ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

犯則と処遇(連載第28回)

2019-01-31 | 犯則と処遇

23 交通事犯(上)―自動車事故について

 交通事犯は交通手段が発達した現代社会に特有の現象であり、18世紀のベッカリーアの想像を超えた現代型犯則行為である。交通事犯を広く取れば、鉄道や船舶、航空機に関連する犯則行為も含まれるが、本章(上)では最も日常的な自動車に関連するものに限定して論ずる。

 自動車に関連する交通事犯の大半は過失犯であるが、速度違反や飲酒運転など道路交通法違反は故意犯である。いずれにしても、交通事犯に、長期的な矯正処遇を要する犯則行為者はいない。

 特に交通事犯の中心を占める自動車運転中の過失による死傷事故は、運転者の過失という人的要素ばかりでなく、道路状態や自動車の性能という物的要素も要因となって引き起こされる。
 典型的には、見通しの悪い道路で欠陥車を運転している人が不注意であれば、極めて高い確率で死傷事故が発生する。このように自動車運転中の過失による死傷事故は道+車+人という三要素が三位一体的に絡み合って惹起される。
 事故の物的要素は、道路補修や自動車の性能強化といった物理的対策を通じて克服することが可能である。人的要素に関しては、そもそも運転適性のない者を事前に運転そのものから遠ざけることが効果的である。具体的には、著しく注意散漫な者や運動神経に制約がある者、アルコール・薬物依存傾向のある者に対しては運転免許を認めないか、少なくとも矯正的な特別講習を義務づけ、問題傾向の改善が認められるまで免許を保留とすることである。

 他方、道路交通法規に基づく行政的な交通取締りは、交通事故防止にとって有効ではあるが、あまりに瑣末すぎたり、多すぎたりする規則は誰も守り切れず―しばしば取締担当者ですら!―、無意味である。 

 各種道路交通法違反については、まず速度違反や酒酔い運転などのように、それ自体に死傷事故の危険が内包されているような危険運転行為に限って処遇の必要な犯則行為とみなし、その他の細かなルール違反は免許停止などの行政的なペナルティーに委ねることが合理的である。
 「犯則→処遇」体系の下でも、速度違反や酒酔い運転などそれ自体に過失による死傷事故の危険を内包する危険運転は故意犯であるが、それらは本質上行政取締上のルール違反であって、多くは反社会性向の低い犯行者によるものであるから、その処遇としては保護観察とすれば十分である。
 ただし、速度違反や飲酒運転などの危険運転の累犯者に対しては、永久免許剥奪処分が効果的である。

 問題は、こうした道路交通法に違反する危険運転中の過失によって死傷事故を起こした者の処遇である。といっても、以前の項で述べたように、軽過失は業務上過失の場合を除き犯則行為とすべきでないから、ここで過失とは重過失及び業務上過失の場合である。

 道路交通法に違反する危険運転行為とその間に犯された過失行為とは一連的であっても危険運転行為中に必ず過失行為を犯すと決まっているわけではない以上、本来別個の故意行為と過失行為である。 
 これもすでに論じたように、こうした犯則行為のパッケージにおいては、犯則学的に見て最も中核的な犯則行為の処遇に従うのであったところ、確率的に過失による死傷事故は、何らかの危険運転行為を前提としており、死傷事故を起こしやすい危険運転中に事故を起こすのは、元来危険運転行為に内包されていた危険が現実化しただけのことであるから、中核的な犯則行為とは、まさに過失行為にほかならない。従って、以前に述べた過失犯としての処遇そのものに付することになる。

 ちなみに、飲酒運転事故はモータリゼーションが高度に進んだクルマ社会にあって、酒類の販売規制が緩やかであれば、不可避的に発生する事故である。酒類に対する宗教的禁忌などから酒類の製造・販売が禁止されている国、逆に酒類の販売規制は緩やかだが、モータリゼーションがほとんど進んでいない国では飲酒運転はまれである。
 そこで、飲酒運転の撲滅とは言わないまでも大幅な減少を目指すのであれば、酒類の販売規制の強化(専売制の導入など)とともに、脱モータリゼーションにも正面から取り組まなければならない。 

 ところで、自動車交通事故の中でもひき逃げは悪質な事故隠蔽行為と評価されやすいが、事故を起こしてパニック状態にある者の心理を冷静に考えれば、ひき逃げは、司法上正当な防御権の行使ではないとしても、ある種の条件反射的な防御行動と理解することができる。
 このような防御行動を回避させ、ひき逃げを防止するためには、逃走せず自ら事故を通報し、与えられた状況下で必要十分な被害者救護を尽くした事故者は、反社会性向の低さを考慮して、軽い処遇を与えることが効果的である。

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共産論(連載第7回)

2019-01-29 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

(5)共産主義は怖くない

◇二方向の限界克服法
  これまでの叙述の中で、集産主義に対して「勝利」した資本主義は暴走などしていないし崩壊もしていないものの、いくつかの重大な点で限界に達している、と論じてきた。この資本主義的限界を乗り超える方法としては、大きく二つの方向性が考えられる。
 一つは、資本主義の枠内で上述の限界を克服しようとする方向である。これを医療にたとえて言えば、資本主義の限界に対する内科的療法である。
 かつて風靡した福祉国家モデルも、資本主義を原理的に貫いていったときに発生する労働者階級の窮乏化を防止するために、資本主義の枠内で公的年金・保険のような生活保障制度を充実させる有力な内科的療法であった。
 しかし、福祉国家モデルは第一の根源的な限界として指摘した環境的持続性に関わる限界への対策とは元来無縁であるし、当該モデル自体も多くの諸国で財政的に揺らぎ始め、それ自身の「持続可能性」に黄信号がともっているが、今のところ、福祉国家モデルに代替し得る新たな内科的療法はまだ発見されていない。
 この点に関して近年、国家が税財源その他の国庫収入を引き当てとして全市民を対象に一律に一定金額を基礎的生活費として給付することを主旨とするベーシック・インカム(Basic Income:以下、BIと略す。)という制度構想が提唱され、一部の国では試行され始めている。
 従来の福祉国家が稼得に関しては「自助努力」を原則としつつ、失業や老齢、疾病など一定の事由が生じた場合にのみ国家が所得保障を行うのに対し、BIはそうした特別の事由のいかんを問わず、国家が一律的に全市民に定額の基礎的所得を保障する点で福祉国家モデルを超える「究極の生活保障制度」として宣伝されることもある。
 この究極の大盤振る舞いにはそれに必要な巨額財源を調達するために歴史的な大増税が欠かせないという問題があることは当然としても、資本主義の生活憲章とも言うべき一つの大法則に抵触してしまうという原理的な次元での問題もある。
 資本主義的生活憲章とは、「稼げ、然らずんば死ね!」である。すなわち資本主義的生活原理とは稼働能力ある限り、基礎的所得も含めてすべて自ら稼ぎ出さねばならない―利子や賃料のような不労所得がある場合などを除いて―ということにあるのだ。
 逆に言えば、資本主義とは稼得、つまりはカネを稼ぐ能力がすべてという主義なのである。よって、ひとはこの能力さえあれば自力で豊かな暮らしを享受することができるが、そうでなければいかに人格高潔・博学博識であろうとどん底生活、さらには餓死さえも甘受しなければならない・・・。
 それに対して、BIは稼ぐ能力を公的な最低所得保障で下支えしてやろうという思いやりの制度ではあるのだが、計算高い資本の側では、BIによる最低所得保障を口実に「便乗賃下げ」や「便乗リストラ」といった戦術を用意している―だからこそ、BIには経営者層の一部も同調している―ことも忘れることはできない。
 またBIの財源としても、「全ブルジョワ階級の共通事務を司る委員会」(マルクス)であるところの資本主義国家は、資本の税負担を増す法人増税のような「企業増税」ではなく、消費増税や所得増税―それも高所得者層の負担を増す累進課税強化でなく、低所得者層の負担を増す非課税条件の引き下げによる―のような「庶民増税」でかかってくることは確実である。してみると、BIが福祉国家モデルに代わる究極の内科的療法であるかは極めて疑わしい。
 さて、以上に対して、資本主義的限界を克服するもう一つの方向として、ここでの主題である共産主義が出てくる。これは資本主義システムそのものを根本的に切除しようという意味で、資本主義の限界に対する外科的療法と言えよう。
 歴史上、人類は様々な経済システムを試行してきて現時点では資本主義経済にほぼ落ち着いているように見えるが、まだ一度も試されたことのないシステム―考古学仮説上の「原始共産制」は別としても―、それが共産主義である。

◇共産主義のイメージ
 共産主義への移行などと聞けば、所有権の剥奪とか、画一的統制社会等々の悪いイメージが先行し、果ては旧ソ連のスターリンによる大粛清や世界を震撼させたカンボジアのクメール・ルージュ(カンプチア共産党)による大虐殺などを持ち出してネガティブ・キャンペーンが始まりかねない。
 しかし、真の共産主義は個人の所有物を一切合財接収したりはしないし、統制社会云々というのも共産主義とソ連型社会主義=集産主義とを意図的に、もしくは誤解に基づいて混同するものである。
 共産主義社会は、たしかに平等な社会である。しかし、その「平等」とは基本的な衣食住の充足に関する平等である。すなわち貨幣のような特殊な交換手段を持たなくとも、誰もが基本的な衣食住を充たすことができるように協力し合う社会である。そのような社会を「画一的」として断固拒絶する人がさほど多いとは思えない。
 共産主義社会とはそうした社会的協力、つまりは助け合いの社会である。従って、偽りでなく真正の共産主義社会ならば粛清や虐殺のような強制的排除が起こるはずもない。そのような暴力的排除政策は、正しい意味における共産主義ではなく、政治的な全体主義と結びついた集産主義の行き着く先だったのである。
 共産主義にまつわる否定的なイメージは、そのほとんどが東西冷戦時代、主として米国を盟主とする西側陣営で流布された反共プロパガンダの名残であって、それらが冷戦終結・ソ連邦解体後の今日でも必要に応じて古いアーカイブから時折取り出されてくるにすぎない。
 ここでは、そうしたプロパガンダに惑わされることなく、今後、21世紀半ばへ向けてますますあらわになるであろう資本主義の限界を直視しつつ、資本主義の次に来たるべき共産主義を、単なる社会思想としてでなく、資本主義的現実と対比させながら、より具体的・実践的な姿においてとらえてみたい。この課題を、続く六つの章で順次追求していくことにする。

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共産論(連載第6回)

2019-01-28 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

(4)資本主義は限界に達している:Capitalism has been reaching its limitations.

◇四つの限界
 資本主義が容易に崩壊するようなことはないであろうと予測することは、資本主義が何らの限界も抱えておらず、永遠不滅であると無条件に楽観することを意味していない。むしろ資本主義は今日、少なくとも次の四つの重大な点で決定的な限界を露呈していると考えられる。

限界(一):環境的持続不能性
 最も根源的な限界は、資本主義的生産体制を続けている限り、人間社会の存続条件そのものを成す地球環境(生態系)が持続しないということにある。
 とりわけ「地球温暖化」は過去の気候変動とは異なり、産業革命以来の資本主義的生産活動の結果、温室効果ガスの増量によって引き起こされたものと理解されている。
 それはとりもなおさず、西欧、北米、日本などの先発資本主義諸国が繰り広げた資本主義的経済成長の「宴のあと」でもあるのだ。今また、中国を筆頭にインド、さらに資本主義へ「復帰」したロシアや東欧、天然資源を武器に遅ればせながらグローバル資本主義へ参入しつつある人口爆発中のアフリカ大陸も加わり、資本主義的経済成長の波が地球全域で起きようとしている。
 西欧、北米、日本の10億に満たない人々が繰り広げた資本主義の宴によっても地球環境は十分に損傷されたのであるから、仮に地球の残りのすべての諸国が同じことを繰り返したら地球環境はどれだけ損傷するのか―。これはまったく未知の恐怖である。
 そうしたことはすでにある程度意識されているからこそ、グローバル資本主義の時代には、同時に地球環境問題がかつてないほど強力に提起されてきたのであるが、温室効果ガスの排出規制問題に象徴されるように、すでに一定の発展段階に到達している先発諸国とその後を追い、追い越そうという野心的な新興諸国の利害は鋭く対立しがちである。
 新興諸国にとっては増大していく生産活動の桎梏となりかねない環境規制を回避したいのは当然であろう。しかし、事情は先発諸国の総資本にとっても同様であり、元来資本主義は資本蓄積を自己目的とする「量の経済」であるから、生産量に歯止めをかけられたり、コストのかかる生産方法を強制されたりするような規制に対しては、どんな名目があろうとも拒絶的である。かくして環境規制と資本主義は本質的に衝突せざるを得ない。
 もっとも従来の地球環境論議はいわゆる地球温暖化問題に偏向しすぎるきらいはあったが、現代社会が当面する地球環境問題はそれに限らず、大気、水、土壌、酸性雨、森林 各種有害物質、放射線防護、生物多様性等々、多岐にわたっており、それら目白押しの課題を総合的かつ相互連関的に考慮しながら、単なるスローガンにとどまらない具体的な数値規準を立てて対応していかなくてはならない時期に来ている。
 そのためには数値的な環境規準を適用しつつ、生産方法のみならず生産量にも直接に踏み込んで規制する生態学的に持続可能な計画経済(生態学上持続可能的計画経済)を、まさしく地球的な規模で導入する必要がある。
 しかし、このようなことは各国各資本が個別的な経営計画に基づいて競争的に生産活動を展開する資本主義的生産様式を維持する限り不可能であり、せいぜい環境税の賦課のような間接的規制にとどまらざるを得ない。それですら、経済界の抵抗で実現しない国も少なくない。ここに人類の滅亡というそれこそ黙示録的預言さえ必ずしも大げさとは言い切れない、資本主義の限界が露呈しているのである。

限界(二):生活の不安定化
 近年、新自由主義=資本至上主義政策の結果として所得格差が拡大したことが、しばしば声高に非難される。しかし問題は「格差」そのものにあるのではない。人間はたとえ天文学的な所得格差があろうともそれなりに安定して生活することができるならば、さほど不満を持たないものである。このことから、所得格差の大きな米国で従来、プロレタリア革命が発生しなかった理由の一端が説明できるかもしれない。
 ところが、資本主義のグローバル化は格差以上に生活の不安定さを高めてきている。それは元来計画経済を忌避する資本主義につきものの景気循環がグローバル資本主義の下ではまさしくグローバルな規模で連鎖的に継起し、各国一般大衆の生活を直撃するからである。2008年の大不況はそのような生活不安のグローバル化の典型的かつ未曾有の事件であったと言えよう。
 こうした生活不安という大状況の内部に、雇用不安と老後不安が内包されている。元来グローバル化のはるか以前に経験済みであった電動機革命に加えて、グローバル化と重なりその原動力ともなった電算機革命は資本企業の生産性を総体として向上させ、かつてほど多くの労働力を必要としなくなった。また知識集約型産業の発展も、労働力の量的要求水準を低めている。
 そこへグローバルな競争に対応するための人件費節約の圧力が加わり、雇用は先細っていく。グローバル資本主義の下ではこうした雇用不安―不安定雇用をも含む広義の「不安」―を恒常的に伴った「雇用なき成長」という現象も一般化する。
 一方、大半の一般労働者にとって老後の主要な生活資金となる公的年金は平均年齢が短かく、高齢化率も低かった時代の産物であるだけに、制定当初の予測を超える少子高齢化が進行し、かつ国家の財政危機が深刻化している時代には、その持続可能性に危険信号がともり始めている。しかも、保険料を納める資力にも事欠く低賃金労働者や長期失業者らは、当然将来の年金給付も低く、あるいは逸失する恐れもあり、老後の生活不安はいっそう深刻化するであろう。
 こうした生活不安の恒常化は、大衆の消費抑制にもつながり、販売不振による景気の長期低迷から慢性不況の要因ともなり、資本主義の体力を自ら弱めることになろう。
 ちなみに、新興諸国や開発途上諸国でも資本主義的経済成長に伴い生活水準の総体的な向上が見られる反面、新興諸国や開発途上諸国に特有の経済的な脆弱性、長期的な政情不安や治安の悪化による生活の不安定さから、人々がより安定した生活を求めて先進諸国に大量移住する現象が生じている。これは飢餓を避ける難民とは異なる現代資本主義に特有の逆説的な移民現象である。
 さらに、環境破壊に伴う異常気象の多発化、海面上昇の進行が生命に対する脅威を年々高めている。こうした脅威は民族や階級を超えた全人類に共通の不安をもたらしているが、資本主義がこの問題を根本的に解決することができないことは、もはや明らかである。

◇限界(三):技術革新の停滞
 19世紀以降における資本主義の発達の輝かしい成果として、科学技術や情報技術など、様々な技術の革新がしばしば喧伝されてきた。たしかに、その事実を否定することはできない。しかし、資本主義が後押しする技術は、すべて資本企業の利潤拡大に寄与するものに限られる。平たく言えば、金儲けの手段となるような技術の革新である。
 従って、技術のアイデアそのものは秀逸であっても、開発や製品化に多額のコストがかかるもの、あるいは当該技術の受益者、従って購買者が少数者にとどまるもの(例えば、障碍者)などは資本主義的技術革新から取り残されてしまうのである。
 20世紀後半期以降の情報技術の発達が賛美されるが、実際のところ、21世紀に入って頭打ちとなり、既存技術の継続改良的なものにとどまっているのも、アイデアの宝庫である情報技術分野では、コスト問題や製品市場の規模などの面で技術開発が限界に直面しているからにほかならない。
 同様に、再生可能エネルギー技術や環境負荷の低い製品開発なども、スローガンとしては謳われながら、コストと利潤を優先する資本主義体制ではめざましい進展を見せることはなく、頭打ちとなっている。
 一方で、受益者が限られていながら、高度な利潤を狙える技術であれば、反人倫的なものでも革新が進められていく。その最たるものが、ハイテク兵器の開発である。ハイテク兵器の購買者はほぼ主権国家に限られているが、地上で最大規模の購買力を持つ国家を顧客とするため、一器当たりの利潤も最大規模の高額商品として、ハイテク兵器は資本主義的技術開発の最先端を行っているのである。
 結局のところ、資本主義的技術革新は、専ら金儲けのためには年々進展していきながら、人類史的に見た技術革新総体としては、停滞を余儀なくされていると言えよう。

限界(四):人間の脱社会化
 資本主義は人間の利己主義的な側面を刺激し、特に人間の貨幣への執着心をエートスとして自己を保持している。資本主義的経済競争とは、すべて貨幣獲得競争に集約される。ケインズが「社会への奉仕」をエートスとする共産主義と対比して、資本主義のエートスを「貨幣愛」に見ようとすることは、いささか図式的とはいえ一理ある。
 先述したように、ソ連邦解体以降、グローバル化の中で、資本主義が一種のイデオロギー化を来たすにつれ、人間の利己主義的な側面が積極的に賛美すらされ、利己主義の亡者が増殖している。一方で、資本主義が集産主義に対して勝利した最大のフィールドである消費生活の豊かさは、人間を個人的な消費単位に切り刻み、社会性を失った商品のとりこと化させている。
 概して人間全般が社会性を喪失してきており、それが社会的動物としての人間性の劣化を招いているのである。このことは、個人のレベルでは精神の幼稚化を促進する。社会性が未発達な利己主義人間は成人であっても小児のように世界は自分(me)を中心に回っていると認知する。このような〈自分〉の肥大化現象は、様々な現代的社会病理の根元に必ずと言ってよいほど絡んでいる。
 人間の社会性の喪失はまた、社会のレベルではまさに「社会」の解体、具体的には地域コミュニティの崩壊や家族関係の解体を促進し、それらがひいては個々人の社会的孤立化につながり、資本主義者の間でさえ「社会的絆」の回復を叫ばせるまでになっているのである。(※)

※ここで言うところの「社会性」とは、高度な協力・協働関係で成り立つ社会を構築できる人間の類としての社会性のことであり、個々人が社交的であるかないかといった個体としての性格的な社会性を意味しているのではない。

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犯則と処遇(連載第27回)

2019-01-24 | 犯則と処遇

22 汚職について

 汚職とは、古典的な理解によると、公務員の賄賂犯罪のことであったが、今日的なより高い綱紀に従うなら、より広く公共的な職務を持つ者による地位を利用した利得行為全般―賄賂はその代表例の一つにすぎない―を包括する犯則行為と考える必要がある。

 このような考え方に立つと、汚職に関して本質的な官民差は認められず、いわゆるみなし公務員に限らず、法人企業・団体の役員や法曹・医師などの公共的な職務に従事する有資格者に至るまで、統一的に汚職の主体とされるべきことになる。
 従って、例えば企業の役員が賄賂を受け取れば、公務員と同様に汚職が成立するし、賄賂を供与した側もその共犯に問われるのである。一方では、公務員が監督する事業者から金品を受け取ったり、接待のようなサービス提供を受けたりした場合、賄賂性がなくとも汚職が成立することになる。

 ところで、汚職で賄賂として供されるのは、圧倒的に貨幣である。貨幣経済は汚職を助長する最大の構造要因である。従って、汚職の根本的な撲滅のためには、貨幣経済の廃止が最も端的である点、財産犯の場合と同様である。
 もっとも、賄賂として高価値物品や飲食、さらには性的サービスのような無形的な利益供与がなされることもままあることから、貨幣経済の廃止が汚職の撲滅に直結するわけではなく、貨幣経済が廃止されても汚職対策はなお必要である。

 汚職は、窃盗や殺人などの一般的な犯則行為とは性質を異にし、その本質は公共的な職務に内在する公正性保持の倫理コードに対する背反である。
 従って、その処遇としても矯正処遇に付するほどの必要性は乏しく、むしろ公職・役職からの一定期間または恒久的な追放処分のほうが事理に適っている。それに加えて、利得の没収または加重的な追徴を必要的に併課することで、汚職が割に合わないことを銘記させる効果が上がるであろう。

 このような汚職の特性からすると、その対策としても一般的な捜査機関に依存した取締りより、護民司法としての護民監制度を通じた汚職防止策のほうが効果的である。
 護民監は捜査機関ではなく、広く公的権力・職権の行使を監督し、民権を擁護する観点からの監察的司法機関であり、その任務は内部通報や外部からの情報提供を受けて問題事案を調査し、是正勧告その他の決定を発することにある。
 そのために必要と認めるときは、護民監は令状に基づいて関係者を召喚し、関係証拠物件の提出を求める権限を持つ。それと同時に、汚職防止のための法制や個別的な対策について研究調査し、勧告することも重要な任務である。

 なお、上述の公職追放や没収等の処分に関しては、護民監が直担する方法が最も簡便であろうが、より中立性を確保するためには、公務員等汚職弾劾審判所のような独立した常設審判機関を設置して対応するほうが、より厳正である。護民監は個別事案の調査を終えた後、汚職の事実ありと判断した者を弾劾審判所に告発し、審判を求める。
 
 ただし、政治職公務員の場合は、一般の公務員等とは区別して、代議機関内に特別弾劾法廷を設置して審理することが望ましいであろう。
 いずれにせよ、こうした法的な審判と行政的な処分とが組み合わさった複合的な司法手続きは、「犯則→処遇」体系における特有の制度であるので、これらについては、後に改めて論じることにする。

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共産教育論(連載第32回)

2019-01-22 | 〆共産教育論

Ⅵ 生涯教育制度

(2)学術研究センターの役割
 共産教育は等級的教育制度を擁しないということは、既存教育制度では高等教育の拠点となってきた大学制度も存在しないことを意味する。単純化すれば大学制度は廃止されるということだが、厳密には学術研究センターに再編・改組されると言ったほうがよい。
 この大学改め学術研究センターは、大学が持っている機能のうち、学術研究の面を純化し、純粋の研究所として再編するものである。具体的には、理学部・工学部・経済学部等々の大学の各学部(及び大学院)がそれぞれ研究所として独立し、それら研究所の集合体が学術研究センターとして総括される形になる。
 ただし、医学部や法学部、教育学部などのように高度専門職の養成と結びついた学部については、それらの研究機能も後で述べる専門教育制度体系を成す高度専門職学院に統合されるため、学術研究センターからは外れることになる。
 学術研究センターは研究所の集合体として統合的に運営されるが、各研究所はそれぞれ独自に研究者を育成する。そのため、研究職を志望する場合は、基礎教育課程を終えた段階で、まず研究生として各研究所に「就職」し、先任研究者の下で実地訓練や、必要に応じて座学も受けることになる。
 学術研究センターは教育機関ではないので、教授職を頂点とする権威的な職階制システムは存在せず、職階制を廃した研究部門及びその内部の研究プロジェクトごとの責任者制度によって運営される。
 こうして学術研究センターは研究機関として純化され、教育制度体系から外れるのではあるが、生涯教育体系と全く無縁というわけではない。前回も触れたが、生涯教育は多目的であり、教養の向上も目的に含まれ得る。
 そのため、学術研究センターは生涯教育機関とも連携し、センター研究員が生涯教育機関で講師として講座を持ち、その研究成果を社会還元する試みは積極的に行なわれるであろう。そのような場としての生涯教育機関の実際については、次節で改めて述べることにする。

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共産教育論(連載第31回)

2019-01-21 | 〆共産教育論

Ⅵ 生涯教育制度

(1)生涯教育の意義
 共産教育は学歴を基準とした知識階級制の発生源となる義務教育―高等教育という等級的教育制度を一切擁しないので、標準で13か年の義務的な基礎教育課程を修了すれば―前にも述べたとおり、13年は厳格な修了年限ではない―、ひとたび全員が就職するというコースをたどる。
 しかし、賃労働制が廃される共産主義社会は、生活資金の元となる賃金の上昇に照応したライフコースに縛られることなく、自由な人生設計が可能となる社会であることから、そうした自由な人生設計を支える教育は、基礎教育課程修了後も生涯にわたって提供される必要性が高い。
 このように基礎教育課程に後続する教育課程を生涯教育と呼び、それに相応する制度が構築される。こうした生涯教育は、資本主義主義社会においてもしばしば聞かれる「生涯学習」とは似て非なるものである。
 「生涯学習」という語は多義的であるが、資本主義社会にあっては、大学を含む正規の学校教育を終えた成人が教養を向上させる目的で任意に学習を続けることを指すことが多い。そのため通常は生涯学習のための公式な制度は存在せず、大学が社会貢献活動として開設した市民講座や営利的な「カルチャーセンター」のような場で提供されるにすぎない。
 従って、それは自己負担による私教育の一環であって、公教育として提供されるものではない。当然、貨幣経済を前提とする資本主義社会では有償であるから、「生涯学習」が可能なのは、収入・資産にゆとりがあり、かつ時間もある中産・有閑階級以上の階層―特に退職した中高年層―に限られる。
 それに対し、ここでの生涯教育とは、基礎教育課程を修了した人が職業能力をさらに高めたり、昇進や転職したりするのに必要な知識技能を身につけることを主目的とした継続教育を指している。それは漠然とした付加的教養教育ではなく、より実践的な内容を持った実学的教育である。
 従って、生涯教育の受益者層は現職の中核的な勤労者層と重なり、年齢的にも壮年層が中心となるだろう。当然、対象者も多数に上るので、基本的には公教育として提供される必要がある。
 もっとも、生涯教育に求める目的は人により様々であり得るので、生涯教育は実学的な内容を中核としながらも、教養の向上や、何らかの事情から基礎教育課程を中断した人向けの補習教育といった目的にも対応するものとなる。その意味で、生涯教育はかなり広範な領野を有する複合的な教育課程となる。

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犯則と処遇(連載第26回)

2019-01-18 | 犯則と処遇

21 組織犯について

 単なる共犯現象を超えた犯罪の組織化、すなわち組織犯罪はすぐれて現代的な犯罪現象である。しかも、現代の犯罪組織はほぼ例外なく合法・違法の双方にまたがるビジネスを展開する経済組織でもある。それはしばしば合法的な資本や公権力とさえも直接・間接に結びついている。

 こうして現代的組織犯罪は、資本主義経済の地下部門を成す構成要素であるとさえ言えるのであり、その「根絶」は資本主義経済体制そのものにメスを入れない限り不可能である。その意味では、貨幣経済を廃した共産主義経済への転換が、組織犯罪の根絶へ向けた抜本策ということになる。

 そうはいっても、共産主義経済下でも、組織的な犯則行為への対策が全く不要ということにはならないが、「犯則→処遇」体系の下では、組織犯対策にあっても刑罰は用いず、矯正処遇を中心とした対策が適用される。

 組織犯対策というと、特別法を制定して対処することが一般的であるが、法定主義という観点からは、特別法へ飛ぶ前に、一般法上での対策が先決である。
 その一つは、共犯に関する一般的な規定の活用である。特に、従共犯の中でも共謀犯の規定は、共謀された犯則行為の実行そのものは担わなかった組織の構成員のほか、準構成員や外部の協力者まで一網打尽にできる利点があることから、組織犯対策上強力な武器となり得る。

 さらに進んで、不法な組織を結成し、またはこれに加入すること自体を犯則行為として規定することも必要である。
 これは組織犯対策の予防的な武器であるが、同時に事実上不法組織の定義条項ともなるものである。すなわち、本規定の下に結成や加入が禁じられる組織とは、団体の活動として継続的に犯則行為を実行するための団体である。
 「継続性」を要件とすることによって、一回的な犯則行為を実行するために組織されたグループや本来合法的な活動をするために組織された団体がたまたま組織ぐるみで犯則行為を実行したような場合は不法組織には該当しないことになる。

 さて、組織犯の犯則行為者は通常、反社会性向は高いも病理性は低い者であるから、その処遇としては最大でも第二種矯正処遇を相当とするが、不法組織に加入した者の中には弱味を握られて消極的に引きずり込まれたような者もあり得ることから、保護観察相当の場合も認められる。

 以上は言わば総論的な組織犯対策であるが、各論的な対策として、特別法としての不法組織法の制定も必要である。
 不法組織法の核心は、組織そのものの強制解散・非合法化措置である。これは先の不法組織に関する規定とも連動しながら、組織そのものを消滅させる措置として究極的な組織犯対策となるものである。
 強制解散の主たる対象は組織そのものであるが、関連企業や組織の隠れ蓑として設立された各種団体も含まれ、法人格を取得している場合はその剥奪と資産没収にも及ぶ。
 このように、強制解散措置は個人であれば死亡宣告に匹敵する強力な効果を伴うものであるから、適正手続きを保障するためにも厳正な司法手続によるのでなければならない。

 一方で、組織的犯則行為者の更生援護も大きな課題となる。かれらの場合は病理性は低い反面、不法組織を事実上の“職場”とし、犯則行為がまさに“職業”と化しているため、犯則への固執性が強い。そこで、更生援護を通じて各自の適性を生かした正業への“転職”を支援していくことが重要となる。

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犯則と処遇(連載第25回)

2019-01-18 | 犯則と処遇

20 累犯問題について

 財産犯、中でも窃盗は古くから、短期間で同一または同種の犯行を繰り返す累犯が多く、また放火犯や一部の性的事犯、薬物事犯にも、累犯がしばしば見られる。こうした累犯問題こそが、刑罰の目的を教育に求めんとする教育刑論を台頭させた要因でもあった。
 しかし、教育刑論も刑罰制度が本質的に持つ応報的な要素を完全に払拭できず、限界を露呈してきたことから、「矯正悲観論」を生み出し、再び応報刑主義への反動的揺り戻しを招く一因となった。

 たしかに、累犯者の中には矯正困難な者も含まれていることから、矯正悲観論の象徴となりやすいことはたしかだが、それは矯正科学の遅れのゆえであって、そうした遅れをもたらしているのもまた、刑罰制度なのである。その意味で、累犯問題は刑罰制度自身の影法師でもある。

 その点、「犯則→処遇」体系の下では、格別の累犯対策というものは必要としない。それは、更新付きターム制を採る「矯正処遇」の制度自体に累犯対策が組み込まれているからである。すなわち対象者の再犯の恐れがなお除去されていないと判断されれば矯正タームが更新され、実効性のある科学的な矯正プログラムが課せられるからである。

 特に、窃盗を執拗に繰り返す者に対しては、精神疾患の一つに位置づけられている窃盗症の治療が必要であるし、放火累犯者も病的な放火癖の治療が必要なケースが多いと考えられる。こうした病的累犯者に対しては、第三種矯正処遇Bを課して、治療的な集中的処遇を徹底する必要がある。
 なお、性的累犯者の場合も、行動療法などを含めた第三種矯正処遇の対象となるが、前にも述べたとおり、専門医の厳正な診断に基づく薬物による化学的去勢措置もやむを得ない場合があるだろう。 

 総じて、累犯に対しては、矯正処遇を終了した後の更生援護も重要な課題となる。そうした更生援護の充実・成功をもたらすには、社会の構造が大きく変わらなければならない。
 すなわち、更生を妨げ、人を再犯に走らせる究極的要因となる犯歴者への差別を克服し、かつライフコースによって制約されず、人生のやり直しがより容易となるような社会体制を構築することである。

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犯則と処遇(連載第24回)

2019-01-17 | 犯則と処遇

19 薬物事犯

 薬物犯罪は物質依存症と密接に関わり、精神保健行政・精神医療とも交錯するため、これを刑罰に“依存”してコントロールしようとすることに限界があることは明白である。その点で、伝統的な「犯罪→刑罰」体系が、薬物事犯において最もその限界をさらしていることは必然である。

 一般に、薬物の規制の要否やその方法は、薬学・医学の最新水準に照らして行なう必要がある。従って、薬学的・医学的に見て明白な有害性―とりわけ不法所持を犯則行為として取り締まるうえでは、薬理作用による他者加害の高度な危険性―が立証されない薬物に関して、単純所持や自己使用を犯則行為として取り締まることは無意味である。

 このことは、当該薬物を嗜好品として全面的に自由化することを意味しない。例えば、流通方法や使用条件を規制するなど薬事行政上の規制や取締りがなお必要な場合はあるからである。
 一方、薬学的・医学的に明白な有害性が認められる薬物にあっても、その自己使用自体は薬物依存症という一つの精神疾患の症候であるから、犯則行為としての取締りよりも、精神保健福祉上の保護的・治療的な対応が不可欠である。

 もっとも、自発的に医療機関を受診する依存症者は少なく、規制薬物の所持容疑で摘発されて依存症も判明することが多い。そうした点では、規制薬物の単純所持は一つの取っ掛かりとして犯則行為とするが、その処遇は対物的処分としての没収で十分である。
 そのうえで、所持者の薬物常用が判明した場合は、捜査機関から所管行政機関に通報し、行政機関が対象者に指定医療機関等での治療命令を発するようにする。この命令に反して治療を受けようとしない者に対しては、後述する人身保護監の発する令状に基づき指定医療機関等へ強制収容することも可能とする。

 他方、有害な規制薬物の密輸・密売のような営利的な犯則行為は、しばしば組織的に実行されるところでもあり、薬物事犯取締りの中核的な対象を成す。
 組織的薬物事犯に対する処遇は、組織犯対策そのものと重なる部分もあるが、組織のメンバーのように反社会性向が類型的に高く、第二種矯正処遇相当の犯行者が少なくない一方で、報酬欲しさからの一過性の売人や運び屋などに対しては、保護観察が相当であろう。
 とはいえ、貨幣経済が廃される共産主義社会では、規制薬物の取引に伴う金銭的利益という最大の旨味もほぼ消失するため、そもそも規制薬物の取引自体が停止することにより、結果として、密輸・密売組織は解散し、薬物依存問題も解消される可能性は高い。

 如上の規制薬物の所持をはじめとする犯則行為類型については、法定主義を徹底するため、特別法ではなく、一般法上に基本的な規定を置くべきである。
 そのうえで、一般法上では取り締まり対象となる規制薬物の種類を個別に列挙する必要はなく、規制薬物のリストは特別法の定めに委ねてよいが、事前告知機能を十分に果たさせるため、個別の規制薬物ごとに法律を定めるのでなく、例えば「規制薬物取締法」といった統合的な法律に一本化して規制薬物のリストを一覧的に明示すべきである。

 繰り返しになるが、そのリストは薬学・医学の最新水準に照らして常に検証に付されなければならない。さしあたり大麻がリストから外れる可能性はあるが、反対論も強い。ここで大麻をめぐる高度に科学的な論争に決着をつけることはできないが、重要なことはそうした議論そのものをタブーとして凍結してしまわないことである。

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犯則と処遇(連載第23回)

2019-01-16 | 犯則と処遇

18 財産犯について

 財産犯は、所有権を神聖不可侵の権利とみなす資本主義社会においては、他人の所有物を盗む窃盗行為を典型例として最も主要な犯罪類型であるが、貨幣経済が廃される共産主義社会においても、他人から財物を不法に取得する行為は犯則行為となる。
 
 とはいえ、貨幣経済下における財産犯の大半が金銭の不法領得行為であるから、貨幣経済が廃されれば、財産犯の発生件数は激減すると予測される。美術品のような物品の窃盗のようなものですら、その動機の多くはその貨幣価値・交換価値を見込んでのことであるから、貨幣経済の廃止は、そうした高価値物品に対する不法領得行為をも激減させるであろう。

 さらに、現代的な情報社会において激増しているコンピュータの不正使用のような情報犯に関しても、重大な情報犯の多くが口座からの金銭の窃取や恐喝など金銭目的であることを考えれば―その意味では、情報犯≒財産犯である―、貨幣経済の廃止はこの種の情報犯の主要な動機を消失させることになるから、情報犯の顕著な減少を導き、情報セキュリティーの面でも大きく寄与するであろう。

 こうして金銭を目的とする財産犯が激減するとはいえ、美術品のような物品の不法取得行為は単にそれを所持していたいという動機からも行われるから、貨幣経済の廃止が財産犯の完全な撲滅を導くわけではない。そのため、窃盗・詐欺・横領といった典型的な財産犯の類型は、「犯則→処遇」体系の下でも維持される。
 ただし、共産主義社会にあっては、所有権はもはや神聖不可侵ではなく、所有という観念よりも、ある物品を所持しているという事実を尊重する占有権に重点が移る。ここでいう占有とは合法的な占有であり、他人所有の物品を所持する窃盗犯の占有のような不法な占有は論外である。

 その点、「犯則→処遇」体系の下では、財産犯に対する第一選択の処遇は、被害物品の没収である。これは、犯則行為によって得た不法な収益を犯人―犯人から事情を知りつつ転得した者も含む―から剥奪した上、本来の正当な権利者に返還するという最も単純明快な処理方法である。
 ことに、いわゆる万引きのように被害がごく些少の場合は、没収のみで十分である(後に見るように、被害者―加害者間の「修復」という一種の調停プロセスも踏まれる)。ただし、被害は些少でも、再犯者の場合は、保護観察に付する必要性がある。
 一方、没収を執行しようにも、犯人が収益を消費し尽くし、手元に残っていない場合もある。そのような場合に、代替的な懲罰目的で矯正処遇を課することはできない。しかし、不法に取得した他人の財産を消費し尽くすという被害回復を困難にする不法収益利用行為を別途の犯則行為とし、矯正処遇を課することはできる。

 財産犯をめぐるより困難な問題として、執拗に同種の財産犯を反復する累犯者への対応であるが、これについては、「累犯問題」という項目の下、章を改めて取り上げることにする。

 ところで、財産犯の中でも暴行・脅迫を手段とする強盗は、犯行渦中で傷害や殺人に転化する恐れもある人身犯的な財産犯であり、単純な窃盗や詐欺等とは本質を異にする。このような人身犯的財産犯については、没収や保護観察では足りず、第一種ないしは第二種矯正処遇を要することになるだろう。
 
 なお、財産犯全般について言えることだが、財産犯は一過性のものも多く、財産犯の中で反社会性向が強いのは累犯者にほぼ限られるから、第三種矯正処遇を課する必要性は、多くの場合、認められないものと考えられる。

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共産論(連載第5回)

2019-01-15 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

(3)資本主義は崩壊しない:Capitalism might not collapse.

◇ケインズの箴言
 2008年の大不況は、それまでグローバル資本主義を散々もてはやしていた論者の間にすら「資本主義の崩壊」といった悲観論を巻き起こした。しかし、果たして「資本主義の崩壊」などというあたかも最後の審判のような事態が到来するのだろうか。
 この資本主義崩壊論は、『資本論』第一巻で「資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る」という黙示録的預言を残したマルクスを彷彿とさせるものがあるが、このようなマルクスの神がかった物言いは「科学」を強調したマルクス理論の威信を落としかねないものであった。
 それよりも、「資本主義は、賢明に管理される限り、今まで見られたどの代替的経済組織よりも効率的なものにすることができる」というケインズの箴言のほうにより反証的説得力を認めるに足りる証拠がある。
 実際、大不況に際しても、当初は大恐慌に至るとの予測もあり、この世の終わりであるかのような騒然としたムードに包まれたが、主要国の政府・中央銀行による通貨供給などの緊急措置が迅速に講じられ、資本主義総本山・米国がタブーとも言える鉄則を破ってまで民間資本に対する公的資金の投入や事実上の国有化といった手法を駆使して大不況の発端となった金融危機張本人の金融界や米国資本の象徴たる自動車業界の救済に走った結果、ひとまず最悪的事態は避けられた形となった。
 現代の資本主義はもはや純粋の自由放任経済ではなく、平素から実行されている中央銀行による金融調節や経済危機の際における政府による直接的な資本救済措置をも備えた「調整経済」とも呼ぶべき体制を採っており、この体制は規制緩和と民営化が至上命令となったグローバル資本主義の下でもなお保たれ、大規模な経済危機に対してもかなり有効に働くことが改めて証明されたと言える。

◇打たれ強い資本主義
 加えて、資本主義経済は1930年代の世界大恐慌以来、国際的な規模での経済危機にもたびたび見舞われてきながら、それらをそのつど克服してきた経験も豊富である。言わば危機管理の虎の巻を持っているようなものである。こうしたことから、現代資本主義経済は危機に強く、打たれ強い体質のシステムとなってきていることは否定できない。
 もちろん歴史上、永遠に続いた経済システムというものは一つもない。奴隷制経済、封建制経済、社会主義経済等々、すべて終焉した。資本主義経済だけが例外であるという証拠があるわけでは決してない。
 大不況に際して米国が民間資本国有化のような手法にまで打って出ざるを得ないところまで追い込まれたことはある意味で末期的であり、これを主導した当時のオバマ大統領は、ちょうどソ連末期、ソ連では逆にタブーであった市場経済を部分的に導入しようとしたゴルバチョフ書記長(後に大統領)に相当するような人物だったのかもしれない。
 特に米国経済の象徴であった金融資本と自動車資本の揺らぎは、ドルの価値下落と合わせて、米国が体現してきた偉大なる資本主義の終わりの始まりであり、歴史的にはあたかもソ連邦解体に匹敵する意味―合衆国が解体して50の州が独立してしまうかどうかはともかく―を持つことになるかもしれない。
 仮に、真に「資本主義の崩壊」と呼び得るような事態が出来するとしたら、その引き金を引くのは、やはり米国系金融資本である可能性は高い。マルクスは『資本論』第二巻で、生産力の物質的発展と世界市場の形成を促進する信用制度が同時に恐慌を促進し、古い生産様式の解体の諸要素を促進することを指摘していたが、この部分は正鵠を得た診断であったと言えよう。
 とはいえ、資本主義経済には歴史上見られたどの経済システムよりも強力な自己保存装置が備わっており、人類がこのシステムに固執し続けようとする限り、ほとんど半永久的に存続していくのではないかとさえ思えてくる。

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共産論(連載第4回)

2019-01-14 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

(2)資本主義は暴走していない

グローバル資本主義の実像
 1991年のソ連邦解体以降、全世界に拡散した資本主義―グローバル資本主義―は、それ以前の資本主義とは質的に異なる面を示し始めているように見える。
 すなわちグローバル資本主義は経済的自由を拡大するための規制緩和と民営化(営利資本化)、労働法制の規制緩和を通じた労働市場の弾力化、財政均衡を重視した社会保障費抑制策等々のいわゆる新自由主義の綱領を公然と掲げて各国政府にその実行を迫るようになってきた。
 こうした状況を指して「資本主義の暴走」と非難されることもある。この非難は資本主義総本山・米国の金融危機を契機に勃発した2008年世界同時不況を契機に強まった。資本主義は集産主義に対する「勝利」に酔って、暴走的乱痴気騒ぎを引き起こしたのであろうか。
 一つにはそういう面もなくはなかろう。資本主義は、東西冷戦時代には自らを社会主義や共産主義等々の「イデオロギー」とは無縁の合理的な経済システムであると宣伝していた。ところが旧ソ連の集産主義に対する「勝利」以来、資本主義が自らをまさしくイデオロギーとして絶対化し始め、「資本主義以外に道なし」と言わんばかりの教理として自己展開するようになったのだ。そうした資本主義の原理主義化の現れが新自由主義であるとも言える。
 その新自由主義のイデオロギー的側面が最も如実に表れているのが、資本企業(株式会社企業)の従業員である労働者への賃金分配よりも、企業の法的な所有者である株主への利益配当を重視すべきだとする株主至上主義の公理である。
 しかし、そればかりではない。元来、資本主義は自由放任の競争経済を志向する内的傾向を持っているが、このような資本主義本来の傾向性が、ソ連邦解体以降、旧ソ連の従属下にあった東欧諸国のほか、中国そしてインドといった新興諸国も本格参戦しての国際的な資本主義大競争が展開されていく中で、一つの歴史的反作用(反動)として再現前してきたと言える。
 従って、いわゆる新自由主義と呼ばれる潮流にも、イデオロギーとしての側面と同時に、資本主義本来の傾向性に照応した経済戦略としての側面とがあると言える。
 後者の側面を大胆に単純化して言えば、先発資本主義諸国が、おおむねソ連邦解体後に台頭・参入してきた後発資本主義諸国に対抗していくための戦術マニュアル―それは先発国の後を追う新興国自身にも適用される―こそ新自由主義の綱領なのだ。
 こうした新自由主義戦略も、1990年代半ば頃から世紀をまたいですでに四半世紀近い歴史を刻んでいるので、そろそろ「新」の形容を外し、資本企業の経済活動の自由を至上価値として最優先せんとするその実態に即して「資本至上主義」と改称すべき時期であろう。

「資本主義暴走論」の陥穽
 以上のようにみるならば、グローバル資本主義の展開を「暴走」という言葉でくくるのはいささか問題である。資本主義の「暴走」を強調する論者は、我々が現在見せられているようなものとはもっと別の、言わば「人間の顔をした資本主義」が存在し得るのだと信じたがっているように見える。
 おそらくそこで想定されているのは、先に述べたような労働者階級の生活にも配慮する修正された資本主義の姿なのであろう。それはたしかに冷戦期の資本主義の一つの姿ではあった。しかし修正された資本主義とは、資本主義が革命の脅威をまだ現実に感じていた頃に自己防衛策として取っていた、言わば厚化粧した資本主義の姿であったのだ。今、状況が変わり、厚化粧の必要がなくなったと認識した資本主義は、その素顔―貨幣の顔―をさらし始めたのである。
 このような現実を直視することなしに、厚化粧していた頃の資本主義へのノスタルジーに浸っているとかえって陥穽に落ち込むことがある。その重大な例が労働市場の規制緩和問題である。
 資本至上主義のプログラムとして実行されてきた労働法制の規制緩和、とりわけ派遣労働などのいわゆる非正規労働の拡大が労働者間の所得格差を拡大し、貧困をも招いているとして、再び労働者の地位を安定化させるために規制を再強化せよとの―それとしては正論的な―主張がある。
 しかし、資本企業が人件費を節約すること、すなわち「搾取」することは資本企業経営のまさに要諦であるところ、その要求に対応する最も端的な策が労働法規制の緩和であるが、この規制を再強化するならば、資本企業としてはさしあたり労働力の正規化・準正規化を進めつつ、労働者数を絞り込む戦術に出るであろう。それは当然にも高失業の定在化をもたらすが、このようなことはかねて非正規雇用に対する規制の強い諸国では実際に起きてきたことである。
 そればかりでなく、経済界は非正規雇用規制強化の法的代償として、正規労働者の労働基準、特に解雇規制条項の緩和を要求し、それが受け入れられなければ資本企業としては労働法規制が甘く、賃金水準の低い海外へ生産拠点を移す国内産業空洞化作戦に出るであろう。
 いずれにせよ、労働市場の規制強化は雇用創出という観点からは逆効果の危険を孕んでいる。それを考えると、資本至上主義を道義的にのみ非難し、その撤回を要求する修正資本主義の考え方は、資本主義の本性を甘く見積もりすぎているように思えてならない。資本主義をソ連邦解体以前の冷戦期の懐かしい姿に押し戻そうとするような歴史の歯車の逆回転は不可能なのである。

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犯則と処遇(連載第22回)

2019-01-11 | 犯則と処遇

17 性的事犯について(下)

 前回取り上げた「性暴力犯」に対して、「性風俗犯」及び「性表現犯」は性質を異にする犯則行為である。これらは個人の性的自己決定ではなく、公序良俗という社会的秩序を侵害する犯則行為だからである。

 このうち「性風俗犯」は、「犯罪→刑罰」体系の下でも、多くの諸国で非犯罪化や非刑罰化が進んでいる。例えば、かつては単なる“不倫”では済まない重罪とされた「姦通罪」は多くの国で非犯罪化され、単に離婚事由や民事不法行為責任の問題とされるようになった。このような進歩的方向性は、「犯則→処遇」体系においても引き継がれる。

 一方、「性風俗犯」の代名詞とも言える売買春の合法性については変遷があり、かつては公娼制度のように合法的であったものが、近代には違法化に向かうが、その後再転換し、再び合法化する潮流も一部で生じている。
 売買春行為が不道徳と評価されなくなったわけではないが、不道徳な行為をそのまま法律上に平行移動して違法な行為とみなす発想は次第に過去のものとなりつつあると言えるであろう。
 むしろ、売買春はしばしば人身売買として組織され、性的サービス労働者が拘束的な環境下で性奴隷化される危険が高い点で、売買春そのものよりも、前回見た性的支配行為を犯則行為として取り締まるほうがが現代的要請に合致する。

 「性表現犯」に関しては、民主的な表現の自由との関係で、機微な考慮を必要とする。道徳的な見地から猥褻と評価されるような表現物全般に網をかけて取り締まるやり方は「犯則→処遇」体系には合致せず、規制対象とすべき特定の表現物を例示的に限定したうえで、特定性的表現物頒布等の行為のみを犯則行為として規定することが目指される。
 その対象となる表現物として最も優先順位が高いのは、児童を被写体とするポルノグラフィー(児童ポルノ)である。ただ、その取締りに当たっては、表現物自体の取締りだけでなく、そもそも児童を性的な被写体として使役することの取締りも同時になされなければ効果は上がらない。

 その点では、ポルノを製作する目的で、未成年者に性的な姿態をとらせることや、保護者と業者が児童ポルノを製作する契約を結んだり、業者が被写体となる児童をあっせんしたりする未成年者性的使役行為を犯則行為として定める必要がある。ただし、これは性表現犯というより、むしろ前回見た性暴力犯に近い準性暴力犯と言える。
 それ以外にも、性暴力を助長するような映像系表現物も取締りの対象に含まれ得るが、対象外の表現物でも青少年の情操を保護する観点から一定の規制を免れないものもあり得る。それらについては司法的な差し止めなどの民事的な手段で対応できるであろう。

 「性風俗犯」と「性表現犯」の微妙な境界線を成すのは、公然と裸体をさらすような行為である。何らの必然性もないこのような露出行為は単に性道徳に反するというのではなく、他人に著しい不快感・嫌悪感を抱かせる行為である。その意味では、これも、性的強要行為に近い準性暴力犯とみなすことができるであろう。
 そうであれば、「公然」でなくとも、およそ他人の面前で相手の意思に反して全裸露出するような行為は犯則行為としての性的露出行為に当たることになろう。
 一方で、劇場でのヌードダンスや確信的に全裸で保養することを主義とするヌーディストが集合する特定の場所(海岸や保養施設等)で露出する行為は、むしろ露出を芸能や主義として享受する人々の間でだけ限定的に公然化される一種の表現行為にすぎないから、犯則行為としての性的露出行為には当たらないと理解される。

 さて、以上の性表現犯や性的露出行為を犯す者の多くは一過性の犯行者であるから、原則として保護観察で足りる。しかし、同一または同種の行為を反復する一部の累犯者に対しては第一種矯正処遇を与える。また特定性的表現物頒布等の犯則行為に対しては没収を活用する。
 これに対し、未成年者性的使役行為は実害も大きく、反社会性向が高い犯行者も少なくないから、最大で第二種以下の矯正処遇とすることが適切であろう。

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犯則と処遇(連載第21回)

2019-01-10 | 犯則と処遇

17 性的事犯について(上)

 性的事犯は、伝統の「犯罪→刑罰」体系の中では、「性犯罪」と呼ばれてきたものに相当する。ただし、性的事犯はより広く「性暴力犯」・「性風俗犯」・「性表現犯」という三つの系統を包括する概念である。

 この三系統の中で最も実害が大きく、深刻なのが「性暴力犯」である。「性暴力犯」の典型は性行為を強要することであるが、現代では性的自己決定の意識が高まり、「性暴力」の概念枠は広がる傾向にある。
 そのような方向性は、「犯則→処遇」体系の下でも変わらない。むしろ、伝統的な「犯罪→刑罰」体系においては、男性優位的な価値観を下敷きに、性犯罪の成立範囲を限定する傾向も見られたところ、性的自己決定の今日的水準からすれば、相手方の意思に反して性的行為全般を強要することを包括して「性的強要犯」ととらえるべきである。
 この性的強要犯は異性間のみならず、同性間でも成立する。性的自己決定の観点からは、同性間といえども、およそ性的行為は合意に基づくものでなければならないからである。
 また、性的行為の意味と結果について十分理解していない16歳以下の未成年者や知的障碍等のために性的行為の意味と結果を理解できない相手と一般的な成年者との性的行為は、双方の形式的な合意に基づいていても、成年者側による性的強要行為とみなされる。

 性的強要行為は相手方の明確な意思に反して性的行為を強要する型の犯則行為であるから、当事者間に性的行為に関する合意がなかったことがその成否を分けるポイントとなる。そのため、合意の有無が司法の場でしばしば激しく争われ、被害者が新たな屈辱感を味わうこと(第二次被害)も少なくない。
 だからといって、当事者間の合意に関する立証基準を緩和すれば、冤罪に直結しかねない。そこで、性的強要犯とは別に、他人を支配下に置き、自己または第三者に対して性的に奉仕させる「性的支配犯」という規定を設けることが有益である。

 性的支配犯の場合、被害者は消極的・受動的ではあれ、性的行為に対して同意を与えてはいるのであるが、全体としては加害者の支配下に置かれているのである。
 その際、性的奉仕が有償か無償かは問わない。たとえ被害者が性的奉仕に明確な対価が与えられる営業に雇われていたとしても、雇用主の支配下で逃れることのできない状態に置かれていたような場合は、雇用主は性的支配犯となる。
 こうした規定が存在すれば、当事者間に合意がなかったことの立証が困難で、性的強要犯が成立しない場合であっても、性的行為の状況からして性的支配犯が成立する可能性は残され、被害者の負担を軽減することもできるだろう。

 ところで、性暴力犯の被害者は羞恥心や恐怖心から被害の通報を行なわないこともままあり、結果として性暴力犯には立件されないケースも少なくないと見られる。通報されなくとも、捜査機関が犯則行為を認知した場合は捜査を開始すべきであるが、被害者側の明示的な意志に反してまで捜査を強行することは被害者にとって苦痛となる。
 そこで性暴力犯の捜査は、被害者側の明示的な意志に反して開始されてはならないという条件をつけることが被害者のためになるであろう。

 それでは、「犯則→処遇」体系の下で、以上のような性暴力犯に対する処遇はどうあるべきか。まず、最も重大な性的強要犯の場合には性欲を自律的にコントロールできない病理性の強い犯行者もしばしば見られるため、最大で第三種矯正処遇が相当である。

 ここで機微な問題となるのは、性暴力犯の加害者として圧倒的多数を占める男性の中でも、通常の矯正プログラムをもってしては矯正困難な者に対して、去勢措置を施すことの是非である。
 その点、外科手術による去勢措置は非人道的であり、現代的な人権観念からは容認できない。しかし、薬物による去勢措置に関しては、厳格な医学的判断に基づく限り、そうした究極の処分をためらうべき科学的理由は乏しい。
 そこで、第三種矯正処遇のうち、医療的処遇を内容とするB処遇の対象者で、去勢措置を施さない限り終身監置とせざるを得ない者に対しては、例外的に薬物去勢に付する可能性を持たせてよいと考える。
 その際、去勢の必要性に関する3人の医師による一致した判断に加え、さらにその判断の是非を確認する司法審査を経て実施されるべきである。

 ところで、性的強要犯の中には、いわゆる痴漢のように一過性の犯行者も含まれてくるので、保護観察相当の場合もあり得る。そこで性的強要犯の処遇の幅は、第三種以下の矯正処遇から保護観察まで広く取られることになるだろう。

 他方、性的支配犯は多くは計画的に、しばしば組織的にも実行されるため、一過性ということは考え難く、保護観察相当の場合はないが、犯行者の病理性は一般に性的強要犯の場合ほど高くないと考えられるから、第二種以下の矯正処遇が相当な場合が多いと考えられる。

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共産教育論(連載第30回)

2019-01-08 | 〆共産教育論

Ⅴ 職業導入教育

(4)障碍者職業教育
 前回まで見た基礎教育課程における職業導入教育のシステムは主として非障碍生徒を対象とする標準的なものであったが、職業導入教育は障碍生徒にも平等に提供される。
 貨幣経済が廃される共産主義社会の職業世界には能率至上の商業部門が存在しないため、全般的に職人仕事的なものが増えることにより、障碍者にも比較的働きやすいものとなるであろう。とはいえ、障碍の内容・程度によっては就労への障壁が高く、非障害生徒とは異なる対応が必要となる。
 その点、身体・感覚障碍者で程度も軽い場合は、非障碍生徒にほぼ準じたプログラムの適用が可能であるが、身体・感覚障碍の程度が重い場合や、知的障碍者の場合は特別なプログラムが必要となる。
 これらの場合は、就労に必要な身体的・感覚的・知的な能力の開発訓練が不可欠であり、そうした就労能力開発のプログラムがまずは提供される。これには、教員のほかに、理学療法士や言語療法士といった医療系専門スタッフの参加も不可欠である。
 そうした初動プログラムを前提に、労働理解や職場見学、さらにはインターンシップといった職業導入教育の標準的プログラムが提供されることになるが、インターンシップを開始する前に、障碍の内容と程度を改めて総合考慮した科学的な評価を実施する必要がある。
 身体障碍者で程度も軽い場合は、非障碍者に準じ、三分野自由選択式のインターンシップの適用が可能であるが、程度が重い場合や、知的障碍者の場合は科学的な評価に基づき、適切な職域を一つに特定する必要が高くなるだろう。
 インターンシップの仕組みは標準的なものと本質的に相違ないが、その評価はよりきめ細かく行なわれる。そのうえで、職業紹介所と連携し、障碍者雇用の模範事業所への就職に結びつけることになる。
 職業紹介所には障碍者雇用の専門相談員が配置され、職業導入教育とも密接に連携し、科学的な判定に基づき、適職を配分するという役割は、障碍者雇用に関してはいっそう明瞭なものとなる。

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