ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

続・持続可能的計画経済論(連載第11回)

2020-01-30 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第2章 計画化の基準原理

(4)物財バランス①:需給調整
 環境的な持続可能性に重点を置く持続可能的計画経済においては、何よりも環境バランスが計画化の優先的基準原理となるのであるが、経済計画は生産と分配、消費の全経済過程を計画的に調整することを意味するから、物財バランスという原理が不可欠である。
 物財バランスとは、経済全体における需要と供給の総体的な事前のバランス調整を意味する。そして、このような事前の需給調整こそ、需給関係を市場におけるランダムな取引の結果に任せるために、需給関係の気まぐれな転変から恐慌局面を含む景気の無規律な循環を結果する市場経済との最大の相違点として、計画経済論において強調されてきたものである。
 その点、持続可能的計画経済においても、需給調整が重要な原理となることは変わらないが、従来の計画経済論とは異なり、持続可能的計画経済論では、まず環境バランスの基準が適用された後に、その枠内で需給調整が適用されるという二段構えになる点が異なっている。
 従ってまた、需給調整が適用されるのは、環境負荷的な産業分野―おおむねエネルギー産業を含む工業的・鉱業的基幹産業分野と重なる―に限局され、旧ソ連型の計画経済において追求されたように、あらゆる産業分野にまで及ぶ拡大的なものとはならない。言い換えれば、非環境負荷的産業分野は需給調整の適用対象外であり、自由生産に委ねられることになる。
 需給調整が適用される場合、予め見込まれる需要予測に応じた生産計画が立案されるのが通例であるが、持続可能的計画計画経済においては、そのプロセスが逆転し、環境バランス基準に基づいて許容される生産量及び生産方法に応じて需要が規整されることになる。
 つまり、「これだけの分量が欲しい」という生(なま)の需要に応じて生産量が決められるのではなく、環境バランス基準によって許容された生産量及び生産方法に応じて需要が決定されるということになる。その限りで、需要は人間の消費欲求とは直結しなくなり、言わば環境的に規範化されることになる。
 その点では、経済開発に重点を置いた旧ソ連型の計画経済において、達成されるべき生産目標(ノルマ)が規範的に決定され、それに応じた需要が刺激されていたこととも異なり、環境的に許容される生産容量が規範的に決定され、それに応じた需要が導出されることになる。
 といっても、需要が機械的に定められるのではない。人間が文化的に充足された生活を営むことのできる限界線は担保されなければ、窮乏を強制することになりかねない。従って、生産容量も、そうした文化的生存限界線を下回ることのないように調整されなければならない。

コメント

近代革命の社会力学(連載第66回)

2020-01-28 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(5)革命政府の展開と権力闘争
 発足したばかりの明治新政府にとって最初の問題は、政体問題であった。幕末の公議政体論議において、一部の進歩派からは西欧的な議会制度の設置を提案する考えが早くも提起されていたが、長い「鎖国」下で西欧政治思想からも切り離されていた当時の日本で、近代的な議会制度というものは容易に理解されなかった。
 さしあたり王政復古の大号令では、古い律令制の枠組みを復活させる便法が採られたが、これとて単純な旧制の復活ではなく、皇族の総裁を頂点に、薩長土などの有力藩主層をある種の閣僚(議定)とする連合政権の形が採択された。しかし、間もなく藩主層はほぼ排除され、青壮年武士及び公家層出身者を中心とした革命政権に改編された。これが太政官制である。
 太政官自体は旧来の律令制における最高執政機関であるが、倒幕派青年武士・公家出自の革命家たちによって構成された明治の太政官制は暫定革命政府の役割を担う全権機関となった。この時点で、権力は幕末倒幕勢力を率いた藩主層から、青年武士・公家出自の革命家たちに移され、旧幕藩体制を乗り超えるある種の下剋上的権力変動が起きたと言える。
 王政復古の頂点にあるのは理論上明治天皇であったが、こちらもまだ10代の青年であり、親政は無理であったから、施政は太政官に委ねられた。結果として、絶対王政のような体制にはならなかったが、議会も憲法も存在しない「王政」は、たとえ天皇が独裁しなくとも、西欧的な文脈では専制君主制の一形態であった。
 明治政府の機構自体は、革命体制にありがちなように、短期間で転変したが、非立憲的な専制支配という枠組み的な政体そのものは、明治中期の憲法発布・議会開設まで継続され、批判的文脈で「有司専制」と指称された。このようなある種の専制的な権力集中体制は、大規模な革命を果敢に遂行する上での移行期集中体制とみなすことができる。
 こうした体制を最初期に主導していたのは、薩摩下級藩士出身の大久保利通であった。彼は初め大蔵卿として財政を掌握、次いで内務卿として内政全般を掌握する事実上の宰相格となり、強力に政権を主導した。
 しかし、革命政権にありがちなように、明治維新政府もまた内部の不協和音と権力闘争に直面する。最初のものは、いわゆる征韓論をめぐる対立であった。これは、直接には、帝国主義的な対外膨張を目指すか、国内の構造変革を優先するかという革命の路線対立に起因するが、大久保派と反大久保派という人事対立の要素も絡み、その決着は征韓派‐反大久保派の大量辞職という形でなされた。
 西郷隆盛という維新功労者の下野にもつながったこの明治六年政変は、始動して間もない維新政府にとっては、内乱の勃発を予想させる不吉な出来事であった。しかし、当面は内務省という強権を持つ総合官庁を創設し、自らそのトップにおさまった大久保の勝利であった。
 この後、名実ともに権力を掌握し、不平士族の反乱である佐賀の乱の鎮圧、明治政府初の海外派兵となった台湾出兵と、内外の軍事問題を処理した大久保が最大の試練に直面したのは、明治六年政変で下野した西郷が九州で起こした大規模な反乱であった。
 西南戦争と呼ばれるこの反乱は、鎮圧に失敗すれば革命政府の瓦解につながりかねない内戦に発展したが、大久保政権は西郷軍を上回る戦力を投入して、短期間でこれを鎮圧することに成功した。この戦勝以後、内戦規模の国内戦乱は発生しておらず、維新政府にとって重要なエポックとなった。
 しかし、大久保政権は長く続かなかった。西南戦争勝利翌年の1878年、大久保は地方士族出自の暗殺集団に襲撃され、あっけなく命を落とすことになったからである。これも変則的な士族反乱とみなすこともできるが、犯行動機として「有司専制」への批判が列挙されていたことは、移行期集中体制の限界を示していた。

コメント

近代革命の社会力学(連載第65回)

2020-01-27 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(4)無血革命成らず革命戦争へ
 尊王攘夷運動が倒幕運動へと転換していく兆しを見せる中、幕府と倒幕勢力の武力衝突の危険が高まると、朝廷をはさんだ両勢力間で、ある種の妥協策が二度にわたって試みられた。一度目は、1863年に京都に設置された参預会議である。
 これは、攘夷論者の孝明天皇ですら嫌悪した攘夷強硬派の長州藩を追い落とした八月十八日の政変を経て、当時は将軍後見職だった徳川慶喜を筆頭に、朝廷が任命する大名級長老五人を加えて成立した諸侯会議であり、当時提起されていた公議政体論、すなわち幕府による独裁を改め、大名諸侯の連合政権に移行する構想を反映した最初の試みであった。
 しかし、長州藩への処分問題や天皇が求める横浜港閉鎖などの重要議題をめぐり、メンバーの意見はまとまらず、翌年3月に慶喜が離脱したのを機に崩壊してしまう。その後、慶喜が将軍職に就き、孝明天皇は死去するという潮目の変わり目に、同様の試みが薩摩藩主導でもう一度なされた。これが1867年に京都に設置された四侯会議である。
 四侯会議は公式の統治機関ではないが、薩摩藩の事実上の最高実力者・島津久光を筆頭に、越前、土佐、宇和島の各藩の前藩主という大名級長老四人で構成された幕府・朝廷双方に対する諮問機関のようなものであった。しかし、機関の位置づけの曖昧さとともに、主導した薩摩藩としては、この機関を介して政治の実権を薩摩中心の諸藩連合体制に移そうとする狙いがあった。
 このような薩摩藩の思惑は、徳川慶喜と幕府によってすぐに察知されるところとなった。将軍となった慶喜は全面開国に傾き、列強の要求する兵庫開港の勅許を得ようと工作し、最終的に孝明天皇を継いだ後の明治天皇の勅許を得ることに成功した。これにより、薩摩主導の四侯会議も事実上崩壊した。
 四侯会議の挫折を受け、薩摩藩は武力による倒幕を明確に志向するようになり、土佐藩倒幕派との間で倒幕密約を結び、京都の討幕派公家勢力とも連絡して、倒幕の密勅を得るなどの革命工作に乗り出していく。こうした動きに対抗して、武力革命を避けるための妥協的対処として、土佐藩士坂本龍馬の発案を受けて、同藩主山内容堂経由で慶喜に進言されたのが、大政奉還であった。
 慶喜としては、これによって武力革命を回避しつつ、徳川家支持の諸侯を集めて新たな連合政権を形成して権力を維持する思惑であったと言われるが、そうした徳川支配の温存策を阻止するため、倒幕勢力は1868年1月、王政復古の政変を起こし、慶喜を辞官納地処分として完全に排除した。
 ここまではほぼ無血のうちに進行したから、これでスムーズに革命政権が始動すれば明治維新は無血革命として歴史に残ることになったはずだが、そうはならなかった。慶喜にとっては不意打ちのクーデターでしかなかった王政復古政変は受け入れ難く、辞官納地の撤回を求めて工作し、これに成功しかけたのだった。
 一方、あくまでも倒幕を目指す強硬派によるゲリラ的な騒擾が相次ぐ中、幕末以来、江戸市中警備を担っていた譜代の庄内藩と薩摩藩の武力衝突を引き金に、慶喜を頂点とする旧幕府勢力と新政府の間で内戦が勃発した。鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争である。
 この戦争は、革命という観点からみれば、革命政権と旧政権残党の間で交戦される革命戦争の性格を持っていた。こうした革命戦争は革命の波及を恐れる外国が介入する干渉戦争に発展することがままあるが、戊辰戦争ではそうした干渉は起きなかった。
 ただ、旧幕府は慶喜の時代にフランスに接近し、後ろ盾としていたため、フランスに支援的軍事介入を求めることも可能だったが、慶喜は戦意が乏しく、鳥羽・伏見の緒戦で敗北するや、江戸に脱出し、後に「敵前逃亡」の非難を受けることになった。
 戊辰=革命戦争の過程では、親藩や譜代を含む諸藩が続々と新政府側に寝返る中、対抗上皇族を擁した東北の奥羽越列藩同盟による抵抗に直面し、この同盟は反革命側の対抗政府のような様相を呈したが、結局は戦力不足ゆえに降伏を余儀なくされた。関ケ原の戦いという内戦で権力を確立した徳川幕府は、軍閥政権にふさわしく、最期も戊辰戦争という内戦で権力を失うのであった。
 なおも抵抗を続ける幕府残党勢力は箱館に逃れ、旧幕府海軍奉行・榎本武揚を公選の総裁とするある種の「共和国」を樹立した。榎本は佐幕派とはいえ、幕末に西欧留学を経験した開明派であり、この俗称「蝦夷共和国」が存続していれば、日本史上初の共和体制となっていた可能性もあり、広義の戊辰戦争中の興味深い一幕ではあった。
 しかし、「蝦夷共和国」はアメリカをはじめ西欧列強からの公式な承認は受けられないまま、新政府軍の掃討作戦に直面し、敗北した。投獄された榎本は釈放後、明治政府に参画し、外相を含む重要閣僚を歴任する重鎮となった。

コメント

アウシュヴィッツ解放75周年に寄せて

2020-01-27 | 時評

ソ連軍がナチスのアウシュヴィッツ絶滅収容所を解放した1月27日は、2005年の国連総会決議以来、「国際ホロコースト記念日」に指定されている。本年は75周年の節目ということで、記念式典も盛大に行われたようである。

75周年と言えば三度の四半世紀が経過したことになり、解放当時20歳だった捕囚も95歳、生きて救出された人たちの多くがすでに物故している。アウシュヴィッツの記憶は希薄になり、その名は知っているが内容は知らない、その名さえも知らないという世代が欧州でも出てきている由。

そうした記憶の風化が定着していくと、アウシュヴィッツの再発という事態も空想ではなくなってくるだろう。欧米ではすでに新たな反ユダヤ主義の波が起きており、ユダヤ教会襲撃事件なども発生している。

憂慮すべき事態ではあるが、反ユダヤ主義をより包括的にみると、反セム主義(antisemitism)の一環ということになる。セムとは、ユダヤの言語であるヘブライ語のほか、アラビア語も含む言語学上の分類であるセム語族を指すが、単に反セム主義といったときは、反ユダヤ主義と同義で用いられることが多い。

しかし、近年の欧米社会の状況を見ると、中東・アフリカ等からのイスラーム教徒(ムスリム)移民の増大により、ムスリム人口が増加していく中、反イスラーム主義の風潮が強まっている。そうした風潮を反映して、欧州各国からアメリカのトランプ政権に至るまで、「反移民」を旗印にする政党・政権が伸張しているが、これら「反移民」の正体はほぼイコール反イスラーム主義である。

「欧米がイスラーム化される」といった不安扇動的な言説が流布され、ムスリム排斥の風潮も強まる中、欧州で最も懸念されるのは、反ユダヤ主義以上に反イスラーム主義の暴風かもしれない。アウシュヴィッツの手法は、ムスリムにも応用できるからである。

アウシュヴィッツの風化がさらに進めば、ムスリム絶滅政策を実行する狂信的な反移民政権が欧州に現前しないという保証はもはやできないだろう。その際、戦後のイスラエル建国問題を契機とするユダヤ人とムスリムの解決困難な対立から、かつてのホロコースト犠牲者であるユダヤ人もムスリム絶滅政策に反対しないという事態も想定される。

現在のところ、そうしたことは杞憂のように思えるかもしれないが、今後さらに四半世紀進んだアウシュヴィッツ100周年、さらにその先という長いスパンで見据えたときには、杞憂と言えなくなるだろう。

成長過程で知らず知らずして体得されていく各種の差別意識というものは、成長後にそれを除去しようとしても手遅れであり、幼少期からの反差別教育が不可欠であるが、現時点で、そうした反差別教育を体系的に取り入れ、成果を上げている国を寡聞にして知らない。

国際ホロコースト記念日のような象徴的なやり方も決して無用ではないが、それだけでは新たな「ムスリム・ホロコースト」を抑止することはできない。知識の教科学習だけでなく、否、それ以上に反差別教育の徹底を国際的な課題とすることが急務である。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第34回)

2020-01-26 | 〆貨幣経済史黒書

File33:インターネット・バブル経済

 バブル経済は、17世紀オランダでのチューリップ・バブルを嚆矢として、近代貨幣経済、ひいては資本主義の歴史において付きものとなっている。
 チューリップ・バブルでは、当時の欧州でまだ珍奇だったチューリップの球根がフェティッシュな形でバブルの対象物となったのだが、バブルの発生要因は、貨幣経済の高度化に伴い、次第に通貨・金融政策と連関するようになっていく。
 その点、新たな時代を画した20世紀末の世界では、当時は珍奇だったインターネットという無形資産が再びフェティッシュな形でバブルの対象となると同時に、金融政策もこれに絡む形で、バブルを作り出したのだった。
 1990年代前半にインターネットの商用化が開始されると、多くの既存資本企業がインターネット投資に走っただけでなく、インターネットを活用した新規企業が主にアメリカで続々と設立された。こうした新規企業は少額の資本金と人員で簡単に設立できることから、その場限りの思惑起業が容易であることが問題であった。
 インターネット新規企業の多くは企業としての永続性を前提としたゴーイングコンサーンを考慮しないベンチャーであり、ほとんどがアマチュアを含む情報技術畑出身で、他企業での経営実務経験もない若年の創業者たちは「起業家」ではあっても、「企業家」とは呼び難かった。
 投資家の多くも、これら新規企業が提供するサービスや商品の正確な仕組みをほとんど理解できなかったという点では、複雑な金融数学を用いたデリバティブ金融商品に類似するところがあったが、複雑で理解できないものほど好奇的な興味を惹かれるのも、投資家心理である。
 バブルの兆候は、まず新興企業向け株式市場であるNASDAQに現れた。NASDAQ総合指数がIT産業株の成長により90年代後半期に右肩上がりで上昇を続け、20世紀最終年度の2000年までにおよそ五倍に急伸したのである。こうした動向は、アメリカの連邦準備制度理事会の低金利政策にも後押しされていた。
 他方、まだ平成バブル崩壊後の長期不況の渦中にあった日本でも、インターネットは不況脱出の救世主のように思われ、政府によるベンチャー企業育成支援策に後押しされて、新規IT企業の設立ブームと小さなバブル現象が起きたが、やはりその場限りの思惑起業ブームであり、アメリカに先立ち、2000年度中にはバブルがはじけている。
 インターネット・バブル本国のアメリカでもバブルの崩壊は、意外に早かった。世紀が変わると、アメリカ連邦準備制度理事会の利上げ決定が打撃となり、IT株価は崩落、思惑企業の多くがあっけなく破産や買収に追い込まれたが、創業者たちは株式公開による創業利益をすでに手にしており、企業を手放しても十分に資産形成できたが、従業員たちは失業に追い込まれることになった。
 とはいえ、バブル崩壊後も生き残ったつわもの企業もあり、それらは現在に至るまで、それぞれの分野で、知的財産権に守られながら、多国籍独占企業体に成長し、知識資本という新たな資本の形態を形成している。
 自由競争の結果としての無競争・独占の形成という市場経済のパラドクスを最も如実に示しているのが、こうした情報通信知識資本の領域であると言える。

コメント

共産法の体系(連載第7回)

2020-01-24 | 〆共産法の体系[新訂版]

第1章 共産主義と法

(6)重層的法体系
 現代のブルジョワ法は、その適法範囲により大まかに国内法と国際法の二大系統に分けられるが、共産法にはこのような区別がない。というのも、共産社会は究極的に世界共同体というグローバルな民際機構に包摂されるからである。
 従って、共産法は全体的に言えば世界共同体「内部」の法にほかならないが、これを制定される場の観点から分類してみると―
 世界共同体総会を兼ねた世界民衆会議で制定される世界法、世界共同体域の大陸的な区分である汎域圏の民衆会議で制定される汎域圏法、世界共同体を構成する各領域圏の民衆会議で制定される領域圏法、連合領域圏を構成する準領域圏の民衆会議で制定される準領域圏法、地方自治体の民衆会議で制定される自治体法の五種を区別することができる。
 このうち世界法及び汎域圏法は現在の国際条約に相当し、領域圏法が国法、準領域圏法は州法、自治体法は自治体条例に相当するものである。従って、強いて内外二系統に分類するなら、世界法及び汎域圏法を民際法、領域圏法及び準領域圏法・自治体法を域内法と呼ぶことはできる。
 しかし、共産法における世界法はもはや国家主権によって妨げられることはないので、他の法と本質的に異なるものではない。異なるのは、それらの効力が及ぶ地理的な範囲である。すなわち、世界法は全世界、汎域圏法は汎域圏、領域圏法は領域圏、準領域圏法は準領域圏、自治体法は地方自治体に各々及ぶということになる。
 この五種の法の関係に上下優劣はない。世界法や汎域圏法は世界共同体や汎域圏に包摂される領域圏でもそのまま法として通用するのであり、領域圏法とは対等な関係に立つ。さらに、領域圏法と準領域圏法・自治体法の関係も対等である。
 こうした法種間の対等関係は世界共同体、汎域圏、領域圏、準領域圏、地方自治体の間で各々明確な役割分担がなされ、相互に競合しないことの帰結である。そのため、日本式の法令分類でいう条約、法律、条令といった階層的な名称区別も厳密には必要なく、すべては「法」である。 
 このように、共産法の体系は地球を一つに束ねる世界共同体の内部で上下に階層化されることなく重層的な体系を形成し、それぞれが明確な法目的をもって、その全体が有機的に機能していくことになるのである。

準領域圏または地方自治体の管轄事項について全土的な標準を定めておく必要があるときは、枠組み法という領域圏法により準領域圏法や自治体法を制約することがある。また、連邦型の連合領域圏内では、準領域圏法が原則として領域圏法に優先する(ただし、憲章は除く)。詳しくは、拙稿参照。

コメント

共産法の体系(連載第6回)

2020-01-23 | 〆共産法の体系[新訂版]

第1章 共産主義と法

(5)交換法から配分法へ
 ここで、共産法の体系に関して、法における正義という形而上学的な次元における特質からも見ておきたい。その際、ここでは現在でも法哲学論議の最も基本的な規準としてしばしば援用されるアリストテレスの正義論に立ち返って考えてみることにする。
 アリストテレスの功績は、罪と罰や契約における給付と対価のような「交換的正義」と、各人の価値に応じた配分を意味する「配分的正義」とに正義の位相を二分したことにあった。
 その点、ブルジョワ法は、明らかに前者の交換的正義を正義の主軸として成り立っている。発達した資本主義社会におけるブルジョワ法はある意味で、交換的正義の到達点にあると言ってよいだろう。
 ブルジョワ法の中心的な体系は契約法である。これは商品が支配する資本主義社会が法的には売買契約を主軸として成り立つことからして、ごく当然の帰結である。そこでは、まさに給付と対価の交換関係を衡平に規律することが、法的正義の本質となる。
 もっとも、発達したブルジョワ法にあっては、契約当事者間における強弱の力関係を考慮した配分的正義を目指す社会法も一定限度では取り入れられているが、それは本質部分ではなく、あくまでも修正的な補充法としての意義しか持たない。
 ブルジョワ法では、こうした交換的正義の観念は私法に限らず、刑法にも及び、罪と罰との均衡が求められる。そこでは古来の復讐の観念が応報刑の法観念に変換されて、法的正義の衣をまとうことになる。反面、犯行者個々の特性に応じた改善更生を目指す配分的正義論は背後に退けられ、イデオロギー的に否定されることもある。
 対照的に、共産法における正義は配分的正義の側面に軸がある。交換的な契約の観念が完全に消失するわけではないとしても、貨幣経済の廃止により少なくとも金銭的な対価関係は消失するので、契約法の意義は大幅に減少する。
 代わって、配分的正義を軸とする法体系が構築され、社会法はもはや単なる補充法ではなくなる。むしろ社会法と私法の区別が相対化されていき、私法にも社会法の原理が埋め込まれていく。
 また刑法の分野でも交換的正義に基づく罪刑均衡の観念は背後に退き、代わって配分的正義に基づく個別的・教育的な理念が前面に立ち現れる。その究極は刑罰という本質的に交換的な法制度そのものの廃止にまで進むことになるが、詳細は該当の章で述べる。

*貨幣経済が廃される共産法下でも物々交換は認められるので、交換契約はむしろ盛んになると予想されるが、物々交換は金銭による売買契約とは異なり、より文化的・儀礼的な交換関係の原理で律せられると考えられる。

コメント

近代革命の社会力学(連載第64回)

2020-01-22 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(3)倒幕運動の始動と担い手
 江戸幕府による「開国」以来、それに対する反作用に由来する尊王攘夷運動は、西日本の外様諸藩と将軍を輩出しない親藩水戸藩から生じた。中でも西端の辺境領主である薩摩藩主島津氏は、江戸開府前の内戦・関ケ原の戦いでは反徳川方にありながら特赦された経緯にふさわしく、長く幕府に面従した末、最終的には最有力の倒幕主体となった。
  薩摩藩と手を組んだ長州藩主毛利氏も、本州最西端のある種辺境領主であったが、やはり関ケ原ではいったん反徳川方西軍総大将となりながら赦免されるも、減封を伴う領地替えを受けた経緯があり、長く面従した後、倒幕に転じても不思議はなかった。
 水戸藩は歴代藩主が俗に「副将軍」となる有力な親藩でありながら、幕末になって反幕府に傾斜していくのは一見不可解であるが、同藩は2代藩主徳川光圀以来、水戸学と総称される学術・イデオロギーを担う藩でもあったことが、幕末に倒幕イデオロギーの拠点を提供することになったと考えられる。
 これに加えて、京都の朝廷に孝明天皇という積極的な参政意志を持つ天皇が久方ぶりに出現したことも、倒幕運動に活力を与えた。そもそも、攘夷運動は、自身思想的な排外的国粋主義者であった孝明天皇が勅許なしの「開国」に激怒したことに発しており、米欧列強も彼こそが攘夷の最大の黒幕と認識するようになった。
 攘夷運動が単なる攘夷でなく、尊王と組み合わさったことも、孝明天皇の一貫した攘夷姿勢のなせるわざであり、仮にも彼が幕府の開国方針をあっさり承認し、幕府と歩調を合わせていたら、攘夷運動は尊王ではなく、反王運動となり、幕藩体制のみならず天皇制をも廃する「反王攘夷運動」、ひいては共和革命に発展していた可能性すらあったかもしれない。
 こうして、尊王攘夷運動ひいては倒幕運動につながる朝廷‐水戸藩‐西日本外様諸藩という連合勢力が形成されるわけであるが、より仔細に担い手を見ると、尊王攘夷運動が倒幕運動へと転化するにつれ、徳川家臣下という身分から動きの取りにくい藩主層に代わり、青年下級藩士層の主導性が高まっていく。
 中でも、外様諸藩で倒幕主体となった薩摩・長州・土佐の三藩からは、平時ならば藩内役職にも就けないような下級藩士が台頭し、維新後には明治政府や軍部の高官を多数輩出することになる。かれらの存在なくしては、明治維新もその後の明治政府の展開もなかったと言って過言でないだろう。
 かれらに加え、岩倉具視に代表されるような本来なら朝廷の高い役職に就けない低位の公家を含め、幕末倒幕運動では幕府の権威が急速に衰微していく中、ある種の下克上的な階級変動が起きていたと言えるだろう。
 他方において、幕末倒幕運動では民衆の不在性も際立っている。この時代の民衆の圧倒的多数はいまだ農民であった。かれらは幕末の経済的混乱の中で困窮し、再び一揆で抗議していたが、これは近世伝統の農民的抗議活動の域を出ず、倒幕運動に直接発展する性質のものではなかった
 もっとも、後に初代内閣総理大臣に就任し、最も著名な明治元勲となる伊藤博文は、長州農民の生まれであったが、少年期に足軽の養子となったことで、最下級ながら武士身分を獲得しており、農民身分のまま倒幕運動に参加したわけではなかった。
 一方、都市では商業で成功した富裕な町人が富を蓄積し、諸藩に対する債権者としても経済的には優位に立っていたものの、封建的商人階級の域をいまだ出ず、近代的ブルジョワ階級としては未分化であった。かれらもまた封建的な身分制のもと、参政意志は乏しく、倒幕運動の主体とはならなかった。
 こうして、幕末倒幕運動は、西欧的な立憲革命でも、ブルジョワ革命でもなく、緩やかに結合した外様諸藩の青年武士を中心的な主体とする、ある種の青年将校グループによる下剋上革命の性格を強く帯びていくことになる。かれらは下級といえども武士であり、武器の使用法を知る者たちであったから、この先、武力革命への展開が予想された。

コメント

近代革命の社会力学(連載第63回)

2020-01-21 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(2)「開国」と革命への胎動
 近世の日本は、対外的には「鎖国」を貫き、とりわけ西欧からの文物・情報の流入を厳しく統制しつつ、対内的には封建制の枠組みを維持しながら、中央政府兼軍参謀本部に相当する幕府の権限を強化し、封建領主に相当する大名や旗本を将軍家との因縁や家柄、格式により詳細に階層化したうえ、中央から監視・管理するという巧妙な体制を作り上げることで、独立性と安定性を200年以上にわたり保っていた。
 このように安定的な閉じた系には、革命の勃発する隙などないように思われた。とりわけ西欧経由の民主主義や自由主義に基づく近代的革命思想が知識人の間にすら全く流入しなかったことは、幕藩体制の長期に及ぶ持続にとって重要な秘訣であった。
 しかし、そのような閉じた系の長期に及ぶ安定性を破ったのは、幕府自身である。いわゆる「開国」政策がその突破口であった。これはアメリカをはじめとする米欧列強の武力を背景とする威嚇により半ば強いられたものであるとはいえ、事実上の国是を数百年ぶりに転換する決断であった。
 この歴史的な国是の転換に対する反応としては、開国を契機に西欧的近代化、さらには民主化を要求していくという方向性も想定できたが、上述のように、幕府が「開国」に踏み切った1850年代という時点では、西欧民主主義思想は日本における知見になっていなかったため、このような流れが生じることはなかった。
 その代わりに起きた反応は、攘夷を称する排外主義的な反発であった。これはまさに数世紀に及ぶ排他的な「鎖国」が生み出した自然の生体反応のようなものである。そして、この場合、「開国」に踏み切った幕府と実質的な元首である将軍に対する反発から、京都で逼塞していたもう一人の元首たる天皇への傾倒が生じたのも、自然の流れであった。
 こうして、攘夷と尊王とが結合して、いわゆる尊王攘夷運動が始動していくことになる。これに対して、幕府側でも対抗上天皇を取り込もうとして、いわゆる「公武合体」のような封建的婚姻戦略を展開するが、そのような時代遅れのやり方で対処できる段階ではもはやなかった。
 幕府温存策としては、天皇制と朝廷を廃止して幕府に一元化するか、徳川家を「王家」とする新王朝を立てるという方策もあり得たが、天皇からの授権という権威付けを統治の正当性の根拠としてきた徳川幕府にとって、このような方向性は論外であった。
 その代わり、将軍を関白・摂政として古来の朝廷の政治機構の中に組み込むという往年の豊臣氏政権に立ち返るような構想が現れ、実際、最後の将軍となった徳川慶喜は、天皇の後ろ盾を得ようと、ほとんどの時間を京都で過ごし、事実上「京都幕府」の様相を呈していたが、結局のところ、天皇を味方につけることには成功しなかった。
 他方、尊王攘夷運動側では、下関戦争や薩英戦争で見せつけられた列強の近代的軍事力を前に攘夷の不能性を悟ったことで、攘夷を撤回し、尊王を前面に押し出すようになった。こうして、尊王思想に基づく倒幕革命への土台が形成されるが、ここでの尊王とは西欧的な立憲君主制の思想とは異なり、復古的な基調を帯びたものであった。このような方向性は、続く明治維新という「革命」の性格にも制約を与えることになっただろう。

コメント

近代革命の社会力学(連載第62回)

2020-01-20 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(1)概観
 フランスがコミューン革命へと向かっている頃、東アジアで「鎖国」を続けていた辺境国家日本でも、大規模な社会変動が生じた。「明治維新」の呼び名で定着している革命的な事象である。この事象が通常、「明治革命」と呼ばれないのは、政治構造上古い天皇制を復活させるという「復古」を伴っていたからであろう。
 しかし、この「復古」は古代天皇制のコピーのような復旧ではなく、近代化に適応するうえでの上部構造的な枠組みとして、数百年も続いてきた武家主導の封建的な軍事体制を解体して、西欧の君主制ないし帝政をモデルとした新たな近代天皇制を創出したものであったから、単純に復古という側面だけではとらえきれない性質のものであった。
 実際、社会経済的、さらには文化的な面でも、明治維新後、根本的な変革が多方面にわたって展開され、明治維新の前後で日本の社会文化構造は別の国に等しい程度にまで変貌を遂げている。そのため、「明治維新」を「明治革命」と改称しても不都合はないと思われるが、ここでは慣例に従い、「明治維新」の呼称は維持することとする。
 ところで、通常、最も狭い視座による「明治維新」とは、江戸幕府が正式に終焉した「大政奉還」から、廃藩置県により旧来の封建的な分邦体制が解体され、近代的中央集権国家が発足するまでを指すが、ここでは、より広く「日本近代化革命」という視座から、倒幕・明治政府の樹立に始まり、憲法制定を経て、1890年(明治23年)の近代的議会制度の発足に至るまでを革命の全過程ととらえる。
 そうなると、これは20年以上に及ぶ非常に長い革命ということになり、革命の担い手も最初期の薩長を主体とする地方藩出身の青年武士や彼らと共同戦線を張った京の少壮公家から、明治政府発足後にある種の野党勢力として現れた自由民権運動の参加者へと転変することにもなる。
 すると、革命としてとらえた場合の明治維新の性格付けも複雑なものとなり、倒幕時の下級武士・公家主体の下剋上的な軍事革命を契機として、倒幕後は権威主義的・独裁的な革命政権となった維新元勲政府に対する対抗運動として現れたブルジョワ民主化運動を吸収したブルジョワ立憲革命へという変移をとらえる必要があるだろう。
 ただ、明治維新当時、共和制国家は西欧でもまだ確立されておらず、圧倒的に君主制国家が占め、発展した独立国ではアメリカ合衆国くらいしか存在しない中、共和革命にまで進むことはできず、さしあたり立憲君主制、それも専制主義の色彩が濃いプロイセンを範とする立憲帝政の確立にとどまった。
 他方、資本主義的工業化に関しては、西欧諸国でも大いに進展していた時期であるだけに、明治維新後は「殖産興業」のスローガンのもとに急速な資本主義的工業化が国策として推進され、富を蓄積したブルジョワ階級の形成を促し、立憲帝政の限界内ではあるが、社会経済的な面でブルジョワ革命の域に達した。

コメント

世界共同体憲章試案(連載第26回)

2020-01-19 | 〆世界共同体憲章試案

【第84条】

1.すべて人は、思想、良心及び信仰の自由に対する権利を有する。この権利は、信仰または信念を変更する自由及び単独でまたは他の者と共同して信仰または信念を実践する自由並びに特定の信仰または信念を強制されない自由を含む。

2.すべて人は、その手段または名義を問わず、表現の自由に対する権利を有する。この権利は、懲罰や干渉、脅迫を受けることなく自己の意見を表明し、あらゆる可能な手段により、広く世界に情報及び思想を求め、受け、及びこれを伝える自由、並びに集会及び結社の自由を含む。

3.本条の権利及び自由は、この憲章が保障する他人の権利及び自由を明らかに侵害し、または侵害する明白かつ現在的な危険が認められる場合において、十分な反論の機会が保障された公正な司法過程を経ることによってのみ、制限され得る。

[注釈]
 第一項は聖俗問わず、広い意味での思想信条の自由に関する包括的な規定、第二項は表現の自由とその制限に関する包括的な規定である。本条の自由の制限に際して司法過程を経ることを義務付ける第二項の規定により、行政的な検閲や行政許可制は禁じられることになる。

【第85条】

1.すべて人は、学術的及び芸術的活動の自由に対する権利を有する。この権利は、この憲章が保障する他人の権利及び自由を明らかに侵害する場合または学術的もしくは芸術的にあまねく承認された倫理に反する場合にのみ制限され得る。

2.すべて人は、自由に芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵にあずかる権利を有する。学術的研究及び芸術的作品は万民が享受すべき人類共有の資産及び遺産であり、何人も科学的研究、芸術的作品から生ずる精神的及び物質的利益を独占することはできない。

[注釈]
 学術及び芸術活動の自由に関する規定である。第二項は、科学的研究や芸術的作品に対する知的財産権という壁を超克する革新的な規定である。もっとも、盗作・盗用を自由に認める趣旨ではなく、盗作・盗用は第一項の学術的または芸術的にあまねく承認された倫理に反する場合の一つとして、何らかの制限が加えられることになろう。

〈補則〉

【第86条】

1.世界共同体域内で出生した者は、自動的に世界共同体籍が付与される。

2.前項以外の場合、世界共同体籍は、世界共同体の構成領域圏または直轄自治圏のいずれか一つの住民として登録されることにより、自動的に付与される。

3.世界共同体籍は、保持者の死亡が公的に証明されることによってのみ失効する。

[注釈]
 世界共同体は個人単位で参加する機構ではないが、域内で出生するか、域内の構成領域圏または直轄自治圏のいずれか一つで住民登録をすることにより自動的に付与され、かつ保持者本人の公的な死亡証明によってのみ失効する。反面、構成領域圏または直轄自治圏は現在の国籍に相当するような独自の所属籍を発行しない。

【第87条】

1.この憲章が保障する権利及び自由は、世界共同体域内のすべての個人及び法人並びにその他の集団による不断の協働的な努力によって保持しなければならず、それらが侵害されたときは、その回復のために可能な平和的方法で闘争しなければならない。

2.すべて人は、この憲章が保障する自己の権利及び自由を行使するに当たっては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障すること、または世界共同体の目的及び原則を実現することをもっぱら趣旨として法によって定められた制限にのみ服する。

[注釈]
 第一項は憲章が保障する権利及び自由に対する協働的な保持と闘争の義務、第二項は憲章が保障する権利及び自由の制限に関する一般的な基準を定める。

【第88条】

1.この憲章が保障する権利及び自由は、基本的人権に含まれ得る最小限を示すものであるがゆえに、世界共同体域内のすべての民衆会議はそれらを削減してはならない。ただし、この憲章が保障していない権利及び自由を付加することを禁止するものではない。

2.この章のいかなる規定も、この章に掲げる権利及び自由の侵奪もしくは世界共同体の破壊を目的とする活動に従事し、またはそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない。

[注釈]
 憲章が規定するたかだか全20か条の人権規定は基本的人権の最小限を示すのみであるから、世界共同体域内の領域圏等の民衆会議はこれを削減すること(例えば、社会権条項を排除するなど)は許されないが、反対に憲章の最小限規定を越えて独自に権利及び自由を追加することは許されるというのが第一項の趣旨である。
 第二項は念のための注意規定にすぎないが、この章が保障する権利及び自由がそれらの侵奪や世界共同体の破壊の目的のために悪用されることを禁止する趣旨である。

コメント

世界共同体憲章試案(連載第25回)

2020-01-18 | 〆世界共同体憲章試案

〈自由権〉

【第77条】

1.何人も、正当な理由に基づき、かつ事前または事後の公正な司法過程を経ない限り、生命及び身体を侵されることはない。拷問は、いかなる状況においても、絶対に禁じられる。

2.何人も、この憲章に特別の定めがない限り、世界共同体域内においては、死刑もしくは身体刑その他人体を害する刑罰またはその他の司法的処分を宣告されることはない。

3.奴隷制または奴隷的慣習は、当事者の同意の有無を問わず、絶対に禁じられる。

4.人体実験は、当事者の同意の有無を問わず、絶対に禁じられる。ただし、厳格なプロトコルに基づく医学的な臨床試験は、本項の人体実験に該当しない。

[注釈]
 第2項における特別の定めとして、反人道犯罪の主唱者等に科せられる致死的処分がある(第96条第1項第1号)。

【第78条】

1.何人も、自己の私事、家族、家庭もしくは通信に対して、みだりに干渉され、または名誉及び信用に対して攻撃を受けることはない。人はすべて、このような干渉または攻撃に対して平等に法の保護を受ける権利を有する。

2.何人も、正当な理由に基づき、かつ事前または事後の公正な司法過程を経ない限り、その住居、書類及び所持品または通信について、侵入、捜索及び押収、開封、盗聴、盗撮を受けることはない。

3.何人も、自己または家族に関する個人情報(通信記録を含む)を保有している第三者に対し、その全面的な開示を求める権利を有する。

[注釈]
 プライバシー権及び名誉権の規定である。第1項は世界人権宣言第12条をほぼそのまま転用している。第3項は個人情報開示請求権に関する新規の条項である。

【第79条】

1.世界共同体構成領域圏及び直轄自治圏の住民は、世界共同体域内において自由に移転及び居住する自由を有する。ただし、いずれかの構成領域圏もしくは直轄自治圏で犯則行為を犯し、手配中の者または法令で禁じられた物品を所持している者については、この限りでない。

2.世界共同体構成領域圏及び直轄自治圏の住民は、その意に反して、現に居住する領域圏もしくは直轄自治圏から追放され、または帰住を拒否されることはない。前項但し書きの規定は、本項にも準用する。

3.すべて人は、現に居住する地における迫害、戦乱または飢餓もしくはその他の非人道的な危難を逃れるため、世界共同体域内の任意の地に避難することができる。この場合、避難者は世界共同体の適切な機関を通じて、直ちに必要な人道的保護を受ける権利を有する。

[注釈]
 世界共同体は国境という概念を持たないから、世界共同体の構成領域圏及び直轄自治圏の住民である限り、原則として世界共同体域内の移転・居住は自由であり、例外は指名手配犯及び法禁物所持者の場合だけである。
 同様に、避難の権利も広く認められる。もっとも、移転・居住の自由が世界共同体の構成領域圏及び直轄自治圏の住民に固有の権利であるのに対し、避難権は、世界共同体域外の住民にも保障される点に違いがある(第3項)。

【第80条】

1.成年者は、いかなる制限をも受けることなく、当事者間の自由かつ完全な合意にのみ基づき、他人と共同の生計を営み、家庭を形成する自由を有する。共同の生計を営む者は、その継続及び解消に関し、互いに平等の権利を有する。

2.世界共同体域内において、16歳未満の幼年婚または幼年婚に準じる制度もしくは慣習は、当事者間の合意の有無を問わず、禁止される。

3.婚姻中または婚姻に準じた関係にある未成年者は、教育を受ける権利を奪われない。

[注釈]
 本条で言う「共同の生計」は、伝統的な異性間の婚姻に限らず、民事婚、公証パートナシップなどの新しい準婚的制度もすべて包括する用語である。伝統的な婚姻の制度または慣習が本条に反する限りにおいては、本条は「婚姻制度からの自由」を保障した規定ということになる。
 なお、世界共同体は法定婚姻年齢に関して統一的基準を設けないが、人生設計の自由を阻む16歳未満の幼年婚またはそれに準ずる制度慣習は全域で禁止する。また、合法的に婚姻中または婚姻に準じた関係にある未成年者が教育を受ける権利も確保される。

【第81条】

1.住宅その他衣食住に必要または有用な財産は、個人の所有に属する。

2.動物を所有する者は、飼育者としての責任において、飼育下の動物を愛護し、かつその動物の特性に応じて安全に監護する義務を有する。

[注釈]
 次条の土地に対して、日常的な「小さな財産」に関する規定である。愛玩動物や家畜もその中に含まれるが、動物の所有者には第2項で愛護及び監護義務が課せられる。

【第82条】

1.土地は、何人の所有にも属さない自然物である。

2.世界共同体構成領域圏は、その領内の全土地に対する包括的な管理権を有する。直轄自治圏内の土地の管理権は、世界共同体が保持したうえ、これを直轄自治圏に包括的に委任する。

3.個人または公私の法人は、前項の管理権が許す範囲内で、土地を利用し、または譲渡し、もしくは貸与する権利を有する。

[注釈]
 地球上ですべての人間及び動植物の共同的な生活圏となる土地は無主物とされるが、その包括的管理権は、世界共同体構成領域圏または世界共同体から委任された直轄自治圏に属する前提で、個人や公私の法人が土地の利用等の権利を有するという二段構制である。

【第83条】

 世界共同体域内の住民は、経済計画の適用を受けない経済領域において、その居住する領域圏または直轄自治圏の法令に従い、私的な事業を営む権利を有する。

[注釈]
 経済計画が適用される環境負荷的産業分野は社会的共有に属する公企業で占められるが、その余の経済分野では私的な事業活動の自由が保障される。とはいえ、世界共同体域内では貨幣経済が廃されるため、私的事業の大半は非営利の公益事業となるだろうが、物々交換型の私的営業活動も本条によって保障される。

コメント

近代革命の社会力学(連載第61回)

2020-01-15 | 〆近代革命の社会力学

八 フランス・コミューン革命

(6)革命の挫折と反革命テロル
 フランス・コミューン革命では、パリ・コミューンの前後に、南部・中部の都市にも同様のコミューンの設立が相次いだのであるが、都市間の連携が取れていないことが問題であった。全体をつなぎ、全国規模の革命的波動を作り出せる全国的革命組織が何も存在していなかったからである。
 コミューンの設立を支援した国際労働者協会(第一インター)も、国際組織としての立場上、フランス一国の革命を直接に主導することはできなかった。ただ、協会の創立にも関わったマルクスが各地連携のため孤軍奮闘していたが、当時のマルクスはマイナーな存在であり、影響力を持っていなかったため、彼一人の力で連携を作り出すことは不可能であった。
 その結果、フランス・コミューン革命は中央政府vs地方自治体の抗争という図式の域を出ず、コミューンが対抗権力として公式政府と並立する未然革命の段階から次なる真の革命へと展開することが最後までできなかった。 
 こうした分断状況は、鎮圧に当たる中央政府にとっては極めて好都合であった。革命の起きていなかったベルサイユを拠点とするティエールの中央政府は、当初こそ革命軍化した国民衛兵団の武装解除とパリ奪取を試みたが、これに失敗すると、あっさりパリを放棄し、いったんベルサイユへ撤収した。
 しかし、これは「与えて奪え」の格言どおり、いったん引いて革命を許しておき、後から各個撃破の反転攻勢に出る巧妙な作戦の一環であった。事実、パリ以外のコミューンはいずれも基盤が弱く、次々と短期間で鎮圧されていき、パリ・コミューンが孤立する状態に置かれたのである。
 こうなると、中央政府による鎮圧は時間の問題であった。1871年5月21日、コミューン内の潜入スパイの手引きでパリ市内に第一陣を送り込んだ中央政府軍は、23日以降、本格的な鎮圧作戦にかかった。コミューン側の国民衛兵団と中央政府軍では兵員数も武器も比較にならないほど非対称であり、政府軍のパリ進軍を許した時点で帰趨は決していた。
 国民衛兵団は降伏を決めるが、精神主義的な徹底抗戦派のコミューン支持者に阻止されたことで、和平の可能性は遠のいてしまった。流血のコミューン掃討作戦により、28日、パリ市全域が政府軍により制圧され、パリ・コミューンは崩壊した。3月26日の宣言から起算しても、わずか二か月の命脈であったが、戦死者は推定3万人である。
 革命を鎮圧した政府側は、事後処理としてコミューン派に対し容赦のない弾圧を加えた。即決裁判によりコミューン派指導者らを多数処刑したほか、軍による超法規的処刑やあからさまな殺戮も相次いだ。死刑を免れた者たちも、数千人規模で投獄あるいは海外領土へ流刑となった。
 このような中央政府の事後処理は革命派への報復とともに将来の革命の抑止をも狙った反革命テロルの恐怖政治であり、反革命対処のある意味手本として現在まで継承され、他国の政府によっても、程度差はあれ、繰り返し利用されているものである。
 事実、反革命テロルの効果は抜群であり、フランスにおける18世紀以来の革命の歴史はパリ・コミューンを最後に終焉、フランスでは以後、現在まで真の意味で革命と呼び得る事変は発生していない。
 ちなみに、パリ・コミューンからおよそ百年後、第五共和政ド・ゴール政権下での「1968年五月革命」は、政権を揺るがす大規模な大衆デモに対する比喩にすぎず、体制変革につながる真の意味での革命ではない。
 他方、ティエールが初代大統領となった第三共和政下では王党派が再び伸張したが、ティエールの辞職後、ブルボン朝復古の最期の試みが失敗に終わり、君主制と共和制の転変を繰り返してきた歴史にも終止符が打たれた。
 以後、政体論争は消滅し、現在の第五共和政まで共和制の枠組みがほぼ恒久的にフランスに根を下ろした。その意味で、パリ・コミューンをフランスにおける最後の共和革命における一コマとして見るならば、それは短期的に失敗しつつ、長期的に「成功」したと評価することもできるだろう。

コメント

近代革命の社会力学(連載第60回)

2020-01-14 | 〆近代革命の社会力学

八 フランス・コミューン革命

(5)パリ・コミューンの権力構造と施策
 1871年の革命によって設立された革命的自治体パリ・コミューンは、近代革命史上でもユニークな構造を持っていた。それは、マルクスの要約によれば、「議会制ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた統治体」であった。つまり、コミューンは立法府と行政府を分離する立憲君主制やアメリカ的な権力分立の体制とは異なる構造のものであった。
 ただ、実際のところ、憲法に相当する基本法令も未定であり、コミューンの構造は流動的であったが、とりあえず執行委員会の下に執行、財務、軍事、司法、保安、食糧供給、労働・工業・交換、外務、公共事業、教育といった実務機関が設置され、それら行政各部を選挙で選ばれた代議員自身が主導する体制であった。
 大統領のような職は正式に設置されなかったが、名誉職的なコミューン総裁職には当時まだ獄中にあったルイ・オーギュスト・ブランキが選出された。コミューンはベルサイユに撤収したティエール中央政府と交渉し、ブランキの釈放を実現させたが、ブランキは政治活動を制限されたため、コミューンで実質的な役割を果たすことはなかった。
 結果として、コミューンは単独の指導者を欠き、集団指導制の強い合議体となり、このような権力構造は遠く半世紀後のロシア革命において、民衆の革命的代議機関として現れたソヴィエトの構想にも影響を及ぼした。
 なお、筆者の年来の提唱にかかる「民衆会議」も、立法と行政(さらに司法)を統合する総合的統治機関として、パリ・コミューンを一つの参照項として創案したものである。
 そうした意味で、パリ・コミューン自体は地方自治体の域にとどまったとはいえ、統治モデルとしては、君主を民選大統領に置き換えたようなアメリカ型の大統領共和制に対して、合議的な共和制という新しいモデルを示したとも言える。
 政策の面でも、信用と交換の組織、労働者の結社、無償の世俗的教育、集会と結社の権利、言論の絶対的な自由、女性参政権、自治体警察の創設、常備軍の廃止、その他地方自治組織の整備など、先行するどの革命よりも先進的な政策が包括的に打ち出された。
 問題は、コミューン内部が様々な党派の雑居状態にあることであった。その構成は前回見たが、第一インター派内部でさえ、老べレーのようなプルードン派と当時はまだマイナーだったマルクス派に分かれている状況であった。全体としてプルードン派が主導的であったが、中央政府との内戦が熾烈化するにつれ、行動主義的なブランキ派が台頭した。
 他方で、ベルサイユに陣取るティエール中央政府によるコミューン鎮圧作戦が開始され、内戦の様相を見せる中、執行権の強化を図るべく、補充選挙を経て新たに9の委員会がまとめられ、閣僚職が置かれた。さらには、検閲の導入など、当初の政策綱領に反する施策も戦時下で導入される。
 中央政府と対峙するうえで革命的独裁制の導入も検討され、ブランキ派の提案により18世紀フランス革命時のような公安委員会が設置された。けれども、恐怖政治の再現を恐れる第一インター派などの反対を押して設置された公安委員会は機能せず、所期の成果は得られないまま、コミューン内部の不和をさらけ出すことになった。
 一方、パリ奪取に際して重要な役割を担った国民衛兵団は、その位置づけや指揮命令系統も不明確なまま、中央政府との戦闘が不可避となる中、兵員増強か即時決戦かをめぐり対立が起き、一部強硬派によるクーデタ計画が露見するなど、コミューンは一気に政情不安に陥っていくのであった。
 革命政権内で政情不安が生じた場合の常として、内外敵に対する抑圧策が登場する。パリ・コミューンでも保安委員会の活動が強化され、改めて内部統制機関としての公安委員会が始動し、「内部の敵」に対する恣意的な検挙が多発する一方、「外部の敵」たる中央政府側人質に対する超法規的処刑のような恐怖政治の傾向が発現してくるのである。

コメント

近代革命の社会力学(連載第59回)

2020-01-13 | 〆近代革命の社会力学

八 フランス・コミューン革命

(4)コミューン革命への展開
 コミューンと呼ばれる革命的自治体はパリ・コミューンが史上初というわけではなく、すでに18世紀フランス革命の初動段階で登場しているが、この時はすぐに国民議会、さらに国民公会と、全国レベルの革命的代議機関の設立に結びついたことで、全土レベルの革命に進展した。
 しかし、19世紀のコミューン革命では、そうした全土レベルへの革命的展開は見られず、都市レベルでの同時的コミューン革命に限局されたことが特徴である。パリ・コミューンはその中の一つ、かつクライマックスというにすぎず、コミューン革命の最初のものでもなかった。南仏のリヨン、マルセイユでは、パリに先立ち、1870年9月には革命的コミューンの宣言がなされていたからである。
 パリでの革命的コミューンの公式な宣言日は1871年3月28日であったが、その前段階として、同年2月には、パリ二十区共和主義中央委員会からパリ二十区共和主義代表団(パリ代表団)に改称していた革命派が、第一インターナショナルの支援の下、革命宣言を発していた。
 そこには「すべての監視委員会メンバーは、革命的社会主義党に属する」と宣言されているが、「革命的社会主義党」なる革命政党が実際に設立されたわけではない。しかし、宣言に盛られたブルジョワジーの特権廃止と労働者の政治支配、人民主権の確立といった項目はいわゆる「プロレタリアート独裁」理念の初出とみなされている。
 これは文書上での宣言であり、革命派はまだ物理的にパリを制圧できてはいなかったが、この宣言以降、パリ代表団は公式政府の監視という消極的な性格を脱し、公式政府と対峙する民衆の対抗権力へと向かう展開を見せた。
 他方、18世紀フランス革命以来、徴兵による民兵組織として各革命で帰趨を決するほどの存在となっていた国民衛兵団でも、プロイセンに融和的なティエール政権に対抗して、中央政府の統制を離脱し、隊長を選挙任命制とする独自の革命軍に変貌しようとしていた。
 この動きに危機感を強めたティエール政権は国民衛兵団の武装解除を企てるも失敗、逆に政府軍の将官が捕虜にされる結果となった。これを機に3月21日、国民衛兵団は民衆とともにパリを制圧した。ここにパリ代表団と国民衛兵団が合流し、パリ・コミューン革命が実現したと言える。
 とはいえ、この時点ではコミューンの具体的な機構も定まっておらず、パリ代表団自体も完全な代表機関ではないため、3月26日、取り急ぎコミューンの選挙が挙行されることになる。84名の当選者を出したが、その構成はかなり複雑なものであった。
 まだ近代的な政党が組織されていなかったため、ある種の会派的な存在にとどまるが、最も行動主義的なブランキ派と労働者代表の第一インター派、いくぶん保守的なブルジョワ急進派が拮抗的に鼎立し、残りは国民衛兵代表や古典的なジャコバン革命派といった諸派であった。
 28日のコミューン設立宣言は、第一インター派にして1795年生まれの最年長シャルル・ベレーが主導した。こうして、とりあえずはコミューンが成立するのであった。パリに続いて、南部のトゥールーズ、ナルボンヌや中部のリモージュほか七都市でもコミューン設立宣言が相次ぐ。

コメント