ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川、お城物語(33) 高砂城の攻防

2015-11-14 08:48:22 | かこがわ、お城物語

    高砂城の攻防

 高砂城の話です。

 『播州太平記』から高砂城の戦いを再現します。が、この本は物語性が多く、実態はよくわかりません。とにかく、高砂城は秀吉軍に敗れました。

 ・・・秀吉は、三木城を攻めようと、三木城の東にある平井山に陣を置いて、三木城を兵糧攻めにする準備にとりかかりました。高砂城がじゃまになります。      

  高砂城主・梶原景行は、別所氏とは親密な関係にありました。

 景行は、毛利とひそかに連絡をとり、海上から加古川を登り、美の川を経て三木城へ兵糧を運びこもうとしました。       

 天正六年(1578)十月十八日、秀吉軍の攻撃が始まりました。

 秀吉軍は、高砂城に火をつけました。

 その時、毛利の援軍が波をけたててやって来ました。

 秀吉の兵は、梶原軍と毛利軍に挟まれ、ほとんどが打ち取られ、残った兵は今津(現:加古川市尾上町)へ逃れたといいます。

     高砂城落ちる

 毛利軍の吉川元春と小早川隆景は、「この勢いで、三木へ攻めよせ、秀吉軍をはさみうちにすればかならず勝てる」と、大将で藩主の毛利輝元に進言したが、輝元は「まず本国へ帰り・・・兵糧をととのえてから三木城へ運送する方がよかろう。守りの固い三木城のこと、やすやすと攻めおとされることはない」と、毛利軍は帰国してしまった。

平井山の陣でこの負け戦を聞いた秀吉は、三たび高砂城を攻めた。毛利軍が帰国した高砂城には余力はありません。

    天正七年十月段階で秀吉側についたか?

 梶原一族の墓石には「・・・天正七年、(高砂城の)最後の城主景秀公は、黒田官兵衛の紹介により羽柴秀吉に帰順した・・・」記しています。

    高砂城は、現在の高砂神社の場所か!

 さて、高砂城のあった場所ですが、松原(高砂市荒井町小松原、神社三社大神社境内・写真)に、梶原氏の城があったと言われています。

 が、高砂神社に伝えられたている古文書に「輝政は、神社の北西にあった古い城跡(小松原城)が地の利が悪いので今の場所(高砂神社のある場所)に城を築いた・・・」とあります。はっきりとしません。 (完)・(no3016)

 *写真:小松原の三社大神社境内にある旧・高砂城跡を示す石碑

  

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かこがわ、お城物語(32) 加古川城(2)・加古川城廃絶

2015-11-13 07:19:15 | かこがわ、お城物語

 加古川城主・糟谷武則のその後を書いておきましょう。 

 前回も述べたように、加古川城主の糟谷武則は、賎ケ岳の戦後も秀吉方の武将として、数々の戦役に出陣しました。

 徳川家康と戦った小牧の役(天正13年)、小田原の役(天正18年)、そして朝鮮への侵略、世に言う「文禄の役」では晋州城攻撃にも参戦しました。

 武則は、秀吉の栄達とともに出世しました。

 が、関ケ原の合戦では西軍(石田三成方)に味方し、家康の関西における本拠地である伏見城を攻撃しました。

    加古川城廃絶

 「賎ケ岳七本槍」で活躍した武将たちは、武則をのぞき、みな東軍(家康方)に味方しています。

 そのため、七本槍の他の武将に比して、武則の事跡は、全くといってよいほど何も伝えられていません。

 幕府が編纂した『廃絶録』には、次のように書かれています。

   一万二千石、播州かこ川、糟谷内善正宗孝(三十四)、

   慶長七年(1603)、めし出され後断絶す 

 おそらく武則の息子・宗孝の代に廃絶されたのでしょうが、詳細はわかりません。 

 「もし…」の話ですが、「武則が家康側に味方しておれば、加古川地域のその後の歴史は、大きく変わっていたであろう」と思われます。

     春日神社

 国道2号線の加古川大橋の東詰近くに、ひときわ目につく公孫樹があります。

 そこにある小さな神社は春日神社です。いまは、そこが、糟谷氏の氏神であることを知る人もほとんどありません。(no3015)

 *写真:称名寺(加古川城の跡に建つ・加古川市本町)

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かこがわ、お城物語(31) 加古川城(1)・城主、糟谷武則

2015-11-12 09:23:15 | かこがわ、お城物語

  糟谷武則は、加古川城主・朝貞が妻と離別した後、その妻が志村某と再婚しできた子供です。

 そして、志村某が早く亡くなり武則が6才になったとき糟谷家に托して、また再婚したため朝正は自分の養弟として育てて糟谷の姓を名のらせました。

 妻との離別には何らかの事情があったのでしょう。

    もと、糟谷(加古川城主)も三木方

  「かこがわ、お城物語(21)」の復習をします。

天正五年(1577)当時、加古川城も加古川地域の多くの城と同じく別所方でした。

 官兵衛は、三木城の武将の後藤基国(後藤又兵衛の父)に書を送り、朝正・武則らに「武則は、加古川館(城)へ帰えるよう」説得を依頼しました。

 「不幸にして三木城が破れると、別所家はもちろん、糟谷家も断絶いたします。糟谷家を末長く守るためには、武則様はぜひ加古川城へ帰ってください・・・」と。

 以後、兄・朝正は、三木に味方し、糟谷武則は、加古川城にもどり、秀吉側と行動をともにしました。

 加古川地方の城主は、ほとんど毛利方についたのですが、加古川城だけは信長・秀吉側につきました。

 糟谷武則は柴田勝頼との賤ヶ岳の戦いでは「賎ケ岳七本槍」の一人として大活躍をしました。

 しかし、関ヶ原の戦いで、西軍(石田三成方)に味方し、家康の関西における本拠地である伏見城を攻撃しました。

 そのため、七本槍の他の武将に比して、武則の事跡は、全くといってよいほど何も伝えられていません。(no3014)

 *図:賎ケ岳合戦屏風(七本槍部分)・大阪城天守閣所蔵、左が秀吉軍

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かこがわ、お城物語(30) 志方城の戦い(2) 戦はあった

2015-11-11 08:07:44 | かこがわ、お城物語

     志方城の戦い(2)・志方城の戦いはあった

 戦力だけでは判断できない要素もあります。

 「志方城(右図:木内内則作)の戦いは、確かにあった」と考えます。

 その理由として、播磨地域の情勢をみておきます。

 播磨は、浄土宗・浄土真宗の影響が強い地域です。

 信徒は「主君と自分とは現世だけの契りであるが阿弥如来との契りは未来永劫の契りである。主君よりも信仰の方が大切である」と考えます。

 もし、戦わずして信長方に敗北を認めるとなると、家臣・領民の支持を一挙に失いかねません。

 石山本願寺は、信長軍と壮烈な戦いをしています。志方地域からも多くの者が本願寺の支援に出ています。

 信長は、まさに仏敵であり悪魔でした。また、志方城から家臣たちも三木城を支援しており、三木城にも多く籠城しています。最初から戦わず信長側につく雰囲気にはありません。

    官兵衛からの働きかけが

 一方、志方城の場合、娘(光)の夫・官兵衛から「信長方に味方をするように」との説得があったのは確実です。

 志方城の敗戦が目の前に、迫った段階で、城兵としても、敗者としてすべてを失い世に漂って生きるより、武士にとって最大の価値観である「家の存続」を選択したのかもしれません。

 『志方町誌』から志方城の戦いを見ておきます。

 まず、官兵衛とその妻の働きかけと、城内での赤痢の蔓延をきしています。何やら戦闘らしくありません。

 「志方城も、よく戦ったが、病魔にかてなかった」とでも言いたげです。何やら裏がありそうです。

 志方城主・櫛橋政伊は、命をゆるされました。そして、後に官兵衛はこの一族を家臣団に組み入れ、厚く遇しています。(no3013)

 *絵:志方城の図(木内内則作)

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かこがわ、お城物語(29) 志方城の戦い(1)

2015-11-10 08:35:34 | かこがわ、お城物語

    志方城の戦い

  ついに、神吉城は落城しました。信忠(信長の長男)は神吉城を叩き潰しました。

 引き続き、信忠は大軍を率いて城主・櫛橋政伊(くしはしまさこれ)の志方城へ攻め寄せました。

 先に述べたように、この時、官兵衛は加古川にはいません。

 したがって、官兵衛は自分の妻の実家・志方城を攻めるという苦痛から逃れることができました。

 守る志方の兵は1000人。

    志方城の戦いはあったのか?

 志方城の攻防についての詳細はよくわかりません。

 以前、あるところで「志方城の戦いはなかった」と言う説を紹介したことがあります。

 そう考えたのは、志方城に先立つ神吉城の戦いでは、織田軍に押しつぶされ、城主(神吉頼定)も討たれました。

 その時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はありませんでした。野口城の戦いでも援軍はなありません。

 志方城の戦いでも援軍は期待できません。そうなると、最初から志方城の敗北は確実です。

 ただ、戦うとすれば「勇敢に戦ったという事実を歴史に記録する」という武士の美学だけが支えの戦いになります。

 志方城が、そんな美学だけで、一丸となって戦ったとは考えられないのです。

 志方城に「後世に名前を残す」という哲学があったなら、それなりの記録を残していそうなものである。記録はありません。(no3012)

 *絵:官兵衛の妻・光姫(てるひめ)のキャラクター

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かかこがわ、お城物語(28) 神吉城落城

2015-11-09 09:03:32 | かこがわ、お城物語

 激戦も大詰めを迎えました。信長側の記録である『信長公記』を読んでおきます。

     神吉城落城(『信長公記』より)

 ・・・7月15日夜、淹川一益・丹羽長秀両軍の攻め口から神吉城東の丸へ突入し、16日には中の丸へ攻め込みました。

 (信長軍は)敵将、神吉則実を討ち取り、天守に火をかけました。

 敵味方入り乱れて火花を散らし、その間に天守は焼け落ち、敵(神吉)方の将兵過半数が焼死しました。

 西の丸は荒木村重が攻めました。ここには、城主の叔父の神吉藤大夫が立て寵もっていました。

 藤大夫が降参の申し入れをしてきたので、佐久間信盛・荒木村重の二人が斡旋し、信長はこれを聞き届けた。藤大夫は赦免され、隣の志方の城へ退去しました。・・・

 城主・頼定の叔父(神吉藤大夫)が内応して、落城したと記しています。

  神吉城落城は、頼定の叔父神吉藤大夫のうらぎりか?

 『信長公記』は、以上のように「神吉の落城は、城主・頼定の叔父(神吉藤大夫)が内応して落城し、頼定はその場で切られた」と記しています。

 広く知られているこの神吉城は叔父・藤大夫の内応のために敗れたとする伝承について、『加古川市史』は、史実ではないとしています。

 地元では、三木城の攻防をさまざまに語り継いでいます。

 敗因も神吉城主・頼定を『信長公記』にあるように、藤大夫一人を悪者にしています。

 「負けるはずのない戦いだったのに・・・」と言いたかったのかもしれません。

 負け戦の後には決まって、制裁がまっています。

 信長の関係した戦の場合は、磔等の極刑がしばしばありました。神吉城の戦いではそれがありません。

 神吉城の合戦は、加古川最大の合戦であり、圧倒的な大軍で囲まれた戦いでした。

 三木戦を前にして、よけいな緊張をつくりたくなかったのかもしれません。(no 3011)

 *写真:常楽寺(神吉城跡)にある神吉頼定の墓

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かこがわ、お城物語(27) 激しい神吉城攻めの理由とは?

2015-11-08 08:07:05 | かこがわ、お城物語

      激しい神吉城攻めの理由とは?

 信長が、なぜ、こうまでして大部隊を神吉城(右図・木内内則作)攻めに投入したのでしょう。

 実は、権力者の体面に関わる事件が、播州で続いたのが、その主な理由でした。

 これまで友好関係にあった別所が、突如信長にそむき、毛利に走りました。

 また、尼子一族の上月城が、毛利の大軍に囲まれましたが、圧倒的な武力を誇る信長軍でも三木城(東播州)と上月城(西播磨)の二方面作戦を強いられるため、尼子一族を見捨てたことです。さらに、秀吉が三木城外で、東播磨の連合軍の夜襲を受け、見るも無残な惨敗を被ったこの三点が神吉城へ、大軍勢を投入した主な理由でした。

 これらの屈辱に信長の怒が爆発しました。

 (織田)信忠は何の戦果を挙げることなく、手ぶらで播州を引き上げるわけには行きません。

 見せしめのためにも神吉一族を抹殺することで、信長の体面を保ち、織田の戦力を毛利に誇示する必要が生まれたというのが本音であったのでしょう。

 ところか、父信長への手土産にと、信忠(信長の嫡男)が、気軽に攻撃した神吉城で、予想もしなかったひどい、反抗を受けることになりました。

     頼定の苦悩

 敵(織田軍)は大軍団です。

 いたずらに時が過ぎては、神吉軍に勝ち目はありません。このまま寵城して、しばし、城は守れても、長引けば、やがては攻め落とされます。

 かなわぬなら降伏するしかありません。降伏はできません。

 信長に屈すれば、先例にならって、一族、家臣、領民までも虐殺を免れないかもしれないのです。

 それにしても小三郎(別所長治)より、未だ援軍の知らせがありません。

 「どうしたことか、なぜ援軍はないのか・・・」と頼定はなやみました。

 「三木や毛利は必ず来る」と、心中で繰り返すのでした。(no3010)

*絵:野口城の図(木内内則作)

*『信長の跫(あしおと)・神吉修身著』(かんき出版)参照

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かこがわ、お城物語(26)  『信長公記』にみる神吉戦

2015-11-07 07:14:15 | かこがわ、お城物語

 ここで、神吉城攻撃について、信長側の記録『信長公記』から神吉戦をみておきます。

    『信長公記』にみる神吉戦

 6月27日、(信長軍は)神吉の城を攻めたてた。

 北から東の山へかけて、織田信忠(信長の長男)・織田信孝(信長の三男)・細川藤孝等が前後左右何段にもなって陣を布き、神吉城の北の志方の城に対しては、織田信雄(信長の二男)が陣取った。

 また、丹羽長秀等は、備えとして西の山に陣を布いた。

 滝川一益・稲葉一鉄・筒井順慶・明智光秀・荒木村重らは神吉の城へ激しく攻めよせ、たちまちに外構えを攻め破って裸城にした。

 そして、神吉城の堀へ次々と飛び込み、塀を突き崩して攻めたてた。

 織田信孝は、足軽と先を争って戦ったが、苦戦であった。負傷・戦死が若干あった。

 一挙に攻略できそうにもなかったので、この日は攻撃をゆるめ、また翌日、銃弾よけの

 竹束を持って、本城塀際まで詰め寄り、埋め草で堀を埋め、築山を築いて攻め立てた。

 神吉城の攻撃は、南の方が手簿であったので織田信包(のぶかね・信長の弟)が軍勢を投入した。

 神吉方の動きが止まった。そのため、丹羽長秀らが城攻めに加わり、東方の攻め口を受け持った。

 まず、最初に櫓(やぐら)を二つ高々と組み上げ、大砲を撃ち込み、堀を埋め、築山を築いて攻めた。

 滝川一益は南から東へかけての攻め口で、坑夫に隧道(トンネル)を掘らせ、櫓(やぐら)を築き、大砲を撃ち込んで塀・矢蔵を破壊し、矢蔵へ火を放って焼き落とした。

 このほかの諸勢もそれぞれ櫓・築山を築き、昼夜の別なく攻めたてた。

 神吉側からは、種々詫び言をいって和陸を申し入れてきたが、信長から厳命があり聞き入れなかった。(『信長公記より』

      2000対30000の戦い

 『信長公記』の太字のか所を見てください。神吉軍も、信長軍をよく攻めたことが分かります。

 しかし、なにせ信長軍は、神吉軍の15倍の数での攻撃です。

 それに、信長軍の攻撃はいままで一度も経験をしたことのないものすごい城攻めでした。

 神吉城は、よく戦いましたが、信長側は、あまりにも大勢力でした。(no3009)

 *絵馬:神吉戦の様子を描いた絵馬(常楽寺)

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かこがわ、お城物語(25)  天正6年6月25日(旧暦)、神吉戦はじまる

2015-11-06 07:21:02 | かこがわ、お城物語

       天正6年6月25日(旧暦)、神吉戦はじまる

 天正6年(1578)6月25日の早朝、戦闘がはじまりました。

 総大将(織田)信忠が、軍配を反しました。

 織田勢は、大国集落と岸集落のニヵ所から仕掛けてきました。

 大国地区に結集した織田軍は、我先にと川に水しぶきを上げました。

 続々と騎馬武者が川中に突入し、さらに水しぶきを巻き上げ、中洲に乗り上げ、突進しました。

 これを迎える神吉勢は、恐怖で顔は引きつり、壁に身を沈め、必死に恐怖を押しのけ、銃口を突き出しました。

     神吉城のゲリラ作戦

 織田軍の騎馬武者か荒井川に乗り入れました。

 騎馬が突進した浅瀬の中ほどは、人の膝下まで水嵩があって流れは早い。

 それでも、騎馬武者は先を競って押し寄せてきます。

 一群の騎馬隊で、荒井川か黒く塗りつぶされた。

 川の半ばを越え、突進した先頭の騎馬が、グラッと傾き、よろけながら人馬とも水中に投げ出されました。

 これは、神吉が仕掛けた川の中の罠のせいでした。雑賀川の戦いで学んだゲリラ作戦です。

 さらに、多くの騎馬武者勢が、水煙をあげて転倒します。

 この時を待っていたとばかりに、神吉城の鉄砲隊は火を吐きました。

 信長軍にとっては、思いもしなかた銃撃に、驚いたありさまとなりました。

 これを見た神吉軍の引きしぼった矢が一斉に弦を放れたのです。

 多くの兵が落馬します。

 このように、織田勢が多数の死者を出したのは、小城一つと敵を甘くみて、ただ突進すれば打ち破れるとみた常勝軍団の思い上がりにありました。(no3008)

 *地図:当時の神吉城の近隣の地図

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かこがわ、お城物語(24) 信長軍、神吉城を攻撃

2015-11-05 10:27:02 | かこがわ、お城物語

       信長軍、神吉城を攻撃

 天正6年(1578)6月25日、野口城攻撃の後、信長は神吉城攻撃を命じました。

 神吉の風景と政治情勢を確認しておきます。

 当時の風景です。神吉城の南(現在の神吉町と西井ノ口の間)を、加古川の支流の荒井川南西の方向に流れていました。

 政治情勢は、この時、信長は、秀吉を一旦、但馬(竹田城)に左遷しました。

 その理由は、播州経営の失敗でした。

 従って、秀吉・官兵衛は、一端姿を消し、神吉戦に秀吉・官兵衛の姿はありません。

      信長軍は、どの方向から攻めてくるか?

 神吉城として大問題は、「どの方角から織田軍が神吉城を攻めて来るか」ということでした。

 大方の予想は、加古川を北上し、日岡山を過ぎた池尻辺りの浅瀕を渡河するという意見でした。

 とすれば、南側の荒井川方面での備えは無駄になるばかりか、一戦も交えず敵の攻撃を受けます。神吉城には、二方面に備える兵の余裕がありません。

 そのため、兵を城内に留め、敵が、何れの方角から攻め来るとも戦える策をとることになりました。

 信長軍は、加古川城の加須谷武則の案内があったのでしょう、「賀古の渡し」を難なく渡河し、神吉に押し寄せてきました。

 その軍勢は、北陸へ進駐している柴田勝家、それに但馬に左遷された秀吉を除く、ほぼ織田全軍の侍大将たちの大軍でした。

 大将は、信長の長男で、織田信忠で、次男の信雄、それに三男の信孝らも加わりました。

 神吉城に迫った軍勢は、なんと三万余を数えました。

       神吉兵は、2.000

 織田軍が三万になった理由は、毛利・宇喜多勢が、突如、上月城(兵庫西部)へ攻めかかりました。

 そのため、小田軍は毛利攻・三木攻の第二面作戦を強いられることになりました。そのため軍は三万に膨れあがったのです。神吉城兵は2000でした。

 しかし、結果は、信長の指示もあって止むを得ず、上月城を見捨てました。

 この結果、急きょ、この三万の軍勢が神吉城の攻撃に向けられることになったのです。

 2.000の兵が30.000の信長軍と神吉城で激突したのです(no3007)。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かこがわ、お城物語(23) 野口城の戦い(2)・なぜ野口城が最初に狙われたか?

2015-11-04 07:04:12 | かこがわ、お城物語

    なぜ野口城が最初に狙われたか?   

 天正月6年4月3日、三木城を取りまく諸城の攻撃の火蓋が野口城の攻撃から始まりました。

 早朝より攻撃が開始され、秀吉軍は、3000の兵で攻めたてました。

 この戦いで糟谷武則は、初陣でした。

 それにしても、「なぜ野口攻めから始まったのか?」と言うことが疑問でした。

 理由として考えられるのは、①街道筋の城である、交通も発達しており経済に豊かな土地である。②城の規模が比較的小さく、比較的攻めやすく成果を上げるのに適当である、と考えていました。

 いま、木内内則氏の作成された「野口城の復元図」を見ています。私も地元ですから、この辺りは何回も歩きました。この「野口城」の図を作成された木内さんはよく歩かれていることと、その熱意が伝わって来ます。

 図をよくみてください。東西(東西)に並んだ屋並みの向こうあたりに川が流れています。

 この川は、加古川大きな支流考えられます。少し横道になりますが、次の話題を付け加えておきます。

     野口と後醍醐天皇

 後醍醐天皇は、正中(せいちゅう)元年(1324)、元弘元年(1331)に討幕の計画しましたが、ともに失敗に終わりました。

 後醍醐天皇は、隠岐島(おきのしま)に流されることになります。

 京都を出発した一行は、7月12日に教信寺(加古川市野口町)の前の旧山陽道を通り、加古川の宿(守護所:後の加古川城)に入りました。

  <増鏡の一部>

 12日、後醍醐天皇が加古川の宿に着いたとき、讃岐(四国)に流される子供の宗良(むねなが)が少し遅れて加古川の東の野口に着きました

 「増鏡」の加古川の東の野口に着いたという記述に注目してください。

 この川は勿論、加古川の大きな支流のことです。

 とすると、当時は、加古川は後醍醐天皇の宿舎であった今の加古川町と野口の間に大きな支流が考えられます。

 つまり、野口城は川東にあり川を通じて三木と直結する位地にあったのです。秀吉にしても目の上の「たんこぶ」だったのでしょう。

 秀吉が、まず野口城の攻撃を命じたことが理解されます。(no3006)
 *絵:野口城の図(木内内則作)

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かこがわ、お城物語(22) 野口城落城

2015-11-03 08:57:20 | かこがわ、お城物語

     野口城の戦い(1)

 秀吉軍は、三木城の勢力を、簡単に考えていたようです。

 しかし、三木城攻撃の初戦で手痛い敗北を喫しました。

 前述したように、秀吉は、三木城をとりまく城を攻撃し、城を裸にしてしまう作戦に変更しました。

 最初に狙いを定めたのが野口城でした。

 野口城の城主は、長井四郎左衛門政重です。

 そこへ、秀吉軍は手持ちの兵3000人で攻めたてました。

 対抗する野口方は、軍勢380人に近在の農民、教信寺の僧兵を加えた600人が城にたてこもったといいます。

     野口の地形

 話は、すこし、野口合戦をはなれ地形の話です。中部中学校の東に駅ヶ池(うまやがいけ)があります。

 印南野台地は、一般的に水が得にくい土地柄で開拓が遅れましたが、この辺りばかりは、地形が西と南に低く、北と東が高く、印南野台地の西の端にあって、水が集まる場所でした。雨が多い時は、ここに水が集まり沼地になります。 

 城の周囲には沼が多く、城はそれらを囲(めぐ)らし、わすかに乾いたところにありました。

     落 城

 秀吉は、土木工事を得意とし、沼地のような湿田はたいした問題ではありません。

 彼にすれば「埋めればいい」と、当然のごとく考えていたのかもしれません。

 城主・長井政重は櫓で指揮をとりました。勇敢に戦いましたが、切れ目のない激戦に兵はバタバタと倒れました。

 最初から、野口軍600の兵だけで、3000の秀吉軍と勝てるとは考えていません。

 三木城からの援軍があり、中と外から秀吉軍を押しつぶそうと考えていたのです。

 しかし、三木城からも、近隣の他の城からの援軍はありませんでした。

 三日目でした。「援軍が来たらしい」と城内には一瞬生気がよみがえりました。

 が、援軍と思われたのは、秀吉側に加わった加古川城の糟谷武則の兵でした。

 政重は決断しました。「これ以上の兵の死は無駄である・・・」と。

 自分の死と引きかえに残る兵の命を願い出ました。

 野口城は、三日間で落城しました。

 教信寺も全焼してしまいました。(no3005)

 *地図:朱で彩色した稲荷社辺りに野口城のあったか?(確定していない)

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かこがわ、お城物語(21) 加古川城主・糟谷武則

2015-11-02 07:47:53 | かこがわ、お城物語

          加古川城主・糟谷武則

 付け加えたいことは、別府城の戦いと、もう一点、加古川城主・糟谷武則のことです。

 糟谷武則の母は、御着城主・小寺政職(まさもと)の妹で、八代加古川城主・糟谷朝貞(ともさだ)へ嫁ぎ、ふたりの子供(糟谷朝正とその妹)を産んだのですが、故あって離婚し、志村某と再婚し、武則をもうけました。

 武則は、異父の兄と姉が加古川城におり、兄の糟谷朝正は九代加古川城主になり、姉は、三木城・別所氏に嫁いでいます。

 母の再婚相手が早く亡くなったため、母は6才の武則の養育を前の嫁ぎ先の糟谷家(加古川城)に托して、ふたたび再婚しました。

 武則は、異父兄の糟谷朝正と共に育てられて成長しました。

 朝正は、武則を養弟として糟谷姓を名のらせ、後に朝正はその子(友員:ともかず)と共に武則を伴って三木城に入りました。

 天正五年(1577)、友員11才、武則15才のことでした。

      もと、糟谷(加古川城主)も三木方

 天正五年(1577)当時、加古川城も加古川地域の多くの城と同じく別所方でした。

 官兵衛は、三木城の武将の後藤基国(後藤又兵衛の父)に書を送り、朝正・武則らに「武則は加古川館(城)へ帰えるよう」説得を依頼しました。

 「武則様は、ぜひ加古川城へお帰りください。こん後、はからずも三木方と秀吉方は、お互いに敵として戦うことになり、不幸にして三木城が破れますと、別所家はもちろんですが、糟谷家も断絶いたします。糟谷家を末長く守るためには、武則様はぜひ加古川城へ帰ってください」「ここはまげて、糟谷家存続のために、武則様は、まげて加古川城へお帰りください・・・」と。

 兄は三木に味方し、糟谷武則は、加古川城にもどり、秀吉側として行動をとるようになりました。

 ここでは、加古川地方の城主は、ほとんど毛利方につきますが、加古川城だけは信長・秀吉側についたことを確認しておいてください。加古川城と城主・糟谷武則は、後に再度登場します。(no3004)

 *挿絵:糟谷武則

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かこがわ、お城物語(20) 別府城の戦い

2015-11-01 08:14:01 | かこがわ、お城物語

  鳥町の戦いで、手痛い敗北をきした秀吉は、先に三木城を取り巻く支城を潰し、三木城を孤立させる作戦に変更しました。

 が、その前に2,3とり上げねばならないことがあります。その一つが、野口戦の前にあった別府城(べふじょう)の戦いです。

 毛利方としても、三木方を支援するデモストレーションとその威力を示しておくことが必要でした。

      別府城の戦い

 天正六年(1578)四月一日、毛利軍が三木方の支援のために別府城(現:加古川市別府町)に押し寄せてきました。

 官兵衛は、毛利軍を海に押し返しました。

 それに対する信長からの感謝状が残っています。

 この文書は、「別府城は、信長側に味方した三木城の二番家老、別所重棟が守っていたが、毛利方が雑賀衆(さいがしゅう)の応援を得て別府城に攻め寄せてきた。官兵衛の指揮により毛利方を撃退した。よくやった」という内容です。

     毛利・雑賀連合軍で来襲

 別府(べふ)に、小さな城がありました。この別府城のあった場所は、候補地は4カ所ほどあるのですが、確定していません。

 この時期、三木別所氏で織田方についている別所重棟が、ここを守備していました。

 雑賀党が大坂の湾から、毛利軍は、はるか西の広島あたりからの出撃でした。

 それらが、淡路の岩屋で結集し、多数の軍船をそろえて、別府の浜に来襲してきました。秀吉は、重棟では心もとなく、(黒田)官兵衛に指揮を任せました。

     官兵衛勝利す

 詳しいことはわかりません。以下は、想像です。

 ・・・夜は、しらじらと明けはじめました。海浜に毛利・雑賀の兵が上陸して来ました。

 人数は二千ぐらいと推定できました。

 官兵衛は、敵方をできるだけ別府城に近付けて一気に仕掛ける策をとりました。

  敵方が土塁や石垣に取りついたとき、官兵衛は、城門をひらき、三百人の突撃隊を突出させました。・・・ 毛利方は、たまらなく去ってゆきました。(no3003)

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

かこがわ、お城物語(19) 鳥町の戦い(2)・夜襲 

2015-10-31 07:32:57 | かこがわ、お城物語

   鳥町の戦い(2)

 鳥町の戦いについては、読み本として脚色されてはいますが、『播州太平記』に面白い話があります。

 「加古川評定」の後、毛利側に味方した三木城に押しよせた羽柴秀吉は、鳥町(三木市鳥町)に陣を構え、三木城をせめました。

 鳥町は、三木城の北西の集落です。

 三木城の下を流れる美の川(みのがわ)が加古川に流れ込む中間あたりに山塊があり、その山すそと崖の上の集落が鳥町です。

      夜 襲

 天正六年(1578)四月五日戌の刻(午後八時)、三木城が他の領主、櫛橋(志方軍)、長井(野口軍)、神吉(神吉軍)、梶原(高砂軍)等が、ひそかに秀吉軍に忍び寄りました。

 秀吉勢は、昼間の戦いの疲れと酒に酔って熟睡しているところでした。

 どっと斬り込んだのです。

 秀吉軍は、驚いて逃げまどい、総崩れになりました。

 そこに、三木城からも約千人が討って出たので、秀吉勢は、大敗となりました。

 以上が、『播州太平記』に描かれた「鳥町の戦い」の内容です。

 秀吉軍は7500に対し、夜襲を敢行した播州勢は、たかだか1300人でした。

 しかし、そのどよめきは、万を越す軍勢と思わせるに充分でした。

 うろたえ、おののく秀吉勢は、疑心暗鬼に陥り、本陣は蜂の巣をつついたようになり、徐々に美の川に追い立てられるのでした。

 ついに、追い詰められた秀吉軍は、たまらなく大久保、魚住方面へ潰走したのでした。

 播州勢の大勝利でした。

     三木城の支城をつぶせ

 秀吉は、鳥町の大敗の後、作戦を練り直しました。

 それは、三木城を取り巻く支城を先に潰し、三木城を裸にして攻め上げようとする作戦です。(no3002)

 *挿絵:PCより

コメント
この記事をはてなブックマークに追加