ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(107) 平安時代(18) 薬師堂(播磨町古宮)の薬師如来

2019-11-30 08:50:32 | 大河・かこがわ

        薬師堂(播磨町古宮)の薬師如来

 今、私たちが、奈良時代の人間で、釈迦像と薬師像二体の仏像が、運ばれたとします。
 おそらく、釈迦像か薬師像か区別がつかないと思われます。
 奈良時代までは、薬師像は釈迦像と何らの区別ありませでした。

 共に形は如来形でした。
      平安時代、播磨町に大寺が?
 播磨町古宮の薬師堂には、像高、140センチ、幅110センチ、奥行き90センチの堂々とした「木造寄木造り」のは仏様です。

 薬師如来像です。
 衣を表すひだの流れが美しく、平安時代の末(12世紀頃)の特徴を表しています。
 そして、よく見ると、左手の上に小さな壷があります。
 間違いなく薬師如来です。壷には、どんな病気にもよくきく薬が入っています。
 このように壺を持った姿で薬師如来が造られるようになったのは、平安時代以降のことです。
 当時、病気でたくさんの人々は悩んだことでしょう。そんな時には、仏様にお願いするより方法はありません。
 人々は薬師仏に願いを込めました。
 おだやかな、お顔をされています。
 そして、その大きさから判断して、平安時代には、播磨町にも大きなお寺があったと想像できます。(no4813)

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大河・かこがわ(106) 平安時代(17) 貞観時代:大地動乱の時代

2019-11-29 07:03:40 | 大河・かこがわ

 大地震が差し迫っているようです。

 現代と貞観時代の状況とは非常に似た「大地動乱」の時代になるだろうといわれています。(貞観時代:859~877)

 歴史に学んでおきましょう。

       貞観時代:大地動乱の時代

 *今日の報告は『加古のながれ』から長山泰孝氏の書かれた論文をお借りしています。

 ・・・・

 過去の大地震ですが、今から1100年以上も前の貞観10年(868)7月8日に、播磨で大地震が起きました。

 このことは、『日本三代実録』という歴史書に記録されています。

 「・・・播磨国からの報告によれば、今月八日、地大いに震動し、もろもろの官舎、寺院の堂塔、皆尽く頽(くず)れ、倒る・・・」とあるのがそれです。 

 当時の木造建築、ことに寺院の構造は、現在にくらべて決して弱くはなかったと思われますが、それがことごとく倒壊していることからみて、震度7、あるいはそれを上回るような烈震であつたかもしれません。

 ここに記されているのは播磨国からの報告ですが、この年の閏12月10日に、摂津国の広田神社と生田神社に使が派遣され、地震のあと余震が止まないのは、両社の祭神がすねてなさっていることだから、従一位の位をさしあげますという告文を読み上げているので、このときの地震が摂津から播磨にかけて起こったものであることが分かります。

 『日本三代実録』をみると、ただ「地震」とだけ記した記事がかなり見うけられます。

 これは平安京、すなわち京都で感じられた地震を記録したもので、被害は記されていませんから、震度2ないし3程度の地震と思われます。

 それが京都地方だけの地震か、それとも周辺の地震の揺れが京都にも及んだものかは分かりませんが、貞観10年という年は、それ以前の5年間と比較して「地震」の記事が多く、倍以上になっています。(no4812)

 

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大河・かこがわ(105) 平安時代(16)  文学散歩(上)・印南の怪 

2019-11-28 07:49:36 | 大河・かこがわ

 上方文化評論家で、四條畷学園大学客員教授の福井栄一さんが、神戸新聞(東播版)に東播地域(兵庫県)にちなんだ随筆「文学漫歩」を寄せておられます。一部をおかりします。

 なお、中・下は、鎌倉時代の話になりますので、後に紹介します。

     文学散歩(上) 印南の怪 

      「今昔物語集 巻第二十七 第三十六」より 

 十二世紀初頭成立の説話集『今昔物語集』には、こんな話が載っています。

 

 今は昔、西国から一人の飛脚が都を目指していましたが、播磨国印南野にさしかかったころには、とっぷりと日が暮れていました。

 辺りは淋しい野中で、泊めてくれそうな家も見当たりません。なんとか田畑を見張る番小屋を見つけ、ここで一夜を明かすことにしました。

 真夜中。西の方から、鉦をたたきながら大勢の人たちが近づいて来ました。どうやら葬列のようです。松明の列がこちらへやって来ます。

 やがて、数人の僧に引き連れられた多くの男女が、口々に念仏を唱えながら、男のいる小屋の前でぴたりと足を止めました。男はぞっとしました。

 人々は、小屋のそばに柩を据えて法要を執り行いました。それが済むと、鋤や鍬を持った下人たちがやって来て、見る間に塚をこしらえ、卒塔婆を立てると、一行は立ち去って行きました。

 男は恐怖に駆られ、一刻も早く夜が明けないかと祈りました。そのうち、いけないとは思いつつ、塚の方をつい見やってしまいました。

 すると…。塚の上の方がうごめいた気がしました。錯覚かと思い、いま一度見てみますと、確かに塚の土がむくむくと動き、土中から裸の人間がはい出してきたではありませんか。おまけにそいつは、むっくり起き上がると、どうしたわけか、男の潜んでいる小屋めがけて、一直線に駆け寄って来たのです。

 男は思いました。「あれはきっと化け物だ。ここでじっとしていたら、喰われるのがおちだ。みすみす殺されるのを待つより、いっそのこと…」

 男は太刀を抜き小屋から躍り出て、駆け寄ってきた化け物に斬りつけました。化け物はのけぞり、どうっと倒れました。男は振り返ることなく、力の限り駆けに駆け、ようやく人里にたどり着いて、そこらの家の陰に隠れ、夜を明かしました。

 朝になると、男はその村の人々に昨夜の一件を話して聞かせました。血の気の多い若者たちはこれを聞くと、さっそく現場へ急行しました。

 ところが、男の言っていた場所には、塚も卒塔婆もありませんでした。ただ、大きな野猪が斬られて死んでいました。皆は驚き、あきれるばかりでした。

 おそらく、野猪は、男が番小屋に入るのを見かけ、悪戯心を起こしたのでしょう。術を使って男を脅してはみたものの、思わぬ反撃に遭い、落命してしまったのでした。人々は「つまらぬ真似をするからだ」と言い騒ぎました。(no4811)

 *写真:福井栄一さん

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大河・かこがわ(104) 平安時代(15) 法然の流罪

2019-11-27 08:58:44 | 大河・かこがわ

         十輪寺

 高砂町横町の十輪寺は、寺伝によると、弘仁六年(815)、空海開山の由緒を持つ古刹です。

 寺伝はともかく、法然が建永二年(1207)に四国へ配流される途中、高砂浦で漁夫治郎大夫(じぶだゆう)を教化したことが縁で村民らに歓迎され、おとろえていた十輪寺を浄土宗の寺院として再興しています。

 そして、法然上人二十五番霊場の第三番霊場に選ばれるなど、地域の浄土宗中核寺院の一つとなっていました。

 以上は『高砂市史(第二巻)』からの説明の一部です。

       法然の流罪

 法然は、比叡山で学びました。

 しかし、そこでの仏教は、貴族・僧などのための宗教であり、救いのためには厳しい修業が必要でした。

 法然は、庶民の魂の救いのために、「念仏を唱えれば誰でも浄土に往生できる・・・」と言う、浄土宗をはじめました。

 当然のように、既成宗教から非難が巻きおこきました。

 が、浄土宗は猛烈な勢いで庶民の間に広がってゆきました。

 やがて、浄土宗にも緩がみられ、事件がおきました。

 この事件については『仏教の思想・Ⅱ(梅原猛著)』(集英社)を引用します。

 「・・・法然の弟子に、往蓮、安楽という僧がいた。二人とも大変な色男で、しかも非常に声がよくて、・・・(省略)・・・多くの女性ファンを得た。

 宮廷の女官の中にもファンが出来る。

 ところが、後鳥羽上皇が熊野に参詣に行っている留守に、上皇が寵愛していた女官が往蓮、安楽のところに逃げてゆくという事件が起こる。

 これが後鳥羽上皇の逆鱗に触れて 、そしてとうとう専修念仏の停止ということになった。

 既成仏教にとっては思う壺であった。

 往蓮、安楽は死刑、法然は四国の土佐へ流罪になった・・・」(『仏教の思想・Ⅱ』より)

       法然上人、高砂に立ち寄る

 法然は四国への流罪の途中、高砂の浜に立ち寄り、漁民に法を説きました。

 安元元年(1175)、法然75歳の時のことでした。

 半年の後、法然は赦免され、高砂の漁師の指導者でしょう。八田治部大夫は、法然を厚く信じ、四国へ迎えに行き、高砂の自宅にともなったといいます。

 以後、この地方に浄土宗が広がり、衰えていた寺院が浄土宗寺院として復興しました。(no4810)

 *写真:法然上人絵伝巻34・高砂浦より

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大河・かこがわ(103) 平安時代(14) 蝦夷がいた

2019-11-26 09:00:35 | 大河・かこがわ

     蝦夷がいた

 司馬遼太郎の『空海の風景』を読んでいます。

 空海の家系伝説では、空海は讃岐佐伯氏の出として語り継がれています。

 讃岐佐伯氏は、中央の軍事氏族の佐伯氏とは別系統です。

 少し説明が必要です。

 空海は、桓武天皇の時代と重なり、桓武天皇は蝦夷と戦いました。

 結果、多くの蝦夷が捕えられ、奈良に住まわされたのです。

 捕えられた蝦夷は、俘囚(ふしゅう)と呼ばれ、容易に従いませんでした。

 そこで、国は、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波等の畿外に住まわせることにしました。

 そして、俘囚を管理する地方豪族に佐伯直(さえきのあたい)という姓(かばね)を与えたのです。

 俘囚を管理した地方の佐伯氏は、中央の軍事氏族である佐伯氏と同盟関係を結んでその指揮を受けたと考えられます。

 

 『日本三代実録』(貞観八年・866)に、近江の国から太政官に「播磨国の賀古・美嚢ニ郡の俘囚が勝手に近江に来ている・・・」と訴えた記録があります。

 加古郡・印南郡にも俘囚のいたことが『日本後記』にみえます。

      印南郡の蝦夷と佐伯氏

 「佐伯氏」にこだわっています。

 東神吉町升田集落の中ほどに、集落を東西に走る古代山陽路のバイパスに沿って佐伯廃寺跡があります。

 石の多宝塔(写真)が残っています。

 記録によると、佐伯寺は鎌倉時代の後期に建設されたといいます。

 ところが、嘉吉の乱(1441)の時、寺は赤松氏に味方したため焼き討ちにあって、跡地に多宝塔だけが残ったらしいのです。

 

 桓武天皇の時代、佐伯氏は、蝦夷(俘囚)の管理にあたっていました。印南郡にも俘囚がいたことが確認されています。

 とするならば、佐伯寺は蝦夷の管理にあたり、この辺りを支配した古代豪族・佐伯氏の菩提寺であったと考えるのが自然でしよう。

 『日本三代実録』の仁和三年(887)七月の条に、印南郡の人・佐伯是継が、居を山城(京都)に移したことがみえます。

 (佐伯)是継の一族はこの時、山城へ移住したと思えるのですが、一族の多くはこの地に残留したのでしょう。

 そして、彼らの子孫は升田に佐伯寺を建設したと考えられるのです。(no4809)

  *『加古川市史(一・七巻)』・『加古川市の文化財』参照

  *写真:佐伯寺跡に残る石の多宝塔

 

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加古川の味・かつめし(49) 加古川かつめしB-1GP初入賞 

2019-11-25 08:55:27 | 加古川の味、かつめし

 今日(25日・月)の神戸新聞は、「加古川かつめしB-1GP初入賞」のニュースを大きく取り上げています。

 「ひろかずのブログ」のカテゴリー「加古川の味・かつめし(no49)」として。掲載させていただきました。

    加古川かつめしB-1GP初入賞 

             次はもっと上位を

 兵庫県明石市で23、24日に開かれたご当地グルメのイベント「B-1グランプリ」全国大会で、同県加古川市の市民団体「うまいでぇ!加古川かつめしの会」は、6位入賞を果たした。同会のメンバーたちは「多くの人にかつめしを味わってもらい、加古川を全国に発信できた」と満足そうな表情を浮かべた。

 かつめしの会がB-1全国大会に出展するのは6回目。会場のブースでは、同会メンバーや応援に駆け付けた市民ら約30人が、ピンク色のTシャツ姿で調理した。「かつめし、オー!」と威勢の良い掛け声を出しながら、揚げたてのかつめしを提供。ブースには多くの人が並び、同県洲本市の飲食店経営の男性(39)は「ジューシーで肉厚。おいしいのでおかわりをした」と大喜びだった。

 かつめしの会の藤原一朗会長(65)は「会場で『かつめし頑張れ!』と声を掛けてくれる人もいた。全国大会では初の入賞。次はもっと上位を狙いたい」と笑顔を見せた。

 ブースの前では「踊っこまつり」の出場チーム有志約30人が応援のよさこい踊りを披露した。かつめしをPRするゆるキャラ「かっつん・デミーちゃん」の着ぐるみや、非公式キャラ「かつめしちゃん」に扮したコスプレイヤーも共演し、来場者は足を止めて見入っていた。

 NPO法人踊っこまつり振興会の伊賀督将さん(54)は「全国の人たちと交流できた。応援も楽しんでもらえたのではないか」。かつめしちゃん応援委員会の木曽達也代表(45)は「善戦したと思う。みんながかつめしを食べてくれて幸せ」とにっこり。加古川市観光振興課の小南陵一課長は「この結果を、加古川市の知名度向上に生かしたい」と話した。(神戸新聞より)(no4808)

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大河・かこがわ(102) 平安時代(13) 日向宮(日岡神社)本地仏(ほんじぶつ)

2019-11-25 07:41:11 | 大河・かこがわ

     日向宮(日岡神社)本地仏(ほんじぶつ)

 『信仰の美術・播磨の聖たち』の常楽寺の観音像の説明の続きを読んでおきます。 写真をご覧いながら読みください。

 

 ・・・・注目すべきは、観音像の台座下部背面に「日向宮本地仏」の銘が陰刻されていることである。

 台座の制作は、その形式と本堂の他の仏像等の修理から17世紀後半と考えられるが、その頃には、この像が、日向宮(日岡神社)の本地仏とされていたことになる。
 ・・・加古川市内唯一の式内社である日岡神社と、中世播磨で隆盛を誇った常楽寺との、神仏習合のようすを窺わせる貴重な資料といえる。・・・・
 ここで、「本地仏・日向宮・式内社」の言葉を整理しておきます。
       本地仏(ほんじぶつ)
 「本地(ほんじ)」というのは本来の姿という意味ですから、本地仏(ほんじぶつ)とは、本来の姿である仏様という意味になります。
 しかし、これだけでは何のことか分かりません。本地垂迹(ほんじすいじゃく)ということについて知る必要があります。
 本地垂迹というのは、本来の姿は仏教の仏、その仮の姿が神道の神、というほどの意味です。

 つまり、「本地仏というのは、神道の神様と仏教の仏様は同体だ、という理論で、神様の本来の姿は仏様です」という意味です。
 このような、神仏のあり方を「神仏習合」と言います。
 「日向宮(ひゅうがのみや)」は、日岡山にある「日岡神社」のことです。 
 以下、日岡神社として話を進めます。

      日岡神社は式内社(しきないしゃ)

 式内社というのは、10世紀のはじめに作られた規則である延喜式(えんぎしき)に、その名が見られる神社のことです。
 中央政府は、地方の豪族と結びつきを強め、勢力をさらに強めるため、全国の有力な神社をその統制下におき、「式内社」として権威づけたのです。
 加古川市近辺(加古川市・高砂市・播磨町・稲美町)で「式内社」は、日岡神社だけです。

 つまり、聖観音の台座の銘は、神仏習合を知る貴重な資料です。
 明治になり、神仏分離令が出され、お互いに独立した神社、寺として今日に至っています。(no4806)

 *写真:聖観音菩薩立像台座銘

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大河・かこがわ(101) 平安時代(12) 木造聖観音菩薩立像(平安時代後期) 

2019-11-24 08:52:51 | 大河・かこがわ

     

                木造聖観音像は残った

  ・・・常楽寺(加古川町・大野)について『大野史誌』は「天正六年(1578)羽柴秀吉の兵火にかかり、堂宇すべて焼失した」と記述しています。

 常楽寺のことを調べたいのですが、残念なことに記録・寺宝等は戦乱や火事に焼かれ、現在ほとんど残されていません。

 私もそう思い込んでいたのですが、常楽寺には立派な聖観音立像等がわずかに残されています。
秀吉軍により、焼き打ちになることが予想されたのでしょう。この観音菩薩像は、どこか別の場所に隠していたのかもしれません。
 この観音様について、『信仰の美術・東播磨の聖たち』(加古川総合文化センター)からの説明をお借りします。


     木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)

 常楽寺本堂の奥に安置される聖観音菩薩立像である。

 穏やかな相貌を持つ、やや大きめの頭部と、奥行のある体部の肉取りさらに、腰をやや左に捻り、微妙に左足を踏出すなど、一見して、平安時代後期の観音菩薩立像であることがわかる。
 表面は剥落し、全身古色を呈している。内割りは無く、体幹を桧の一材で彫成している。
 宝髻(もとどり)は大きく、天冠台の彫りも鋭い。(以下略)(no4805)
 *写真:聖観音立像(常楽寺所蔵・秘仏)

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大河・かこがわ(100) 平安時代(11) 原(西志方)のお薬師さん

2019-11-23 08:41:54 | 大河・かこがわ

            加古川市域の仏たち(平安時代)

 加古川市域には、前回紹介した鶴林寺の仏たちのほかにも、平安時代の仏尊をまつる寺院が数ヵ寺あります。

  ①   木造地蔵菩薩立像    平安後期   神野西条永昌寺 

  ②   木造聖観音立像     平安中期   野口町長砂円長寺

  ③   木造地蔵菩薩立像    平安後期   野口町野口教信寺

  ④   木造阿弥陀如来立像   平安末期     加古川町木村如意寺

  ⑤   木造薬師如来坐像    平安後期   志方町原仏性寺

  ⑥   木造阿弥陀如来立像   平安末期     尾上町養田法音寺

 きょうは、「原のお薬師さん」として地域に親しまれている仏性寺(志方町西志方原)の薬師三尊像を見ておきましょう。

         原のお薬師さん

 写真は、仏性寺の本尊として祀られているのは薬師如来坐像とその脇侍です。

 仏性寺は、寛保二年に臨済宗の名僧である盤珪(ばんけい)禅師によって再興され、現在は臨済宗(禅宗)の寺院となっています。

 *盤珪(ばんけい)については、小説ですが『盤珪(寺林峻著)』(神戸新聞総合出版センター)をご覧ください。

 これらの像を祀る本堂も小さく、かつて『加古川市史』の文化財編で一部が紹介されたことを除けば、近年まであまり注目されることはなかった寺であり仏像でした。

 平成13年(2001)に本堂が改修されました。これらの仏様は、その時あらためて注目されるようになりました。

 伏せ目の穏やかな顔立ち、彫の浅いしわの表現のために厚みが薄く感じられる体部、細かい螺髪(らほつ)などから平安時代の後期(11世紀後半)の如来像であることがわかりました。

 また、脇侍の日光・月光菩薩は、修理により像容を損ねていますが、これらの仏様も平安時代後期の菩薩形立像の特徴を備えた優れた仏像です。

 平安時代の三尊像が現在にまで伝わる貴重な仏像です。

 これらの像から、天台系の規模の大きな寺院を想起させるもので、この地域の平安時代の仏教を考える上でたいへん興味深い仏像でとなっています。(no4804)

  *『志方郷(第37号)』・『仏と神の美術‐中世いなみ野の文化財』(加古川総合文化センター)参照

  *写真:仏性寺の薬師三尊像、『加古川市史(第一巻)』参照

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大河・かこがわ(99) 平安時代(10) 鶴林寺(3)・鶴林寺の仏たち

2019-11-22 08:12:00 | 大河・かこがわ

    鶴林寺の仏たち

 鶴林寺には、多くのすぐれた仏教彫刻が伝えられています。

 その中でも最古のものは「あいたた観音」の異名を持っている聖観音立像です。

 この観音様は、白鳳期(大化の改新~奈良時代以前)の貴重な仏様ですが、鶴林寺が白鳳期からあったという証拠にはなりません。

 いつの時代か、どこからか持ち込まれたと思われます。

 鶴林寺には、このほかに平安時代にさかのぼる次の諸像があります。

   ①   木造十一面観音立像(重文)  平安中期

   ②   木造釈迦三尊像(重文)    平安末期      

   ③   木造四天王立像(重文)    平安末期

   ④   木造阿弥陀如来坐像(県指定) 平安末期

   ⑤   木造恵便法師坐像         平安末期

   ⑥   木造菩薩像頭部          平安末期

 ②・③は太子堂本尊、④は常行堂本尊として祀られていました。

 藤原様式をしめす平安末期の諸像が多いのですが、これらの仏像こそ創建以来の諸尊であったとおもわれます。

 ここでは②の釈迦三尊像の内、中尊の釈迦如来像のお写真を紹介しておきます。

 なお釈迦三尊像は、宝物館で見ることができます。 (no4803)

 *『加古川市史(第一巻)』参照

 *写真:釈迦三尊像の内、中尊の釈迦如来像、『鶴林太子堂とその美』(法蔵館)より

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大河・かこがわ(98) 平安時代(9) 鶴林寺(2)・太子堂・兵庫県最古の木造建築

2019-11-21 07:12:18 | 大河・かこがわ

     鶴林寺(2)

     太子堂・兵庫県最古の木造建築

 鶴林寺は、もと四天王聖霊院と称していました。

 養老二年(718)に、身人部春則(むとべはるのり)が本願となって一大殿堂を建立し、刀田山四天王寺と寺号を改めたと伝えています。

 身人部(六人部とも書きます)は、播磨の在地土豪のようです。

 創建の時期は、平安後期と推測されます。

 というのは、伽藍配置が平安中期以降のものと共通しています。

 天台寺院に共通した、大講堂を正面にその前面に法華堂と常行堂を対面させる配置をもつこと、法華堂(今の太子堂)が天永三年(1112)造営の所伝をもち、建築様式手法から平安建築と考えられます。

 従って、常行堂もこの時期の創建と考えてよいと思われます。

 この法華堂は、太子信仰が盛んとなった鎌倉時代、法華堂の壁に聖徳太子の肖像が描かれ、以降は太子堂と呼ばれるようになりました。

       棟札を読む

 太子堂の創建にかかわる「棟札」が残っています。

 この銘から、太子堂が天永三年〈1112〉から正中三年(1326)までに修理が五回なされていることがわかりました。

 太子堂は、1112年ごろに第一回の修理がなされていますから、太子堂は、それ以前に創建されたことを示しています。

 修理を担当した大工はその棟札に名前を残しています。これらの人々の中に「長田村」に在住とあります。

 現在の「尾上町長田」にあたると考えられています。

 太子堂は、兵庫県で最古の木造建築で、重要文化財です。(no4802)

 *写真:太子堂

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大河・かこがわ(97) 平安時代(8) 鶴林寺(1)・鶴林寺は聖徳太子の創建か? 

2019-11-20 10:05:23 | 大河・かこがわ

      鶴林寺(1)

 鶴林寺について書くのを若干ためらっています。

 鶴林寺や檀家の方、そして加古川市観光協会等から、お叱りが聞こえてきそうです。

 私の加古川市史の一番よりどころは、『加古川市史』です。その記述をお借りします。

 『加古川市史』で鶴林寺について執筆されているのは神戸大学で長く教鞭をとられた(故)石田善人先生です。

 鶴林寺について石田先生や歴史学会の説を若干紹介し、後日別に鶴林寺と鶴林寺が加古川地域にはたした、役割を取り上げたいと考えてみます。

 ここでは「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」と始めますが、鎌倉時代以来、鶴林寺のはたした役割は、あまりにも大きかったことを最初に断っておかねばなりません。

      鶴林寺は聖徳太子の創建か?   

 鶴林寺は、その縁起によれば用明天皇二年(587)聖徳太子が秦河勝に命じて、ここに三間の精舎を建立し、高麗の僧恵便(えべん)を住持せしめ、百済の日羅(にちら)も当寺に住んだと伝えています(鶴林寺縁起)。 

   *用明天皇:聖徳太子の父

 「刀田山」という珍しい当寺の山号は、百済に帰国しょうとする日羅を聖徳太子が神通力で田に刀を林立させて防ぎ、怖れをなした日羅に帰国を断念させたことによるといいます。 

 用明天皇二年といえば聖徳太子は15歳ばかりのころです。

 幼児から聡明をもって聞こえた太子にしても、大和から遠いこの地(加古川)に伽藍を建立させたとは思えません。

 ・・・中略・・・

 現在の鶴林寺の寺域からは、飛鳥時代はおろか奈良時代にまで遡りえる古瓦は全く発見されていません。

 このことは現在の寺域には奈良時代には寺院が存在しなかったことと考えられるのです。(『加古川市史・第一巻』より)

 後で説明になりますが、鶴林寺は平安時代の創建と思われます。(no4801)

 *写真:鶴林寺本堂

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大河・かこがわ(96) 平安時代(7) 教信(寺)の話(7)・「一遍上人絵伝」に描かれた教信寺

2019-11-19 09:16:24 | 大河・かこがわ

          「一遍上人絵伝」に描かれた教信寺

 *(注)一遍は鎌倉時代の人ですが、教信(寺)の続きとして「平安時代」の項に含めて紹介しました。

 

 修行を重ね各地を行脚するうち、弘安2年(1279 年)信濃国で「踊り念仏」を始め ました。

 「踊り念仏」は、空也に倣ったものといわれています。

 一遍は、沙弥教信にも傾倒していました。

 弘安5年(1282 年)には、布教のため鎌倉に入ろうとしましたが、拒絶されました。

 弘安7年(1284 年)上洛し、都の各地で踊り念仏を行なっています。

 その後、弘安9年(1286 年)、四天王寺を訪れ、当麻寺(たいまでら)・石清水八幡宮を参詣します。

        教信寺を参詣

 さて、四天王寺・当麻寺・石清水八幡宮で念仏を行ったのち、一遍の一行は、播磨へと 向います。

 目指すは、野口の教信寺でした。

 その時の様子が「一遍上人絵伝」(右絵)に描かれています。

 この庵こそ、一遍が自らの臨終の地としてみずからの終焉の地として撰んだ場所でした。

 絵伝の右隅に石棺のようなものがあります。おそらく「教信が死に臨んで、自らの体を獣に施した場所か、それとも教信を荼毘にふした場所」を描いたものでしょう。

 一遍は、この時、めっきり体力の衰えを感じていました。

 この石棺は、一遍の運命を暗示しているようです。

 彼は、ここにしばらく止まって死を迎えるつもりだったのでしょう。

 いずれにしても、この後、彼の中国から四国へかけての遊行は、ひたすら、この地へ戻らんがための巡礼とさえ思える旅でした。

 野口で年を越した一遍は、弘安10都市(1287)の春、姫路の書写山に旅立ちました。(no4800)

 *絵:一遍上人絵伝、いなみの教信寺に一夜を明かす。

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大河・かこがわ(95) 平安時代(6) 教信(寺)の話(6)・死地を求めて

2019-11-18 08:06:38 | 大河・かこがわ

       死地を求めて

 一遍は、野口の教信寺で眠りたいと考えていました。正応2 年(1289)季節は夏を迎えようとした頃でした。一遍は、讃岐の善通寺へ向かいました。

 それは死地を求めての最後の旅でした。きっと、生涯の終わりを迎えるために空海の故郷を訪ねたのでしょう。

 そして、阿波の国から淡路島へ渡り、そして岩屋への旅でした。

      教信寺で眠りたい・・・ 

 夏の太陽は、一遍の病躯を容赦なく照りつけました。一遍は、ここで、このまま行き倒れるのだろうかと思いました。でも、できることなら、あの白い砂の輝いている明石へゆきたい。

 それから、野口へ行き、心をよせている教信の墓の傍で眠りたいと思うのでした。

 幸にして、七月十八日に、ようやく海を渡って対岸の明石の浜辺につくことができました。

 明石から、印南野の教信寺までは、すぐ目と鼻の先です。

 一遍は、体力の衰えたその瞬間も、ひそかに心に期していました。

 「念仏を信じ、念仏をとなえ生涯を終えた教信のそばで眠りたい」と・・・この時、早い秋の雨が、海辺をぬらしていました。

       真光寺へ

 明石についた一遍の一行を待っていたのは兵庫からの信者の出迎えでした。

 ようやく臨終の地に臨もうとした一遍は、もはや生きて野口に行く体力の自信をなくしていました。

 一遍は、兵庫の真光寺へ向かい、真光寺で静かに51 歳の生涯を終えました。

 この時、一遍にもう少し体力が残っていたなら、きっと一遍は教信寺の教信の五輪塔の傍で眠っておられたことでしょう。(no4799)

 *写真:真光寺(神戸市)の一遍上人の五輪塔

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大河・かこがわ(94) 平安時代(5) 教信(寺)の話(5)・時宗の衰え

2019-11-17 08:46:09 | 大河・かこがわ

         時宗の衰え

 鎌倉時代・室町時代、一遍の教えは踊りとともに、民衆の中に爆発的に広がりました。

 野口念仏 は、一遍の亡き後も時宗の踊念仏はますます民衆に広がっていました。

 教信寺の踊念仏は、一遍が亡なった34 年後の元亨三年(1323)、一遍上人の門弟湛阿(たんあ)が、広く念仏者を集めて教信寺で7日間の念仏踊りを行いました。

 これが、野口大念仏の始まりだといわれています。

 しかし、現在、一遍の「時宗」は衰退して、ほとんどその活動を見ることができません。

 それは、江戸時代の檀家制度によるものです。

 檀家制度は、檀家を持たず信者をつくっていた時宗にとっては大打撃でした。

 それでも、野口念仏は地域のお祭りとして賑わいました。

 が、最近の「ねんぶったん」は、昔と比べるとずいぶん寂しくなったそうです。(no3798)

 *写真:念仏踊り(インターネットより)

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