ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第255回)

2021-06-30 | 〆近代革命の社会力学

三十八 アフリカ諸国革命Ⅰ

(1)概観
 19世紀のいわゆる「アフリカ分割」の結果、その大半が少数の西欧列強諸国の植民地に編入されていたサハラ以南のアフリカ諸国(以下、単にアフリカ諸国という)は、第二次世界大戦後、17か国が一挙に独立した1960年を一つの象徴的な年度として、1950年代末から60年代前半にかけて、順次独立を果たしていった。
 もっとも、その独立過程はおおむね平和裏に進み、明確に独立戦争/革命を経た国は、後に取り上げる西アフリカの旧ポルトガル植民地ギニア‐ビサウくらいのものである。
 その要因として、英仏を中心とする宗主国側でも、独立運動の高揚に対応し、次第に現地人の限定的な政治参加や自治権を保障していったこと、また宗主国側の戦後の財政事情などからも、独立運動を抑えて植民地経営を持続する余裕がなくなっており、独立を容認する方向へ動いていったことが挙げられる。
 一方、独立後のアフリカ諸国においても、革命による社会変革を経験した国々は限られている。その要因として、アフリカ諸国では部族主義(所により同一民族内の氏族主義)の伝統が強く残り、多部族がそもそも一つの主権国家を共有すること自体に困難があり、部族を越えた統一的な革命運動の形成もまた困難であったことがあると考えられる。
 そうした中にあっても、いくつかの諸国は革命を経験しているが、それらの革命にも小さなクラスター的潮流が認められるところ、そうした潮流は、時代ごとに四次に分けることができる。その最初のものは、おおむね1950年代末から60年代半ばにかけて、いくつかの君主制諸国で発生した共和革命の潮流である。本章で扱うのは、その第一次潮流である。
 植民地化される以前のアフリカ諸国は、部族ごとに多数の王国に分岐し、諸王朝が各地で興亡を繰り返す歴史に彩られているが、それらの部族王国も、列強による植民地化の過程で、その大半が滅亡していき、新たな国境線は列強による人工的な分割線によって規定された。
 そのため、20世紀半ば過ぎの独立当時、君主制がいまだ存続していた例は限られており、多くの国が初めから共和制国家として発足している、そうした中で、本章で取り上げるルワンダ・ブルンディ・ザンジバル・ウガンダの四か国は、独立時まで伝統的な君主制が存続していた例外ケースである。
 そのため、独立の前後において、君主制の存続が重要な政体上の論争点となり、複雑な部族間紛争と絡み合いつつ、また時として旧宗主国側の思惑も介在して、王党派と共和派とが政争を繰り広げることになった。その過程で、掲記の四か国では共和派が優位となり、君主制を廃する共和革命を結果することとなった。
 ただし、いずれの革命も、四者四様に革命としてはいささか変則的な経過を辿っており、その発生力学は複雑で、典型的な共和革命と様相を異にするのは、アフリカ的特色と言えるであろう。しかし、いずれの革命もその効果は今日まで永続的であり、四か国それぞれ共和制国家として確立されている点では、成功した革命の事例と言えるものである。

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近代革命の社会力学(連載第254回)

2021-06-28 | 〆近代革命の社会力学

三十七 韓国民主化革命

(4)第二共和国とその挫折
 4.19革命は自然発生的かつ未組織の民衆政変に端を発するため、革命政権は形成されず、政権崩壊後は李承晩政権当時の許政外相を首班とする暫定移行政権が発足したが、主導権はすでに野党民主党に遷移しており、1960年6月までに憲法改正が行われた。
 新憲法の目玉は、議院内閣制の採用であった。議院内閣制の採否は独立当初から共和政体上の主要な争点であったが、強力な指導者へのニーズから、第一共和国では大統領主導制が採用された。
 しかし、大統領への権力集中は独裁を招いたことから、第二共和国憲法では初めて議院内閣制が採用され、大統領は儀礼的存在となり、国務総理(首相)中心の体制が構築された。
 こうして、革命後最初の国政選挙となった1960年総選挙では、野党民主党が順当に勝利し、民主党政権が発足した。新憲法下で実権を握る国務総理には、李承晩政権末期のねじれ体制の副大統領だった張勉が就いた。
 民主党政権は、外交上は日本との国交正常化交渉を最初の課題とし、対米依存からの脱却を目指したほか、焦点の経済政策では、社会主義政権ではないながらも、国家主導の経済開発計画による経済成長を目指すなど、李承晩時代からの大転換を図った。
 同時に、李承晩体制下では抑圧されていた政治的自由を大幅に認めた結果、学生運動や労働運動も活性化され、革新政党も林立した。
 一方、政権与党の民主党はイデオロギー的に明確な軸を持たない中道リベラル/保守政党であり、党内に派閥争いがあり、儀礼化されたはずの尹潽善[ユン・ボソン]大統領と実権を握る張勉国務総理との間で確執が高まり、政権は不安定化する。
 本質的には保守的な民主党政権はまた、4・19革命の主体となった学生運動とは疎遠な関係にあったところ、学生運動は革命後急進化し、北朝鮮に接近、学生交流を通じた統一運動へと展開する。革新的社会運動も活性化し、デモが頻発する中、自由化を看板とする民主党政権はそうした混迷を統制できなかった。
 他方、政権は李承晩体制の清算として公職者追放措置を実施し、軍内でも下級将校の下克上的な「整軍運動」により、高級将校が糾弾・追放されるような事態が発生、保守派の不安や反発が次第に高まっていった。
 自身が党内抗争から不安定化していた民主党政権は自由化に伴う社会全般の不安定化を制御できず、経済停滞への対処も失敗し、ウォンの暴落を招いた。こうした社会経済的な危機は、学生運動の急進化ともあいまって、北朝鮮を利することが懸念された。
 そうした中、4.19革命時は中立を守った軍部内の野心的な少壮軍人グループが1961年5月、クーデターを敢行する。
 朴正熙少将に率いられたクーデター勢力は軍事革命委員会を名乗り、「反共体制の再整備」を筆頭項目とする「革命公約」を掲げたが、実態は入念に計画された反革命クーデターであり、軍事政権は第二共和国を解体し、再び大統領中心の権威主義体制を復活させた。
 クーデターに際し、アメリカは当初、在韓米軍と駐在公館レベルで鎮圧の仲介に動いたが、これに失敗すると、時のケネディ政権はクーデターをあっさり承認した。その後、1963年の形式的な民政移行後、軍に基盤を置く朴正熙大統領による親米・親日の反共独裁体制が1970年代まで続く。
 こうして、第二共和国は一年余りという短期で挫折したわけだが、南北朝鮮の分断対峙という特殊状況下で軍の政治化が避けられず、北朝鮮の脅威と経済開発に対応するうえで社会にも強力な指導者へのニーズがまだ残っていたことが、第二共和国を短命に終わらせたと言える。それはまた、上部構造由来の革命の脆弱さをも示している。
 とはいえ、第二共和国が先鞭をつけた自由化はその後、1980年代末まで続いた独裁的な軍人政権の期間中、厳しく弾圧されつつも、粘り強い民衆抗議勢力の形成を促し、90年代以降の民主化の下支えとなった限りで、4.19革命の余波は続いたと言える。

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比較:影の警察国家(連載第43回)

2021-06-27 | 〆比較:影の警察国家

Ⅲ フランス―中央集権型警察国家

1‐2‐1:国家治安軍の二面性

 国家治安軍(Gendarmerie nationale)はフランス及びフランスの影響を受けた諸国において(機関名称は様々ながら)普及している言わば第二の警察であり、フランス式の二重的集権警察を象徴する制度である。
 語源的には「武装した人」を意味するように、本来は軍の一種であるところ、歴史的な変遷により、警察組織化してきたことは以前に述べたとおりであるが、そうした歴史を反映して、国家治安軍は準軍事的な武装警察としての役割と一般警察が存在しない地方における警察としての二面的な役割を担っている。
 前者の武装警察としての任務において最も主要な役割を果たすのは、機動治安軍(Gendarmerie Mobile)である。これはデモ規制や暴動鎮圧を専門とする機動隊組織である。
 これは国家警察側の保安機動隊と並び、フランス警備警察の中核として、まさに武装警察としての性格が前面に出る部門であり、その強力な実力行使によって、フランス警察国家の象徴でもある。
 また、機動治安軍では対処し切れない対テロリズムや人質救出等の特殊作戦に際しては、国家治安軍介入団(Groupe d’intervention de la gendarmerie nationale:GIGN)が出動する。GIGNは海外でも作戦を展開し、国家警察側の相応部隊であるRAIDよりも、出動頻度は高い。
 さらに、大統領を筆頭とする国家要人の警護及び大統領府エリゼ宮をはじめとする首都の主要庁舎警備部門としての共和国警備隊(Garde républicaine)は、権力中枢を護衛する親衛隊組織として、フランス国家権力の物理装置そのものとして機能する。
 他方、地方警察としての任務は、各県単位で組織される県治安軍(Gendarmerie Départementale)がこれを行う。機動治安軍との役割分担を明確にするため、同一機関内ながら、機動治安軍とは異なる階級章を使用する。
 ただし、県単位といえ、あくまでも中央集権組織であるので、県の上位行政単位である地域圏ごとに防衛区が置かれ、防衛区司令官の管轄下に県治安軍が組織されるという軍隊的な集権構造を採る。

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近代革命の社会力学(連載第253回)

2021-06-25 | 〆近代革命の社会力学

三十七 韓国民主化革命

(3)学生革命への力学
 およそ革命事象が生起するに当たっては、社会経済的な下部構造の変動が大きな要素となる。その点、朝鮮戦争で壊滅的打撃を受けた李承晩体制は、日本からの独立運動を基盤としたため、対日途絶政策を外交上の看板とし、日本とは国交を樹立せず、専らアメリカの経済援助に依存していた。
 そうしたアメリカによる受益体制の下、李承晩は政権とコネクションを持つ財閥を過度に優遇したため、経済開発は遅れ、国内総生産では同時期北朝鮮の社会主義計画経済にも後れを取り、世界最貧国の状態にあった。
 しかも、50年代末にはアメリカの経済援助削減策により窮地に陥り、労働者層の不満は鬱積していた。とはいえ、北朝鮮との対峙状況下、社会主義に結びつきやすい労働運動は抑圧されており、労働者階級政党も結党できない中、労働者を主体とした下部構造由来の革命は望めなかった。
 そのため、4.19革命は専ら上部構造的要因から発生した。中でも直接的な動因は、直前の3月に実施された大統領選挙の結果にあった。当時の韓国では正副大統領選挙を別立てで行う特殊な制度が採用されていたことから、正副大統領が与野党に分裂するねじれの可能性を孕んでいたことが問題であった。
 実際、一代前の1956年選挙ではそうしたねじれが起きており、大統領には自由党の李承晩、副大統領には野党民主党の張勉が当選するという事態となっていた。すでに80歳を越えながら李承晩が四選を狙った1960年選挙では、ねじれの解消が目論まれていた。
 もっとも、大統領選挙では野党系対立候補の病死という僥倖により、李承晩が当選したが、副大統領選挙では勢いのあった野党系候補の当選を阻止するべく、政権は大掛かりな選挙干渉を行い、与党系候補を「当選」させたのである。
 この選挙大干渉は暴力を伴っており、投票日の3月15日、慶尚南道馬山(現・昌原市)で、野党民主党側の投票立会人が投票所から強制的に締め出されたことをきっかけに、学生と市民の抗議デモが発生し、死傷者を出した。
 地方でのこの抗議行動が翌月には首都ソウルにも波及し、4月19日には数万人規模の学生を中心とする抗議デモが発生した。デモの波は他の都市にも拡散し、警察治安部隊の鎮圧行動で200人近い死者が出る中、政府は戒厳令を布告して弾圧を図ったが、軍は中立を保った。
 これを受けて、21日以降、閣僚と与党幹部の総辞職、さらに副大統領に「当選」した李起鵬の当選辞退が続き、政権は瓦解状態となった。同月25日には全国の大学教授団のデモに発展する中、26日に閣僚の説得により李承晩大統領が辞任、翌月にはハワイへ亡命していった。
 このようにして、不正選挙に対する学生主体の抗議行動から自然発生的に生じたのが4.19革命の特質であり、その過程では意識的に結成された革命組織や政党も全く見られなかった点で、この革命は市民が主体となる民衆政変型革命の先駆けでもあった。
 もっとも、事後的に大統領辞任と野党への政権交代を結果しただけであれば、それは革命ではなく、民衆政変にすぎないが、その後、憲法改正によって政体が変更され、議院内閣制を基本とする第二共和国へ移行したことで、革命としての性格を帯びることになった。

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近代革命の社会力学(連載第252回)

2021-06-23 | 〆近代革命の社会力学

三十七 韓国民主化革命

(2)朝鮮半島分断と二つの独裁体制
 1960年4.19革命の発生力学は、第二次世界大戦後の朝鮮半島南北分断という特異な地政学的文脈に照らして考察される必要がある。
 1910年の韓国併合以降、日本統治下にあった朝鮮半島では弾圧の中、抗日独立運動も盛んであったが、イデオロギー的な分裂から運動は統一されることがなかったところ、宿願の独立は革命によってではなく、敗戦した日本の無条件降伏に伴う統治権放棄の結果としてもたらされた。
 そのうえ、朝鮮半島が連合国内の米ソ両大国による北緯38度線を境界とする分割占領下に移行する中、抗日独立運動のイデオロギー的分裂が反映される形で、38度線以北ではソ連の支援により親ソ派共産主義系の抗日組織が独自に社会主義国家を建国、以南ではアメリカの支援により反共親米の資本主義国家が建国されるという東西冷戦をまさに象徴するような分割構図が作出された。
 ここで、北部の朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の建国も、「革命」と規定されることがあるが、これは多分にして北朝鮮の支配政党となった朝鮮労働党による建国プロパガンダであって、北朝鮮の建国は厳密には革命ではなく、ソ連の支援下に衛星国家として平和裏に行われている。
 むしろ、建国後1950年の朝鮮戦争こそ、そこには革命がかぶさっていたと言える。通説によれば、この戦争は北朝鮮が38度線を越えて南部の大韓民国(以下、韓国)に進攻してきたことを契機に勃発したものであるが、北朝鮮の狙いは、韓国内の連携勢力であった南朝鮮労働党(韓国内では弾圧され、朝鮮労働党に合流)と組んで、半島全体の社会主義革命を達成することにあった。
 それには前年度の中国共産党による中国大陸革命の成功も誘因となっていただろうが、中国大陸の二の舞を避けたいアメリカを中心とする「国連軍」が反撃し、北朝鮮側では建国間もない友好国の中華人民共和国が義勇軍を組織して援護する形で、全面戦争に突入する。その点で、朝鮮戦争は半島社会主義革命を未然防止するための予防的な反革命干渉戦争という性格を帯びていたと言える。
 朝鮮戦争の経緯や性格はそれ自体が政治性を持つ論争主題であり、ここでそれに立ち入ることは本連載の論外となるため、割愛するが、戦争結果は実質的な引き分けの「休戦」となり、以後、南北分断が固定化していったことは確かである。
 この間、北朝鮮側では抗日ゲリラ活動の若き指導者であった金日成が他名称共産党の性格を持つ朝鮮労働党を権力基盤に政敵の粛清を進め、着々と一党支配型のスターリン主義的な独裁体制の構築を進めていた。
 これに対抗する形で、南の韓国では、戦前から反共保守系独立運動の指導者として長い経歴を持つ長老的な李承晩が初代大統領に選出されていたが、韓国の政体は複数政党制に基づく大統領制であったため、本来は独裁を免れるはずであった。
 しかし、李承晩は、朝鮮戦争後も「赤化統一」を断念しない北朝鮮への恐怖と、旧宗主国日本への国民の反感という二つの要素を組み合わせ、長期執権を正当化する政治心理的な戦略で多選を重ね、独裁支配を固めていったのである。
 こうして、4.19革命が発生した1960年当時の南北朝鮮には、李承晩と金日成という二人の元独立運動家が率いる二つの独裁体制が対峙していた。

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近代革命の社会力学(連載第251回)

2021-06-21 | 〆近代革命の社会力学

三十七 韓国民主化革命

(1)概観
 1959年のキューバ社会主義革命は青年革命運動の成功例であり、世界の青年運動を大いに刺激することとなった。その結果、1960年代以降、中産階級が成長した諸国では、学生を中心とする青年の急進的な運動が展開されていった。
 キューバ革命の翌年、1960年の日米安全保障条約改定に対する日本における大規模な反対闘争も、革命に発展することこそなかったが、時の岸信介首相は条約改定自体には成功しながら政権を維持できず退陣に追い込まれたため、倒閣という限定効果を持った大規模な青年抗議運動となった。
 一方、同じ1960年の4月、日本からの独立を経て十数年を経た韓国で、学生を中心とした抗議運動が革命(4.19革命)に発展し、初代大統領李承晩の独裁化した政権を打倒し、民主的な新憲法の制定につながる民主化革命を成功させた。
 韓国では、日本統治時代から、節目においてたびたび学生が反体制抗議運動の主体として台頭してきており、4.19革命もその延長上の事象と言える面はあるが、同時に、1960年代を通じて世界に拡散する青年革命運動の嚆矢となる事象でもあった。
 4.19革命後も、韓国では政局の節目で学生の抗議運動が発生することが法則的な流れとなったが、政体変更を結果する革命にまで発展したのは、現時点では4.19革命が唯一の事例となっている点で、特筆すべきものがある。
 しかし、冷戦期、南北朝鮮分断という特異な状況下にあって、民主化の急進が共産化につながることを危惧した保守派少壮軍人グループによるクーデターにより、4.19革命は一年ほどで挫折し、以後は、軍部を権力基盤とする独裁的な軍人政権が1980年代後半まで続いたため、4.19革命は未完に終わる。
 しかし、その後の軍人政権下でも、学生を中心とする民主化運動は苛烈な弾圧の中でも継続され、最終的には平和的なプロセスを経て軍人政権の終焉と民政の確立を導くこととなったという限りで、4.19革命には長期にわたる残響的な余波があったと言える。
 さらに、4.19革命は、一定の年月を置きつつ、アジアの新興諸国において、1970年代以降90年代にかけ、タイやフィリピン、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアなどで継起する民主化革命(未遂を含む)の先駆けともなった。

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近代革命の社会力学(連載第250回)

2021-06-18 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(7)革命の余波
 1959年のキューバ社会主義革命は、1949年の中国大陸革命に続く第三世界において持続的に成功した社会主義革命として、思想的な面では各地の革命的社会運動を鼓舞するも、キューバ固有の事象としての性格が強く、それを契機とした周辺ラテンアメリカ諸国への直接的な波及現象は見られなかった。
 ここには、キューバと周辺諸国の歴史的な相違が影響している。独立が20世紀にずれこんだキューバと異なり、周辺ラテンアメリカ諸国では19世紀中に独立を果たし、独立運動に功労のあった土着白人クリオーリョ富裕層の寡頭支配が強固に確立されており、革命的な構造変革を阻んでいたからである。
 とはいえ、時間差を置いて間接的な形での波及効果とみなすことのできる事象は1960年代にいくつか見られる。一つは、地理的にも比較的近いドミニカ共和国での1965年の未遂革命である。
 ここでは、1930年代から長期の親米独裁支配を確立していたラファエル・トルヒーヨが1961年に暗殺された後(トルヒーヨを見限ったアメリカが背後で関与したとされる)、民主的な大統領選挙を経て当選した左派のボシュ大統領が革新的な新憲法を制定し、社会改革に乗り出すと、1963年、旧体制と結託した軍部がクーデターを起こし、政権を転覆した。
 これに対し、1965年、フランシスコ・カーマニョ大佐が主導する中堅将校団による革命が勃発した。これは社会主義革命というよりは1963年憲法の回復を求める立憲革命であったが、膠着し、内戦に発展する兆しを見せたことから、キューバの二の舞を恐れたアメリカのジョンソン政権が本格的な軍事侵攻作戦で臨み、革命軍を粉砕した。
 その後、カーマニョはキューバに逃れて革命運動を継続、1973年には武装集団を結成してキューバからドミニカへ上陸し、数週間ゲリラ戦を展開したが、政府軍により鎮圧された。カーマニョも捕らえられ、略式処刑された。
 これはカストロの武装革命にならっての冒険的蜂起であったが、カストロと異なり、エリート軍人出身のカーマニョはドミニカ国内で広い支持を得られず、なおかつキューバのカストロ政権の援助も得られなかったことが、敗因となった。
 もう一つの間接的波及例としては、南米ペルーにおける1960年代の革命運動及び疑似革命が挙げられる。ペルーでは、キューバ革命に触発されたマルクス主義のグループが革命的左翼運動を結成し、蜂起するが、1965年に政府軍により鎮圧された。
 しかし、ほどなくして1968年、軍部内のフアン・ベラスコ将軍が主導するクーデターが成功し、以後、軍主導で社会主義的な諸政策が実行された。
 通常は反社会主義に傾斜しやすい軍部が自ら社会主義を主導することは極めてまれであるが、ベラスコ政権は銅会社の国有化や米系石油会社の資産没収のほか、当時ラテンアメリカではキューバに次ぐ最大規模の農地改革により大土地所有制の解体に進んだ。さらには、大衆の政治参加組織として国民社会動員支援制度を創設するなど、革新的な政策を進めた。
 ベラスコ政権は「軍革命政府」を名乗ったが、その事績はあくまでも軍事政権の枠組み内で断行された諸改革であって、真の革命ではなく、言わば疑似革命であった。1972年にはキューバとも国交を樹立し、友好関係を保ったが、キューバからの直接的な支援はなく、経済失策から1975年、軍部内保守派のクーデターを招き、軍革命政府は崩壊した。
 また、ペルーの68年クーデターの数日後、中米パナマでも、国家警備隊(国軍相当組織)のクーデターで、オマル・トリホス中佐が権力を掌握した。左派ナショナリストの彼は大統領の地位には就かないまま、文民大統領を傀儡化した最高実力者(将軍)として、キューバに接近しつつも、ペルーのベラスコ政権に類似した革新政策を進めた。
 トリホスの歴史的功績として、アメリカと交渉し、1977年の条約によって平和裏にパナマ運河のパナマ政府移管を実現させたことがある(実際の移管日は1999年末日)。
 トリホスのクーデターも革命を標榜した疑似革命の一種であり、1981年の飛行機事故による死まで続いた彼の体制は形式上民政の形を取った個人崇拝型の軍事独裁支配であったが、アメリカの圧力による限定的な民主化に動いた晩年に創設した民主革命党は、現在までパナマの主要政党として存続している。
 カストロ政権は第三世界での革命支援には意識的に取り組み、その支援は遠くアフリカにも及んだが、成功例は少なく、近場のラテンアメリカでは、1979年に革命に成功したニカラグアのサンディニスタ国民解放戦線への支援くらいである。
 アフリカでは、同時進行中のアルジェリア独立戦争で民族解放戦線に武器援助をしたほか、アンゴラの独立運動でもアンゴラ解放人民運動を支援し、最大6万人ものキューバ軍を派遣して独立達成に貢献した。エチオピア革命後、エチオピア社会主義政権と隣国ソマリアとの国境戦争に際し、エチオピア側でキューバ軍を派遣したのも、形を変えた革命輸出政策と言える。

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近代革命の社会力学(連載第249回)

2021-06-16 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(6)反米親ソ化からソ連型社会主義体制へ
 キューバ革命当初の戦略的曖昧さが明確に変化していく契機は、具体的な日付を伴う何らかの出来事ではなく、冷戦時代の複雑な国際社会の地政学的な力学作用によるところが大きい。とりわけ、アメリカの動向が直接に反映されていく。
 当時のアメリカは一度はカストロらの革命を支援しながら、いざ革命が成功すると梯子を外す形で、革命政権に猜疑を強め、承認を保留するという形でこちらもあいまい戦略を繰り出していた。
 これに業を煮やしたカストロ政権は後ろ盾をソ連に求め、弟のラウル・カストロ国防相の訪ソなどソ連への接近姿勢を示すとともに、当時キューバを重要拠点としていた米系国策資本ユナイテッド・フルーツ社所有農地の接収など米系資本への圧力を強めた。
 1960年に入ると、ソ連とのバーター取引や兵器調達などの協定を矢継ぎ早に締結、さらにアメリカ国民の在キューバ資産の接収まで進むと、アメリカ側の忍耐が限界に達し、時のアイゼンハワー大統領は対キューバ禁輸及び国交断絶へと動いた。
 さらに、アメリカとしては、キューバにおける権益回復のため、軍事的な手段で革命政権を転覆することを画策する。先例として、1954年に中米グアテマラのアルベンス政権の転覆に成功した事例があったが、アイゼンハワー共和党政権が任期満了退陣の時期であっため、作戦は次のケネディ民主党政権に引き継がれた。
 ケネディ政権によって仕切り直されたキューバ侵攻作戦は、政権交代とケネディ大統領の消極姿勢が作戦遂行にとって大きな障害となり、失敗に帰したのであった。革命政権にとっては最大の反革命策動であったこのピッグス湾侵攻事変を乗り切ると、政権は社会主義路線を鮮明にした。
 カストロ政権は、事変の翌61年5月、公式に社会主義宣言を発するとともに、7月にはカストロの「運動」や旧来の共産主義政党であった人民社会主義者党を糾合してキューバ社会主義革命統一党を結党した。
 他方、政権はアメリカによる再侵攻の脅威に対処するため、ソ連への傾斜を一層強めた。ソ連としても、従来勢力が及んでいなかったアメリカ地域で、しかもアメリカと目と鼻の先のキューバを衛星国化することはアメリカへの対抗上有利であるため、キューバへのアメリカの侵攻を抑止する名目で核ミサイル配備にまで進んだことが、1962年のキューバ危機へとつながった。
 この第二次大戦後では最大級の核戦争危機が、米ソ両国首脳の話し合いにより、ソ連側のミサイル撤去と米側のキューバ不侵攻の交換条件で回避されると、アメリカから不侵攻を確約された社会主義体制はようやく一定の安定期を迎えることになる。
 ただ、親ソ体制としての性格は濃厚となり、先に結党されていた社会主義革命統一党は1965年にキューバ共産党と改称され、以後、ソ連式の共産党一党支配体制の構築が進められていく。遅れて1976年に制定された新憲法は、その法的な裏付けとなった。
 こうした革命体制の教条的物化と言うべき流れに抗したのが、カストロ盟友のチェ・ゲバラであった。マルクス主義者ながら理想家でいささか唯心論的な傾向のあった彼は、ソ連の覇権主義的な外交姿勢にも批判的であり、親ソ化していくキューバ体制に幻滅していた。
 ゲバラは1965年にキューバを去り、再び遊軍革命家の生活に戻っていき、アフリカのコンゴや南米のボリビアで革命運動に身を投じたが、最終的にはボリビアで活動中、当時の反共軍事政権の掃討作戦により拘束され、略式処刑された。
 対照的に、カストロは共産党支配体制の確立に伴い、実質的な独裁者として、ソ連の解体を越えて2008年の引退まで半世紀近く君臨し続けることになる。その間、教条主義的な社会主義を固守したことが、かえって体制の長期持続性を保証したと言える。

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近代革命の社会力学(連載第248回)

2021-06-14 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(5)最初期革命政権の展開
 1959年1月に革命軍の勝利が確定すると、直ちに革命政権が発足するが、初代の首相にはカストロ(以下、特に断りない限り、兄のフィデルを指す)をはじめとする「7月26日運動」のメンバーではないハバナ大学教授ホセ・ミロ・カルドナが任命された。
 ミロは法学者であり、バティスタ独裁時代には独立した立場で反バティスタの論陣を張り、学生らを革命に向けて鼓舞するメンター的な役割を果たしていた。その限りで、「運動」のパトロン的存在でもあったことで、初代の首相に抜擢されたものと見られる。
 一方、大統領にも「運動」外部から、マヌエル・ウルティア・ジェオが任命された。ウルティアはバティスタ時代に政権に対する市民的不服従運動を主導したリベラルな弁護士であり、革命前から大統領職を約束されていた。
 このように最初期革命政権の初動は「運動」外部から招聘した法律家コンビが大統領と首相として主導し、カストロは正規軍化された革命軍の最高司令官として武力部門を担うという集団指導制が採られた。
 しかし、ミロ首相は議会制の支持者であり、自ら制定に寄与しながら、バティスタが差し止めていた進歩的な1940年憲法の回復を主唱していたため、より急進的な政策を構想するカストロらとはすぐに不和となり、2月には辞任、カストロが首相に就任した。これにより、実質的な最高実力者自らが政府のトップに就くことになった。
 実質的な革命政権はここから始まると言ってもよいが、この先、アメリカによるカストロ政権転覆を狙った1961年の軍事侵攻(ピッグス湾事変)までの時期のカストロ政権は、イデオロギー的には曖昧であった。
 カストロは当初、社会主義宣言を回避しつつ、公式には自らを共産主義者ではないと言明し、実際、当時のキューバにおける共産主義政党であった人民社会主義者党とは直接の関わりを持たなかった。
 とはいえ、先述したように、カストロほか「運動」指導部は元来マルクス主義に傾斜していたことからすれば、最初期革命政権の曖昧さは戦略的な曖昧さであり、カストロとしても、「運動」への資金援助やバティスタ政権への経済制裁などアメリカの助力も革命の成功要因であったことに鑑み、革命後の対米関係を考慮し、あえてアメリカが忌避する共産主義を想起させる理念の表示を回避していたと考えられる。
 しかし、政策的な面では、農地所有の上限を設定し、農民に農地を再配分する農地改革を実施したほか、外資による土地保有につながる外国人による土地の所有禁止と接収を進めた。さらには、基幹産業である製糖や石油精製事業の国有化も主導している。特に、バティスタ時代に集中していた米系資本の国有化が断行されたことは、アメリカの反発を買うことになる。
 法制面でも、マルクス主義法学者オスバルド・ドルティコス・トラドを革命法制担当相に任命して、従来の法体系を転換する革命的基本法制の制定を主導させた。これにより1940年憲法は事実上凍結され、最終的には1976年の社会主義憲法に置換されることになる。
 こうした黙示の社会主義的な政策展開に対して、ウルティア大統領は政権内でマルクス主義者の影響が強まっていることに懸念を示していたが、59年7月には辞職に追い込まれた。その後、ウルティアを含む中産階級や富裕層はアメリカへ向け脱出し始め、その後の在米キューバ亡命移民コミュニティーの先駆けとなった。
 一方、旧バティスタ政権残党やカストロと袂を分かった元革命戦士などの雑多な構成から成るより積極的な武装反革命活動も開始された。彼らはCIAの支援を受け、中部のエスカンブレイ山脈を拠点に1965年まで抵抗を続けた。
 しかし、反革命活動は政権を脅かすほど活発とは言い難く、内戦を惹起することはなかった。その結果、この種の武装革命にありがちな旧体制派への報復的処刑も必ずしも大量的でなく、最初期政権時には最初の半年で推計500人ほどが処刑されるも、その大半は市民からも嫌悪されたバティスタ政権当時の治安関係者や内通者といった面々であった。
 最初期革命政権のこうした黙示の社会主義路線は、アメリカがこれを承認していれば、同時代ボリビアにおける革命のように、親ソ体制とは別の方向に進んだ可能性もあるが、アメリカが次第にカストロ政権への猜疑を強め、敵対していく中で、親ソ体制へと変容を余儀なくされていく。

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近代革命の社会力学(連載第247回)

2021-06-12 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(4)冒険的革命蜂起―失敗から成功へ
 フィデル・カストロが武装革命組織「運動」を立ち上げた契機としては、1940年代、彼がカリブ海域の国際的革命支援組織であった「カリブ軍団」の一員として、当時親米独裁者ラファエル・トルヒーヨが支配していたドミニカ共和国への冒険的革命遠征に参加した経験があったと思われる。
 この革命は失敗に終わったものの、帰国後、キューバで同様の親米独裁者バティスタを打倒するに際して、裁判闘争のような合法的な方法が尽きた後の最終的な方法として、ドミニカでの経験が念頭に置かれていたことは想像に難くない。
 「運動」の革命蜂起は1953年7月と1956年12月の二次に及ぶが、1953年の第一次蜂起はカストロ兄弟が率いる総勢130人ほど(後に約20人が追参加)の小集団で、キューバ軍のモンカダ兵営を襲撃するというまさに冒険的なものであった。
 結果は無残な敗北であり、メンバーの多くは戦闘で死亡または略式処刑され、カストロ兄弟を含め、拘束された者は訴追され、フィデルは15年の刑に処せられた。しかし、1955年、バティスタは人道的・政治的な圧力からカストロ兄弟らを恩赦釈放し、メキシコへの亡命を認めた。
 バティスタ側にとっては、政権のイメージアップのためかカストロ兄弟の恩赦に応じたことが政治的な命取りとなるのであった。もし、少なくともリーダーのフィデルを処刑していれば、その後の革命運動は防圧できたであろうからである。
 メキシコ亡命後、再び革命蜂起を計画したカストロらは、80人あまりで、第一次蜂起の日付にちなんだ新たな革命組織「7月26日運動」(以下、運動)を立ち上げる。そこには、アルゼンチン出身のエルネスト・ゲバラも加わっていた。彼は、かつて革命渦中のボリビアやグアテマラに滞在した経験もある遊軍革命家と言うべき新たなタイプの外人革命家であった。
 「運動」による第二次蜂起は第一次蜂起以上に冒険的なもので、中古ヨット「グランマ号」に乗り込んでメキシコを出港し、キューバに強行上陸するというものであった。しかし、すぐさま政府軍に発見・攻撃され、わずか十数人の生存者のみで山中に逃亡・潜伏するというありさまであった。
 しかし、この失敗と山中での組織の再建が成功を導く。鍵となったのは、意外にもアメリカによる資金援助とバティスタ政権への経済制裁であった。このことは革命後の両国関係を考えれば不可解ではあるも、バティスタ政権による打ち続く人権侵害や政治腐敗に見切りをつけたアメリカが「運動」に肩入れし、バティスタ政権の排除を容認する方針に転換したためと見られる。
 これにより「運動」は、新メンバーを加えて本格的な軍隊構制の武装組織の編成が可能となり、キューバ軍と対等的に戦闘を行う能力が備わったのである。結果として、1958年に入ると、革命軍と政府軍の間で事実上の内戦状態となる。
 いくつもの大規模な戦闘の後、58年末のヤガイェイとサンタクララの戦いで革命軍が決定的な勝利を収めると、翌59年1月、バティスタの辞任と海外亡命を経て、革命軍が首都ハバナを制圧し、革命は成功したのである。
 このようにほとんど素人の青年集団による冒険的革命蜂起が成功した事例は歴史上も稀有であるが、こうしたことが可能となったのは、上述のようなアメリカによる支援に加え、バティスタ政権の残酷な抑圧に対する国民各層の反発と革命への期待が累積する中、政府軍の戦意喪失とその結果としての戦線離脱兵の続出という事態が寄与している。
 同時に、バティスタの最初の亡命先であったドミニカ共和国の独裁者トルヒーヨとは異なり、バティスタ自身、かつては下士官の反乱から政界へ進出した一種の革命家でもあり、変節した後もその体制内に革命的な要素が凍結されていたこともあると考えられる。
 一時はバティスタが政権内に取り込むことも目論んでいたカストロらの「運動」は、そうした凍結されていた革命の要素を解凍することによって、体制の外部のみならず、内部からも崩壊させることに成功したものとも言えたであろう。

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近代革命の社会力学(連載第246回)

2021-06-11 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(3)青年革命運動の形成
 バティスタ独裁時代のキューバは、貧困問題を抱えながらも、ラテンアメリカでは相対的に先進国であり、労働者の賃金も国際的に見て高水準にあった。そのうえ、バティスタはその政治的な出発点においては労働組合と近かったこともあり、労働運動からの革命的反作用は見られなかった。
 つまり、当時のキューバでは、経済的な下部構造の面から革命が生起する可能性は低い状況にあった。反面、長年の対米従属構造に対する民族主義的な反発はマグマのように鬱積していた。
 そうした民族主義的な覚醒は、さしあたり学生を中心とした青年知識層の間で高まりを見せた。その点、当時のキューバは相対的に豊かで高等教育制度も整備されていたことから、中産階級出自の学生を中心とした青年知識層が一つの社会階層として台頭していたのである。
 これは戦前からの傾向であり、バティスタが政界へ登場するきっかけとなった1933年の半革命でも、その成功要因として、バティスタら下士官の決起と連携した学生運動の存在があった。この時の学生運動は、ハバナ大学の学生によって立ち上げられた「大学生幹事会」(以下、幹事会)と名付けられた反体制組織であった。
 「幹事会」は半革命の成功に伴い、1933年に解散したが、キューバではハバナ大学を中心に学生運動が隆盛化し、戦後にかけて急進化する傾向にあった。そうした中、次世代の急進的な青年知識層が形成されてきていた。
 その中には、後に1959年革命の主役となるフェデル・カストロも含まれていた。「幹事会」が結成される一年前1926年生まれのカストロは豊かな砂糖農場主の下に生まれ、中産というよりも当時のキューバにおいては上流に属する階級の出自であったが、やはりハバナ大学の急進的な学生文化の中で成長した人物であった。
 1947年に急進的な民族主義政党として正統党が結党されると、まだ学生だったカストロは党の青年組織のリーダーとして台頭していく。ただ、正統党は反帝国主義と直接民主主主義を標榜したが、一方で市場経済と私有財産の擁護を掲げる点で社会主義とは一線を画していた。
 ちなみにカストロは学生時代にマルクス主義に傾倒していたが、当時のキューバにおける主要な共産主義政党であった1925年創設の人民社会主義者党はいささか古い世代の党であり、カストロは同党とは一線を画していた。
 正統党は着実に支持を伸ばし、1952年の議会選挙には弁護士となっていたカストロも立候補していたが、同時に予定されていた大統領選挙に立候補中のバティスタがクーデターで政権を奪取すると、議会選挙も無効とされ、選挙期間中にバティスタから要職を約束されていたカストロの当選可能性も潰えた。
 カストロは裁判所に提訴するも棄却されたため、合法的な方法での闘争を断念して、新たに「運動」と簡明に名付けられた武装革命運動の組織化を開始した。これは政党ではなく、地下活動を主体とする運動体であり、指導部はカストロら青年知識層であるが、メンバーは貧困者からも徴募したにわか仕立てのゲリラ組織であった。
 1952年中に早くも1000人以上のメンバーを結集することに成功した「運動」は、バティスタ政権の打倒を直接的な目標に、冒険的な武装革命に乗り出していくことになるが、政権発足直後の早まった武装蜂起計画は失敗を予感させるものであった。

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近代革命の社会力学(連載第245回)

2021-06-09 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(2)バティスタ独裁への軌跡
 1959年のキューバ革命は、広く見れば、20世紀初頭以降、形式的な「独立」の中での対米従属状況に対する反作用として生じたものであるが、直接的には1950年代のキューバを支配したバティスタ独裁体制に対する青年知識層の反発が動因となっている。
 政権の主であるフルヘンシオ・バティスタという人物は、多くの矛盾を含むこの時代のキューバを象徴する興味深い独裁者であり、彼の軌跡自体が59年革命に至るキューバの社会力学を描出している。
 伝統的なキューバ支配層であるスペイン系白人ではなく、アフリカ系のほか、中国系、先住民系をも含む混血系出自であったバティスタは一兵卒からたたき上げた下士官であり、本来なら政治権力とは無縁のはずであった。そのような彼が一躍政界へ登場したのは、1933年の政変に際してである。
 当時、軍曹だったバティスタは、同志の下士官グループをまとめ、世界恐慌後の経済的・社会的混乱に対処できない当時の白人寡頭政権に対して決起し、学生運動とも連携して政権を打倒した。この1933年の政変は下士官と学生の連携による半革命という性格を持っており、この頃のバティスタには軍人革命家といった風情があった。
 この政変を契機に多くの幹部士官がパージされた軍内でバティスタは参謀総長への下克上的な昇格を果たし、やがては軍部を基盤に大統領を傀儡化するほどの実力者となった。
 この時代のバティスタは共産党(人民社会主義者党)とも連携しており、当時のキューバ政治においては左派座標に位置すると見られていた。実際、バティスタも寄与した1940年の新憲法は、それまでのキューバ史上最も進歩的な内容を備えていた。新憲法の下、彼は1940年の大統領選に勝利し、自ら大統領に就任した。
 しかし、1944年に任期満了で退任した後は一時勢力を失い、アメリカへ事実上亡命していたところ、1948年の上院議員選挙に不在のまま当選、50年に帰国を果たし、52年の大統領選挙に再立候補した。
 しかし、支持が伸び悩む中、業を煮やしたバティスタは、投票日の前に軍の支持を得てクーデターを断行し、自ら大統領に就任して再び政権を手にしたのである。これは革命とは言い難いまさにクーデターそのものであったが、意外にも、アメリカはこのクーデターをあっさり承認したのであった。
 当時のアメリカは、キューバにおける腐敗や貧困といった社会不安要素が共産主義革命を惹起することを懸念しており、クーデターを支持し、日和見主義のバティスタに親米政権を託したほうが国益上得策と打算していた形跡がある。
 このようにアメリカの承認と支持を唯一の政権の正当化根拠とした第二回のバティスタ政権はアメリカの計算どおり、強固な親米・反共政権となったのである。日和見主義の典型とも言える変節であった。
 その結果、バティスタ政権下のキューバはアメリカ資本の草刈り場となったばかりか、アメリカ滞在時代にコネクションを形成し、クーデターの準備金も提供したとされるマフィアの利権場ともなり、表裏両面でアメリカ経済への従属が進行した。
 政治的にも、過去の共産党との連携から一転して、共産主義を排除するべく、検閲を強化したほか、その名も共産主義活動抑圧局なる秘密警察を設置し、残酷な拷問や超法規的処刑などの方法で反体制派を弾圧した。この時期のバティスタ政権によって殺害された犠牲者は最大推計で2万人に上るともされる。
 このようにある種の革命家から反革命独裁者への変節を遂げたバティスタは、同時代のラテンアメリカにしばしば見られた同型の軍事独裁者とは毛色を異にしていた。その体制には、凍結された状態で革命が内包されていたとも言えるのである。

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近代革命の社会力学(連載第244回)

2021-06-07 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(1)概観
 南米ボリビアで「長い革命」が進行中の1950年代末、中米カリブ海域のキューバで、アメリカ地域全体の地政学的状況を大きく変える社会主義革命が勃発した。この革命は、その後の展開から、米ソ間の緊張を高め、核戦争の現実的危険をも惹起した。
 中米の楽園的島国キューバでこのような事象が生じたのは、キューバの置かれた特殊性によるところが大きい。キューバは19世紀末から20世紀初頭にかけて、革命としての性格も帯びた対スペイン独立戦争を戦ったものの、自力では勝利できず、当時新興の帝国主義国として台頭していたアメリカの覇権に乗せられる形で独立を果たした。
 しかし、この「独立」はまさに括弧付きのもので、以後、内外情勢に応じた若干の変遷はありながらも、二つの世界大戦を越えてアメリカの事実上の保護国として対米従属状況に置かれた。
 特に、1930年代から頭角を現し、40年代に大統領を務めた後、1952年にクーデターで政権に復帰したフルヘンシオ・バティスタはアメリカの忠実な代理人として奉仕した。
 その間、アメリカは1903年以来、租借するグアンタナモ基地を軍事拠点としつつ、国策会社ユナイテッド・フルーツ社を通じた砂糖やバナナなどの栽培プランテーションを通じた従属支配を強めていった。
 そうした中、1950年代、民族主義の傾向を強めた学生を含む中産階級青年のグループ(7月26日運動)が急進化し、バティスタ体制打倒の革命運動に乗り出していく。当初は冒険主義的な武装革命に出たが失敗し、政権の残酷な報復を受けた。
 しかし、運動は壊滅することなく、青年グループはより戦略的に洗練された武装革命を再起動し、1959年にこれを成功させた。これが通称「キューバ革命」であるが、通称にあって「社会主義」を冠しないのは、革命直後には社会主義的なイデオロギーが希薄で、反独裁と対米自立化を目指す民族主義革命と見えたからである。
 たしかに、革命後しばらくの間、革命政権は社会主義を明言せず、アメリカとの関係維持を模索していたが、指導部のフィデルとラウルのカストロ兄弟や兄弟の盟友として参加していたアルゼンチン出身のエルネスト(通称チェ)・ゲバラらはマルクス主義に傾倒しており、革命運動が全体として社会主義に傾斜していたことは間違いなかった。
 その点、アメリカは当初から懐疑的であり、革命政権との関係構築に消極的であることが判明すると、政権はアメリカ系外資の接収・国有化を急ぎ、社会主義的な政策を展開、1961年には社会主義宣言を発した。
 その進路はボリビアの革命とは異なり、ソ連への接近とソ連型共産党支配国家の構築という方向へ急進していったことから、対米関係も急速に悪化、アメリカによるキューバ侵攻・転覆作戦とその過程での米ソ対立が核戦争危機を招くこととなる。結果、このカリブ海の島国での革命が戦後史に残る国際的事変ともなった。
 それだけに、キューバ社会主義革命の余波は大きく、程度差はあれ、カリブ海域を含めた中南米全域に同種の革命運動を拡散することになるが、キューバと同種の革命が成功した国はこれまで出現しなかったという意味で、キューバ社会主義革命は特殊キューバ的事象だったとも言える。
 実際、キューバでは社会主義革命の効果は冷戦を越えて今日まで持続し、2016年の最高指導者フィデル・カストロの死去後も共産党支配体制は揺るがず、中国やベトナムとともに、ソ連の消滅後を生き延びた数少ない旧ソ連型体制の一つとなっているところである。

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比較:影の警察国家(連載第42回)

2021-06-05 | 〆比較:影の警察国家

Ⅲ フランス―中央集権型警察国家

1‐1‐2:パリ警視庁の特殊性

 パリ警視庁はフランス革命中の1800年に設置された独自の歴史を持つ首都警察機関であり、内務省が設置され、国家警察の中央集権化が図られても独自の地位を維持したが、集権国家を強化した第五共和政期の1966年の制度改正で国家警察の一翼に編入された。
 それにもかかわらず、パリ警視庁は国家警察本部(DGPN)の管理下には属さず、独自の管理機構を擁する内務省の外局的な地位を保持している。その点で、首都の治安維持という点では同様の役割を果たすロンドンの首都警察や東京の警視庁が基本的には地方警察であるのとは異なる構制である。
 パリ警視庁の伝統的な管轄区域はパリ市であるが、2009年からはパリ市の郊外域を形成する三つの県にも拡大されるなど、管轄区域を広げ、グランパリと呼ばれるパリ首都圏を包括する警察としての性格を強めている。
 パリ警視庁は上述の通り、独自の管理機構を備えており、DGPNと並行的に、司法警察や地域警察、警備・交通警察など機能別の指令部(Direction)が置かれている。
 DGPNと異なる点として、パリ警視庁には公安警察部局として、パリ警視庁諜報指令部(Direction du Renseignement de la préfecture de police de Paris:DR-PP)が置かれていることである。対して、DGPNの旧公安警察部局は、他機関との合併により、後に見る国内保安本部に再編されている。
 また、パリ警視庁は、パレスチナ武装組織がミュンヘン五輪選手村を襲撃し、イスラエルの選手多数を殺害した1972年のミュンヘン五輪テロ事件を契機に、独自の対テロ特殊部隊として、奇襲対応団(Brigade anticommando)を導入するなど、早くから武装化を進めてきた。
 今日では、前回見たように、DGPNの国家警察介入隊の下に、DGPNの対テロ特殊部隊RAIDとの統合運用が行われるなど、治安有事に際しての武装警察部隊の運用を通じたDGPNとの統合化が進んでいるところである。

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比較:影の警察国家(連載第41回)

2021-06-04 | 〆比較:影の警察国家

Ⅲ フランス―中央集権型警察国家

1‐1‐1:国家警察の二元構造

 フランスの二重的集権警察制度における一本目の柱となるのは都市域を管轄する文民警察としての国家警察であるが、複雑なことに、内務省が所管するこの国家警察そのものが二元構造を成している。
 すなわち、内務省内の警察管理部局である国家警察本部(Direction générale de la Police national:DGPN)と首都パリを管轄するパリ警視庁(Préfecture de Police de Paris)である。パリ警視庁は 内務省内にありながら、DGPNとは別立てで、独自の管理組織を持つ外局的な位置づけとなる。
 このように、パリを別格として、その他の都市域では原則としてDGPNの各内部部局がそれぞれ地域分局を擁するという縦割り型の極めて官僚的な組織構制を採ることを特徴とする。
 DGPNの内部部局は、刑事警察や地域警察、機動警察、国境警察などの機能別に中央指令部(Direction centrale)が設置される基本構制で多岐に分かれているが、特殊部門として対テロ作戦に従事する重武装の探索・支援・介入・抑止隊(Recherche, Assistance, Intervention, Dissuasion:RAID)も擁する。
 RAIDは21世紀の「テロとの戦い」テーゼが焦点となる以前の1985年に当時のミッテラン社会党政権下で新設されたものであり、文民警察の重武装化の先駆けを成す組織である。
 武装文民警察としてより歴史が古いのは1944年創設の共和国保安機動隊(Compagnie républicaine de sécurité:CRS)であるが、CRSの主要任務は暴動鎮圧や街頭デモの規制であり、しばしばその抑圧的な過剰警備行動が批判されてきた。
 これら内部部局/部隊がそれぞれ地域分局/分駐隊を擁して各地域に展開する構制は非効率にも思えるが、ある意味では、集権警察内部で集権性を緩和する機能別の限定的な分権化がなされているとも言えるところである。
 ところで、DGPNの縦割り構制には例外があり、南仏最大都市マルセイユを含むブーシュ‐デュ‐ローヌ県だけは、統合的なブーシュ‐デュ‐ローヌ警察本部(Préfecture de police des Bouches-du-Rhône)が設置されている。ただし、パリ警視庁とは根本的に異なり、独自の地位を持たず、あくまでもDGPN管轄下の地域分局の位置づけである。
 このブーシュ‐デュ‐ローヌ県警察本部が設置されたのは2012年と比較的新しいが、このようにマルセイユとその周辺域にのみ縦割りを廃した統合警察本部が置かれたのは、麻薬関連事犯の多発など、治安が芳しくないマルセイユとその周辺地域の警察的統制を強めるためとされている。
 現時点で、こうした統合的警察本部は一庁にとどまるが、警察業務の効率性を重視して、同様の統合化が今後なされる可能性はあり、そうなると、上述のとおり機能的に分権化された集権警察の集権性が高まり、影の警察国家を助長する可能性もあるだろう。
 また、近時はテロ等の治安有事に際しては、パリ警視庁の介入部隊とも併せて統合運用する国家警察介入隊(Force d'intervention de la Police nationale)の下に統合されてきており、国家警察の二元構造を緩和し、統一する動きも見られる。

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