人気絶頂の雁治郎を批判する
大正十二年の関東大震災は、まさに未曽有な世紀の大事件でした。
三宅周太郎は、東京を脱出しまいた。
大阪は、東京の大災害などは何の影響もなく、最も般賑を極めていました。
その頃の姉は、南区掘江の格調高い通りに面した門構えの立派な二階建家に、中年の女中と二人でひっそり暮していました。
姉は、東京から身一つで頼ってきた周太郎を、何時もと変らぬ母親のような愛情をもって温く迎えてくれました。
先年、夫仙之助とは死別したとはいえ、生前大阪の実業界の一角で活躍していた夫の莫大な遺産は、加古川町近郷の素封家三宅本家もその足元にも及ばなかったといいます。
さらに掘江通りは道頓堀・千日前とは最至近距離です。
その道頓堀は、東京の大劇場が全焼した事もあって、東京の名優達が大挙して関西へ移動し、大阪の演劇界は時ならぬ活況を呈するであろうことは誰にも予測出来ました。
久々振りの周太郎の道頓堀での劇場通いが始まりました。
独身だし加古川の家からの送金は続いているし、下宿代は不用であり、災難に逢って呑気といえば大変気楽な生活でした。
やがて、冬の気配が濃くなったころ、ふと周太郎は、北区堂島の大阪毎日新聞社の学芸部に、三田文科出身の後輩が勤めているのを思い出し、ある日、社へぶらりと訪ねて行くと、部の幹部をはじめ全員の会議が終ったところで、その後輩から部の人達を紹介されました。
周太郎は、その後も度々「毎日」の学芸部へ顔を出して、部の人達とも顔馴染になりました。
家に帰って姉に「あそこ(毎日新聞)でも使ってくれたらええと思うけど・・・」と話をすると、「周さん、アンタほんとうに毎日新聞へ入って働きたいと思うの?」と訊くので「姉さん、それはどうして」と問い正すと、姉は「毎日の本山社長なら主人と懇意にしていたのよ。私骨を折ってみるわ」姉はそういうなり、直ちに阪急岡本の本山社長邸へ電話を入れ、社長夫人に周太郎の毎日入社を依頼したのです。
本山社長宛の紹介状を書いて周太郎に渡し、翌日それを持って「毎日」の秘書室へ行くと、返事を貰い、後日改めて本山彦岨社長に面接する事が出来ました。
そして間もなく「社会部」配属の新聞記者として採用するという通知を受取りました。
周太郎の大阪での新しい、張りのある生活が再開されました。
その頃の大阪の劇界は初代中村雁治郎の全盛期でした。
周太郎も本来が上方歌舞伎で開眼したため、その少年時代から雁ビイキでした。
ところが最近の雁は、派手さが目立ち周太郎は甚だ苦々しい思いをせずにはいられませんでした。
そういう劇評を周太郎はズバリと「毎日」に書きました。
大阪では名優、雁治郎を非難した劇評は、いくら正論とはいえ結果的には雁をはじめ劇場関係者から大きな怒りを買う結果になったのです。
周太郎が「東京日日」への転勤(追い出され)を命ぜられたのは、それから二ヶ月後の大正十三年七月のことでした。(no4606)
*写真:二代目雁治郎
◇きのう(1/14)の散歩(10.626歩)
〈お願い〉
「ひろかずの日記」 http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b
時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください。