ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

文観(39) 天満大池(2)・天満大池の改修と西大寺(文観)ルート

2020-10-04 07:37:56 | 文観(もんかん)

            天満大池の改修と西大寺(文観)ルート 

 6世紀のなかば、日本に仏教が伝わり、そこには有益な知識や技術が含まれていました。

 平安時代のはじめになると、神社側では「このままでは、自分たちは時代おくれになるぞ」と言う声がひろまりました。

 そのため、神社を支配する豪族や武士が、僧侶をやとって神前で仏事を行いました。

 また、仏教がわも、庶民に慕われている神道と結びつくことによって布教を有利に進めることができたのです。

 やがて、神社にお寺が併設されました。これが神宮寺です。

 天満神社の場合の神宮寺は、円光寺で天満神社に併設していました。

 このように、日本では仏教と神道が争うことなく融合していました。

 しかし、明治政府は、仏教と神道の分離を命じました。

 そのため、円光寺は今の中村の地に移転させられました。

 この円光寺は、西大寺の末寺である大野(加古川町大野)の常楽寺のさらに末寺でした。

 つまり、そのため文観を通じ、西大寺の土木技術が入ったと思われます。

 天満大池の辺りには、14世紀後半から最大寺勢力が関与したと思われる石造物が多数存在します。

 天満神社のすぐ東にある円光寺跡の墓地には、写真のような明徳元(1930)の宝篋印塔は、天満大池を改修した円光寺の僧・祐勢の墓であるとの伝承があります。(no5107

 *写真:旧円光寺(国安)の墓地にある花崗岩製の宝篋印塔(明徳元年・1390

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文観(38) 天満大池(1)・天満大池は、鎌倉時代の築造か?

2020-10-03 09:05:10 | 文観(もんかん)

  またまた話題は、新井用水から飛びます。天満大池(加古郡稲美町)の話です。ここでも、西大寺農業技術集団・文観が登場します。

     天満大池は、鎌倉時代の築造か?

 『稲美町史』より、国安天満宮の沿革をみておきます。

 国安天満宮(稲美町国安)のは白雉(はくち)4年(653)、王子権現という錫杖地蔵を勧請して創建され、その場所は、国安東で、現在の天満神社のお旅所でした。

 寛平5年(893)社殿を今の地に移し、天満大池は、白鳳3年(675)に築造したとしています。

 そして、永禄8年(1565)6月、本社を再建し、この時に主神を天満天神(菅原道真)としました。 

 ざっと、以上のようです。

     池大神

 「天満大池は、白鳳3年(675)に築造」に注目ください。

 天満大池は、白鳳の頃には築かれたというのです。 

 もちろん、白鳳時代にも池(原天満大池)はあった想像されるのですが、規模は小さく、天満大池につながるような池ではなかったでしょう。そんな進んだ技術はありません。

 現在の天満大池につながる池の築造・改築は、もう少し後の時代としなければなりません。

 結論を先に紹介しておきましょう。鎌倉時代です。

 最近の研究では、先にみた、加古川市の五ヶ井用水の時代、つまり文観の時代にさかのぼるとしています。

 ここでも文観・西大寺が登場します。(no5106

 *写真:現在の天満大池

 

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文観(37) 五ヶ井用水と西大寺技術集団(6) 五ヶ井用水は、西大寺勢力の全盛の「文観の時代」に修築

2020-10-02 09:19:34 | 文観(もんかん)

    五ヶ井用水は、

     西大寺勢力の全盛の「文観の時代」に修築

 「五ヵ井の改築が、いつなされたか」ということです。

   兵庫大学の金子先生論文「東播磨における文観の活動」をお借りします。

 五ヶ井改築に関係する伝承・寺伝を有する三寺(常楽寺・鶴林寺・常住寺)には、すべてに西大寺勢力が入っています。

 このようなことから、西大寺勢力が加古川下流域に勢力を伸ばした鎌倉時代後期以降と考えられます。

 ある記録によると、赤松円心支配地に、「五箇庄内宿村付、下司・公文・政所名・木村・大津村」が含まれています。

 これは、(赤松)円心が得た播磨守護領五箇荘のうち、守護の直接的支配が及ぶ地域です。

 宿村(現在の加古川町本町)、木村(現在の加古川町木村)、大津村(現在の加古川町稲屋)です。

 五ヶ井の主要井筋の一つ「木村筋」は、現在でもこ本町・木村・稲屋の水路(井筋)となっています。

 そして、五ヶ井は、大規模な工事でした。

 守護所が播磨西部に移動する南北朝時代・室町時代には、このような大規模な工事は無理です。

 南北朝時代以降の加古川下流地域では小領主が散在しており、大規模工事を担当できる勢力は想定できません。

 西大寺勢力が全盛の「文観の時代」に修築が進められたと考えるのが自然のようです。(no5105

 

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文観(36) 五ヶ井用水と西大寺技術集団(5)

2020-10-01 09:25:19 | 文観(もんかん)

   伊派石工集団

 常楽寺(加古川町大野)の墓地に立派な宝塔があります。

 この近辺は石の産地であり、石造物はそれらの石を材料とするのが普通です。

 近辺で産出する石は、凝灰岩で、やわらかく細工がしやすく、従って、安く作ることができます。

 常楽寺の宝塔は、凝灰岩ではありません。硬い細工の難しい花崗岩を材料とした宝塔です。

 西大寺の末寺・報恩寺の四基の五輪塔も花崗岩です。

 そして、報恩寺には見事な花崗岩の十三重の層塔(写真)があります。

 常楽寺の宝塔や報恩寺の層塔・五輪塔は、他所で完成させ、ここに運ばれたものと思われます。

 これらの宝塔・十三重の層塔・五輪塔は、ともに西大寺の石工集団伊派の製作による石造物といわれています。

 当時、硬い花崗岩に見事な細工を加工する技術を持った石工集団は、西大寺の石工集団より見つけることはできません。

 報恩寺の五輪塔について、『加古川市史(第一巻)』を読んでみます。

 ・・・・五輪塔の作者は大和伊派(いは)の名工、伊行恒(いのゆきつね)であるという、・・・・伊行恒は、大和を根拠地にしながら、摂津の御影を中心にその活躍が知られている。

 その伊派の石工たちたちが深く関係したのが、大和の西大寺の叡尊(えいぞん)・忍性であって、叡尊・忍性が「殺生禁断」の記念碑として各地に建立した十三重の塔は、すべて伊派の石工たちが刻んだものであったとこともよく知られている。・・・・(『加古川市史・第一巻』より)

 以上は、報恩寺の花崗岩でつくられた報恩時の石造の説明ですが、研究者によれば常楽寺の宝塔も、形式などからも伊派の石工による作品として間違いがないと指摘されています。

これらの技術が農業土木に利用されたのは当然と考えて良いと思われます。(no5104

 *写真:報恩寺の十三重の層塔

 

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文観(35) 五ヶ井用水と西大寺技術集団(4)

2020-09-30 10:48:33 | 文観(もんかん)

    五ヶ井用水と西大寺技術集団(4)

 加古川下流域左岸の「五ヶ井(ごかい)用水」と西大寺勢力との関係を注目しています。

  五ヶ井修築に関係する伝承・寺伝があるのは、加古川市加古川町大野の常楽寺、加古川市加古川町北在家の鶴林寺、そして元は加古川宿にあった加古川市加古川町寺家町にあった常住寺です。

 常楽寺は、西大寺の末寺帳にあるように、播磨における筆頭末寺です。

 鶴林寺には、叡尊(西大寺中興の僧)が法華山で盛大な授戒活動を行なった後の帰路の弘安八(1285)年八月九日に宿泊しています。

 また、鶴林寺の応永の復興の建築物群が典型的な折衷様であり、鶴林寺の大工集団が南都系の姓であることなどから、鶴林寺に西大寺系勢力が入り込んでいたことは確実です。

 前回紹介したように、常住寺には、五ヶ井の井堰起工の当初、(日岡の神と聖徳太子)とが常住寺で会議して本尊に祈誓し、工事が成就した」という寺伝があります。

 この伝説は、日向明神(日岡神社)が支配権を有していた「原五ヶ井」の抜本的改修を、大野の常楽寺が主導する西大寺勢力が行った事実の反映と考えられます。

 西大寺勢力も、熱烈な聖徳太子信仰を有していました。

 日岡神社の別当寺であった常楽寺は、日岡神社信仰と聖徳太子信仰とを結合する位置にありました。(no5103

 *写真:五ヶ井用水取水口(二筋の水路に分かれていますが、左の水路は、新井用水の取水口・加古川大堰のところ

 

 加古川下流域左岸の「五ヶ井(ごかい)用水」と西大寺勢力との関係を注目しています。

  五ヶ井修築に関係する伝承・寺伝があるのは、加古川市加古川町大野の常楽寺、加古川市加古川町北在家の鶴林寺、そして元は加古川宿にあった加古川市加古川町寺家町にあった常住寺です。

 常楽寺は、西大寺の末寺帳にあるように、播磨における筆頭末寺です。

 鶴林寺には、叡尊(西大寺中興の僧)が法華山で盛大な授戒活動を行なった後の帰路の弘安八(1285)年八月九日に宿泊しています。

 また、鶴林寺の応永の復興の建築物群が典型的な折衷様であり、鶴林寺の大工集団が南都系の姓であることなどから、鶴林寺に西大寺系勢力が入り込んでいたことは確実です。

 前回紹介したように、常住寺には、五ヶ井の井堰起工の当初、(日岡の神と聖徳太子)とが常住寺で会議して本尊に祈誓し、工事が成就した」という寺伝があります。

 この伝説は、日向明神(日岡神社)が支配権を有していた「原五ヶ井」の抜本的改修を、大野の常楽寺が主導する西大寺勢力が行った事実の反映と考えられます。

 西大寺勢力も、熱烈な聖徳太子信仰を有していました。

 日岡神社の別当寺であった常楽寺は、日岡神社信仰と聖徳太子信仰とを結合する位置にありました。(no5103

 *写真:五ヶ井用水取水口(二筋の水路に分かれていますが、左の水路は、新井用水の取水口・加古川大堰のところ

 

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文観(34) 五ヶ井用水と西大寺技術集団(3)

2020-09-29 07:30:44 | 文観(もんかん)

         五ヶ井用水と西大寺技術集団(3)

 鎌倉時代の農業は、鋤・鍬使う農業でしたが二毛作も始まっています。

 人口も増えました。商業活動も盛んになりました。

 『加古川市史』は、「農業生産を高める用水の必要性を認めながらも、この時代には、農業技術の発達はまだなく、五ヶ井用水の完成は、農業技術の発達は戦国時代を待たねばなりません」としています。

     西大寺技術集団

 唐突に、ここに鎌倉時代の西大寺派の農業技術集団が登場します。

 一般的に鎌倉時代に、大河に堰を設けるなどということは、技術的に不可能と思われていたのです。

 でも、私たちの地域には、その技術がありました。

 五ヶ井用水は、北条郷から始まり、加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄の水田を潤しています。

 常樂寺は、大野(加古川市加古川町大野)は、北條郷にある西大寺派の有力寺院でした。

 五ヶ井用水の改修には、この西大寺派の農業土木技術が使われたと想像されます。

 もう少し説明が必要ですが、五ヵ井用水が現在のような水路に改修されたのは1315年ごろ、つまり、鎌倉時代と考えられるようになりました。

 論理が飛躍しているようで、ストンと腑に落ちないでしょう。

 西大寺農業土木技術集団の話を続けます。(no5102

 *写真:現在の五ヶ井用水

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文観(33) 『加古川市史」は五ヵ井用水の改修の完成を戦国時代としているが

2020-09-28 08:13:36 | 文観(もんかん)

  五ヶ井用水と西大寺技術集団(2)

   『加古川市史」は五ヵ井用水の改修の完成を

        戦国時代としているが。

 以下は、平成29年度氷丘公民館地域学講座「日岡の文観(1315年前後を中心に)」、兵庫大学教授金子哲氏の講演を参照にさせていただいています。

・・・・

 一般論として、鎌倉時代の農業は、鋤・鍬使う農業でしたが二毛作も始まっています。

 人口も増えました。商業活動も盛んになりました。

 『加古川市史』は、「農業生産を高める用水の必要性を認めながらも、この時代には、加古川という大河を利用した用水を造る技術がまだなく、五ヶ井用水の完成は、農業技術の発達は戦国時代を待たねばなりません」としています。(no5101

 *図:五ヶ井用水水路図

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文観(32) 五ケ井用水の成立は、室町時代(戦国時代)か?

2020-09-27 10:14:21 | 文観(もんかん)

   五ヶ井用水と西大寺技術集団(1)

     五ケ井用水の成立は、室町時代(戦国時代)か?

 気まぐれですが、ここで話題を「五ヶ井用水」に変えます。

 五ヶ井用水の伝承はともかく歴史の古い用水です。

 加古川下流の左岸(東岸)は、右岸(西岸)と比べて、流れがゆるやかで早くから安定し、聖徳太子の伝承が引き合いにだされるほど古い用水です。

 「五ヶ井用水」は、北条郷・加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄という五ヶ井郷(庄)の用水であるところから名づけられた名称です。

 これらの名称からも推測できるが溝は古くからありました。

 それでは、五ヶ井郷が一体の井組として成立したのはいつのことでしょう。

 『加古川市歴史』は、郷村制の解体しきっていない時代、つまり室町時代(戦国時代)のことと考えられるとしています。

     五ヵ井用水改修の土木技術

 『加古川市史』は次のように説明しています。

 加古川は大河であり、暴れ川でした。古代より幾度となく洪水を引きおこしています。

 こんな大河の締め切り工事をし、洪水の時にも崩れない堤や樋門を築き、大川から安定して取水できるようになるのは、技術の進歩を待って後のことです。

 すなわち、これらの土木技術の発達は戦国時代をまたねばなりません。

 五ヶ井用水は多くの村々を貫く大きな用水です。

 これらの用水を一体のものとして利用するには、利害の対立する地域全体を支配する領主の出現を待たなければなりません。

 天正六年(1578)三木城は、秀吉軍に敗れました。秀吉は、土木技術の専門家でもあったのです。(no5100

 *図:五ヶ井用水路図『五ヶ井用水路図』(兵庫県五ヶ井土地改良区)より

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文観(31) 常楽寺の宝塔

2020-09-26 10:39:30 | 文観(もんかん)

   常楽寺の宝塔

 前回の続きです。

 常楽寺の墓地にある宝塔も材質(花崗岩)、様式等から伊派の手による石造物であることはたしかです。

 この宝塔について『加古川市の文化財(加古川市教育委員会)』(昭和55年)に次のような説明があります。(文章は変えています)
   
  (常楽寺宝塔)
  花崗岩製
   高さ   2.35メートル
  銘文  正和四年(1315)乙卯八月 日 
  
 願主  沙弥道智

この塔は、通称・文観上人慈母塔と伝えられ、文観(もんかん)が常楽寺中興として存在の時、慈母をここ葬ったと『播磨鑑』は伝えています。

   道智は、東大寺戒壇院の律僧

 『播磨鑑』の著者、平野庸脩(ひらのようさい)は何をもとにしてこの銘文を書いたのでしょう。

  また、塔身の銘文「願主道智」をどのように解釈すればよいのでしょうか。

 『播磨鑑』が書かれたのを元禄時代(16881704)としても、「文観慈母塔」の造られた正和四年(1315)とは、およそ400年を経ています。はっきりしたことは分からなくなっていたのでしょう。
 『播磨鑑』の説をそのまま信じるのは少し強引です。
  今まで宝塔の銘・願主「道智」は、謎の人物とされてきました。

それは、道智は西大寺直属の律僧であると決めつけて研究されてきたようです。道智は見つかりませんでした。

 ところが、兵庫大学の金子先生(中世史)は、律宗は他の律宗系列とも関係しており、東大寺戒壇院の僧・凝然(ぎょうねん)の「円照上人行状」に道智を発見されています。

 そこには「・・・道智は、常陸の人、本(元)忍性上人之門人・・・」と書かれています。

 忍性の師は叡尊です。とすると、道智は、もと西大寺系の律僧だったようです。

 常楽寺の宝塔が造られた正和四年(1315)の文観は後醍醐天皇と大接近をしていた時でした。(no5099

*写真:常楽寺墓地宝塔(写真中央)

 

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文観(30) 東播磨正和石塔群造立の背景

2020-09-25 10:42:46 | 文観(もんかん)

        東播磨正和石塔群造立の背景

 八田洋子氏は、福田寺層塔の解説文の中で、「播麿地方には、正和の銘の入った石造物が四基ある・・・(中略)・・・これらは、中央の伊派の作晶であることが考えられる」という重要な指摘をされています。

 この四基の石造物とは、常楽寺宝塔・報恩寺五輪塔・一乗寺笠塔婆・福田寺層塔のことです。

 これらの石塔群を山川論文では「東播磨正和石塔群」と一括して紹介されています。

 この東播磨正和塔群のうち、常楽寺宝塔と福田寺層塔の基礎格狭問の形状が非常に類似する点は、先に紹介したように八田氏によって指摘されています。

 この他にこれらの石塔間の共通点を探るなら、石塔が造立さている場が、いずれも文観や西犬寺と関係の深い寺院であることです。

 一乗寺笠塔婆が後醍醐天皇(実際は即位前〉の「勅」よって、文観を中心に造立されたものである可能性を示唆されています。

 一乗寺の傘塔婆造立の一年数か月後に後醍醐天皇が即位しています。

 そして、鎌倉幕府打倒の計画、つまり「正中の変」と奈良の般若寺文殊像造立の関係(詳しくは、『異形の王権(網野善彦著)』を参照ください)から推測すれば、束播磨正和石塔群は、後醍醐天皇(尊治親王)の即位を祈願して造立されたものだという推測が成り立つようです。

 おそらく、その中心にいた人物は文観であり、石塔はその影響の強い場(寺院)において造立されたのであると考えられます。

 以上が、山川論文の要旨です。

 専門的な点を大幅に省いて山川論文を紹介しました。そのため内容が正確に伝わっていないのではないかと心配しています。

 山川均論「東播磨の中世石塔と文観」(「奈良歴史研究」第86号)をお読みください。(no5098

 *写真:宝塔(常楽寺・加古川市加古川町大野)

 

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文観(30) 福田寺の層塔

2020-09-24 11:23:07 | 文観(もんかん)

       福田寺の層塔

 自宅から2キロほど西へ行くと稲屋(加古川市加古川町稲屋)の集落があります。

 稲屋は、『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという場所です。

 研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。

 稲屋の近くにある泊神社は、地域の氏神であり、古代の港(水門・みなと)の守護神であったと考えられています。

 この稲屋に福田寺という古刹があります。「ふくでんじ」と読みます。

 福田寺の山門をくぐるとすぐ左(西側)に、現高355㎝の花崗岩製層塔があります。

 現在は十一重ですが、本来は十三重であったと思われます。

 塔身(初層軸)には、三面に如来像を浮き彫りされています。

 この反対の面の如来像両協に銘文があり、銘からこの層塔は、正和二年(1313)に、尼西河弥陀仏を願主として造立されたものであることがわかりました。

 大野の常楽寺の宝塔と比較すると格狭間の下端幅は福田寺噌塔の方が狭いことが判明していますが、研究者は、「この層塔の格狭間(こうざま)は、常楽寺宝塔の基礎格狭間と酷似しており、格狭問が入る区画の規模は両者でまったく共通し、かつ格狭間自体も酷似ている」と指摘されています。

 したがって、「その地理的・時期的近さを考えると福田寺層塔と常楽寺の宝塔は同じ石工(集団)によって造立されたとみなしてよい」とされています。

 

 西大寺と後醍醐天皇は密接な関係を持っています。その西大寺で文観は一時籍を置いています。

 ここでも、西大寺・後醍醐天皇・文観の結びつきが浮かび上がってきました。(no5097

 *写真:福田寺の層塔

 *「東播磨の中世石塔と文観」(山川均論文)参照

 

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文観(29) 法華山の一乗寺の傘塔婆

2020-09-23 08:50:52 | 文観(もんかん)

         法華山の一乗寺の傘塔婆

 文観が正応三年(1290)、一乗寺において慶尊律師の下で得度(とくど・出家)しました。

 文観13歳の時でした。

 ということは、文観が小僧として常楽寺(加古川町大野)に入ったのは10歳ごろだったのかもしれません。

 一乗寺の正門付近は、高さ290㎝の大型の笠塔婆(凝灰岩製)があります。

 文字は読みにくいですが、写真をご覧ください。

 塔身正面の上部に種子(梵字)「アーク(大日如来)」と彫り、その下に大きな字で「金輪聖王」、その下に少しあけて「自金堂一町」と彫られています。

 その下に、やや小さな字で「正和五 十二月廿一日」「依 勅造立之」と二行に分けて刻まれています。

 この笠塔婆は、正和五年(1316)十二月に造立されたものであることを知ることができます。

 「勅」というのですから、通常ならは天皇による命です。

 この傘塔婆の場合「金輪聖王」という表現に注目ください。

 文観は、よく知られているように後醍醐天皇のことを、しばしば「金輪聖王」と呼んでいます。

 一乗寺の笠塔婆銘文の「金輪聖王」も、後醍醐天皇を指す可能性は高いと考えられています。

 また、一乗寺と文観の関係を考えればその可能性はますます高まります。

 また、ある学者は、一乗寺の傘塔婆にある梵字・アーク(大日如来)の字体は文観の字体によく似ているといわれています。

 なお、この傘塔婆については、後醍醐天皇がこの場所で輿を降りられたので、その後はいかなる貴人もここで下乗するようになったという伝承があります。

 文観・一乗寺・後醍醐天皇は、つながっているようです。(no5096

 *写真:一乗寺の傘塔婆

 *「東播磨の中世石仏と文観(山川均先生の論文)」参照

 

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文観(28) 報恩寺の五輪塔      *平荘町山角  

2020-09-22 10:47:02 | 文観(もんかん)

    報恩寺の五輪塔  *平荘町山角

 前回、報恩寺の層塔を紹介しましたが・今回も同寺の五輪塔の紹介です。

 『加古川市史(第一巻)』を読んでみます。

 ・・・・五輪塔の作者は大和伊派(いは)の名工、伊行恒(いのゆきつね)であるという、・・・・伊行恒は、大和を根拠地にしながら、摂津の御影を中心にその活躍が知られている。

 その伊派の石工たちたちが深く関係したのが、大和の西大寺の叡尊(えいぞん)・忍性であって、叡尊・忍性が「殺生禁断」の記念碑として各地に建立した十三重の塔は、すべて伊派の石工たちが刻んだものであったとこともよく知られている。・・・・

 報恩寺の層塔は、形式などからも伊派の石工による作品として間違いがなさそうである。

 報恩寺の層塔の銘を読んでおきます。

   銘文   常勝寺

         元応元年 巳未(1319

         十一月六日

 銘には、常勝寺とあり、報恩寺ではありません。

 報恩寺は、もとは常勝寺であり、後に西大寺の末寺の真言律宗寺院になったようです。

 真言律宗・叡尊・忍性の歴史的重要性については、もっと紹介される必要があります。(no5095

 *『加古川市史(第一巻)参照』

 写真:報恩寺の五輪塔 

 

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文観(27) 伊派石工集団

2020-09-21 09:02:06 | 文観(もんかん)

 文観を追いかけていますが、西大寺の石工技術集団について付け加えておきましょう。

       伊派石工集団

 常楽寺の墓地に立派な宝塔があります。

 この近辺は石の産地であり、石造物はそれらの石を材料とするのが普通です。

 近辺で産出する石は、凝灰岩で、やわらかく細工がしやすく、従って、安く作ることができます。

 常楽寺の宝塔は、凝灰岩ではありません。硬い細工の難しい花崗岩を材料とした宝塔です。

 報恩寺(平荘町山角)の四基の五輪塔も花崗岩です。

 そして、報恩寺には見事な花崗岩の十三重の層塔があります。

 常楽寺の宝塔や報恩寺の層塔・五輪塔は、他所で完成させ、ここ に運ばれたものと思われる。

 これらの宝塔・十三重の層塔・五輪塔は、ともに西大寺の石工集団伊派の製作による石造物といわれています。

 当時、硬い花崗岩に見事な細工を加工する技術を持った石工集団は、西大寺の石工集団より見つけることはできません。

 報恩寺の五輪塔について、『加古川市史(第一巻)』を読んでみます。

 ・・・・五輪塔の作者は大和伊派(いは)の名工、伊行恒(いのゆきつね)であるという、・・・・伊行恒は、大和を根拠地にしながら、摂津の御影を中心にその活躍が知られている。

 その伊派の石工たちたちが深く関係したのが、大和の西大寺の叡尊(えいぞん)・忍性であって、叡尊・忍性が「殺生禁断」の記念碑として各地に建立した十三重の塔は、すべて伊派の石工たちが刻んだものであったとこともよく知られている。・・・・(『加古川市史・第一巻』より)

 以上は、報恩寺の花崗岩でつくられた報恩時の石造物の説明ですが、研究者によれば常楽寺(加古川町大野)の宝塔も、形式などからも伊派の石工による作品として間違いがないと指摘されています。(no5094

 *写真:報恩寺(加古川市平荘町山角)の十三重の層塔

 

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文観(26) 南北朝正閏論(2)

2020-09-19 21:24:54 | 文観(もんかん)

 前号の続きです。

 円福寺(東志方高畑)の本堂に向かって右隅に、(県指定文化財の宝筐印塔(ほうきょういんとう・写真)があります。宝筐印塔には康暦元年の銘が刻まれています。

      北朝年号(康暦元年)

 康暦元年(1379)」は、南北朝時代の北朝年号で、南朝年号では天授五年です。

 赤松四代当主・義則が赤松家所領の五穀豊饒を願い、また「一結衆」とあるところから赤松一族の安寧祈願、さらに赤松一族の供養塔として造立したものと思われます。

 この宝筐印塔の「北朝年号」からもわかるように、赤松本家は、曲折はあったものの足利尊氏(北朝方)として活躍し、後醍醐天皇(南朝方)に敵対し、時代を乗り切ります。

 江戸時代までは、北朝側であろうが、南朝側であろうがあまり問題とならなかったのですが、明治時代となり突如「南朝正閏論(せいじゅんろん)」が声高に叫ばれるようになりました。 

 そして、日本が戦争に突き進んでゆくにつれ、北朝を支持した赤松氏の逆賊度はますます高くなり、赤松氏は歴史上、全く評価されなくなりました。

 明治時代~戦前にかけて北朝支持を色濃く残す私たちの地域の立場は微妙であったと想像します。

 戦後、そんな歴史は間違いであるとして、足利尊氏・赤松氏の再評価がなされるようになりました。

 円福寺の宝筐印塔の加古川市教育委員会の説明には「・・・基礎正面に康暦元年の銘がり南北時代の遺品であることがわかる・・・」とありますが、北朝年号であるとの説明がありません。

 「北朝年号の説明がないのは、なぜ?」。もどかしい気持ちが少し残ります。(no5093

 

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