ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

10月の散歩 

2018-10-31 20:35:18 |  ・コーヒーブレイク・余話

 4日(木)、白内障の手術が終わりました。成功でした。

 5日病院でガーゼを取っていただきました。景色が激変でした。きれいに見えます。しばらく忘れていた世界でした。

 7日には風邪も完全に治り、気分はルンルン。

 10.000歩の散歩を続けています。

  綺麗な秋の風景を眺めながらの散歩は、やはりいいですね。

       10月の散歩

    1日(月)  8.413歩 市民病院内・自宅~長田公園

   2日(火) 12.131〃   自宅~長田公園・平荘湖遊歩道

   3日(水) 10.467〃 自宅~長田公園・加古川西岸河川敷 

   4日(木)  6.470〃   市民病院・自宅~長田公園(白内障手術)

   5日(金)  6.661〃 市民病院・眼鏡店~自宅

   6日(土)  7.542〃   自宅周辺

   7日(日) 12.215〃 自宅~大崎・平荘湖遊歩道

   8日 (月)   11.783〃 自宅~長田公園(2往復)

   9日(火)   11.531〃    平荘湖遊歩道・自宅周辺

  10日 (水)   11.001〃   自宅~加古川東岸・ジム(アクトス)周辺

  11日(木)   11.322〃  自宅~長田公園・自宅~加古川東岸

  12日(金)  10.728〃  自宅~長田公園・自宅周辺

  13日(土)  10.524〃  自宅~長田公園・自宅周辺

  14日(日)  10.432〃    自宅~長田公園・自宅~今福八幡宮

  15日(月)  12.788〃  平荘湖一周・自宅周辺

  16日(火)  10.558〃  自宅~加古川東岸・自宅周辺

  17日(水)  13.323〃  新幹線下遊歩道・ジム、アクトス周辺

  18日(木)  11.815〃  自宅~長田公園・平荘湖遊歩道

  19日(金)  11.112〃    加古川河川敷東岸・自宅~長田公園

  20日(土)  13.564〃    別府公民館~海洋センター・河川敷東岸

  21日(日)  10.662〃    自宅~大崎・鶴林寺界隈

  22日(月)  11.561〃    自宅~加古川東岸~稲屋福田寺~自宅

  23日(火) 11.499〃     自宅~ジョウシン電気・自宅周辺

  24日(水)  11.206〃  自宅~長田公園・ジム(アクトス)周辺

  25日(木)  11.100〃  自宅~長田公園・平荘湖遊歩道

  26日(金)  11.182〃     〃

  27日(土)  10.357〃    神戸北野界隈

  28日(日)  10.488〃  大崎まで・平荘湖遊歩道  

  29日(月)  11.838〃    自宅~長田~大崎・加古川西岸

  30日(火)  10.582〃  自宅~長田公園・自宅~鶴林寺

  31日(水)  10.484〃  自宅~長田公園・自宅周辺

  *写真:我が家の柿の木(28日撮影)(no4538)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観と後醍醐天皇(6) 大野(加古川市)は北條郷

2018-10-31 07:41:37 | 文観と後醍醐天皇

 「思い込み」というのは怖いですね。

 私は、「文観は、北条の法華山一乗寺の僧侶であり、そこから奈良の大寺に移り後醍醐天皇の保護のもとで大活躍した人物である」と当然のように北条(加西市)で誕生した人物であると思い込んでいました。

 『加西郡誌』を読んでみます。

      文観、『加西郡誌』より

 *以下は、「加西郡誌」より文観を説明した個所の最初の部分の記述です。

 「・・・ 文観僧正は、我が郷土(加西市)から出た人物中の傑物である。

 ・・・・また、その革命家的素質はよく後醍瑚天皇を助けて、北條氏からの政権奪還の計画を(一時)成功させました。

 そして、鎌倉末期の仏教美術家として絶大の手腕を揮うたことは、遺品によって明らかに証明されています。

 文観僧正については、多くの書物で見ることができます。

 太平記には「文観僧正は、元は播磨国、法華寺(一乗寺)の住僧で壮年の頃より、醍醐寺に移つり、東寺の長者、醍醐寺の座主に任命され・・・」(文は、少し読みやすくしています)

          加古川市大野は北條郷

 どこにも、「北条(加西)生まれた」とは書いていません。

 最近の網野善彦氏を中心とする研究でも、文観の生まれは加古川市大野であるしています。

 「北条」の件ですが、中世、大野あたりは北條郷でした。「北条」と言えば加西の北条がよく知られているため加西と思い込みがちですが、加古川市大野は中世、北條郷でした。

 最近では、文観は加古川の北條郷で生まれたとされています。(no4537)

 *写真:北条の一乗寺(本堂)

◇きのう(10/30)の散歩(10.572歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観と後醍醐天皇(5) 常楽寺について

2018-10-30 09:07:20 | 文観と後醍醐天皇

      常楽寺について

 文観は「常楽寺」に小僧として入りました。日岡神社の東隣にある常楽寺(加古川町大野)のことです。

 もう少し常楽寺について少し学習しておきます。

       常楽寺の盛衰 

 (常楽寺は)正嘉二年(しょうか・1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇はほとんど破壊されました。
 その後、小野文勧(文観)僧正(1278~1357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営されました。
 末寺18ヵ寺、僧坊は56宇、その多くは低地部にあり、寺領も三百石もあったといいます。

 ずいぶん大きなお寺だったようです。

      大野は洪水に見舞われやすい所

 鎌倉時代です。

 加古川に丈夫な堤防を造るということは経済的にも、技術の面からいっても当時は十分ではありません。
 
そのため、大野辺りは、しばしば洪水に見舞われました。
 
というのは、「(大野の北側を流れる)曇川は、曇ったときだけ水がある」といわれるのですが、いったん大雨の時は、曇川の大量の水は加古川に流れてくれません。
 
水は、堤防の外(東側)と日岡山の間を大野に向けて一気に大野に押し寄せ、しばしば大洪水になりました。
 
曇川の水だけではありません。大川(加古川本流)による洪水も幾度となく経験しました。

 正嘉二年(1258)の暴風雨の時は、特に大規模な加古川本流が引き起こした大洪水でした。
 常楽寺は、ほとんど流されたと伝えてられています。
      
  常楽寺の再興 
 この後、繁栄を誇っていた常楽寺の再建は、さすがに進まなかったようですが、『大野史誌』は、「その後、文勧(文観)により再興された」と記しています。
 
常楽寺には、西大寺系の石工が造った宝塔があります。

 「文観慈母塔」の伝承を伝えていますが、銘には願主・道智とあり、文観の慈母塔ではないようです。
 
が、この頃、西大寺の僧・文観の援助で、この寺を再建したのではないかと想像されます。
 
再建は、この塔の造立された正和四年(1315)ごろのようです。

 当時、文観は37才でした。
 
まだ、後醍醐天皇との関係は薄かったのですが、すでに、西大寺の実力者として活躍しています。

 西大寺、西大寺系の石工(技術集団)・文観が説明のないままに登場しました。後に説明しましょう。(no4536)

 *写真:現在の常楽寺本堂

 ◇きのう(10/29)の散歩(11.838歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観と後醍醐天皇(4) 不遇な少年時代か?

2018-10-29 09:35:09 | 文観と後醍醐天皇

 文観を追いかけたいのですが、謎だらけ人物です。

 特に、子供の時代の文観についてはほとんど分かりません。自分のことを語っていないのです。語りたくなかったのかもしれません。

 そのため、伝承では子ども時代に文観は「播磨の農民の子として生まれ、幼少時に天台宗の僧に130文の銭で買われた」という伝承まであります。

     不遇な少年時代か?

 前回の史料「瑜伽伝(ゆかでん)」から彼について想像してみます。

 彼の直弟子の宝連(ほうれん)が書いています。

 おそらく文観から直接聞いた内容でしょう。そのため、信用してよい史料と思われます。

 少し気になるか所があります。

 「(文観は)大野源太夫重貞孫也、播州人也、弘安元年 戊寅正月十一日乙未鬼宿金曜辰初分誕生、非母可生孝子・・・・」の部分です。

 「(文観は)大野源太夫重貞孫也」と書いており、お爺さんが登場し父のことを書いていません。

 何か理由がありそうです。彼の父が亡くなっているのであれば別の書きようがあるはずです。

 母については「非母可生孝子」と書いています。

 少年時代、どのような家族構成で生活したのかはわかりませんが、家族問題をかかえていたようです。

 このような家庭環境のためか、聡明な少年であった後の文観は、父、母あるいわ世話をする人により寺に預けられたのかもしれません。

 その寺が大野の常樂寺だったのでしょう。(no4535)

 *写真:常楽寺

 ◇きのう(10/28)の散歩(10.488歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市を歩く(330) 「高砂染」初の海外デビュー

2018-10-28 19:50:35 | 高砂市

 きょうの神戸新聞に「高砂染」のニュースがありましたので掲載させていただきます。

          「高砂染」初の海外デビュー

 江戸時代に盛んに作られ、兵庫県高砂市内の企業が復刻した染め物「高砂染」が、400年の歴史で初めてとなる海外デビューを果たす。31日~11月10日に中東のアラブ首長国連邦(UAE)で開かれる展示会に出展。復刻した着物や、約100年ぶりに新作したという浴衣を披露する。(広岡磨璃)

 高砂染は、型染めを重ねる伝統技法と、謡曲高砂に登場する「高砂神社の相生の松」をモチーフとした文様が特徴で、祝いの心を表現する。江戸時代の姫路藩を代表する特産品として幕府への献上品にもなったが、昭和初期に姿を消した。昨年6月、再興を目指す会社「エモズティラボ」が発足。インターネットのクラウドファンディングで資金を募り、今年4月に復刻版の着物を完成させた。

 出展するのは、世界有数規模の本の見本市「シャルジャ国際ブックフェア」。今年は日本が名誉招待国で、神戸にあるインバウンド推進団体から声が掛かった。

 高砂染はジャパンパビリオンの一画に出展し、復刻した着物とともに、新作の浴衣を着用した状態で披露。染め物のワークショップも開く。古来の高砂染は幽玄を表現し、シックな色合いが主流だが、新作の浴衣ではあえて松枝柄を赤色で染め、「蝶熨斗紋」を黒で重ねた。

 同社取締役相談役で、高砂染創始家の一つとされる尾崎家17代目当主、尾崎高弘さん(52)=加古川市=は「アラブの人たちからどんな反応が得られるか、わくわくしている」。現地に向かう同社代表の寄玉昌宏さん(33)=同=は「高砂染が持つ『ことほぎ』の精神を伝えるとともに、お祝いのモチーフなど中東の文化も吸収したい」と話している。(no4534)

*写真・記事とも神戸新聞(10/28)より

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観と後醍醐天皇(3) 文観、加古川の大野で誕生

2018-10-28 06:57:38 | 文観と後醍醐天皇

   文観、加古川の大野で誕生

 以前、私は「文観」というとチョットいかがわしい怪僧であり、てっきりその生まれは、現在の現在の加西市の一乗寺で勉強をした僧侶ぐらいに思っていました。

 それ以上、深く考えませんでした。

  それが入門書ばかりですが、中世史の網野善彦先生の著書を読んでいると、「文観は加古川市加古川町大野の出身で、大野の常楽寺で研修を始めた」と思えてきました。

    文観の誕生:弘安元年(1278 )1月11日

 また、昭和29年度氷丘公民館地域学講座(1/27)で、兵庫大学教授の金子哲先生が「日岡の文観」というテーマで講義をされました。

 きょうは、その講義から次の史料を紹介します。大切な史料ですから掲載させていただきますが、少し読みづらいので今日のところはチラッと見るだけでけっこうです。

  (史料1)

 宝連 「瑜伽伝灯商省」第九巻第二十九法務大僧正弘真条

 第廿九伝法務大僧正弘真  号小野僧正一長者座主

 左大臣雅信公十三代後胤大野源太夫重貞孫也、播州人也、弘安元年

 戊寅正月十一日乙未鬼宿金曜辰初分誕生、非母可生孝子、祈誓如意

 輪白衣二尊、(後略)

  〈史料1〉からわかること

 この史料は、文観の直弟子の宝蓮の書いたもので、史料の内容は信用してよいと思われます。

 次のこと確かめておいてください。

 「弘真」は、文観のことです。弘真については後に説明をしましょう。

 お爺さんは、大野源太夫重貞、

 文観の誕生は、弘安元年(1278 )1月11日。(母に関しては、「非母可生孝子」と記しています。何か事情があるようですが、今のところはこのままにしておきます。父に関しては不明です)

 時代から考えて元関東(武士)だったのかもしれません。

 文観は播州の人

 史料によれば文観は「播州の人」であり、名前が「大野」であるところから、加古川の大野の人であることが推察されます。

 でも、今日の史料だけでは、文観についての詳しいことは分かりません。が、少し文観の輪郭が現れてきました。(no4533)

 *写真:現在の常楽寺

 ◇きのう(10/27)の散歩(110.357歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観と後醍醐天皇(2) 内藤湖南(ないとうこなん)

2018-10-27 08:24:15 | 文観と後醍醐天皇

 

            内藤湖南(ないとうこなん)

 大正時代、京都大学の内藤湖南(ないとうこなん)先生の発言です。湖南氏の著作『日本文化史研究』(講談社学術文庫)で読むことができます。

 「・・・今日の日本を知るために、日本の歴史を研究するためには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありません。

 応仁の乱以後の歴史を知っておれば、それでたくさんです。

 それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませんが、応仁の乱以後は、われわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っておれば、それで日本の歴史は充分だと言っていいのであります・・・」という一節です。

いかがですか。「当時(大正時代〉としてはかなり思い切った発言であったと言ってよいと思います。

 当時、内藤さんのこの発言が一般の方の間に浸透していたとはおもわれませんが、日本の歴史全体を知る時、「南北朝・応仁の乱以前と以後」は非常に大きな違いがあり、応仁の乱以前の歴史というのは、まったく外国の歴史と同じような意味しか持たないのです」と主張されています。

 現在の歴史とのつながりを考えるとき、内藤氏の歴史観は間違いがないと考えられます。

 当時は天皇中心の歴史観より認めていなかった時代です。ずいぶん思い切った、勇気ある発言でした。

現在、私たちは時代をいくつかに区分します。例えば「戦前・戦後」という分け方などはそれです。

 それでは、日本史全体を二つに分けるとしたら、どこで線を引くのでしょうか。

内藤氏が言うように、南北朝・応仁の乱前後を歴史の分水嶺にしてよいと思われます。

 南北朝・応仁の乱はそれほど大きく日本社会を変化させた時代でした。

 その歴史(観)については「文観と後醍醐天皇」でも、できるだけ取り上げましょう。

 この大きな歴史の引き金を引いたのは、間違いなく後醍醐天皇です。そして、彼のブレーンの一人が加古川出身の僧・文観です。

 決して、奇をてらう日本史話ではありません。(no4532) 

 *写真:内藤湖南氏(1934年4月9日撮影)

 ◇きのう(10/26)の散歩(11.182歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文観と後醍醐天皇(1) 再度、文観を追いかけます 

2018-10-26 09:53:36 | 文観と後醍醐天皇

 「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」を書き直してみました。いかがでしたか。

 「以前書いた内容と重なるので、アクセスは減るだろう」と心配していたのですが、むしろ読者は増えています。

 このシリーズを終えたので次は「近世の加古川地域」を予定していました。

 「近世の加古川地域の歴史」は、次回とします。

 先にもう一度、南北朝について書きなおしてみます。

      文観と後醍醐天皇

 今年(2018)「文観を追え」と題して紹介した記事を再度まとめてみたくなりました。

 というのは、「4月以来の〝文観を追え〟のですが、余韻が続いているのと、この時代は日本の歴史で一番大事な時代ではないか」と思えてきたからです。

 でも、南北朝時代については、教科書でもほとんど紹介されていません。

 この理由については、その都度述べていきたいと思います。

 この時代に興味を持ったとはいえ、年齢(75才)のせいですかね・・・

 何度読んでもストーリーがすっきり整理できません。

 人間関係が複雑すぎます。

 ですが、この時代の中心になっている人物は、間違いなく後醍醐天皇です。

 その後醍醐天皇を支えている重要人物の一人が、僧の文観(もんかん)でした。

 しかし、文観は、自分のことをほとんど語っていません。

 そのため、後醍醐天皇の護持僧になってからの活躍はある程度分かるのですが、出生や子供の時代の文観については謎だらけです。

 *(護持僧:御持僧とも書きます。天皇のために特設された加持祈祷をする僧職。天台・真言の高僧を選んでこれに任じられました)

 最近の歴史学では、彼の生まれは加古川市であることが確実な事実として浮かび上がってきました。

 日本史の分水嶺(日本史二つに分ける時代区分)となった南北朝時代、その中心にいたのは後醍醐天皇です。

 その後醍醐天皇を支えた文観が加古川の人であったとしたら、私たちとしても黙っておくことはできません。

 しかし、僧:文観について地元でもほとんど紹介されていません。

 文観さん追いかけることにしましょう。(no4531)

 *挿絵:法服をまとった後醍醐天皇(清浄光寺所蔵)

 ◇きのう(10/25/18)の散歩(11.100歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(304) 近世の加印地域 高砂篇(102)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(51)・おわりに

2018-10-25 08:14:04 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

             おわりに

 『工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛』は、奇妙な読み物となりました。お気づきのことと思いますが、『菜の花の沖』(司馬遼太郎著)から、かなりの部分を引用しています。

 少しだけ他の書籍や歩いて調べたことをつけ加えただけの読み物です。

 最近、工楽松右衛門の話題が高砂市を中心にして、盛り上がっています。

 が、松右衛門邸の保存や、松右衛門帆の復活等々が中心のようです。

 それはそれで、急がなければいけないのですが、かんじんの松右衛門についてはあまり語られていません。

 『菜の花の沖』で紹介されている松右衛門は魅力的な人物です。

 さらに研究が進みその実像が紹介されるとき、彼は、さらに地域の誇りうる人物になることは間違いありません。

 でも、そこが問題です。

 史料が整い、彼が紹介されるまでにはかなりの時間(数年)がかかります。

 松右衛門邸の復元が完成しました。松右衛門に対する関心は高まっています。

 でも、松右衛門本人像を抜きにした運動では盛り上がりません。

 そこで、各方面からのおしかりを覚悟で、わかっていることに想像を加えて松右衛門を紹介することにしました。

 ご批判ください。そして大いに松右衛門を語ってください。

 松右衛門ブームをさらに盛り上げましょう。

 やがて、史実に基づいた松右衛門像がまとめられ、高砂市や教育委員会などから松右衛門が全国に発信されたらうれしいです。

 お読みいただきありがとうございました。 (完)(no4530)

 *写真:松衛門の墓碑(高砂市高砂町、十輪寺)

◇きのう(10/24)の散歩(11.206歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(303) 近世の加印地域 高砂篇(101)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(50)・松右衛門宅公開

2018-10-24 09:42:05 | お爺さんが語る郷土の歴史

 6月1日(2018年)の神戸新聞は、「江戸から昭和への趣復元」と題して3日から工楽松右衛門(くらくまつえもん)旧宅の公開のニュースとを伝えました。

 余話として紹介させていただきます。

    工楽松右衛門宅公開

 兵庫県高砂出身の江戸時代の発明家、工楽松右衛門ゆかりの旧宅内部(高砂市高砂町今津町)が31日、報道関係者に公開された。約20年空き家の状態が続き、老朽化が進んでいた建物が修復され生まれ変わった。

 江戸時代の外観に近づけ、内部は明治から昭和にかけて増改築された部屋などを復元。従来使われていた柱や、はりなどの構造材は極力残したという。一般公開は3日午後1時から。(小尾絵生)

 旧宅は江戸時代後期に建てられ、木造2階建て。2016年に市文化財に指定された。敷地面積652平方メートル、建築面積248平方メートル。1階は井戸や炊事場のほかに9部屋、2階は7部屋がある。

 土間の吹き抜けには、構造材に松などが使われ、木の湾曲が味わい深い趣を演出。れんが造りのかまどや、井戸なども見学できる。

 2階では版画家棟方志功らも訪れたとされる板敷き洋風の応接間があるほか、幕末期の工楽家周辺の様子が分かる模型などが展示されている。

 市教育委員会は「江戸時代の高砂の繁栄を象徴する建物。堀川の船着き場の遺構などと併せ、当時の暮らしぶりを感じて」とアピールする。

 今後、工楽家に残されていた古文書などの史料展示を充実させるほか、高砂染教室などのワークショップを企画する予定。

 松右衛門が開発した丈夫な帆布「松右衛門帆」を使ったかばん製品など、高砂ゆかりの土産物の販売も行う。(以下略)(no4529)

 *写真:復元された旧工楽松右衛門宅

 ◇きのう(10/23)の散歩(11.499歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(302) 工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(49)・余話:兵庫港を歩く

2018-10-23 09:30:06 | お爺さんが語る郷土の歴史

       余話・兵庫湊散策

 その日は、朝から暑い一日でした。
 「高田屋嘉兵衛・工楽松右衛門・北風家」のことを紹介しているので、彼らが活躍した兵庫湊の右図の①~④の場所を歩いてみました。

 地図をご覧ください。
 (①工楽松右衛門の店、②高田屋嘉兵衛の店、③北風家、④喜多二平家、赤丸、七宮神社 *喜多二平家は北風家の分家)
 地図によると山電湊川駅から南へ少し歩けばそこに到着します。

 歩き始めると、まさに暑さの襲撃でした。

 それに、完治していない「腰痛」が、少しいたみだしました。自販機で「水」を買って、休みをとりながらの写真撮影となりました。
 まず、七宮神社(しちみやじんじゃ)の歩道橋のそばで「菜の花ロード」の石碑を見つけました。
 さっそく『菜の花の沖』が、とうじょうしました。地図の説明通りに南へ行くと「高田屋嘉兵衛本店跡」です。
 「ここで、嘉兵衛は働いていたんだ」と思うと、腰痛も暑さも少しは忘れてしまいます。
 「道橋橋」を渡ると「七宮神社」です。
 この界隈で毎日嘉兵衛・北風壮右衛門、そして松右衛門が歩いていたのかと思うといろいろ想像がわいてきました。
 この近くに北風家や北風家の風呂があったはずです。
 湯けむりと、船頭の大きな声が聞こえてきそうでした。

 七宮神社から北風家のあったあたりを歩いてみましたが、ビルばかりです。 近所の人に聞いても、何も分かりません。

 かつての「兵庫湊」は、すっかり昔話のようでした。
 こうなると、暑さと腰痛が急に気になりだしました。
 北風家は、地図から判断してこの辺りだろうと写真をたくさん撮り、浜にでました。現代の兵庫湊です。
 休む場所を探したら、近くに小さな喫茶店がありました。
 店には、近所のおばちゃん達が、話をしておられましたが、ちょうど出て行かれました。
 店の主人は、80才ぐらいの腰のまがったおばあちゃん・・・
 「むかし、このあたりに、北風家があったことを知りませんか・・・」と尋ねてみました。「ありました」「私の小さい頃は、まだ北風さんの倉庫が残っていましたな・・・ S薬局の裏で、今は大けなアパートのあるところです・・・」と教えてくださいました。

 おそらく、おばあさんの小さなころは北風家の建物の一部が残っていたのでしょう。
 最後に、肝心の松右衛門の店の跡を探すために佐比江町を歩きました。
 それらしい場所で聞いたがわかりませんでした。その日は、これが限界で、昼食を忘れていました。でも、この暑さである。腹はすいているが食べる気はしません。
 駅の地下で、焼き鳥でビールを飲みました。
 1000円で釣りがきました。(no4528)

 ◇きのう(10/22)の散歩(11.561歩)

 *現在散歩で腰痛は治っています。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(301) 近世の加印地域 高砂篇(99)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(48)・高田屋の終焉

2018-10-22 09:36:06 | お爺さんが語る郷土の歴史

 文化9年(1822)の夏、松右衛門は亡くなりました。

 このシリーズ「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」のもう一人の主人公、高田屋嘉兵衛の最後も紹介しておかねばなりません。    

    高田屋の終焉

 高田屋嘉兵衛は麻のようにもつれた日ロ関係を一つ一つ解決しました。

 見事な幕末の外交でした。

 やがて、リコルドと嘉兵衛は解放され、北海に平和が訪れました。

 その後のことです。

時代は激しく動きました。その後、嘉兵衛に幕府から与えられたのは皮肉にも罪人としての処遇でした。

 「やもうえなかった」とはいえ、罪は鎖国の罪を犯してロシアで長期間滞在したということです。

 しかし、文化10年(1814)の3月、「構えなし」となり罪やゆるされています。

 50歳になった文政元年(1818)また体調の不調を訴えるようになりましたが、嘉兵衛は、気候の良い故郷の淡路の都志(つし)が懐かしくなり、故郷へ帰ることにしました。

 体調不良にもかかわらず、故郷で灌漑用地の設置、港の修築などで惜しみなく私財投じています。

 この間に「幕府は、蝦夷地のすべてを松前藩に返還した」というニュースを知りました。

 嘉兵衛は「ああ、またアイヌ人が、また搾り取られる・・」と思い悩むのでしたがどうすることもできません。

 文政10年(1827)年4月、背中に悪性腫瘍を生じ、あっけなく波乱にとんだ59歳の生涯を閉じました。

 墓碑は、嘉兵衛の望みどおり、都志の村と瀬戸内海が見渡せる丘の中腹にはつくられました。

 昨年、嘉兵衛のお墓へ行ってきました。

 小さな墓碑でした。

 

 高田屋は、松前藩や御用商人から快く思われていませんでした。

 嘉兵衛の死により、高田屋は金兵衛に引き継がれましたが、天保2年(1831)、5月、松前藩は高田屋の船と12名の乗組員を逮捕しました。

 理由は「高田屋の船はロシア船との密貿易をした」というのがその理由でした。

 事実は、ロシア船との偶然のすれ違いのようでした。

 天保4年(1833)幕府より闕所処分を受けた高田屋の全財産は没収され高田屋は消滅してしまいました。

 あっけない高田屋の終焉でした。(no4527)

 *挿絵:嘉兵衛の生まれ故郷の風景と瀬戸内の海(『北海を翔ける男』クニ・トシロウ著・実業之日本社より)

 ◇きのう(10/21)の散歩(10.662歩)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(300) 近世の加印地域 高砂篇(98) 工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(48)・松右衛門が、知られていない理由は?

2018-10-21 09:07:15 | お爺さんが語る郷土の歴史

     松右衛門のこと

 ずいぶん以前です。

 「高砂市に、工楽松右衛門という傑物がいた」ということは聞いていました。 

 が、俄然、興味を持ったのは、『菜の花の沖』(司馬遼太郎)を読んで以来のことです。

 広く彼を紹介したいという気持ちが膨乱だのですが、なにせ、あまり史料がありません。

 悲しいことに『菜の花の沖』以上にイメージがありません。

 司馬氏は、高田屋嘉兵衛の伏線に工楽松右衛門を描いています。

 高田屋嘉兵衛を通して、工楽松右衛門の時代の雰囲気がビンビン伝わってきます。

 とはいうものの、『菜の花の沖』は高田屋嘉兵衛が中心である。

 松右衛門はもっと、知るべき人物であるが、今まで広く知られた人物ではありませんでした。

     松右衛門が、知られていない理由は?

 松右衛門の史実があまり知られていない理由として、井上敏夫氏が昭和50年『兵庫史学』に発表された「北方領土の先駆者 工楽松右衛門」のなかで、次の三つの理由をあげておられます。

 第一は、松右衛門のエトロフ渡航は幕命といいながら、それはあくまでも一商人の私的行動と見なされていた。

 それに対して嘉兵衛のエトロフ渡航は、蝦夷地巡察視使・近藤重蔵の随員としであった。つまり、私的と公的の差です。

 第二は、松右衛門の蝦夷地の活動期間は、数年に過ぎないが嘉兵衛は20余年の長期にわたって活躍し、その間、歴史上有名なディアナ号事件の渦にまきこまれ、いつしか松右衛門の名が薄れてしまった。

 第三は、松右衛門は努めて嘉兵衛を自分の後輩として引き立てた。

 しかし、寛政二年、郷里の淡路を後に無一文で兵庫へ出てきた一介の若者・嘉兵衛を陰に陽に援助し庇護したのは、松右衛門でした。

 幕末の歴史において高田屋嘉兵衛の人生があまりにも劇的であり、注目が集まりすぎ、その陰で松右衛門が霞すんだだけのことでした。

 それにしても、司馬氏が『菜の花の沖』で松右衛門を紹介しなかったら、あまり知られないままに終わっていたかもしれません。  

 もちろん、松右衛門が、歴史の点景として大きな意味がないということではありません。

 いずれ、研究が進めば松右衛門の生涯は、詳しく紹介されるでしょうが、「まもなく」ではなさそうです。

 そのため、間違いも多いでしょうが、『工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛』のタイトルで急遽、松右衛門を紹介することにしました。

 『菜の花の沖』からの引用が多くなっています。

 天国の司馬氏からおしかりを受けるかもしれません。

 また、松右衛門に取り組んでおられる地元の方から「こんなでたらめな内容で・・・」とおしかりを受けそうです。

 研究が進んだとき「本当はこうなんですよ」と、そのとき改めて松右衛門を登場させればよいと居直ることにしました。(no4526)

 *松右衛門の像(高砂神社境内)

 ◇きのう(10/20)の散歩(13.564歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(299) 近世の加印地域 高砂篇(97)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(47)・鞆の湊づくり

2018-10-20 08:10:40 | お爺さんが語る郷土の歴史

     「鞆」の湊づくり

          松右衛門の最後の仕事

  松右衛門の最後の仕事となった「鞆の湊づくり」を紹介しましょう。

 吉田登氏の研究「帆布の発明者・工楽松右衛門」をおかりします。

     松右衛門の最後の仕事

 松右衛門は、高砂港をあらかた終えました。

 体調を崩しましたが、文化8年(1811)、松右衛門69才のとき、福山藩主阿部候から姫路藩主酒井候を通じて、鞆の浦の防波堤(写真)の修築と延伸の依頼がありました。

 松右衛門は、体調をおして現地に赴き、実態調査し築提計画をたてました。

 そして、工事に使用する花崗岩の巨石を遠近の島々から集めました。

 彼が開発した「石釣船」を駆使し、工事は10カ月ほどで、文化九年(1812)に完成させました。

       松右衛門逝く

 文化8年(1811)の「中村家日記」には、藩主の許可を得て、「私儀此度、工楽松右衛門為迎播州高砂江罷登船中之外五日逗留仕度奉願上候」とあります。

 (私はこの度、松右衛門へ湊の工事依頼のため播州高砂へ5日間ほどまいります。よろしくお願いします・・)

 中村家が、播州高砂までわざわざ迎えに行っています。このことは鞆の浦のさらなる発展のため豪商中村家が、港普請の先頭に立ったことを示しています。

 「鞆の浦歴史民俗資料館」の企画部長をされ、また「中村家古文審」の解明に関わっておられる池田一彦氏は、松右衛門が改修した施設は、大可島波止場、中央船着場雁木(がんぎ)、焚場(たでば)のほか川口(土砂崩れ防止)など全域に関与していると言われています。

 鞆港の工事は、松右衛門は老齢で病躯ながら、頼まれた公益のために、全エネルギーの投入と自ら開発した多種の作業船を駆使した「港づくり」の集大成の事業でした。

 翌年、松右衛門の病状は悪化し、文化九年(1822)亡くなりました。八月の暑い日であったいいます。(no4525)

 *写真:松右衛門が修築した伸延した鞆の大可島波止場

 ◇きのう(10/19)の散歩(11.112歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(298) 近世の加印地域 高砂篇(96)、工事松右衛門と高田屋嘉兵衛(46)・工楽家の衰え

2018-10-19 08:33:50 | お爺さんが語る郷土の歴史

       工楽家の衰え

 工楽家のその後を先に書いておきます。

 初代松右衛門が亡くなった後も、工楽家による高砂港の修築は続きました。

 幕末の動乱期、三代にわたって築港事業にたずさわって来た工楽家は、世が明治と代った時、すっかり私財を使いはたしてしまっていたようです。

 やがて、江戸時代は終わりました。

築港を命じた姫路藩はすでになく、完成した高砂港の価値も鉄道開通によって低下してしまい、副産物として造成された工楽新田は、地租改正時のごたごたの中で、だまし取られたような形で他人名義になってしまいました。(no4524)

  *『渚と日本人・入浜権の背景(高崎祐士)』NHKブック参照

  *写真:改築前の工楽家の一部

 ◇きのう(10/18)の散歩(11.815歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする