ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(30):湯ノ山街道をゆく(7)・幸圓⑤

2011-06-29 07:49:46 |  ・加古川市志方全般

関ヶ原の合戦では、長男の長政は東軍に味方をしました。

夫の官兵衛は、九州で西軍に味方する武将を攻略しました。

関ヶ原では、徳川軍(東軍)が勝利し、黒田家は長政の戦功等により、筑前52万3千石をあたえられ筑前に移りました。

筑前では、いったん領主・小早川秀秋の名島城に入りましたが、手狭のため福崎の地に城を築き「福岡城」と命名しました。

「福岡」は官兵衛の祖父の出身地である備前の福岡郷の地名から名づけられました。

     夫はキリシタン、妻は浄土宗

6565c9e8 幸圓が大坂を脱出し、中津に住んだのは729日から名島城に移る12月までのわずか4カ月でしたが、その間に幸圓は円応寺を建立して出家し、浄土宗の信徒になっています。

なんでもないようなことですが、夫の官兵衛はキリシタンです。

自分の宗教とは異なる宗教を妻に認める寛大さは、当時の社会では普通考えることはできません。希有の事です。

実際、幸圓が二男の熊之助の菩提を弔うため出家して寺を建てたいと言った時に、幸圓の浄土宗への入信を認めたのです。

長政には「宣教師の説教を聞いて納得したら入信しなさい・・・」といっています。

長政は、官兵衛の3年後にキリスト教に入信しました。

もっとも、長政は徳川幕府がキリスト教の禁教令を出すと棄教してキリスト教を弾圧する側として行動しています。

この点では、キリスト教を貫いた父・官兵衛と息子の長政の姿勢は大きく違っていました。

幸圓は官兵衛が亡くなってから23年を生き、黒田家を見守りました。

そして、長男・長政に4年遅れて寛永四年(1627)八月二十六日に亡くなりました。

享年75才の大往生でした。

*写真:官兵衛が幸圓と主に晩年を過ごした屋敷跡(福岡市)

*『黒田官兵衛』(播磨学研究所)

-「妻・幸圓と黒田家の女たち」(小石房子)参照

≪トレビア・どうでもよい知識≫

 酒は呑め呑め 呑むならば

 日本(ひのもと)一の この槍を

 ・・・・

この黒田節は、もともと「黒田武士」をして、黒田藩の武士の間で歌われていたものですが、昭和三年NHKが「黒田節」として世に紹介して全国に広まっていきました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(29):湯ノ山街道をゆく(6)・幸圓④

2011-06-28 08:04:47 |  ・加古川市志方全般

幸圓の結婚生活は穏やかに始まりました。

しかし、・・・

幸圓は、官兵衛の妻として、長政の母として順風な人生を過ごしたのではなく、危機は、何度となく経験しました。

       官兵衛捕わる

 第一の危機は、官兵衛は有岡城(伊丹市)に幽閉された時、信長は官兵衛が毛利方に寝返ったものと疑い、人質・長政(長男)の殺害を命じました。

 (*長政は、竹中半兵衛が信長の命にそむき、ひそかに匿って一命をとりとめました)

 この時、幸圓は、夫と子どもの安否を気遣い、幸圓は生きた心持もなかったことでしょう。

       幸圓、脱出に成功

Garasha  危機は自分の身にも降りかかってきます。

 夫、官兵衛は、関が原の戦いで家康側(東軍)につきました。

 長政は、家康側として上杉討伐に出陣しました。

 はたせるかな、石田方(西軍)は、幸圓を人質として大坂城に移すように命令したのです。

これは幸圓の死を意味しました。

 大坂からの脱出を計画するのですが、よい方法が見つかりません。

 この時でした。

玉造方面から火の手が上がりました。石田方(西軍)の人質を拒んで自害した細川ガラシャと細川邸を焼く炎でした。

 警備の目は、そちらへ向き、一瞬の空白ができました。

 幸圓は、脱出に成功します。

ガラシャの自害は、まるで、幸圓の身代わりのようでした。

 *挿絵:細川ガラシャ(細川ガラシャHPより) 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(28):湯ノ山街道をゆく(5)・幸圓③

2011-06-27 08:04:44 |  ・加古川市志方全般

     幸圓・官兵衛ただ一人の妻

2cea9887戦国時代、一夫多妻が常識でした。

 妻子は勢力拡大の手段になったからです。

多くの妻に子どもをたくさん産ませ、その子どもたちを戦力にしたり、人質にしたり、また政略結婚に利用し、勢力の増強をはかりました。

 そんな中で、(黒田)官兵衛は幸圓以外に妻を持たず、二人は、たいそう仲の良い夫婦でした。

珍しいことです。

それは、第一に、官兵衛が茶の湯や連歌などに通じた文化人であったこと。

第二に、官兵衛がキリシタンであったこと。

第三番目に幸圓が、魅力的な人であったこと。

などが考えられます。

官兵衛は、22才の時に主君・小寺政職(まさもと)の媒酌で、幸圓を妻に迎えました。

この時、幸圓は15才でした。

幸圓の結婚は、父の櫛橋伊定(これさだ)が小寺政職や官兵衛と結ぶための政略でした。

伊定は、早くから官兵衛に目をつけていて、結婚の一年前に赤合子(あかごうす)の兜と胴丸具足(写真)を官兵衛に贈っています。

政略結婚ではあったのですが、だれからの異論もない祝福された結婚でした。

ただ、官兵衛と幸圓は「ノミの夫婦」で、官兵衛は小柄で風采の上がらない武将でした。

妻の幸圓は、「背が高くてがっちりした、大らかな女性」だったといわれています。

結婚した翌年に嫡男の(黒田)長政が生まれています。

お家大事の時代です。

妻の務めの第一は世継の男の子を産むことでした。

その意味でも、幸圓の結婚生活は順調に滑り出しました。

しかし、・・・・

写真:赤合子形兜・黒糸威胴丸具足・小具足付(福岡市博物館蔵)

*『稀代の軍師・黒田官兵衛(播磨学研究所編)』(神戸新聞出版センター)参照

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(27):湯ノ山街道をゆく(4)・幸圓②

2011-06-26 08:35:22 |  ・加古川市志方全般

 前号「志方町を歩く(26)」の復習です。

  幸圓は、志方城主・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘

  幸圓は、黒田官兵衛の妻

  名前は、幸圓

以上3点について紹介しました。

今回は、名前について考えてみます。

司馬遼太郎の「播磨灘物語」では、幸圓の本名を「お悠」としていますが、お悠は司馬氏のイメージでつくった名前であり、もちろん本名ではありません。

 本稿は小説家・小石房子さんのご研究をお借りしています。

    

    本名は「光の方(てるのかた)」か

4d8a1db3  戦国時代は、男性中心の時代であり、高名な武士でも特別な場合を除いて名前さえ記録にとどめていません。

 官兵衛の妻の名前も従来「幸圓」としかわかりませんでした。

 その「幸圓」は、雅号で本名ではありません。

その雅号も官兵衛が太宰府天満宮に収めた「如水夢想連歌集」に一か所出ているだけです。

小石さんは、大名家の知行の配分を書いた台帳である「分限帳」に小さく「光の方」とある幸圓の本名を紹介されています。

ある歴史家によれば「光の方」と書いて「てるのかた」と読むのではないかということです。

幸圓の史料は、ほとんど残っていません。

福岡の円応寺には、供養塔と法名が伝わっています。

円応寺は、菩提寺ですからお墓があったのですが、戦災で墓石も遺骨も亡くなりました。

現在、そこには供養塔が建てられています。

法妙は「照福院殿然誉浩栄大尼公(しょうふくいんでんねんよこうえいだいにこう)」です。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(26):湯ノ山街道をゆく(3)・幸圓①

2011-06-25 16:38:07 |  ・加古川市志方全般

志方城主の娘・幸圓(こうえん)

4947df1f  作家・小石房子さんは「幸圓ほど幸せな戦国武将の妻はいなかったのではないか!」と、述べておられます。

 それは、なによりも幸圓(こうえん)が、官兵衛の妻であったことにありました。

 しばらく、黒田官兵衛門(写真)の妻「幸圓(こうえん)」について書いてみます。

父は、志方城藩主・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)でした。

 幸圓については、地元でもあまり知られていないようです。

     

黒田官兵衛の妻

 彼女の実像が浮かんできません。そこで、司馬遼太郎は、小説『播磨灘物語』

 で「幸圓」の記述をお借りします。

 ・・・(名前は)お悠(おゆう)といった。

 彼女は、官兵衛より背が高く、鴨居(かもい)で頭を打ちそうな自分の背をつねに苦にしていた。

 ・・・官兵衛は婚礼のときに、はじめて彼女をみた。式は夜おこなわれた。

 その式の夜、薄暗い灯のかげで彼女をみたとき、その背の高さにおどろいてしまった。

 婚儀は、双方にむかいあっておこなわれる。官兵衛の敷物は、円座が三枚重ねてあった。それで辛うじてつりあいがとれた。・・・・

 床入りしても夜中であるためによく分からず、しみじみ顔を見たのは、お悠が、庭の柿木の下にいて、侍女に柿を取らせている姿を、たまたま縁側から見たときだった。

 (わが嫁は、あのように美しかったのか)

 陽が、お悠のうなじにあたっていたが、その白さは玄妙としか言いようのない印象だった。・・・・

 司馬氏は、幸圓をこんな風に描いています。

 これは司馬氏の幸圓像です。幸圓は俳句のつくる時の名まで本名ではありません。

司馬遼太郎氏は、名前を「お悠」としているが、司馬氏が小説のためにつくった名前で、これも本名ではありません。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(25):湯ノ山街道をゆく(2)・志方城の戦い

2011-06-24 10:12:35 |  ・加古川市志方全般

   湯ノ山街道からの風景・歴史を!

Shikata3_011_2湯の山街道を歩いてみます。

湯ノ山街道は現在の荒神から投松峠までの広い道ではありません。

今では、ほとんどの所で湯ノ山街道の姿を探すのは難しくなっています。

湯ノ山街道を再現しながらの「街道をゆく」になります。旧湯ノ山街道から見る風景・歴史を尋ねてみます。

さっそく、志方城に出かけましょう。

 

 志方城(現:志方町観音寺)は湯ノ山街道にそっていました。

 前号で紹介した、道標の場所から志方城のあった観音寺までは、近くですが圃場整備等で元の道は分からなくなっています。

     

   志方城大変

B39275c5  この志方城で、天正6年(15788月、大事件が発生しました。

 三木別所氏に味方した志方城方と織田・信長方の戦いが始まりました。

以前に、「志方城の戦いはなかった」と、いう文を書いたことがありあります。

 さっそく、地元の人から抗議がありました。その通りで「志方城の戦い」の詳細はわかりませんが、確かに志方城の戦いは、事実としてはあったようです。

 訂正しますが、志方城の戦いは結果(敗北)の見えた絶望的な戦いでした

戦国時代、加古川地方の城主は、ほとんど毛利に味方した三木方につき、信長・秀吉と戦いました。

まず、野口の城が落城し、ついで、神吉城が信長方の大軍におしつぶされました。

その後、信長軍は志方城へ攻め寄せました。この時(天正6年・8月)の詳細はわかりません。

志方城主・櫛橋伊則(くしはしこれのり)は、戦わずして志方城は、信長方の軍門にくだったという説があります。

また、志方城には1.000余騎が立て籠もり、勇敢に戦い、小城にもかかわらず20日も抵抗したと言う説もあります。

志方城に先立つ神吉城の戦いでは、神吉方2.000の軍勢は、織田方の30.000の軍勢に押しつぶされ、そして城主(神吉頼定)も討たれました。

この時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はありませんでした。野口城の戦いでも援軍はありません。

志方城の戦いでも援軍は期待できませんでした。負け戦は確実の状況でした。

唯、戦うとすれば「勇敢に戦ったという事実を歴史に残す」という美学だけが支えの戦いになります。

城主・伊則の娘は、信長方の知将・黒田官兵衛の妻である。当然のこことして、説得はあったと思えます。

写真は、志方城跡の観音寺。城であった痕跡はほとんどないのですが、観音寺の山門脇の石垣の前に内堀跡がわずかに残っています。

*写真上:志方城跡に建つ観音寺

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(24):湯ノ山街道をゆく(1)・街道は志方を走る

2011-06-23 08:43:57 |  ・加古川市志方全般

   Shikata3_001 湯ノ山街道

信長・秀吉の時代、東播磨各地の城主は三木・別所氏の支配の下にありました。

三木を通った「湯ノ山街道」について書いてみたい。

 加古川市の住民としては、古くから加古川地方の方が、三木よりも経済的に優れていたと言う思い込みがあります。

戦国時代、東播磨の各城主が三木(別所)の支配下にあったことを、いぶかしるのです。

 加古川の河口に発達した加古川・高砂の町は、ずいぶんと水害に悩まされ続けました。加古川は暴れ川でした。

その為か、生活はなかなか安定しませんでした。また、広い河口は旅人の渡川を苦しめました。

治水技術は、戦国時代に急速に発達しました。

 三木を東西に走る「湯ノ山街道」は、事情が加古川とは違って、水害の少ない内陸部の街道でした。

「湯ノ山」は有馬温泉のことで、姫路から三木を通り有馬に達し、さらに、宝塚から京都や大阪へ通じた道のことです。つまり、三木は南北を結ぶ道と東西を結ぶ「湯ノ山街道」の重要な交通の要所に位置していたのです。

この地を三木の別所氏が拠点にしたのも納得です。

 旅人にとっても「湯ノ山街道」は魅力がありました。

何よりも途中で、温泉につかり、旅の疲れをとることができました。

南北朝時代、播磨と西摂津を制した赤松氏は、特に、この街道を重要視しました。

     「ありまみち」の道標

Shikata3_002  三木から西へ湯乃山街道を行くと、宗佐(そうさ)・国包(くにかね)・井口(いのくち)・薬栗(くすくり)・山角(やまかど)、そして志方町を東西に貫き姫路へ通じます。

 投松(ねじまつ)から志方町(しかたまち)への途中の二子池の横に三つの道標(写真上)がありあります。

 これらの道標は、もともとこの場所ではなく、近くにあったと考えられています。

一番右の道標には、「左 ひめじ」、「右 三木ありま」とあり、一番左の少し大きめの道標(写真下)には、読みにくいのですが、次のように刻まれています。

        右 ありまみち

   これより

        左 かさい道

 道標の「ありまみち」は、湯ノ山街道のことです。

 「湯ノ山街道」の話題は風化しているようです。「加古川市史」にも「湯ノ山街道」についての詳細な記述はありません。

 「湯ノ山街道」が元気であった頃、この街道沿いの「志方」は、大いに繁栄していました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(23):高御位山物語(12)・山頂からの風景

2011-06-22 11:21:37 |  ・加古川市西志方

  話が、高御位山で進まなくなっています。

 また、高御位山の話は続けるとして、次回から「湯の山街道を行く」をはじめます。

     高御位山頂からの風景

Mttakamikura_025  記事は、見当外れかもしれません。高御位山山頂の風景を見ながらの想像です。

そのつもりで読んでください。

 先日、高御位山に登りました。

 山頂まで、すいぶん休憩をとっての高御位山登山となりました。

 でも、それだけに、いっそう素晴らしい眺望でした。

 地図を広げて眼下の風景を眺めています。

 水を張った水田が広がっています。

 でも、水田はところどころパッチワークのようになっており、耕作をやめた田も目立ちます。

      池が村をつくる

 この高御位山から流れ落ちた水は、山麓の水田を潤しているようです。

 でも、高御位山は峻嶮な山塊です。

 降った雨は、一気に平野部に流れ、そして法華谷川に流れこんでしまうようです。

そのために、山麓にはたくさんの溜め池が造られ、特に西志方の村々の水田を潤しているようです。

 地図を見ていると、特に、原の大池が、この地域の水田のネックになっているようです。

 高御位山麓には新田村が多い。

ということは、江戸時代に池が造られ多くの集落も誕生したようです。

後日、この事を史料で確認します。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(22):高御位山物語(11)・火祭り

2011-06-21 08:05:45 |  ・加古川市西志方

『志方郷(第16号)』に村上弘氏は、「高御位山今昔記(2)」と題して高御位山、春・夏の例祭について寄稿されています。

 その記事を、転載させていただきます。

春・夏の例祭

49b074af「高御位神社の例祭は、春祭りは421日、夏祭りは721日の2回行われる。

また、春夏の祭の前日の夜宮には、成井の青年団が日没を待って山頂に、掛け行灯をもってあがり、高御位大明神の神の火を行灯に移し、高御位音頭を唄いながら参道の要所、要所に行灯を置いて下山し、山の麓からは台車に乗せた大太鼓を打ちならしながら、子どもたちがそれを引きまわし村を一周する習わしが残っている。

この火祭りの行事は、約二百年前から引き継がれてきた、全国的にも珍しい伝統行事であると謂われている」(高御位山今昔記・2より)

 村上氏の例祭の報告を読んで、ぜひ見たく、そして、「高御位音頭」も聞いてみたくなりました。

文章で読む祭のイメージと実際の祭のようすが違っていることが多いものですから、721日(木)にはぜひカメラを持って出かけます。

また、村上氏は上の文章つづいて石灯籠の話をされています。

この石灯籠は飛翔の碑の付近に造られて、古文書によれば天明三年(1783)の事であるとのことです。

とすれば、例祭の火祭りの行事のはじまりとだいたい同じころになります。

天明時代というと、「(天明)飢きん」と結びつけてしまいますが、火祭りは「雨乞い」の意味を持っていたのかもしれません。

安直な推測です。

調べてみます。

この火祭りの意味をご存じの方はお知らせください。

また、高御位音頭の歌詞をお持ちの方はご一報ください。

*写真:参道に置いた掛行灯(『志方郷・16号』より)

 722日の「志方を歩く」で、再度この例祭りの報告をします。

写真も差し替えることにします。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(21)高御位山物語(10)・304メートルの登山

2011-06-20 08:25:59 |  ・加古川市西志方

  高御位山は、たかが304メートルだが!

自慢話からはじめます。

2030代はけっこう体力に自信がありました。特に、20代前半は陸上競技大会にも時々出場しました。

確か、昭和44年でした。けっこう大きな駅伝大会に、ある町の代表選手として出場しました。

たまたま、私たちのチームに長距離界では名が知られたYさんがメンバーとしておられ、彼の快走により優勝することができたんです。

先日、書類を整理していたら、その優勝を報じる新聞の切り抜きがでてきました。

以上は、「昔は、体力があった」ということを言いたかった初老の独り言です・・・・

     

   登山道完成(昭和60年)

Mttakamikura_038『志方郷(15)』に、村上弘氏が「高御位山今昔記」と題して寄稿されています。

その一部を読んでおきます。

「・・・成井登山口より登る正面道は、昭和60年に加古川市により婦人・子ども、老齢者のために行き届いた配慮が払われた登山道が完成し、楽々と登ることができるようになった・・・」とあります。

久しぶりです。先週の月曜日、「古代祭祀遺跡」の写真が欲しくて、高御位山登山に軽い気持ちで挑戦しました。

「楽々と登れるようになった・・・」という文にごまかされたようです。

「四丁目」の丁目石のところまでは、順調だったのですが、その後、急に心臓が高鳴り始めました。

七丁目辺りで、完全にダウン。

それでも、山頂まで10回ぐらい、長めの休憩をとり、やっとのこと「征服」することができました。私にとっては、まさに征服がぴったりとする登山となりました。

これを最後の、高御位山登山にします。

     

古代祭祀遺跡跡

Mttakamikura_036山頂には、「古代祭祀遺跡」(写真上)があります。村上弘さんの研究をおかりします。

高御位山が最初に文献に登場するのは、平安末期に書かれた「播磨国神名帳」です。

祭祀遺跡は、山頂の磐座(いわくら)が神の宿るところとして、その前で「祭りごと」をした跡であろうと推測されています。

昭和598月に山頂の一体の岩場に「みそぎの磐穴」(写真下)などが発見されました。

時がたつと、人々は岩石よりも神が宿るとする社殿を信仰の対象にするようになり、「社」を造りました。

高御位神社については『志方郷・15』の「高御位山今昔記」(村上弘著)をお読みください。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(20):高御位山物語(9)・神々のイサカイ

2011-06-19 07:52:08 |  ・加古川市西志方

『峰相記(みねあいき)』という本があります。

著書は「峰相山鶏足寺(けいそくじ)」の某僧となっていて名前はわかりませんが、鎌倉時代末期から南北朝のころまでの播磨のようすを知る貴重な本です。

さまざまな、話が取り上げられていますが、高御位の神様の話があります。

湊神社(姫路市的形)の宮司、神栄宣郷が『郷土志(15号)』で、鎌倉時代の民衆の信仰としてこの話を取り上げられています。

本稿では、さらに平易な文にさせていただきました。

ちょっと、ユーモラスは神様たちの物語です。

   神々のイサカイ!

635fc7fc_2石の宝殿(生石神社)の神様は、むかしから、「生石子(おおしこ)神」と呼ばれていました。

峰相記に「陰陽二神としてあらわれたまう・・・」とあって、生石子神は女神で、高御位の神様は男神で、この二人の神様は夫婦でした。

ところが、ここに日向大明神という、それは美しい女神が美しい侍女をたくさん伴って、加古の浜辺へご上陸になりました。

高御位の神様は、日向大明神やお供の侍女たちの美しさにびっくりして、とうとうご自分の所へ招待されました。

このありさまを知った生石子神は、カンカンになり承知なさるはずがありません。

“怒り”がおさまりません。

美しい日向大明神を、川向うの山(日岡山)へ追いやると同時に、侍女たちを別にして泊神社(現:加古川町木村)へ押し込んでしましました。

 この高御位の神と生石子の物語は、どこか俗っぽい話で、およそ神様らしくない話です。

 こんな話からも神と共に笑い、共に泣いた中世の人々の気持ち、考え方が伝わってきそうです。

(注)

 昔、日岡神社は、「日向神社」と呼ばれていました。現在の「日岡神社」に名前を変えたのは明治3年(1870)です。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(19)・高御位山物語(8)・渡辺信二飛行士

2011-06-18 08:12:30 |  ・加古川市西志方

高御位山頂から飛ぶ

Mttakamikura_040昭和36年、有志で高御位山頂に滑空記念碑「飛翔」(写真)が建設されました。

碑文には次のように刻まれています。

「先覚者があった。彼を渡辺信二といった。志方町の人である。

大正十年(1921)十月十七日、彼自ら創作した滑空機に彼自身が搭乗し、天空を目指してここから飛んだ。

滑空距離三百㍍、時に二十一才であった。

ここへの搬上は、下ノ町の青少年がかってでた。

・・・・(以下略)・・・・」

この時、このグライダーの滑空に参加された平田五郎氏が、この緊張した場面を『志方郷(創刊号)』に寄せておられます。その一部をお借りします。

     山頂の磐座から南の谷へ

「・・・(信二さんは)4㍍のグライダーをつくりあげ、大正101017日、父信一氏の一度だけという許しを得て、下の町の青年団の渡辺準、藤本和蔵、竹内忠雄、池沢徳次、平田重成等の友人の外、小学生であった私たち10人も手伝って、グライダーを分解して高御位山頂まで運び上げ、また、組み立てて神社南側の岩の上へグライダーをかつぎ上げ、友人たちはロープで体をしばり、神社の柱にくくってグライダーと共にがけに落ちないようにして、「1・2・3」のかけ声と共に信二さんの乗ったグライダーを頭上高く差し上げて、一気に前方向けてつき離した時に尾翼が途中の松の大木にひっかかって、目的の下の池には着水せず着陸したが、渡辺さんの計画地近くに着陸できたので、参集者一同大成功と喜びあいました・・・」(『志方郷・創刊号』より)

信二氏は、子供の時より航空機に興味を持ち、航空兵を志したのですが、徴兵検査では乙種で望みを絶たれました。

その後、航空学校を卒業後し、わが国最初の民間水上飛行士の免状を得ました。

卒業後、堺・高松・福岡の定期航空に従事し、時には甲子園でおこなわれた全国中等学校の野球大会(現:高校野球大会)の開会式などの飛行にも参加しました。

大正1546日、事故が発生しました。

堺発福岡行きの郵便飛行中、神戸沖で発火を起こし墜落殉死されました。

この時、渡辺信二氏は26才で、日本における郵便飛行の最初の犠牲者となりました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(18):高御位山物語(7)・「うし岩」と「たぬき岩」

2011-06-17 08:10:29 |  ・加古川市西志方

先日、ササユリが咲いていると聞いて、久しぶりで高御位山登山に出かけました。

この日は、ササユリの外に不思議な形をした岩の撮影が目的でした。

「うし岩」と「たぬき岩」です。

場所は、調べておいたので、まよわず探すことができました。

    

   うし岩

Mttakamikura_011登山道の「二丁目」の「丁目石」の所に小さな祠があります。

そこに登山道の幹道から分かれて、少し細い別の登山道があります。

現在「ササユリの道」と書いた目印があります。

その道を20メートルばかり行くとすぐ左手に、それとわかる大きな「うし石」(写真上)が現れます。

『志方郷(43)』で、長谷川英樹さんは「何故に、うし石と呼ばれているのかも、不明である・・・」と書かれているのですが、私は「うし石・・うし石・・・」と初めからそう唱えながら探していたせいか、まさに「牛」に見えました。

特に、大きな牛が横たわり頭を持ち上げた姿に見えました。

うし石の横にササユリが二輪咲いていました。

昔、牛は農作業にとって欠くことのできない大切な動物でした。

この大きな岩が牛に見えたのは、お百姓さんの牛を思う気持ちだったのかもしれません。

    

   たぬき岩

Mttakamikura_021もとの登山道に引き返し、四丁目の丁目石からコースを離れて北へ5分ほど小道を行くと、たぬき石(写真下)に到着します。

この岩と「たぬき」は、どうしても結びつきません。

この岩は、「たぬきの形をした岩ではなく、この辺りに、昔たぬきがたくさん住んでいたのではないだろうか・・」と勝手な想像をしてしまいました。

 「うし岩」も「たぬき岩」も登山道から少し離れています。

次回、登山をされる時は、少し足を延ばして、うし岩・たぬき岩にもお寄りください。

*たぬき岩・うし岩の名前の謂われをご存じの方は一報ください。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(17):高御位山物語(6)・オコゼと神様

2011-06-16 08:07:27 |  ・加古川市西志方

   

高御位神社にオコゼを供える

Cc1ee735むかし、高御位山の頂上には大きな灯ろうがありました。

村の人は、交代で灯をともしに登りました。

この灯は、播磨灘で漁をする人々に灯台の役割を果たしていました。

だから、漁師は海からあがると感謝の心をこめて「オコゼ」を高御位神社に供えたのでしよう。

では、どうしてあの醜いオコゼをどうしてお供えたのでしょうか。

「オコゼは、たいそう美味しく山の神はオコゼが好きで、これをお供えするとたいそうよろこばれる」ということでした。

また、病気をした時、願をぜひ聞きとどけてほしい時など、オコゼを持っておまいりすると、必ず、かなえてくださいました。

大正5年に刊行された「印南郡誌」を読んでおきます。

『・・・ここ四・五十年ほど前(江戸時代の終わりから明治時代の初めの頃)までは、沢山の船頭がこの高御位山へ参ってきた。

そうしてどうした理由か、この時きっとオコゼを持ってきたという・・・」

    

外にも残る「オコゼ」を供える風習

神にオコゼを供える風習は、高御位神社だけではなく外にも例があります。

兵庫県でも須磨の多井畑の猿田神社彦など4例が知られています。

まだ外にこの風習を持つ神社があるかもしれません。

この近辺では、高御位山神社のほか、曽根の日笠山やその山続きの北山にある古墳にオコゼを供える風習があったといいます。

 日笠山の古墳では、婦女子が「乳がたくさん出ますように」と願ってオコゼを供えたといいます。

 漁師だけの風習ではなかったようです。

 それにしても、「なぜオコゼか?」の疑問がやはり残ります。

写真:オコゼ

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

志方町を歩く(16):高御位山物語(5)・高御位山と牛島

2011-06-15 08:20:15 |  ・加古川市西志方

  高御位山の神様と牛山の神様とのけんかの伝承です。

 *文中の牛島は、高砂沖に浮かぶ牛島(ほうらく島)のことです。現在、地図では上島となっています。

    高御位山と牛島

Mt_takamikura2_005 高御位山は、このあたりで一番高い山です。

ところが、大昔、それほど高い山ではなく、牛山という山と仲良く並んでいたということです。

ある時のことです。

高御位山の神様と牛山の神様が大けんかをしました。

その時、牛山の神様は負け、はるか沖へ投げ飛ばされてしまいました。

この時から、高御位山の神様の勢いが、一段と強くなりました。

そして、ついには、この地方で第一の高い山となったのでした。

一方、負けた牛山は、海の中にポツリと、とり残され「牛島」と呼ばれるようになりました。

その上、形も、背がだんだん低くなり「ほうらく」をふせたような形成りました。

(ほうらく・・・豆などを炒る時に使う土製の器)

いまでも、播磨灘に、とりのこされるように浮かんでいます。

「ほうらく島」は、この牛島のかわりはてた姿だということです。

 *『郷土の民話(東播磨編)』(郷土の民話・東播地区編集委員会)参照

〈写真について〉

昨日、牛島(ほうらく島)の撮影に「あらい海風公園」(高砂市)へ出かけました。

牛島はすぐ前の海にあるはずですが、かすんでよく見えませんでした。

そのため牛島(現在、地図では上島となっています)に向かって設置されているボードの写真をおかりしました。

天気のいい日に牛島(上島)の撮影にでかけ、そして、差し替えることにします。 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加