「大野探検」をダラダラまとめていました。前号で終える予定でした。
読み返してみるとなんと大野の歴史では抜かすことのできない「江戸時代の大庄屋・荒木弥一右衛門』がありませんでした。急遽つけ加えました。
大野探検は「大庄屋・荒木弥一右衛門」で終わりとします。
大庄屋・荒木弥一右衛門
江戸時代、各村には村を治める庄屋が置かれていました。
大庄屋は、それらの庄屋をまとめる庄屋です。
つまり、庄屋の中の庄屋という性格を持ち、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいました。
庄屋と違い、大庄屋は苗字・帯刀を許され、農民の代表と言うより、藩(姫路藩)の役人的な性格をもっていました。
荒木弥一右衛門は、文化7年(1810)大庄屋を命じられ、明治4年の廃藩置県まで続きました。
大野組は、他の「組」よりも大きな組でした。
文政10年(1827)には、さらに岡組(稲美町)の20ヵ村も兼ね、およそ50ヵ村を治める、とてつもない、大きな大庄屋になりました。
なお、荒木家には「荒木家文書」として、多くの貴重な文書(記録)が残されています(no5159)
*図は「加古郡大庄屋の組み分け図」(『近世加古川の村絵図・庄屋の暮らし』より)・