ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(194):村方万事議定証②

2010-04-30 09:48:45 |  ・稲美町加古

E4ba4f1d_2 『村方万事議定証(むらかたばんじぎじょうしょう)』(以下『議定証』とする)については「稲美町探訪(20)」で少し紹介していますので、お読みください。

この3月『元気まち ふるさと いなみ』(稲美町商工会)が出版されました。

それには、『議定証』について、読み下し分を添え詳しい説明があります。

再度『議定証』を紹介することにします。

きょうは、前回の『議定証』の続きで、『議定証②』としておきます。

(写真は、『議定書』の部分)

   村方万事議定証

 開発が大庄屋と3人の開発者の手で始まると西条組の百姓だけでなく近隣からも次々に移住してきました。

加古新村の開発が始まった万治2(1659)から4年後の寛文3(1663)には入村してきた人たちで一村ができあがりました。

この時149軒を数えました。

移住した百姓は、沢才兵衛・沼田喜平次・本岡治兵衛に誓約書をだしました。

これが『議定証』です。

稲美町郷土資料館に展示されていますので見学ください。

   頭百姓の特権を認める

その誓約書は、次の5項目からなり、3名の百姓は、村内では「頭百姓(とうびゃくしょう)」として、特権的な地位を保証されました。

    御公儀様より出された規則をよく守り、山林・竹林も勝手に取ったりしません。旅人に一夜の宿も貸しません。また、許可なく狩猟・漁業はしません。

    家は、指図の図面どおり長さ5間、横3軒を守り、念を入れてつくります。

    田畑がまだ、開発されずになっている地は、検地までにかいたくし、年貢米は3年目より規則どおり納めます。

    加古新村の百姓になり、田畑を分けていただき感謝しています。その恩に報いるために、今後高に応じて村の諸役はもちろん、米銭の入用は、私たちが負担します。

もし、「私たちが困ったことがあっても、協力ください」というようなことは、決して申しません。

    旦那寺も頭百姓の旦那寺を同じとします。

5項は、百姓は全て上西条・中西条・下村(いずれも現、加古川市八幡田町)の3か寺の檀家になるというものです。

そのため現在の稲美町加古には、今に至るまで寺院がありません。

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稲美町探訪(193):いなみ野フットパス(51)・三、四・・・八軒屋

2010-04-29 10:01:13 |  ・いなみ野フットパス

加古地区の地図を見ていると、三軒屋・四軒屋・五軒屋・六軒屋・七軒屋・八軒屋などの集落名が目につきます。

きょうは、これらの集落名について『稲美町史』を読んでみることにします。

  「三・四・五・六・七・八軒屋」は最初の入植者の戸数

Inamisho5_100 これは、この地に最初に入植した戸数のなごりと思われます。

もちろん、これらの集落名は、最初は非公式な名前であったのでしょうが、それが習慣化し公式な名前になったものでしょう。

  歴史家:稲見悦治氏の意見

加古新村の集落成立の状況は、一年前後の間に一挙に各部落が形成されています。

その戸数の変動も大きかったことから、「三軒屋、四軒屋などの集落名は、集落発生以前から台地開発当時に入植予定数をすでに計画していたのではないか」という、歴史家・稲美悦治氏の考えを記しています。

『稲美町史』を続けます。

この加古新村の形成は、たしかに寛文2年(1662)のほぼ1年間だけでほとんどできあがっています。

しかし、実際にはそれ以前、即ち姫路藩による公式許可の出た万治4年(1661)以前にすでに入植があったと考える方が、その後の急速な開発、集落形成を説明するのに無理がないようです。

そして、それらの入植者の戸数が、後に正式な集落名になったと考えられます。

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稲美町探訪(192):検地役人・加藤弥兵衛

2010-04-27 08:08:46 | 稲美町

検地役人、加藤弥兵衛

Fd1d8a5d きょうの話題は、直接加古新村と関係がありません。

慶安二年(1645)、陸奥白河藩から姫路入りした榊原忠次の頃には、播磨南部を中心として新田の開発が盛んに進められました。

 当地方も万治4年(1661)に、「新田の開拓許可状」(写真上)が出ました。

そして、姫路藩は新田開拓を進めるための後援を惜しみませんでした。

 新田が完成し、検地役人により新田の高などが決められました。 

 もちろん、村にとって高の査定は少ない方がよいのですが、藩にとっては、その反対になります。 

 そのため、姫路藩の役人と百姓との駆け引きがありました。 

 加古新村でも、このころ新田・畑が開発され、役人は収穫高をきめました。 

 明細帳等には検地に当たった役人の名が記録されている。 

 万治4年の開拓許可証にある役人のうち右から3人目の加藤弥兵衛に注目してください。

 彼は、播磨地方南部の各村々の検地にしばしば登場します。

002_2  万治4年の許可証については『稲美町史』(p157159に詳しいのでご覧ください。

   加藤弥兵衛、自刃す  

  伝承によれば、寛文年間、米田新田の開発が完成し、検地が行われた際、弥兵衛は検地におもむき、貧しい百姓のために寛大な措置をとりました。 

百姓にはよろこばれたが、役人として責任を感じ、帰路、籠の中で切腹したと言われています。 

 村人は、これを悲しんで米田に碑(写真下)をたてました。 

 弥兵衛は、藩財政の窮乏を新田開発で切り抜けようとした藩政担当者と農民との間に板ばさみになった犠牲者であったのかもしれません。

 時代は時として、北条直正のような人物を育てます。加藤弥兵衛もそんな一人だったのでしょう。  

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稲美町探訪(191):稲美町の戦争①・防空壕

2010-04-26 08:02:17 | 稲美町

Inamisho5_093 最近、稲美町をドライブしたり、歩いたりしています。

それも天気のよい日がほとんどです。

印南野台地の上を、白い雲がいやにのんきそうに雌岡山の方へ流れていきます。

それに空気がうまい。

帰りは、喫茶店でホット・コーヒーを飲むのが定番になりました。

こんな散策をしていると、やはり気持ちがゆるんでいるようです。

   防空壕

先日、野際(のぎわ)の岡さん(ブログの読者)から、「防空壕をみにいきませんか・・・」とメールをいただきました。

「ハット」しました。

稲美町と戦争がイメージとしてつながっていなかったんです。

各集落の墓地には戦没者の墓があり、神社には忠魂碑があり、稲美町としても戦争の時代があったのは当然のことです。

稲美町の戦争については、後日取材をしようと考えています。(きょうの報告を「稲美町の戦争①」としておきます)

とりあえず、今回は昨日(425日)の防空壕探検の報告を記憶がはっきりしている間にしておきます。

   戦争の証人 

Inamisho5_099 場所は、天満南小学校の南東約500メートルの森(丘)の中でした。

防空壕のある森と道路の間に用水路があります。

最初は、ブッシュで隠れており気づかなかったのですが、用水の上にさらに小さなコンクリートの用水路が架かっており、それを渡ったところに防空壕が3つ残っていました。

入り口が小さいので、動物の巣穴のようす。

戦後も65年も過ぎて、この戦争遺物も入り口が崩れたりで、相当変形しているようです。

それに、入り口は落ち葉で埋まっています。

落ち葉をのけると、入り口はやっと人一人が入れるほどになりました。

入り口の落ち葉は、一昨日の雨をタップリと水を吸って塗れています。

大きそうな、防空壕に侵入してみました。むっと、土のにおいがします。

中は3人ぐらいが短時間隠れることができる空間です。

「この穴は、何かを保存しておく倉庫では・・・」と、尋ねてみました。

同行の岡さんは、子供の頃から、「この防空壕は危ないから入らないように・・・」と何度も注意されたそうです。

やはり、これは防空壕のようです。稲美町の戦争の証人です。

*写真上:防空壕の内部、写真下:防空壕から脱出している私

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稲美町探訪(190):本岡家(加古川市八幡町下村)

2010-04-25 08:32:41 |  ・稲美町加古

本岡家(四代当主は治兵衛)

421  加古川市少年自然の家に八幡町下村にあった庄屋の家(写真)が移築されています。

 元は、一目で分かる杉の生垣のある大きな家でした。

 この家は、八代当主の本岡嘉平治の時、大工船町八左衛門が建てた、と棟札に記されています。

元禄7年(1694)に建てられたもので、江戸時代前期の住宅構造を知る上で貴重な建築で、「県指定文化財」に指定されています。

 本岡家には、当時の農家にしてはめずらしい平書院、長押などが配置されています。

土間は、竹の簀子(すのこ)天井で豪快な梁が縦横にとおり、上が「つし」となっています。

 (つし・・農家で天井や屋根の下につくった物置部屋)

 本岡家は、「元、越中・越前に所領を持った武士であったが、同地方に猛威をふるった一揆の鎮圧に失敗し、帰農を決意し、姻戚の野村城主をたよって、わずかな郎党とともに、この地に落ちのびた」と伝えられています。

 この本岡家の4代当主は、万治元年(1658)上西条・喜平次、中西条・才兵衛とともに、加古新村の開発に当たった四代当主・本岡治兵衛です。

 寛文元年(1661)、藩の許可を受け、近郷の住民を指導し、ついに百十一町歩あまりを開拓しました。

 現在、本岡家は、保存のため、写真のように加古川少年自然の家のキャンプ場の奥に移築されています。

  *『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)、『加古川市史(第七巻)』参照

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稲美町探訪(189):いなみ野フットパス(50)・鳴岡稲荷神社

2010-04-24 00:07:09 |  ・いなみ野フットパス

「稲美町探訪(183)・加古八幡社」の説明の中に「・・・加古八幡社は、加古地区の開発がはじまってから、約20年後の延宝8(1680)に現在の鳴岡神社に仮の社殿を設け、開発人らが氏神として祖先から崇敬してきた上西条八幡神社を勧請して村の守護神としたことに始まります」と書いておきました。

鳴岡稲荷神社を訪ねる

Inamisho5_041稲美町史』では、「鳴岡神社は、享保年中(17161735)に、姫路藩主・榊原政祐が家臣に命じて社殿を建立する」とあります。

ということは、加古八幡社の仮社殿がこの地に建立され、そして八幡社が今の地へ移転した後に京都の伏見稲荷を勧請して鳴岡稲荷神社がつくられたということです。

先日、鳴岡神社を訪れた日は、雨の後で鳥居が印象的でした。

旧参道に60㍍に亘って朱塗りの鳥居(写真)が林立していました。

旧参道に寝そべってみました。

雨あがりの青空を背景にした朱塗りの鳥居は見事な景観です。

「稲美町○○景」という企画があるなら、ぜひ入れて欲しい一風景です。

天気のよい日にお立ち寄りください。

できれば、参道にねそべって斜め上を見上げてください。

きっと感動の風景が見つかります。

  鳴岡稲荷神社の地面は鳴のか?

Inamisho5_037 また、『稲美町史』の説明に、次のような記述があります。

「・・・社殿の裏側の地面を強く踏めば音を立て、地下に空洞あるごとく感ぜられる。鳴岡の名称の由来である」

こんな記述を見ると無性に実践してみたくなります。

その日はさいわい、私のほかに誰も居られません。

66才のオッサンが地面を強く踏みつけました。

確かに音がするのですが、地中からの音とは思われません。

いろんな場所で試みたのですがダメでした。

どこかポイントがあるのかもしれません。

石造のお稲荷さん()が、こちらを睨んでおられました・・・

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稲美町探訪(188):沢才兵衛、大いそがし

2010-04-23 06:47:45 | 稲美町

 福沢(加古川市神野町福沢)の名前は?

「福」は福留の福、「沢」は才兵衛の苗字から

7cb6c1a1 沢才兵衛は、加古新村の開発にあたったが、それだけではありませんでした。

福沢新村(現:加古川市神野福沢)の開発に携わりました。

才兵衛は、福留(現:加古川市神野町)の忠右衛門、石守の嘉兵衛らとともに新田の開発に努めました。

その地は、開発人の一人忠右衛門の出身地・福留の『福』と才兵衛の苗字「沢」をとって「福沢」と名づけられました。

嘉兵衛は、石守の庄屋でしたが、ここに移り住んで福沢新村の庄屋となりました。

   西谷は高畑の西の谷

Inamisho5_064 また、才兵衛には次のようなエピソードがあります。

高畑(現:加古川市平岡町)と新在家の間に広い野がありました。

高畑村、新在家村は共にこの地の開発を願ったのですが、その地がどちらの村に属するのか分からなかったために許可が下りませんでした。

この時、高畑村から奉行に「加古新村の才兵衛という人が、何事もよくご存知ですから、お確かめください」と申し出がありました。

奉行はさっそく才兵衛を呼び出して意見を聞きました。

才兵衛は、「その土地はもともと西谷と呼んでいたから高畑のものに違いない。

新在家のものならば東谷とよぶはずである」と申し述べました。

これで、その土地は高畑のものになり、そこは西谷新村と呼ぶことになりました。

才兵衛は、その功により西谷の土地に屋敷を割り当てられました。

彼は、その屋敷地に加古新村の八幡社を勧請して(西谷)八幡社(写真)を建てました。

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稲美町探訪(187):いなみ野フットパス(49)・加古新村の一大ターミナル

2010-04-22 10:32:27 |  ・いなみ野フットパス

Inamisho5_085_2 加古の上新田集落の大きな木の下に道標(写真)があります。

この道標について『東播磨道標をたずねて(井原卓也著)』(神戸新聞総合出版センター)で次のように説明しておられます。

   道標は他の場所にあった?

大きな木のたもとにある道標。これも上部に仏が彫られている。

風化が激しく、それぞれ三面に書かれている文字は判読が難しいが、三木 高砂 西条などの字が読める。

かなり広範囲にわたって地名が書かれていることから、もともと大きな交差点などに置かれていたのではないだろうか。

以上が説明です。

著者は、他の場所に置かれていたものが、現在ここにあるのではないかと推測されています。

  ここは、加古新村のターミナル

でも、この場所は、旧加古新村にとって特別な場所です。

すでに述べたように才兵衛(現:加古川市八幡町中西条)・喜平次(同:上西条)・治兵衛(同、下村)の三人は、加古新村の開発に当たりました。

そして、寛文2年(1662)に最初の集落として上新田23軒がつくられました。

特に、沢兵衛は、中西条時代の姓は「加古」で、彼は自家の姓を村の名としたほどです。

この三名の百姓は頭百姓(とうびゃくしょう)として、加古新村では絶対的な影響力を持ちました。

3名の家は、この道標のすぐ近くで、道標を中心にして、それぞれ西・北・東にあります。

それに、少し北の北新田には、大庄屋の沼田家があります。

道標のあるこの場所は、まさに、加古新村の政治・経済の中心地でした。

人はここに集まり、散っていったのです。

そこに、この道標が設置されたのではないかと推測します。

  開拓者の道

「右 西条 わたし」の文字は、はっきり読めます。

先日、この道標の示す西条まで歩いてみました。江戸時代の新田~西条の道は、どの道かはっきりしなかったのですが、とにかく歩きました。

道標のある場所から真っ直ぐ北へ行くと「一号池」で道は突きあたりになりました。

一号池を西へ迂回し、加古北新田西を過ぎると下村への道は台地を一気に駆け降ります。坂を下ったところが下村です。

(66才のおっさん)の足で、30分ぐらいで下村に着きました。

「近い」。そして、下村の向こうは西条・国包の「わたし(渡)」へと続きます。

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稲美町探訪(186):いなみ野フットパス(48)、沢才兵衛・沼田家

2010-04-21 00:07:43 |  ・いなみ野フットパス

    上新田、沢才兵衛

Inamisho5_016 沢才兵衛は、もともと加古沢兵衛久次といい、中西条(現:加古川市八幡町)の庄屋でした。

26才の時、父の家系を継いで庄屋役を仰せ付けられましたが、まもなく次弟源太夫に譲り自分は、治兵衛(下村の庄屋)・喜平次(上西条の組頭)という二人の有力な協力者を得、また大庄屋の与次太夫という後援者を得て、この加古村の開発という大事業を成し遂げました。

その結果、3人と大庄屋の与太夫には、無税地が与えられ屋敷としました。

与次大夫は、開発人として、大庄屋として奉行に開発の許可を願いでましたが、3人とは共に加古新村へは出てきませんでした。

なお、才兵衛の家は、上新田の現在の沢陽三氏宅(写真上)です。

    北新田、大屋・沼田家

035 与次太夫は大庄屋として上西条に残り、その親の与次右衛門は、養子吉郎兵衛をともなって加古新村きて、先着の3人の屋敷地・上新田より北方、北新田の地を屋敷地としました。

北新田の沼田家は、加古大池のすぐ西に森で囲まれた北新田の沼田家(写真下)がそれです。

以上は『稲美町史』からお借りした内容です。

    新事実!

この3(平成22年)、沼田正毅氏は、沼田家に伝わる膨大な古文書を研究され、沼田家の歴史を『北新田沼田家 六百七十五年史』にまとめられました。

それによると『稲美町史』の内容と少し異なったところもあります。

後日新しい事実を紹介できるかもしれません。

江戸時代、大庄屋は、地域の村々の生活を左右する大切な役割を果たしていました。

稲美町、特に加古新村における沼田家の果たした役割を明確にする必要がありそうです。

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稲美町探訪(185):いなみ野フットパス(47)・加古大池記念碑

2010-04-20 00:07:23 |  ・いなみ野フットパス

きょうの話題は「稲美町探訪(15)~(20)」をあわせお読みください。

加古大池へ寄りました。管理棟への入り口に「加古大池記念碑」があります。

昭和27年に建立された記念碑(写真)には次のようにあります。

内容を変えず最初の部分をやさしく書いてみます。

   加古大池記念碑について

Inamisho5_046 加古村は元印南野(いなみの)といって、万治元年(1658)沢才兵衛、沼田喜平次、本岡治兵衛の3人の先覚者により開発され、加古新村と称しました。

その後、村民は近村から移住し、たゆまず開拓に努め、ついに現在にいたりました。

中でも、水には苦しみ万治元年大溝を築いて以来同じような水路をつくり(・・・以下略・・・)

この碑には、開発にあたった3人の頭百姓の名前があります。

少し付け足しておきます。

喜平次(上西条)は、組頭で才兵衛(中西条)と治兵衛(下村)は庄屋です。

庄屋と組頭が開拓を池の築造を思い立ったとしても、それだけではことが運びません。もう一つ、大庄屋の意見・態度が重要になってきます。

西条組は、大庄屋の中でも有力な大庄屋が支配する沼田家の存在がありました。

沼田家の歴史に関しては、今年の3月に『北新田沼田家 675年史』(沼田正毅著)が出版されましたので、『稲美町史』で不明なところも、後に紹介できると思います。

ここで、一点だけ書かせていただきます。

大庄屋の沼田家は、加古村の開拓・大池の築造にあたり頭百姓の強力な応援をするとともに、計画を推し進める中心的な役割を果たしています。

加古大池の記念碑に沼田繁範(與次太夫)の名前がないのは、少し寂しい気がするんです。

*沼田家には、與次太夫の名が再三見られますが、沼田家13代の繁範は、二世・與次太夫です。

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稲美町探訪(184):いなみ野フットパス(46)・未完成の顕彰碑

2010-04-19 08:22:12 |  ・いなみ野フットパス

前号で紹介した加古八幡神社の()大鳥居の横に未完成の顕彰碑(弁慶の硯石)があり、説明がありましたのでお借りします。

   弁慶の硯石!

Inamisho5_014 この石は、ずっと昔から「弁慶の硯石」と呼ばれていました。

石の形が習字に使う硯石に似ているからでしょう。

しかし、この石がいつからここにあったのか、何だったのかわかりませんでした。

この疑問が調査の結果ようやくわかりました。

私たちの住んでいる「加古」は万治4年(1664)に中西条の加古澤兵衛(澤才兵衛と改名)、上西条の沼田喜兵次、下村の本岡治兵衛の三人が開発人となり、村づくりが始まりました。

そして、近隣の村々から多くの人たちが移り住むようになりました。

それから90年ほど過ぎたころ、開発人三人功績をたたえるために、顕彰碑を建てようということになったということです。

ところが、この顕彰碑のための石も磨き上げ、建てる場所も決め、碑文の草稿も宝暦2(1752)までにできていたということですが、碑文の草稿者の一人、清田孫蔵が死去したことなどがあり、顕彰碑が未完成のまま置かれてしまいました。

このようないきさつが判ってきた今、この碑石も先人の苦労を偲ぶものの一つとして、大切に保存したいものです。

  沼田与次太夫の銘は?

開発人三人(加古澤兵衛・沼田喜兵次・本岡治兵衛)の功績をたたえるための未完成の顕彰碑ということは分かりました。

「もし」という話を付け加えておきます。

もし、この顕彰碑が完成していたら、三人の名前の他に大庄屋・沼田与次太夫の名があったと想像します。

大庄屋の後援・影響力を抜きに開発は進まないからです。

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稲美町探訪(183):いなみ野フットパス(45)・加古八幡神社

2010-04-18 08:01:43 |  ・いなみ野フットパス

しばらくは、加古地区(「いなみ野フットパス・加古の道3」と、その周辺)を歩きます。

今までにも加古地区について、「稲美町探訪(15)~(19)」で少し書いていますので、あわせご覧ください。

 稲美町探訪(15):加古新村誕生①

   〃  (16):加古新村誕生②・開拓の許可おりる

   〃  (17):加古新村誕生③・才兵衛、加古新村と命名

   〃  (18):加古新村誕生④・加古大池

   〃  (19):大溝用水

   〃  (19):村方万事議定書  

以上の記事に付け足すことからはじめましょう。

    加古八幡神社

Inamisho5_001  加古大池の西にある加古八幡神社(写真上)について、神社の境内に説明がありますのでお借りします。

 加古八幡神社は、加古地区の開発がはじまってから、約20年後の延宝8年(1680)に現在の鳴岡神社境内に仮の社殿を設け、開発人らが氏神として祖先から崇敬してきた上西条八幡神社を勧請して村の守護神としたことに始まります。

そして2年後の、天和2年(1682)に現在の地に本殿を造営し、天和3年(1683)に内宮を完成させました。

   加古八幡宮の旧大鳥居

八幡神社の鳥居のすぐ右(東)に古い大鳥居が保存されており(写真下)、説明がありますので、その一部を引用させてもらいます。

Inamisho5_002 加古八幡宮が加古の地に勧請されたのは、延宝8年のことでした。

その時は、大鳥居を造る余裕もありませんでした。

大鳥居が建立されたのは、お宮が創建されてから56年後の元文元年(1736815日のことでした。

その4年前の享保17年(1732)には、西日本には「うんか」の被害があり、その翌年には多数の餓死者が続出しました。

加古新村でも多数の犠牲者が出たと想像されます

世にいう「享保の大飢饉」です。

このような時に、加古新村の200軒ばかりの村で大鳥居を建立することは大きな負担だったと思います。

苦しいからこそ、神に助けを求めたのかもしれません。

西の鳥居の柱には「播州加古郡加古新村開発人沼田喜平次、沢才兵衛、本岡治兵衛、沼田九郎太夫」の銘があります。

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稲美町探訪(182):雨の日の印南野台地④・草谷川

2010-04-17 07:46:57 |  ・稲美町印南野台地

Ea6ad45c_2 高薗寺の西の道を「さくらの森公園」へ歩いてみると、急な下り坂で、その底を草谷川が流れています。

草谷川を越えると再び「さくらの公園」へと上り坂になっています。

草谷川は、谷の底を流れる川です。

この辺りは、曇川と比べて海面からの高度が高く、従って、草谷川の方が急流で侵食力が強かったためです。

「地形図の概略図」(『稲美町史・p1104』より)をご覧ください。

(図は、クリックすると拡大します)

草谷川の川沿いは、北側が約15㍍の崖を、南側は約10㍍の崖が続いています。

これは草谷川の浸食により、つくられた崖です。

南の曇川辺りは、約130分の1の勾配に対して、草谷川は100分の1と急な勾配です。

つまり、草谷川は100㍍で1㍍低くなる急斜面となっています。

 月曜日の雨は、そんな草谷川に濁流をつくり、野村(加古川市八幡町)を走り抜け加古川へと注いでいました。

   草谷川は加古・天満地区も潤おす

Sarah4_179  草谷川は、急な斜面を流れ下ります。

 下流と上流の高低差が大きくなっています。

 つまり、草谷川の川沿いは急斜面となっており、比較的近い上流が高くなっています。

 そこから取水した水は、草谷川の南の崖を越え、加古地区・天満地区へ流れます。

 大溝用水は、その代表的な用水です。

 しかし、いつも取材した日(412日)のように、水が十分にあったのではありあません。

 繰り返します。稲美町は坂の町です。

 水は流れくだり、普段は、あまり水がありません。

  草谷川は暴れ川

しかし、こんな雨の日が続く梅雨の時期、または激しい台風の時などは、しばしば暴れ川となり、洪水を引きおこしました。

そのため、集落は洪水を避けるため、草谷川からの少し高くなった段丘面に発達しています。

稲美町に発達した段丘については別の機会に取り上げます。

*写真は、草谷橋のすぐ上流

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稲美町探訪(181):雨の日の印南野台地③・喜瀬川(枯川)

2010-04-16 07:33:02 |  ・稲美町印南野台地

Sarah4_167 2月の暖かい日でした。

喜瀬川をドンドンと上流へ歩きました。

もし地図があればご用意ください。

地図では喜瀬川は、河口から天満大池までのようにみえますが、天満大池からさらに上流へ流れています。

稲美町の岡と印南の境に長法池(ながのりいけ)がありますが、そこまでが喜瀬川です。

もっとも、天満大池と長法池の間の川を地元では枯川(かれかわ)と呼んでいます。

地図では、直ぐに長法池の喜瀬川の源流に到着します。

長法池から上流の喜瀬川は、長法流(ながのりりゅう)と名前を変えます。

川ではなく、流(りゅう)です。

長法流は印南の印南寺を過ぎると、枯川流と八重流に分かれています。

流れの大きな八重流を歩きました。

八重流を、どんどん行くとやがて稲美町の端につきあたり、神戸西区へと続きます。

そこで止めればいいのに、ちょっとシャクなので、先へ歩きました。小さな溝になりました。

「そこが源流かな」と思っていたら大きな池に繋がっています。

そして、池の向こうの土手から、またまた大きな流となりやがて雌岡山に到着しました。

喜瀬川の源流は神出(かんで)の雌岡山(めっこうさん)であることを確認しましたが、疲れました。

疲れた理由は、歩いた距離だけではないんです。

天満の大池から続く登り坂のためでした。    <msnctyst w:st="on" address="稲美町" addresslist="28:稲美町;"></msnctyst>

  稲美町は池の町、そして坂の町

Sarah4_168 日曜日・月曜日(411・12日)に雌岡山あたりに、そして印南野台地に降った雨は、無数の流(りゅう)に集まり、一部は八重流に、そして喜瀬川(枯川)から一挙に瀬戸内海へ濁流を押し出していました。

この日の喜瀬川は、曇川と同じく壮観でした。

しかし、坂の川は水を溜めておいてくれません。

田植えの頃、夏の日照の頃に必要な水は、溜めておかねばなりません。

稲美町は、池の町です。池が多い理由の一つは坂の町なんです。

池と水利権の問題は「稲美町探訪(67)・ため池の多い理由は?」をご覧ください。

*写真上は喜瀬川(写真の橋は枯川橋)、写真下(枯川橋近く)

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稲美町探訪(180):雨の日の印南野台地②・国安川のドンド

2010-04-15 00:16:17 |  ・稲美町印南野台地

Sarah4_161 『稲美町史』の記述をお借りします。

・・・国安の小池のうてみ(排水場)から落ちる水は流れて国安川となっているが、この川は深い谷の底を流れている。

もっとも谷といっても山ではないから、深い溝川といってよい。

その下流は曇川に合流する。

ところで深い所をながれるのは、うてみから落ちた水が少し流れてから滝となって落ちるからで、そこをドンドンとかドンドと言っていた。

この川の両側は高い崖で、雑木が一杯に生え茂っていた。

  ドンドのお吉

ここに住んでいた狐がドンドの「お吉」である。

このお吉はおそくなって道を通る人をよく騙(だま)したのである。

・・・・

Sarah4_164 以下、お吉の語が続いていますが『稲見町史(p889890)』をご覧ください。

以前、水の少ない時に出かけたことがあるが、ドンド(ドンドン)という水音はあまり気になりませんでした。

この度のまとまった雨の後に行ってみると、まさに滝で、ドンド・ドンドとやかましほどの「水音」でした。

ここが深山であれば、遠くから聞こえる滝の音として風情もあるのでしょうが、現在ここは住宅のど真ん中です。

雨の日には、近所の人は眠れるのだろうかと心配になるほどです。

この辺りに人家がなかった頃、「ドンドのお吉」の物語ができたのもうなずけます。

この猛烈な流れが、谷をつくり曇川に合流していました。

現在は、コンクリートの川で侵食は停まっています。

*写真:雨の日のドンドと少し下流の国安川

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