ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

三宅周太郎さんのこと(32) 団平の死

2019-01-24 09:44:52 | 三宅周太郎さんのこと

 

     団平の死

 明治31年4月1日。場所は大阪の稲荷座。

 その日、義太夫三味線の名手、豊沢団平の音色は、ことのほかさえ、聞き入る人々を魅了していました。

 九分どおり済んだと思われた時である、団平は、ハタとバチを落とし、前のめりにガックリ肩衣のまま倒れました。

 意識不明のまま団平は、病院に運ばれる途中絶命しました。71歳でした。

 三味線界300年の歴史を通じて、その右に出るものなし、とまでいわれた団平の死は、いかにも、この人らしい終末を飾る劇的な風景でした。

 彼は、本名を加古仁兵衛(かこにへえ)といい、加古家は団平から数代前に粟津から寺家町に移転して、醤油醸造を家業としていました。

 粟津の常徳寺が加古家の菩提寺であり、団平はこの境内に眠っています。

 友達の理髪店に行きました。理髪店の裏が常徳寺です。(no4616)

 *写真:常徳寺の団平の墓

 ◇きのう(1/23)の散歩(10.539歩)

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三宅周太郎さんのこと(31) 豊沢団平さんのこと:余話二題

2019-01-23 08:09:29 | 三宅周太郎さんのこと

          団平さんのこと:余話二題

 この辺で「三宅周太郎さんのこと」を追えますが、最後に余話を二つばかり付け加えておきます。

   その1:「豊沢団平生誕之地」の碑は残っていた

 たしかに団平さんの碑があったことを覚えています。

 場所も覚えています。

 だれかが、「むかし団平さんという人いて、その人はここで生まれたんや・・・」と教えてくれたからです。

 いつ・だれに聞いたかすっかり忘れました。

 その碑は小さな碑でした。

 文楽の研究家の「三宅周太郎さんのこと」を連載しながら、気になっていました。

 21日(月)の午後、その場所に出かけることにしました。

 場所は、加古川中央公民館の玄関から寺家町商店街への道があますが、商店街の道の10㍍ぐらい手前の左(西側)です。

 「もう50年以上前に見た小さな石碑ですから、もうないだろう・・・」とダメ元で出かけたのです。

 が、なんとあったではありませんか。感激でした。

 今は駐車場になっており少しだけ移動しているようでした。フェンス沿いにありました。

 団平さんの影を見つけました。

 はっきりと「豊沢団平生誕之地」(写真)と読めます。

    その2:幻の「団平羊羹」のこと

 団平について思い出がもう一つあります。

 小学生の時でした。たしか「団平羊羹」がありました。

 味は忘れたが、「ダンペイ」という言葉の不思議な響きが残っています。

 もちろん、その当時は「ダンペイ」が人の名前だとは知りませんでした。

 今も団平羊羹は製造されているのでしょうか。

 あったら、団平羊羹を食べながら、『一の糸(有吉佐和子)』を、もう一度読み返したい・・・(no4615)

 *写真:「豊沢団平生誕之地」の碑

 ◇きのう(1/22)の散歩(11.162歩)

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三宅周太郎さんのこと(30) 豊沢団平(3)・団平は、文楽義太夫節三味線、日本一の名人

2019-01-22 09:11:33 | 三宅周太郎さんのこと

    豊沢団平(3)

     団平は、文楽義太夫節三味線、日本一の名人

 周太郎の「団平」調査は続きました。

 団平を預けられた千賀太夫は、幼少の力松を旅芸人の三味線弾きにする程度の考えで、当時の三味線の名人三代目豊沢広助の門に入れました。

 つまり、親は資産をなくし、なまじ浄瑠璃の為に一生を犠牲にした結果、子を三味線弾きにしたものの、その至難さを身に沁みて知る故に、せめて「旅稼ぎ」でも出来ればと思う程度でした。

 この消極的に、三代目広助の門へ入れられた力松が、親が全く期待もしないのに、後年の名人団平に成長したのです。

 しかも、広助の眼は高いものがありました。

 幼少の力松をただ者でないと見て取り、「旅稼ぎ」などは、もっての外とばかりに、直ちに力松を本場の文楽へ入れて修業せしめたのです。力松12・13の頃と思われます。

 18才にして才能を現し、早くも数人の門人さえ持ち、28才の若さで当時の最高権威竹本長門太夫の三味線を弾くまでに進歩したのでした。

     三宅周太郎のこと

 三宅周太郎は、戦後ずっと京都市内桂野に定住し、劇評一筋の道に精進しましたが、すでにこの界の権威としての不動の地位を確立しました。

 そして、かつての母校・同志社普通部の旧知の人達からの懇請によって、ある日母校での講演会に出席しました。

 それは多感な青春の日を想い浮かべ、ひとしお感興にひたりつつ、その演題は「文楽について」として、文楽の前途を憂いつ、多年にわたる独自の研鑚を傾けたもので、列席の人達に多くの感銘を与えました。

 また、昭和35年7月、加古川市市制十周年記念祝典には、かつて父祖の所有地であった寺家町の旧公民館で、郷土の人達を前にしての特別記念講演にも「豊沢団平について」と題しての文楽ものでした。

 加古川市が生んだ不世出の名人芸の真髄を披れきしたものだったのです。(no4613)

 *写真:三宅周太朗(京都南座を背に・昭和39年2月26日撮影)

 ◇きのう(1/21)の散歩 (10.256歩)

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三宅周太郎さんのこと(29) 豊沢団平(2)・団平のルーツ

2019-01-21 09:51:23 | 三宅周太郎さんのこと

     豊沢団平(2) 団平のルーツ

 *以下、周太郎の文章は、文体を変えています。

 周太郎は、あるところで次のように語っています。

 

 「・・・浪花女(なにわおんな)の団平は、近世では、芸を命とした第一人者であったことは論を待ちません。それは、人形浄瑠璃の方では既定の事実です。

 しかし、これを知っている人は、インテリと文楽ファンのみといえる程少数でしょう。

 その現在に、何十万何百万の一般人に見せる映画として、近世における「芸を命」の代表者・豊沢団平をあいまいながらも映画として紹介したことは、我々人形浄瑠璃に関心を持つ者には大きな嬉です。

 ・・・・

 (また、ルーツについては)「団平の本名は加古仁兵衛、文政11年(1828)3月生まれで、団平の先祖は武士でした。

 それが、後に織田の配下の秀吉の中国征代に蚕食せられ、三木城の別所小三郎の部下として寵城すること数ヶ月、討ち死と決心して乳母に蓄えの金と男の児とを託し、附近の筒井家へ送り、そこで乳母が遺児を養育し、その子が町人となり生長して加古川のすぐ隣の粟津村(現:加古川町粟津)へ移住して老年に及び、当時廃寺となっていた同村の常徳寺を起し、自ら出家して復興しました。

 現在の常徳寺は、改築せられたものですが、この寺は名人団平の先祖が復興した寺に当るわけです。

 この後、引続いて粟津村に四代ほど居住し、五代目に当る加古安次郎の代になって、隣なる加古川町内へ移転しています。

 そして、その安次郎の子が後年の豊沢団平のようです。

 この安次郎の生家は、大きな松の木のある寺がある常住寺でした。(*常住寺は、現在加古川中央消防署の近くへ移動している)

 その常住寺から西ヘ一丁程の所に、数年前まで「玉岡」といった資産家の呉服店がありました。

 その家は立派な大きな家で、古くから加古川町の資産家では五本の指に入る家でした。

 その家が実は安次郎氏が初めて加古川へ来て住んだ家、そして団平が生れた家です。

 団平は幼名力松、この安次郎が芸好きであって、いわゆる旦那芸として浄瑠璃を習い、それがこうじて、元来武家出身の名門加古家のこととて裕福であったのですが、ついに家計が傾き、資産を蕩尽するまでに浄瑠璃に打込む結果になりました。

 結局、一家は離散し力松は大阪の叔父に引きとられました。そして、力松は間もなく大阪の竹本千賀太夫の手許に身を寄せたのでし」と書いています。(no4612)

  *写真:常徳寺の山門横にある「碑」(豊沢団平菩提所)

 ◇きのう(1/20)の散歩(11.135歩)

 

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三宅周太郎さんのこと(28) 豊沢団平(1)・映画「浪花女」

2019-01-20 09:30:38 | 三宅周太郎さんのこと

 今回の主人公、豊沢団平・三宅周太郎はともに加古川寺家町生まれであることを念頭にお読みください。

     豊沢団平(1) 映画「浪花女」

 昭和15年9月10日の午後でした。

 その日、朝遅くから伊豆半島を横切った豆台風は、東京の街にも豪雨を伴って走り去ろうとしていました。

 (三宅)周太郎は市電を乗りすて、パラソルの柄を両手でしっかり握りしめて、市の中心部のある文化ホールへ急いでいました。

 そこでは、松竹映画「浪花女」の封切上映に先立って製作関係者、芸能雑誌記者、映画・劇評家等数十名を招待した試写会が催される事になっていたからです。

 周太郎はこの「浪花女」に、期待と幻滅とを相半ばした予想を立てて会場へ着きました。

 試写が始まりました。これは映画界の中でも芸術性を追求して「凝り屋」との異名のある溝口健二の監督によるもので、主演は当時売出しの阪東好太郎・田中絹代で、大阪の文楽の再興に大きく寄与した、三味線弾きの名人、二代目豊沢団平とその妻女千賀との夫婦の純愛を扱ったもので、もちろん団平には好太郎、千賀には田中絹代、他に人形遣いの文吉には高田浩吉、浄瑠璃の越路太夫には浅香新八郎という豪華キャストでした。

 そのストーリーは大阪の小さな商家の娘として育った千賀は、子まであった団平の後妻になろうとして周囲の反対に出会いました。

 それを千賀が押切って年の多く違う団平の後妻になった理由は、ふとした事から団平の病気看護をしている中に、徐々に団平に感化されて義太夫の真価を覚えるようになり、ついに彼女は周囲の反対を押切って団平の女房になりました。

 このようにして女性ながらも千賀は団平の影響で義太夫の真価が判った上、義太夫を愛したのです。

 また、千賀は当時の女としては珍しく「ものを書く才分」をもっていました。

 千賀は、有名な義太夫の「壷坂」を創作したことでした。

 それを読んで団平は彼女の才分に驚き、その作の妙に打たれると共に、その場で節づけの「作曲」をしたのです。

 ・・・明治31年4月、稲荷座の舞台の床の上で三味線をひいている中に倒れ、かすかに「お千賀を呼んで・・・」といって息切れるのです。

 団平は、一代の名人でいながらまさに赤貧洗うが如き無欲な人で、この映画でも千賀が団平の家へ嫁に来た時は、あばら屋でぼろぼろの障子や畳だけといっていい程、家財類は皆目なかったといいます。

 この様に団平は「人形浄瑠璃」の最もさかんな時代に生き、さらにそれを盛大にして「文楽」の大御所的存在になりながらも、金銭に執着心がなく、文字通りその日暮しでした。

 「浪花女」は、最初の情痴本位の日本映画との予想は全くひっくり返り、それは最も関心をいだいていた完全な「文楽映画」でした。

 さらに溝口監督だけに「文楽」なり人形浄瑠璃の考証や考察が充分に行届いているのに、周太郎はいたく感激しました。(no4611)

 *写真:映画「浪花女」の溝口健二監督

 ◇きのう(1/19)の散歩(11.239歩)

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三宅周太郎さんのこと(27) 文楽の復活

2019-01-19 08:16:32 | 三宅周太郎さんのこと

            文楽の復活

 三宅周太郎の功績は、演劇評論家として、歌舞伎の興隆、文楽の再興に貢献したことでした。

 中でも、この文楽の研究こそ、前人未踏に近い処女地で、三宅周太郎は最初の人でした。

 「中央公論」に発表された「文楽物語」は関係方面に静かなるブームを呼びました。

 間もなく「時事新報」の学芸欄で、作家の広津和郎がこれを激賞する文を書います。

 続いて文芸評論家の正宗白鳥が、そして文芸評論家の谷川徴三・佐藤春夫も高く評価しました。

 周太郎は、将来への目標も希望も見失って、混迷の道にさ迷い、絶望と苦悩の中から脱出すべく、全力を尽して賭けた仕事が多くの人達から温い厚意をもって評価されたことは、今後の仕事の自信を深めることができたのでした。

 「中央公論社」は、続連載を懇請してきました。

 周太郎は、引き続きその研究を深め、文楽ものを書き続けました。

 そして、昭和3年の3月、大阪の文楽一座は東京の明治座へ、大挙上京して大公演をうちました。

 公演は圧倒的な大入の連続で大成功をおさめました。

 文楽の人気を盛り上げたのは「中央公論社」 「東京日日新聞社」 「新潮社」そして、周太郎の所属する文士集団「三田派」及び劇作家の里見滓の一派、さらに義太夫の大のファンでした。

 それに、財界一方の旗頭である渋沢家の人達が、一体となって協力しました。

 もちろん、これらすべての引き金となったのは、三宅周太郎の「文楽物語」であることは、衆目の一致するところでした。

 そして、この東京公演は文楽一座にとっては、まさに起死回生の快挙となり、周太郎は、一座の人達から救世主のように感謝されたのでした。

 

 そして、淡路こそ、人形浄瑠璃の発祥の地である事を突きとめた周太郎は、多忙な中、淡路島を訪れています。昭和4年5月19日のことでした。(no4610)

 *写真:『文楽の研究(三宅周太郎著)』(岩波文庫)、「文楽物語」はこの本に詳しい

 ◇きのう(1/18)の散歩(10.406歩) 

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三宅周太郎さんのこと(26) 文楽を滅ぼすな

2019-01-18 08:41:16 | 三宅周太郎さんのこと

         文楽を滅ぼすな

 「文楽」とは、歌舞伎の姉妹芸術といわれた人形浄瑠璃の事です。

 何時か時間的な余裕が出来たら、これをさらに深めてみたいと考えていた矢先の事でした。

 それは全く偶然で、「演劇新潮」最終号の校正の為、校正をしているときでした。

 その隣室には顔見知りの中央公論社の編集長である島中雄作が、部下とともに、来ていました。

 周太郎は島中が義太夫に趣味がある事は、かねがね聞いていたので、廊下でばったり顔を合わせた時、いつもなら気おくれする周太郎でしたが、いきなり島中に「・・・実は大阪の文楽ものを少しほり下げて書きたいと考えているのですが、お宅の雑誌は如何でしょうか・・・」といってしまった。

 これは実に失職を目前にして、背水の陣ともいえる周太郎の積極的な、自らの原稿売込みの挨拶でした。

 すると島中は直ちに、興味と好意の表情をみせ「ああ、・・・私の方も中間読物がなくて実は困っているところです。この頃小説は行詰ってきて、中間読物に活路を開きたいと思っていたところですよ。是非お願いしたいですね。・・・」と話は思いがけない方向へ発展したのです。

 それは周太郎にとって希ったり、叶ったりの幸運が舞込んできたのも同然でした。しかも、相手は天下の「中央公論」でした。

  文楽の現地での実地調査が急務でした。

 昭和2年の9月下旬でした。

 その頃の文楽は東区東野町にあった御霊文楽(大阪府中央区淡路町)が、9ケ月前の大正15年11月29日、夜の11月興行の打上げた夜半、失火によって焼失し、再建の見込のないどん底の状態でした。

 浄瑠璃は、当時、文楽の一座は本拠の小屋の焼失で、道頓堀の弁天座に出張公演をして、細々とその命脈を保っていましたが、社会からすでに見捨てられようとしているかの如く、不入続きで「文楽はもうあきまへん」と口を揃えて半ばさじを投げ出さんばかりの最悪の条件下でした。

 このような不遇下に想像をはるかに越えた困窮の、薄給で文字通り喰うや喰わずの彼等の生活を初めて知ったのです。

 義太夫の修業は実に10年・20年の下積生活はおろか、数十年を要し、そして尚かつ生活の安定が保障されない状態でした。

 この様な純粋で気高い貴重なものがこのまま見捨てられ、亡んでいってもよいものか。

 周太郎は、大きな義憤さえ感ぜずにはおれませんでした。

 昭和3年の新年号の「中央公論」誌上に「文楽物語」として、第一回約40枚は掲載され、連続三回に及びました。

 三宅周太郎が心血をそそいで書いたそれは、忽たちまち文壇・劇界に大きな反響を呼び起したのでした。(no4609)

 *写真:御霊文楽座(ごりょうぶんらくざ)(焼失前の御霊文楽座

 ◇きのう(1/17)の散歩(10.821歩)

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三宅周太郎さんのこと(25) 文楽の研究に光を見つける

2019-01-17 08:58:42 | 三宅周太郎さんのこと

     文芸春秋社を退社

 第二次「演劇新潮」は、努力の甲斐もなく挫折してしまいました。

 その頃の(菊池)寛は、東京朝日と大阪朝日の朝刊に初めて「第二の接吻」を連載し、大正15年1月からは、講談社の新刊娯楽雑誌「キング」に長編小説「赤い白鳥」を書き出し、流行作家として人気の頂点でした。

 また、文土の社会的、経済的地位の向上をめざして、文芸家協会を設立し、初代の会長におさまり、自らも最高価の原稿料を各社に要求したといわれ、文春社の社長も兼ねて莫大な収入がありました。

 そして、取巻きに近いような若い作家達の面倒をよく見て、気前よく金を散じる豪著な生活に明け暮れていました。

 社長がこのような生活態度であったから、社と深い関係にある川端康成、横光利一、佐々木茂策、斉藤龍太郎、西村晋一といった新進作家連も派手な遊びで、これらの人達と談笑する機会も多くなると同時に、酒は少しもいけない周太郎でしたが、この人達との付合いで高級料亭で豪遊することもしばしばとなりました。

 このような生活に馴染んだ周太郎は、収入をはるかに越えた華美な生活によって、またたく間に相当な借金が出来てしま.いました。

 ある時、某所への60円(現在に換算して約30万円)の支払いの約束が重くのしかかってきました。

 寛に「六十円の金が是非入用なのだが…」と、周太郎は口走ると、「君、これをやるよ。君には世話になったこともあったな」というなり、周太郎の手に60円をポンとにぎらせたのです。

 律義な周太郎が他人から金を借りたのは、後にも先にもこれが一回きりでした。

 「演劇新潮」は廃刊になったが、寛は「ずっと文春社に残ってやってくれないか」といったが、周太郎はその責任は一切明確にすべきだとの信念から、それを断ちきって、文春社を退社しました。昭和2年8月の終りでした。

  周太郎は自由な身になった反面、文春退社によって収入は激減しました。周太郎は幸いにも「東日」だけはつながっていましたが、『もう一度正社員に戻してくれ』とは東日へいえるものではありません。

    文楽の研究に光を見つける

 三宅周太郎が、昭和のはじめ頃の物心両面の八方ふさがりの生活の中から、脱出すべく換悩のうちに光として捕え得たものは、かねてより深い関心をいだきながらも、模索状態にあった大阪の文楽ものの研究に賭けることでした。(no4608)

 *写真:文楽(人形浄瑠璃)

 ◇きのう(1/16)の散歩(11.167歩)

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三宅周太郎さんのこと(24) 周太郎「文芸春秋社」に移る

2019-01-16 08:44:47 | 三宅周太郎さんのこと

      周太郎「文芸春秋社」に移る

 大正13年7月下旬のある日、「東日」へ転勤になって東京の土を踏んだ周太郎にとっては、10ケ月ぶりでした。

 急ピッチの復興ぶりには、周太郎は思わず眼をみはりました。

 「東京日日」の学芸部に周太郎は配属される事になりました。

 「東京朝日」ではこの学芸欄には意欲的でしたが、周太郎は文壇の受持ちに配属されました。

 文壇は、原稿料を払わずに四段を埋めるのだから、周太郎は文壇の旧知の人達、例えば芥川、山本有三、久米とか三田の小島政二郎らを訪間して、記事にするというやり方は、初めは周太郎の顔を立てて何とか適当にしゃべってくれましたが、二度三度となると顔をしかめるようになりました。

 菊池寛は、そんな周太郎を少なからず心配をしていました。

 その頃、名優の一人である市川猿之助が、菊池寛の出世作の一つである「父帰る」を是非やってみたいと念願していましたが、猿之助周辺には菊池寛と顔見知りがおらず、猿之助、寛双方に懇意な周太郎にその交渉の役が廻ってきました。

 周太郎は、猿之助に代って「父帰る」の上演の了解を求め交渉を成功させました。

 そして、大正15年の2月上旬でした。

 菊池寛から周太郎に「是非逢いたい」という電話がありました。

 「この度『演劇新潮』をウチの社(文芸春秋社)で出すことになったのだが、是非君にそれを担当して貰いたいと考えるのだが、どうかね・・・」と単刀直入の寛の申入れでした。

  「演劇新潮」という雑誌は震災後の大正13年未頃から、劇作家の山本有三が主宰で新潮社がその経営面を受持ち、体裁も内容も充実した純演劇専門誌でしたが、不況で収支があわずに行きづまり、廃刊になっていたものでした。

 寛は「山本とも話はついている。ウチで第二次『演劇新潮』ということになるが、君も「東日」をやめてこの際是非文芸春秋社へ来て貰いたいのだ・・・」と勧めるのでした。

 文芸春秋は、菊池寛が大正12年1月に創刊した雑誌で、内容が新しく、不況の中にも人気もよく発行部数も好調に増加していました。

 周太郎は、その場で快諾の意志表示をしました。

 そして、翌朝「東日」に出ると、早速に学芸課長に「やめる」と申をすると、井沢課長は「君の意志通り『演劇新潮』をやるため文春へ行くのはよいが、「東日」をやめる必要少しもないよ・・・社の嘱託として関係を続けていて、適当に専門の劇評を書いておれば、君も社もすべてその方がお亙に好都合ではないのかね・・・」と「東日」からの完全退社に反対しました。

 そういわれてみれば全くその通りでした。

 その進退は井沢課長に一任しました。

 周太郎と東日との関係はその後も永く続き、昭和20年3月の空襲による東京脱出まで約20年間、東日の準社員的立場でその学芸欄に劇評を書き続けて、多くのファンの好評を得ることになりました。(no4607)

 *写真:三宅周太朗

 ◇きのう(1/15)散歩(11.058歩)

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三宅周太郎さんのこと(23) 人気絶頂の雁治郎を批判する

2019-01-15 09:21:12 | 三宅周太郎さんのこと

      人気絶頂の雁治郎を批判する

 大正十二年の関東大震災は、まさに未曽有な世紀の大事件でした。

 三宅周太郎は、東京を脱出しまいた。

 大阪は、東京の大災害などは何の影響もなく、最も般賑を極めていました。

 その頃の姉は、南区掘江の格調高い通りに面した門構えの立派な二階建家に、中年の女中と二人でひっそり暮していました。

 姉は、東京から身一つで頼ってきた周太郎を、何時もと変らぬ母親のような愛情をもって温く迎えてくれました。

 先年、夫仙之助とは死別したとはいえ、生前大阪の実業界の一角で活躍していた夫の莫大な遺産は、加古川町近郷の素封家三宅本家もその足元にも及ばなかったといいます。

 さらに掘江通りは道頓堀・千日前とは最至近距離です。

 その道頓堀は、東京の大劇場が全焼した事もあって、東京の名優達が大挙して関西へ移動し、大阪の演劇界は時ならぬ活況を呈するであろうことは誰にも予測出来ました。

 久々振りの周太郎の道頓堀での劇場通いが始まりました。

 独身だし加古川の家からの送金は続いているし、下宿代は不用であり、災難に逢って呑気といえば大変気楽な生活でした。

 やがて、冬の気配が濃くなったころ、ふと周太郎は、北区堂島の大阪毎日新聞社の学芸部に、三田文科出身の後輩が勤めているのを思い出し、ある日、社へぶらりと訪ねて行くと、部の幹部をはじめ全員の会議が終ったところで、その後輩から部の人達を紹介されました。

 周太郎は、その後も度々「毎日」の学芸部へ顔を出して、部の人達とも顔馴染になりました。

 家に帰って姉に「あそこ(毎日新聞)でも使ってくれたらええと思うけど・・・」と話をすると、「周さん、アンタほんとうに毎日新聞へ入って働きたいと思うの?」と訊くので「姉さん、それはどうして」と問い正すと、姉は「毎日の本山社長なら主人と懇意にしていたのよ。私骨を折ってみるわ」姉はそういうなり、直ちに阪急岡本の本山社長邸へ電話を入れ、社長夫人に周太郎の毎日入社を依頼したのです。

 本山社長宛の紹介状を書いて周太郎に渡し、翌日それを持って「毎日」の秘書室へ行くと、返事を貰い、後日改めて本山彦岨社長に面接する事が出来ました。

 そして間もなく「社会部」配属の新聞記者として採用するという通知を受取りました。

 周太郎の大阪での新しい、張りのある生活が再開されました。

 その頃の大阪の劇界は初代中村雁治郎の全盛期でした。

 周太郎も本来が上方歌舞伎で開眼したため、その少年時代から雁ビイキでした。

 ところが最近の雁は、派手さが目立ち周太郎は甚だ苦々しい思いをせずにはいられませんでした。

 そういう劇評を周太郎はズバリと「毎日」に書きました。

 大阪では名優、雁治郎を非難した劇評は、いくら正論とはいえ結果的には雁をはじめ劇場関係者から大きな怒りを買う結果になったのです。

 周太郎が「東京日日」への転勤(追い出され)を命ぜられたのは、それから二ヶ月後の大正十三年七月のことでした。(no4606)

 *写真:二代目雁治郎

 ◇きのう(1/14)の散歩(10.626歩)

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三宅周太郎さんのこと(22) より厳しい評論家に

2019-01-14 09:17:25 | 三宅周太郎さんのこと

            より厳しい評論家に

 大正11年6月上旬三宅周太郎著「演劇往来」の出版祝賀会が催されました。

 出席者は、山本有三、久米正雄、俄然文壇の中枢に新鋭作家として頭角を現した芥川龍之介、高名な有島武郎、生島兄弟の実弟である劇作家の里見弾という顔ぶれでした。

 周太郎は、自分の為にその将来に向って励ましの為に、心おきない師、先輩、友人達が参集しての祝賀会を、心から感激し感謝せずにはいられなかった。

 やがて料理が運ばれ、グラスにウイスキーがそそがれ、テーブルスピーチが始まりました。里見惇が立ち上がりました。 

 「三宅君おめでとう。君の処女出版『演劇往来』の評判は悪くない。しかし僕は今夜君に苦言を呈した。・・・いうなれば君は若いのに珍しい劇界に精通した玄人だ。

 しかし、芝居の実務家で君は終る人であってはならない。 僕は今夜ここで君に要請する。今後は器用な舞台の人であるより、深く学芸の本道に立ち帰って貰いたいことを 切に望むものだ ・・・」

 その次は芥川龍之介で長髪をかき分けて立ちました。

 デリケートな神経の持主である彼は、場内の沈静につとめるかの様に、話をそらして簡潔な祝いの言葉だけで終りました。

 続いて小山内薫が立ち上がり、その挨拶は誰も予想もしなかったような、まさに、愛弟子に対して諭すような峻烈な内容でした。

 参会者の誰もが緊迫した想いにかられるという祝賀会になってしまいました。祝賀会は漸く終った。

 舗道を一人で歩いて下宿へ帰った周太郎は、机の前に座って腕を組み、再度テープルスピーチに立った里見惇、小山内薫のきびしい表情を思い浮かべてみました。

 これらの人達の提言、苦言を何度も復唱して噛みしめてみれば、それは彼自身の急所・弱点を見事にも突いたものだと思もえるのでした。

 「それは険しい高い峰を目ざして登る者が、知らずの中に道に迷い、その据野の小高いコブのように突出した所を頂上と錯覚して、徘徊している姿にも似ているのではなかったか」と。

 この時、周太郎は愕然として突如と強く閃くものを感じとりました。

 

 この夜を契機として周太郎の舞台をみる眼は、一層けわしいものになったといわれ、その後天下の名優たちと数多くの芸道対談を記録に残していますが、それらは、何者といえども安易に許容しない、きびしい一線を画したともいわれています。(no4605)

  *写真:里見惇

 ◇きのう(1/13)散歩(11.147歩)

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三宅周太郎さんのこと(21) 中村吉右衛門との絆

2019-01-13 09:12:37 | 三宅周太郎さんのこと

 「時事新報」をクビになり、市内各劇場での観劇の自由と劇評の筆を絶たれ、さらによき理解者であり経済的にもいろいろ援助を受け、親代りとも頼っていた姉ムコ、橋本仙之助の葬儀を終えて下宿へ帰ってきました。

 周太郎は、将来への希望も夢も一切絶ち消え、東京の街で、失意と孤独に日々を過しました。

 しかし、ビックリするような事が起こりました。

      中村吉右衛門との絆

 中村吉右衛門と三宅周太郎とは共に近代まれな至芸の道を歩んでいました。周太郎は、吉右衛門の心の奥を心憎いばかりに見透したような評論かきました。

 吉右衛門は周太郎の舞台を見つめるひたむきな審美眼と、鋭い洞察力を見抜いて、ひそかに周太郎を畏敬していたようです。

 松竹顧問であった遠藤弥一が主宰で、一座の局外から吉右衛門の舞台演技全般について、相談に応じる顧間機関というべき「皐月会」の結成の話が進み、周太郎にも是非参加してくれるように依頼があり、周太郎は快諾しました。

 その会には、小山内薫、小宮豊隆、阿部次郎、里見弾、土方与志と、当時としては芸術至上主義を信奉する演劇研究家の豪華メンバーでした。

 この様にして「皐月会」に加わり、新冨座顧問、吉右衛門相談役という好遇で周太郎が起用された事は、劇界に少なからぬ波紋を投げたようです。

 周太郎にとっても新しい境地に向って、奮起する大きな転機にもなりました。

 さらに、小山内薫を介して周太郎は、土方与志との交友を深める事ができました。

     三宅周太郎著『演劇往来』を出版

 大正10年が過ぎ新しい年を迎えた周太郎には、さらに大きな朗報が入りました。

 その頃、早稲田文科出身で新潮社の編集部に勤める水守亀之助の口ききで新潮社から、周太郎が「三田文学」や新聞雑誌に発表した劇評集を出版しようという話が持込まれたのです。

 新潮社の佐藤義亮社長は、周太郎の劇評をかねてより注目して愛読していました。

 周太郎は、もとより異論のあるはずはありません。しかし、発刊の過程には若干の曲折があったようですが、佐藤社長の鶴の一声で決定しました。

 見事な劇評集処女出版『演劇往来』の単行本が発刊されました。

 これは「三田派」としては、久保田万太郎以来の快挙でした。

 大正11年2月25日発行。定価1円50銭とあり、当時としては多い部数の3000部を売り尽しています。   (no4604)

 ◇きのう(1/11)散歩(10.433歩)

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三宅周太郎さんのこと(20) 余話、三宅周太郎の遺稿、姫路文学館に

2019-01-12 08:45:25 | 三宅周太郎さんのこと

 2018年7月11日の神戸新聞に「演劇評論家・三宅周太郎の遺稿、加古川の男性寄贈、姫路文学館に」のタイトルで大きく報じられました。

 今日の「ひろかずのブログ」は余話として神戸新聞の記事を転載させていただきました。

   余話として

     三宅周太郎の遺稿、姫路文学館に

 歌舞伎や文楽を鋭い視点で批評した兵庫県加古川市出身の演劇評論家、三宅周太郎(1892-1967年)の遺稿を、所有者の黒田泰雄さん(83)=加古川市:写真上=が近く、姫路文学館(姫路市山野井町)に寄贈する。直筆原稿11点や、故郷への思いを記した色紙など4点。「播磨が生んだ文化人の足跡を、後世に伝えたい」と話している。(本田純一)

 三宅は加古川町寺家町に生まれた。子どもの頃から古典演劇に親しみ、慶応大在学中から批評を発表。その後、新聞や雑誌などで執筆を続けた。1958年に紫綬褒章、64年には菊池寛賞を受け、加古川で初の名誉市民になった。著書に「文楽の研究」「演劇巡礼」などがある。

 黒田さんは2006年まで寺家町で画廊を営み、地域文化の振興に尽くしてきた。三宅と面識はなかったが、99年、東京の古書入札会で偶然、原稿を見つけた。「加古川にとって貴重な財産。地元に残したい」と落札し、随時市内で公開してきた。

 「海老蔵・梅幸の『十六夜清心』」「前進座の江戸歌舞伎」など11編。明治座(東京)の演劇教室用に書かれたとみられる原稿もある。「私の観劇五十年のメモは、半分以上戦災や疎開でなくしてしまった」という記述もあった。

 ある歌舞伎の一場面を「一種のホームドラマ」と例え、役者の演出を「モダンボーイ式」と表現した。黒田さんは「分かりやすい文章で歌舞伎の裾野を広げようとしていた」と話す。

 色紙には「永遠に 芸能の地たれ 加古川の市」としたためられている。「地元の文化人を大切にしてほしいという思いがあったのでは」と黒田さん。

 松風ギャラリー(加古川市野口町良野)の岩坂純一郎館長(69)は「三宅の直筆原稿が、まとまって保存されているのは珍しい。筆跡から人となりが生き生きと伝わり、興味深い」と評価。姫路文学館は「原稿を詳しく調べ、一般公開できたら」としている。(no4603)

◇きのう(1/11)の散歩(10.916歩)

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三宅周太郎さんのこと(19) 周太郎『時事新報』を追われる

2019-01-11 08:57:49 | 三宅周太郎さんのこと

          周太郎『時事新報』を追われる

『時事(新報)』における千葉亀雄とその系統の柴田文芸主任の存在が、自分にとって如何に大きな生殺与奪の鍵を握っていたかを思い知らされました。

周太郎への批判の大波をくい止めてくれていたのです。

「帝劇」の経営陣の重役クラスと、俳優の某が周太郎の劇評を迷惑として、時事の幹部や社主に働きかけて「くび」にしたいきさつが、おぼろげながらに読めてきました。

         時事新報社を追われる

 慶応義塾は幕末から明治にかけて、啓蒙的洋学者とも高く評価される福沢論吉が、将来の日本を背負う人材の養成を目的とした私学校であり、『時事新報』も世論を啓発するために諭吉が創刊したものでした。

 当然福沢家の資力によって運営された会社であったし、政界財界の主脳を設立準備委員に網羅して、福沢家がその筆頭株主として君臨していました。

 慶応で永井荷風・小山内薫らの純芸術至上主義の薫陶をうけ、その信ずるままをペン先によって開花せしめた時事紙上での劇評が、これまた同じ福沢系統の帝劇の舞台とその経営陣は、周太郎からペンをもぎ取ったのです。皮肉な巡り合せでした。

 また、三宅周太郎のような駆け出しの劇評家の息の根を止める位のことぐらいは、朝飯前でした。

 周太郎は『時事(通信)』を追われ失職しました。

    親代りとも頼っていた姉ムコ、橋本仙之助亡くなる   

 さらにこれに追打をかけるように一通の不吉な電報が下宿にとどきました。

 それは、大阪の姉から周太郎のよき理解者であり劇評家としてのパトロン的存在であり、常日頃から親とも頼っていた義兄仙之助(市内平岡町中野出身)の急死を知らせるものでした。

 周太郎はまさしく動転しながら大阪へいそぎました。

 大正十年五月十日の夕刻でした。(no4602)

 *写真:親代りとも頼っていた姉ムコ、橋本仙之助のねむる橋本家の墓(加古川市平岡町二俣の円明寺)

 ◇きのう(1/10)散歩(10.667歩)

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三宅周太郎さんのこと(18) 帝国劇場と対立

2019-01-10 08:24:01 | 三宅周太郎さんのこと

      帝国劇場と対立

 大正時代はこの国で演劇が最も隆盛をきわめた時代でした。東京・大阪・京都の街はもとより、田舎町に至るまで、続々と劇場が新設され連日輿行が盛況をきわめた時代でした。

 加古川流域の播州路にも、町から村へ、村から村へと旅廻りの劇団が、大小の舞台道具を荷馬車に積んでかたことと移動したが、農閑期の田んぼの中で、ビユールハゥスのような型をした粗末な仮設劇場での、無名の旅役者の熱演に、これまたささやかなその日の作業を終えた村々の老若男女が押し寄せ、力一杯の声援を送りました。

 文壇でも新進作家達は小説より戯曲を続々と書き、新しい演劇運動に何らかの関りを持つようになりました。

 小山内薫、武者小路実篤、久保田万太郎、谷時潤一郎、久米正雄、菊池寛、山本有三らがその代表的な人達でした。

 周太郎もまた大正七年、八年と東京市内の劇場をかけ巡り、時事の劇評を精力的に思うままに書き続けました。

 その年の瀬も迫った12月のことでした。千葉亀雄と柴田早苗(周太朗の理解者)の二人がどんな事情があったのか、突然時事をやめ「読売」にスカゥトされました。

 この二人の退社によって周太郎の運命は大きく狂うことになりました。

 それというのは以前から周太郎の芸術至上主義の劇評記事は、劇場側の経営主義は時には対立し、経営者側から時事の主脳部に、しばしば苦情が持ち込まれていたのでしたが、千葉亀雄という周太郎を高く評価した時事の幹部が、とにも角にもその防波提の役割となってくれていました。

 その退社によって周太郎に対する反発は、たちまち大波となり直接周太郎の身辺に直接に迫ってきたのです。

 その中で時事に最も大きな圧力をかけたのが「帝国劇場」でした。

 大正9年1月、まだ正月気分もさめやらぬ中旬、周太郎は例のように「帝劇」の正月公演を観てその劇評をまとめて時事へ持参しました。

 原稿は、たいてい5日以内には社会面に掲載されることになっていたのに、何故か一向に載りません。少し遅くれるのか?と思って待ち続けましたが、活字になりませんでした。

 これは一体どういうことになっているのか・・・・

 周太郎に、事の経路や真実が判ったのは恩師小山内薫から「時事は君を敬遠して、今後君の劇評はのせぬことに決定したようだ。・・・・」と伝言がとどいたからです。

 明治45年夏のチブス禍以来、周太郎の人生にとって、それは第二の瑳鉄ともいうべきものでした。(no4601)

 *写真:昔の帝国劇場(1911年建設)

 ◇きのう(1/9)の散歩(11.359歩)

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