ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

文観(35) 五ヶ井用水と西大寺技術集団(4)

2020-09-30 10:48:33 | 文観(もんかん)

    五ヶ井用水と西大寺技術集団(4)

 加古川下流域左岸の「五ヶ井(ごかい)用水」と西大寺勢力との関係を注目しています。

  五ヶ井修築に関係する伝承・寺伝があるのは、加古川市加古川町大野の常楽寺、加古川市加古川町北在家の鶴林寺、そして元は加古川宿にあった加古川市加古川町寺家町にあった常住寺です。

 常楽寺は、西大寺の末寺帳にあるように、播磨における筆頭末寺です。

 鶴林寺には、叡尊(西大寺中興の僧)が法華山で盛大な授戒活動を行なった後の帰路の弘安八(1285)年八月九日に宿泊しています。

 また、鶴林寺の応永の復興の建築物群が典型的な折衷様であり、鶴林寺の大工集団が南都系の姓であることなどから、鶴林寺に西大寺系勢力が入り込んでいたことは確実です。

 前回紹介したように、常住寺には、五ヶ井の井堰起工の当初、(日岡の神と聖徳太子)とが常住寺で会議して本尊に祈誓し、工事が成就した」という寺伝があります。

 この伝説は、日向明神(日岡神社)が支配権を有していた「原五ヶ井」の抜本的改修を、大野の常楽寺が主導する西大寺勢力が行った事実の反映と考えられます。

 西大寺勢力も、熱烈な聖徳太子信仰を有していました。

 日岡神社の別当寺であった常楽寺は、日岡神社信仰と聖徳太子信仰とを結合する位置にありました。(no5103

 *写真:五ヶ井用水取水口(二筋の水路に分かれていますが、左の水路は、新井用水の取水口・加古川大堰のところ

 

 加古川下流域左岸の「五ヶ井(ごかい)用水」と西大寺勢力との関係を注目しています。

  五ヶ井修築に関係する伝承・寺伝があるのは、加古川市加古川町大野の常楽寺、加古川市加古川町北在家の鶴林寺、そして元は加古川宿にあった加古川市加古川町寺家町にあった常住寺です。

 常楽寺は、西大寺の末寺帳にあるように、播磨における筆頭末寺です。

 鶴林寺には、叡尊(西大寺中興の僧)が法華山で盛大な授戒活動を行なった後の帰路の弘安八(1285)年八月九日に宿泊しています。

 また、鶴林寺の応永の復興の建築物群が典型的な折衷様であり、鶴林寺の大工集団が南都系の姓であることなどから、鶴林寺に西大寺系勢力が入り込んでいたことは確実です。

 前回紹介したように、常住寺には、五ヶ井の井堰起工の当初、(日岡の神と聖徳太子)とが常住寺で会議して本尊に祈誓し、工事が成就した」という寺伝があります。

 この伝説は、日向明神(日岡神社)が支配権を有していた「原五ヶ井」の抜本的改修を、大野の常楽寺が主導する西大寺勢力が行った事実の反映と考えられます。

 西大寺勢力も、熱烈な聖徳太子信仰を有していました。

 日岡神社の別当寺であった常楽寺は、日岡神社信仰と聖徳太子信仰とを結合する位置にありました。(no5103

 *写真:五ヶ井用水取水口(二筋の水路に分かれていますが、左の水路は、新井用水の取水口・加古川大堰のところ

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(34) 五ヶ井用水と西大寺技術集団(3)

2020-09-29 07:30:44 | 文観(もんかん)

         五ヶ井用水と西大寺技術集団(3)

 鎌倉時代の農業は、鋤・鍬使う農業でしたが二毛作も始まっています。

 人口も増えました。商業活動も盛んになりました。

 『加古川市史』は、「農業生産を高める用水の必要性を認めながらも、この時代には、農業技術の発達はまだなく、五ヶ井用水の完成は、農業技術の発達は戦国時代を待たねばなりません」としています。

     西大寺技術集団

 唐突に、ここに鎌倉時代の西大寺派の農業技術集団が登場します。

 一般的に鎌倉時代に、大河に堰を設けるなどということは、技術的に不可能と思われていたのです。

 でも、私たちの地域には、その技術がありました。

 五ヶ井用水は、北条郷から始まり、加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄の水田を潤しています。

 常樂寺は、大野(加古川市加古川町大野)は、北條郷にある西大寺派の有力寺院でした。

 五ヶ井用水の改修には、この西大寺派の農業土木技術が使われたと想像されます。

 もう少し説明が必要ですが、五ヵ井用水が現在のような水路に改修されたのは1315年ごろ、つまり、鎌倉時代と考えられるようになりました。

 論理が飛躍しているようで、ストンと腑に落ちないでしょう。

 西大寺農業土木技術集団の話を続けます。(no5102

 *写真:現在の五ヶ井用水

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(33) 『加古川市史」は五ヵ井用水の改修の完成を戦国時代としているが

2020-09-28 08:13:36 | 文観(もんかん)

  五ヶ井用水と西大寺技術集団(2)

   『加古川市史」は五ヵ井用水の改修の完成を

        戦国時代としているが。

 以下は、平成29年度氷丘公民館地域学講座「日岡の文観(1315年前後を中心に)」、兵庫大学教授金子哲氏の講演を参照にさせていただいています。

・・・・

 一般論として、鎌倉時代の農業は、鋤・鍬使う農業でしたが二毛作も始まっています。

 人口も増えました。商業活動も盛んになりました。

 『加古川市史』は、「農業生産を高める用水の必要性を認めながらも、この時代には、加古川という大河を利用した用水を造る技術がまだなく、五ヶ井用水の完成は、農業技術の発達は戦国時代を待たねばなりません」としています。(no5101

 *図:五ヶ井用水水路図

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(32) 五ケ井用水の成立は、室町時代(戦国時代)か?

2020-09-27 10:14:21 | 文観(もんかん)

   五ヶ井用水と西大寺技術集団(1)

     五ケ井用水の成立は、室町時代(戦国時代)か?

 気まぐれですが、ここで話題を「五ヶ井用水」に変えます。

 五ヶ井用水の伝承はともかく歴史の古い用水です。

 加古川下流の左岸(東岸)は、右岸(西岸)と比べて、流れがゆるやかで早くから安定し、聖徳太子の伝承が引き合いにだされるほど古い用水です。

 「五ヶ井用水」は、北条郷・加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄という五ヶ井郷(庄)の用水であるところから名づけられた名称です。

 これらの名称からも推測できるが溝は古くからありました。

 それでは、五ヶ井郷が一体の井組として成立したのはいつのことでしょう。

 『加古川市歴史』は、郷村制の解体しきっていない時代、つまり室町時代(戦国時代)のことと考えられるとしています。

     五ヵ井用水改修の土木技術

 『加古川市史』は次のように説明しています。

 加古川は大河であり、暴れ川でした。古代より幾度となく洪水を引きおこしています。

 こんな大河の締め切り工事をし、洪水の時にも崩れない堤や樋門を築き、大川から安定して取水できるようになるのは、技術の進歩を待って後のことです。

 すなわち、これらの土木技術の発達は戦国時代をまたねばなりません。

 五ヶ井用水は多くの村々を貫く大きな用水です。

 これらの用水を一体のものとして利用するには、利害の対立する地域全体を支配する領主の出現を待たなければなりません。

 天正六年(1578)三木城は、秀吉軍に敗れました。秀吉は、土木技術の専門家でもあったのです。(no5100

 *図:五ヶ井用水路図『五ヶ井用水路図』(兵庫県五ヶ井土地改良区)より

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(31) 常楽寺の宝塔

2020-09-26 10:39:30 | 文観(もんかん)

   常楽寺の宝塔

 前回の続きです。

 常楽寺の墓地にある宝塔も材質(花崗岩)、様式等から伊派の手による石造物であることはたしかです。

 この宝塔について『加古川市の文化財(加古川市教育委員会)』(昭和55年)に次のような説明があります。(文章は変えています)
   
  (常楽寺宝塔)
  花崗岩製
   高さ   2.35メートル
  銘文  正和四年(1315)乙卯八月 日 
  
 願主  沙弥道智

この塔は、通称・文観上人慈母塔と伝えられ、文観(もんかん)が常楽寺中興として存在の時、慈母をここ葬ったと『播磨鑑』は伝えています。

   道智は、東大寺戒壇院の律僧

 『播磨鑑』の著者、平野庸脩(ひらのようさい)は何をもとにしてこの銘文を書いたのでしょう。

  また、塔身の銘文「願主道智」をどのように解釈すればよいのでしょうか。

 『播磨鑑』が書かれたのを元禄時代(16881704)としても、「文観慈母塔」の造られた正和四年(1315)とは、およそ400年を経ています。はっきりしたことは分からなくなっていたのでしょう。
 『播磨鑑』の説をそのまま信じるのは少し強引です。
  今まで宝塔の銘・願主「道智」は、謎の人物とされてきました。

それは、道智は西大寺直属の律僧であると決めつけて研究されてきたようです。道智は見つかりませんでした。

 ところが、兵庫大学の金子先生(中世史)は、律宗は他の律宗系列とも関係しており、東大寺戒壇院の僧・凝然(ぎょうねん)の「円照上人行状」に道智を発見されています。

 そこには「・・・道智は、常陸の人、本(元)忍性上人之門人・・・」と書かれています。

 忍性の師は叡尊です。とすると、道智は、もと西大寺系の律僧だったようです。

 常楽寺の宝塔が造られた正和四年(1315)の文観は後醍醐天皇と大接近をしていた時でした。(no5099

*写真:常楽寺墓地宝塔(写真中央)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(30) 東播磨正和石塔群造立の背景

2020-09-25 10:42:46 | 文観(もんかん)

        東播磨正和石塔群造立の背景

 八田洋子氏は、福田寺層塔の解説文の中で、「播麿地方には、正和の銘の入った石造物が四基ある・・・(中略)・・・これらは、中央の伊派の作晶であることが考えられる」という重要な指摘をされています。

 この四基の石造物とは、常楽寺宝塔・報恩寺五輪塔・一乗寺笠塔婆・福田寺層塔のことです。

 これらの石塔群を山川論文では「東播磨正和石塔群」と一括して紹介されています。

 この東播磨正和塔群のうち、常楽寺宝塔と福田寺層塔の基礎格狭問の形状が非常に類似する点は、先に紹介したように八田氏によって指摘されています。

 この他にこれらの石塔間の共通点を探るなら、石塔が造立さている場が、いずれも文観や西犬寺と関係の深い寺院であることです。

 一乗寺笠塔婆が後醍醐天皇(実際は即位前〉の「勅」よって、文観を中心に造立されたものである可能性を示唆されています。

 一乗寺の傘塔婆造立の一年数か月後に後醍醐天皇が即位しています。

 そして、鎌倉幕府打倒の計画、つまり「正中の変」と奈良の般若寺文殊像造立の関係(詳しくは、『異形の王権(網野善彦著)』を参照ください)から推測すれば、束播磨正和石塔群は、後醍醐天皇(尊治親王)の即位を祈願して造立されたものだという推測が成り立つようです。

 おそらく、その中心にいた人物は文観であり、石塔はその影響の強い場(寺院)において造立されたのであると考えられます。

 以上が、山川論文の要旨です。

 専門的な点を大幅に省いて山川論文を紹介しました。そのため内容が正確に伝わっていないのではないかと心配しています。

 山川均論「東播磨の中世石塔と文観」(「奈良歴史研究」第86号)をお読みください。(no5098

 *写真:宝塔(常楽寺・加古川市加古川町大野)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(30) 福田寺の層塔

2020-09-24 11:23:07 | 文観(もんかん)

       福田寺の層塔

 自宅から2キロほど西へ行くと稲屋(加古川市加古川町稲屋)の集落があります。

 稲屋は、『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという場所です。

 研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。

 稲屋の近くにある泊神社は、地域の氏神であり、古代の港(水門・みなと)の守護神であったと考えられています。

 この稲屋に福田寺という古刹があります。「ふくでんじ」と読みます。

 福田寺の山門をくぐるとすぐ左(西側)に、現高355㎝の花崗岩製層塔があります。

 現在は十一重ですが、本来は十三重であったと思われます。

 塔身(初層軸)には、三面に如来像を浮き彫りされています。

 この反対の面の如来像両協に銘文があり、銘からこの層塔は、正和二年(1313)に、尼西河弥陀仏を願主として造立されたものであることがわかりました。

 大野の常楽寺の宝塔と比較すると格狭間の下端幅は福田寺噌塔の方が狭いことが判明していますが、研究者は、「この層塔の格狭間(こうざま)は、常楽寺宝塔の基礎格狭間と酷似しており、格狭問が入る区画の規模は両者でまったく共通し、かつ格狭間自体も酷似ている」と指摘されています。

 したがって、「その地理的・時期的近さを考えると福田寺層塔と常楽寺の宝塔は同じ石工(集団)によって造立されたとみなしてよい」とされています。

 

 西大寺と後醍醐天皇は密接な関係を持っています。その西大寺で文観は一時籍を置いています。

 ここでも、西大寺・後醍醐天皇・文観の結びつきが浮かび上がってきました。(no5097

 *写真:福田寺の層塔

 *「東播磨の中世石塔と文観」(山川均論文)参照

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(29) 法華山の一乗寺の傘塔婆

2020-09-23 08:50:52 | 文観(もんかん)

         法華山の一乗寺の傘塔婆

 文観が正応三年(1290)、一乗寺において慶尊律師の下で得度(とくど・出家)しました。

 文観13歳の時でした。

 ということは、文観が小僧として常楽寺(加古川町大野)に入ったのは10歳ごろだったのかもしれません。

 一乗寺の正門付近は、高さ290㎝の大型の笠塔婆(凝灰岩製)があります。

 文字は読みにくいですが、写真をご覧ください。

 塔身正面の上部に種子(梵字)「アーク(大日如来)」と彫り、その下に大きな字で「金輪聖王」、その下に少しあけて「自金堂一町」と彫られています。

 その下に、やや小さな字で「正和五 十二月廿一日」「依 勅造立之」と二行に分けて刻まれています。

 この笠塔婆は、正和五年(1316)十二月に造立されたものであることを知ることができます。

 「勅」というのですから、通常ならは天皇による命です。

 この傘塔婆の場合「金輪聖王」という表現に注目ください。

 文観は、よく知られているように後醍醐天皇のことを、しばしば「金輪聖王」と呼んでいます。

 一乗寺の笠塔婆銘文の「金輪聖王」も、後醍醐天皇を指す可能性は高いと考えられています。

 また、一乗寺と文観の関係を考えればその可能性はますます高まります。

 また、ある学者は、一乗寺の傘塔婆にある梵字・アーク(大日如来)の字体は文観の字体によく似ているといわれています。

 なお、この傘塔婆については、後醍醐天皇がこの場所で輿を降りられたので、その後はいかなる貴人もここで下乗するようになったという伝承があります。

 文観・一乗寺・後醍醐天皇は、つながっているようです。(no5096

 *写真:一乗寺の傘塔婆

 *「東播磨の中世石仏と文観(山川均先生の論文)」参照

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(28) 報恩寺の五輪塔      *平荘町山角  

2020-09-22 10:47:02 | 文観(もんかん)

    報恩寺の五輪塔  *平荘町山角

 前回、報恩寺の層塔を紹介しましたが・今回も同寺の五輪塔の紹介です。

 『加古川市史(第一巻)』を読んでみます。

 ・・・・五輪塔の作者は大和伊派(いは)の名工、伊行恒(いのゆきつね)であるという、・・・・伊行恒は、大和を根拠地にしながら、摂津の御影を中心にその活躍が知られている。

 その伊派の石工たちたちが深く関係したのが、大和の西大寺の叡尊(えいぞん)・忍性であって、叡尊・忍性が「殺生禁断」の記念碑として各地に建立した十三重の塔は、すべて伊派の石工たちが刻んだものであったとこともよく知られている。・・・・

 報恩寺の層塔は、形式などからも伊派の石工による作品として間違いがなさそうである。

 報恩寺の層塔の銘を読んでおきます。

   銘文   常勝寺

         元応元年 巳未(1319

         十一月六日

 銘には、常勝寺とあり、報恩寺ではありません。

 報恩寺は、もとは常勝寺であり、後に西大寺の末寺の真言律宗寺院になったようです。

 真言律宗・叡尊・忍性の歴史的重要性については、もっと紹介される必要があります。(no5095

 *『加古川市史(第一巻)参照』

 写真:報恩寺の五輪塔 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(27) 伊派石工集団

2020-09-21 09:02:06 | 文観(もんかん)

 文観を追いかけていますが、西大寺の石工技術集団について付け加えておきましょう。

       伊派石工集団

 常楽寺の墓地に立派な宝塔があります。

 この近辺は石の産地であり、石造物はそれらの石を材料とするのが普通です。

 近辺で産出する石は、凝灰岩で、やわらかく細工がしやすく、従って、安く作ることができます。

 常楽寺の宝塔は、凝灰岩ではありません。硬い細工の難しい花崗岩を材料とした宝塔です。

 報恩寺(平荘町山角)の四基の五輪塔も花崗岩です。

 そして、報恩寺には見事な花崗岩の十三重の層塔があります。

 常楽寺の宝塔や報恩寺の層塔・五輪塔は、他所で完成させ、ここ に運ばれたものと思われる。

 これらの宝塔・十三重の層塔・五輪塔は、ともに西大寺の石工集団伊派の製作による石造物といわれています。

 当時、硬い花崗岩に見事な細工を加工する技術を持った石工集団は、西大寺の石工集団より見つけることはできません。

 報恩寺の五輪塔について、『加古川市史(第一巻)』を読んでみます。

 ・・・・五輪塔の作者は大和伊派(いは)の名工、伊行恒(いのゆきつね)であるという、・・・・伊行恒は、大和を根拠地にしながら、摂津の御影を中心にその活躍が知られている。

 その伊派の石工たちたちが深く関係したのが、大和の西大寺の叡尊(えいぞん)・忍性であって、叡尊・忍性が「殺生禁断」の記念碑として各地に建立した十三重の塔は、すべて伊派の石工たちが刻んだものであったとこともよく知られている。・・・・(『加古川市史・第一巻』より)

 以上は、報恩寺の花崗岩でつくられた報恩時の石造物の説明ですが、研究者によれば常楽寺(加古川町大野)の宝塔も、形式などからも伊派の石工による作品として間違いがないと指摘されています。(no5094

 *写真:報恩寺(加古川市平荘町山角)の十三重の層塔

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(26) 南北朝正閏論(2)

2020-09-19 21:24:54 | 文観(もんかん)

 前号の続きです。

 円福寺(東志方高畑)の本堂に向かって右隅に、(県指定文化財の宝筐印塔(ほうきょういんとう・写真)があります。宝筐印塔には康暦元年の銘が刻まれています。

      北朝年号(康暦元年)

 康暦元年(1379)」は、南北朝時代の北朝年号で、南朝年号では天授五年です。

 赤松四代当主・義則が赤松家所領の五穀豊饒を願い、また「一結衆」とあるところから赤松一族の安寧祈願、さらに赤松一族の供養塔として造立したものと思われます。

 この宝筐印塔の「北朝年号」からもわかるように、赤松本家は、曲折はあったものの足利尊氏(北朝方)として活躍し、後醍醐天皇(南朝方)に敵対し、時代を乗り切ります。

 江戸時代までは、北朝側であろうが、南朝側であろうがあまり問題とならなかったのですが、明治時代となり突如「南朝正閏論(せいじゅんろん)」が声高に叫ばれるようになりました。 

 そして、日本が戦争に突き進んでゆくにつれ、北朝を支持した赤松氏の逆賊度はますます高くなり、赤松氏は歴史上、全く評価されなくなりました。

 明治時代~戦前にかけて北朝支持を色濃く残す私たちの地域の立場は微妙であったと想像します。

 戦後、そんな歴史は間違いであるとして、足利尊氏・赤松氏の再評価がなされるようになりました。

 円福寺の宝筐印塔の加古川市教育委員会の説明には「・・・基礎正面に康暦元年の銘がり南北時代の遺品であることがわかる・・・」とありますが、北朝年号であるとの説明がありません。

 「北朝年号の説明がないのは、なぜ?」。もどかしい気持ちが少し残ります。(no5093

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(25) 南北朝正閏論(1)

2020-09-19 07:46:54 | 文観(もんかん)

 後醍醐天皇・文観は亡くなりました。激動の人生をおえました。

 シリーズ「文観」もおわりになりますが、少しだけ余話として、「南北朝正閏論(なんちょうせいじゅんろん)」に触れておきます。

      南北朝正閏論(1)

 「南北朝正閏論(なんぼくせいじゅんろん)」、もうあまり聞かれなくなった言葉です。

 南北朝正閏論の発端は、明治44年1月15日の「読売新聞」の社説でした。

 ここでは水戸学の南朝正当論から「学校の歴史の教科書で南朝と北朝を並べているのはおかしい」という論調でした。

 第二次桂内閣の時でした。 

 野党の立憲国民党はこの問題を倒閣運動に結び付けようと飛びついたのです。

 この時、桂太郎は、元老の山片有朋に相談して明治天皇の勅裁を受け、ここで法律として南朝が正当であると決められました。

 以来、足利尊氏は南朝に敵対した『逆賊』とされました。

 昭和9年には、「足利尊氏は人間的なすぐれた人物である」と書いたために斉藤実(まこと)内閣の商工大臣は辞職に追い込まれるという事件もおきました。

 戦前、足利尊氏は完全に『逆賊』とされてしまいました。

     足利・赤松一族の研究は戦後

 ことは足利一族だけにとどまりません。私たちの地域・播磨地域を支配したのは赤松一族で、播磨地域は足利の家来として活躍した武将です。

 となれば、当然赤松も逆賊扱いということになります。

 東播磨地域は赤松の勢力下にありました。つまり、北朝方でした。

 そのため、戦前赤松一族の公平な評価・研究はなされませんでした。

 赤松の研究は戦後になってからの事です。(no5092)

 *写真:北朝の年号を持つ円福寺(志方町高畑)の宝篋印塔(詳細については次号で

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(24) 文観ルート

2020-09-18 10:53:47 | 文観(もんかん)

      文観ルート

 話を少し戻します。

 後醍醐帝が討幕の行動をおこした時、寺院がその都度拠点となっています。

 当初、元弘の乱によって後醍醐天皇が都を落ちていったのは笠置山であり、そこの笠置寺にこもりました。

 隠岐島から脱出、船上山に大山寺(だいせんじ)の僧兵を頼りに陣を張りました。

 「建武の新政」の失敗から再度、都を捨てて吉野蔵王堂を行在所として、後に河内へ出て金剛寺、さらに観心寺へと行宮を移しています。

 この一連の寺院と関連のある人物を探すと、当時後醍醐天皇の信任が厚かった醍醐寺座主文観僧正の名が浮き上がってきます。

 後醍醐帝はこの討幕挙兵の策謀が露見して、腹心の者たちが捕縛された知らせを受けると、当時、息子の護良親王が座主であった比叡山延暦寺へ逃げ込みました。

 そして、六波羅軍(鎌倉幕府軍)が、比叡山の行在所攻撃にきたという情報がはいると、今度は、山城国金胎寺へ移り、さらに3000人の僧兵を有し要塞堅固な笠置山へと行幸し、笠置寺を行在所として櫓をかまえ、柵をめぐらして城塞化しました。

 後醍醐帝の、一刻を争う事態での迅速敏捷なこの行動は、すべて、文観がかねてから非常時に対する計画をたて天皇に進言していたところによっていたようです。

 楠木正成が後醍醐天皇軍に加わりました。

 その菩提寺である観心寺の僧滝覚坊とは山伏の同業者であり、覚坊と文観と師弟の間であるので、正成と文観は前からの繋がりがありました。

 鎌倉北条軍が大挙して笠置に来攻し、笠置寺の僧兵もこれを迎撃して善戦したのですが、なにぶん歴戦のつわもの関東武士には抵抗出来ず、笠置山も陥落し、後醍醐帝は脱出の途中敵の手におち、京都に還幸のやむなきにいたり、後醍醐帝は隠岐の島に流されたのです。

 後醍醐天皇は、山伏の武力の組織活動に期待して、文観に絶対的な信頼を寄せていました。

 「建武の新政」からの天皇の行動をたどってみると、金剛山伏と楠木正成、大山山伏と名和長年、児島山伏と児島高徳など、いずれも名もなき地方豪族であるがその背後には山伏の存在があります。

 この山伏ルートはいずれも文観とのコミュニケーションのある細胞組織であり、文観は、まさに後醍醐天皇のブレーンであったようです。(no5091)

 *写真:楠木正成像(富田林市の楠妣庵観音寺蔵)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(23) 文観は破戒僧でない

2020-09-17 10:28:51 | 文観(もんかん)

      文観は破戒僧でない

 足利尊氏を後(うしろ)楯(だて)とする北朝に対して、南朝方の劣勢は覆うべくもなく、延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天皇は京郡奪還の夢を果たすことなく、吉野に逃れて三年足らずで世を去りました。52歳でした。

 文観は、正平十二年(1357) 河内金剛寺大門往生院で亡くなりましたが、後醍醐天皇の死後活躍はありません。

 文観の人生は、後醍醐天皇の活躍と重なりました。

  『太平記』によりつくられた文観の評価

 文観の死後の話です。

 文観の宗教は、もっぱら「邪教」真言宗立川流の祖とされて流布されています。この宗派は、「セックスを宗教に持ち込んだ異形の信仰である」としています。

 この説は『太平記』により広がった説を言えるようです。

 後醍醐天皇が亡くなり、足利尊氏の時代が始まりました。

 足利幕府によりつくられた公認の歴史書と言える『太平記』では、後醍醐天皇の政治・文化をよく書くはずがありません。後醍醐天皇の時代を否定するのは当然のことです。

 当然のごとく文観の評価も否定され、「文観の教えは、セックスを利用した邪教であった」とされました。

 歴史学者の兵藤裕己氏は、『後醍醐天皇』(岩波新書)で、次のように述べておられます。

 ・・・従来は、『太平記』等の文観イメージたち、立川流の妖術を使う僧というものでした。

 この『太平記』によって流布した「邪魔外道」の文観のイメージは、近年大きく修正を迫られています。

 すなわち、内田啓一氏等の研究によって、碩学の真言僧としての文観の精力的な執筆活動、またその卓越した画業の全貌などがあきらかにされつつある・・・

最近、従来の流布されていた文観像も改められてきました。(no5090)

*写真:仏僧の彫像(底銘:沙弥文観・正平二年)ウォルターズ美術館蔵

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観(22) 鎌倉幕府滅ぶ

2020-09-16 10:59:07 | 文観(もんかん)

      鎌倉幕府滅ぶ

 元弘二年(1333)五月二十二日、北条時高(31)は、鎌倉の東勝寺で最期を迎えました。

 そして、グレンの炎は次々と自害する諸将を焼き尽くしました。

 死者は600人、みな切腹して果てました。

 鎌倉幕府は滅びました。

      文観の活躍

 元弘三年(1333)六月五日、後醍醐天皇は京都へ凱旋しました。

 引き続き文観が鬼界ヶ島(硫黄島・鹿児島県)から帰ってきました。

 その後の文観の経歴は、華々しいものでした。(南朝年号)

  ・正慶二年(1333)  硫黄島から帰洛

  ・建武元年(1334)  このころまでに醍醐寺座主・東寺大勧進職

  ・建武二年(1335)  東寺一長者(真言宗のトツプ)

  ・建武三年(1336)  大僧正に任じられる

 しかし、後醍醐天皇による「新政(建武の新政)」は、前回にみたように失敗し、足利尊氏にうらぎられ、吉野に逃げ込みました。

 時代は、めまぐるしく動きました。

     後醍醐天皇、吉野に死す

 後醍醐天皇は、吉野でひとすら足利尊氏の北朝打倒を目指し祈り続けました。

 しかし、足利氏を後(うしろ)楯(だて)とする北朝に対して、南朝方の劣勢は覆うべくもなく、延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天駁は京郡奪還の夢を果たすことなく、吉野に逃れて三年足らずで世を去りました。

 52歳でした。

 『大平記』は、後醍醐天皇の最期の言葉は「身は、たとえ、南山(吉野山のこと)の苔になろうとも、魂は京都の政権をのぞむ。足利尊氏の首を我が墓前に備えよ」であったといいます。

 後醍醐天皇の墓は、京都に足に向けて築かれています。

 このことは、かれの京都に対するはかりしれない執念を物語っています。(no5089)

 *写真:鎌倉幕府最後の舞台、東勝寺跡

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする