中島の農民運動を見る時、今市の伊藤長次郎家を省くことはできません。簡単に伊藤家と時代背景ついて触れておきます。
*伊藤家は、代々、伊藤長次郎の名を受け継いでいます。
地主・伊藤長次郎家
明治初期に伊藤家が、村内で所有した土地面積は、田2反6畝1歩、畑14反4畝15歩、宅地5反歩であったといいます。
伊藤家先代が、積極的に「土地を買い入れた時期は、明治10年代の初め頃から17、8年頃です。きわめて短期間に517町4反5歩まで買い進めました。
それまで、干鰯、綿、木綿、さらに米、麦、油、素麺を扱う商人資本であった伊藤家が、大土地を所有するには、二つの理由が考えられます。
一つは、それまで好況をうたわれてきた姫路木綿の価格が、1877(明治10)年頃から下落し、綿織物などの農村家内工業は衰退したことです。
農家は、肥料の買入れにも困るようになり、綿作農業は、急速に衰えました。
もう一つは、明治17年(1884)に米価が暴落し、松方デフレ(注)政策の影響のもとで地租、府県税負担が自作農民に重くのしかかったことです。
伊藤家は、商人資本であったとともに、高利貸を営業していました。
利子は、貨幣貸付で10円に対して月20銭、利米は月1斗に付き二合、年利換算いずれも2割4分で、3割6分もあったといいます。
多くの小農家は、土地を手放さざる状況に追い込まれました。
(注):松方財政によるデフレーション政策。繭や米の価格などの農産物価格の下落で、農村の窮乏を招きました。このデフレーション政策で体力を持たない農民は、農地を売却し、都市に流入し労働者となったり、自作農から小作農へと転落したりした。一方で、農地の売却が相次いだことで、土地が地主や高利貸しへと集積されていきました。
伊藤家は銀行資本へも進出
伊藤家は銀行資本へも飛躍します。
明治10年(1877)、姫路市に「国立第三十八銀行」が開設されると、伊藤家先代は副頭取、後に頭取となります。
藩士出身でない伊藤家先代がこの地位を得たのは、蓄積した貨幣資本の実力もありますが、廃藩置県まで一橋家の木綿会所の運営、藩札発行などに協力して、当時から渋沢栄一との密接な関係を最大限に活用したことがあったといわれています。
「三十八銀行」は、国立から株式会社に変り、増資しながら群小銀行を合併して、後に神戸銀行に統合されています。
このように、伊藤家は、大商人資本、寄生地主になりました。(no5124)
*『東播地方農民運動史(木津力松著)』(耕文社)参照
*写真:5代、伊藤長次郎