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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

東播農民運動史(18) 赤はちまき事件

2020-10-25 08:05:02 | 東播農民運動史

    赤はちまき事件

 大正13年12月、加古川小学校敷地拡大のため耕作者(N)の了解もなしに、田地1町3反を地主が町に売ってしまったのです。

 そして町当局が造成工事を着手しました。

 N氏等は1925年の中頃東播連合会に加入し、地主売渡価格の3分の1の要求しました。

 これに対して、町長はこれに対し、小作の耕作権はもちろん金銭の要求も拒否したため、

 木村(加古川町木村)の農民は、牛の角に赤はちまきをつけ、畝作りをして麦を蒔き、耕作するというユニークな方法で権利を地主に求めさせました。

 この一件により、地主の所有権より耕作権が優先することが認められたのです。

 大きな成果でした。

 この事件は「赤ハチマキ事件」と呼ばれました。

 しかし、この「赤はちまき事件」を指導した河合義一ら4人は半年間留置されました。

 義一は、昭和六年(1931)県会議員に当選し、戦後は衆議院議員として活躍しました。

 義一の生涯は、まさに農民の友としての一生でした。(no5137

 *写真の胸像は、同士が彼を尊敬してつくりましたが、本人の希望により公開されませんでした。

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東播農民運動史(17) 河合義一  

2020-10-24 11:12:27 | 東播農民運動史

      河合義一

 大正七年(1918)の米騒動は、日本の労働運動に大きな影響をあたえました。

 さらに、第一次世界大戦後、ロシア革命の思想的な影響もあって、多数の農民組合・労働組合が組織されました。

 農村においては小作争議が年ごとに激増しました。

 県下では、最初に「農民組合東播連合会」が結成され、河合義一は会長に選らばれました。

 義一は、東京外語大学でフランス語を学び、卒業後は日本銀行に就職しましたが、まもなく発病(結核)し、神奈川県のサナトリウムで療養しました。

 この不慮の発病が、彼(河合義一)のその後の進路を大きく変えました。

 また、東京外語時代キリスト教徒であった彼は、本郷教会へよく通い、この本郷教会の持つ環境が、彼のその後の方向を決定的にしたともいえます。

 本郷教会に集まった人々の中には、大正デモクラシーの指導的役割を果した吉野作造、社会主義者で、小説『火の柱』で有名な木下尚江、そして日本最初の労働組合「友愛会」の創始者、鈴木文治などがいました。

 高砂に帰った義一は、一時療養のため瀬戸内海豊島(てしま)へ移りました。

 そこで、地主の圧制に苦しむ小作の生活を知り、高砂へ帰った義一は、農民運動をはじめました。

 これは、彼の足取りだけではなく、河合家に流れる義侠心がそうさせたように思えてなりません。

 義一の祖父、義平の長男は、高砂を抜け新撰組の河合耆三郎です。幕末池田屋騒動でも活躍しています。(no5136)

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東播農民運動史(16) 野口の小作争議

2020-10-23 11:46:03 | 東播農民運動史

          野口の小作争議

 1924年(大正13)の調査がある。加古郡の小作率は64.5%で、印南郡のそれは63.9%でした。

 ものすごく高率小作率でした。

 大正13年4月2日、加古川公会堂(現:加古川小学校近くの現在の市立図書館)で日本農民組合東播連合会の創立大会が行われました。

 「・・・生存の権利を持って対抗し、団結と組織をもって土地と自由を得るまで努力する・・・」と宣言しました。

 団結した農民のエネルギーは地主に小作料の減免を要求しまし。

 大正13年、野口の鵤(加古川市野口町長砂)では、大規模な小作争議が展開され、小作料の引き下げを求めました。

 これに対して地主は、成育中の稲を差し押さえ、小作人に、稲を刈り取らせないように対抗したのです。

 小作人は、「稲の刈り取りと運搬をさせて欲しい」と要求したが断られました。

 ある朝、地主側が雇った人夫が稲の刈り取りをしているのを見つけ、こぜりあいとなった。突然多数の警官があらわれ、多くの逮捕者を出した。

 逮捕された人々は、裁判にかけられた。村人の要求は、ほとんど聞き入れられませんでした。(no5135

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東播農民運動史(15) 小作争議:工業労働者との接触、啓発

2020-10-22 11:16:54 | 東播農民運動史

   小作争議:工業労働者との接触、啓発

 加古郡・印南郡の小作率は、県下でも飛びぬけて高率でした。

 やがて、小作の怒りは小作争議として爆発しました。

 当時の社会情勢をみておきたい。

 第一次世界大戦後小作争議が頻発します。

 これはこの頃、工業化がすすみ、工業労働者との接触と啓発がありました。

 なによりも、大正10年(1921)の川崎及び三菱造船所の労働争議の影響があり、大正11年、全国農民組合である日本農民組合(日農)が神戸で発会しました。

 「日農」は、小作の地位向上と生活の安定を目指して小作争議を指導しました。

 大正12年、東播連合会が結成され、八幡村(現:加古川市八幡町)宗佐に本部をおきました。

 小作争議の主な要求は、地主に対して小作料の減免でしたが、従来の「お願い」から「要求」へとかわっていきました。

   ◇国包の小作争議◇

  (*『大正12年の県の報告書』参照)

 国包村の総戸数の180戸のうち農業は70戸でした。

 その内訳は、自作農1戸、自作権小作農16戸、小作54戸(合計は71戸になるが報告書のまま)で、自小作も含めると驚くべき小作率になります。

 争議の起きた時期の小作料の割合は50%を越えて、江戸時代の年貢なみでした。

 小作人たちは、永久小作料の一割五分の減額を要求しました。(no5134

 *『加古川市史(第六巻・上)』(加古川市)、『加古川市史に読む・わがふるさと国包』(畑偕夫著)参照

 

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東播農民運動史(14) 地主と小作の関係

2020-10-21 09:33:11 | 東播農民運動史

   地主と小作の関係

 見土呂村(現:上荘町見土呂)の大西甚一平は、明治20年(1889)に7郡にまたがって耕地と宅地192町、山林52町あまりを所有していた県内でも有数の大地主でした。

 大西家に残る当時の地主と小作の関係を示す「小作証書」から、地主と小作の関係をみておきます。

 文書は、省略しますが、内容は次のようです。

  ◇小作証書(小作契約書)◇

 ① 小作契約は二年間であること。

 ② 米の作柄にかかわらず1115日までに小作料を納めること。

 ③ 期限までに納められなかった場合は、請け人(保証人)が代わって小作料を納入すること。

 ④ 契約期間内であっても地主から要求があればいつでも小作地をかえす。

 また、別の契約書には、納入する小作米は大粒の高品質のものに限ることや米俵の種類の指定まで定めています。

 当時の地主と小作の関係が分かります。

 小作の恨みの声が聞こえてきそうです。

 大西家は、特別に小作に厳しい例かというと、そうではなく、大西家との小作との関係は一般的なようです。 

 小作は何時までも黙っていませんでした。やがて、小作の嘆きは、小作争議として爆発します。(no5133

 *『加古川市史(第三巻)』参照

*写真:大西家別荘(現・みとろ荘)



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東播農民運動史(13) 農民組合・東播地区の歴史的役割 

2020-10-20 10:36:23 | 東播農民運動史

        農民組合・東播地区の歴史的役割 

 兵庫県でもっとも早く日本農民組合支部を結成したのは、印南郡伊保村中島支部であり、最初に地方連合会を創立したのも東播連合会でした。

 東播連合会が、とくに初期において全国的兵庫県的に先進的な地位をもちえた要因は次のようでした。

 第一に、東播地方が県内最大の農業地域、農業生産高、最大多数の小作農家戸数をようする地域でした。また、兵庫県で最大、かつ最多数の地主的土地所有が分布し、それに見合った小作地経営が発達していました。

 印南郡伊保村中島に始まる日農指導下の小作争議が各地に飛び火すると、猛烈な勢いで播州平野に広がっていきました。

 第二に、東播連合会は、各地に分散していた自然発生的な小作人組合を、初めて近代的農民組合に組織する組織者の役割をはたしました。

 第三に、東播連合会の発展を促進した重要な要因として、労働組合運動、運動(解放運動)との強い連帯関係があったことをあげられます。

 農民運動の成長 は、先行する労働運動の影響によるとされますが、東播地方ではこれが逆になっていました。

 労働組合の結成以前に、東播連合会はすでに括動しており、労働組合の結成、賃上げ要求を農民組合が支援しました。

    そして、分裂

 労、農組合間でこのように強固な相互支援関係が結ばれた背景には、加古、印南郡各町村で、 農民であるとともに通勤労働者でもある階層が人口の過半数をしめていた現実がありました。

 しかし、官憲の弾圧、それになにより農民組合内の路線対立があり、兵庫県農民運動は分裂状態し、やがて、東播連合会は衰退の一途をたどることになります。(no5132

 *『東播地方農民運動史(木津力松著)』参照

 *写真:日本農民組合創立大会記念写真(192249)、『高砂市史(第三巻)』より

 

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東播農民運動史(12) 中島支部の小作争議

2020-10-17 10:30:50 | 東播農民運動史

     中島支部の小作争議

 東播地方でもっとも攻勢的な小作争議としてあげられるのは、伊保村中島支部のたたかいでした。

 大正11年(1922)、支部結成時点で小作料1割9分減額を獲得しました。

 その後、地主が申立てた小作調停委員会記録によると、「(地主は)大正12年度の作柄も豊作でしたが、3割の減額を行ました。が、小作は、さらに大正13年度は5割減額を要求し、大正14年度小作料についても、組合は虫害被害を理由として前年同様、6割6分減免」を要求しました。

 これに対し、調停委員会の審議は大正15年9月まで続きましたが、妥協が成立せず不調に終わりました。

 調停打切りとなり、地主はただちに大正15年度稲作を立毛のまま差押を申請しました。

 組合も東播連合会の応援を得て立毛差押にたいする警戒・動員体制をとりました。

 魚橋警察署長及伊保村長両名、双方の間に奔走し極力調停に努めましたが不調に終わっています。

 地主側は、小作地の立人禁止仮処分を準備し、これを知った組合は、今度は小作側から調停を申し立てました。

 こうして始まった調停作業は、伊保村長立会の下で昭和2年2月14日になってようやく妥協するにいたりました。

 妥結条件は、大正13、14年度小作料は4割2分5厘を減額することで決着しました。

 東播地方全体を通じて農民側が小作争議で得た最大の減額率であり、地主勢力にたいする攻勢的立場を代表している東播地方で、もっとも攻勢的争議としてあげられるたたかいでした。

     小作米の運搬料も地主持ちで

  なお、注目されるのは、「賃借料は毎年1月25日限り相手方(地主)宅に申立人(小作人)において運搬し支払うものとし、支払石数1石に対し運搬費として金7銭の割合を以て申立人に支払うものとする」という項目でした。

 小作人が、年貢米を大八車に積んで地主(ここでは伊藤長次郎)の米蔵に運びこむのがまだ義務とされていた時代に、逆に小作人が地主から運搬費を支払わせるという条項をかちとったことは、他に例がなく、農民組合の攻勢的な、立場をよく象徴していました。(no5129)

 *『東播地方農民運動(木津力松著)』参照

 

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東播農民運動史(11) 県下で最初の日本農民組合、中島支部結成

2020-10-16 10:55:40 | 東播農民運動史

        県下で最初の日本農民組合、中島支部結成

 大正10年秋は地方一帯が凶作で、中島では反当2石斗の収穫にしかなりませんでした。

 4月に新聞で日農創立のことを知り、中島では、数回の寄合をもって協議し、小作料2割5分~3割減額要求を地主に提出することをきめ、小作組合の結成にこぎつけました。

 志方、井上、中島、岸井、北野の5名が神戸の賀川豊彦氏の所へ相談に出かけ、行政長蔵(ゆきまさちょうぞう)が本部から派遣されました。

 この時の争議では、小作地返還戦術は問題にならず、4月28日に玄長寺(中島・写真)で杜会問題小作問題講演会を開いて、周辺20数ケの農民に参加をよびかけ、小作農民の団結を強化して地主とたたかうことを、22日に発表しました。

 当時印南、加占郡各地には小作料減額を要求する動きが伝わり、一触即発の情勢のなかで、日農本部が中島に乗り込んでくるというニュースは大きな反響をおこしました。

 この情報は、地主・当局者らに衝撃をあたえ、あわてさせました。

 地主側は「郡長、警察署長を仲裁に立て、24日夜小作科1割9分減額、および小作側委員に対し、運動費として金一封を提供するという条件で、講演会の中止方を申出ました。

 しかし、28日の講演会は吉田賢一氏らの世話で高砂町相生座に会場を移して開催され、ここに兵庫県下初の日農中島支部が生まれ、小作農民の団結の威力を内外に認識させることになりました。

 日農中島支部発会式は、4月28日午后1時開会、予定された講演会を懇談会に変更し、誕生しました。

 演説会は、労働組合の結成に期待を寄せていた労働者にも多大の関心をよび、会の成功は労働運動、社会運動に大きな影轡をあたえました。

  日農中島支部の結成は、東播地方が近代的な農民組合運動へ足を踏み入れたことを象徴する画期的な出来事になりました。(no5128

 *『東播地方農民運動史(木津力松)』(耕文社)参照

 

 

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東播農民運動史(10) 地主・多木久米次郎

2020-10-15 11:16:09 | 東播農民運動史

             地主・多木久米次郎

 加古郡別府村、多本久米次郎家は、干鰯など魚肥商を主として高利貸付で土地を集積し、明治12年(1879)には12町5反歩を所有しました。

 久米次郎は、農業の肥科利用が魚肥よりも、早期に合成肥料の生産へ、次に化学肥科製造に目をつけました。そして農地514町歩を買い集めて、植民地地主に転身しました。

 大正末期にはそれが1600町歩、小作人1173名をもつ大農場主となり、昭和初期にはさらに小作地2400町歩に拡大して、朝鮮全土で最大の個人農場主となっています。

 農場経営と並行して、多木製肥所が生産する肥料の販路拡大につとめ、農場小作人にも肥料を貰付けては、現物で回収するやり方で収益を高めました。

 朝鮮人小作震民がこれに対して、地主であり資本本家である多木の不法な手段であるとして昭和7年「米殺と肥料の代金返還を要求してたたかい」、警察署を襲撃まで起こして、要求を貫徹したといわれます。

     稲岡九平

 印南郡西志方村、稲岡九平家は、大地主で貸付資本を主としていましたが、姫路木綿の哀退に直面して機敏に本格的な綿織物業に転換し、タオルなど製造工場14、従業員590名を擁する企業家に成功したことが知られています。(no5127

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東播農民運動史(9) 余話として、大地主:近藤亀蔵

2020-10-13 20:32:06 | 東播農民運動史

       余話として、大地主:近藤亀蔵

 北播に近藤亀蔵というとてつもない大地主がいました。余話として紹介しておきましょう。

 ・・・・「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門(かど)通れば後光さす」と、当時の俗謡に歌われている。

 何でも相撲の番づけ表に見立てるのが日本人の好みで、江戸時代大はやりしたが、享保年間(1730年ごろ)に、はじめて「日本長者鑑(かがみ)」という長者番づけが出たとき、東西の両横綱として上げられたのは、東が出羽の本間、財産四十万で、西は播磨の近藤、六十万両であり、近藤家は日本一の大金持ちと折り紙をつけられた。

 寛政元年(1789)、わずか九歳で先代の跡を継いだ亀蔵は、文化、文政、天保へと40年間にわたり、いろいろなことに東奔西走した。

 地主のほかに、回漕業(海運業)をもっとも手広くやり、大坂・兵庫・高砂・下関に倉庫をおいて、全国に船を派遣し、米や雑貨の売買で大もうけをしていました。

 もろん、「当国第一の銀貸し(銀行)」でもありました。

 幕府に相当な献金もしたのだろう、亀蔵という名も大坂城代からもらっています。長蔵というのが元の名である。

 地元の小野藩、一柳(ひとつやなぎ)家の御用金もうけたまわって、とっくに苗字帯刀ご免でした。(『故郷燃える()』神戸新聞社より)・・・・

 小野市の黍田と対岸をつなぐ万歳橋が左岸(東岸)に突き当たるところに豪商・近藤亀蔵の屋敷がありましたが、天保の川筋一揆で一揆衆につぶされました。

 (一揆の)のち、勤王・佐幕の動乱期に、近藤家は亀蔵から文蔵の代になっていたが、倒幕派の急先鋒、長州藩と深く結びつき、その志士たちの活動をひそかに援助すことになりました。(no5126

 *『故郷燃える()』(神戸新聞社)参照

 *写真:近藤邸跡に残る当時の倉庫(万才橋袂にある)

 

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東播農民運動史(8) 地主・大西甚一平(現:加古川市上荘町)

2020-10-12 07:52:07 | 東播農民運動史

   地主・大西甚一平(現:加古川市上荘町

 加古川地方は、綿作の中心地であり、江戸時代の終わりのころ綿作は大いにさかんでした。

 しかし、明治時代に入りしばらくすると質のよい、安価な輸入綿におされ綿作は衰え、 また、明治14年からはじまった松方内閣のデフレ政策により農産物は一気に下落し、土地を手放す農民があいつぎました。

 一方で、これらの土地を集積して、この地方では、多くの大地主が誕生しています。

 特に、加古川地方は小作率(土地のうち小作地のしめる割合)が高く、明治36年の調べであるが、小作率は加古郡が69.7%、印南郡が55.9%でした。

 この数字は、県平均の52.1%と比べて随分比率です。

 前回の復習です。現高砂市の伊藤長次郎は、県内最大の地主で、明治26年(1893)に播磨11郡で田畑456町、宅地6町、山林48町を所有していました。

 見土呂村(現加古川市上荘町)の大西甚一平は、明治25年(1892)、播磨7郡で田畑202町、宅地4町、山林50町を所有し、県内でも五指に入る大地主でした。(no4525

*『加古川市史に読む・わがふるさと国包』(畑偕夫著)参照

*挿絵:地主:大西甚一平のつもり

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東播農民運動史(7) 地主・伊藤長次郎家

2020-10-11 07:46:50 | 東播農民運動史

 中島の農民運動を見る時、今市の伊藤長次郎家を省くことはできません。簡単に伊藤家と時代背景ついて触れておきます。

 *伊藤家は、代々、伊藤長次郎の名を受け継いでいます。

    地主・伊藤長次郎家

 明治初期に伊藤家が、村内で所有した土地面積は、田2反6畝1歩、畑14反4畝15歩、宅地5反歩であったといいます。

 伊藤家先代が、積極的に「土地を買い入れた時期は、明治10年代の初め頃から17、8年頃です。きわめて短期間に517町4反5歩まで買い進めました。

 それまで、干鰯、綿、木綿、さらに米、麦、油、素麺を扱う商人資本であった伊藤家が、大土地を所有するには、二つの理由が考えられます。

 一つは、それまで好況をうたわれてきた姫路木綿の価格が、1877(明治10)年頃から下落し、綿織物などの農村家内工業は衰退したことです。

 農家は、肥料の買入れにも困るようになり、綿作農業は、急速に衰えました。

 もう一つは、明治17年(1884)に米価が暴落し、松方デフレ(注)政策の影響のもとで地租、府県税負担が自作農民に重くのしかかったことです。

 伊藤家は、商人資本であったとともに、高利貸を営業していました。

 利子は、貨幣貸付で10円に対して月20銭、利米は月1斗に付き二合、年利換算いずれも2割4分で、3割6分もあったといいます。

 多くの小農家は、土地を手放さざる状況に追い込まれました。

 (注):松方財政によるデフレーション政策。繭や米の価格などの農産物価格の下落で、農村の窮乏を招きました。このデフレーション政策で体力を持たない農民は、農地を売却し、都市に流入し労働者となったり、自作農から小作農へと転落したりした。一方で、農地の売却が相次いだことで、土地が地主や高利貸しへと集積されていきました。

    伊藤家は銀行資本へも進出

 伊藤家は銀行資本へも飛躍します。

 明治10年(1877)、姫路市に「国立第三十八銀行」が開設されると、伊藤家先代は副頭取、後に頭取となります。

 藩士出身でない伊藤家先代がこの地位を得たのは、蓄積した貨幣資本の実力もありますが、廃藩置県まで一橋家の木綿会所の運営、藩札発行などに協力して、当時から渋沢栄一との密接な関係を最大限に活用したことがあったといわれています。

 「三十八銀行」は、国立から株式会社に変り、増資しながら群小銀行を合併して、後に神戸銀行に統合されています。

 このように、伊藤家は、大商人資本、寄生地主になりました。(no5124

 *『東播地方農民運動史(木津力松著)』(耕文社)参照

 *写真:5代、伊藤長次郎

 

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東播農民運動史(6) 中島の70戸の集落、うち農家は47戸

2020-10-10 07:42:10 | 東播農民運動史

 中島は、兵庫県で最初に日本農民組合の支部が結成された集落です。

 中島・今市を含む農民運動について『東播地方農民運動史(木津力松著)』(写真)に詳しく紹介されていますので、読んでみます。

   中島の70戸の集落、うち農家は47 

 兵庫県で最初に日農(日本農民組合)支部が結成されたのは1922(大正11)月28日、印南郡伊保村中島支部でした。

 当時、中島は、総戸数70戸、うち農家は47戸、非農家が23戸の集落で、農業戸数の大部分をしめる約40戸が小作、自小作と推定されます。

 非農家には地主があり、他方で農業を離れ、日本毛織、三菱製紙、鐘渕紡績に通勤する労働者の多いのが特散でした。

 耕地面積は、田36歩の大半を、近在の大地主・伊藤家(今市)をはじめとする数戸が所有しており、小作地として27.3町歩を貸し付けていました。

 *大地主・伊藤家については、後に説明します。

   耕地規模は1戸平均7反歩

 耕作規模は、1戸平均で約7反歩、農事に精励する篤農家が多い村でした。

 収穫は、平年作で一等田2石78斗、裸麦1石、5、6斗で、小作料は1等田で1石8升5升(68%)、田一級下がるごとに5升引が決められていました。

 大正10年(1921)の秋は、地方一帯が凶作で、中島では反当2石4斗を収穫、「収支計算すれば、一反歩に7円50銭の損失」が出る状態でした。

 それまでから、村では毎年収穫時に作況を検討したうえで、代表(5名)を選んで地主と交渉しましたが、地主は小作料減額を認めても5分程度でした。(no4523

 *『東播地方農民運動史(木津力松著)』(耕文社)参照

 *写真:『東播地方農民運動史』表紙

 

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東播農民運動史(5) 日本農民組合、神戸で誕生

2020-10-09 09:11:26 | 東播農民運動史

       日本農民組合、神戸で誕生

 大正7(1918)年に起きた米騒動は日本の杜会運動動に大きな影響を与えました。

 さらに、第一次世界大戦後のロシア革命の思想的影響もあって多数の労働組合が組織され、同8年には497件ものストライキが起きています。

 並行して、農村においても小作争識件数は年ごとに激増しました。

 小作人組合が組織され、小作人も組合を背景に集団的に要求する形に変わっていきました。

 このような時期に、日本農民組合創立者である賀川豊彦(写真)と杉山元治郎によって設立の準備がすすみ、同11年4月9、神戸キリスト教青年会館において創立大会が開かれました。

 大会議長に杉山が選ばれ、貿川起草の次の綱領が決定されました。

    綱 領

 一、われら農民は知識を養い、技術をみがき、徳性を涵養し、農村生活を享楽し、農村文化の完成を期す。

 一、われらは相互扶助のカにより、相信じ、相より農村文化の向上を期す。

 一、われら農民は、穏健着実合理合法なる方法もって、共同の理想に到達せんことを期す。

以上から考えても、この組織は穏健的であり、地主との協調的な色彩の渡い性格をもっています。が、誕生の意義は大きなものがありました。

   中島(高砂)は、農民組合兵庫支部の最初の支部に

 なお、大会は杉山元治郎を組合長に賀川豊彦ら9人の理事を選出して幕を閉じました。

 このようにして、わが国最初の全国的農民組織が名実ともに発足し、その指導のもとに農民運動が組織的に展開するようになりました。

 この日本農民組合設立後、兵庫県下において最初の支部が中島において組織されたのです。大正(1922)11月4日のことでした。(no5122

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東播農民運動史(4) 東播は、飛び抜けて小作の多い地域

2020-10-08 11:07:37 | 東播農民運動史

         東播は、飛び抜けて小作の多い地域

 やがて、江戸幕府は終わり、日本は開国をします。

 それに伴い、機械紡績が始まりました。

 安い外国綿がどっと輸入されるようになり、国内の綿生産の衰退は決定的となりました。

 明治10年代になると神戸港の輸入品は綿糸・綿花・石油でした。

 特に、イギリス綿糸やインド綿花の輸入が激増しています。

 東播の貧しい農民に、貧困がひろがりました。そのため多くの農民は、田畑を手放します。

 いっぽう、木綿問屋など村の富農層は、土地を集め、いっそう経営規模を拡大させました。

 この傾向は、明治になりますます広がります。

 明治14年のようすを見ておきます。

 兵庫県下の平均小作率は44.5%と高率でしたが、加古郡は55%、印南郡は53%と綿作のさかんな両郡とも県平均をはるかに上回る小作率でした。

 見土呂の大西家を例にすると、天保7(1836)木綿取締役に就任してから、以前にもまして経営規模を拡大させ、毎年2~3万反の綿布を取り扱っていたようです。

 加古郡・印南郡の小作率は、県下でも飛びぬけて高い地域でした。

 やがて、小作の怒りは小作争議として爆発しました。

 少し時代は飛びます。

 日清戦争・日露戦争を経て第一次世界大戦後ますます小作争議が頻発します。

 これはこの頃、工業化がすすみ、工業労働者との接触と啓発がありました。 (no5121) 

  *地図:赤い境界の左(印南郡)、右(加古郡)

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