ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

ヤマト・タケル物語(16):タケル論争

2010-12-02 09:48:12 | ヤマトタケル

20100919144525_1_2 「ヤマト・タケル論争」が突如出現しました。

 ことのおこりは、1980年12月、加古川駅前に加古川市のシンボルとして、日本武尊(ヤマト・タケル)像の建立計画があることを「神戸新聞」(12月6日付)が報じたことでした。

 加古川商工会議所が中心となり、この計画は進められていました。翌、81年9月には商工会議所内に「日本武尊銅像建立奉賛会」がつくられました。

 これに対して、教員組合・高等学校教員組合・「明るい加古川市をつくる市民の会」など8団体が中心になり「加古川駅前の日本武尊建立に反対する会」が結成されました。

 反対の主な理由は、次のようでした。

 戦前の教科書などで、日本武尊(ヤマト・タケル)は戦争に駆り立てる役割を果した。

② 実在するかのような説明は、歴史を歪曲するものである。

③ 加古川駅前という公共の場所が、市民の合意もえずに建設されるのは民主的

  でない。

④ 駅前には、平和をイメージする明るいものを選ぶべきである。

 12月4日、加古川勤労会館で開かれた反対集会には高名な歴史家・直木考次郎氏(故人)も駆けつけました。

 この頃から、マスコミも「今、なぜヤマト・タケルか?」と銅像建設反対の論調が目立つようになりました。

 このような世論の高まりで、加古川市議会は「建立反対」「反対」の議案を継続審議としました。

 その後も反対の声が高まり、銅像建立の声は少なくなりました。

 追い討ちをかけるように、建設推進の中心になっておられたO氏が亡くなられ、やがてヤマト・タケルが駅前に建立される計画は、立ち消えとなったのです。

*写真:金沢兼六公園のヤマト・タケル像

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ヤマト・タケル物語(15):風土記とヤマト・タケル

2010-12-01 00:10:34 | ヤマトタケル

『古事記』(集英社)の著者・田辺聖子さんは、ヤマト・タケルについて次のように書かれています。

・・・

ヤマト・タケルの物語は、さながらギリシャ神話の、ペリセウスやオデッセウスの面影の片鱗がある。

恋と冒険に満ちた英雄の生涯を、古代の日本人はどのようにして、つくりあげたのだろう。

・・・

古事記・日本書紀に書かれたヤマト・タケルは、まさに物語のクライマックスに登場します。

 

『風土記』にヤマト・タケルが登場しない!

7695282_2 それほどの人物なのですから、ほとんど時を同じくして書かれた『播磨風土記』に登場しないわけがありません。

不思議なことに『播磨風土記』のどこにもヤマト・タケルの姿はありません。

あるのは、ヤマト・タケルのお母さんとお父さん・景行天皇の愛の物語ばかりです。

これは何を物語るのでしょうか。

『播磨風土記』の研究家である、岩坂純一郎氏は『東播磨の歴史1・古代』(神戸新聞出版センター)で、「・・・ヤマト・タケルがなぜ地元で編集された風土記に登場しないのかを考察することは重要です。

私の認識不足かも知れませんが、これまで『播磨風土記』にヤマト・タケルが登場していないことに疑問を抱かれた研究はほとんどありません。

・・・・『播磨風土記』にヤマト・タケルが登場していない理由を考えていくこともこれからの課題の一つとして問題提起をさせていただきます」と書かれています。

 私は、「よく非常に独断的な意見を言う」とおしかりを受けますが、あえて、書かせていただきます。

「風土記がまとめられた時代、加古川地方にはヤマト・タケルの話はなかったのではないか・・・ないものは書けないという訳です。

ギリシャ神話に登場するような英雄が加古川に誕生したという物語は痛快な話のですが、ヤマト・タケルの話は地元にはなかったのではないかと想像するのです」

こんなこと書くのは、少々気が重い・・・

写真:武人の埴輪、記事とは直接関係がありませんが、ヤマト・タケルの姿が想像されます。

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ヤマト・タケル物語(14): 松原の御井

2010-11-30 08:10:33 | ヤマトタケル

『播磨風土記』にはこんな話もあります。

・・・別嬢(ヤマト・タケルのお母さん)は、やがて亡くなり、(景行)天皇との幸せな生活は長く続きませんでした。

天皇は、悲しみのあまり病気になり、新しいお住まいを賀古の松原(かこのまつばら)につくられ、お住まいになりました。

ある人が、ここに冷たい清水を掘り出しました。

そのため、これを松原の御井(まつばらのみい)と言いました。・・・

 

松原の御井(まつばらのみい)?

B159a704 40年ほど前のことです。この場所を訪ねたのを覚えています。

場所は、国道250号線(浜街道)の相生橋の手前と加古川河口の中間より少し橋よりでした。

堤防を越えれば加古川の河口で、すぐ海に出るところでした。

「風土記がつくられたころは、海浜に近いところできれいな水が湧き出していたのかもしれない」という想像ができる場所でした。

そして、この水は尾上神社の神事に使われていたといいます。

昔の記憶をたどり、この場所を訪ねましたが、それらしき場所は見つけることができませんでした。

確かめてみると、そこは宅地になり「松原の御井」はもう少し南東に移動して保存されているとのことでした。

地図を片手に、そこを訪ねたのですがわかりません。

394 それもそのはずです。歩きまわっていると偶然に工場の裏で、河口に近いところに偶然「松原の御井」(写真下)を発見しました。

人が立ち寄る場所ではありません。

もちろん形は井戸で、立派な屋根もつくられ、風土記の説明もありました。

「風土記にある場所なので、しかたなく、義務としてこしらえた」という感じでした。

そこは、風土記のロマンのかけらも感じることはできない無機質な場所でした。

*写真上:元の松原の御井

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ヤマト・タケル物語(13): 印南別嬢・稲日大郎姫

2010-11-29 07:00:35 | ヤマトタケル

  記紀にヤマト・タケルをみてきました。

それでは、『播磨風土記』には、どのように描かれているのでしょうか。

まず、ヤマト・タケルのお母さんの話を風土記にみてみましょう。

 ヤマト・タケルのお母さんさんの名前は、古事記では印南別嬢(わきいらつめ)、日本書紀では稲日大郎姫として登場しますが同一人物です。

印南別嬢(いなみのわきいらつめ)

稲日大郎姫(いなひのおおいらつめ)

Aa8a0ec6 ・・・奈良の都から一人の役人に派遣されてきました。

この役人は土地の女性と結ばれ、女の子をもうけました。

名を印南別嬢(いなびのわきいらつめ)と言い、他に比べる者もいない、美しい女性に成長しました。

噂は時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、別嬢を妻に迎えるために、この地にやって来ることになりました。

別嬢は、天皇の妻問い(つまどい)を知って、息がつまりそうな胸苦しさを覚え、どうしてよいのか分からないままに「ナビツマの島」に隠れました。

加古の松原についた帝(みかど)は、別嬢を探します。

土地の者は誰も答えようとしません。

その時でした。島に向かって白い犬が寂しそうに、鳴いていました。

天皇は尋ねました。

土地の人は、答えないわけにいかず、「あれは別嬢の犬です・・・」と答えました。

島に渡り、別嬢と会うことができ、幸せな生活をおくりました。

・・・

やがて、別嬢は亡くなります。別嬢は日岡山に葬られることになりました。

ところが、なんとしたことか、遺骸が加古川を渡る時、突如としてつむじ風がおこり、たちまちのうちに川にのみ込まれてしまったのです。

後には、櫛(くし)と「ひれ」(天女が背からかけている布)が見つかっただけでした。そのために、その櫛と「ひれ」が御陵に葬られました。

そのため、日岡御陵は「ひれ墓」とも呼ばれています。

こんな物語が『播磨風土記』で語られています。

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ヤマト・タケル物語(12): 同はん鏡が語ること

2010-11-28 00:08:25 | ヤマトタケル

鏡(同はん鏡)が語ること

A33db7aa  写真は、東車塚古墳出土の「三角縁神獣鏡」(さんかくぶちしんじゅうきょう)です。

東車塚出土の鏡は、「同笵鏡(どうはんきょう)」(以下「同はん鏡」とします)です。

聞きなれない言葉ですが、同じ鋳型からつくられた鏡のことです。

ですから、「同はん鏡」は一枚ではありません。

この「同はん鏡」について歴史家は、「同はん鏡は、有力な豪族が、同盟を結んだ印として他の豪族に与えた鏡である」と考えています。

したがって、「同はん鏡」の分布の範囲を知ることにより、当時の勢力関係が分かると言うのです。

東車塚古墳から出土した「同はん鏡」は、大和(奈良)地方の豪族と同盟関係にあったことが分かりました。

日岡山の古墳の多くは4世紀古墳です。

ということは、4世紀に加古川地方の豪族は、すでに大和の豪族と同盟関係を持っていたことになります。

 日岡豪族にとって、大和の豪族と同盟を結ぶ必要がありました。

加古川地方は、畿内と畿外との接点に位置していました。

つまり、西には吉備地方・出雲地方の豪族が勢力を持っています。

東は、もちろん大和の豪族です。

加古川地方の豪族が、吉備地方の豪族から攻撃を受けた時、自らを防衛するために大和から応援を求める必要がありました。

また、自らの地位を高める、ため大和の豪族と同盟を結んだとも考えられます。

 大和王権にとって、加古川地方は、吉備(岡山)地方との最前線基地でした。

大和の豪族にとって加古川地方が、吉備(岡山地方)と同盟を結ぶことは大問題です。加古川地方を重要な拠点と考えたのは当然です。

そんな、大和地方と加古川地方の濃密な関係が、私たちの地域に天皇の話を誕生させたのでしょう。

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ヤマト・タケル物語(11) : 亥巳籠(おいごもり)

2010-11-27 08:29:01 | ヤマトタケル

 

亥巳籠(おいごもり)

Fda9acd9 きょうは、日岡神社に伝わる伝統行事を紹介しましょう。

先日、日岡神社でいただいたパンフレットから引用します。

(少し、文章を変えています)

(亥巳籠は)一般に「おいごもり」と呼ばれ、旧正月後の最初の亥の日~巳の日まで籠るので「亥巳籠」と言われています。

ヤマト・タケルのお母さん(稲日大郎姫命・いなひおおいらつめのみこと)は、双子の皇子をご出産されました。

亥巳籠は、その時、安産されるように黙祷(もくとう)した状態を後世に伝えたものだといわれています。

(写真上:神社では本殿の扉を榊で囲い、しめ縄を張り、鈴を柱に結えていっさいの音を禁じています)

593620b3_2  また、この期間中に安産のお参りの方へのご供養をつくったり、頭人を決めたり、氏子や地域のための平和と繁栄を祈ったりします。

(写真下:ご祈祷に授与するご神供つくりのようす)

亥巳籠が明ける最初の午の日、的射(まとい)の神事が行われます。

日岡神社は、安産の神様としてよく知られていますが、ヤマト・タケルの出産と関係しているのですね。

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ヤマト・タケル物語(10) : 倭 VS 日本 

2010-11-26 00:10:36 | ヤマトタケル

 

 倭 VS 日本

460c58c4_2  「ヤマト・タケル物語」の最初に、“・・・彼は『古事記』では倭建命として、『日本書紀』では日本武尊として登場します。

ともに「やまとたけるのみこと」と読ませています。

そのため、ここでは片仮名で、ヤマト・タケルとして話を進めさせていただきます“と書きました。

倭と日本について少し調べておきましょう。

日本という国名が決まったのは、大方の学者が認めるところでは689年といわれています。

この年に、浄御原令(きよみはらりょう)という法律が施行されています。

浄御原令は、天武天皇が編纂を開始して、死後その皇后の持統天皇が施行しました。

702年、中国大陸に到着した遣唐使の粟田真人(あわだのまひと)が、皇帝に対して「日本」の使者であると述べています。

これが、対外的に「日本」の国号が使われた最初だといわれています。

すこし、横道にそれますが、聖徳太子は日本人ではありません。

 聖徳太子(574622)の生きた時代の日本は「倭」で、聖徳太子は倭人でありまだ日本人ではありません。

『古事記』・『日本書紀』は、天武・持統天皇のころに編纂がはじまっています。

ちょうど国号が倭から日本に切り替わる時期です。

『古事記』が完成するのは712年で、古事記では「日本」という国号は、かたくなまでに使っていません。

それに対して、720年に成った『日本書紀』には「日本」が使用されています。

「日本」という国号をめぐって記紀は全く背を向けています。

建命と日本武尊の呼称の裏には何かの事情があったようです。

単なる成立時期の違いによるものでしょうか。

それとも、何らかの歴史(権力闘争)があったのでしょうか。

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ヤマト・タケル物語(9) ・ 石のたらい

2010-11-25 00:06:07 | ヤマトタケル

 石のたらい

3d51c370_2  昨日、Oさんとお話をしていました。

話題が、ブログの「ヤマト・タケル物語」になり、もう少しヤマト・タケルについて知りたいとのことでした。

「ヤマト・タケル物語」をもう少し続けます。

若干重複するヵ所がありますが、お許しください。

ヤマト・タケルこそ大和朝廷の日本統一に大きな役割をはたしたと伝えられている英雄です。

『古事記』と『日本書紀』によってヤマト・タケルの生涯をおってみました。

繰り返します。

彼は、加古川市付近に生まれたと伝えられています。

第十二代 景行天皇(けいこうてんのう)を父として、母はこの地方出身の稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)でした。

ヤマト・タケルは双子の弟であり、幼名を小碓命(おうすのみこと)と呼ばれました。

もちろん、ヤマト・タケルの物語は、伝承です。

しかし、加古川から日本統一にかかわった英雄が登場しているのは愉快なことです。

写真は、ヤマト・タケル兄弟が産湯(うぶゆ)を使ったと伝えている石のタライです。

「石のたらい」のある場所は、加古川町美乃利の住宅地の一角です。

それにしても、この「石のたらい」は何であったのか分かっていません。

この「石のたらい」は、昔、近くの田の中にあったそうです。

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ヤマト・タケル物語(8):ヤマト・タケルが語ること

2010-11-24 00:07:09 | ヤマトタケル

 最近は、神話が語られることも少なくなりましたが、ヤマト・タケル物語はいかがでしたか。

 加古川誕生の古代の英雄です。おもしろさも倍増します。

でも、神話であることを頭の隅においてお読みください。

ヤマト・タケルの語ることを考えてみましょう。

いろいろと想像できるのですが、ここでは、次のように考えておきます。

 ヤマト・タケルの物語ること

99bd248b 「ヤマト・タケルは好きになれない」という人も多かったのではないかとも想像します。

というのは、クマソ・タケルやイズモ・タケルを征伐するときに「だましうち」にしているからです。

ここで、少し断っておかなければなりません。

古代においては「ダマす(謀る)」ということは悪いことではなく、ダマされる者が、それを見抜くことができなかった愚か者と考えられていたようです。

つまり、ダマす(謀る)ことは、知恵(科学)の芽生えなのかもしれません。

先を急ぎます。

この物語には、やたら「タケル」という人物が登場しました。

「タケル」というのは勇者という意味です。

ですから、ヤマト・タケルというのは大和の勇者ということです。

「タケル」という人は、大和に従わない地方の豪族の中にもたくさんいました。

この物語は、四世紀の後半から五世紀の初めのころを中心としていると思われますが、この時期は、地方にも軍事組織である「健部(たけるべ)」が存在しています。

そして、なお不思議なことに、その土地の多くは鉄の産地なのです。

こんな事実から考えると、ヤマト・タケルの物語は、地方のタケル(地方豪族)との戦いであり、それも鉄の産する地方を支配しようとする物語なのかもしれません。

それがいつしかヤマト・タケル一人の物語をして描かれていったのでしょう。

もう少し、ヤマト・タケルの語ることを続けることにします。

 注:図の太線は古事記によるヤマト・タケルの征服コース、細線は日本書紀の記す征服コース

 

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ヤマト・タケル物語(7):タケル白鳥に

2010-11-23 00:09:12 | ヤマトタケル

タケル白鳥に

9ce33f3e_2 大和に帰ろうとします。

 オトタチバナヒメのことが忘ら れません。

しかし、悲しんでいるばかりおれません。

甲斐の国(今の山梨県)を過ぎ、信濃(今の長野県)に入り、そこにはびこっている悪者を従え、尾張の国(今の愛知県)に帰りつきました。

そこには、結婚の約束をしたミヤズヒメが待っていました。

姫の顔はなぜかさえません。

「本当に長い年月を待っていたので、とうとう病気になってしまいました・・・・」と答えるばかりでいた。

タケルは、剣をミヤズヒメに預けて伊吹山の賊を征伐に出かけました。

「この山の神(賊)ぐらい素手でも捻りつぶしてやるぞ・・・」と山を登って行くと、白い大きなイノシシが現れました。

気にもとめず、さらに登りつづけました。

このイノシシこそ、山の神が姿を変えて現れていたのです。

やがて、枝葉が折れるばかりの雹(ひょう)が降ってきました。

「苦しい(寒い)・・・どうすればいいのか・・・・」タケルは歯を食いしばり、山を下り、やっと正気に戻りました。

タケルの旅はさらに続きます。

ある村にたどり着いた時でした。

「ああ・・・私の足はこんなに三重に曲がってしまった。もう歩けない・・・」とつぶやくのでした。

そのため、その地を三重(今の三重県)と呼ぶようになったといいます。

それでも我慢して能煩野(のぼの)の野登山(ののぼりやま)というところまでたどり着きました。

そこからはあの懐かしい大和の地が見えます。

  大和は 国のまほろば

  たたなづく 青垣

  山ごもれる 大和しうるはし

タケルは、この歌を歌い終わると、力つき息を引き取りました。

皆が泣き悲しんでいる時でした。

一羽の白鳥が、海岸の方へ飛んでいくでは、ありませんか。

タケルの魂が白鳥になり、大空に舞い上がったのです。

王子たちは、どこまでも、どこまでも追いかけて行ったといいます。

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ヤマト・タケル物語(6):オトタチバナヒメ

2010-11-22 00:18:21 | ヤマトタケル

オトタチバナヒメ

Bc9a740b  相模で敵をたおしたタケルは、さらに東へ進み、走水(はしりみず)に着き、対岸の上総(かずさ・今の千葉県の南部)に渡ろうとしました。

が、海は大荒れになりました。

舟は木の葉のように揺れ、今にもしずみそうになりました。

その時です。

タケルに従っていた弟橘姫(オトタチバナヒメ)が、「・・・これはきっと海神のたたりです。

私がタケル様の身代わりになって、海神の怒りを鎮めましょう。

どうか、帝の命令を成し遂げられ、無事に大和にお帰りください・・・」と海に菅(すげ)の畳を八枚、皮の畳八枚、それに絹の畳八枚を重ねて海面に敷き、それに飛び乗りました。

大波は、美しい姫をたちまちにのみ込んでしまいました。

海は、嘘のように静まり、タケルは上総に向かって進むことができました。

タケルが上総に上陸して七日目でした。

海岸にオトタチバナヒメの櫛が流れ着きました。

上総では、大和に従わない者どもを征服しました。

この大任をはたしたタケルは懐かしい大和へ帰ろうとしました。

 だが・・・・

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ヤマト・タケル物語(5):タケル東国へ

2010-11-21 09:47:19 | ヤマトタケル

タケル東国へ

1d83f90f  イズモ・タケルを征伐して大和に帰ってきたとおもうや、父・景行天皇は、こんどは「東の方にらんぼうな、大和に従わない悪者がいる。

それらを、従えて参れ・・・」とタケルに命令するのでした。

タケルは東国への途中、伊勢の叔母のヤマトヒメを訪ね別れの挨拶をしました。

なぜか、悲しくなり「帝(父・景行天皇)は、 東国を征服してまいれ、とおっしゃいました。

私は、どうなってもよいとお考えなのでしょうか・・・」とヤマトヒメに泣き崩れるのでした。

ヤマトヒメは「もしものことがあったら・・・」と、剣と袋を与え、やさしくタケルを慰めました。

タケルは尾張(愛知県)の長官・ミヤズヒメの館にとまり、結婚の約束をして、さらに東へと進みました。

やがて、相模(静岡県)に着きました。その国の長は、うまくタケルをだまし殺してしまおうと嘘を言ったのです。

「・・・あの広い野中に、大きな沼があります。そこに人々を苦しめる悪い神が住んでいます。

どうか、平らげてください・・・・」と。

それを信じたタケルは、その野に出かけました。

背丈ほどの枯れた草が伸びていました。しばらくするとパチパチ・・・というカヤの燃える音がしました。

やがて、青い炎・・・

「おや・・」と思ったときは、すでに火に囲まれ、次第にタケルにせまってきました。

その瞬間、叔母のヤマトヒメからもらった袋のことを思い出しました。

開いてみると、火打石がでてきました。

タケルは、剣を抜き、枯れた草をサッ~と切り倒し、その火打石で火をつけました。

すると、どうしたことか、たちまちに風向きが逆になり、火も反対に燃え広がっていくではありませんか。

敵は逃げることができず、家もろとも焼き払われてしまいました。

それ以来、その場所は「焼津(やいづ)」と呼ぶようになったということです。

 

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ヤマト・タケル物語(4):イズモ・タケル

2010-11-20 08:00:14 | ヤマトタケル

イズモ・タケル

903a1e6a  出雲(いずも)の国は歴史も古く、大和の国にも決して劣らない、誇り高い国でした。

ヤマト・タケルにとって出雲の国の主、イズモ・タケルはいつか戦わなければならない大敵でした。

 クマソ・タケルを征伐したものの、大和をでる時にいた供の勇ましい兵(つわもの)も半分ほどになり、剣も度重なる戦でボロボロになってしまいました。

このままでは、イズモ・タケルを倒すことはできそうにもありません。

それに、出雲は立派な剣が作られているところですから、なおさらのことです。

ヤマト・タケルは「されど、イズモ・タケルに勝たねばならない・・・」とつぶやくのでした。

「そうだ、謀(はかりごと)を使おう・・・まず、イズモ・タケルを味方と思わせることだ・・・」

こう考えたヤマト・タケルは、さっそくイズモ・タケルの館を訪ねました。

館の美しいこと、豊かな稲の稔のことを誉めたたえました。

「オロチ退治のあった肥の川(ひのかわ)に案内してもらえないか・・・」「お望みとあれば・・・」

二人は肥の川にでかけました。その景色は、なるほど素晴らしいものでした。

ヤマト・タケルは言うのでした。

「このあたりで水浴びをしようではありませんか・・・・」

安心したイズモ・タケルは、一緒に汗を流しましたが、これが謀だったのです。

先に水から上がったヤマト・タケルは前もって用意していた木で作った剣をイズモ・タケルの剣と取り替えました。

そして、イズモ・タケルを待ちました。

やがて、自ら上がったイズモ・タケルに言いました。

「あなたは、出雲で一番の勇者。ひとつ、勝負をしようではありませんか」

イズモ・タケルは「私に勝てる者はあるものか・・・」と剣を抜こうとしました。

ところが抜けません。

ヤマト・タケルは、イズモ・タケルをなんなくやっつけることができました。

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ヤマト・タケル物語(3):熊襲征伐へ

2010-11-19 00:11:57 | ヤマトタケル

熊襲征伐へ 

9c9ce38e_2   それでは、ヤマトタケルとはどんな人物なのでしょうか。

この物語は、小碓命(オウスノミコト)が父・景行天皇の命令を裏切った兄・大碓命(おおうすのみこと)を便所に入いるところを捕まえて、殺してしまったところから始めます。

 兄はオオウスノミコト、弟はオウスノミコトです。間違わないようにしてください。

 

 天皇はこの話を聞いてビックリ、「こんな気性の荒いミコトを傍においていては、どんなことがおこるかもしれない」と思い、「お前は、西の果ての九州に悪い熊襲がいる。

これから出かけて征服してまいれ・・・」と命じました。

 オウスノミコトは、伊勢の叔母のヤマトヒメのところにお別れに行くと、女性の衣装と剣をくださいました。

ミコトは、日を重ねて、熊襲の住む九州に着きました。

その時、熊襲は新しくできた館のお祝いの準備のまっ最中でした。

 いよいよ、お祝いの日になりました。

 ミコトは、ヤマトヒメからもらった衣装を身につけ、乙女の姿に変装して宴会の出入りする女たちに混じって、首尾よくクマソ・タケルの館に入りこむことができました。

 それとも知らず、クマソ・タケル兄弟は(ヤマト)タケルを傍に座らせ、やがて歌が始まりました。

 宴会も最高潮に達したときでした。

 (ヤマト)タケルは、まず兄のクマソ・タケルを一突きにし、そして逃げる弟のタケルの背中をつかむや剣を突きさしました。

弟のタケルは、苦しい息の下から「あなたはどなた様でしょうか・・・」と尋ねるので、ミコトは、「私はヤマトのミコトで、お前たちを征伐に来たのだ・・・」と名のると、彼は、「私より強いあなた様に私の名前・タケルをさしあげたい。

今日からあなたは、ヤマト・タケルと名にのりなさい・・・」と言うのでした。

 それを聞くや、ミコトはクマソ・タケルの弟を見事に切り殺し、これよりミコトは「ヤマト・タケル」と名のるようになりました。

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ヤマト・タケル物語(2):ヤマト・タケル加古川に誕生

2010-11-18 00:09:45 | ヤマトタケル

ヤマト・タケル加古川に誕生

053  NHKから出版された『古代史のなぞに挑む(一)』でヤマト・タケルを取り上げています。

 ・・・その昔、日本にひとりの英雄が登場した。

それは今からおよそ1600年前、日本の歴史の中でももっとも多くの謎に包まれている4世紀のことといわれている。

その英雄こそ大和朝廷の日本統一に大きな役割をはたしたと伝えられているヤマト・タケルである。

『古事記』と『日本書紀』によってヤマト・タケルの一生をおってみよう。

彼は、播磨・現在の兵庫県加古川市付近に生まれたと伝えられている。

第12代、景行天皇を父として、母はこの地出身の稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)であった。(日岡山御稜が彼女の墓と伝えられている)

ヤマト・タケルは、双子の兄弟であり、幼名を小碓(おうすのみこと)と名のった・・・

 

 もちろん、この物語は事実を物語るものではありませんが、私たちの地域から日本統一にかかわった英雄が登場しているのは愉快なことではありませんか・・・

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