天満大池の改修と西大寺(文観)ルート
6世紀のなかば、日本に仏教が伝わり、そこには有益な知識や技術が含まれていました。
平安時代のはじめになると、神社側では「このままでは、自分たちは時代おくれになるぞ」と言う声がひろまりました。
そのため、神社を支配する豪族や武士が、僧侶をやとって神前で仏事を行いました。
また、仏教がわも、庶民に慕われている神道と結びつくことによって布教を有利に進めることができたのです。
やがて、神社にお寺が併設されました。これが神宮寺です。
天満神社の場合の神宮寺は、円光寺で天満神社に併設していました。
このように、日本では仏教と神道が争うことなく融合していました。
しかし、明治政府は、仏教と神道の分離を命じました。
そのため、円光寺は今の中村の地に移転させられました。
この円光寺は、西大寺の末寺である大野(加古川町大野)の常楽寺のさらに末寺でした。
つまり、そのため文観を通じ、西大寺の土木技術が入ったと思われます。
天満大池の辺りには、14世紀後半から最大寺勢力が関与したと思われる石造物が多数存在します。
天満神社のすぐ東にある円光寺跡の墓地には、写真のような明徳元(1930)の宝篋印塔は、天満大池を改修した円光寺の僧・祐勢の墓であるとの伝承があります。(no5107)
*写真:旧円光寺(国安)の墓地にある花崗岩製の宝篋印塔(明徳元年・1390)