ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

地域(加印)の風を読む(67) 国道2号線を一方通行に

2017-06-23 10:57:26 | 地域の風を読む

      国道2号線を一方通行に

       (昭和44年12月1日より)

 兵庫県公安委会は、(昭和4411月)7日、加古川市内の国道2号線の交通マヒ対策として、121日から、二号線の市街化地域1.6キロメートル東行きの一方通行とし、西行きについては、市道平野西河原線をう回するという幹線国道戦ではめずらしい交逼規制を決定しました。

 市内を通る国道二号織は交通の渋滞が撤しく、43年度調べでは500メートル以上の渋滞が西行き446回、東行き401回、あわせ手847回もあり、通行車輛も一日4万台に近く、こんご年末をひかえて、ますますふえる傾向にあります。

 これまで駐車、右折、歩行者の横断禁止などの措置をとってきましたが大きな効果がなく、この規制となったものです。

 これによって、加古川橋の東詰めから平野交差点までの国道二号線を東行きとし、市道平野西河原線(平野交差点から消防署まで)と加古川左岸線2.6キロメートルを西行きの一方通行として、これらの両区間の4.2キロメートルのうち、とくに駐車禁止でないとこるは通行方向の右側にも停車を認めることにしました。(「広報かこがわ・2205号」より)(no3627

 *記事・地図ともに(「広報かこがわ・昭和4411月号」)参照

 ◇きのうの散歩(12.277歩)

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地域(加印)の風を読む(66) 市庁舎建設工事いよいよ着工

2017-06-21 06:58:43 | 地域の風を読む

 昭和44年月発行の「広報かこがわ」は、下記の見出しで、加古川市の新庁舎建設を大きく報じました。

 一部を読んでおきます。

        新庁舎建設工事

        市制20周年の来春5月完成

         総工費 8億300万円

 ‥‥新舎は、加古川町北在家と野口町良野とに渡る国鉄高砂線沿いの公共用地45121平方メートルに建設します。

 新庁舎の概要は、中央部に鉄骨鉄筋コンクリート造り、地上5階建て、塔屋4階、地下2階の本庁舎と左側には鉄筋コンクリート造り地上2階の二階の議場棟あわせえて建築延面積は、10840平方㍍。

 さらに、その左側には、鉄骨造り平家建て949平方の附膚があり、本庁舎・議場付属棟とこの3つの建物の配置にも機能的な構成が考えられています。

 また、庁舎等の1階には市民サービスの充実をはかるため、特殊な用務を除いて窓口事務専門を全部1階を全部一階に集約し、すべてすみやかに処理できるように、合理的に配置され電光掲示板によって表示されるようになっております。

 さらにその中央部には、ゆったりとした市民ホールを配置し、天井にとりつけられた直径約8㍍のトップライトからは、明るい日ざしがさしこむように設計にも新しい工夫がこらされています。(以下省略)(no3625)

 *写真:19455月新庁舎に移転

 *昨日の散歩(11.663歩)

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地域(加印)の風を読む(65) 神戸製鋼所加古川へ進出(4)・そして、浜が消えた

2017-06-20 06:32:03 | 地域の風を読む

    そして、浜が消えた

 『加古川市史(第三巻)』の次の指摘に注目してみます。

 ・・・(埋め立てにより)かつての浜辺での海水浴や潮干狩りの楽しさを奪われたのであり、「埋め立て造成」の名の下に、景観の強制的な変更とその受け入れを余儀なくされてしまったのである。

 このことの持つ意味を、私たちはもう一度よく考えてみないといけないのではないだろうか・・・・                                                      


 以下は、復讐で「広報かこがわ」からの引用です。

 (「広報かこがわ」1967年4月15日号より)

 ・・・このしゅんせつにより遠浅の浜辺がなくなり、潮干狩り、海水浴場が姿を消し、昔の面影は一変し、壮観な工場群が建設されようとしている。

 (「広報かこがわ」1968年5月15日号より)

 (見出し) 

 「来春完成めざし 埋め立て始まる

  尾上町・別府町地先の公有水面」

 ・・・現在約十隻のしゅんせつ船がか動しており、排砂管より勢よく土砂が吹き出している、日々海岸が変ぼうしております・・・

 そして、別府・尾上町から海岸線が消えた。

 市民のウオーターフロントはなくなりました。(no3624)

 *『加古川市史(第三巻)』参照

  写真上:昭和30年代の別府浜の海岸線

  写真下:同場所の現在の風景

 ◇きのうの散歩(10.200歩)

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地域(加印)の風を読む(64) 神戸製鋼所加古川へ進出(3)・神戸製鋼所操業

2017-06-19 07:05:25 | 地域の風を読む

 

  昭和43年・神戸製鋼所操業

 加古川市が神戸製鋼所の有力候補地として白羽の矢がたったのは、昭和34年のころでした。

 そして、建設計画が示されました。

 これに対して加古川市議会は積極的に動きました。

 昭和35年1月の市議会は、「・・・目標が神戸製鋼所と決まった以上・・・(中略)・・・神戸製鋼所誘致に本市の運命を賭けるべきであろうと考えるのであります。

 地元各位のご協力はもちろん、全市かって一丸となって、これが目標完遂のために、当議会においても、強力な神戸製鋼所誘致特別委員会の設置を提案する次第であります」

 まるで、戦時中の演説かと見まがうほどの雰囲気の中で、全会一致で特別委員会設置が決まりました。

 この間、市民の声はあまり聞こえていません。

 そして、昭和43年(1968)厚板工場の操業を手始めとして、その後着実に銑鉄一貫工場体制による新鋭製鉄所は完成しました。

 加古川製鉄所は、環境保全を最優先する基本理念を持って進められたはずであったが「神戸製鋼所第三高炉建設をめぐって推進派と反対派の市民多数が傍聴に押しかけ乱闘(1974・12)」や「ばい煙公害に悩まされている農民が、第三高炉反対を訴えて市役所に直訴(1975・5)」といったできごとが起きました。

 その後、大気汚染防止法など基準値超過の際、記録の中止・データーの改ざんなどを行い、大きな社会問題ともなりました。(no3623)

 *『加古川市史(第三巻)』参照

 *写真:神戸製鋼所

 ◇昨日の散歩(13.766)

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地域(加印)の風を読む(63) 神戸製鋼所加古川へ進出(2)・市の財政は改善されたが

2017-06-18 08:21:29 | 地域の風を読む

 別府・尾上町の浜は埋め立てられ、神戸製鋼所が進出してきました。

 現在、そこは金沢町です。

    神戸製鋼所・加古川市へ進出 

 加古川市の財政は火の車でした。

 昭和36年(1961)2月、3億8000万円の赤字を抱えて、地方財政再建準備団体の指定を受けるまでにいたっていました。

 この時(昭和37年)甘いささやきがありました。

 東は明石から西は赤穂にいたる地域が「播磨工業地帯」として指定を受けたのです。

 そして、昭和37年、加古川市・兵庫県・神戸製鋼所は、神戸製鋼所加古川工場建設に関する協定書に調印し、加古川市は工業都市に向けて一歩をふみだしました。

    加古川市の財政は改善されたが・・・

 神戸製鋼所が本格的創業を始めた昭和45年(1970)頃から、加古川市の財政は徐々に改善されました。

 この意味では、評価できます。

 「・・・第二次産業の中で素材産業が大きなウエイトを占める加古川市の産業構造は不安な状況にあり、今後活力ある街づくりを推進するためには、バランスのとれた産業構造を確立し経済活動を活発化することが必要である・・・」と『平成二年度商工概要』(加古川市経済部商工労政部)は指摘しています。

 が、ご多分にもれず、水質汚濁や大気汚染といった公害とも無縁ではありません。

 別府・尾上町の海岸から海岸が消えました。

 子どもの遊ぶ水しぶきもなくなりました。(no3622)

 *『加古川市史(第三巻)』参照、

 *写真:神戸製鋼所加古川工場

 ◇昨日(6月17日)の散歩(10.443歩)

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地域(加印)の風を読む(62) 神戸製鋼所加古川へ進出(1)

2017-06-17 07:37:39 | 地域の風を読む

   神戸製鋼所加古川へ進出(1)

 「広報かこがわ(435発行)」は、神戸製鋼所の埋め立て地について、「来春完成めざし、埋め立て始まる」の見出しで、広く市民に知らせています。

 しかし、これは広報といえるのでしょうか。まるで、神戸製鋼発行の宣伝紙のようです。問題点の指摘などは全くみられません。

 文体を変え、内容を一部は、省いています。

    神戸製鋼所造成の埋め立て始まる

 尾上町および別府町の公有水面3.492.700平方メートル(105万坪)が4 月下旬より三工区に分け、来春完成をめざして埋立てを開始しました。

 昨年4月、神綱厚板工場建設のため、浚渫船二隻で内陸部を用地遣成しましたが、今回の造成は公有水面の本格的な埋め立て立造成事業で、県営工事として施行されております。

 現在、約10隻の浚渫船がか働しており、排砂管より勢いよく土砂が吹き出し、日々海岸線が変ぼうしております。 

 今回の浚渫および埋立て工事は、東播磨別府港区の航路が、特定重要港湾に指定され、水深17メートル、幅350メートルの航賂を新設することになりました。

 それらの航路路の浚渫することも兼ねて、所定の深さに浚渫するとともに、埋め立て用地3.492.700平方メートルをその土砂をもって3.5メートルに埋め立てをするものです。

 この埋め立てられた造成用地には、神戸製鋼所が粗鋼年産約800万トン生産を目標とする規模の鉄鋼一貢工場を建設する将来計画の第一期工場を建設する・・・(中略)・・・高炉一基中心とした粗鋼年産250万トンを目標とする規模の銑一貫工場を昭和459月を目途に建設します。

 したがって、437月には一部造成された用地に高炉建設に者手する予定になっております

 また、これと同特に港湾施設を整備すべく、公共港湾整備計画が策定され、すでに公共ふ頭の工事も着工されております。

 これら、港湾整備と埋立て造成用地により、今後、南米、豪州、インド、アフリカ、北米、カナダなどから外航貨物船も入港するようになり、東播磨臨海工業地帯の中心的地壊として活況を呈するのもまじかでしよう。(no3621

 *写真:神戸製鋼進出予定線

 ◇昨日の散歩(11.511歩)

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地域(加印)の風を読む(61) OAAはりまハイツ

2017-06-16 09:23:48 | 地域の風を読む

 日岡山にとんがり帽子の屋根を持つ建物があります。

 何かなと思われた方も多いのではないでしょうか。    

 「OAAはりまハイツ」です。

 「広報かこがわ(昭和432月号)」にこの建物について下記のようにな紹介しています。(*一部省略し、文体を変えています)

    OAAはりまハイツ

 (日岡山の)南に面した斜面で建設中の「はりまハイツ」は、広く働く人づくりセンターとして、あらゆる機能を備えた全国でも画期的な人づくりセンターとして、去年(昭和42年)88日、総工費一憶三千七百万円で着工、今春(昭和43年)4月オープンを目ざし建設を急いでいます。

 同ハイツは、大別して聖徳閣を利用した本館、宿泊とう、食堂兼小ホールの3つに分けられますが、一階は宿泊、二階はトレイニング、小ホール、玄関、ロビー、3階は宿泊、工作・作業室、結婚式場。

 4階は、聖徳閣市民ホール。屋上は展望台として一般市民に開放されることになっています。

 「はりまハイツ」の大きな特色は、吹き抜けになった八角形の食堂兼小ホールで、テーブルを片づけると一つのホールとなり、キャンプファイヤー、キャンドルサービスをはじめフオークダンスなどもたのしめる屋内広壕として使用できるほか〈音と光〉を十分に活用した情緒的な面でのトレイニンダ場としても使える仕組みになっています。

 また、宿泊施設には新婚用のバス、トイレ付きの「ツインルーム」をつくるほか結婚式場、ティーチングマシンを整備した教青トレイニング室などバラエティー富んでいます。

 この「はりまハイツ」は、働く若い人びとだけではなく、とくに加古川市を中心とした播州方の市民ホール的な役割りも兼ねそなええており、4階の市民ホールは、地元の婦人会や青年学級、子ども会をはじめ、各種団体の会合や催しの会場としてもても利用できます。

 一方、展望台として市民に開放されている屋上には、はりま平野が一望で望遠鏡や案内地図、ベンチなどを設け、市民が気軽に憩える場にしようという計画が関係機関で進められています。

 ・・・・

 加古川市に新しい名所がまた一つ増えることになります。(no3620

 *写真:OAAはりまハイツ(616日撮影)

 ◇メモ・きのうの散歩(10.637歩)

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地域(加印)の風を読む(60) 大規模モデル県営住宅建設

2017-06-15 08:08:59 | 地域の風を読む

 昭和37917日発行の「広報かこがわ」は都市化に伴う大規模な県営住宅の建設のニュースを「大規模なモデル県営住宅地、神野町西條に用地決定」の見出しで取り上げています。

 読んでおきましょう。*文体は変えています。

    大規模モデル県営住宅建設(神野西條) 

 県で東播地方の急速な工業化に伴って、当地方最大のモデル住宅団地を建設を進めます。

 場所は、神野駅を中心に県道加古川-小野線の両側で約66万平方㍍(約20万坪)の宅地を造成し、完成後は1万人の人口がふえることになる予定です。

 具体的な建設構想は、今後中央と協議して決定されますが、大規模なため、モの中には公共施設、例えば上下水道、ガスの設傭、交通の問題や道路、公園の建設などはもちろんのこと学校、郵便局、消防施設など、にわかに一都市が生れることとなります。

 工事は来年早々から宅地の遭成に取りかかる予定です。

    消えた群集墳

 付け加えておきます。

 日岡山から東の西条山手の住宅開発地には、県下でも珍しいほどの古墳時代(主に5世紀)の群集墳が見られた地域でした。

 宅地開発といいながら、あまり論議のないままに大規模な行者塚・人塚・尼塚だけを残し無残にも削り取られてしまいました。

 もう古代人の生活の跡は簡単な記録にその歴史をとどめるだけとなりました。(no3619

 *地図:新しく住宅地として開発される地域

   ◇昨日の散歩(11,799歩)

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地域(加印)の風を読む(59) 東加古川駅誕生

2017-06-14 07:34:16 | 地域の風を読む

    東加古川駅設置

 山陽本線土山駅と加古川駅の中間に新駅設置を求める声は、市制発足以前より出されていました。

 特に、平岡町新在家の住民より長らく要望されていました。

 市制発足後、工場誘致方針のもとに、新工場の進出が進み、それに伴い新しい市街地が形成されるに及び、ますます新駅を要望する声が高まりました。

 これは、西明石一姫路間電化実現運動ともからみ、市会においても活発に取り上げられました。

 土山-加古川駅距離が山陽本線の他の各駅に比べて相当に長く、国鉄(現JR)自身も駅の設置の必要を認めていましたが、問題は費用の負担でした。

 国鉄側は、請願駅とし、全額地元負担を求めたのに対して、市としては市制発足早々の財政難の中でできるだけ地元負担の少ないかたちでの実現をめざしたかったのです。

 昭和316月には、平岡町新在家の地元代表が市役所を訪れ、新駅設置のための強力な運動を起こすよう陳情しました。

    東加古川駅は請願駅(建設費地元負担)で

 結局、新駅の建設費は地元負担の請願駅ということになり、昭和33年秋、新駅設置が国鉄理事会で決定されました。

 早急に資金計画の必要が求められた。

 市は県の補助を受けたうえで起債によりまかなうことになりました。

 翌、36101日完成し、東加古川駅としてスタートしました。(no3618

 *『加古川市議会史(記述編)』参照

 *写真:東加古川駅開業

 ◇メモ:昨日の散歩(10.352歩) 

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地域(加印)の風を読む(58) 平荘湖ダム建設

2017-06-13 06:48:59 | 地域の風を読む

 「広報加古川(昭和363月号)」は平荘湖建設のニュースを伝えています。

 『加古川市議会史(記述編)』から、その内容をみておきます。

     平荘湖ダム建設

 加古川市は、工業誘致に積極的に取り組み、工業都市としての発展をめざしました。

 しかし、そのための多くのインフラが未整備でした。

  特に、工業用水の確保は急を要しました。

  昭和3211月には、加古川市工業地帯整備促進協議会が発足し、市会においても工業用水ダムの必要性が認識され、同年10月、議員総会で「加古川上流に一ヵ所代表的なダムを建設する」案が提出されました。

  ダム建設に向けて具体的に動き出したのは、国庫補助が確定し、昭和351月に入ってからでした。

 359月には神戸製鋼所誘致が本決まりとなりました。

 「平荘町又平新田の升田山など4つの山を土手で環状につなぎ、水面積1.3方キロメートルのダムで、総工費315000万円、貯水量88万トン、加古川よりポンプアップする」という計画でした。

 45年完成予定でした。

    難航した保障交渉

 ダム建設によって100万平方メートルが水没します。

 また、又平新田にある市立養老院と約30戸が水没することになりあました。

 地元民は、将来に対す生活に対する不安はぬぐえず、誠意ある県の対応を求めました。

  交渉は難航しました。

 37311日付けの神戸新聞は、「東播工業地帯の工業用水を確保する加古川県営工業用水ダムは既に着工の段階に入っているが、10日、残っていた地元又平新田地区の保障要求がまとまり加古川工業用水建設事務所に提出した・・・同案では、県の案と大きなへだたりがあり、今後の交渉にくらい影を投げかけている」と報じています。

 市会ダム対策特別委員会は補償交渉の解決に向けて両者の斡旋に乗り出し、3712月、難産の末、県と地元との最終合意がまとまり、昭和38年に入り、本格着工となりました。

 414月、待望の貯水がはじまり、71日ダムは完成しました。(no3617)

 *『加古川市議会史(記述編)』参照

 *写真:平荘湖の風景

メモ:昨日の散歩(10.454歩)

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地域(加印)の風を読む(57) 工場誘致決定をみるも(6)・日本製麻跡地問題(2)

2017-06-12 08:22:55 | 地域の風を読む

  大型スーパ-の加古川進出はんた~い

 日麻跡地ショッピング構想に対しては、市長は否定的見解でした。また、議会は全会一致で反対の意思を示したのでした。

 しかし、この間題について、市は道接の規制権限をもっていませんでした。

 日麻跡地の超大型店構想に対する反対運動を進めていた商連協は、ニチイ進出の正式決定の後、昭和53年1月23日,加古川市中小企業危機突破総決起大会を開きました。

 同大会には全市から小売業者が集まり、日麻跡・ニチイ進出絶対反対などの議案を採択しました。

 しかし・・・・

 その後、日麻跡地構想は、ニチイ進出の方向で、更に新しい展開を見せることになります。

 日麻跡地へのニチイの進出計画がある中で、さらに日本毛織加古川工場の用地(日毛跡地)に、大規模なショッピングゾーンを建設する構想が現れました。

 昭和542月に、日本毛織は同工場用地の一部を総合福祉会館などの建設用地として加古川市に寄附することを申し出たが、同工場用地の他の部分については大規模ショッピングゾーンに転換する計画が進める、と伝えられたのです。

   かくて、地元小規模商店は衰退に

 ニチイ進出に強く反対しにニッケ跡地のショッピングセンター構想にも反対していた商連協が、昭和549月に提出していたニッケショッピングセンターに反対する陳情を、翠553月に取り下げたのです。

 裏取引の匂いを感じます。

 そして、日岡廉売市場商店会会長などから日毛ショッピングセンター建設反対の陳情が提出されたが、すぐに3月議会で不採択とされてしまいました。

 ニッケパークタウン計画については、一部からの反対へと状況が変わってきたのです。

 そして、商工会議所主導型と呼ばれる方式で、地元商業界との事前調整を図っていくことになりました。

 すなわち、商工会議所が店舗新設者と地元商業者との調整作業を行っていく方式です。

 結果としては、その後怒涛のように大型スーパーが加古川に進出し、地元小規模商店をなぎ倒すことになりました。(no3616

 *写真:日本製麻跡にある現在のスーパー(’17610撮影)

 ◇昨日の散歩:8240

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地域(加印)の風を読む(56) 工場誘致決定をみるも(5)・日本製麻跡地問題(1)

2017-06-11 06:45:41 | 地域の風を読む

    日本製麻跡地問題(1)

 日本製麻は、昭和34年、加古川市平岡町に兵庫工場を立地しました。

 同社は黄麻袋などのメーカーでしたが、繊維不況による経営不振のため、昭和509月、閉鎖することになりました。

 そして、約13万平方メートルの同跡地を加古川市が公共用地として36億円で買収することになりました。

 学校、公園、福祉施設などの用地として、市の土地開発公社が取得する計画でした。

 この買収計画については、同年9月の議会で紛糾しました。

 巨額の財政負担を伴うにもかかわらず議会との事前の協議がなかったこと、労働者の解雇問題があること、土地利用計画が明らかでないこと、などがその理由でした。

 ・・・・

 約1年後、日本製麻社長は、昭和52520日、工場跡地をハイパー・マーケットに転用する構想を発表しました。

 それによると、デパート、スーパー、一般店舗を置くほか、飲食サービス街、カー・オートショッ、ドライブインなどを配置し、また2,000台収容の駐車場を設置するというものでした。

 同年8月に着工し翌53年1月開店の計画で、キーテナントとして、ニチイなどの名が挙げられました。

 大規模なショッピングセンターの構想であり、6月の議会で多くの反対意見が提出されました。

 この構想に対して、市内の商店街などの小売業者は全市的な組織である加古川市商業連盟協議会(商連協)は、小売店舗は、既に過剰状態であり,この構想は死活間題であると強硬に反対をしました。

 強い反対に出会って、日本製麻は8月に方針を変更し、協同組合方式のショッピングセンター構想を進める提案にあらためました。(no3615

 *『加古川市議会史(記述編)』参照

 *写真:日本製麻跡に建設工事が進む加古川ショッピングデパート(昭和57年撮影)

 ◇メモ:昨日の散歩(11624歩)

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地域(加印)の風を読む(55) 工場誘致決定を見るも(4)

2017-06-09 09:14:24 | 地域の風を読む

    市の中小商店保護への消極的姿勢

 昭和51年から53年にかけて、中小商店の保護を表明する市会の会派から、その対策について繰り返し質間が発せられました。

 が、取り上げられた主な事項としては、融資制度の貸付枠の拡大、受注センターの設置、商工課の部あるいは室への格上げなどでした。

 市長は「この不況を乗り切るため、当加古川市といたしましても、市としてのできるだけの対策をしていく努力を怠るわけでございません(昭和511218日、本会議)」と述べ、消極的な姿勢でした。

    市場(商店)の乱立

 昭和40年代後半の大型店、生協の進出に次いで、新しい形態の小売店であるコンビニエンス・ストアの登場、新しい小売市場の建設計画などが続き、昭和50年代の初めには市場の乱立であるとして規制が求められるようになりました。 

 そして、加古川市はこれに関して、昭和52年4月、「加古川市小売商業活動の調整に関する要綱」を定めて調整に当たることになりました。

 この要綱は、大規模小売店舗法の適用外となる店舗面積1,500平方メートル未満の店舗を中心として、その新設などに関して調整を行おうとするものでした。

 第1条で要綱の目的が次のように規定されています。

 「この要綱は、消費者の利益を考慮しつつ小売商業店舗の適正な配置並びに当該店舗における事業活動を調整することにより、小売商業の正常な発達を確保し、もって地域社会の健全な発展に資すことを目的とする。・・・」

 が、外部からの進出が相次ぎ,既存の商店とのあつれきも見られるようになりました。そこへ新たな動きが加わることになったのです。

 超大型店(スーパーマーケット)の建設構想です。

 市内の商業の状況は「戦国時代」を迎えようとしているといわれるものになってきました。

 そこへ、大日製麻跡地へ大型商業施設計画が持ち上がりました。(no3613

 *写真:賑わいが消えた寺家町商店街(‘1768、午後3時ごろ撮影)

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地域(加印)の風を読む(54) 工場誘致決定をみるも(3)

2017-06-08 07:00:37 | 地域の風を読む

 昭和479月には加古川産業会館にジャスコとエーコープ兵庫が開店し、翌486月には加古川ニッケビルにダイエー加古川店が開店ました。

 相次ぐ大型店の進出で、既存の商店街などは大きな影響を受けることになり、されに、灘神戸生協の市内進出などが続きました。

 このような大型店の進出の動向については、議会では少し前から、懸念が示されていたことが現実のものとなってきました。

     中小企業振興策を

 このような状況の中、次のような中小商工業者に対する施策の充実を求める声が発っせられています。

 ・・・いまや当市中小商工業者は、外部より打寄せる各種大規模なる企業の進出に対し、その競争力に乏しく、日を追って圧迫侵食されていくことは、強者弱肉を食む資本競争の中において、火を見るより明らかな事実であり、このときにこそ当市の中小商工業者を強く擁護する施策を取り、中小企業育成振輿策について思い切った英断と実行をこいねがうものであります。(昭和45317日、本会議)

 昭和46年には産業会館へのジャスコの進出が具体化し、翌472月には地元商店街との共存共栄の視点から地元の同意が決められました。

 議会では市の商業振興策について次のように厳しい批判的意見が出されました。

    商業振輿対策のおくれ

 ・・・元消防署跡に、建設中のビル完成後は某大型スーパーが進出し、大々的に営業を始めるのだ、と聞いております。

市民にとりまして、大きなスーパーがくるということは、まことに喜ばしいことであります。

 が、しかし一方において、赤字財政が原因で、他都市に比べてその公共的投資事業が格段に低かったこの加古川で、何代も前から居住し、そして町の発展を願い、市長の政治的配慮を心から期待し、待ち続けてきた駅前通り寺家町商店街の人々の将来について、市長は真剣にお考えになられたことがおありでしょうか。

当局が、この間題に関して、ものの見方、考え方、取組む姿勢に間違いがあると断言せざるを得ません。

市当局がもっと早く、この商業振輿対策間題に真剣に取組み、公共事業の投資をしておれば、現在のようなさびれは決してなかった、と考えられます。・・・(昭和47316日本会議)

 これに対して市長は「当市の商業の状況は、たしかに遅れておる、という

ことを、われわれも実感しております」(同上)と取り組みの遅れを認めています。(no3612

*『加古川市議会史(記述編)』参照

*写真:寺家町商店街の賑わい(昭和45年撮影)

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地域(加印)の風を読む(53) 工場誘致決定をみるも(2)

2017-06-07 09:18:18 | 地域の風を読む

 加古川市は、日本製麻等の加古川進出にみられるように、昭和35年前後から工場の立地が盛んになり、工業化が進展し、それとともに人口が増加していきました。

 そして、昭和40年代に入ると人口増が著しく、都市化が進みました。

 このような人口増加および都市化は既存の商業に発展の機会を与えるものでしたが、同時に外部からの店舗の立地を誘うものでした。

 また、国鉄(現:JR)の電化などにより大都市での買物を容易にし、市内の商業に影響を与えることになりました。

    大型ピングセンターの進出

 昭和30年代後半に入ると、工業化の進む中で商業の分野にも大きな変化がおこり始めました。

 交通の便による他市との競争の激化でした。

 また、住宅団地の建設に伴い,新しいショッピングセンターの計画なども見られるようになりました。

   神戸・姫路方面への買い物

 このような変化の中で、議会では次のような質問が出されています。

 ・・・商店の問題については、現在当市会においても、寺家町のアーケード、駅前アケートには、部分的なお手伝いをしておりますが、もっと抜本的な対策がなされなければならないのでなかろうか、と思います。

 また、交通の便がよくなるにほど、加古川の中心街、また各商店街がすたれていく現状において,いかようにして、産業文化都市としての加古川の面目があろうかと思うのであります。

市理事者(市長)といたしまして、これに対して、どう対処されるか、具体的なご答弁をお願いしたいと思います。・・・(昭和38年3月19日本会議) (no3611)

 *『加古川市議会史(記述編)』参照

 *写真:駅前通り(現在のオクダ楽器店あたりから国道2号線方面を見る‐平日の風景ですが多くの人出がみられます。(樹林舎:『加古川・高砂の昭和』より)

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