を受けることが多かったことも、冷戦期における第三世界革命の成否を左右していた。
 とりわけ、東側のハンガリーや西側の韓国で見られたような民主化革命は、同盟国の離反を恐れた米ソ両大国の干渉を受け、挫折する運命にあったため、冷戦期の革命は、民主主義という観点では、それ以前のどの時代よりも「不作」であった(1974年ポルトガル民主化革命は例外的)。
 しかし、1980年代の冷戦末期に入ると、様相が変化する。特にソ連の国力の全般的な低下が顕著となり、自身の体制が揺らいでいく中、第三世界への関与から手を引くようになると、第三世界の革命もソ連モデルから離れ、独自の方向性を追求するようになっていく。
 そして、やがては、ソ連を盟主とした東欧諸国における連続革命から、米ソ首脳による冷戦終結宣言をはさみ、最終的にソ連邦自身の解体をもたらす革命が連続し、20世紀的な世界秩序の枠組み自体の変革がなされた。これに伴い、革命の潮流も大きく変化していく。

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近代革命の社会力学(連載第362回)

2022-01-10 | 〆近代革命の社会力学

五十二 ニカラグア・サンディニスタ革命

(5)革命の民主的終了とその後
 アメリカが強力に支援する反革命武装勢力・コントラとの内戦に入った後のニカラグア革命政権の展開として注目すべきは、内戦渦中の1984年に大統領選挙が実施されたことである。それまでは、ダニエル・オルテガが国家再建評議会調整者という立場で事実上の元首格にあったが、この暫定体制を清算し、共和政体を整備することが目的であった。
 とはいえ、革命後の内戦渦中に選挙による体制整備がなされる例は稀有であるが、実際のところ、野党の多くがボイコットしたため、投票率は50パーセントに満たない縮小選挙となった。その結果、オルテガが当選し、大統領に就任した。
 こうして、いちおう選挙プロセスを経て正式に権力を掌握したオルテガは、内戦対処と並行して、主要産業の国有化と親ソ連・キューバの外交政策を軸とするFSLN本来の政策を実行していった。選挙の洗礼を受けたことにより、かえってFSLNの純化路線を展開しやすくなったとは言える。
 しかし、これは逆効果となった。純化路線を忌避するブルジョワ層の国外脱出が相次ぎ、頭脳流出も起きる中、アメリカ政府による経済制裁も追い打ちとなり、継続する内戦による荒廃と合わせ、ニカラグア経済は破綻へ向かったからである。さらに、インフレーションの亢進により庶民の生活苦は増すこととなった。
 後ろ盾のソ連もアフガニスタン内戦支援を抱え、国内的にも体制末期の改革・変動期にあったため、十分な援助はなされず、キューバからの支援も医療・教育などの民生分野にとどまったため、内戦は膠着し、独力での終結が見通せなかった。
 そうした中、オルテガ政権は1987年、ラテンアメリカ諸国の仲介による和平提案を受け入れ、88年にコントラとの休戦協定が成立した。さらに1990年には国連監視下での大統領選挙が実施され、再選を目指したオルテガは保守系野党連合に惜敗、下野した。
 こうして、サンディニスタ革命は、国際的に監視された民主的選挙をもって平穏に終了することとなった。武装革命がこのような終わり方をすることも稀有であるが、これは前年に東西冷戦の象徴だったベルリンの壁の解体と米ソ首脳会談による冷戦終結宣言という時代の転換点を経ていたことがもたらした終局であっただろう。
 しかし、ブルジョワ保守勢力に政権交代したことは、国民の大半が貧困層に属する中で、FSLNにセカンド・チャンスを提供した。90年代以後のFSLNは引き続きオルテガの指導の下、マルクス‐レーニン主義を放棄しつつ、貧困階層を代表する有力野党として生き延び、2006年の大統領選挙では、僅差での辛勝ながら、オルテガが勝利し、大統領に返り咲いたのであった。
 以来、オルテガは現時点まで連続四選し、長期政権を維持している。この第二回のオルテガFSLN政権は、イデオロギー色を薄めつつも、親ロシア・中国の立場で権威主義的な強権統治の様相を見せ、1979年革命当時のサンディニスタの理想からは乖離した選挙制独裁という新たな政治形態の一例となっており、民衆の抗議活動も活発化している。

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近代科学の政治経済史(連載第3回)

2022-01-09 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ(続き)

ガリレオ・ガリレイと科学的方法
 近代科学原理に基づく考察の手順、すなわち今日にいわゆる科学的方法には、特定の偉大な創始者が存在するわけではないが、最も早い時期にそれを実践した代表者がイタリア人のガリレオ・ガリレイであったことは確かである。
 ガリレオは有名な地動説裁判のゆえに天文学者として名を残しているが、彼の本来の専門は数学及び物理学であり、各地の大学で数学教授を務め、出身地トスカーナ大公国で大公付き数学者という栄誉ある地位も得ていた。
 次の章で取り上げるように、当時のトスカーナ大公メディチ家は近代科学のパトロンでもあり、とりわけガリレオを子弟の家庭教師に雇うなど、強力に援助しており、黎明期の近代科学には世俗王侯と結ばれた御用学術という側面があった。
 ガリレオが何処で科学的方法論を修得したかについては定かでないが、本業の呉服商のかたわらセミ・プロ的な音響学者として数学的な方法論を開拓していたという父ヴィンチェンツォの影響が指摘される。いずれにせよ、ガリレオは実験に基づく数学的手法を用いた考察、さらには第三者による追試再現の奨励、その前提となる実験結果の積極的な公表という、今日の科学界では常道となっている方法の先駆者となった。
 総じて、ガリレオの方法論は、従来、哲学者によって兼業されていた思弁性の強い自然哲学を哲学から分離し、自然科学という新たな学術分野に整備する先駆けとなったと言えるが、このような方法論は、思弁性の極致でもあったカトリック神学とはいずれどこかで衝突する運命にあったとも言える。
 その点、ガリレオが活動した時代には、プロテスタント運動に対抗するカトリック側による対抗宗教改革が隆起していたことが、迫害の土壌を形成していた。対抗宗教改革の内実は多岐に及ぶが、教皇パウルス4世の時代に導入された禁書目録制度は、近代科学者にとっても脅威となり得る思想言論統制であった。
 禁書目録は、パウルス4世治下の教皇庁によって1564年に初めて公式に定められたが、奇しくも、この年はガリレオの生誕年でもあった。禁書の対象は何と言っても神学に関わりのある思想書が多く、近代科学を特に標的としたわけではなかったが、カトリック神学と近代科学はその方法論が真逆と言ってよいものであり、いずれ科学的著作が禁書指定される可能性は大いにあった。
 禁書目録とともに、教皇庁膝元のローマにも異端審問所が設置され、異端に対する取締りが強化されたことも、黎明期の近代科学にとっては脅威であった。ガリレオは、このような時代に近代科学の開拓者として登場したのだった。

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