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近代革命の社会力学(連載第272回)

2021-07-30 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(4)南北イエメン革命

〈4‐4〉北イエメンにおける第二次革命
 アラブ連続社会主義革命が1970年のナーセルの死と後継サーダート政権によるエジプトのイデオロギー的・政策的大転回を契機に退潮していく中、北イエメンでは内戦終結後の1970年代半ばになって、言わば遅れてきた第二次革命が発生する。
 この事象は基本的に1960年代までのアラブ連続社会主義革命の潮流からは年代的に外れることになるが、内戦なかりせば60年代中に起きた事象であったとも言えるので、言わば先延べされた革命的事象として、便宜上ここで追加的に触れておくことにする。
 北イエメンで内戦終結後に改めて第二次革命が生じたのは、67年の無血クーデターから内戦終結をはさんで、保守的なアル‐イリアーニ政権が続く中、軍部内に残存する急進派の鬱積した不満がもたらした反作用のゆえであった。
 そのため、第二次革命もまた急進派将校グループによって担われ、その指導者は62年の第一次革命を指導したアル‐サラルより一世代若い30代のイブラヒム・アル‐ハムディ中佐であった。
 1974年のクーデターにより政権を掌握したアル‐ハムディは、軍事司令評議会議長として「革命矯正運動」と呼ばれる新たな革新的施策に乗り出していく。言わば、長期の内戦によりほとんど進捗していなかった革命のやり直しプロジェクトである。
 その柱は、アラブ世界でも最も開発が遅れていた状況を打開するべく、長期的な展望を持った経済計画に基づく経済発展であったが、アル‐ハムディ政権の新政策の内容は、全体として、社会主義的という以上に、依然残る前近代的な慣習の廃絶と近代化の進展に重点が置かれていた。
 そのため、依然として強力な部族勢力の力を削ぐべく、地方のインフラストラクチャーを整備するための自治的なコミュニティーとして地方開発協会を設立し、独自財源に基づき地方の経済社会開発に当たらせる仕組みを創設した。
 しかし、軍の階級呼称の廃止や、後述するように1967年の独立革命後マルクス‐レーニン主義への傾斜が進んでいた南イエメンへの接近と南北統合構想などの急進化は、軍内部の反発とともに、隣国サウジアラビアの不信をも招いた。その結果、1977年、アル‐ハムディは暗殺され、軍事政権の幹部でもあったアーマド・アル‐ガシュミが後任の大統領となった。
 アル‐ガシュミ新大統領はサウジアラビアの支持を受けており、サウジアラビアの意を受けてアル‐ハムディの暗殺にも関与していた可能性があるが、暗殺事件の真相は解明されていない。
 ところが、翌年の1978年、アル‐ガシュミもまた、南イエメン特使との会談中に爆弾テロにより殺害され、この暗殺には南イエメンが関与したことが疑われている。
 こうした外国の思惑も絡んだ政治混乱を収拾したアリ・アブドッラー・サーレハ中佐が新大統領に就任し、以後、1990年の南北イエメン統一をはさみ、30年以上にわたり権威主義的な長期体制を構築したことで、イエメンは安定化に向かうが、2010年代に民主化革命の潮流に直面することになる。

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近代革命の社会力学(連載第271回)

2021-07-29 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(4)南北イエメン革命

〈4‐3〉北イエメン共和革命と長期内戦
 北イエメンにおける反体制運動としては、1930年代にイスラーム急進主義的な立場からの自由イエメン運動が発足していたが、この運動は明確に共和革命を追求するものではなかった。
 保守的な北イエメンにあって、共和制運動は国策として例外的に近代化が一歩進んでいた軍以外に拠点を持つことができなかった。特にエジプトとの関係を強化したことで、エジプトで訓練を受けた将校を中心とする軍部内ナセリスト派がその急先鋒であった。
 王国は軍を近代化することで自らの命脈を縮めたと言えるわけであるが、1962年9月のアハマド国王の死去と新国王アル‐バドルの即位はその合図となった。この年の3月、アハマドは暗殺未遂に見舞われた際、重傷を負い、病床にあったところ、9月に急死したのであった。
 これを受けて、アハマドが統治不能となっていた間に職務を代行していた王太子アル‐バドルが新国王に即位した。実際のところ、アル‐バドルは父よりも開明的で、エジプトのナーセルに敬意を抱くアラブ民族主義者でもあり、エジプトとの関係強化でも重要な役割を果たしていた人物である。
 そのため、アル‐バドルの即位は時代の潮流にも合致するはずであったが、彼の即位直後に軍のナセリスト派による共和革命が勃発する。革命を率いたのは、アル‐バドル自身が参謀総長に引き上げたアブドゥラ・アル‐サラル大佐であった。
 アル‐サラル大佐は貧しい孤児の出身であったが、軍の近代化の過程でエリート士官候補として選抜され、イラクで訓練を受けた上級士官である。彼は48年のヤフヤー王暗殺事件に関与し、長く投獄されていたが、アル‐バドルの尽力で釈放され、軍に復帰していた。
 それほどアル‐バドルに恩義のあるアル‐サラルがなぜ共和革命でアル‐バドルを追放したかは不明であるが、当時の北イエメン軍内ではエジプトで訓練を受けたより急進的な共和主義の士官が育っており、サラルは彼らに担がれる形で共和革命に出たものと思われる。
 この革命集団は自由将校団こそ名乗らなかったものの、北イエメン共和革命もエジプトやイラクの場合と同様、急進派将校グループによるクーデターの形式を取ったことで、ひとまず電撃的な成功を収めた。しかし、その後の展開は前二者と大きく異なる。
 アル‐バドルは首都サナアから逃亡し、部族勢力と連携して王党派を結成、強力な反革命武装活動を開始したため、北イエメンはこの後、1970年の和平成立まで長い内戦に突入することになる。
 この内戦は、共和国側でエジプト(その背後にソ連)が、王党派側でサウジアラビア(その背後にイギリス)が支援したため、両国の代理戦争の様相を呈したことも長期化の原因となった。
 革命後、初代大統領に就任したアル‐サラルは社会主義者を名乗っていたが、これといったイデオロギーは持ち合わさず、革命指導者としての資質に欠けることも明らかになった。彼は内戦中、エジプトの傀儡のような存在となり、エジプトに滞在することが多いありさまであった。
 1967年に戦況の悪化からエジプトがイエメン派遣軍を撤退させると、後ろ盾を失ったアル‐サラルは無血クーデターにより失権、イラクへの亡命を強いられた。クーデター後に新大統領となったのは、自由イエメン運動から出たイスラーム法学者アブドゥル・ラーマン・アル‐イリアーニであった。
 彼は外国の介入に反対する穏健なイスラーム主義者であり、手堅い手腕で1970年の和平を導いた。ただし、王政復帰はならず、共和制は維持されたため、共和革命の成果は永続化することとなった。

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近代革命の社会力学(連載第270回)

2021-07-27 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(4)南北イエメン革命

〈4‐2〉北イエメンにおける近代化の遅滞
 前回見たように、北イエメンでは、オスマン帝国より独立したイエメン王国(正式名称イエメン・ムタワッキリテ王国)が改めて近代イエメンの担い手となったわけであるが、王国の担い手ラシード朝は千年以上の歴史を持つ古王朝だけに、その保守的な体質は近代の独立王国となっても本質的に変わらなかった。
 元来、北イエメンは結束の固い中世以来の部族勢力が山岳地帯に割拠する状態で、ラシード朝もその中のシーア派系のザイド派教義を信奉する勢力に支持された一種の教団体制にすぎなかったから、絶対的な権力を持ち得ない構造であり、急進的な近代化には無理があった。
 それでも、独立後最初の王となったイマーム(教主)のヤフヤーは、必要最小限度の近代化を進めた。中でも、北に急速に台頭してきたサウド家(後のサウジアラビア建国家)の勢力、南にイギリス領の南イエメンを抱える中、国防の要となる軍隊の近代化には注力した。
 そのため、1932年には革命前のイラク王国との間で軍の訓練を含む条約を締結し、イラクとの関係を強化した。これは事実上の鎖国政策から脱却する一歩であると同時に、イラクで訓練された近代的な上級士官の増加により軍部が近代主義者の政治拠点となり、後に王国の命脈を絶つ共和革命の土壌ともなったのは皮肉である。
 ヤフヤー国王は長い治世を保ったが、ライバルの部族勢力が仕掛けたクーデターの渦中、暗殺された。このクーデターは失敗に終わり、跡を継いだ王子のアフマド・ビン・ヤフヤーは、部族勢力を弱体化するべく、父よりは踏み込んだ近代化を進めたが、本質的に封建的な王国の体質を変えることはなかった。
 そうした中、1952年のエジプト共和革命の余波はいまだ閉鎖的な北イエメンにも届き、国内では汎アラブ主義者も力を持ち始めた。内外の圧力に押される形で、アフマド国王は1956年には相互防衛条約を締結したのに続き、58年にはエジプト・シリアのアラブ連合共和国とともにアラブ国家連合という枠組みを通じて、エジプト主導の汎アラブ主義に合流した。
 共和革命を経た水と油のエジプトとこれほど踏み込んだ関係を結んだ背景として、アフマド国王にはイギリス領南イエメンをイギリスに放出させ、これを併合する「大イエメン」構想を抱いていたためと言われ、両国は同床異夢の関係であった。
 結局、共和制のエジプト(及びシリア)といまだ封建的社会習慣を色濃く残す君主制の北イエメンがそれぞれ主権を維持しつつ連合するという変則的な枠組みには無理があり、アラブ国家連合はほとんど機能しないまま、1961年には解消された。
 とはいえ、50年代にエジプトとの関係が強化され、特に防衛条約を通じてエジプトで訓練された上級士官が増加したことは、軍部内にナセリストのグループが形成される重要な契機となり、間もなく共和革命を準備することとなる。その直接的な動因は1962年のアフマド国王の死と王太子アル‐バドルの即位であった。

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近代革命の社会力学(連載第269回)

2021-07-26 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(4)南北イエメン革命

〈4‐1〉南北イエメンの分断
 本節にいう南北イエメンとは、1990年の統一まで分断的に存続したイエメンにおける二つの国家の通称に沿った包括表記であるが、両イエメンの厳密な地理的関係としては、「東西イエメン」としたほうが正確である。しかし、ここでは通称に従い、「南北イエメン」あるいは「北イエメン」「南イエメン」と表記する。
 総体としてアラビア半島の南部を占めるイエメンでは、9世紀末という古い時代にイスラーム少数派シーア派に属するザイド派の教義を奉じる勢力が教主イマームを君主として推戴するラシード朝が成立して以来、諸部族が割拠する北部の有力王朝として存続し、北部をシーア派の拠点とした。
 しかし、周辺国の支配を目まぐるしく受けた後、19世紀前半、かつて16世紀にいったんはイエメンを支配下に置きながら駆逐されていたオスマン帝国が1849年にイエメン北部を再占領し、以後、イエメン北部は周辺地域と同様にオスマン帝国領となった。
 一方、イエメン南部は古来、アラブ人とは異なる言語と文化を持つ民族の割拠するところであったが、この地域も次第にアラブ人の移住により、イスラーム化されていった。この地域に興亡したイスラーム首長国はイスラーム正統派のスンナ派を奉じたが、北部のラシード朝のような王朝は形成されず、部族ごとの小首長国が林立する状態が続いた。
 そうした状況下、1839年にはインド洋と紅海をつなぐ紅海への出入り口を確保したい大英帝国にとって枢要とみなされたイエメン南部の港湾都市アデンをイギリスが占領し、アデン入植地を設定した。さらに、1872年以降、アデンを除いた周辺のイエメン南部を切り取り、小首長国を包括したアデン保護領を成立させた。
 このようにして、イエメン北部はオスマン領、南部は英領という分断された植民地状態が成立したのが19世紀の状況であり、この分断支配がその後の南北イエメンの土台を形成する。
 この分断支配において、オスマン帝国領の北イエメンではオスマン帝国の支配密度は高くなく、シーア派のラシード朝の権威は保存された分、中世以来の封建的部族主義の伝統も根強く残された。
 その後、北イエメンでは、第一次世界大戦後の1918年、敗戦したオスマン帝国からラシード朝が独立を達成し、改めてイエメン王国として歩み始めたが、保守的な王朝下での近代化の遅滞は20世紀後半における共和革命の引き金ともなった。
 他方、イギリス領となった南イエメンでは1937年、イギリスがそれまで形式上英領インドの一部に組み込まれていたアデン入植地をインドから分離して改めて独立のアデン植民地として再編すると、アデンでは近代的な港湾都市としての開発が進み、イエメンで最も先端的な都市に発展した。
 このように、南北イエメンでは一足先に独立を果たした北イエメンの封建的なイマーム支配体制と、20世紀後半期までイギリス支配が続く中、アデンを中心に近代的開発の先鞭がつけられた南イエメンの社会経済的な不均等が拡大する中で、ともに1960年代のアラブ連続社会主義革命の時代に直面するのである。

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テレビ観戦拒否宣言

2021-07-24 | 時評

中止されないだろうと予見してはいたものの、理性的に考える限り誰も望まないはずの感染症パンデミック下でのオリンピック(パンデリンピック:pandelympic)がなぜ強行されることになったのか、考えあぐねてきた。

表層的には、いろいろな説明がされている。放映権料収入を確保したいIOCの算盤勘定、政権浮揚につなげたい与党の政治的打算、中止した場合に発生するするとされる違約金や賠償金(発生しないとの説も)の負担を回避したい組織委員会や東京都の金銭的打算、栄冠のチャンスを逃したくない出場選手たちの名誉欲等々。

しかし、どれも決定因とは思えない。結局のところ、これはもはやもっと集団的な人類=ホモ・サピエンス種の特性から考えるほかなさそうである。―以下は人類の生物種としての全般的な傾向を指摘するもので、ホモ・サピエンス種に属する個々人皆さんが以下のようだと言いたいのではないので、お気を悪くなさらないよう。

第一は、利己性が利他性を凌駕してしまったこと。すなわち、如上の様々な勘定・打算・計算・欲望とは要するに自己利益の確保に走る人類の本性の一端を示している。

一方、人類は時に自己利益を犠牲にしてでも、他人のために尽くそうとする心性=利他性をも持つ。今回で言えば、コロナ感染症の拡大を防止することや、現に感染して苦しみ、あるいは死の床にある人々を慮って、五輪中止を決断することであるが、残念ながら、そうした利他性は利己性の前に敗れ去ったように見える。

第二は、遊興なしには生きられないホモ・ルーデンス(homo ludens:遊興人)としての人類の本性が優勢化したこと。

近代オリンピックの創始者で、教育者・歴史家でもあったピエール・ド・クーベルタンは崇高な理念を掲げ、それは五輪憲章にも継承されているけれども、莫大な費用と労力を要し、負担が大きいばかりの五輪が消滅することなく、100年以上も続いてきたのは、崇高な理念のゆえというよりも、五輪の祭典としての面白さのゆえであり、まさにホモ・ルーデンスとしての人類の本性にマッチしていたせいである。

とはいえ、今回はさすがに事前の国内世論調査では中止論が8割などという数字が上がっていたが、一方で緊急事態宣言下でも休日の人出は顕著に減らず、中止世論との矛盾が見られたのも、ホモ・ルーデンスの本領発揮である。国際世論においても、圧力となるほどの中止論は見られず、結局、IOCはそうした日本内外の情勢に照らし、世界の人々は本気で中止を望んではいないとにらんで、開催を強行できると踏んだのである。

第三は、非理性が理性を凌駕してしまったこと。人類は理性的な存在ではあるが、常に純粋理性的に判断し、行動するわけではない。

これは先の第一と第二の分析とも関連することであるが、利己性やホモ・ルーデンスとしての本性は理性よりも非理性としての感覚やある種の本能に属する人類性向であるところ、今回はそうした非理性の要素が理性に打ち克ってしまったのである。

その点、大会モットーUnited by Emotionは象徴的である。この英語表現については、「『Emotion』は、制御の効かない不安定な感情を指す言葉です。そのため英語の世界では、『気紛れで不安な感情で結ばれて』というとんちんかんなモットーになってしまうのです」という英語通からの指摘もある(元外交官・多賀敏行氏)。とすれば、かえってパンデリンピックにはふさわしい意味での“エモーション”が支配する大会である。

さて、私はと言えば、自身もホモ・サピエンス種に属する一個人ではあるが、今回は人類性向に背くことにした。すなわち、強行されるパンデリンピックへの抗議を込めて、推奨されているテレビ観戦をも拒否する。これが一介の民草にできる最も簡単な抵抗行動だからである。

パンデリンピックの経済的利益の中でも最も中心的なものは、IOCに転がり込むテレビの放映権料だと言われているから、そうした言わばテレビ利権への抗議として、五輪をテレビ観戦しなければよいのである。

もっとも、テレビ利権の中核はアメリカのテレビ局であるから、日本人が日本のテレビ局による五輪中継を観なくても、抗議としての効果は薄いだろう。よって、同様の行動を他人に勧めるつもりはなく、たった独りの市民的抵抗である。

ただし、7月22日までは中止論だった人が、23日以降は一転してテレビ観戦はするというのでは言行不一致もしくはあまりにすばやすぎる変わり身であるということだけは言わせていただきたい。


[蛇足]
理性的判断ができなくなっている主催者総体がパンデリンピックの途中止を決断する可能性は低いと見るが、それでもせめてもの判断基準として、選手間の感染が拡大し、特に外国選手の感染が相次ぎ、脱落者が続出することにより、結果として日本人選手が表彰台を独占しかねない状況に達した時には、もはや国際大会としての意義を失うので、途中止を決断すべきである。
しかし、深読みすれば、日本政府筋などは、日本人選手の表彰台独占となれば、かえってパンデミックに打ち克って好成績を上げた日本人選手の活躍、ひいては日本の感染症対策の的確性を「世界に誇る」という形で五輪成功を内外にアピールできると逆算段しているかもしれない。

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近代革命の社会力学(連載第268回)

2021-07-24 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(3)イラク革命

〈3‐3〉革命三派の抗争とバアス党の台頭
 1958年のイラク共和革命直後の革命政権内の力学において、共産党が伸張し、カーシム首相をはじめ、政権全体が準共産党政権化していったことは、他党派の共産党への反発を強めた。その最初の内爆的現れは、早くも革命翌年の3月、イラク北部の中心都市モースルで発生した武装蜂起であった。
 このモースル蜂起はナセリスト派を中心にバアス党も相乗りする形で発生した大規模な反乱事件であるが、背後でエジプトが糸を引いているものと見られた。これに対する政権の反応は素早く、反乱は4日で鎮圧され、反乱参加者らは共産党武装党員により殺戮された。
 このように、この時期のイラク共産党は独自の武装組織を擁し、一種の解放区である革命市を建設するなど、その増長著しく、多くの反発を買っていたが、モースル蜂起鎮圧後はますますその権勢は強まったのであった。
 しかし、カーシムは基本的に無党派の軍人首相であり、完全な共産党一党支配体制を樹立することは困難な中、元来カリスマ性に欠けるカーシム首相の権威も揺らいでいき、政権に対する他派の反発は抑え切れなかった。中でもバアス党は組織力にすぐれ、次第に武装組織を伴った最大の体制内野党勢力として台頭していく。
 その最初の表れは、1963年2月のラマダーン月(断食月)に発生したクーデターであった。バアス党系の最有力軍人アフマド・ハサン・アル‐バクルが主導したこのクーデターは、共産党系の最有力軍人であったジャラル・アル‐アワカティ空軍司令官の殺害という象徴的な出来事を皮切りに、政権側との2日の戦闘の後、首都制圧に成功、新政権を樹立した。
 カーシム首相は国外亡命を条件に降伏したが、バアス党政権は騙し討ちで、カーシムを略式の銃殺刑に処した。しかし、実質的な裁判なしの「処刑」は事実上の殺害であり、銃殺後の遺体映像がさらされるなど、ラマダーン月にふさわしからぬ苛烈な流血クーデターとなった。
 こうして成立したアル‐バクルを首班とするバアス党政権は早速共産党員狩りの赤色テロを断行、推計で5000人を殺戮したと見られている。こうした反共弾圧措置に反発した共産党は、63年7月、首都バグダードのアラーシド基地を拠点に党員の下士官も加わった反乱を起こしたが、失敗に終わった。この反乱の背後にはソ連があったみなされ、バアス党政権とソ連の間は緊張関係に陥った。
 このアラーシド反乱を乗り切り、共産党を無力化することには成功したバアス党政権であったが、今度は政権内のナセリスト派との間で確執が表面化する。この時期、大統領にはカーシム政権下で失権していたナセリストのアブドッサラーム・アーリフが就いていたが、実権はアル‐バクル首相以下のバアス党に握られ、ナセリストは逼塞していた。
 こうした非対称な力関係を打破するべく、軍部内ナセリスト派が1963年11月に決起、バアス党の権力基盤ともなっていた武装部門・国民防衛隊を攻撃、壊滅させることにより、バアス党政権を打倒した。代わってアル‐バクルから実権を奪ったアーリフ大統領を中心とするナセリスト政権が樹立されたのである。
 この63年11月クーデターはナセリストの決起であったにもかかわらず、エジプトの関与がなく、イラク軍部内ナセリスト派独自の決起行動として実行されたと見られる。
 こうして、1958年イラク共和革命はその後の過程において、共産党・バアス党・ナセリスト派の三派が権力闘争を展開する中、各党派が政変により順に権力を掌握していくことになる。
 ただ、こうした権力闘争はすべて軍部内の党争を軸に展開されていくことが一つの特徴である。これは共産党を含め、当時のイラクの主要党派が軍部内に基盤を持つことで力を得ていたことによる。
 他方、この過程では、汎アラブ主義のエジプトと共産主義のソ連が介在し、互いに糸を引いており、政変にも何らかの支援的関与があったと見られるが、こうした外国勢力の思惑が絡んだパワーゲームが戦われたことは、革命の自律的な展開を妨げたであろう。
 このパワーゲームはアーリフ大統領が66年に航空機事故で死亡し、兄で同じく軍人のアブドッラフマーンが跡を継いだ後もなお続くが、最終的な勝者となるのは、雌伏の後、1968年7月の革命に成功したバアス党であった。この68年バアス党革命については、後に派生章で改めて論じる。

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近代革命の社会力学(連載第267回)

2021-07-23 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(3)イラク革命

〈3‐2〉共和革命と最初期革命政権
 親英君主制のイラク‐ヨルダンと汎アラブ主義のエジプト‐シリアというアラブ世界内部での対峙状況が生まれる中、1958年7月、イラクは共和派による革命の危険が高まっていたヨルダンを支援するため、軍の派遣を決めたところ、このヨルダン派遣軍の一部が反旗を翻し、バクダードにて決起し、首都を制圧、王政廃止と共和制移行を宣言した。
 この外国派兵の機会を利用した電光石火の革命を起こしたのは、ヨルダン派遣軍にも参加していた自由将校団であった。クーデター手法による革命の形態としてはまさに範を取った52年エジプト革命と同様であったが、無血に終わったエジプトとは異なり、イラクでは国王ファイサル2世はじめとする王族に加え、政界実力者ヌーリー・アッ‐サイードもクーデター軍により殺害されるという凄惨な流血革命となった。
 このような対照的な結果は、19世紀から続き、エジプト近代化にも寄与したムハンマド・アリー朝と異なり、イギリスによって立てられた傀儡に近いイラクのハーシム朝はナショナリストの憎悪の対象であり、根絶が狙われたという両王朝の相違によるものだろう。実際、イラクのハーシム王家は革命時の一族殺害により断絶している。
 こうしてイラクは劇的な流血革命により共和制へ移行したが、革命最初期には統一的な大統領が置かれず、イラク社会の三大構成要素であるシーア派・スンナ派の二大宗派に少数民族クルド人を加えた三派代表から成る主権評議会が最高機関とされた。ただ、実際にはアブドルカリーム・カーシム准将(少将に昇格)を首班とする閣僚評議会が全権を持つ移行期集中制であった。
 その点、革命政権は革命に先立つ56年に結成されていたイラク共産党、バアス党を含む革新系政党連合・国民連合戦線によって支えられており、これら諸政党による多党連立政権という不安定なものであった。しかも、カーシム首相にはナーセルのようなカリスマ性が欠けており、政権の行方は不透明であった。
 とはいえ、当初の革命政権はまず外交安保面で、中東条約機構からの脱退とソ連への接近という転換を断行した。しかし、エジプト‐シリアのアラブ連合共和国への統合問題では、統合に消極的なカーシムとこれに積極的な政権ナンバー2のアブドッサラーム・アーリフ大佐との間で確執を生じ、いったんはアーリフが失権することになった。
 一方、ソ連への接近により連立政権内で共産党の力が増し、党員ではないながらもカーシム首相は共産党の力に依存するようになった。このような革命政権の準共産党政権化は連立内のバアス党やナセリスト派との軋轢を生むことになる。
 とはいえ、さしあたり共産党を軸とする政権枠組みの下で、封建的な土地制度にメスを入れ土地の再配分を実行した農地改革や外資に支配された石油産業への介入などの経済改革が推進されたほか、教育制度の拡充、女性の権利の向上、特に一夫多妻習慣の禁止や平等な相続権など多方面にわたる社会改革も推進され、この時期はイラク史上で最も革新的であった。

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近代革命の社会力学(連載第266回)

2021-07-22 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(3)イラク革命

〈3‐1〉親英イラク王国と自由将校団の結成
 イラクは他のアラブ地域と同様、長くオスマン帝国の支配下にあったが、第一次世界大戦中のアラブ反乱の結果、中東アラブ地域がオスマン抵抗から自立したことで、独立の機運が起きた。しかし、代償として、アラブ反乱で支援を受けたイギリスの勢力圏に編入された。
 大戦後、敗戦したオスマン帝国と連合国間のセーブル条約でイラクはいったんイギリス委任統治領メソポタミアとして切り取られる。この委任統治領は君主制の形を取り、国王にはアラブ反乱の総帥で、預言者ムハンマドの子孫を称する名門ハーシム家家長フサイン・イブン・アリーの三男ファイサルが迎えられた。
 その後、アラブ・ナショナリズムの高揚に直面する中、イギリスは1930年の条約により、イラクの独立を認め、32年に改めてファイサルを国王とするハーシム朝イラク王国として承認した。
 この新生イラク王国は法的には独立国家であったが、イギリスは引き続き駐留し、国内で自由に軍を展開する特権を持ったほか、石油利権も掌握する間接支配体制を維持した。この間接支配関係は同じくイギリスが独立を認めた1922年以降のムハンマド・アリー朝エジプト王国と類似し、両王国は同時期に並立していた。そうしたこともあり、この先、1950年代の共和革命までの両国の歴史の進行は似通っている。
 ただ、イラクのほうがエジプトに比べ、動的であり、反英ナショナリストと親英派との権力闘争が度重なる政変を招き、1940年代にはイギリスとの戦争(アングロ‐イラク戦争)に発展した。この戦争はイギリスの勝利に終わるが、この過程でイラク軍部が反英ナショナリズムの主要な拠点となった。
 一方、王室では1939年、父ファイサル1世とは対照的に反英的な姿勢を取ったガージー1世が不慮の交通事故で早世した後、3歳の王太子ファイサル2世が即位していたが、当然にも摂政体制であった。親政を開始した53年以降も、政治的に無関心な王は親英派の長老ヌーリー・アッ‐サイード首相に丸投げしていた。
 こうした中、新たな国際環境の変化として、第二次大戦後冷戦下の55年、イギリス、トルコ、パキスタン、イラン帝国(当時)、イラク王国がバグダード条約を調印し、中東条約機構を創設した。これは、ソ連の脅威に対抗した中東地域における反共軍事同盟であって、首都バグダードに本部が置かれたイラクは同盟の中心地となった。
 これに対し、52年のエジプト革命でエジプトの指導者となったナーセルは、58年2月、シリアとの国家連合を組み、アラブ連合共和国を成立させた。これは汎アラブ民族主義に基づくアラブ世界の統合というナーセルの夢を推進するための橋頭保となる新しい連合国家の枠組みであり、中東条約機構への対抗軸でもあった。
 これを脅威と見たイラク王国は、同じくハーシム家を王家とする親類関係の親英王国であった隣国ヨルダンとともに軍の統合を軸とする「アラブ連邦」を組み、「アラブ連合共和国」との軍事的対峙を強めた。
 一方、戦前からナショナリズムの拠点となっていたイラク軍部内では52年のエジプト革命に触発された若手・中堅将校らがエジプト革命を主導した自由将校団に範を取った同様の秘密結社である自由将校団を結成し、活動を開始していた。
 イラク自由将校団はアブドルカリーム・カーシムにアブドッサラームとアブドッラフマーンのアーリフ兄弟という三人を主要な指導者とする集団指導的な体制であった。彼らはさしあたり軍に籍を置きつつ、地下活動によりネットワークを広げ、革命的蜂起の機を窺っていた。

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近代革命の社会力学(連載第265回)

2021-07-20 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(2)チュニジア革命

〈2‐2〉社会主義への転化と撤回
 1957年の共和革命から1960年代の社会主義化へ向かうまでの間、最初期ブルギバ政権は主として教育や医療、男女平等といった社会分野での近代化に注力する一方で、独立後もフランス海軍が駐留していたビゼルテ基地からのフランス軍の撤退を求めてフランスと短期交戦したビゼルテ危機の処理などに忙殺された。
 そうした最初期の国造りが一段落したのが1961年であるが、この年は同時に、社会主義化の起点でもあった。その際、ブルギバが政策の司令塔役として起用したのが、1903年生まれのブルギバよりも20歳以上若い労働運動出身のアーメド・ベン・サラーであった。彼は1957年という早い段階で公衆衛生相に抜擢されたが、61年には計画相兼財務相に起用された。
 こうして国家計画と国家財政の両輪を掌握したベン・サラーは、62年から71年までの野心的な10か年計画を策定し、チュニジア経済の自立的発展を目指した。その眼目は、外国投資の50パーセント以下への制限と生産協同組合の創設、土地の国有化であった。
 1964年には、政権党である新立憲自由党は立憲社会党(SDP)に党名を変更し、政治的にも社会主義を綱領とするとともに、ソ連共産党をモデルとした一党支配体制を確立したのである。ただし、SDPはマルクス‐レーニン主義を綱領としておらず、基調は旧党名時代と大差なかった。
 むしろ、この新規体制はSPDが形式的な選挙を通じて全議席を確保する一党独裁の上に、ブルギバも形式的な大統領選挙で100パーセントの得票率をもって多選を重ねる独裁体制の糊塗に利用されただけであった。
 ベン・サラー主導の社会主義政策も中途半端で、完全なソ連モデルのシステムが確立されたわけでもなく、公企業と私企業、協同組合が並立する混合経済の域を出ないもので、60年代末までに経済は行き詰まり、給与の遅配など暮らしを脅かす兆候が表面化した。
 1969年1月に不満を募らせた市民による抗議デモが多発、治安部隊との流血衝突が発生し、政策の失敗が明瞭になると、ブルギバは行動に出てベン・サラーを解任したうえ、同年9月には「社会主義の実験の終焉」を宣言した。
 それだけでは済まず、ブルギバはベン・サラーを党からも追放し、70年には反逆のかどで裁判にかけ、10年の重労働刑に処すという過酷な制裁を科したのである。彼は後に脱獄してアルジェリアに亡命、新党を結成して反体制運動を続け、遠く2010年代の民主化革命で復権を図るが、これは成功しなかった。
 ともあれ、政策責任者への厳罰という象徴的な幕引きをもって「社会主義の実験」が終焉し、70年代以降は経済自由化の方向へ舵が切られるのである。このような自在な政策変更は、老齢に達したブルギバを1987年のクーデターによる失権まで延命させた秘訣でもあっただろう。
 しばしばブルギバ個人の名を冠してブルギビスムとも呼ばれる主義は、アラブ連続社会主義革命のエートスであったナーセルの汎アラブ民族主義の潮流とも異質であり、外交面でも、ブルギバは早くからイスラエルとの関係正常化を模索していた。
 そうした意味においても、1957年を起点に取ればアラブ連続社会主義革命の先鋒であったチュニジア革命は、同時期の諸革命から外れた独自の位置を持つと言える。その成果面は、チュニジアをアラブ世界でも有数の男女平等性の高さに象徴される近代化を前進させた点にあると言えるかもしれない。

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近代革命の社会力学(連載第264回)

2021-07-19 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(2)チュニジア革命

〈2‐1〉独立から共和革命へ
 北アフリカのマグレブ地域では最も小さなチュニジアは近隣のアルジェリアやエジプトとともに、16世紀以降オスマン・トルコ領となったが、18世紀に現地総督(ベイ)が事実上オスマン帝国から独立し、世襲王朝(フサイン朝)を形成した。
 このフサイン朝チュニジアは19世紀になると独自の近代化を進め、1861年には時の君主サドク・ベイが進歩的な憲法を制定、立憲君主制を樹立したが、間もなく政治反動が起き挫折し、最終的にフランスの支配に下った。
 チュニジア独立運動の本格的な始動は第二次大戦後となり、その中心を担ったのは1920年に創設された民族主義政党・立憲自由党から分裂した新立憲自由党であった。同党は立憲自由党の急進派を中心に、より明確に完全な独立を求める新党で、その指導者は後に初代大統領となる弁護士出身のハビブ・ブルギバであった。
 ブルギバはオスマン・トルコ時代の貴族階級に出自する中産階級の生まれで、学生時代に立憲自由党に入党し、戦前からマグレブ地方の植民地解放運動に参加してきたベテランの活動家でもあった。
 チュニジアにおける独立運動は隣接するアルジェリアとほぼ同時並行で高まり、ブルギバも一時投獄されるが、アルジェリアのような武装革命の方向性を取らず、党内強硬派を排除したブルギバを中心とする穏健派によるフランスとの交渉を通じて進められた。
 フランス側も、古くからの植民地としてアフリカ最大級のフランス人植民者コミュニティーを擁したアルジェリアの独立阻止に注力するためにも、チュニジアの独立には前向きであったため、1956年には時のフサイン朝君主ムハンマド8世アル・アミーンを王とする立憲君主制の樹立を条件に独立を容認した。
 こうして、チュニジアはフランスとの長期の戦争に突入していくアルジェリアに先駆けて、1956年、革命によらずして独立を果たした。独立後最初の制憲議会選挙では新立憲自由党を中心とする政党連合が圧勝し、ブルギバは初代首相として実質的なチュニジアの最高執権者となった。
 しかし、ブルギバには立憲君主制を護持する意思は初めからなく、彼が主導する制憲議会の初仕事は王家の特権の廃止に始まり、王室財産の政府管理といった君主制の廃止に向けた諸措置であった。
 最終的に、1957年、政府軍が王宮を制圧、国王を軟禁した後、議会が君主制廃止と共和制への移行を宣言した。こうして、独立チュニジア王国はわずか一年で廃され、ブルギバを大統領とする共和国が改めて樹立されたのである。
 ただ、憲法の制定は1959年までずれ込み、ようやく採択された。この共和制最初の憲法は所有権その他個人の権利を保障する自由主義的な憲法であり、イスラームを国教と定めるなど、社会主義色は希薄であった。
 従って、これで終始すれば単純な共和革命であるが、憲法制定をはさんだ1960年代になって、ブルギバは社会主義を政策的に打ち出していった。
 この時間的なギャップからすると、チュニジアの事例は社会主義革命とは規定し難い面もあるが、初期のブルギバ政権にはチュニジアの労組センターであるチュニジア労働総同盟が重要な構成勢力として参加していたため、潜勢的な社会主義化の芽があったと言える。

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ワクチン・プロパガンダ合戦

2021-07-18 | 時評

COVID‐19パンデミックも第二年度後半に突入し、もはやロックダウン(もどきを含む)によっても感染拡大防止効果を期待できず、ワクチンの普及が唯一の出口戦略となる中、ワクチンをめぐる世界の公衆衛生イデオローグと反ワクチン・デマゴーグのプロパガンダ合戦も熾烈になってきている。

公衆衛生イデオローグらは、かれらが期待する集団免疫の獲得のため接種率を上げようと、ワクチンの有効性と安全性の宣伝に躍起となっているが、政府機関や学術団体等の公式ウェブサイトなどを通じたワクチン宣伝工作はかえって逆効果である。

というのも、反ワクチン・デマゴーグとそのフォロワーらは、まさにそうした当局発表やそれに近い権威団体の情宣を最も信用しないからである。海外のある放送局のニュース番組で、解説者が「ワクチンに関する誤情報が最悪の形で“民主化”されている」と巧みに表現していたが、まさにその通りの事態である。

反ワクチン・デマゴーグの意図はよくわからないが、たいていは「反権力」のポーズを取りつつ、民衆の守護者を装って支持者を獲得し、名声や場合により関連書籍出版、ウェブサイトの広告収入などの個人的利益を狙っていると見える。

一方、民衆にとって、ワクチンへの不安は歴史的なものである。遡れば、ワクチンの元祖エドワード・ジェンナーが開発した牛痘接種による天然痘予防策にしても、当初は「牛痘を打つと、牛に変えられる」などという俗説が流布され、忌避者が出た。

伝統的なワクチンは細菌やウイルスなどの病原体をあえて人体に注入することで抗体を形成し予防するという逆説的な発想に基づく薬剤であるから、不安を助長しやすい。チンパンジーの風邪ウイルスを注入するアストラゼネカ製ワクチンも、この伝統型ワクチンに近い。

しかし、現在主流的となっているファイザー製とモデルナ製は遺伝物質メッセンジャーRNAの一部を接種することにより、体内でウイルスのたんぱく質を作成して免疫機能を刺激し、抗体を形成するという新しいタイプのワクチンであるが、このような新世代ワクチンも、遺伝子操作されるのではといった不安(「牛に変えられる」の遺伝子バージョン?)を惹起する。

こうした民衆の不安に付け込み、それを煽るのが反ワクチン・デマゴーグの手法である。さすがに、「牛痘接種で牛になる」というレベルの言説では通用しない現代のデマゴーグは、門外漢にとって真偽の判定が難しい疑似科学的言説を駆使する。*従って、真正な科学的根拠に基づきワクチンの問題性を指摘する言説を展開する者は、ここで言う反ワクチン・デマゴーグに当たらない。

それに対抗しようと、権力や権威にもの言わせて無条件的にワクチンの有効性・安全性を宣伝するイデオローグの手法に陥ることなく、ワクチンに関する客観的な理解を人々に浸透させる方法として、最低限度、次のことを提言する。


〇接種全般の意義について

 通常の治験の手順を同時進行する形でスピード承認されたワクチンの接種は、事後的な一種の集団的治験を兼ねていることを率直に認めること。👉現段階で接種を受けることは、そうした事後的治験に参加するに等しいことを周知させる。

〇有効性について

 †有効性(有効率)とは、承認前の治験で、ワクチンを接種されたグループと偽薬(プラセボ)を接種されたグループを比較した場合の感染率の差を表しているにすぎないことを明確に説明すること。👉有効性に関する過大な期待を与えない。

 †集団接種の開始から少なくとも一年を経た後に、新規感染者数や重症化率・死亡率等の推移のデータを基に結論づけること。👉現段階での暫定有効性を認めても、無条件に有効性を宣伝しない。

〇安全性について

 †接種後、接種者に起きた有害事象は、接種との因果関係の有無を問わず、全件情報開示すること。👉副反応かどうかは、情報開示後に時間をかけて検証する。

 †有害事象が起こりやすい人の類型(年齢層や性別、既往歴、基礎疾患、体質等)を抽出し、接種するかどうかの各自の判断材料に供すること。👉接種の任意性を万全に担保する。

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近代革命の社会力学(連載第263回)

2021-07-16 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(1)概観
 1952年のエジプト共和革命により台頭したナーセルのアラブ社会主義が中東に風靡すると、アラビア半島から北アフリカのマグレブ地域まで含めたアラブ諸国において、1950年代末から60年代にかけて、連続的な社会主義革命の波及的潮流が生じた。
 これを年代順に挙げれば、チュニジア(1957年)、イラク(1958年)、北イエメン(1962年)、南イエメン(1967年)、スーダン(1969年)、リビア(1969年)という広範囲に及ぶ。
 さらに、1954年に始まるアルジェリア独立革命/戦争もエジプト共和革命に触発されており、60年代のシリアとイラクに勃発したバアス党(アラブ社会主義復興党)による革命も、広くは同じ潮流に属する。
 こうした地政学的な広範囲に及ぶアラブ世界における革命潮流を、アラブ連続社会主義革命と包括することができる。とはいえ、革命の性格やイデオロギーに関しては、各国でかなりの差異がある。
 革命の性格という点に関して見れば、チュニジアとイラク(58年革命)、北イエメン、リビアの各革命は、君主制を廃する共和革命の性格をも持っていた。南イエメンの革命は、イギリスからの独立革命の性格が強いものであった。
 イデオロギー的な面でナーセルのアラブ社会主義の直接的な影響が強いのは、イラク(1958年革命)、北イエメン、スーダン、リビアの各革命であるが、このうち、北イエメンの革命は共和革命としての性格が強く、革命後は王党派との長期の内戦に進展した。
 南イエメンの革命は、間もなくマルクス‐レーニン主義を標榜する一派が実権を確立したため、1990年の南北イエメン統一まで、アラブ世界で唯一のマルクス‐レーニン主義国家として、ソ連の衛星国的な立場を保持した。
 潮流の末期に勃発したスーダンの革命は最終的に社会主義からイスラーム主義に大転向し、同年のリビアの革命も70年代以降、革命指導者ムアンマル・アル‐カザーフィの直接民主制を標榜する特異なジャマーヒリーヤ思想に転回した。
 チュニジアの社会主義は当初よりナーセルのアラブ社会主義とは距離を置き、独立運動指導者にして初代大統領ともなるハビブ・ブルギバの独自的な社会主義理念に基づいていたが、これも70年代以降、撤回されていった。
 シリアとイラクのバアス党革命も、バアス党創設者であるシリア人ミシェル・アフラクの思想的影響下にあり、世俗主義の立場を採りながらも、イスラームの精神性をも尊重する独自のイデオロギーに根ざし、ナーセル主義とは時に対立した。
 このように差異を伴いながらも、一つの時代的な潮流となったアラブ連続社会主義革命であるが、1967年の第三次中東戦争でエジプトが率いるアラブ連合軍がわずか六日でイスラエルに完敗してナーセルの威信が衰え、追い打ちをかけるように、彼が1970年に急死すると収束に向かう。
  当のエジプト自身、副大統領からナーセルを継いだアンワル・アッ‐サーダート大統領の下で社会主義は撤回され、親西側の自由市場経済化の方向へ舵を切り、最終的には宿敵イスラエルとの和平へと大転回していくのであった。
 実際のところ、そもそもナーセルのアラブ社会主義にしても、社会主義以上に、西欧列強からの独立とイスラエルとの対峙という状況下で、ナーセルの英雄的威信を背景に、アラブ民族の自立と連帯を訴える汎アラブ民族主義に重心があったため、社会主義革命としての実質には希薄な面が否めなかった。
 そうした意味で、アラブ連続社会主義革命はナーセルに始まり、ナーセルに終わると言って過言ではないほど、ナーセルの個人的なカリスマ性の作用に依っていたところに特徴があり、その特徴が革命の持続性を制約したであろう。
 本章では、アラブ連続社会主義革命に包括される諸革命のうち、先行して論じたアルジェリアの独立革命とシリアとイラクのバアス党革命を除く諸革命を扱い、連続革命の中では異色的なバアス党革命に関しては、連続革命の支流として派生的な章立ての中で論じることとする。

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近代革命の社会力学(連載第262回)

2021-07-14 | 〆近代革命の社会力学

三十八 アフリカ諸国革命Ⅰ

(4)ウガンダ革命

〈4‐2〉社会主義革命とその挫折
 1963年以降、君主制内包共和国という異例の形に収斂したウガンダであったが、これは前回見たとおり、ムテサ2世を中心とするブガンダ王室及び王党派(カバカ)とオボテ首相のウガンダ人民会議(UPC)の双方の思惑による妥協の結果であったため、初めから分裂含みの脆弱な体制であった。
 特にオボテはウガンダでは少数派のランゴ族出自のうえ、社会主義者でもあり、ブガンダ王室及び王党派とは出自的にもイデオロギー的にも相容れない立場であった。両者の最初の衝突は、新体制発足翌年の1964年に早くも顕在化した。
 この年、当時ブガンダ王国領に属していたウガンダ西部の二つの郡を元の帰属である別の内包王国ブニョロに返還するかどうかをめぐる住民投票が行われた結果、返還支持が多数を占め、両郡の返還が決まった。この住民投票はムテサ2世の意思に反して強行されたことから、カバカとUPCの連立が崩壊した。
 しかし、より決定的な衝突は1966年に勃発する。この年、オボテが当時側近だったイディ・アミン陸軍司令官と共謀して金の密輸に関与しているとの疑惑が持ち上がったのに対し、UPC党内からもオボテへの辞任圧力が強まると、オボテは党内の反オボテ派幹部を拘束したうえ、連邦憲法の停止とムテサ2世に代わり自らの大統領就任を発表した。
 対抗上、ブガンダ王国自治議会は、ウガンダ連邦からの離脱とブガンダ領内に置かれた首都カンパラからの連邦政府の退去要求を議決した。ここに至り、ムテサ2世とオボテの対立は頂点に達したが、オボテはアミンに命じてブガンダ王宮を襲撃させ、ムテサ2世を亡命に追い込んだ。
 この後、翌年の新憲法により、ブガンダをはじめ、内包王国のすべてが廃止され、単一の共和国に再編されることとなった。こうして1966年の政変は共和国の全内包王国の廃止を結果したため、変則的ながら、一種の共和革命の性格を持つことになった。しかし、それだけにとどまらず、この革命は間もなく社会主義革命としての性格も帯びることになる。
 オボテは非常事態下での強権発動により政敵の排除に成功した後、1969年に「大衆憲章」と題された教条文書を公表した。これは「左への運動」というスローガンにまとめられるオボテの社会主義綱領であり、同年に早速立法化された。
 オボテの社会主義政策の核心はウガンダ主要産業の国営化という点にあったが、同時に、それはウガンダ経済を握っていたインド系商人の権益の排除をも示唆していた。実際のところ、オボテの社会主義政策は曖昧な理念によった大雑把な構想にすぎず、具体性を欠き、かえって腐敗を招いた。また、食料不足やインド系商人の迫害も一因となった物価上昇を引き起こし、国民生活は明らかに悪化した。
 一方、外交政策の面で、オボテはアフリカ民族主義を強く打ち出し、人種隔離政策を採る南アフリカ白人支配体制に反対し、同国に武器を輸出する旧宗主国イギリスと対立、また南スーダン民族紛争をめぐっても、当時ウガンダの軍と警察の訓練を担当していたイスラエルの意に反して、南スーダン反政府勢力への支持を撤回するなど、援助国との亀裂が深まっていた。
 そうした中、オボテとアミンの間でも確執が高まる。アミンは共和革命時の功績により一時は全軍の総司令官に昇進していたが、オボテが反対した南スーダン民族紛争への関与などをめぐり不和となっていたところ、アミンが軍資金の横領を理由に検挙されかかると、彼は1971年、オボテの外遊中を狙ってクーデターを起こし、政権を奪取した。
 このクーデターの背後にはイギリスやイスラエルが伏在していたと見られ、当初アミンの軍事政権は西側からも歓迎された。アミンはそうした期待に応えて、オボテが推進していた社会主義政策を取り消したため、社会主義革命は結局、ほとんど具体的な成果を上げることなく、挫折することとなった。
 この後、1979年まで政権を維持したアミンは間もなくそのファシスト的な本性を露にし、虐殺を含む極端な恐怖政治とインド系を中心としたアジア系国民への迫害を展開することになる一方(拙稿参照)、タンザニアへ亡命したオボテは復権を目指して活動を続け、タンザニア軍の侵攻によるアミン政権崩壊後の1980年に復権を果たすことになる。

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近代革命の社会力学(連載第261回)

2021-07-12 | 〆近代革命の社会力学

三十八 アフリカ諸国革命Ⅰ

(4)ウガンダ革命

〈4‐1〉君主制内包共和国の独異性
 今日のウガンダは元来単一の国家ではなく、複数のバントゥー族系部族王国が興亡し、ひしめき合う地域であったが、19世紀にはガンダ族系のブガンダ王国が台頭していたところ、東アフリカにおいて勢力を分割し合う1890年ヘルゴランド‐ザンジバル条約に基づき、この地域はイギリス領に編入され、ブガンダのスワヒリ語名であるウガンダを統一的な地名とされた。
 こうしてイギリス領ウガンダ植民地として統合されたとはいえ、イギリスはブガンダをはじめ、この地域の諸王国を廃止することなく、保護国名下に部族君主制を残し、間接統治する方式を採用した。これはベルギーがウガンダの近隣でもあるルワンダとブルンディの各王国を廃止せず、残したのと同様に、植民統治を円滑にするための術策であった。
 その結果、かねてよりこの地域の盟主格であったブガンダ王国の勢力は、イギリスの間接統治の制約を受けながらも、かなりの程度残されることとなった。このようなブガンダの覇権は独立運動にも反映され、ガンダ族が独立運動の中心となった。
 その際、ブガンダでは王党派であるカバカ・イェッカ(王あるのみの意。以下、カバカという)が運動の中心となったが、カバカの独立構想では、ブガンダを中心とする連邦国家の樹立が考えられていた。これに対し、他の部族王国は懸念し、また各王国に包摂されない地域は共和制の単一国家を構想するというように、独立後の国家形態をめぐる対立が深まった。
 これに宗教的な対立も絡み、プロテスタントが主体のカバカに対し、カトリック系の知識層を中心に非連邦型の単一国家を志向する民主党が創設され、南部で支持を伸ばし、カバカと二大勢力を成した。
 一方では、北部を基盤とする勢力として、ミルトン・オボテが率いるウガンダ人民会議(UPC)という新興勢力が現れた。UPCは1950年代に設立されたウガンダ国民会議から分裂したもので、民主党と同じく単一国家を志向する近代主義勢力の中心となった。
 このような三つの政治勢力が鼎立する中、独立直前の制憲議会選挙では、民主党が第一党となり、同党党首ベネディクト・キワヌカが初代首相となった。ところが、その後、正式の独立直前に施行された新たな総選挙では、UPCがカバカと妥協し連携するという奇策を演じたため、民主党は単独で与党となれず、UPCのオボテが連立政権の首相に就任するという逆転劇となった。
 カバカ‐UPC間では、政体に関して、連邦制を採りつつ、ブガンダをはじめ、諸王国を残しながらイギリス国王が儀礼的元首となる英連邦王国の一員とする妥協策で合意されていたが、1963年に英連邦を離脱したことで、ブガンダ国王ムテサ2世が儀礼的な元首である連邦大統領に就任することになった。
 こうして、63年以降のウガンダは、共和制でありながら、ブガンダをはじめ、複数の王国が内包された君主制内包共和国という変則的な政体にとりあえず落ち着くのであった。とはいえ、これは如上のUPC‐カバカ合意に基づく妥協策であったので、遅からず、両者間で対立緊張関係を生じることが予測された。

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鬼門としてのアフガニスタン

2021-07-11 | 時評

アフガニスタンで、米軍を主体とする外国駐留軍の完全撤退が完了に近づいている。これに合わせて、20年前に米軍主体の有志連合軍によって駆逐されたイスラーム過激勢力ターリバーンの攻勢が強まり、同勢力の全土再征服、親米政権の崩壊も視野に入ってきている。

このような展開には、既視感がある。約30年前、当時アフガニスタンの親ソ政権を支援していたソ連軍の完全撤退である。この時も、ほどなくして親ソ政権の崩壊、イスラーム連合政権の成立が続いた。ターリバーンは、この流れの終着点として、不安定なイスラーム連合政権を打倒して現れた新興勢力であった。

ソ連軍は1979年の軍事介入以来、10年越しの駐留も虚しく、多くの犠牲を払った末に、成果を上げずに撤退に追い込まれたが、米軍(有志連合軍だが、圧倒的中心の米軍で代表させる)は海外での戦争史上最長の20年に及ぶ駐留も虚しく、撤退することになる。ベトナム戦争以来のアメリカが事実上敗北した戦争となる。

もっとも、アメリカとしては、当初の侵攻の大義名分であったターリバーンと反米国際テロ組織のコネクションが断ち切られ、ターリバーンが反米的な国際テロと関わらず、アフガニスタン固有のローカル勢力にとどまるなら、よしとする打算なのだろうが、ターリバーンは今なお国際テロ組織アル・カーイダと連携しているとされており、今後、撤退方針の撤回ないしは再侵攻の余地も残されていよう。

それにしても、アフガニスタンは、歴史上時々の覇権大国にとっては鬼門と言える場所である。遡れば、19世紀、当時の帝国主義覇権大国だったイギリスは帝政ロシアと争っていた西アジアにおける覇権確保のため、アフガニスタンと三度も戦火を交えたが、完全に征服することはできなかった。

次いで、20世紀、米ソ冷戦下で東側盟主となっていたソ連は、中央アジア領土に接続するアフガニスタンに革命が勃発し親ソ社会主義政権が樹立されると、これを衛星国化すべく、政権の内紛に乗じて軍事介入した。その後、反政府蜂起したイスラーム武装勢力との内戦を支援するため、10年駐留を続けたが、勝利することはできず、この敗北はソ連自身の崩壊の間接要因ともなった。

さらに、冷戦終結・ソ連解体後の21世紀、「唯一の超大国」となったアメリカは、本土での同時多発テロ9.11事件の首謀集団と目されたアル‐カーイダを庇護していた当時のターリバーン政権を打倒すべく、軍事介入し、親米政権に立て替え、その後も20年駐留を続けたが、再び反政府武装勢力に戻ったターリバーンを壊滅させることはできなかった。

かくして、19・20・21世紀と、各世紀において最高レベルの軍事力を備えた覇権大国すべてがそろいもそろって征服に失敗した国は他に例がない。その要因として、アフガニスタン多数派民族であるパシュトゥン人の部族的紐帯に基づいた精神力と山岳ゲリラ戦に長けた戦闘能力を大国の側が見損なってきたことがある。

今後の展開は読みにくいが、勢いを増しているターリバーンは旧政権勢力当時よりは穏健色を見せてはいるものの、本質的には反近代主義の宗教反動勢力であることに変わりない。もしかれらが再び全土制圧し、政権勢力となれば、1970ー80年代の社会主義政権時代に大きく進展し、過去20年の世俗主義(または穏健イスラーム主義)政権時代に一定復活した近代化の成果面が反故にされる危険もある。

しかし、そうした流れを受容するのか、市民的抵抗や民衆革命その他の方法をもって対峙するのかはアフガニスタン国民が自主的に決めることであり、もはや大国が介入し、左右すべきではない。三つの歴史的な大国すべてがそろって失敗した今、大国も学んだことだろう。

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