蝦夷がいた
司馬遼太郎の『空海の風景』を読んでいます。
空海の家系伝説では、空海は讃岐佐伯氏の出として語り継がれています。
讃岐佐伯氏は、中央の軍事氏族の佐伯氏とは別系統です。
少し説明が必要です。
空海は、桓武天皇の時代と重なり、桓武天皇は蝦夷と戦いました。
結果、多くの蝦夷が捕えられ、奈良に住まわされたのです。
捕えられた蝦夷は、俘囚(ふしゅう)と呼ばれ、容易に従いませんでした。
そこで、国は、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波等の畿外に住まわせることにしました。
そして、俘囚を管理する地方豪族に佐伯直(さえきのあたい)という姓(かばね)を与えたのです。
俘囚を管理した地方の佐伯氏は、中央の軍事氏族である佐伯氏と同盟関係を結んでその指揮を受けたと考えられます。
『日本三代実録』(貞観八年・866)に、近江の国から太政官に「播磨国の賀古・美嚢ニ郡の俘囚が勝手に近江に来ている・・・」と訴えた記録があります。
加古郡・印南郡にも俘囚のいたことが『日本後記』にみえます。
印南郡の蝦夷と佐伯氏
「佐伯氏」にこだわっています。
東神吉町升田集落の中ほどに、集落を東西に走る古代山陽路のバイパスに沿って佐伯廃寺跡があります。
石の多宝塔(写真)が残っています。
記録によると、佐伯寺は鎌倉時代の後期に建設されたといいます。
ところが、嘉吉の乱(1441)の時、寺は赤松氏に味方したため焼き討ちにあって、跡地に多宝塔だけが残ったらしいのです。
桓武天皇の時代、佐伯氏は、蝦夷(俘囚)の管理にあたっていました。印南郡にも俘囚がいたことが確認されています。
とするならば、佐伯寺は蝦夷の管理にあたり、この辺りを支配した古代豪族・佐伯氏の菩提寺であったと考えるのが自然でしよう。
『日本三代実録』の仁和三年(887)七月の条に、印南郡の人・佐伯是継が、居を山城(京都)に移したことがみえます。
(佐伯)是継の一族はこの時、山城へ移住したと思えるのですが、一族の多くはこの地に残留したのでしょう。
そして、彼らの子孫は升田に佐伯寺を建設したと考えられるのです。(no4809)
*『加古川市史(一・七巻)』・『加古川市の文化財』参照
*写真:佐伯寺跡に残る石の多宝塔