ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

別府町新野辺探訪(27):明細帳⑫・村高2割打ち出し②

2009-08-31 18:01:58 |  ・加古川市別府町新野辺

D3d643c4 池田輝政が藩主として姫路に入ったのは慶長5(1600)秋のことであった。

さっそく、増税を実施した。

築城に取り組まねばならなかったためである。

石材や木材の運搬、石垣積み、堀の掘削、その他城下町づくりなどに巨費が必要になった。

これらの巨費は、全て村高を基準として徴収された。

そのため、輝政は築城費をひねり出すため村高を平均2割も多く設定した。

慶長14年秋の10月あしかけ8年に及ぶ大工事で堂々とした姫路城は完成した。

動員された人数は述べ2400万人。

とにかく、無理おしがあった。

播磨の百姓は、この重税に黙っていたのだろうか。

史料がないために、詳細はわからないが、弾圧のために黙らざるを得なかったようである。

それにしても、百姓衆の疲弊はひどかった。

池田氏は、姫路城完成後一割の「ゆるみ検地」(減税)を実施している。

その状況を、新野辺村にみたい。

19世紀前半の新野辺村の年貢基準収穫高はおよそ928石である。

これは、江戸時代の池田時代の「2割打ち出し」のままの数字である。

『加古のながれ』(加古川市)は、「(新野辺村は)池田時代の村高で幕末まで徴収うけたのです」と指摘している。

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別府町新野辺探訪(26):明細帳⑪・村高2割打ち出し①

2009-08-29 16:40:37 |  ・加古川市別府町新野辺

寛延三年(1750)年の新野辺村の明細帳の最初の部分を読んでみたい。

(解読文)

         加古郡高砂組

             新野辺村

 一 本高 九百弐拾八石斗弐升  本田畑

   此反別五十拾七町壱反八畝三歩

    

1b8989ef_2  寛延三年、新野辺村の石高は928石は8斗2升であった。

江戸時代の最初の頃の新野辺村の石高は925石1斗1升1合の村であった。

 あまり変わらない。つまり、江戸時代中期も江戸時代の初めに設定された石高が続いている。

しかし、幕府に提出された正保の郷帳(ごうちょう)に記された新野辺村の新野辺村の石高は741石6斗6升3合となっている。

 これは、なんとしたことだろうか。

 その事情を見てみよう。

 姫路藩は、もともと新野辺村の石高は、およそ741石の村であり、それを幕府に届けている。

が、実際は約925石の村として、それに対して税金を課している。

 741石で税金を取られても多く農民の生活は楽ではなかった。

 741石の新野辺村の石高は、太閤検地をもとにした石高であったと思える。

太閤検地の実施された文禄のころと言えば、国をあげて朝鮮半島へ侵略が開始された時代であった。

戦費を調達するために、検地は厳しかった。

太閤検地に数値は、すでに相当の無理をしたものであった。

 新野辺村の収穫高741石がその数字である。

 しかし、江戸時代を通じて、他の村々も事情は同じであるが、姫路藩ではさらに約2割の上乗せをして各村の石高を決めている。

 新野辺村の場合、925石がそれである。

それを基にして、各種の課税が決められた。

 農民の悲鳴が聞こえてくる。

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別府町新野辺探訪(25):新野辺は海の底

2009-08-26 08:55:49 |  ・加古川市別府町新野辺

459269f0  地図の太線は、海抜10メートルの等高線である。

 そのあたりは、急な傾斜なっている。

 海抜10メートルより低い地形の別府町や加古川町あたりは、古くは「加古の入江」と呼ばれた海の底だった。

 万葉集に、次の柿本人麻呂の歌がある。

   稲日野(いなびの)も ゆきす過ぎがてに 思えれば 

心恋しき 可古(かこ)の島見ゆ

 (広々とした稲日野の近くの海を航行していると、船の速度がはかばかしくない。いろいろ思いにふけっていると、やがて恋しい加古の島が見えだした)

 この歌の「加古の島」は、加古川の三角州であろう言われている。

 地図の黒い点は、弥生遺跡で、河口部分(別府町・尾上町・加古川町)から弥生遺跡より以前の縄文時代の遺跡は見つかっていない。

 このことは、このあたりに人が住めるほどの陸化が進むのは弥生時代以後であり、縄文時代も含めて、それ以前の別府町新野辺あたりは海の底だったことを物語っている。

 新野辺あたりは、奈良時代でも人の住めるような状態ではなかった。

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別府町新野辺探訪(24):ナビツマの島

2009-08-26 08:40:22 |  ・加古川市別府町新野辺

9e9221ef_2     風土記にある「ナビツマの島」の物語である。

 奈良の都から一人の役人が、加古川の里に派遣された。彼は加古川の里の女性と結ばれ、女の子をもうけた。

 名を印南別嬢(いなみのわきいらつめ)といい、別嬢は、美しい女性に成長した。

 噂は、時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、妻に迎えるため加古川の地へとやって来た。

 別嬢の胸が高なったが、どうしてよいか分からなく、“ナビツマの島”に身を隠した。

 加古の松原に着いた帝は、別嬢を探したが見当たらない。

 島に向かって、一匹の白い犬が寂しげに鳴いていた。天皇は「誰の犬か」とたずねた。土地の人は「別嬢の犬である」と答えた。

 天皇は、舟をつくり島に渡った。そして別嬢と幸せな生活を始めた。

 これは物語であり実話ではないが、研究者は、ナビツマの島について、「加古川の堆積により出来た三角州であろう」と結論づけている。

 当時、新野辺の海からの西方に“ナビツマの島”のような島があったに違いない。

 風土記は奈良時代に書かれている。

この頃、新野辺あたりは、まだ海であったのかもしれない。少なくとも、人の住めるような状態ではなかった。

*日岡山御陵(加古川市加古川町大野)は別嬢の墓とされている。

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別府町新野辺探訪(23):金沢新田

2009-08-25 11:45:08 |  ・加古川市別府町新野辺

42b87565 地図(国土地理院発行・大正12年)をご覧願ください。

 彩色した部分が、「金沢新田」である。

 この低湿地帯にはじめて開墾の鍬を入れたのは印南郡砂部(いさべ)村の金沢九郎兵衛であった。

 金沢家に残る文書等から判断して、「金沢新田」は、天保四年(1833)ごろからはじまり、天保八年(1837)に完成したと思われる。

 金沢家に残る別の文書では、天保九年に完成となっている。

 これに関して、地元(別府町)の研究家は、「・・・天保八年完成したが、同年には新田の名前も決めず、準備している中に、その年がすぎてしまい、天保九年になってから字名を金沢新田と決め、役所に届けたのであろう・・・」としている。

 この時の新田は84町4反21畝であった。

 開墾費用は、銀854貫85匁五分と莫大で、九郎兵衛にそんな金はなかった。

スポンサーは、加東郡太郎太夫(たろうだゆう)村(現:小野市市場町)の近藤亀蔵であった。

 少し余話を書いておきたい。

  ・・・・神戸電鉄の市場(小野市市場町)から西へ少し行くと太郎太夫というところがある。昔、太郎太夫に近藤亀蔵という大金持ちがいた。

 「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門通れば後光さす・・」と、当時の俗謡にも歌われるほどであった。

 享保年間にはじまる『日本長者鑑』という長者番付が出たとき、東西の横綱としてあげられたのは、東が出羽の本間の財産40万両で、西は播磨の近藤60万両であり、近藤家は日本一の金持ちだった。

 ともかく、近藤一族をスポンサーに、開発願主は九郎兵衛で、金沢新田は完成した。

 お気づきと思うが、基本的に金沢町は金沢新田の上につくられており、そこから名づけられた町名であり、そのもとになったのは九郎兵衛の姓である。

*『加古川市史(第二巻)』・『加古川市誌(第二巻)』参照

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別府町新野辺探訪(22):別府村新野辺誕生

2009-08-25 10:51:27 |  ・加古川市別府町新野辺

60138e0c 図を見て欲しい。

今の別府町である。

別府町は、新野辺・別府そして西脇で別府町をつくっている。

   別府村新野辺誕生

 江戸時代、この地に別府村、新野辺村(しのべむら)そして西脇村があった。

 これら3ヵ村は、明治22年4月1日、新しい町村制により合併して加古郡別府村となった。

 したがって、この時、新野辺村の名称はなくなった。

 しかし、その後も人々は「別府村新野辺」を「新野辺村」と呼んでいた。

 なお、江戸時代、西脇村は行政的には現在の播磨町の古宮組に属していたが、生活は別府村との付き合いが強くなっていた。

そのため、明治22年、西脇は別府村に合併した。

 別府村は、昭和3年11月5日、加古郡別府町なった。

さらに、昭和26年10月1日加古川市と合併し現代に至っている。

 なお、昭和45年3月25日、海岸埋め立てに伴い金沢町が分離独立した。 

*『兵庫県市町村合併史(上)』(兵庫県総務部地方課編集)

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別府町新野辺探訪(21):新野辺組大庄屋②・大歳吉左衛門

2009-08-24 16:28:33 |  ・加古川市別府町新野辺

今、別府町新野辺探訪をしています。そのため、別府町探訪で紹介した話題を再び掲載しています。

 大庄屋・大歳吉左衛門

78s 加古川地方は、儒学をはじめ学問のさかんな所であった。

 まず、『播磨鑑(はりまかがみ)』の著者、平野庸脩(ひらのようしゅう)をあげることができる。

 また、郷里の人々の教育に心を注いだ人として、寺家町に清田藍卿(きよたらんけい)が、学問所を開いている。

 また、志方町野尻(のじり)で玉田黙翁(たまだもくおう)は、虎渓精舎(こけいしょうじゃ)を開き子弟の教育に励んだ。

 別府の新野辺では、寛成年間(17891801)に大庄屋の大歳吉左衛門(後に治部右衛門と改める)が、月に二・三度、村人を集めて修身善行を説いていた。

 これに対して、吉左衛門は藩主・酒井侯より「四郎三郎」の名と、「勧善之堂」という額などを賜った。

 吉左衛門は、天保十二年(1841)五月亡くなり、法名を勧善堂源進翁居士と号した。

 なお、大歳家は、江戸時代を知る貴重な文書(大歳家文書)が多数保存されていることでも知られている。

*『加古川市史(第二巻)』参照

  写真は、大正78年ごろの大歳家

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別府町新野辺探訪(20):新野辺組大庄屋①・大歳家

2009-08-24 16:10:43 |  ・加古川市別府町新野辺

今、別府町新野辺探訪をしています。そのため、別府町探訪で紹介した話題を再び掲載しています。

Img_0999_3  

新野辺組大庄屋・大歳家

江戸時代、各村には村を治める庄屋が置かれていた。

 大庄屋とは、それらの庄屋をまとめる庄屋である。

 つまり、庄屋の中の庄屋であり、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいる。

そして、その組の名は普通大庄屋の居住する村名で呼ばれている。したがって、大歳家の支配下の村々は、「新野辺組」である。

大歳家は、天保9~明治4年(183871)、北在家・植田・備後・別府・口里・長田・今福・養田・池田・小松原・高砂・荒井そして新野辺の大庄屋をつとめた。

 各村の庄屋と違い、大庄屋は苗字・帯刀を許され、農民の代表と言うより、藩(姫路藩)の役人的な性格をもっており、各組中の庄屋への連絡、村々から領主への諸届けの取次ぎ・年貢などの賦課・徴収そして、論争の処理など多岐にわたっていた。

 文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格が与えられ、そして天保9(1838)大歳藤七郎(吉左衛門の養子)へ新野辺組大庄屋が命じられている。

大歳家の大庄屋への就任の背景には、経済的な裏づけと共に庄屋としての功績や地域への貢献という実績があったようである。

 なお、現在の別府町西脇は、新野辺組ではなく古宮組に属していた。

なお、大歳家には地域を知る貴重な文書が多数保存されていることでも知られている。

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別府町新野辺探訪(19):明細帳⑩・もとは浄土宗の村

2009-08-23 13:26:28 |  ・加古川市別府町新野辺

177662bc_2  新野辺には、鶴林寺(浄心院・天台宗)の檀家が多い。

 その理由を『加古川市誌(第二巻)』にみたい。

 新野辺には、もともと長砂村(現:野口町長砂)の西方寺を本寺とする浄土宗に属した三ケ寺があった。

 それらの寺は、円福寺・長谷寺・正覚寺であったことが明細帳等で確かめられている。

 新野辺村の三ヶ寺は現在の野口町の長砂・西方寺(浄土宗)の檀徒であったらしい。

 三ヵ寺とも同じような記述であるので円福寺のヶ所を読んでおきたい。

  一 御除地  小本山長砂村西方寺末寺

         

    浄土宗 円福寺無住

   *除地(じょち)・・税金から除く土地

 これらの寺は、天明の頃から相ついで無住になり、明治4年(1873)についに廃寺となってしまった。

 新野辺村は、やむえず、他の寺へ転宗してゆかねばならなくなった。

 当時、新野辺村は浜の宮神社の氏子の村であり、鶴林寺は浜の宮神社の「神宮寺」であった。

 *神宮寺・・・神仏混合で神社に付属した寺である。神も仏教を喜ぶという考えから僧侶が神社の祭りを仏式で行った。明治時代すべて廃止された。

 新野辺村と鶴林寺の間には、浜の宮神社を介して深い関係があったのである。

 鶴寺林は、威勢がよかった。これらが誘因となり、天明のころ鶴林寺の浄心院へ転宗したものと考えられる。

 なお、古老の話では、「新野辺の住民が酒造りに出かける時も、鶴林寺の檀徒であるといえば便宜が与えられた」という。

*『加古川市誌(第二巻)』参照

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別府町新野辺探訪(18):明細帳⑨・新野辺村は毛見法(検見法)の村

2009-08-23 12:12:07 |  ・加古川市別府町新野辺

A767d9b_2 年貢の算出方法には、定免法(じょうめんほう)と毛見法(けみほう)がある。

定免法は、稲作のできぐあいにかかわらず、石高の一定の税率(免)で年貢を徴収する方法である。

例えば、五ツとは、検地で決められた石高の五割を年貢として藩に納めた。

この方法は藩の収入が確定し、事務も簡単で、収税役人の不正も少ないのであるが、不作の年には農民の負担が大きく、生活が成り立たないという欠点を持っている。

一方、毛見法(検見法とも書く)は、毎年稲作のできぐあいを見て税率を決める方法である。

事務手続きが複雑になる。

そのうえに汚職の原因にもなる。

一般的に享保のころ(171636)から幕府領を中心に「水損・干損」の少ないところ、つまり、生産の安定した村々から定免法を実施し年貢を徴収した。

新野辺村の明細帳(寛延三年・1750)には、次のようにある。

一、 御検見取ニ而御座候

      (おんけみどりにてござそうろう)

新野辺村は、旱魃に弱く、汐風の集落であった。

おまけに砂地で地味はやせていた。

つまり、新野辺村は、農業収入の安定した集落ではなかった。

そのため、年貢は検見法が採用されている。

 *『阿閇の里』(播磨町)参照

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別府町新野辺探訪(17):明細帳⑧・検地役人、加藤弥兵衛

2009-08-23 07:50:57 |  ・加古川市別府町新野辺

6c1a2b2e 慶安二年(1645)、陸奥白河藩から姫路入りした榊原忠次の頃には、播磨南部を中心として新田の開発が盛んに進められた。

 そして、検地役人により新田の高などが決められた。

 もちろん、村にとって高の査定は少ない方がよい。それにかかる年貢が少なくてすむからである。

 藩にとっては、その反対になる。

 そのため、姫路藩の役人と百姓との駆け引きがあった。

 新野辺村でも、このころ新田・畑が開発され、役人は収穫高をきめた。

 明細帳には検地に当たった役人の名が記録されている。

 承応二年(1645)の検地役人のうち左から二人目の加藤弥兵衛に注目したい。

 彼は、播磨地方南部の各村々の検地にしばしば登場する。

   加藤弥兵衛、自刃す <msnctyst w:st="on" address="高砂市米田町米田" addresslist="28:兵庫県高砂市米田町米田;28:兵庫県高砂市米田町米田新;"></msnctyst>

 伝承によれば、寛文年間、米田新田の開発が完成し、検地が行われた際、弥兵衛は検地におもむき、貧しい百姓のために寛大なそちをとった。

002_2 百姓にはよろこばれたが、役人として責任を感じ、帰路、籠の中で切腹したと言われている。

 村人はこれを悲しんで碑をたてた。

 弥兵衛は、藩財政の窮乏を新田開発で切り抜けようとした藩政担当者と農民との間に板ばさみになった犠牲者であったのかもしれない。 

(解読文)

一 新畑高弐石九斗壱合

    承応二年巳三月廿日

        御検地御役人

          鴾田六之助様

          神戸久兵衛様

          中村九郎左衛門様

          加藤弥兵衛様

          竹田四郎兵衛様

 *『阿閇の里』(播磨町)参照

 高砂市米田町米田橋のすぐ西に「弥兵衛」と呼ばれる供養塔(写真)がある。

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別府町新野辺探訪(16):新野辺村の民話⑦・道真お手植の松

2009-08-21 17:32:03 |  ・加古川市別府町新野辺

50fcc68c 延喜元年(901)、正月の下旬の頃です。

右大臣の菅原道真が、藤原氏の陰謀のために、筑紫の大宰府に流される途中、新野辺の沖を通られた時のことです。

空が急に暗くなり、海上は大しけとなりました。

そこで船を浜に着け、松林に難を避けられました。

そして、安田の十五社明神と尾上の住吉の神(尾上神社)に海上の無事を祈られました。

しばらくすると、不思議に風雨がやみ、海上が静かになり再び九州に向かわれました。

そのとき、菅原道真は、松の根を上にして逆に植えられました。

しかし、その後、その松はぐんぐん大きくなり、村人を驚かせたと伝えられています。

浜の宮神社の拝殿の西にある松の株が、その後であるということです。

*『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)より

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別府町新野辺探訪(15):新野辺村の民話⑥・九郎兵衛と蛇塚

2009-08-20 19:08:31 |  ・加古川市別府町新野辺

江戸時代も終わりのころです。金沢新田は、完成しました。

 その後、村人は「九郎兵衛と蛇塚」の話を語り伝えています。

  ・・・・ 

C2f0b7dd  金沢新田の開発中のことでした。

 新田に大蛇を葬ったという大きな塚がありました。

 村人は、これを「蛇塚」と呼んでいました。

 「もし、牛がこの塚の草をたべると発熱するし、人がその塚の草を踏んだだけで熱病する」と恐れられていました。

 金沢新田の開発は進み、蛇塚を掘り起こし、水路を造らなければならなくなりました。

 ところが「大蛇のたたり」を恐れて、誰も塚を掘ろうという者がいませんでした。

 九郎兵衛は、家人に「新田開発も後は蛇塚を残すだけとなった。塚を掘ると大蛇のたたりで死ぬかもしれぬ。それで、他の者に任せてはかわいそうである・・・」と、自ら塚に鍬を入れました。

 幸い、何事もおこりませんでした。

 塚のあとから、蛇の骨のような物が二個出土しました。

 一つを自宅(加古川市東神吉町砂部)に持ち帰り、他の一つは、観音寺(加古川市尾上町池田)に奉納しました。

 ある夜のことでした。九郎兵衛の夢枕に大蛇があらわれ、「私の祠を建てて祭ってくれたら金沢家を守護するであろう」と、いって姿を消したのです。

 金沢家では祠を建てて祭っている。

*『加古川市誌(第二巻)』参照

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別府町新野辺探訪(14):新野辺村の民話⑤・上人山(しょうにんやま)

2009-08-19 20:16:07 |  ・加古川市別府町新野辺

Befu_031_2 昔、浜ノ宮中学校のから南いったいは、松林で覆われた砂丘で、人々から上人山と呼ばれていました。

 林の中の小高い砂丘に一基の五輪塔がありました。

 上人さんと呼ばれた坊さんが住んでいました。

 坊さんは、自分の死が近づいたことを悟ったとき、「私は生きたまま成仏したい。私の打つ鐘の音が聞こえなくなったら、成仏したと思ってもらいたい」といい残し、少しばかりの食料と水を持って念仏を唱え、鐘を打ちながら土中深く生き埋めになりました。

 それから四十日ほどは、鐘の音が聞こえていました。

 その後、人々は坊さんの死を悼み、その場所に塚をつくり五輪塔を建てました。

 その五輪塔や塚をさわると、頭が痛くなったり気分が悪くなったので、たたりを恐れて誰も手を触れなかったといいます。

 ・・・・・(『加古川市誌:第二巻』参照)

 第二次戦争後、このあたりは開発が進み住宅地となりました。

 その時、塚は削り取られ五輪塔だけが残されました。

 現在、五輪塔は田隅医院の南の民家の庭奥にあります(写真)が、元はもう少し西あったとも言われています。

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別府町新野辺探訪(13):新野辺村の民話④・よの木(エノキ)

2009-08-19 09:01:26 |  ・加古川市別府町新野辺

D113f23b_2   よの木(エノキ)

昔、人々の足に「いしふ」という魚の目のようなものができました。

それができると、なかなかなおらなかった。

ところが、新野辺の住吉神社境内にある「よの木」の根を「いしふかと思ったらよの 木やった」と口ずさんで踏むと、不思議なことにその「いしふ」がなおった。

そこで、「いしふ」ができた時は、おとなも子どもも「よの木」の根を踏みに出かけたそうな・・・・

 *『加古川市誌(第二巻)』参照 

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