ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町寺家町探検(5)  山陽巡行(明治18年)

2021-03-05 08:24:12 | 加古川町本町探検 

     山陽巡行(明治18年)

 慶応3年(1868)、王政復古の大号令から戊辰戦争を経て、明治政府が誕生しました。

 明治政府は、成立とともに「天皇」のありがたさを国民に説明しなければならなかったのです。

 そのため、6回もの天皇の全国巡行が実施されました。

 そのうち、山陽巡行は、明治18年(18857月からはじまり、88日の朝、兵庫県入りした。

 夕刻、姫路の本徳寺に入り、翌9日、本徳寺(姫路市)を出発した天皇一行は、昼に加古川に到着し、休憩と昼食を旧陣屋(当時、山脇伊平邸)でとりました。

 この時、旧陣屋(寺家町)は、立派な松の盆栽を陳列し、天皇を迎えました。

 そのため、天皇から「樹悳堂(じゅとくどう)」の名を贈られました。(*悳は徳の本字)

 それにしても巡航は、一日50キロ。夏の真っ盛りの強行軍でした。天皇は、猛暑を吹き払うために、北海道から取り寄せた氷を度々食したといいます。

 巡行に際し、兵庫県は庶民の歓迎について問い合わせています。

 その時、政府からは「立ち止まって帽子を脱ぎ、左脇にはさみ、右手をヒザにあてて礼をする。帽子のない者は、両手をヒザにあてて頭をたれる」

 つまり、立ったままでよいというものでした。さらに、天皇の姿も「庶人拝見勝手」でした。

 明治後期になるとこうは行かなくなりました。

 天皇の行幸時は、車であっても、通り過ぎるまで頭を下げなければならなくなったのです。国家は重苦しさをました。(no5115

 *写真:樹悳堂(じゅとくどう)



 

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加古川町本町探検(32) 文(分)岸寺川界隈を歩く

2021-03-01 08:49:58 | 加古川町本町探検 

    文(岸寺川界隈を歩く

 

  江戸時代、文(分)岸川界隈を散策してみましょう。文岸川界隈には、江戸時代、挿絵のような施設がありました。

(図中の数字)

  1 人馬継立の問屋場   2 御高札場   3 陣屋   

  4 文(分)岸寺川の石橋  5 唐人薬師堂  6 芝居小屋

 なお、数字「3」の陣屋以外の施設は現在残っていません。陣屋(加古川市加古川町寺家町)は、現在の「人形の店・陣屋」ではなく、その奥にある樹悳堂(じゅとくどう)がそれです。樹悳堂(じゅとくどう)については寺家町探検で再度紹介します。

 なお、明治22年まで、加古郡と印南郡は、絵図の文(分)岸寺川で分かれていました。 *文岸寺川の右(東)が加古郡(加古川町寺家町)、同左(西)が印南郡(本町・旧加古川町)。 

 説明は以上です。余分な説明はイメージを壊します。ご想像ください。

 この図辺りが、江戸時代の加古川地方の中心地でした。

         次号から「加古川町寺家町探検」を掲載

 本町(旧加古川町)の歴史を駆け足で訪ねてみました。抜けていることがたくさんあると思います。その都度、付け加えて掲載しますのでご了承ください。

 なを、「加古川町本町探検」は、4月ごろまとめて冊子にしご希望者に配布する予定です。その時はお知らせします。よろしくお願いします。

 〈お願い〉

 次号から「加古川町寺家町探検」を掲載します。史料等がございましたら是非、紹介ください。(no5110

 

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加古川町本町探検(31) せいもん払い

2021-02-28 09:10:39 | 加古川町本町探検 

       せいもん払い

 加古川市に「誓文払い(せいもんばらい)」という、商店がこぞって参加する年末の大バーゲンセールがありました。

 狂おしいほどの賑わいでした。

 「誓文払い」は、もともと京都に始まった行事のようです。

 広辞苑は、「・・・一年中、商売上の駆け引きで嘘をついた罪を払い、神罰の赦免を請う行事。この日、呉服店は特に安値の売出しをする・・」と説明しています。

 もとの意味はともかく、姫路では12月1日から5日間、加古川ではその後日曜日を中心に5日間が「誓文払い」でした。

 地元商店だけでなく、遠くは大阪からも商人が大挙して押しかけるほどの大セールでした。

 寺家町・本町商店街は、写真のように満員電車なみの人混みでした。

 そのはずです。三木・小野・西脇など東播磨一円から人が加古川に集まりました。

 それに、姫路・明石は空襲で焼け野原になりましたが、加古川はほとんど無傷で戦後から7・8年の盛況は今からは想像もできません。

 誓文払いと一緒にサーカスが町にやってきました。

 『新・かこがわ事典』は、「・・・こまったことは公衆便所がすくなく、路地はどこもかしこも“臭い小便路地”になっていた・・・今ではとても想像すらできないことですが、ご婦人方も結構立小便をされていた・・」と、こんな話題も取り上げています。

 ・・・・寺家町・本町から「誓文払い」のザワメキが消えました。

 人は、大型販店に、そして神戸・大阪へ買い物に出かけるようになりました。

  時の流れとばかりで済まされません。「無策」という言葉が残こります・・・(no5109

 

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加古川町本町探検(30) 神田家洋館

2021-02-27 08:32:04 | 加古川町本町探検 

 本町にある神田家洋館は、ぜひ紹介した建築物ですが、なにせ資料がなくまとめるのに迷っていました。

 さいわい『Kako-Styl2(すっきやか加古川編)』で城信幸さんが、神田家洋館を取材されています。

 今回の報告は、参照というより、ほとんどをお借りしています。

     神田家洋館 

 加古川本町のほぼ中央に位置する神田家住宅洋館は、意匠や構造がユニークな近代遺産として、平成16年(2004)に国登録文化財に登録されました。

 もともとは、明治後期から大正初期に建てられたものですが、以後3代にわたって住宅部分などの増築がくりかえされ、木造住宅とレンガ造り洋館が並ぶ独特のたたずまいとなっています。

 老朽化のために取り壊しが決まっていましたが、市や専門家の助言で初期に建てられた部分を残すことになり、現在の姿となりました。

 二階の床柱は柱脚を角、上部を丸柱とし、柱頭には内向きに木製の像鼻のシックイ飾りがとりつけられています。

 また、その他センスの高い数々の意匠が施されています。(no5108

 *写真:神田家洋館(2月24日撮影)

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加古川町本町探検(29)  俳人:吉田白馬

2021-02-26 08:44:46 | 加古川町本町探検 

     俳人:吉田白馬

 吉田白馬は、享保6年(1721)加古川で生まれました。

 若くして大坂の俳人と交わり、多くの句を残しましたが、今に伝わっている句はそれほど多くはありません。彼は、地元の滝瓢水(別府の人)らと共に活動をしています。

 諸国をめぐり多くの作品を作っていますが、俳人白馬が広く世に知られるようになったのは加西の盲人の俳人・竹内玄玄一(たけのうち げんげんいち)によるといわれています。

 彼は、玄玄一に俳諧への道を進めました。

 玄玄一は、「自分は、月や花の色さえ見ることができません。私には、何もできません・・・」というのでした。

 しかし、「俳句は目で見るものではありません。心の眼さえあれば作れるものです」と諭し、「心にて 見るが見るなり 月の色」と励ましの句を詠みました。

 玄玄一は感激し、即座に「暑さ忘るゝ 風に驚く」と句を付け、白馬を驚かせたといいます。

 18世紀の後半活躍した松岡青蘿(せいら)のように多くの門弟を育てませんが、白馬もまた加古川俳壇で指導的立場の俳人として活躍しましたして活躍しました。

天明6年(1786)2月15日、 66歳の生涯を閉じました。

葬儀は称名寺で行われ、墓標は境内に墓碑には、次の辞世の強化が刻まれています。

   死にたふも 死にとむもなかりけり 

         死ぬる時とて 今死ぬる也

とあり、この白馬の句碑には、妻の辞世の句も共に刻まれています。(no5107)

*写真:白馬の墓碑(称名寺境内)

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加古川町本町探検(28) 七騎供養塔

2021-02-25 08:43:26 | 加古川町本町探検 

 称名寺の境内に七騎供養塔があります。称名紹介で二つの話題が抜けていましたので、今回と次回で説明しておきましょう。

       七騎供養塔

 南北朝時代です。

 足利尊氏は、楠木正成を打ち破る切り札として、高師直(こおのもろなお)を起用しました。

 正平五年(1350)、出雲(島根県)の守護である塩屋判官高貞は、足利尊氏の家来であった高師直(こうのもろなお)のざん訴をうけました。

 高貞の妻は、絶世の美人でした。

 生来、師直は好色な人物として知られていたが、高貞を謀反人に仕立て妻を奪おうとしたのです。

 この計画を知った高貞は、狩に行くまねをして京都を脱出し、妻も二十騎に守られて、間道から出雲へ向かいました。

 このことを知った師直は、追っ手をさしむけました。

 追っ手は、加古川河畔(加古川市米田町船頭あたり)で高貞に追いつき戦いとなりました。

 この時、高貞の七名の家来がよく防戦しましたが、全員討ち死にしてしまったのです。

 高貞は、その隙に出雲に逃れることができました。

 土地の人は、七騎を悼んで墓を築き、手あつく葬りました。塚は「七騎塚」と呼ばれました。

 この塚は、寛延二年(1749)の大洪水の時に流失してしまいました。

 文政三年(1820)に建てられた頼山陽の文ならびに書になる七騎供養塔が本町の称名寺の境内に建立されています。(no5106



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加古川町本町探検(27) 旭クラブ

2021-02-24 08:19:33 | 加古川町本町探検 

    クラブ

 映画館・旭クラブは、現在の本町公園の場所にありました。

 木村の岡田米吉さんらが昭和2年4月4日に許可を得て建設し、3年1月1日に活動写真館として開業しました。

 2階はU字型の観客席で、大映系映画館でした。

 娯楽の少ない時代でした。映画館はニッケの繁栄もあり大いににぎわっていました。

 

 旭クラブの思い出です。

 私の小学校は、加古川小学校です。朝日クラブに近かったせいか、学校からの映画鑑賞で朝日クラブにしばしばでかけました。

 なにせ、テレビのないラジオの時代です。映画館へでかける前日はワクワクしたものです。

      ショックだった「怒りの孤島」

 「ここに泉あり」などは、小学生には少しかたい物語だったと思うのですが、熱心に見ました。今でも思い出すことができます。

 それに「怒りの孤島」の鑑賞では、深い意味はわからなかったのですが、子どもが犬小屋みたいなところに入れられて、まともな食料も与えられず働かされている場面を見た時はショックでした。

 そのショックは、トラウマのようにその後もしばらく続きました。

 旭クラブは、思い出がいっぱいつまった映画館でした。(no5105

 

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加古川町本町探検(26) ニッケ労働争議

2021-02-23 10:04:24 | 加古川町本町探検 

   ニッケ労働争議  

 ・・・おおいざ進めわが工手 正義のための戦いに・・・

 日本毛織労働組合・誠和会の組合歌の一節です。

 第一次世界大戦後の大正13年4月13日、日本毛織労働組合・誠和会は結成されました。

 誠和会は、労資協調の穏健な労働組合でしたが、会社側は組合の結成を頑として認めようとはしませんでした。

 そればかりか、労働組合幹部全員に解雇を通告したのです。職工の会社側への不満は爆発しました。

 その背景には、次のような労働の実態もありました。ある女工の証言です。

 「・・・朝六時から晩の六時まで、六時がなってやれやれと帰ってくる。風呂から帰れば七時を過ぎている。十時に就寝すると、我等の勝手に使用する時間は、二時間ばかり・・・・」

 それに職工(ブルーカラー)の社員(ホワイトカラー)に対する不満もありました。また、男女差別の熱烈な叫びもありました。

 昭和2年、誠和会が結成されて3年目、会社側は第二組合を組織しました。それに反対して、大規模なストライキに突入したのです。

 活動家は、ほとんど解雇され、組合の完敗で、誠和会は解散しました。

 その後、戦後まで日本毛織(ニッケ)に争議はありませんでした。

 そして、戦後の民主化の中で、昭和21年再びニッケに労働組合が結成されました。右翼の青年が組合つぶしに加わったこともありました。

 組合の左右の対立が激しくなり、徐々に左派の影響は失われていきました。

 誠和会については『加古川市史(第三巻)』に詳しい記述があります。(no5104



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加古川町本町探検(25) トロッコ橋

2021-02-22 08:08:08 | 加古川町本町探検 

             トロッコ橋

 トロッコ橋の写真と私の思い出を掲載させていただきます。詳しく分かれば後日再度取り上げます。

 地図にある橋は、加古川工場と印南工場(いんなみこうじょう)を結んでいました。

 この写真は子ども時代の懐かしい風景です。

 私の小学校卒業は、昭和30年です。この時、この橋は既に使われていませんでした。

 橋を覆っていたレールとレールの間の板の一部は、所々なくなっていました。もちろん通行禁止でした。

 この橋の中央部の川の流れが速かったのは、この下で泳いでよく泳ぎましたので、よく知っていました。ところどころ川面が板の隙間から見えました。

 私たち悪がきどもは、その流れを見ながら恐るおそる渡ったものです。

 渡り終えると、安堵感と満足感があったことを覚えています。注意されたことは一度もありませんでした。

 橋を渡りきった先はニッケ印南工場です。ニッケ印南工場は、大正8年(1919)に加古川工場と同規模の工場として建設されています。

 *ニッケ加古川工場は、明治32年操業開始

 トロッコ橋とよばれたこの橋は、大正10年頃に架設されました。印南工場の建設と同時に計画されたようです。(写真:対岸の工場は印南工場)(no5103

 *写真:昭和初期撮影

 

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加古川町本町探検(24) 日本毛織(ニッケ) 

2021-02-21 09:45:03 | 加古川町本町探検 

       日本毛織(ニッケ)

  日本毛織株式会社(以下ニッケとする)は、当初明石市で建設が着手されましたが、明石は宮内省御用邸の候補地に選定されていたため急遽、移転先として加古川が選ばれました。

 理由は、加古川の水量・水質が工場に適していたこと、それに何よりも広大な土地の確保が可能であったことなどでした。

 明治32年(1899)、加古川工場がほぼ完了し、生産が開始されました。

 この時期は、日清戦争後で軍用絨の需要が続いており、生産が追いつかないほどでした。

 製品は、輸入品と比べて比較にならないほど劣っていまし、創業後まもなく輸入品に対抗できるほどになりました。

 明治35年(1901)から翌年にかけて戦後恐慌が襲いました。国内の毛織物業の倒産があいつぎ、ニッケも生産量は減少ました。

 こうした状況を打開するために、ニッケは政府需要へ依存する方針へと舵を切りました。

 利潤は、少ないものの安定性はきわめて魅力的でした。

 ニッケにとって日露戦争は、まさに干天の慈雨でした。日露戦争は、日清戦争と比べて規模も大きく、ニッケへの軍需品(軍服・毛布など)の注文が殺到したのです。

 日露戦争後もこの傾向は続きました。

 ニッケは、いっそう、政府依存の傾向を強め、軍需品の需要の激増により市中向けの製造を中止して、軍需品の製造により全力を注ぎました。

 日露戦争を契機に一層の飛躍をしたニッケは、その後も大規模な工場拡張を続け、大正8年(1919)には、印南工場を建設しました。

 加古川工場では、主に軍需品や官公庁向けの製品を生産データしたが、印南工場では第一次世界大戦景気の民間の需要にこたえるものでした。

 戦前、ニッケは、まさに戦争と共に工場の基礎を築きました。(no5102

 *『加古川市史(第三巻)』参照

  写真のニッケ加古川工場は『写真集・加古川』(玉岡松一郎)より

 

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加古川町本町探検(23) 幻の「友栄町」

2021-02-20 10:15:25 | 加古川町本町探検 

      日本毛織の工場拡大路線

 明治32年(1899)、加古川工場(加古川市加古川町)がほぼ完了し、生産を開始しました。

 この時期は、日清戦争後で軍用絨の需要が続いていました。その後も、ニッケは政府需要へ依存する方針をとりました。

 政府需要の利潤は、少ないものの安定性はきわめて魅力的でした。

 そして、日露戦争は、日清戦争と比べて規模も大きく、ニッケへの軍需品(軍服・毛布など)の注文が殺到しました。

 ニッケは、いっそう、政府依存の傾向を強め、軍需品の需要の激増により市中向けの製造を中止して、軍需品の製造により全力を注ぎました。

 また、日露戦争を契機に一層の飛躍をしたニッケは、その後も大規模な工場拡張を続けたのです。

 ニッケは、日の出の勢いでした。

     幻の「友栄町」

 郷土史家の三浦幸一さんは「幻の友栄町」について報告されています。その一部をお借りしました。(文体を変えています)

 ・・・日本毛織加古川工場は、大正時代には、さらに工場を増設しなければならなくなり、敷地拡張の予定地として本町商店街の北側、旧北裏地域を候補地としました。

 そこには、50数軒の民家があり、すべて移転の対象となりました。だいたいの範囲は、現在のニッケ西門から東へ、西国街道(国道2号線)に沿った表筋の商店民家を残して、その北側の字北裏地域の住宅でした。

 国道二号線(東行き)の南側に敷地を確保することができました。移住した50数軒の住民はこの地を永住の地と定め、共に平和で楽しく隣人と友に繁栄を願って「友栄町」と名付けた。昭和年の出来事でした。

 今では、友栄町の境界を確定できませんが、友栄町の経緯を記録した石碑「友栄町移転の碑」(写真)が建てられていました。

 場所は、加古川橋東詰から下って本目の道路を右にまがって最初の十字路です。



 昨日(19日)久しぶりで、その場所へ出かけました。工事が行われており、その「友栄町」の碑は、なくなっていたんです。確かに、最近までありました。歴史が、また一つ消えたようです。(no5101

 *写真:友栄町移転を記した碑

 

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加古川町本町探検(22) 旅する「常住寺」

2021-02-19 10:05:21 | 加古川町本町探検 

     常住寺・加古の松   

 常住寺は、元は寺家町にあった堂々としたお寺でした。

 常住寺については「加古川町寺家町探検」として、寺家町で詳しくまとめる予定です。ここでは、簡単な紹介にしておきます。

           旅する「常住寺」

 『加古郡史』から、常住寺の縁起を少し拾ってみます。

 「・・・殷賑をきわめた常住寺は、嘉禄のころ(12257)加古川の氾濫により堂塔・記録類は残らず流されてしまった。

 ただ、薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将だけが松の木に留まり残った。この松が、加古の松である」

 縁起はともかく、『播州名所巡覧図絵』にも、みごとな「加古の松」(挿絵)が描かれています。図の常住寺の境内の大きな松がそれです。よほど立派な松であったようです。

 『加古川の昔と今(加古川の文化を語る会)』(昭和57年発行)で、M氏は、昔の思い出として「・・残っていたのは二代目です。その枝が常住寺さんから出とったんです。大きなもんでした」と語っておられます。

 二代目の「加古の松」のあった常住寺は、寺家町の本陣の北の西国街道沿いにありました。

 それが、昭和26年「日本毛織」の拡張に伴い、現在のプラザ・ホテルの場所に移り、三代目の松が植えられた。

 その後、昭和59年、加古川駅前の再開発に伴い、現在の場所(加古川市加古川町本町・加古川消防署の近く)に移転しました。

 常住寺は、曹洞宗の堂々とした寺院です。(no5100

 *写真:常住寺

 

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加古川町本町探検(21) かこがわ改修記念碑

2021-02-18 20:16:41 | 加古川町本町探検 

 加古川改修記念碑は、最近紹介した記事ですが、連載しています「加古川町本町探検」が一区切りしたら小冊子にまとめる予定です。

 その関係上、ここで再度紹介させていただきます。

  かこがわ改修記念碑

 1933年(昭和8)、当初の計画(10年)を 大きく延長し、16年の長期にわたり加古川改修工事は完成し、竣工式は、11月19日午前9より加古川町大橋南の河原で挙行されました。

 官民あわせて千人が参列でした。

 その日、加古川町内は美しく飾られ、旗行列や提灯行列などで大変な賑わいでした。

 この長期にわたる工事は、600万円の巨費にものぼり、そして、この間に要した延べ人員は120万人で、死傷者も321人を出しました。

 この大事業を記念して、加古川改修記念碑(写真)が建てられています。

 また、改修工事完成を記念して、「川祭り」を行うようになりました。

 1934年(昭和9)11月、川祭りの第一日目に、加古川記念碑除幕式が盛大に行われました。

 記念碑は、加古川橋東詰めの春日神社のすぐ南にあるのですが、現在ではあまり知られることなく、ひっそりと川の安全を見守っています。(no5099

 *写真:加古川改修記念碑

 

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加古川町本町探検(20) 赤壁神社の伝承・ネコ(たま)の復讐

2021-02-18 09:09:03 | 加古川町本町探検 

   赤壁神社の伝承

       ネコ(たま)の復讐

 「春日神社」(加古川市加古川町本町)の続きです。

 春日神社の境内に「赤壁神社」(写真)があります。

 赤い壁の、いかにも不気味な感じです。この神社に怪猫の伝承があります。

 ・・・昔、この辺りに住む油絞りの職人の徳蔵は、「たま」という一匹の老猫をかわいがっていました。

 「たま」は、頭がよく賭博のサイコロの目をおぼえました。

 両目をつぶれば「丁」、片目は「半」と徳蔵に知らせました。

 ある日、十四、五人ばかりで賭博をし、吉蔵・吉松兄弟は共に20、30両ばかり負けました。

 場が果てて、帰り道のことです。吉蔵・吉松兄弟は、徳蔵を闇討ちにし、その金を奪って逃げました。

 通夜の夜のことです。不思議なことが相つぎました。

 庄屋の家に逗留していた吉岡儀左衛門は、「たま」を追いかけました。

 「たま」は吉蔵の家に飛び込みました。儀左衛門は、「たま」を突き殺そうとしましたが、誤って寝ていた吉蔵を刺してしまったのです。弟の吉松は飛び起き、吉蔵を助けようとした。が、「たま」と共に突き殺されてしまいました。

 鮮血は、周りの壁を赤く染めました。

 二人まで殺した儀左衛門は切腹しようとしたが、その時、吉松は一時息をもどし、事のしだいを白状しました。

 「たま」の復讐が明らかになりました。その後、「たま」は鮮血の壁と共に祠に祀られました。・・・

 『加古川市誌(第一巻)』に、次のような記述があります。

「赤壁神社」は、加古川に近かく、魚は白を嫌うので、神社の壁を赤くしました」と。怪猫の話も興が冷めてしまいます。(no5098

 

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加古川町本町探検(19) 春日神社

2021-02-17 13:16:17 | 加古川町本町探検 

            春日神社

 加古川城主・糟谷氏の話を続けます。

 国道2号線の加古川大橋の東詰近くに、ひときわ目につく公孫樹があります。

 春日神社です。

 江戸時代の幕府の正式な家系図によると。糟谷氏は相模国糟谷荘の在であり、江戸時代の「糟谷(加須屋)氏文書」では、糟谷氏の祖先は、藤原(中臣)鎌足であるとしています。

 やがて、祖先は宇治川の合戦で功績をあげ、雁南荘(がんなんのしょう)を与えられました。雁南荘は、今の加古川市加古川町付近です。

 室町時代、糟谷氏は赤松の支配下に入り、加古川城を造り城主になったと考えられます。

 なんと、糟谷氏の祖先は、藤原(中臣)鎌足というのです。どうも怪しい。

 一般的に系図の信用度というものは、この程度のものです。

 とにかく、時の雁南荘の糟谷有季(かすやありすえ)が藤原氏の氏神を文治2年(1186)ごろ、奈良の春日神社からこの場所に勧請したといいます。

 加古川城主糟谷武則は、有季の子孫です。(no5097

 *写真:春日神社

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