ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町大野探検(55) 大庄屋・荒木弥一右衛門

2021-08-02 07:29:56 | 加古川町大野探検

 「大野探検」をダラダラまとめていました。前号で終える予定でした。

 読み返してみるとなんと大野の歴史では抜かすことのできない「江戸時代の大庄屋・荒木弥一右衛門』がありませんでした。急遽つけ加えました。

 大野探検は「大庄屋・荒木弥一右衛門」で終わりとします。

   大庄屋・荒木弥一右衛門

 江戸時代、各村には村を治める庄屋が置かれていました。

 大庄屋は、それらの庄屋をまとめる庄屋です。

 つまり、庄屋の中の庄屋という性格を持ち、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいました。

 庄屋と違い、大庄屋は苗字・帯刀を許され、農民の代表と言うより、藩(姫路藩)の役人的な性格をもっていました。

 荒木弥一右衛門は、文化7年(1810)大庄屋を命じられ、明治4年の廃藩置県まで続きました。

 大野組は、他の「組」よりも大きな組でした。

 文政10年(1827)には、さらに岡組(稲美町)の20ヵ村も兼ね、およそ50ヵ村を治める、とてつもない、大きな大庄屋になりました。

 なお、荒木家には「荒木家文書」として、多くの貴重な文書(記録)が残されています(no5159)

 *図は「加古郡大庄屋の組み分け図」(『近世加古川の村絵図・庄屋の暮らし』より)・

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加古川町大野探検(54) 最近の大野(大野・加古川駅付近の洪水)の洪水

2021-08-01 11:38:08 | 加古川町大野探検

  最近の大野(大野・加古川駅付近の洪水)の洪水

  大雨の時、加古川の水位は高くなります。

 そんな時は、加古川支流の水が本流に流れ込めなくなります。このような時は、「強制的』に本流へ排水する必要があります。

 このような理由で曇り川と本流の合流点に、排水機場が1964年に設定されました。

 それでも、排水は充分ではありませんでした。

 曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けれたという説まであります。

 しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となりました。

 排水機場の排水能力を超えました。

 水の行き場がなくなります。

 曇り川の濁流は、曇り川が加古川に突き当たる加古川の水門辺りから流れを南へ変え、大野・加古川・そして海岸部へと押し寄せ、水害(写真:1961年の加古川駅前の洪水)をおこしました。

 近年の加古川の水害史のパターンは、ほとんどこのようにして起きています。

 そのため、2016年、別府川が大野まで延長される改修工事が行われました。(no5158

*『地理総合の授業を創る(井田仁康編著)』(明治図書)参照

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加古川町大野探検(53) 神野倉庫(2)・神野倉庫解体

2021-07-31 06:56:56 | 加古川町大野探検

この文章は2007210日の「ひろかずのブログ」に書いた文章を少し書き直したものです。

      神野倉庫解体

 2007年、加古川市加古川町大野にある旧陸軍神野弾薬倉庫の解体作業がほぼ終わりました。

 この戦争遺跡は、やがて取り壊されるとは聞いていましたが、解体作業がはじまっているのを知ったのは1月の中旬でした。

 さっそく、写真を撮りに出かけました。

 旧神野弾薬庫は、昭和12(1932)頃に建設され、戦後は加古川刑務所が建てられました。

 終戦で不要となった弾薬庫や工場(現在の計務余と日岡公園の間)など9棟が放置されたままになっていました。

 地元の「旧陸軍神野弾薬庫等の戦争遺跡保存会」等が建設の「戦争遺跡」として保存を求めてましたが、傷みがひどく保存は難しい状態でした。

 加古川市は、日岡公園の駐車場としてこの3万9千平方メートルの土地を3億2100万円で買収し、そして、解体作業を始めました。

 1月半ば頃、工事は急ピッチで進んでいました。

 弾薬倉庫は、老朽化が進み、解体もやむおえない面もあるのですが、加古川市から戦争の証がまたひとつ消えました。戦争の風化がどんどん進んでいます。

 写真は上から、いずれも一部ですが、解体が進む倉庫・解体直前の倉庫・解体直前の倉庫の内部です。(no5157

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加古川町大野探検(52) 神野倉庫(1)・もと、加古川刑務所は弾薬庫(神野倉庫)

2021-07-30 15:43:31 | 加古川町大野探検

 写真は、加古川刑務所で、所在地は、加古川市加古川町大野1530番地です。

 ですから、「大野探検」で刑務所について簡単に述べておきましょう。

    もと、加古川刑務所は弾薬庫(神野倉庫) 

 戦前・戦中、ここは陸軍の弾薬庫であり、航空用爆弾に火薬をつめる作業を行っていました。

 「B52」の爆撃機の本土空襲が激しくなった頃、神野倉庫が空襲を受けると大惨事となることが予想されたので、新井用水沿いや日岡山公園周辺に横穴の壕を多数掘って、火薬・弾薬を隠していました。

 『水足誌』(水足史誌編纂委員会)に、次のような記述があります。読んでおきましょう。

 「・・・・大野山周辺、新井川の高い斜面に横穴を掘って火薬を隠したり、北浦の新田の畦や空き地に300キロ、500キロの爆弾が数個ゴロゴロと、ころがされてムシロで覆われており、兵隊が時々見回ってくる状態になった。

 もしこんな所へ敵機の爆弾が落ちようものなら、水足村など一瞬にケシとぶのではないかとヒヤヒヤしたものである。

 戦後どこへ運び去られたか知らないが、海へ投棄されたとも噂された。

 横穴に残った火薬が地下水で溶けて長い間、新井用水の水が黄色く染まって流れていたことは当時の人々の記憶に生々しいことである・・・」

 終戦後、跡地利用にはいろいろな案がでたが、1948年(昭和23)に刑務所が建設された。(no5156

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加古川町大野探検(51) 常楽寺の石造物(6)・太鼓橋

2021-07-29 11:10:47 | 加古川町大野探検

    太鼓橋
 『大野史誌』は、太鼓橋の説明を次のように書いています。
 ・・・・この橋は常楽寺を流れる新井用水路に架かっていたが、日岡山公園道路の新設に伴って不要となり、本堂東の霊場竹生島に移設し保存されている。・・・
       新井用水
 太鼓橋の説明は以上ですが、ここで用水路について紹介しておきます。
 新井用水は、加古川大堰のところから常楽寺の山門前を流れ、古宮(播磨町)の大池に達する用水です。
 承応3年(1645)の旱魃はひどく、太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。
 現在の播磨町・平岡町・野口町の溜池に頼る24ヵ村の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。
 それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(現在の加古川町・尾上町)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実っていました。
 野口・平岡・播磨の村々の百姓は、食べるものがありませんでした。
 五か井郷から食料と種籾を分けてもらって、やっと生活をつなぐありさまでした。
 古宮村(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛は、加古川から用水を引きたいと考えました。
 しかし、水は、川より高い土地には流れてくれません。
 そのため、上流の城山(じょやま・神野町)のすぐ北の加古川(加古川大堰の左岸)から水を取る事を計画たてました。
 しかし、問題は、「取水する場所は、五か井用水の取水口と重なり、五か井郷の村々は了解しないであろう。そして、他の村々の協力が得られるだろうか?」ということでした。
 藩主・榊原忠次の協力を得ることができました。藩主の命令は絶対です。
 難問は、解決しました。新井用水の工事は明暦元年(1665)正月に始まり、翌年の月に完成しました。
 新井用水の完成とともに橋は架けられたと思えるが、この橋には享和二(1802)の銘があるので、江戸時代に終りの頃に改築されたようです。(no5155
 *写真:常楽寺境内の太鼓橋

 

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加古川町大野探検(50) 常楽寺の石造物(5)・文観上人慈母塔?

2021-07-28 07:44:24 | 加古川町大野探検

 加古川町大野探検(16)で、少しだけ紹介しておいた常楽寺墓地の紹介です。

    常楽寺の宝塔

  常楽寺の墓地にある宝塔は材質(花崗岩)、様式等から伊派の手による石造物であることはたしかです。

 この宝塔について『加古川市の文化財(加古川市教育委員会)』(昭和55年)に次のような説明があります。(文章は変えています)
   
  (常楽寺宝塔)
  花崗岩製
   高さ   2.35メートル
  銘文  正和四年(1315)乙卯八月 日 
  
 願主  沙弥道智

 この塔は、通称・文観上人慈母塔と伝えられ、文観(もんかん)が常楽寺中興として存在の時、慈母をここ葬ったと『播磨鑑』は伝えています。

   道智は、東大寺戒壇院の律僧

 『播磨鑑』の著者、平野庸脩(ひらのようさい)は何をもとにしてこの銘文を書いたのでしょう。

 また、塔身の銘文「願主道智」をどのように解釈すればよいのでしょうか。

 『播磨鑑』が書かれたのを元禄時代(16881704)としても、「文観慈母塔」の造られた正和四年(1315)とは、およそ400年を経ています。はっきりしたことは分からなくなっていたのでしょう。
 『播磨鑑』の説をそのまま信じるのは、少し強引です。
  今まで宝塔の銘・願主「道智」は、謎の人物とされてきました。

それは、道智は西大寺直属の律僧であると決めつけて研究されてきたようです。道智は見つかりませんでした。

 ところが、兵庫大学の金子先生(中世史)は、律宗は他の律宗系列とも関係しており、東大寺戒壇院の僧・凝然(ぎょうねん)の「円照上人行状」に道智を発見されています。

 そこには「・・・道智は、常陸の人、本(元)忍性上人之門人・・・」と書かれています。

 忍性の師は叡尊です。とすると、道智は、もと西大寺系の律僧だったようです。

 常楽寺の宝塔が造られた正和四年(1315)の文観は後醍醐天皇と大接近をしていた時でした。(no5154

*写真:常楽寺墓地の宝塔(写真中央)

 

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加古川町大野探検(49) 常楽寺の石造物(4)・石棺

2021-07-27 06:49:19 | 加古川町大野探検

    石棺(古墳時代後期:67世紀)

 常楽寺の境内の宝塔とうの前に石棺があります。
 説明板に、その説明があるので、読んでおきます。
    <石棺>
  この石棺は「くりぬき石棺」の身です。
  凝灰岩(竜山石)
    縦     146センチ
    横      75センチ
    高さ     54センチ
    くり抜き部の深さ 38センチ
 説明は以上で、詳細は分からないようです。
 日岡山周辺にはたくさんの古墳がありましたが、壊されて現在は、ほとんど姿を消してしまいました。


     氷丘中学校設置の石棺と同時代のものか


 同時代の古墳から見つかった石棺が氷丘中学校の正門近くに設置されているので、みておきます。
 氷丘中学校(加古川市加古川町大野)の正門を入ると、向かって右に石棺は、昭和59年に、ここに設置されたものです。
 神戸新聞は、この石棺を次のように報道しました。名前等、一部記事を変え転載します。
・・・石棺は、ふたが失われているものの、長さが160センチ、幅53センチ、奥行き74センチの凝灰岩(竜山石)のくりぬき石棺で、重さ3トンのりっぱなもの。
 古墳時代後期(6~7世紀)に造られたとみられ、数年前に地元の郷土史家が古墳の宝庫・日岡丘陵の南麓で発見した。
 これを、I氏が見学したが、祖先の貴重な石造文化財がゴミや草に埋もれたまま放置されている姿を見て、何とか保存できる方法はないものかと、校長に相談。
 市教委文化課を通して、(土地の)持ち主のUさんに話を持ちかけた。Uさんは「教材に役立つのなら」と快く寄贈を申し出て同中での保存が実現した・・・(以下略)
 私事で申し訳ありませんが、記事中のI氏とは、私のことです。(no5153
 *写真:常楽寺境内の石棺

 

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加古川町大野探検(48) 常楽寺の石造物(3)・宝 塔   

2021-07-26 07:28:09 | 加古川町大野探検

 この宝塔について、加古川市教育委員会の説明板がありますので読んでおきます。
      宝 塔  

 この宝塔は、銘文により文化元年(1804)に造立されたことが分かります。
    凝灰岩(竜山石)
    全高 186.5センチ   
          平成三年三月三日 加古川市教育委員会

   宝塔について

 宝塔と言えば、ふつう基礎・塔身・笠・相輪からなり、塔身が円筒形の軸部と首部からなる塔のことです。
 宝塔は、基本的に経塚の墓標として用いられてきました。 

 しかし、その後、念仏供養などに用いられるようになりました。
 常楽寺の宝塔は、経塚の標識ではなく、供養塔です。
 この宝塔には、文字が多く刻まれています。
 まだ読めていません。

 きょうは、境内に文化元年(1804)造立の宝塔があるということにとどめておきます。(no5152
 *写真:常楽寺境内の宝塔

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加古川町大野探検(47) 常楽寺の石造物(2)・板 碑(いたび)

2021-07-25 10:25:07 | 加古川町大野探検

   板 碑(いたび)

 板碑は、中世仏教(鎌倉~室町時代)で使われた供養塔です。

 基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものです。
 
頭部に二条線が刻まれています。実際には省略される部位分もあります。
 
板碑は、鎌倉時代~室町時代に集中してつくられました。
戦国期以降になると、急激に廃れ、既存の板碑も廃棄されたり用水路の蓋などに転用されたものもあります。
 
現代の卒塔婆につながっています。 


    常楽寺境内の板碑
 
常楽寺境内の板碑は、梵字(種字)ではなく、地蔵菩薩が彫られています。
 
板碑の横に少し説明がありますので、一部をお借りします。
 
常楽寺の板石(板碑の石材)は、古墳後期(世紀)に使用されていた組合せ石棺材です。
 
この付近の日岡山古墳群のから出土したものでしょう。
 
室町時代後期に造られたものと思われます。no5151

 *写真:常楽寺境内の板碑

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加古川町大野探検(46) 常楽寺の石造物(1)・常楽寺の十三重の層塔

2021-07-24 09:36:48 | 加古川町大野探検

   常楽寺の十三重の層塔

 この十三重の層塔は、常楽寺本堂の東の茂みの中にあります。

 基礎には何の装飾もありません。

 塔身の軸部に種字があるだけです。

 銘は、風化によりほとんど判読できません。

 層塔は、十層までの各層には、ほとんど破損がありませんが、上段の二または三層は欠失しており、急に細くなっています。

 相輪部は、後の補修で不似合いです。

   竜山石製

   高さ 約5メートル

   銘文 □□(正中?)二年乙□□□□

   *銘は現在、風化のためほとんど判読できません。

 この十三重の層塔について、『加古川市史(第七巻)』は、「・・・全体としては、なおよく古調をとどめているが、・・・・おそらく(鎌倉時代)後期の中ごろのものとしてもややおそく、1325年頃の像立と推定してほぼ誤りがないであろう・・・」としています。

 当然ですが、寺院の石造物は単なる飾りではありません。何らかの願いが込められて造られています。

 この層塔は、祖先の菩提のためでしょうか、それとも受戒等の記念でしょうか?

 

   (蛇足)偶数・奇数

 蛇足を書いておきます。十三(奇数)という数字のことです。

 層塔は、三・五・七・九・十一・十三・・・と、すべて奇数です。

 記念日も、17日、33日、55日、77日、そして99日、そして「七五三」等、みごとな奇数のオンパレードです(no5150)

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加古川町大野探検(45) 焼けた古仏立像

2021-07-23 10:40:14 | 加古川町大野探検

    焼けた古仏立像

 『信仰の美術・東播磨の聖たち』(加古川総合文化センター)の木造古仏立像(写真)を紹介しています。紹介しておきましょう。


    木造古仏立像


    一木造 彫眼 像高54.0センチ
    年代不詳 


 常楽寺の本堂堂奥に安置されている仏像の一体です。
 火災に遭ったためであろうか、すでに全身が大きく損われており、像容は詳らかではありません。
 恐らく常楽寺または村内の堂から移されたものでしょう。
 『播磨鑑』に載る寺記によると、常楽寺は大化元年(645)に法道仙人によって草創され、正嘉二年(1254)に洪水により堂宇が流され、その後、文観(12781357)が再興したとされています。
 さらに、天正六年(1578)に秀吉に焼かれ、延宝二年(1674)に現在の地に本堂を建立したとしています。
 現在の加古川町大野付近は、中世には播磨国賀古郡北条郷として栄えており、その中心寺院であるこの北条常楽寺は、叡尊(えいぞん、120190)にはじまる西大寺の真言律宗との関わりが注目されています。
 『西大寺末寺帳』には。播磨国の筆頭に記載されており、中世を通じのその寺格の高さが知れます。
 また、『宝鏡秒』でも、後醍醐天皇の信任が厚かった律僧・文観(もんかん)は、播磨北条寺の出であると記していますが、北条常楽寺のことでしょう。
 ・・・・中略・・・・
 常楽寺には、石造品を除き、中世の資料がほとんど伝わっていないとされていましたが、堂内にある仏像は、桃山時代以前の同寺の歴史を考える上で注目すべきです。・・・


 常楽寺は「叡尊(えいぞん、120190)にはじまる西大寺の真言律宗との関わりが最も注目されるところです。
 『西大寺末寺帳』には、播磨国の筆頭に記載されており、中世を通じのその寺格の高さが知られます。(no5149

 *写真:木造古仏立像

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加古川町大野探検(44) 日向宮本地仏(ひゅうがのみやほんじぶつ)

2021-07-22 10:50:13 | 加古川町大野探検

   日向宮本地仏(ひゅうがのみやほんじぶつ)
 
常楽寺の観音像の説明の続きです。
 
写真をご覧ください。
 
・・・・注目すべきは、台座下部背面聖観音菩薩立像台座銘に「日向宮本地仏」の銘が向って右から左に陰刻されていることです。
 
台座の制作は、その形式と本堂の他の仏像等の修理から17世紀後半と考えられますが、その頃には、この像が、日向宮(日岡神社)の本地仏とされていました。
 
室町時代後期から江戸時代初期にかけて、常楽寺の寺勢は衰えていたため、この関係をどの程度遡って考えるかは問題です、加古川市内唯一の式内社である日岡神社と、中世播磨で隆盛を誇った常楽寺との、神仏習合のようすを窺わせる貴重な資料といえます。
 
ここで、「本地仏・日向宮・式内社」の言葉を整理しておきます。
       本地仏(ほんじぶつ)
 
「本地(ほんじ)」というのは本来の姿という意味ですから、本地仏(ほんじぶつ)とは、本来の姿である仏様、という意味になります。
 
しかし、これだけでは何のことか分かりません。本地垂迹(ほんじすいじゃく)について知る必要があります。
 
本地垂迹というのは、本来の姿は仏教の仏、その仮の姿が神道の神、というほどの意味です。つまり、本地仏というのは、神道の神様と仏教の仏様は同体だ、という理論においての、神様の本来の姿であるところの仏様ということです。
 
このような、神仏のあり方を「神仏習合」と言います。
       日向宮(ひゅうがのみや)
 
「日向宮(ひゅうがのみや)」は、日岡山にある「日岡神社」のことです。
 
以下、日岡神社として話を進めます。日岡神社は式内社(しきないしゃ)です。
 
式内社というのは、10世紀のはじめに作られた規則である延喜式(えんぎしき)に、その名が見られる神社のことです。
 
中央政府は、地方の豪族と結びつきを強め、勢力をさらに強めるため、全国の有力な神社をその統制下におき、「式内社」として権威づけたのでしょう。
 
加古川市近辺(加古川市・高砂市・播磨町・稲美町)で「式内社」は、日岡神社だけです。
 
多くの神社がそうであるように、式内社に選ばれた理由は分かりません。
 
日向宮本地仏とは、「日岡神社の神様たちのもともとのお姿は、常楽寺の仏様たちなんです」という意味です。
 
つまり、聖観音の台座の銘は、神仏習合を知る貴重な資料です。
 
明治になり、神仏分離令が出され、お互いに独立した神社、寺として今日に至っています。
 
日岡神社は、明治の初めの頃、その神社名も「日向宮」から現在の「日岡神社」と変わりました。(no5148
 
*写真:聖観音菩薩立像台座銘

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加古川町大野探検(43) 木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)

2021-07-21 06:50:57 | 加古川町大野探検

・・・・常楽寺について『大野史誌』は、「天正六年(1578)羽柴秀吉の兵火にかかり、堂宇すべて焼失した」とだけ記述しています。
 
常楽寺のことを調べたいのですが、残念なことに記録・寺宝等は焼かれ、現在ほとんど残されていません。・・・
 
私もそう思い込んでいたのですが、常楽寺には立派な聖観音立像等がわずかに残されていました。
 
秀吉軍により、焼き打ちになることが予想されたのでしょう。この観音菩薩像はどこか別の場所に隠していたのかもしれません。
 
この観音について、『信仰の美術・東播磨の聖たち』(加古川総合文化センター)からの説明をお借りします。


 木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)
 
常楽寺本堂の奥に安置される聖観音菩薩立像である。穏やかな相貌を持つ、やや大きめの頭部と、奥行のある体部の肉取りさらに、腰をやや左に捻り、微妙に左足を踏出すなど、一見して、平安時代後期の観音菩薩立像であることがわかる。
 
表面は剥落し、全身古色を呈している。内割りは無く、体幹を桧の一材で彫成し
ている。
 
宝髻(もとどり)は大きく、天冠台の彫りも鋭い。
 
彫服で、鼻先がやや磨滅するが、面部は全体に損なわれていない。
 
左手は屈臂して腹前に握り、宝瓶を提げていたとみられる手先は後補と思われる。
 
屈臂(ひじ)した右手は胸前に第一指と第二指を捻じて掌を差出す。
 
肘からは別材を合せ、さらに手首より先は後補のものである。臂吊は両肘から外は欠損し、両足裏はそれぞれに柄の跡が見られるが、腐食のため別材を補い一材として台座に挿している。
 
宝冠と台座は後補であるが、本像は衣文線も鋭く、全体に製作当時の姿を留めている。
(以上『信仰の美術・東播磨の聖人たち』より)
 
*聖観音立像(常楽寺所蔵・秘仏) (no5147

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加古川町大野探検(42) 常楽寺炎上

2021-07-20 07:01:20 | 加古川町大野探検

        常楽寺炎上

 江戸時代に書かれた『播磨鑑』に「・・・常楽寺の支配下にあった寺は、十八ヵ寺を数えた」とあります。

 調査により、確認されているのは十ヵ寺で、後の寺については分かっていません。

 常楽寺(加古川市加古川町大野・日岡神社の東隣)は、大きな寺であったようです。

 そんな、大きな勢力を誇った寺が、急速に勢力を弱めた理由は、何であったのでしょう。

 戦国時代のことです。

 播磨地方を西(山口)の毛利が支配下におくか、それとも東の信長・秀吉が支配するかをめぐって、一大決戦が東播磨の地で展開されました。

 加古川地方は、当時三木・別所氏の配下にあり、その別所氏は毛利に味方しました。

(この戦で、加古川城主・糟谷氏のみは、信長方に味方しました)

 信長は、秀吉に三木攻めを命じました。

 秀吉は、三木・別所氏に味方する加古川地方の城・寺々を先に焼き討ちにしたのです。

 天正六年(1578)、常楽寺は秀吉の兵火によりすべて焼失しました。

 延宝二年(1678)、一部が再建されました。

 その後、多門寺・吉祥院・安養坊・南の坊の四ヵ寺の寺になりましたが、明治三年(1870)、南の坊を残し、三ヵ寺を廃止し、名も元の常楽寺としました。

 大野町内会は立派な『大野史誌』をまとめられています。この本を片手に、常楽寺の探訪に出かけてみ手はいかがですか。(no5146

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加古川町大野探検(41) 明治天皇、日岡山へ

2021-07-19 09:37:30 | 加古川町大野探検

       明治天皇、日岡山へ

 明治30年(1897)4月、姫路に陸軍第10師団が新設され、春と秋の二回大規模な演習が定期的に行われるようになrました。

 明治36年(1903)11月12日~15日に実施された特別演習は、日露戦争(明治37)を想定して特別な意味をもっていました。

 善通寺(香川県)の師団も加わり大規模な戦闘訓練でした。

 加古川が主な演習場になったのは11月13日で、この時、明治天皇が加古川に来られ、日岡山から、この訓練のようすを天覧しています。

 その場所(OAA会館とひれ墓との間の山頂部)に、写真のような記念碑(駐蹕の碑)が建てられています。

 駐蹕は、読みづらい文字ですが、「ちゅうさつ」と読みます。

 意味は、「天子が行幸の途中、一時乗り物を止めること。また、一時その土地に滞在しすること」です。*大辞林(小学館)より

 この、戦闘訓練は日露戦争を想定した国家の大デモストレーションでもあったのです。

 地元では演習をひかえての道路の補修や衛生施設(主に給水所)の建設等ずいぶんの支出を余儀なくされ、かなりの負担になったようです。(no5145
 *写真:駐蹕の碑(日岡山山頂)

 

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