ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

平岡町二俣探訪:地租改正・重い税でした

2009-06-30 13:16:05 |  ・加古川市平岡町

189639fe  現在、加古川市内の中学生がつかっている歴史教科書(大阪書籍)に、次の記述があります。

「・・・政府は、まず土地を所有する権利を認めて、田畑の売買を自由にしました。

次いで、1873(明治6)年から、全国の土地の面積やよしあしを調べ、土地の値段である地価を定めました。

土地の所有者には地券をあたえ、土地の3%にあたる額を地租として、貨幣で納めさせることにしました。

これにより、土地についての税金の負担と集め方は、全国一律となりました。

これを地租改正といいます。・・・江戸時代の年貢の総量と同様になるように計算されており、全体として農民の負担は軽くなりませんでした」

その後、各地で地租改正に反対する激しい運動がおこり、これに押された政府は明治10年に地租を地価の2.5%に切り下げています。

このようすを、二俣村にみましょう。

  地租、しめて947円21銭6厘(明治14年1月)

二俣村      戸数 64戸

          人口 350人 

一 田、 39町2反5歩      地価3万482円93銭4厘

                   地租762円5銭8厘

一 畑、 16町2反1畝27歩   地価5537円45銭6厘

                   地租138円44銭1厘

一 宅地、2町9反5畝13歩    地価1867円97銭5厘

                   地租46円70銭

一 藪地、1反3畝13歩      地価78銭2厘

                   地租1銭7厘  

一 土砂捨場、13歩        地価9厘

                   厘位未満 

合計反別、 58町5反1畝11歩   地価3万7889円11戦6厘

                   地租947円21銭6厘

外に無税地反別7町9反8畝20歩、及び堤防敷地5反4畝21歩

二俣村には、明細帳等の古文書が残されていないため、詳細は分かりませんが、教科書にあるように、税金は江戸時代とあまり変わらず収穫の5割程度が税であったと想像されます。

この記録は『播磨地種便覧』(明治15年12月発行)からの数字です。その前書きに、「一、戸数・人口は明治14年1月御調ヲ以載ク」の注意書きがあります。

だとするなら、明治14年当時、二俣村の人口は350人・戸数64戸の集落でした。当時の風景が浮かんでくるようです。

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平岡町二俣探訪:二俣の思い出

2009-06-29 15:45:04 |  ・加古川市平岡町

南海仁さんの子供のころの思い出です。

  戦争中の思い出

我が家は、茅葺きで、電灯ははだか電球1ケ。

空襲警報のサイレンであわてて電球を布で囲い、明かりが漏れないようにした事を思いだします。
 空襲警報のサイレンで防空頭巾をかぶり防空壕へ飛び込んだり、母親におんぶしてもらい近くの水路に入り身を屈めました。 
 空襲警報と言えば艦載機が西明石にある川崎航空機の爆撃目標だった、ことなどを覚えています。

お寺でお経を習いました

小学生に入ったころは、お寺(円明寺)の日曜学校に出向き、住職よりお経(般若心経)を習い、説ぽうをよく聞きました。

そのころは、父親が満州から引き揚げて来たころだと思うのですが、 家も貧しく良く、食材としてサツマイモの葉、セリをよく食べました。
 小学生5~6年生ころになると車も木炭車からガソリン車に変わり、良くガソリンの匂いを嗅ぎました。

  楽しかった正月・盆

Bf45cc5b_2 子供のころの遊びは、バイ、ビ-玉、バッチンとでよく遊び、正月になると大人も子供と一緒に朝早くから夜遅くまで楽しんでいました。
 また、盆になると墓で作った西瓜の提灯を持ち寄りお互いに西瓜提灯の明かり消し遊びなぞで楽しみました。

中学校は水足の兵舎(高射砲隊の兵舎)跡
 中学生頃になると戦争からの復興で景気もよくなってきました。

中学校は、野口町水足にある兵舎跡の木造平屋校舎であり、近くに高射砲の設置建物がありました。

校舎は、のちに今のハリマ化成です。校門が現在も残っております。

・・今から53年前のことです。

     この「平岡町二俣探訪」は、歴史を中心に書いるといいながら、時系列になっていません。内容の取り上げ方にも統一性がありません。とにかく、分かったことから書いています。ですから、どんどん投稿ください、「最後に整理ができたらよいな」と考えています。

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平岡町二俣探訪:二俣村は古宮組の村

2009-06-28 14:42:39 |  ・加古川市平岡町

「平岡村二俣誕生」で紹介したように、明治22年4月1日、平岡地域の村々が合併して「平岡村」が誕生しました。

この時、二俣村は、平岡村二俣となりました。

それでは、平岡村となった旧二俣村・高畑村・西谷村等々の各村は、江戸時代一つのまとまった地域だったのでしょうか。

  二俣村は古宮組の村

         高畑・西谷・新在家は寺家町組の村

Puaru_042 少し説明が必要のようです。

江戸時代、各村には村を治める庄屋(しょうや)が置かれていました。

庄屋は、大庄屋(おおじょうや)の支配下にありました。

大庄屋は、各村の庄屋をまとめ、指導する庄屋のことです。

つまり、庄屋の中の庄屋という性格を持ち、大庄屋はふつう十五ヵ村ほどの村々を治めていました。

大庄屋の支配する地域を「組」と呼んでいます。

組の名は、ふつう大庄屋のいる村の名で呼ばれます。

それでは、現代の平岡町にあった村々は、同じ組にあったのでしょうか。答は、「ノー」です。

平岡地区の新在家、高畑、西谷、土山の各村々は、寺家町組(図の緑)に属していました。

山之上、一色、中野、八反田そして二俣の各村々は、現在の播磨町の村々とともに古宮組(図の赤)に属していました。

野口地区の古大内、二ツ屋、坂井そして別府の西脇村も古宮組に属していました。

江戸時代、二俣村は、現在の播磨町と同じ行政区に属していました。

これは、二俣村が古代より阿閇庄の村に属し、また新しくは新井の村々としての結びつきがあったと思われます。

これに対し、寺家町組は、街道筋という共通の性格を持った地域でした。

江戸時代も終わり頃から明治時代になると、各村々の性格・利害もずいぶん変わりました。

二俣村の生活は、すっかり高畑・西谷、つまり寺家町組の村々との繋がり方が、播磨町の各村々よりも強くなりました。

そのため、明治22年、行政地区の大改革(大合併)が行われ時、二俣村は平岡村二俣となりました。

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平岡町二俣探訪:新井物語⑦・魚つかま~えた!

2009-06-27 21:53:58 |  ・加古川市平岡町

「新井」の思い出を大西晃さんが書いてくださいました。

  魚をいっぱい捕りました

659b0002_2 新井は、5月から9月末までしか流れていませんでしたが、所どころに洗い場があって、野菜を洗ったり、洗濯したりしていました。  

川上で、子供が小便していても、「3m流れれば、水はきれいになっている」と言われていました。

新井の水は、本当にきれいで、魚もいっぱい泳いでいました。

手作りの竿にテグスに針をつけ、「雑魚つり」が楽しみでした。

釣った魚は、捨てたりはしません、炊いて食べるか、長期保存用に昼干して、良いカルシュウム源でした。

うなぎが石垣の中にいましたので、うなぎ捕りも楽しみの一つで、食用蛙も食べていました。おいしかった。

しかし、足のついたままの料理には、手が出ませんでした。

大きなドジョウもいて、その大きなドジョウを味噌汁に入れれば最高の汁でした。

また、新井の一部に砂地のところがあって、そこにシジミ貝が多く住み着き、肝臓に良いんだと言って採っていました。

と言うことは、食べれるものは、何でも食べていました。食糧難の時代でしたので、いかしかたないですね。

   ホタルの里

5月下旬頃から、夕方には、蛍が舞い、蛍取りも楽しみのひとつでした。

手で掴もうとすると、土手のすすきで傷つき、血が出ていましたが、血止めの草があって、手に当ててがまんしていました。

新井土手には、桑の木が植えてあって、葉は蚕の餌にしていましたが、桑の実は非常においしく、手や口を真っ赤にしながら食べていました。

野いちごもたくさんあって、腹が減ったら、新井土手へ行っていました。

冬は、水が流れていませんが、防火用水用に堰こまれていました。

丁度、そこに氷がはっていて、ミシ、ミシと氷が裂けていても氷の上で遊んでいました。

今は、全く氷がはりません。

今はその頃に比べれば暖冬ですね。70年ほど前のことです。

第二次大戦中(昭和16年から20年8月まで)は、空襲警報が鳴れば、新井の橋の下にかくれたり、機銃掃射のときは地上30m位まで降りてきて、飛行機に乗っている兵士が眼鏡をかけ、ガムをムッチャムチャしているのがはっきり見えました。

戦後も食糧難は続きました。本当に「ひもじかった」時代でした。

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平岡町二俣探訪:新井物語⑥・坂田啓太郎

2009-06-26 22:41:50 |  ・加古川市平岡町

069_2 新井の工事に動員した人足は、延べ16万4千人で、一日に数百人が働いています。

この工事の費用について、詳しくは分からないのですが、原則として、藩の負担でした。

もっとも、各村では年貢とは別に、村の石高に報じて労役に義務もあったらしい。

ともかく、一年あまりで新井を完成させました。

この時、新井の水の配分や水役の規則(慣行)もつくられました。

これらの、慣行は明治中期まで続いていす。

水利慣行は時代とともに不都合なカ所が生じました。また、水争いなどがしばしば起こるようになりました。

 坂田啓太郎

060_4 二俣の坂田啓太郎は、これらの諸問題の解決に熱心に取り組みました。

現在、彼の功績を記録する記念碑「坂田啓太郎君記功碑」(写真上)が、現在、播磨町役場敷地内(中央公民館横)にあります。

説明板があるので読んでおきます。

「・・・功績碑は、明治連合土木会を創設し、用水路管理と水利慣行改善に尽力した坂田啓太郎の功績を顕彰し、明治41年(1908)8月、新井郷関係者が建立したものです。

これらは、野口村二ツ屋(加古川市野口町)大歳大明神に建てられていましたが、敷地整理のため、昭和5512月に当地に移築されました」

碑文は、漢文で書かれています。

内容については、『今里傳兵衛と新井の歴史』(新井水利組合連合会)で、次の三つにまとめておられるので、転載させていただきました。(一部書きかえています)

      明暦(17世紀半ば)以来の旧慣を改め、新時代に応じた組織運営をはかったこと。

     「一郷一家也」とさとし、新しく「配水委員」を置いて、水の公平な分配につとめ、水争いの原因を取り除いた。

     災害で壊れた場所を石の堰に改めるなどの事業の積極的な推進に功績があった。

啓太郎は、二俣の庄屋を世襲したのち、明治22年、平岡村初代町長にえらばれました。

村長を辞した後も水利事業に大きな役割を果たし、明治44年亡くなりました。75才でした。

彼は、二俣の円明寺に眠っています。

暑い日でした。啓太郎の墓を捜しに円明寺に出かけました。墓が見つかりません。それもそのはずです。啓太郎の墓(写真下)は無縁墓地の中にありました。

これほど高名な人物の墓が無縁墓地にまぎれている例を他に知りません。

*なお、元の碑文及び、読み下し文が同書にあるので、詳しくはそちらをご覧ください。

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平岡町二俣探訪:新井物語⑤・新井と池

2009-06-25 23:54:57 |  ・加古川市平岡町

 296ecce6 黒く塗りつぶした池に注目してください。

 明暦二年(1656)、新井は完成しました。それに伴って、「池は不必要になった」かというと、そうではありません。

 この地域は、もともと水の得にくい土地がらでした。

 そのため、これらの池に水を確保するために「新井」が掘られたといってもよいほどです。

 用水完成後も、しばしば十分な水が得られない年がありました。

 新井は、加古川・尾上の田畑を潤す「五か井用水」とは違い、勾配がほとんどありません。そのため、新井は満水にして水位を上げなければ、水は流れてくれません。

 新井(13km)の分水地の標高は約12mであり、終着「大池」の標高は約5mです。

 しかも、「新井」は、「五か井用水」の取入れ口と同じす。

 従って、旱魃のときは、「五か井」を優先させ、「新井」の分水口をせき止めるという条件までありました。

 池を潰して、新田を作るという余裕なんてありません。黒く塗った池が、新井から取水している池です。

 新井と池がともに稼動して、この地域の水は何とか確保されるという状況でした。

 新井の北側の池は、「新井」より土地が高いため、取水することができません。これらの池は、依然として、雨水が最大の水源でした。

 新井用水にそった池の多くは、古い時代に造られたようですが、記録がありません。

 二俣(村)の大部分は、新井より北の高台にあります。新井の水は利用できません。

 新井の完成後も二俣村では、依然として大池が命綱でした。

 記録がないので、以下は推測です。

 日照の年は、大池の水もかれてしまいました。新井の水も使えません。二俣村の作物は枯れ、その後には、きまったように飢えがまっていました。

 明治20年前後の二俣の職業を調べました。「二俣村は商業がさかんな集落」と書きました。 

 これは、農業だけにたよっていては生活が成り立たなかったことの裏返しのようです。

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平岡町二俣探訪:新井物語④・逆勾配

2009-06-25 10:34:34 |  ・加古川市平岡町

Ad80a147  「新井(しんゆ)」については、『今里伝兵衛と新井の歴史』(新井水利理組合連合会)等すばらしい研究書があるのでそれ等をご覧ください。

 ここでは、新井と二俣(村)とのかかわりを中心に取り上げてみたい。

新井は図のように加古川大堰のところから、曇川(くもりがわ)・喜瀬川をこえて古宮(播磨町)大池まで約13キロを流れる用水です。

順調に進んだように見える工事も途中、さまざまな難工事にぶつかりました。

 用水の取り入れ口から流れた水は、水足から坂本までは台地の麓をとおって古大内(ふろうち)に流れました。

そこから、新井は東に方向を変えています。ここも、新井の北は台地の面であり、南だけ堤をつくれば溝ができあがりました。

  逆 勾 配

困ったことがおきました。二俣のところで地形がやや高くなっているのです。水は高いところを流れてくれません。

坂元から二俣まで水路の幅が一間半(2m70cm)、二俣から水の勢いを保つために、古宮まで一間としました。

工事は、順調に行ったかに見えたのですが、勾配の関係で二俣のところで水が、うまく流れてくれません。

 伝兵衛は「流路を変更するべきか・・・」と、ずいぶん迷いました。名案が浮かびません。

食事が喉を通らない日が続きました。

ある日、妻に、そんな悩みをフッともらしました。

妻は、手桶に水を入れ「水は勢いをつければ高いところへも流れるのでは・・・」と伝兵衛に話しました。

これにヒントを得て、流を工夫したというエピソードが伝えられています。

 真偽のほどはともかく、二俣あたりは困難な工事のようでした。

 『阿閇の里』(播磨町)は「・・なお、戦後のコンクリート舗装の時、逆勾配の部分は掘り下げている。例えば、二俣では30センチメートルも掘ったとのことである。(井上勝利氏談)」と書いています。 

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平岡町二俣探訪:新井物語③ 今里伝兵衛

2009-06-23 21:57:47 |  ・加古川市平岡町

Puaru_123 今回は、現在の播磨町古宮の今里伝兵衛を紹介しましょう。伝兵衛は、二俣を東西に流れる新井を完成させた人物です。

今里伝兵衛(いまざとでんべえ)            

 伝兵衛は、慶長15年(1610)、現在の播磨町小宮(こみや)に生まれ、父の死により後を継いで大庄屋になりました。

以来、一時として心の休まる時はなかった。

それというのも、この地方は海に近く、台地に続く場所にあり、水を確保することが難しい土地がらのためでした。

雨が少ない年には、承応三年(1654)のように、飢で死ぬ人が多くでました。

この年の旱魃はすごいものでした。田畑を潤す水はありません。秋の収穫は、ほとんどなかった。

 それに比べて、加古川の河川を利用する五ヵ井郷(現在の加古川町・尾上町)は、加古川の水のおかげで被害が少なく、むしろ夏の日照りの中で、稲は青々と勢いよく成長しているのでした。

五ヵ井用水の歴史は古く、この地方に豊かな実りをもたらしていました。

 食べるものもなくなった二俣村の百姓等は、五ヵ井郷からわずかばかりの食料と種籾をわけてもらって、やっと生活をつなぐ状態でした。

Puaru_018  伝兵衛が大庄屋を父から引き継いだのは、20歳前の青年でした。

それ以降、伝兵衛は村の政(まつりごと)を取りくんでいくうちに、「なんとしても田を潤す水が欲しい」とする情熱が心のそこから湧いてきました。

これまでは、加古川の水を台地に上げて、小宮の地まで水を引くことは無理だと考えられていました。

しかし、戦国時代は、城を作る技術、鉱山開発の技術などが発達し、それが、伝兵衛の時代に土木工事に利用できるようになり、かなり困難な工事も徐々に可能になってきた時代でした。

 加古川から用水を引くというこの計画の本当の問題点は技術の問題よりも、用水が通過する他の村々の人が、この計画に協力をしてくれるかどうか。

また、この計画を藩主、榊原忠次(さかきばらただつぐ)様が認めてくださるかということでした。

 伝兵衛は、旱魃のあった年の12月、近隣の村々の庄屋を集め用水の計画を相談しました。

庄屋衆は伝兵衛の計画に感心し、伝兵衛にその計画・指揮を任せることになりました。

 一方、藩主、榊原忠次はこの計画を進めることを許し、さらに五ヵ井郷に対して分水することを命じました。

伝兵衛の計画は、一挙に実現へ向けてスタートをすることになりました。

 工事は明暦元年(1655)正月から始められ、翌年3月に五ヵ井用水の平松堰(加古川大堰の東岸)から小宮の大池まで全長13キロの新井(しんゆ)を完成させました。

完成の日です。上流から乾いた土地を潤す水が力強く流れてきました。

 伝兵衛はこの工事で、無理がたたったのか、用水の完成の4年後の万治2年11月、息をひきとりました。

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平岡町二俣探訪:新井物語② 大飢饉(承応三年・1654)

2009-06-22 23:16:10 |  ・加古川市平岡町

承応三年(1654)の旱魃は猛烈でした。

太陽は、容赦なく大地を照りつけ、お百姓たちは、空を見上げ神に祈るほかに方法は見つかりません。

近在の百姓は、木の実、草の根、竹の実はもちろん種籾までも食べつくし、後のことを考える気力もないほどで、餓死する者もあとを絶たなかった。

  「播州賀古新疎水道記」は語る

Puaru_079_2 二俣の円明寺に『播州賀古新疎水道記』(寛文13年・1637)の記録が残されていました。

この記録は、現在播磨町の歴史資料館で保管されています。

「水道記」の一部を、現代文で紹介します。

「・・・阿閇荘古宮郷と23ヶ村は、代々姫路城の領地である。

この地は海に近く川は遠く、水が乏しい。

昔から旱魃の年には、しばしば苦しめられてきた。

・・・

承応三年の夏、二ヶ月ほど雨が降らなかった。

苗は皆枯れ、この年非常な飢饉になり、死亡する者がおびただしかった。・・・」と記録しています。

  藩:當取無(税金なし)で決済

この年は、当然のごとく年貢が徴収できるほどの収穫はありませんでした。

さすがに、姫路藩としても「無いものは取れなかった」とみえ、二俣の隣の一色村に次のような年貢免状(年貢の徴収状)を出している。

  年貢免状(写真)をご覧ください。以下は、読み下し文です。

    定 午歳免相追之事   *免相(めんあい・年貢率のこと)

   一 高四八九石四斗一升七合? 當取無?

   右の通り相究むるものなり 

   承応三年午年(1654)十月八日              

 これはすごい文書で、「今年の年貢は不作のため先送りするのではなく“当取無”(税金無し)として決着させる」という意味です。

 よほどの飢饉であったことが分かります。

 この年の二俣村の惨状も想像されます。二俣村にも同じような「免状」が出たと思えるのですが、残っていません。

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平岡町二俣探訪:新井物語① 二俣の地形

2009-06-22 00:44:57 |  ・加古川市平岡町

二俣を流れる新井(用水)の話「新井(しんゆ)物語」の話をしましょう。

最初にお断りをしておきます。教科書等で「新井用水」として学習しますが、新井(しんゆ)として話を進めます。

『今里伝兵衛と新井の歴史』(新井水利組合連合会)の最初の部分で著者は、次のように書いておられます。

「・・・明暦二年(1656)三月、水不足に悩んできた農民に待望の井水(ゆみず)が流れてきた。

まだ見たことのない加古川からの水が、まだ土のにおいの残る堀りたての井溝をゆるやかな音を立てて流れてきた。

毎日のように工事人足に出かかけた村人たちは、早春の冷たい水を両手ですくい上げて喜び合った。当時の百姓にとって、水は確かに命であった。・・・」

祖先の汗の跡と新井(しんゆ)果たした役割を追ってみましょう。

 新井物語① 二俣の地形

736467c4 二俣あたりの地形の復習をしておきます。

二俣の地形は、新井より北の台地部と南の低地部に分けられます。

新井は、約10㍍の等高線に沿って流れています。

北の台地部は、海抜10㍍より高くなっています。

そして、新井あたりで坂をつくり、南へ徐々に低くなっています。坂の辺りは、既に書いたように、かつての海蝕崖で海岸です。

新井から南の低地部は海でした。

「かつて」といっても地球の歴史から見ればそんなに遠い昔のことではありません。

南の低地部は、縄文時代(BC8000~BC3世紀ごろ)は海だったのです。

弥生時代(BC3~AD3)から、徐々に陸化が始まったようです。

このことは、ボーリング等で確かめられています。

新井から北の高い台地が印南野台地で、平岡中学校や平岡南小学校あたりは、海抜約6.5メートルで縄文時代は海の底でした。

1地万年ほど前頃から地球は、今のような温暖な気候になり海が現在の新井のところまで迫っていました。

その後、急速に加古川が運ぶ土砂が河口に堆積しました。

また、このあたりの海岸の流れは、西から東に流れており河口部の土砂は、加古川の東岸により早く堆積し陸地をつくりました。

新井は、神野町西条の城山(じょやま)のすぐ北の加古川の取り入れ口から播磨町古宮の大池まで13キロあまりで、基本的には印南野台地に縁に沿って掘られています。

*彩色した地域は、新井の給水地域

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平岡町二俣探訪:二俣集落の誕生はいつ?

2009-06-21 07:33:05 |  ・加古川市平岡町

055_2 摂津国住吉大社の経営上、豊かな播磨の国が大きな役割を果たしていました。

永享六年(1434)八月に作成された書類に、正平九年(1354)の記録として住吉大社造営のために二俣を含む阿閇庄内の村々は分担金を割り当てられたことを記録しています。

その内、二俣一色(二俣のこと)には、「預所(あずかりどころ)二貫八百文、下司六百文、公文四百文、庄役二貫八百文」の記録があります。

また、天正十年(1582)に八月の羽柴秀吉の書状にも「ふた又」で、330石の知行の記載があります。

   

◇二俣集落はいつごろ誕生したのだろう◇

地域の歴史を学習する時、「私の村(地域)はいつごろ、つくられたのだろう」ということが知りたくなります。

江戸時代に成立した「新田(江戸時代に新しく開かれた村)」以外は、確実な村の誕生を知ることはできません。

二俣も、確実なことは分かりません。

そこで、「いつ二俣村が誕生したか」に迫ってみることにしましょう。

正平九年(1354)のある記録に二俣の名が出てきます。

と言うことは、二俣集落は、正平九年には存在していたということになります。

正平九年は、南北朝時代の真っ最中で、まさに混乱の時代でした。

ともかく、二俣の歴史は南北朝時代の天正九年(1354)までは記録でさかのぼることができます。

もちろん、二俣は天正九年に村が誕生したのではありません。さらに、古い歴史をもった集落です。

二俣の確実なルーツを確かめたいのですが、いまのところ分かりません。

きょうは、正平九年までたどることができたことで辛抱しておきます。

*写真:播磨町の阿閇神社

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平岡町二俣探訪:お宅の小字は?

2009-06-20 00:09:20 |  ・加古川市平岡町

058 きのうの話題「二俣の小字をしらべよう」とあわせご覧ください。

前回、二俣の『字限図』を添付しておきましたが、「私の家は字限図のどこかな?」と、はっきりしなかった方もあったのではないかと思います。

下記に二俣の小字名と現在の番地を載せておきますので、お宅の小字と場所を再度、字限図で確認ください。

そして、字名にこめられた歴史を考えましょう。

◇お宅の小字(名)は?◇

 (小字名)              (番 地)

岸目(ぎしめ)             1~ 44番地

髭田(ひげた)            45~ 89番地

女郎目(じょろめ)          90~133番地

小林(こばやし)          134~182番地

二十代(にじゅうだい)       183~207番地

谷田(たんだ)           208~236番地

久傳田(きゅうでん)        237~282番地

雁羽目(がんばめ)         283~327番地

東谷(ひがしたに)         328~397番地

谷庭(たにわ)           398~489番地

東畑(ひがしばた)         490~545番地

村栄(むらさかえ・そんえい)    546~638番地

西(ノ)川(にしかわ・にしのかわ) 639~658番地

西畑(にしばた)          659~738番地

荒内(あらうち)          740~780番地

仲田(なかだ)           781~830番地

北畑(きたばた)          831~897番地

池の内(いけのうち)        898~915番地

*東加古川駅から真っ直ぐ南へ伸びた道が明姫幹線とぶつかる交差点に「髭田南」の表示板(写真)があります。場所は別府地ですが、なぜか二俣の小字名(髭田)が使われ「髭田南」の交差点です。

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平岡町二俣探訪:二俣の小字を調べよう

2009-06-19 07:10:30 |  ・加古川市平岡町

江戸時代以降の二俣、高畑などの集落を大字(おおあざ)といいます。

小字(こあざ)は、さらにそれ以前につけられたより小さな土地の名称です。

これらの小字は、長い歴史の中で、いつ・どうしてつけられたのか分からなくなってしまった例がほとんどです。

二俣の小字について調べてみましょう。

石見完次さんの『古地名新解‐加古川おもしろ誌』(神文書院)を参照させていただきました。

◇二俣の小字◇

Ae0dbcae <岸目(ぎしめ)>

 二俣は阿閇庄(あえしょう)の一部であり下司(げし)・公文(くもん)等の荘官が置かれ、岸目は、下司に与えられた土地・下司名(げしみょう)であろう。

<久博田(きゅうでん)>

 公文職に与えられた給田のことか。

<小林(こばやし)>

小松の林のあった場所かもしれない。

または、地名研究者がいうように、九州に多い「コバ」を焼畑の跡とし、二俣の小林も、水が不便であり焼畑農法による畑作地帯であったのかもしれない。

<髭田(ひげた)>

稗田(ひえた)の訛りだろう。

<女郎目(じょろめ)>

 女郎と言うのは神社の巫女のことで、二俣村では女郎田は免租地(無税地)であり、女郎免(じょろめん)といわれていたか、あるいは女郎免を女郎目と聞き違えたのか。

<雁羽目(かんばめ)>

雁とは関係がなく、語源は「川の辺」か「川並べ(かわなべ)」であろう。

<二十代(にじゅうだい)>

 「代」は、田の面積の単位で、十代が二畝であるから、四畝の田地のことである。

<西(ノ)川(にしかわ・にしのかわ)>

 新井用水開通の明暦二年(1656)までは、西川と呼ばれる川(水路)があり、新井用水は、この西川を利用している。

<村栄(むらさかえ)>

 二俣の人は、ソンエイと言う。

<谷庭(たにわ)>

 谷の端(ハ)のことであろう。

 北に高畑村の西の谷が入り、南へ東谷が伸びている。

<荒内(あらうち)>

 荒地の柴や草を刈り荒起こしすることを「荒打」という。新開の土地をいう名で、荒打を荒内とした。

 お宅の小字を調べてみませんか。

*きょうの記事は、ほとんど『古地名新解(石見完次著)』からの引用であることを再度お断りしておきます。

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平岡町二俣探訪:二俣(ふたまた)の地名

2009-06-18 00:10:33 |  ・加古川市平岡町

49126a19  子どもが誕生した時に最初の仕事は、子どもの名前をつけることでしょう。

土地も同じで、新しく開拓された土地には名前がつけられました。

それが小字(こあざ)です。

小字は、長い歴史の中で、元の小字の呼び方も文字も変わり、最初の意味が分からなくなった例も少なくありません。

二俣の小字については、後で詳細に検討することにしまが、きょうは、「西川」という小字に注目してください。

(図は「二俣の字限図」の一部です。クリックして拡大してご覧ください)

小字「西川」は、新井用水が二俣にはいってから大西晃さん宅の西までの新井用水に沿った南側の土地です。

「西川」は、もちろん江戸以前に付けられた小字名です。

ですから、「西川」は江戸時代初期に造られた新井用水のことではありません。

このあたりの地形(印南野台地)は北が高く、南が低くなっています。

北から南へ流れた水が、西から二俣の方向に水路をつくっていたのが西川であろうと考えられます。

 「二俣の地名」

西川とは別の水路があったのでしょう。大池のあたりだと思えるのですが、南へ水路をつくっていたと想像されます。

その水路が西川とぶつかりました。この二つの水路が交わった場所を二俣(二又)と考えてはどうでしょうか。

『古地名新解(加古川おもしろ誌)』で著者の石見完次氏は、二俣の地名のおこりを次のように説明しておられます。

「二俣」または「二又」という名は、川が二俣になっているからだと言う。

室町時代に地名、野口庄と阿閇庄との庄境にあるから二俣と言う(片岡善亀)。

地元の人は、二川の又に当たるからと言い、「二川」の姓はこれによると言う。

「西ノ川(西川のこと)」と北方から下る流れとの股間に位地するからであろう。

二股あたりを流れる新井用水は、この西川を利用したといわれています。

「西川」の小字のことを考えながら二俣の地図を見ています。

二俣(二又)の名前のおこりと想像される場所のあたりに「二川」姓が多い・・・

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平岡町二俣探訪:神様!お願いしま~す!

2009-06-17 06:56:47 |  ・加古川市平岡町

きょうは、神社の鳥居の話題です。この話題は、二俣の住吉神社に限ったことではありません。

◇消える石の習俗◇

C3d1ec1a挿絵のように鳥居に石ころが載っている風景は、年配の方にとって、懐かしく思い出されると思います。

「悪戯(いたずら)かな・・・」と思われたのではないですか。

この石ころについて『つぶて(中沢厚著)』(法政大学出版センター)の一節を読んでおきます。

・・・どうして、このようなところ(鳥居)に小さな小石が載っかかっているのか不審がって見上げた人もあるだろう。

「願かけのつぶて」ともいって、これは全国的な信仰習俗です。

何かを願って小石を投げ、「うまく載っかかれば願いがかなった」という一種の占いにも通ずる・・・

つまり、「神に自分の願いが通じ、神からOKのサインの証として、小石が鳥居に載っかかったのである」というのです。

この石投げの習俗は広く行われていたものの一つでした。

 石投げは本来、神と人間の交流の手段でした。

こんな風習を見ることも、すっかり少なくなりました。

石が落ちてきたら危険だからでしょうか、二俣の住吉神社の鳥居(享保二年・1717建立)にも小石は載っていません。

神社の境内から子どもの遊ぶ声が少なくなりました。こんな石の習俗も急速に影をひそめています。

(蛇足)

神社の鳥居は、「鶏の止まり木から発達したもの」と言われています。

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