ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

比較:影の警察国家(連載第19回)

2020-10-31 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

2‐3:自治体警察の強権的法執行

 アメリカの自治体警察の現代的な傾向として、しばしば被疑者を殺傷するような強権的法執行の度を強めていることが挙げられる。このような傾向性を生み出す一つの要因として、前回見たSWATチームの全米的な配備に象徴される警察の準軍事化がある。
 これは要するに、犯行現場、より広くは法執行の現場を戦場に見立てて、警察官が戦闘と同等の装備と方法で職権行使することを意味するから、致死的実力行使が容易に正当化されやすいが、SWATチームの兼任要員が多いことで、通常の法執行でも致死的実力行使が多発しやすくなるということであった。
 しかし、元来、アメリカでは裁判官による令状に基づかない逮捕が広範に認められており、重罪の場合はほぼ無令状で逮捕可能とされるため、警察官は被疑者に対して現行犯並みに力で制圧し、拘束することが通例であることから、過剰な実力行使が多発しやすい環境にある。
 もっとも、ひとたび生きたまま逮捕した後は、アメリカ憲法修正第14条のいわゆるデュー・プロセス条項により、比較的厳格な司法審査が予定されるが、そもそも被疑者が法執行の現場で射殺されたり、制圧中に窒息死させられたりすれば、後の祭りである。
 こうした元来から存在する法の欠陥による強権的な法執行が、さらに1990年代に制定された連邦レベルの厳罰化法によって助長されてきた側面もある。それは1994年のクリントン政権時代に制定された「暴力犯罪統制及び法執行法」(Violent Crime Control and Law Enforcement Act)と呼ばれる包括法である。
 同法は、クリントン政権の厳罰化政策に基づき、当時のジョー・バイデン上院議員(2021年1月より合衆国大統領)が中心となり、全米的な警察のロビー団体である全国警察組織協会とも連携しながら制定した新法である。そうした制定の経緯からしても、警察組織肝入りの新法であった。
 内容的には、暴力犯罪に対する様々な施策を包括したものであるが、中でも警察官の大増員による犯罪取締り体制の強化は大きな柱であり、結果として警察組織の肥大化を招いた。
 警察組織の肥大化は比較的軽罪での逮捕・投獄も促進し、かつ上掲新法が併せて掲げた刑務所の増設策とも相まって、刑務所人口の右肩上がりの増大を招き、アメリカをして世界最大の「刑務所群島」とする要因ともなった。
 また、自治体警察の強権的法執行は、単に実力行使の過剰さのみならず、人種偏見により、アフリカ系(黒人)の被疑者に対して乱発されやすい傾向も増している。結果として、アフリカ系の被疑者が警察官によって殺傷されるケースが跡を絶たない。
 このような傾向は、近年、Black Lives Matter(黒人の命は重要だ)運動を誘発し、全米で抗議デモが発生する事態を招いているが、奴隷制や人種隔離政策時代からの歴史的な人種差別慣行が、上掲のような厳罰化法制に助長されつつ、法執行の現場に投影されたものであるため、根本的な解決は困難な状況である。

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近代革命の社会力学(連載第162回)

2020-10-27 | 〆近代革命の社会力学

中間総括Ⅰ:第一次世界大戦と革命

 近代の始まりを成す近世の諸革命は限界をさらしていた中世の封建的な社会を変革する動きであったが、18世紀におけるアメリカ独立革命及びフランス革命という二つの大革命を契機に、立憲主義と共和主義という二つの革命的な理念が誕生し、近代革命の大きな潮流を作り出した。それは諸国をブルジョワ資本主義の道へ向かわせた。
 そうした中、20世紀初頭に勃発した第一次世界大戦は、欧州から米州にまたがる当時の主要な大国が、その植民地をも巻き込む形で国力を総動員して交戦するという人類史上初の国際的な大戦争であった。それだけに、戦勝側・敗戦側いずれにおいても人的・物的損耗は激しかった。そのことが、いくつもの大国における革命を誘発する直接的な動因契機となった。
 まずは、形の上で戦勝国側にいたロシア帝国である。ロシア革命を起点に、敗戦側のドイツ、オーストリア‐ハンガリーへと革命が波及していったことは、すでに見たとおりである。これらの帝政国家で帝政が打倒された革命は、第一次世界大戦なくしてはあり得なかったと言って過言でなかっただろう。
 大戦では、戦場に動員された貧農や労働者階級の兵士が最も犠牲になっており、兵士の厭戦は体制への怨嗟につながった。幸運にも生きて復員した兵士らには生活難が待ち受けており、こうして形成された不満を持つ兵士階級が革命において重要な担い手となったのである。
 さらに、総力戦は、ロシア、ドイツ、オーストリア‐ハンガリーなどの後発・新興資本主義国の経済には耐え難い打撃となり、このことは革命への物質的な動因を形成した。反面、先発資本主義国である英・仏などの大国では、経済が持ちこたえたため、大戦が革命を誘発することはなかったとも言える。
 こうした意味では、大戦中、革命を志向する社会主義勢力内部で、ボリシェヴィキのレーニンをはじめ、間もなく共産党の結成に動いていく急進革命派が反戦論を強力に展開し、保守勢力とともに参戦派に与した穏健派と対峙していたことは、皮肉であった。かれらの主唱どおりに大戦が勃発せず、あるいは大戦が短期で終結していれば、かれらが志向した革命もまた不発に終わっただろうからである。
 第一次世界大戦はまた、アジア・アフリカ方面でも間接的に革命を誘発した。エジプト独立‐立憲革命やトルコ共和革命はそうした一例である。エジプトの革命は、当時エジプトを実質的に支配していた英国の大戦後の斜陽化を背景としていた点では、大戦の直接的な余波の一つに数えてよいかもしれない。
 600年余にも及んだオスマン帝国を打倒したトルコの革命も、大戦で帝政ドイツと並び、最大級の敗者となったオスマン帝国の体制が持ちこたえられなくなり、一定の時間を置いて誘発された革命であったと言える。
 こうして、直接か間接かの違いはあれ、第一次世界大戦は世界の主要国において、今日の世界秩序にまでその効果が及ぶ大規模な革命を誘発し、その衝撃波はその後、20世紀を通じて世界各地で革命が継起する流れ―革命の20世紀―を作り出す画期点となった。
 こうした第一次世界大戦を契機とする諸革命の中でも、ロシア十月革命の影響は甚大であり、この革命の過程で誕生した共産党という新しい政党が、その世界センターであるコミンテルンを通じてアジア・アメリカ大陸を含む世界に広がり、各国で社会主義革命運動の中核を担うようになった。
 ただ、第一次世界大戦を契機とする革命の潮流はトルコ革命を最終としてひとまず一段落し、以後、第二次世界大戦までの戦間期にはさほど大きな革命事象は見られず、1930年代にいくつかの諸国で挫折例を含む革命が散発するにとどまり、次の大きな革命の流れは第二次大戦後、1949年の中国大陸革命以降まで持ち越しとなる。

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近代革命の社会力学(連載第161回)

2020-10-26 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ三 イラン・ギーラーン革命

(4)「モスクワの裏切り」から崩壊へ
 ギーラーン革命の最終的な挫折の契機となったのは、革命政権の後ろ盾であったロシア政府の外交方針の転換、言わば「モスクワの裏切り」であった。そして、その裏切りの決定的な契機ともなったのが、ギーラーン革命と同時進行的に発生したテヘランのカージャール朝内部での軍事クーデターである。
 1921年2月、カージャール朝のコサック旅団を率いるレザー・ハーンが、イギリスの支援の下にクーデターを起こし、初めは戦争大臣として、続いて首相としてカージャール朝政府の実権を掌握した。レザーは支援を受けたイギリスよりもロシアに歩み寄り、友好善隣条約の締結を急いだ。
 イラン系少数民族の貴族出自のレザーは心情的に親ボリシェヴィキではなかったが、イギリスとロシアの競争的侵出という事態の下、イランの独立性を回復するうえで、ロシアとの戦略的融和を望んだのである。
 こうした新政権の姿勢により、ロシアもさしあたりレザーが率いるカージャール朝政府を承認し、イランから赤軍を撤退させたうえ、ギーラーン革命政府に対しては解散を求めたのである。これに対して、ヘイダルが調停者として実権を持っていたギーラーン革命政府は抵抗を見せる。
 しかし、一度は政権に呼び戻されたミールザーが、またも共産党が綱領を修正し、共産党主体のソヴィエト政権樹立の方針を掲げたことに対し、9月にクーデター(未遂)を起こして再び政権を離脱、「調停」政権は失敗していた。
 そうした中、前回見たように、革命政府は独力でテヘラン進軍を企てるが、カージャール朝軍によって撃退された。1921年10月以降、レザーはギーラーン革命政府に対する掃討作戦を開始する。この作戦はモスクワの黙認または示唆の下に行われたものであったため、ギーラーン革命政府の命運は尽きたも同然であった。1921年11月、革命政府首府ラシュトが陥落し、ギーラーン革命は挫折したのである。
 ミールザーは山中に逃亡・潜伏中に凍死したが、遺体は反革命派の地主の手で斬首され、晒された後、レザーのもとへ首級として持ち込まれるという封建的な報復が行われた。ちなみに、ヘイダルは1921年9月のジャンギャリー派クーデタ―により逮捕され、処刑されたとされる。
 他方、スルタン‐ザーデやエフサーノッラーといったイラン共産党の残党は、レザー政権下で同党が禁止された後、ソ連に亡命し、活動していたが、いずれも30年代のスターリン時代に粛清されている。その他の残党は地下で活動し、カージャール朝を廃してレザーが建てたパフラヴィ―王朝下の1941年、トゥーデ党(人民党)の名で実質上復活している。
 ギーラーン革命における二大連合勢力のうち、ジャンギャリー運動の直接の継承はミールザーの死後、なされなかったが、1949年にトゥーデ党が非合法化された後、若き日に立憲革命に参加したこともあるベテラン政治家モハンマド・モサデクが結成したナショナリスト政党・イラン民族戦線に間接的な形で継承されたとも言える。

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比較:影の警察国家(連載第18回)

2020-10-25 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

2‐2:自治体警察の準軍事化

 アメリカの自治体警察は、旧宗主国イギリスの隣保制と呼ばれる地域の自警的な治安組織に沿革を持つとされるものの、事実上の無法状態の中、入植者団による開拓により発展していったアメリカでは、最初期の保安官制度の時代から法執行者は武装することが常であった。
 近代的な自治体警察の時代に入っても、武装警察としての本質は変わらなかったが、1960年代後半以降になると、自治体警察が単純な武装を越えて、軍隊に近い装備を備える傾向を見せ始めた。その嚆矢となったのは、1967年、ロサンゼルス市警察局が導入した特殊武装攻撃班(Special Weapons Attack Team)であった。
 これは当時、武装した犯人による重大犯罪が多発していたロサンゼルス市で、通常の武装レベルでは対応できない事案に対し、重武装した警官チームが対処し、現場での犯人殺傷も辞さない攻撃的な法執行を敢行する目的から創設された新しいチームであった。
 そのため、ロス市警では、イギリス陸軍特殊部隊やフランスの軍事警察(警察軍)治安介入部隊など、海外の軍特殊部隊に視察団を送り、その戦術を学び取った。このように、ロス市警特殊武装攻撃班は、警察の枠を超えた準軍事的な特殊部隊としての機能を志向していたのである。言わば、犯行現場を戦場に見立て、戦闘の手法で法執行に当たるコンセプトである。
 このロス市警の取り組みは全米の自治体警察で注目を集め、1970年代から80年代にかけて、同様に重大犯罪の増加に悩む自治体警察が特殊班を創設していった。現在では「特殊武装戦術」(Special Weapons And Tactics:SWAT)という統一名称が与えられ、全米で1000隊を越えるSWATチームが活動している。
 こうしたSWATチームの普及と定着は、全米の自治体警察が軍隊に準じた武力を備えるに至ったことを意味している。実際、SWATチームは自動小銃やカービン銃、機関銃、狙撃銃などの兵器的重火器を装備するほか、装甲車まで配備する場合もあり、要員の兵装を含め、準軍事化されている。
 SWATチーム本来の目的は、如上のとおり、とりわけ銃武装犯人の制圧であるが、通常の制服警官隊とは比較にならない攻撃能力の高さから、麻薬事犯などへの対処にも拡大される傾向にあり、全米で年間のべ5万回を越える出動回数を記録するようになっている。
 このようなSWATチームの活動拡大は、一部大都市の警察を除けば、人員的に小規模な組織が大半を占めるアメリカの自治体警察に強大な武力を与えることにより、総体的には警察国家化を促進している。
 一方で、多くの小規模自治体警察では専従SWATチームを組めず、一般警察官の兼任要員によるチーム構成となっていることで、こうした警察の準軍事化傾向が一般警察官の行動にも影響し、後に見るように、被疑者を殺傷する強権的な法執行の多発化を招いていると考えられる。

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近代革命の社会力学(連載第160回)

2020-10-23 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ三 イラン・ギーラーン革命

(3)革命政権の内紛と混迷
 ギーラーン革命で成立した「イラン・ソヴィエト社会主義共和国」における不安定な連合体制は、結局のところ、後ろ盾のボリシェヴィキの東方外交戦略と連動しつつ、民族主義勢力と共産党の間のシーソーゲームのような権力闘争によって、二転三転を繰り返すことになる。
 最初の転回は、政権樹立から約一か月で、政府首班のミールザー人民会議議長自身が政権を離脱したことである。民族主義派の彼は、テヘランのカージャール朝民族派との連携を目指していたが、これに反対しつつ、急進的な農地改革を求める連立相手の共産党及び同党と結ぶジャンギャリー左派がミールザーを排除するクーデターを企てていることがわかったためである。
 ミールザーが離脱した後、ロシアのボリシェヴィキの支援を受けたイラン共産党がクーデターを起こし、新政権を樹立した。ミールザー政権の陸海軍総司令官だったエフサーノッラーが率いるこの新政権は、ボリシェヴィキの傀儡に近いものであり、ボリシェヴィキの綱領に沿って、伝統的なバザールの禁止や企業国有化、反革命派とみなされた地主や商人の大量処刑を進めた。
 こうした強権的恐怖政治に加え、文化的な脱イスラーム化も急進的に進めるエフサーノッラー政権には、市民の反発が強まった。折から、モスクワのボリシェヴィキの間でも、対英融和のため、イランを含む東方での勢力拡大を自重しようとする考えが有力となり、イランの急進的な革命を支援をし続けることへの懐疑が生じていた。
 そうした中、ロシアのレーニン政権はイラン共産党への支援方針を変更し、共産党主導ではなく、民族主義ブルジョワジーとの連合路線を指示した。これを受けて、共産党はエフサーノッラーを党中央委員会議長から解任し、彼の党内敵手であったヘイダル・ハーンに交代させたのである。
 ヘイダル党指導部は、1921年1月、革命テーゼを修正し、ギーラーン革命をもって「プロレタリアートから中小ブルジョワジーまでを糾合した反カージャール朝闘争」と階級連合的に規定する新テーゼを公表した。これにより、革命当初の振り出しに戻ったとも言える。
 一方で、ヘイダル党指導部とレーニン政権との間にも亀裂が生じていた。対英融和とカージャール朝容認に動いていたレーニン政権としては、ギーラーン革命政権がカージャール朝民族派と連合すること―ミールザーの路線に帰一する―を要請していたが、ヘイダル党指導部はこれを拒否したからである。
 実際、レーニン政権は、1921年2月、カージャール朝との間で友好条約を、翌月には英ソ通商条約を締結して、カージャール朝及びその後ろ盾のイギリスとの融和に舵を切っていた。
 このように、後ろ盾のロシアの外交方針が急転回する中、ヘイダルは5月、再びジャンギャリーとの連合の再構築に動き、ミールザーを革命委員会議長として呼び戻した。
 しかし、一度分裂したジャンギャリー右派と共産党の関係修復は困難であり、ミールザーの復帰も一時的であった。そうした中、革命政府は独力でテヘランへ進軍する動きを見せるも、この無謀な作戦はかえって藪蛇となって、政府軍の掃討作戦を招いただけであった。

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近代革命の社会力学(連載第159回)

2020-10-21 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ三 イラン・ギーラーン革命

(2)民族主義運動と共産党の連合
 前回概観したように、イランのギーラーン革命は、民族主義勢力と共産党の連合によって成立したのであるが、このような不安定な連合が形成されるに当たっては、かなり錯綜した力学が働いている。
 まず、民族主義勢力の中心にあったジャンギャリー運動は先行する立憲革命に発祥し、ギーラーン人商人に出自したミールザー・クーチェク・ハーンによって率いられていた。ミールザーはカリスマ性のある指導者で、革命的な求心力を持っていた。
 これに目を付けたのが、ロシアのボリシェヴィキであった。革命ロシアにとっても、帝政ロシアがいったんは手を付けていたイランを押さえ、ここに衛星国家を樹立することは革命防衛上も有利だったからである。そこで、ボリシェヴィキは、ジャンギャリーを支援することとした。
 他方、武力を欠くジャンギャリー側にとっても、ロシア赤軍の支援を得られるメリットは大きかったから、ここに両者の利害は一致し、1920年5月以降、両者共同での軍事行動が開始された。この作戦は成功裏に運び、まずはギーラーン駐留英軍を駆逐したのに続き、6月にはギーラーンの首府ラシュトを制圧し、革命政府の樹立が宣言された。
 これとは別筋の流れとして、イラン共産党の創立と台頭があった。イラン共産党は、ギーラーン革命前夜の1920年6月、アルメニア系イラン人であるアヴェティス・スルタン‐ザーデらを中心に結党された新政党であり、当然ながらボリシェヴィキの強い影響下にあり、ロシア共産党の衛星政党的な立場であった。
 ギーラーン革命最初の革命政府は、ジャンギャリー運動と共産党の連立政権の形態で成立した。実際、首相に相当する人民委員会議議長(兼軍事委員)にミールザーが就き、閣僚級の陸海軍総司令官に共産党からエフサーノッラー・ハーン・ドゥーストダールが就くという形で、両者は相乗りしている。
 この連立政府はボリシェヴィキの支援の下に成立したこともあり、「ソヴィエト社会主義共和国」を名乗り、政府機構も、ボリシェヴィキ流に人民委員会議という合議体構制を採っていた。
 とはいえ、ジャンギャリー運動の理念は列強支配を排する民族独立にあり、その支持基盤はミールザー自身も出自した商業ブルジョワ階級であり、労働者階級や農民階級ではなかった。政策的にも、農地分配のような革命的土地改革には否定的であった。
 他方、イラン共産党はボリシェヴィキにならった労農階級政党であったが、党内部に分裂を抱えていた。当初の指導者スルタン‐ザーデはミールザーの民族主義勢力との連合に否定的であったが、彼の党内政敵であったヘイダル・ハーン・アム‐ウーグリーは民族主義勢力との連合を重視し、対立していた。
 これに伴い、ジャンギャリー運動内部にも、反共的なミールザー派に対し、共産党との合流を志向する左派が形成され、共産党をはさんで股裂きの状態となっており、こちらにも亀裂が生じてかけていた。

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近代革命の社会力学(連載第158回)

2020-10-19 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ三 イラン・ギーラーン革命

(1)概観
 ロシア十月革命の直接的な余波は、カスピ海をはさんで近接するイランにも及んだ。当時のカージャール朝は、立憲革命がイギリスが黙認する帝政ロシア軍の介入により挫折して以来、イギリス・ロシア両大国が勢力を分け合う形で、半植民地状態に置かれていた。
 そうした中で、立憲革命の残党勢力は、北部のカスピ海沿岸ギーラーン地方で独自のパルチザン運動に形を変えて活動していた。ギーラーンは元来、イラン系民族でも独自の言語・文化を持つギーラーン人の居住地域であり、伝統的に自治の気風が強かったところである。
 このパルチザン運動は森林(ジャンギャル)の多い同州の地理にちなみ、「ジャンギャリー(森の住民)運動」と称されていた。その後、ロシア革命により帝政が倒れたことで、ロシアがイランから手を引くと、イギリスの一人勝ちとなり、第一次世界大戦後、1919年8月の条約に基づき、イギリスの保護国化が確定した。
 この動きに対抗する形で、1920年5月、ジャンギャリー運動が、新設の共産党と連合して革命的に蜂起し、同年6月、イギリス軍を駆逐してギーラーンにカージャール朝中央政府から独立した共和国を建てた。
 このギーラーン革命に当たっては、ロシアのボリシェヴィキの軍事的な支援介入があり、成立した共和国は「ペルシャ・ソヴィエト社会主義共和国」を名乗った。共和国の政策の展開もボリシェヴィキの綱領に沿っており、革命ロシアの衛星国に近いものであった。
 そうした点では、ボリシェヴィキによる革命の輸出政策により、中央アジア各地に出現したソヴィエト革命政権と類似したものであったが、それらのほとんどがやがてソ連に吸収されていったのと異なり、ギーラーンのソヴィエト共和国は一年以上持ちこたえ、最終的にソ連への吸収ではなく、革命ロシアに裏切られる形で崩壊した点に違いがある。
 イランの近代革命史の中では、20世紀初頭の立憲革命に続く社会主義革命の段階に位置付けることができるが、「イラン・ソヴィエト」の標榜にもかかわらず、首都テヘランに波及させることができず、地方的な革命に終始したため、全国的な革命に進展することはなかった。
 大国による植民地化の危機の中で発生した点で類似する隣国トルコの共和革命との相違として、民族主義勢力と共産党が連合して革命的に蜂起し、短期間ながら連合政府を形成したことが挙げられる。しかし、支持基盤とイデオロギーに溝のある革命的連合は持続せず、内紛・クーデターが相次いだことも、崩壊を早める要因となった。
 しかし、いったんはギーラーン革命の鎮圧に成功したカージャール朝にとっても崩壊を早める契機となり、1921年のレザー・ハーンによる軍事クーデターを経て、25年にはレザー自らが国王に即位し、パフラヴィ―朝に取って代えられることになった。

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比較:影の警察国家(連載第17回)

2020-10-18 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

2‐1:自治体警察の構制

 アメリカでは、現代でこそ、前回まで見てきたような連邦警察集合体が時代とともに変化しつつ増強されていき、「テロとの戦い」テーゼの御旗の下に、さらに権限を強化し、影の警察国家化の中核を担うようになっているが、伝統的に警察国家を忌避するアメリカの治安は、自治体が担うことが建前であった。
 このような自治体治安組織は元来、旧宗主国イギリスから入植者が持ち込んだものであるが、多様な公職を選挙で選出する慣習が強いアメリカでは、各州の中間自治体である郡のレベルで、治安維持を任務とする郡保安官(County Sheriff)を選挙する制度が発達していった。
 郡保安官は実質的には警察署長に近く、実際の警察実務は配下の保安官代理(Deputy Sheriff)が担う。このような制度は、都市部で近代的な警察制度が創設されていった後も、郊外の郡部では今日まで存置されており、全米で3000人を越える郡保安官が活動している。
 他方、多くの都市では、近代的な警察制度が創設されている。ラスベガス大都市圏警察局(Las Vegas Metropolitan Police Department)のように、郡保安官事務所と市警察を統合しつつ、警察トップを保安官が務めるという折衷的な制度は、そうした保安官から近代警察への流れを象徴している。
 伝統的な保安官制度を維持している郡にあっても、ロサンゼルス郡保安官局(Los Angeles County Sheriff's Department)のように、2万人に近い職員を擁する大規模な組織もあり、今や事実上の郡警察として機能している。
 自治体警察の管理運営方式はまさに自治に委ねられているため、警察長を保安官のように選挙する方式から、合議体の警察委員会によるもの、単独の警察管理監を任命するものまで多様であるが、警察組織の大規模化に伴い、次第に警察管理監制へ遷移する傾向にある。
 こうした自治体警察制度の他にも、大都市では専門分野または機関ごとに様々な法執行機関が林立している点は、連邦レベルの相似形となっている。
 例えば、ニューヨーク市の場合、全米最大規模のニューヨーク市警察局(New York City Police Department:NYPD)の他に、市財務部の法執行部門として市保安官局(New York City Sheriff's Office)が置かれるという独特の構制であり、市保安官は市税の脱税を中心とする経済犯罪の取り締まりを主に担う財務警察として機能している。
 その他、ニューヨーク市では、環境保護部警察、衛生部警察、港湾委員会警察、ホームレス業務部警察のほか、交通公社、住宅公団、市立大学に至るまでの公的機関が独自の警察部門を擁するという形で、市独自の警察集合体を形成している状況である。
 こうした都市部の警察集合体と郡部の伝統的な保安官制度の総体が、アメリカにおける自治体治安組織網を形成し、連邦法の管轄外となる州法や自治体条例に基づく一般犯罪取締りの最前線を担っている。言わば、アメリカにおける分権型多重警察国家の下支えをしていることになる。

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近代革命の社会力学(連載第157回)

2020-10-16 | 〆近代革命の社会力学

二十一 トルコ共和革命

(6)共和体制の限界とその後
 トルコ共和革命によって創出された新生トルコの共和体制は、ケマルのカリスマ的権威に依存した世俗的な近代化という点に圧倒的な重心が置かれた反面、政治経済的な構造革命に関しては、不十分な点が多々残されたと言える。
 経済的には、オスマン帝国時代以来の地方首長アーガによる大土地所有制にメスを入れる農地改革が西部地域に偏り、ケマルの早世によって、さらに後手に回った。そもそも農民はトルコ共和革命の主体でなく、革命の支持者は軍人や都市エリート層が主力であり、総体としてブルジョワ革命の性格が強かった。
 そのため、殖産に関しても、民族資本の育成を通じた資本主義を基調としたが、1929年の大恐慌を契機に、ソ連型の計画経済が試行された。しかし、これは経済危機における暫定的な経済対策の性格が強く、ソ連型社会主義への恒久的な移行は回避された。
 政治的には、ケマル存命中は彼の権威主義独裁であり、与党として結党された共和人民党の翼賛的な一党支配体制であった。そのため、ブルジョワ保守政党を中心とした多党制を基調とする西欧型のブルジョワ民主主義が現れることもなかったのである。
 実際、ケマルが標語的に定めた六つの国是:共和主義・人民主義・世俗主義・改良主義・民族主義・国家主義の中に、民主主義の文字は見えない。また、階級闘争を否定する人民主義の教条から、労働者階級の凝集と労働者政党の育成も妨げられた。
 また、民族主義は「統一と進歩」政権時代の汎トルコ主義のような覇権主義な概念とは異なるが、トルコ人中心の国民国家の創設に力点を置いたことで、国内少数民族であるクルド人の権利が軽視される結果となり、後年、不満分子となったクルド人の強力な反体制活動を招くことになる。
 一方、ケマルが出自した軍部は革命の守護者、とりわけ世俗主義の護持者として強い政治的発言力を持ち、ケマルの没後も、クーデターを含む合法・非合法両様で政治に介入していく軍部後見体制が確立された。
 ただ、ケマルが1938年に早世すると、後継のイスメト・イノニュは軍人出身ながら、慎重な民主化を進め、複数政党制を容認した。その結果、第二次世界大戦後、共和人民党を離党した人々により、リベラルなブルジョワ政党として民主党が結党され、1950年には総選挙で圧勝、同党からジェラル・バヤル大統領が選出された。
 銀行員出身のバヤル自身、元はアンカラの大国民会議以来、ケマルの下で議員や経済相、首相も務めた革命の申し子の一人であったが、ケマル没後、イノニュ政権では冷遇されるようになっていた。
 バヤル民主党政権は、実権者のアドナン・メンデレス首相の下、共和人民党政権時代には脇役だった地方地主層を支持基盤としつつ、外資導入や経済自由化など、経済政策の転換を図った。しかし、国是である世俗主義の緩和に踏み込んだことで軍部の逆鱗に触れ、1960年、中堅将校らの軍事クーデターにより政権は崩壊した。
 これ以降の歴史は共和革命の範疇から外れるので、言及しないが、ケマルの如上六原則の中で、世俗主義は次第に弛緩し、イスラーム政党の伸長を招く一方、民主主義の欠如という限界は今日まで引き継がれていくこととなった。

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近代革命の社会力学(連載第156回)

2020-10-14 | 〆近代革命の社会力学

二十一 トルコ共和革命

(5)世俗的共和国の創出
 帝政を廃止した後、単一の新トルコ政府となった大国民会議は、引き続いて連合国との交渉に入り、1923年7月、セーヴル条約に代わる新たなローザンヌ条約を締結した。この新条約では、アナトリア・ルメリア権利擁護委員会が目指していた旧バルカン半島領土の回復は成らなかったが、アナトリア半島領土の保全と戦争賠償金の免除という成果を得た。
 この条約交渉の成功により、権威と名声を高めたケマルは、23年10月、大国民会議決議をもって初代大統領に就任し、新生トルコ共和国のトップに立った。さらに、翌年にはいったん存置されていたカリフ制も廃止、名実ともに世俗的共和制に移行した。
 オスマン帝国以前からのイスラーム的伝統であるカリフ制の廃止には反発もあったが、このようにケマルが議論のあったカリフ制廃止を急いだのは、600年以上も持続してきたオスマン帝国の体制を根底から覆し、新生トルコを近代的な世俗共和国として再編せんとするまさに革命的な意志の表れであった。
 実のところ、こうしたイスラーム世界における近代的な世俗共和制の試みには、先例があった。すなわち、民族的・文化的にも近い隣国アゼルバイジャンで1918年から20年にかけて存在した「アゼルバイジャン民主共和国」である。
 これはロシア革命を機に帝政ロシア版図から独立したアゼルバイジャン民族主義勢力が建てた時限的国家であり、政教分離や信教の自由、アメリカをはじめ多くの欧米諸国にも先駆けて女性参政権を保障したイスラーム圏初の社会実験の場であった。
 しかし、この国家は慣れない多党制を追求したために政情が安定せず、対外的にもアルメニアとの領土紛争に巻き込まれた末、ロシアのボリシェヴィキの革命輸出政策によって赤軍に侵攻され、最終的にはソ連に吸収・編入されていった。
 新生トルコは、イスラーム圏ではアゼルバイジャンに次ぐ世俗共和国の試みとなったが、それは着衣その他の文化的慣習に至るまで徹底した脱イスラーム化政策として追求された。永年の法体系であったシャリーア法の廃止、イスラーム神学校の閉鎖、アラビア文字に代わるラテン文字の導入なども断行され、それはある種の「文化大革命」であった。
 イスラーム圏にあってまさに歴史を覆す革命的な施策を断行するに当たっては、議会から「アタチュルク(父なるトルコ人)」の公式称号を得たケマルの父権的な権威がすべてであった。それは、ほとんど個人崇拝の域に達していた。
 とはいえ、当時のイスラーム圏を代表していたトルコで徹底した脱イスラーム化の世俗的共和革命が実現されたことのインパクトは大きかったが、その大きさのゆえに、当時の周辺イスラーム圏では同種の連続革命の余波は生じなかった。ただし、限定的な影響の波及は見られた。
 隣国イランでは1921年、18世紀末以来のカージャール朝に代わり、ケマルと同様に職業軍人出自の人レザー・ハーンがクーデターで政権を握ったが、彼は共和制移行ではなく、25年に自ら国王に即位し、新王朝パフラヴィー朝を興す道を選択した。
 もっとも、パフラヴィー朝は君主制の枠内で、列強の侵出を食い止めるとともに西欧近代化路線を追求したため、ある種の革命的な王朝ではあった。しかし、この路線は1979年、二代目国王モハンマド・レザー・シャーの時代に至り、反作用としてのイスラーム共和革命によって覆されることになる。
 さらに、イランの東隣アフガニスタンでは、イギリスの侵略を排除した時の国王アマーヌッラー・ハーンが1926年以降、トルコの例にならった世俗主義の改革策を断行したが、これは保守勢力の反発を招き、29年、イギリスの支援を受けた少数民族タジク人の反乱により王位を追われ、亡命した。アフガニスタンの共和革命も、1970年代まで持ち越しとなる。

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近代革命の社会力学(連載第155回)

2020-10-12 | 〆近代革命の社会力学

二十一 トルコ共和革命

(4)解放戦争から革命へ
 アンカラに創設された対抗権力の大国民会議が指導する解放戦争は、対アルメニアの東部戦線、対フランスの南部戦線、対ギリシャの西部戦線の三つの大戦線で戦われたが、このうち東部戦線と南部戦線は、1921年までに終結した。
 最大の難関は、対ギリシャの西部戦線であった。バルカン諸国の中では一足早い19世紀前半にオスマン帝国から独立を果たしていたギリシャは、大ギリシャ主義を掲げ、かつてギリシャ人の植民都市や王国のあったアナトリア半島にも侵出し、一種のギリシャ帝国を樹立せんとする野望をあらわにしていた。第一次世界大戦でのオスマン帝国の敗北は、その最大のチャンスと見ていたのだった。
 そのため、ギリシャは総力を挙げてオスマン帝国に敵対しており、西部戦線は一個の独立した戦争(希土戦争)の様相を呈していた。ギリシャ軍がアンカラ近郊まで迫ると、大国民会議を率いていたムスタファ・ケマルは全軍司令官として自ら指揮を執り、22年9月にはギリシャ軍をアナトリア半島から撃退することに成功した。
 この対ギリシャ戦争の勝利をもって、大国民会議の解放戦争はほぼ終結した。これに先立ち、大国民会議はソ連との間に友好条約(モスクワ条約)を締結し、ソ連と結ぶ姿勢を見せていたことも外交的な圧力となり、連合国側も態度を改め、大国民会議との間で新条約を締結し直す方針に転換した。
 ここに至り、アンカラ大国民会議は、国際社会により事実上新生トルコの公式な代表組織として承認されたことになる。そうなると、イスタンブールに残存する皇帝と帝国政府との二重性が改めて問われることになった。帝政は残したうえで、大国民会議を帝国の新たな議会として統合するという道もあり得たが、ケマルは、新条約の交渉を主導するうえでも、大国民会議が単独の政府となる道を選択した。
 1922年11月1日に行われたこの大国民会議決定は、しかし、スルタン(皇帝)を廃するが、カリフ(教主)は存続させるという妥協的な決定であった。これにより、メフメト6世は廃位され、亡命することとなったが、カリフ制は存置され、メフメト6世の従弟がカリフに就任するという複雑な決定がなされた。
 このように、ストレートに共和制移行がなされなかったのは、従来、オスマン皇帝が教主を兼ねるというスルタン=カリフ制によって統治されていたことに由来するもので、イスラーム世界特有の統治論による迂遠な革命プロセスが現れたのであった。
 この時点ではまだ新条約の内容も未定であり、国内ではオスマン家の君主を象徴的に残し、西欧の立憲君主制的な新体制を構築しようという意見や、中世以来のカリフ制を廃することへの保守派の抵抗も考慮されたことが、こうしたいささか中途半端な中間革命を導いたと考えられる。

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比較:影の警察国家(連載第16回)

2020-10-11 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

1‐6:その他の連邦警察機関

 アメリカ合衆国の連邦警察集合体に包含される警察機関として、これまでに見たもの以外にも、まだ多数の機関が配されているが、それらを大きく分ければ、特定の連邦庁舎・施設の警護を任務とする庁舎警察と、特定の法領域における法執行を任務とする領域警察の二系統がある。
 前者は警備警察、後者は刑事警察としての性格が強いが、いずれも、アメリカでは庁舎ごと、あるいは法領域ごとに警察機関を分配する分権化の志向性が強いために、細分化された警察機関が林立する結果となる。特殊アメリカ的な現象と言える。
 庁舎警察としては、合衆国議会警察、最高裁判所警察、ペンタゴン部隊防護庁、 FBI警察、合衆国造幣局警察、政府印刷局警察、連邦準備制度理事会警察、退役軍人省警察、スミソニアン協会警備局など多数ある。いずれも、それぞれの連邦庁舎・施設の警備及び庁舎内犯罪の捜査に特化した警察機関である。
 中でも、ペンタゴン部隊防護庁(Pentagon Force Protection Agency:PFPA)は、2001年の9.11事件で国防省庁舎が航空テロ攻撃の標的となったことを契機に、従来からのペンタゴン警察を増強し、それを包含する形で、国防総省とその関連施設全般の警備や捜査などを総合的に担う機関として、2002年に創設された新しい機関である。
 いささか奇妙な警察機関は、 FBI警察である。 FBIはそれ自身が司法省系の代表的な連邦警察機関であるが、 FBI警察は FBIの庁舎警備を専門とする組織内警察であり、その要員の多くは合衆国保安官局からの出向者である。
 一方、領域警察としては、国税庁(内国歳入庁)犯罪捜査部、合衆国郵政監察局を二大機関として、食品医薬品局犯罪捜査部、連邦通信委員会法執行部などがある。
 国税庁犯罪捜査部(Internal Revenue Service, Criminal Investigation:IRS-CI)は、連邦税法違反とそれに関連する資金洗浄、詐欺その他の財務犯罪全般の捜査を担う一種の財務警察である。
 元来、合衆国財務省は機務局(シークレットサービス)をはじめとする連邦法執行機関を擁し、連邦警察集合体の中核を成していたところ、それらが司法省や国土保安省に移管されていき、現在ではIRS-CIが財務省系法執行機関として残されている。
 合衆国郵政監察局(United States Postal Inspection Service:USPIS)は合衆国建国前にまで遡る歴史を持つ古い法執行機関であり、合衆国の郵便制度を悪用するあらゆる犯罪の捜査を任務としている。そのため、独自の研修機関を擁するなど、本格的な法執行機関としての完結性を持つ。

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近代革命の社会力学(連載第154回)

2020-10-09 | 〆近代革命の社会力学

二十一 トルコ共和革命

(3)大国民会議の創設と解放戦争の始まり
 オスマン帝国の敗北を決定づけたムドロス休戦協定は帝国領土の大半を喪失する内容であったが、アナトリアの本拠領土は保全されていた。しかし、協定では、条件付きで、連合国が帝国領土のいかなる部分も占領できる権利を留保していたことから、帝国の解体を狙う連合国はアナトリア本拠領土にも進軍して、ギリシャを含む連合国が分割占領する事態となった。
 そうした中、数人の有志軍首脳の間で、領土保全のため、軍監察官を各地に派遣する密約が結ばれた。そうした監察官の一人として派遣された中に、旧「統一と進歩」派で、当時は中堅の准将だったムスタファ・ケマルがいた。
 大戦の英雄であった彼は政治的な組織力にもすぐれており、1919年5月に黒海沿岸の町サムスンに上陸すると、地方の軍司令官や旧「統一と進歩」派の活動家を結集し、「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」(以下、「権利委員会」と略す)を結成した。
 この組織は、結成時点ではまだ革命組織ではなく、連合国軍の進出により亡国危機が迫る中、本拠アナトリアとバルカン半島領土ルメリアを保全することを目指す抵抗組織であり、明けて1920年1月には、アラブ人居住地域を除く帝国領土の保全と帝都イスタンブールの安全を要求するとともに、賠償金の支払いを拒否することを内容とする「国民誓約」を発した。
 これに対し、連合国軍は3月、帝都イスタンブールに進撃・占領したうえ、4月には時の皇帝メフメト6世に圧力をかけて帝国議会を解散させた。こうした連合国の増長と皇帝の軟弱に対抗するべく、ケマルはイスタンブールを逃れた帝国議会議員と権利委員会の各支部から選出した議員を結集し、アンカラに大国民会議を創設した。
 大国民会議は後の共和国議会の前身組織であるが、創設時は非公式の会議体であり、ケマルを議長とする全権機関であった。この時点ではまだイスタンブールに皇帝と帝国政府が残存していたから、大国民会議は公式政府と対峙する対抗権力の性質を持った。
 これに対し、メフメト6世は怒りをあらわにし、ケマルを反逆者として死刑宣告したうえ、「カリフ擁護軍」なる親衛隊を組織して、大国民会議の解体を図った。同時に、皇帝は連合国との講和を急ぎ、20年8月、事実上の保障占領下で、正式の講和条約(セーブル講和条約)を締結した。
 このセーヴル講和条約は先の休戦協定をさらに進め、オスマン帝国領土をアナトリア半島の三分の二程度にまで縮減したうえ、東部にはアルメニア人国家の樹立を承認、さらにクルド人のクルディスタン国家建国をも容認する内容で、結果として、トルコを脱帝国化し、アナトリアの地方的な国家に落とす内容であった。
 さらに財政に関してはイギリス・イタリア・フランスが決定権を持つとともに、外国人の特恵待遇カピチュレーションを継続するなど、トルコを事実上の西欧列強植民地としかねない不平等条約としての性格も濃厚であったが、地位保全を優先したメフメト6世は、これを受諾したのであった。
 このような情勢の下、大国民会議は国内の革命の前に、まずは植民地化を招来しかねないセーヴル条約を白紙化するべく、連合国に対する解放戦争を戦う必要を生じた。そのため、この先、1922年の秋にかけては、連合国軍が占領する各方面で戦略的な解放戦争が展開され、その間、大国民会議は戦争指導機関としての役割を果たすことになる。

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近代革命の社会力学(連載第153回)

2020-10-07 | 〆近代革命の社会力学

二十一 トルコ共和革命

(2)大戦参加と「統一と進歩」政権の瓦解
 オスマン帝国では、1908年の青年トルコ人革命により、「統一と進歩委員会」に結集した進歩派の文武官が政権を掌握したことは以前に見たが、この進歩派革命政権をもってしても、帝政そのものを廃する共和制に進むことはなかった。
 その点、オスマン帝国は、初代オスマン1世が1299年にアナトリアに小国を建てて以来、発展拡大を遂げ、中世・近世を越えて近代に至るまで、実に600年以上も同じ帝政が維持されるという、中世以降の世界歴史上例を見ない持続的な帝政であった。それは岩盤のように固く構築されており、内発的な革命により完全に打倒されることは、ほとんど想定できないほどであった。
 かくも長期にわたり同じ体制を維持し得た秘訣について解明することはここでの論題を外れるが、一つ言えるのは、オスマン帝国が各時代ごとに柔軟に適応してきたことである。元来、封建的なイスラーム国家として出発したが、近代には西欧列強から「瀕死の病人」と揶揄されながらも、上からの近代化を進めて、一定の自己改革を遂げた。
 それも限界に達すると、如上の進歩派文武官が決起して政権を掌握、立憲帝政への道を進めつつ、近代的な帝国として再編しようとした。その意味で、オスマン帝国の岩盤は固いけれども、変化する性質を持っていたと言える。
 おそらく第一次世界大戦に参戦し、敗戦していなければ、あるいは敗戦しても、領土は保全されておれば、その後もさらに帝政が延命された可能性は高い。その点、第一次世界大戦が共和革命の動因となったロシア、ドイツ、オーストリアと比べても、オスマン帝国における大戦という革命契機には決定的なものがあったと言える。
 そもそもオスマン帝国が欧州の戦争である大戦に参戦するに当たっては、連合国・同盟国双方から勧誘があり、国論を二分する論争が生じた。当時の帝国政府は「統一と進歩」の三大指導者であるエンヴェル、ジェマル、タラートの三人のパシャ称号保持者による三頭政治のもとにあったが、親独派のエンヴェル・パシャが反対を押し切る形で、ドイツが実質的な盟主である同盟国側での参戦を決定した。
 この時、エンヴェルの念頭にあった地政学的構想の一つは、ナショナリズムに基づく汎トルコ主義、すなわち帝国領内から中央アジアにまで広く散在するトルコ系諸民族の統一という気宇壮大な計画であった。その点、大戦は、歴史的に南下政策を採り、オスマン帝国を脅かしてきたロシア帝国と決着をつける機会であった。
 もう一つの構想は、トルコ民族主義を越えた汎イスラーム主義である。これは、当時オスマン皇帝がイスラーム世界全体の教主たるカリフであるという前提に立って、イスラーム世界の統一を図るという構想である。時の皇帝メフメト5世が参戦に当たり、異教徒との闘争を意味するジハードを宣言したことには、象徴的な意味があった。
 しかし、どちらの構想も大戦の過程で瓦解した。対ロシア戦は軍人でもあったエンヴェル自身が指揮を執るも、ロシア軍の大規模な反撃により、失敗した。また、汎イスラーム主義の主要な舞台となるアラビア半島では、イギリスの情報将校トーマス・ロレンス(通称アラビアのロレンス)の工作により、かえってオスマン支配からの解放を目指すアラブ民族の反乱が誘発され、これも失敗に終わった。
 結局のところ、オスマン帝国は1918年10月、ムドロス休戦協定を締結して、事実上敗戦した。これは同時に、「統一と進歩」政権の終焉でもあった。「統一と進歩」政権の気宇壮大な地政学的野望は完全に裏目に出て、かえって亡国の危機を招いたと言える。

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近代革命の社会力学(連載第152回)

2020-10-05 | 〆近代革命の社会力学

二十一 トルコ共和革命

(1)概観
 第一次世界大戦を契機とする革命的体制変動は、オスマン・トルコ(以下、オスマン帝国という)にも及んだ。そもそも大戦の発端となったオーストリア帝国支配下のスラブ人のナショナリズムは、歴史的に東欧バルカン半島にも領土を広げてきたオスマン帝国にとっても、対岸の火事ではなかった。
 実際、バルカン半島では、大戦に先立つ1912年、バルカン同盟を組んだギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビアとオスマン帝国の間で戦争(第一次バルカン戦争)が勃発した。結果として、オスマン帝国は、バルカン領土の大半を喪失することとなった。
 時のオスマン帝国は、20世紀初頭の青年トルコ人革命を経て、立憲帝政へと転換されていたが、革命政権は永年の多民族共存政策を転換し、トルコ民族主義に傾いていたから、バルカン戦争の結果は受け入れ難いものであった。
 そのため、帝国政府はかねてより関係が強まっていたドイツ帝国と結び、大戦ではドイツ、オーストリアの同盟国陣営で参戦することになった。その結果、敗戦を招いたのであったが、オスマン帝国はアナトリア半島の本拠領土の大半を連合国側に分割占領された。
 このような亡国危機状況を打開する目的から、中堅将校の一団が決起したことに端を発するのが、トルコ革命であった。この革命は当初、如上の連合国による占領からの解放を求める解放戦争に始まり、その勢いで、威信を失った帝国の打倒・共和制の樹立へと進展したものである。
 その点では、ある種の独立革命と共和革命とが共時的に発生したものと言えるが、全体としては共和革命としての性格が強い。その意味では、トルコ革命も、先行したロシア、ドイツ、オーストリアの各帝国における革命の波の一環とも言える。
 しかし、トルコ革命は、ロシア革命のように社会主義革命に進展することはなかった。革命当初、ソ連とは友好関係にあり、計画経済など技術的・政策的な影響は受けたものの、ソ連型社会主義体制に移行することは回避された。
 また、解放戦争に端を発したこともあり、革命指導者で初代大統領となったムスタファ・ケマルをはじめ、職業軍人主体の軍事革命の性格が濃厚であり、文民知識人や民衆の主体的な参加は見られなかった。
 とはいえ、トルコ革命は、同時期、すでに形骸していたオスマン帝国版図エジプトに発生した独立‐立憲革命に比べれば、より大規模な社会変革を伴う革命であり、600年以上も続いたイスラーム帝国体制を解体し、イスラーム文化を排除する反イスラーム・近代化革命としての意味を持った。
 その点では、およそ80年後、隣国イランに発生した共和革命が、全く逆に、上からの近代化を強行していた君主制を廃し、イスラーム法学者主体のイスラーム共和制の樹立を導いたのとは、対照的である。
 トルコ革命によって打ち立てられた政教分離による世俗主義は、トルコを中東・西アジアのイスラーム圏では例外的な世俗的近代国家として再編することに成功したものの、如上の軍事革命としての性格から、軍部の政治関与も制度化され、民主主義の進展に関しては、大きな制約となったことも否めない。

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