ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町探訪:庚申信仰

2007-02-28 07:23:17 |  ・加古川市加古川町

_365_1    「コウシンさん・・・・」。

  大野であったおばあさんは、青面金剛(しょうめんこんごう・写真)をそう呼んだ。

  江戸時代、ずいぶん盛んであった。庚申信仰(こうしんしんこう)も現在では、すっかりその姿を消した。

  庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことで、特に、江戸時代に盛んに行われた。

  コウシンさんは、庚申の夜(六十日に一回)、人体に住むというサンシチュウという虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くという。

  そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像を拝んだり、村の庚申さんにお参りに行くという行事である。

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   いつしか、この行事は人々が集まって、一晩中酒を酌み交わし、演芸を楽しむと言う行事に変っていった。

  江戸時代、庚申信仰では、もっぱら青面金剛が拝まれるようになった。

  氷丘地区では、「青面金剛」と刻まれた碑を中津の権現社に一基、大野に二基みつけた。

 *写真は、中津権現社にある青面金剛

  

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加古川の戦争(34)・義勇奉公之碑

2007-02-27 07:39:09 |  ・加古川市加古川町

_341    日本は、清国(明治27・28年)との戦争で勝利した。この勝利は、日本を軍国主義に導くきっかけとなった。

  日岡神社の門(随神門)をくぐると、すぐ西(左手)の小高い丘に、写真のような塔がある。

  この塔は、「義勇奉公之碑」で、戦没者を慰霊するための塔である。

  明治29年6月25日に建立された。

  この時期、日本は日清戦争勝利の余韻の中にあった。

  塔の建立以来、4月20日には加古郡全体の慰霊祭が、この場所で行われた。

  その後、日本は日露戦争・満州事変・日中戦争へと突き進んでいく。

  『大野史誌』(大野町内会発行)は、昭和7年4月20日の加古郡全体の戦没慰霊祭の写真を載せている。

  なお、この慰霊祭に参加した町村は、加古川・高砂・別府・尾上・神野・八幡・加古新・野口・二見・天満・阿閉・平岡・母里そして氷丘の14ヵ町村であった。

  その後、戦争の拡大にともない戦没者は激増した。

  そのため、加古郡の各町ごとに忠魂碑が建立され、慰霊祭は各町村で行われるようになった。

  話を戻すが、日岡山で行われたか慰霊祭の後、参加者は持参の弁当をひろげ、しばし日岡山の春を楽しんだと言う。

  今日のブログは、「加古川の戦争」としてとりあげた。

*『大野歴史誌』(大野史誌編集委員会)参照

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加古川町探訪:大庄屋・荒木弥一右衛門

2007-02-26 16:17:42 |  ・加古川市加古川町

5dd7dad2    江戸時代、各村には村を治める庄屋が置かれていた。

  大庄屋とは、それらの庄屋をまとめる庄屋である。

  つまり、庄屋の中の庄屋という性格を持ち、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいる。

  庄屋と違い、大庄屋は苗字・帯刀を許され、農民の代表と言うより、藩(姫路藩)の役人的な性格をもっていた。

_360   荒木弥一右衛門は、文化7年(1810)大庄屋を命じられ、明治4年の廃藩置県まで続いた。

  大野組は、他の「組」よりも大きな組であった。

  さらに、文政10年には、岡組(稲美町)の20ヵ村も兼ね、およそ50ヵ村を治める、とてつもない、大きな大庄屋になった。

  なお、荒木家には「荒木家文書」として、多くの貴重な文書(記録)が残されている。

*図は「加古郡大庄屋の組み分け図」(『近世加古川の村絵図・庄屋の暮らし』より)・写真下:荒木家屋敷跡の「くすの木」(推定約300年)

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加古川町探訪:日岡山旧石器遺跡

2007-02-24 07:13:12 |  ・加古川市加古川町

_355    昭和24年(1949)、群馬県岩宿(いわじゅく)遺跡の発見により、わが国にも縄文時代以前に人類が住んでいたことが認められるようになった。

  加古川市の丘陵や池からも、多くの旧石器が採集されている。

  今から、一万年以前の後期旧石器時代、私たちの地域にも旧石器文化が広がっていた。

(もちろん、加古川が運んだ土砂でできた沖積地に旧石器遺跡はない。1万年以前そこは海底であった)

  彼らは、生活用具として石器をつくり、火を使用していたが、土器はまだ知らなかった。

  兵庫県の旧石器文化の研究は、アマチュアの三村秀信さん(加古川市志方町)などの調査から始まった。

  三村さんは、旧石器人が狩場とした洪積台地を歩きまわった。

  以来十年、ついに志方町東北部の「七つ池」で旧石器遺跡群を発見した。

  この発見以来、兵庫県の旧石器文化の研究は一挙に進んだ。

  日岡山にも、旧石器人の生活の跡が残されている。

  場所は、常楽寺の山門の前の道を100メートルばかり行った道端の茂の中である。

  写真のような、立て札があるが、夏は草が覆い分かりにくくなる。

  発見された旧石器の一部は、平岡町の文化センターで展示されている。

*旧石器遺跡については、昨年11月9日のブログ「平岡町に旧石器人がいた・山之上遺跡」も参照ください。

  

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加古川町探訪:文観を追え②

2007-02-23 09:16:44 |  ・加古川市加古川町

_357  常楽寺(加古川町大野・日岡神社東隣)の山門の石段を西へ約40メートルのところの小川(新井用水)にかかる橋を渡ると、大きな五輪塔と宝塔(いずれも県指定文化財)がある。

  中央の宝塔(写真)に注目したい。

  常楽寺は「この宝塔は、文観上人の母の墓塔と伝え、文観が、常楽寺の中興として在住していたとき、母をここに葬った」と伝承している。

  『播磨鑑』も、そのことを記している。(『加古川市史(第二巻)』は、『播磨鑑』の記述は何によって書いたか不明で、不審な点も多いと指摘している)

  この宝塔について『加古川市史(第七巻)』を読んでみたい。

  「・・・宝塔としては数少ない巨塔に属し・・・その石材は、西摂六甲山の御影石であるから、山麓の石屋で製作したものを、舟便によって加古川下流の高砂へ運び、さらに川舟によって搬入したものであることは疑う余地がない。

  とすると、このころ石屋へ出張し、御影石を素材として多くの名品を残している名工・大和の伊派の棟梁・行恒の作品と考えてほとんど誤りがないであろう」

  常楽寺の宝塔は、伊派の作品と断定している。

  ここでも文観・西大寺・行恒(伊派)そして常楽寺が結びつく。

  しかし、文観の追跡は、早くも頓挫する。さらに調べて後日報告したい。宿題ができた。

  ここからは素人のつぶやき(仮設)である。聞き流してほしい。

  「西大寺律宗系の伊派の技術は、更に池・用水・新田づくり等の土木技術に発展・利用されたのではないか」と想像する。加古川地方は池・用水・新田の発達した地域である。

*文観について『西大寺末寺帳』・『宝鏡鈔』のご紹介(コメント)ありがとうございました。ハインリッヒさんにお礼もうしあげます。

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加古川町探訪:文観を追え①

2007-02-22 07:53:45 |  ・加古川市加古川町

_091_1    平荘町山角の報恩寺(写真右)の境内の奥にみごとな4基の五輪塔(県指定文化財)がある。この一基から金銅製の骨臓器がみつかった。

  五輪塔は、この寺の僧の墓塔であり、作者は、大和の名工・伊行恒(いのゆきつね)であることがわかった。

  行恒は、大和(奈良)を根拠地としながら摂津の御影を中心にした活動で知られている。

  伊派の石工たちが深く関係していたのが、奈良・西大寺であった。

  報恩寺は、もともとは西大寺の律宗寺院であったらしい。

  鎌倉末期には西大寺流の律宗が、ここ加古川の地にも伸びていたと考えられる。

  話を常楽寺(加古川市加古川町大野)にもどしたい。

_346   『播磨鑑』をベースににして書かれたのだろうが、『大野史誌』に、次のような記述がある。

  「(常楽寺は)正嘉二年(1258)・・・暴風雨のため堂宇は破壊された・・・。小野文観(1278~1357)によって復興され・・・」

  また、「寺伝では、西大寺の末寺であったとの伝承はない。しかし、境内には、五輪塔・宝塔・十三重の塔・宝篋印塔等があるが、これらはすべて、鎌倉末期から室町時代初期にかけてのもので、様式から見て西大寺系(伊派)であろうと想像される」とある。

  ここで少し文観の説明をしておきたい。(「ウィキペディア」より抜粋)

《小野文観》

  鎌倉時代から南北朝時代の僧。

  西大寺に属する播磨の国、常楽寺(兵庫県加古川市)などで真言律を学ぶ。

  後醍醐天皇に重用されて醍醐寺の座主となる。

  鎌倉幕府の調伏(まじないなどにより人を呪い殺すこと)などを行っていたことが発覚し、元徳二年(1331)逮捕され硫黄島へ流罪となる。

  「建武の新政」後、復活した。楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物とも考えられている。

  播磨地方・伊派・西大寺・文観そして常楽寺が結びつきそうである。

  詳しくは知らない。ご存知の方はお教え願いたい。

*写真上:報恩寺(平荘町山角)、写真下:常樂寺の十三重の層塔、『加古川市史(第一巻)』・『大野史誌』参照

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加古川町探訪:常楽寺炎上

2007-02-21 10:10:33 |  ・加古川市加古川町

_353     江戸時代に書かれた『播磨鑑』に「・・・常楽寺の支配下にあった寺は、十八ヵ寺を数えた」とある。

  調査により、確認されているのは十ヵ寺で、後の寺については分かっていない。

  常楽寺(加古川市加古川町大野・日岡神社の東隣)は、大きな寺であったようだ。

  そんな、大きな勢力を誇った寺が、急速に勢力を弱めた理由は、何であったのだろう。

  戦国時代のことである。播磨地方を西(山口)の毛利が支配下におくか、それとも東の信長・秀吉が支配するかをめぐって、一大決戦が東播磨の地で展開された。

  加古川地方は、当時三木・別所氏の配下にあり、その別所氏は毛利に味方した。

(この戦で、加古川城主・糟谷氏のみは、信長方に味方する)

  信長は、秀吉に三木攻めを命じた。

  秀吉は、三木・別所氏に味方する加古川地方の城・寺々を先に焼き討ちにした。

  天正六年(1578)、常楽寺は秀吉の兵火によりすべて焼失したのである。

_354   延宝二年(1678)、一部が再建された。

  その後、多門寺・吉祥院・安養坊・南の坊の四ヵ寺の寺になったが、明治三年(1870)、南の坊を残し、三ヵ寺を廃止した。名も元の常楽寺とした。

  昨年3月、大野町内会は『大野史誌』をまとめた。この本を片手に、常楽寺の探訪に出かけてみたい。

  昨日の常楽寺は、春のような光の中にあった。

  なお、三木攻めについては、1月9日~12日のブログを参照ください。

*写真上は、常楽寺本堂、下は山門。

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加古川町探訪:顔のない仏さま

2007-02-20 09:48:41 |  ・加古川市加古川町

_046_1    「なんや、この仏さん顔ないわ。いたずらされて、かわいそうやな・・・」とある子どもはいった。

  私も「いたずらにしては度が過ぎる」と同じような気持ちになった。

  中津の権現社(加古川市加古川町中津・加古川の水管橋のすぐ東)にあるこの石仏について『加古川市史(第七巻)』は、次のように説明している。

  ・・・・面の中央に磨りこんだU字状の溝がついているほか、全体に損傷がひどい。・・・天文ころ(1540)の造立と推定して、ほとんど誤りがないであろう・・・

  ある時、地元のYさんが、次のように話してくださった。

  「・・・そうやな。この仏さまは大日さんで、頭や歯などが痛い時、石でお顔を擦りますねん。

  そして、その白い粉を痛いところにこすりつけると、ふしぎになおります。

  ・・・なおったら、お礼に河原で拾ったてきた丸い石をお供えしたもんですわ・・・」

  なるほど、仏のそばに丸い石がある。

  こんなお話を聞いた日は、大切な歴史をまた一つ発見した気持ちになる。

  *この石仏は、石棺仏である。石棺仏に関しては、昨年7月26日のブログ「石棺仏」をご覧ください。

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加古川町探訪:氷丘中学校の石棺

2007-02-19 09:45:10 |  ・加古川市加古川町

Dde1ae52_1    氷丘中学校(加古川市加古川町大野)の正門を入ると、向かって右に石棺(写真)がある。

  この石棺は、昭和59年に、ここに設置されたものである。

  神戸新聞は、この石棺を次のように報道した。名前等一部記事を変え転載したい。

  ・・・・石棺は、ふたが失われているものの、長さが160センチ、幅53センチ、奥行き74センチの凝灰岩(竜山石)のくりぬき石棺で、重さ3トンのりっぱなもの。

  古墳時代後期(6~7世紀)に造られたとみられ、数年前に地元の郷土史家が古墳の宝庫・日岡丘陵の南麓で発見した。

  これを、氏が見学したが、祖先の貴重な石造文化財がゴミや草に埋もれたまま放置されている姿を見て、何とか保存できる方法はないものかと、校長に相談。

  市教委文化課を通して、(土地の)持ち主のUさんに話を持ちかけた。Uさんは「教材に役立つのなら」と快く寄贈を申し出て同中での保存が実現した・・・(以下略)

  私事で申し訳ないが、文中の氏とは、ブログを書いている私のことである。

  なお、この石棺の横に、同時代のものと思われる「組み合わせ式石棺の蓋」がある。

  これは大野の保育園の近くに、野ざらしであったもので、昭和61年にそこに建物が建つため、中学校で保存されるようになった。

*写真:氷丘中学校の正門横にある石棺

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加古川町探訪:日岡山の赤い土

2007-02-18 09:56:57 |  ・加古川市加古川町

_033    いまブログは、旧西国街道の辺りをさまよって動かない。

  今日は、少し話題を変え、日岡山の赤土(写真)を取り上げてみたい。

  ずっと以前であるが、『広報・かこがわ』で日岡山の赤土を、元神戸大学の田中眞吾先生は、次のように説明されている。

 

  ・・・時には岩石が含んでいる鉱物が風化して色がつく場合もあります。・・・・たとえば玄武岩は風化すると赤くなります。

  ・・・加古川付近の赤土は玄武岩ではありません。

  その原因は、今から7・8万年前頃から始まる最後の氷期の前に12・3万年前の頃から始まった最後の間氷期という時代があって、気候は現在、熱帯でみられるような激しい風化を受けて、今に見るような赤い色になったのです。・・・

*日岡山の赤い土については『加古のながれ』(加古川市史編さん室)にも詳しい説明がある。

  こんな、大昔の風景を想像しながらの日岡山(加古川市加古川町大野)の散歩も楽しいものです。

  写真は、加古川刑務所(旧神野倉庫・弾薬庫)の一部が、撤去された後の風景(2月8日撮影)である。赤土が、広がっている。

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加古川町探訪:北条直正(加古郡長)

2007-02-17 08:34:32 |  ・加古川市加古川町

5ab00a9f_1    加古郡役所は、麑松(げいしょう)小学校(常住寺:場所は「慶応加古川駅絵図(2月7・8日のブログ)」を参照ください)の一部を仮庁舎として出発した。

  そして、明治19年新庁舎は建設された。「人形の店・陣屋」のすぐ東である。

  今日のブログは、郡役所の話ではない。明治12年に加古郡の初代郡長・北条直正を紹介したい。

  小説『赤い土』(小野晴彦著)で、彼についての詳細を書いている。北条は、まさに義人であった。

  当時、県令(今の県知事)は、森岡昌純であった。彼は薩摩出身で、どこまでも新政府の指示に従うと言う人物だった。

  その彼が、地租改正で「腕をふるう」のである。

  母里地区(稲美町)の税は、江戸時代に比べて一挙に3倍をこえた。多くの農民は税を払うことができなかった。

  197戸と総戸数の半分以上が、土地を失い破産状態となった。

  それでも、県令は農民に税の完納をせまった。郡長の北条は、農民の窮状をだまって見過ごすことはできなかった。

  農民は、鍬を持ち、蓑笠をかぶり県庁に押しかけたこともあった。まさに一揆の再現であった。

  『赤い土』の著者は、北条郡長に県令(森岡)に向かって語らせている。

  「いやしくも官民の間に立ち、職を奉ずる者が民情を述べるのは当然ではありませんか。無理非道な重税を課して、不納となった者を処分するなど、そのような非理非道なことは絶対に行えません」と。

  その後も、農民と郡長の苦難は続いた。

  明治15年、郡長に突然の転任の内示があった。好ましくない人物として追われたことは明らかであった。

  明治時代前期の母里地区の苦闘を、北条直正は『母里村難恢復史略(もりそんなんかいふくしりゃく)』として残した。『赤い土』はこれをベースに小野氏は小説にした。詳細を紹介できなかったので、『赤い土』をお読みください。

 なお、北条直正の劇が製作中と聞いている。楽しみにしたい。

*写真は加古郡役所:『加古川・高砂の100年』(郷土出版社)より

  

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加古川町探訪:橋本関雪

2007-02-16 07:52:53 |  ・加古川市加古川町

9f7da738_1   明治16年、橋本関雪(はしもとかんせつ)は神戸に生まれた。

  関雪は、たびたび文展(戦前の文部省美術展覧会)で賞を受け、特選にも選ばれている。

  後に帝展(戦前の帝国美術展覧会)の審査員も勤めた。

  彼は、海外でも高い評価を受けている日本を代表する日本画家である。

  そんな彼も、若い頃は苦しい生活を経験した。

  16歳の時、困窮した父と共に、現在の加古川市尾上町養田に移った。

  以後七年間、播州での生活が続くことになる。

  高砂では、岸本家をはじめ、関雪を援助した人は多かった。そのため、高砂には関雪の作品が多く残されている。

  加古川町寺家町のY氏宅にも逗留している。この時(明治42年)は、病気養生のためであった。

  Y氏宅には「逗留のお礼と彼の作品を贈る」とのメモが残されている。

  これらの作品の一つが図の「終山進士図」(明治44年作)である。

  図の人物は、鍾馗(しょうき)であり、鍾馗の絵姿は邪気を払う効果があるとして、世に広まった。この絵も、邪気が鍾馗を恐れて橋の下で息を潜めている図柄である。

  この絵は、『加古川の文人展』(平成12年)の表紙を飾った。

  昭和20年2月、関雪は狭心症のため63歳でその生涯を終えた。

  京都の銀閣寺の傍らに、彼の作品を集めた「橋本関雪記念館」がある。

*『加古川宿のスケッチ』(阿木哲郎著)・『加古川の文人展』(加古川文化総合センター)参照

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加古川町探訪:松岡青蘿②

2007-02-15 08:03:11 |  ・加古川市加古川町

278b64e3_2    芭蕉が兵庫の地を踏んだのは、貞享5年(1688)4月25日のことであった。

  兵庫より須磨・明石に足をのばしている。

 (この時、芭蕉は加古川へ来ていない)

  この旅で生まれたのが、良く知られている「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」である。

  なんともユーモラスな句である。蛇足であるが、訳を付けておきたい。

  “夏の月が、こうこうと夜の海を照らしている。静かである。かわいそうに、海の底では、蛸壺のタコは、捕らえられることも知らず、はかない夢をむさぼっていることよ”

  青蘿は、明和5年(1768)、芭蕉75回忌にあたって、明石人丸月照寺境内に「蛸壺塚」(写真)を建立している。

  彼は、心底芭蕉に傾倒していた。

  ここで、青蘿の佳句を二・三拾っておきたい。

    ながむれば、 海また海や 秋の暮れ

    秋近し 露に溢るゝ つゆの月

    三日月に 行先暮るゝ 枯野哉

  青蘿は、京都二条家に俳諧師として召されたが、大きな花は長く続かなかった。

  ヨウという腫れ物ができた。今でいう癌であろう。死を予感したのであろうか、次の句を作している。

   舟ばたや 履ぬぎ捨つる 水の月

     *この句碑は、光念寺(加古川市加古川町寺家町)にある。昨日のブログを参照ください。

  この句を作った6日後、寛政3年(1791)6月17日、青蘿は多くの門人にみとられ、栗本庵から黄泉の国へ船出した。

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加古川町探訪:松岡青蘿①

2007-02-14 08:37:38 |  ・加古川市加古川町

_336_1   貞享5年(1688)、芭蕉は、はじめて兵庫の地を踏んだ。その後、「奥の細道」の旅を終え、大坂で急逝する。

  芭蕉の没後、播磨の地には芭蕉を敬慕する数多くの俳諧師が、きら星のごとく排出した。

  特に、松岡青蘿(まつおかせいら)は、その一人で、蕪村などとともに「芭蕉中興の六人」に数えられている。

  青蘿は、元文5年(1740)前橋藩の江戸屋敷で生まれ、6才の時竹沢家の養子になった。

  しかし、身持ち不慎のため20才の時姫路に移されたが、23才で姫路からも追放されている。

  身持ち不慎の内容は、賭博とも言われるが、はっきりしない。

  その後、諸国を遍歴し、好きな俳諧の修業をつんだ。明和4年(1767)、播州へもどったが、姫路には入れてもらえなかった。

  加古川の大庄屋・中谷家の庇護の下に居を構えた。

  これが栗本庵(幽松庵)である。

  明和5年(1768)、加古川の「善証寺」(今はない)のもとへ参禅し、剃髪した。その日は芭蕉忌だった。

  青蘿は、その時に和尚から授けられた俳号で、「けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな」は、この時の句である。

  彼の俳句に対する名声は高まり、播州一円から多くの門人が集まった。京都の二条家からも招かれるようになった。

  青蘿は、京から遠く離れた加古川の地にあったが、俳人として播磨一国の人ではなくなっていた。

  青蘿の墓碑(写真)は光念寺にある。

  明日、もう少し青蘿の足跡を追ってみたい。

*『近世播磨俳諧史』(難波正司著)参照

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加古川町探訪:山陽巡行(明治18年)

2007-02-13 09:54:14 |  ・加古川市加古川町

6c0e1d5a    慶応3年(1868)、王政復古の大号令から戊辰戦争を経て、明治政府が誕生した。

  明治政府は、成立とともに「天皇様」のありがたさを国民に説明しなければならなかった。

  そのため、6回もの天皇の全国巡行が実施されている。

  そのうち、山陽巡行は、明治18年(1885)7月からはじまり、8月8日の朝、兵庫県入りした。

 夕刻、姫路の本徳寺に入った。

  翌9日、本徳寺を出発した天皇一行は、昼に加古川に到着し、休憩と昼食を、昨日のブログで紹介した旧陣屋(当時、山脇伊平邸)でとった。

  この時、旧陣屋(加古川市加古川町寺家町)は、立派な松の盆栽を陳列し、天皇を迎えた。

  そのため、天皇から「樹悳堂(じゅとくどう)」の名を贈られた。(*悳は徳の本字)

  それにしても巡航は、一日50キロ。夏の真っ盛りの強行軍であった。

  天皇は、猛暑を吹き払うために、北海道から取り寄せた氷を度々食したという。

  巡行に際し、兵庫県は庶民の歓迎について問い合わせている。

  その時、政府からは「立ち止まって帽子を脱ぎ、左脇にはさみ、右手をヒザにあてて礼をする。帽子のない者は、両手をヒザにあてて頭をたれる」

  つまり、立ったままでよいというものであった。さらに、天皇の姿も「庶人拝見勝手」であった。

  明治後期になるとこうは行かない。

  天皇の行幸時は、車であっても、通り過ぎるまで頭を下げなければならなくなる。国家は重苦しさをました。

*『兵庫探検(近・現代編)』(神戸新聞社)参照、写真は「樹悳堂(旧・陣屋)」

  

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