鶴林寺に残る秀吉の禁制札
時代は戦国時代の終わりの頃、天正6年(1578)です。
東播磨地方が、信長・秀吉の支配に入るか、それとも中国地方に勢力を持つ毛利の勢力下に入るかを決する戦が、加古川地域で展開されました。
当時、東播磨の領主は、三木・別所氏の支配下でした。
加古川城(加古川市加古川町)の糟谷氏のみが、秀吉方に味方していました。
しかし、野口・神吉・高砂・志方城の結束は強く、三木方に味方したのです。
秀吉は、勢力を持つ寺院等も調略しました。
一枚の書状「禁制」(写真)が鶴林寺にあります。内容は、次のようです。
鶴林寺のうちでは次のことを禁ずる
軍勢が一般人に乱暴を働くこと
陣を構えたり、放火したり、竹や木を伐採すること
田畑を荒らすこと
これらに違反するものは速やかに厳罰に処す
天正六年三月二五日 筑前守(*秀吉のこと)
秀吉は、鶴林寺の調略に成功し、鶴林寺を攻撃しないことを約束しました。
そして、四月・三木攻は野口城の戦闘から始まりました。
結果、野口城、そして共に戦った教信寺は全焼し、寺そして宝物等のほとんどは焼失し、略奪にあいました。
一方、鶴林寺は攻撃から守られ寺院および多くの宝物を今日に伝えています。(no5668)