ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

官兵衛がゆく(43):神吉城の戦い⑥・梶原冬庵

2012-12-29 00:08:21 | 黒田官兵衛

援軍は来らず、そして落城

先に紹介した「加古川評定」(天正五年・1577)の行われた時点では、加古川近辺の諸城は、自分たちだけで信長・秀吉との戦いを考えていなかった。

 当然、毛利軍の援軍を頭に描いていた。三木城の援軍を思っていた。

 三木方には、瀬戸内海を圧して進んでくる頼もしい毛利の援軍の光景があった。

 三木方にとっての最大の不運は、毛利方には余裕がなかったこと、そして、何よりも毛利家は天下に覇を求めなかったことにあった。

 「守る」と言うのが元就(もとなり)以来の家訓であった。

 最後まで、強烈な毛利からの援軍はなかった。

 神吉城は、三木方に味方する有力な城にもかかわらず、三木城方からも本格的な支援はなかった。

   梶原冬庵

Photo 以下の梶原冬庵(かじはらとうあん)の話を付け加えておきたい。広く知られているが、多分に伝承の域を出ない。そのつもりでお読みいただきたい。

わずか、梶原冬庵(かじはらとうあん)等数名の援軍があっただけである。 

冬庵は、身の丈六尺余り(182cm)の大男で、13才の時に親の仇討ちで大力の者を組み討ちして以来武勇が知れわたったという。
 冬庵の館は、加古川市大野の中津居構跡がそれだと言われ、現在は権現神社が建っている。

 冬庵の勇ましい活躍のようすは、『別所記』に詳しい。

 冬庵の墓碑(写真)は、常楽寺のすぐ西の真宗寺の境内にある。

 天保三年(1832)、井戸を掘ったとき、頭蓋骨・鎧の一部・鉄玉が出てきた。

 これは冬庵の首であるとして五輪塔がつくられ、祀ったという。

 いま、常楽寺には神吉城の遺構はまるでない。

 落城してから200年後の安政四年(1775)、子孫たちが建立した墓碑があるだけである。

*『別所一族の興亡(橘川真一)』(神戸新聞総合出版センター)参照

<お礼>

今日は、12月29日です。このブログもしばらくお休みします。この一年、ブログをお読みいただきありがとうございました。

新年は、1月5日から「官兵衛がゆく」の続きを「志方城の戦い」から再開させます。

よいお年をお迎えください。

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官兵衛がゆく(42):神吉城の戦い⑤・城主の妻

2012-12-28 08:02:45 | 黒田官兵衛

前号の「城主・頼定の妻はのがれた」のか所を読んでおきたい。

・・・神吉城の合戦は、加古川最大の合戦であり、圧倒的な大軍で囲まれた戦いであった。三木城との戦いを前にして、よけいな緊張をつくりたくなかったのであろう。そのことは理解できる。

それにしても、神吉城の戦いで、頼定の妻は逃れ、子どもも逃げることができた。

信忠軍の囲みの中から、囲みを突破して簡単に逃げられるものではない。

なぜ? 何かがあるとかんぐりたくなる。

  神吉城主・頼定の妻は官兵衛の娘?

Photo神吉城は、落城した。城主・神吉頼定は戦死した。29才であった。

 頼定の墓の傍には、神吉城の戦いで死亡した一族の墓碑(写真)がある。

    頼定の従弟  上野次郎定行  46才

    定行の長男  藤左衛門頼之  25才

    定行の次男  與四郎 定久  20才

 しかし、前述のように敗戦の後に来る、むごたらしい極刑の話はない。

 神吉城の多くの兵士は、逃亡。その後、農民となっている。

 それも、神吉の地で百姓になった者が多い。

 それは、頼定の奥方は、「神吉城主家系図」によると秀吉の参謀である黒田官兵衛の娘である。

 官兵衛の妻・光(幸圓)の子どもは長政と弟の二人だけで、『黒田家譜』には官兵衛の娘についての記録はない。

 『姫路城史』を書かれた橋本政次氏は、神吉定頼の奥さんは、官兵衛の養女ではないかと推測しておられる。

 そうであると、官兵衛からの働きかけがあったであろうし、戦後は何らかの特別の配慮があったと推測できる。

 頼定の奥方は、神吉城を切りぬけ魚橋(高砂市阿弥陀町魚橋)へ落ちのび、身を隠したと言う。

 このあたりの歴史については、さらに確かめる必要がある。

*『神吉村の記録(うもれた村誌を掘りおこす)』(東神吉町神吉町内会)参照

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官兵衛がゆく(41):神吉城の戦い④・落城

2012-12-27 07:39:40 | 黒田官兵衛

    神吉城落城(天正六年七月十六日)

060神吉城落城を『播磨灘物語』は次のように書いている。

・・・・

城主・神吉頼定は、(織田)信忠に降伏を申し出たが、織田方は許さなかった。

信長から、敵将を殺せ、と言う命令が出ていたからである。

このため、神吉は二十日ほど防戦し、城主・頼定の叔父(神吉藤大夫)が内応して、落城した。

頼定はその場で切られた。

(天正六年・1567)七月十六日である

・・・

司馬遼太郎の描く神吉城の戦いは以上のようであるが、広く知られている神吉城は叔父・藤大夫の内応のために敗れたとする伝承について、『加古川市史』は史実ではないとしている。

地元では、三木城の攻防をさまざまに語り継いでいる。

神吉城主・頼定の死も城主を思う気持ちが、藤大夫一人を悪者にしたてたのであろう。

「負けるはずのない戦いだったのに・・・」と言いたかったのかもしれない。

  

    城主・頼定の妻はのがれた

負け戦の後には決まって制裁がまっている。信長の関係した戦の場合は磔等の極刑がしばしばあった。神吉城の戦いではそれが無い。

情け容赦のない刑であれば、戦後の支配が難しくなる。

信忠軍は、30000の兵で2000の兵を蹴散らした。そして、城主の頼定は、斬られた。

その後の極刑はなかった。

神吉城の合戦は、加古川最大の合戦であり、圧倒的な大軍で囲まれた戦いであった。しかし、三木戦を前にして、よけいな緊張をつくりたくなかったのであろう

それにしても、頼定の妻は逃れ、子どもも逃げている。

信忠軍の囲みの中から、簡単に逃げられるものではない。

なぜ? 何かがあるとかんぐりたくなる。

次号では、その「なぜ」を推測してみたい。

*写真:常楽寺(神吉城跡)にある神吉頼定の墓

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官兵衛がゆく(40):神吉城の戦い③・神吉城の戦いに、秀吉・官兵衛がいない

2012-12-26 10:58:45 | 黒田官兵衛

「神吉城の戦い」とそれに続く「志方城の戦い」に秀吉・官兵衛の姿はない。

このあたりの情勢を『播磨灘物語』に読んでみたい。

   

    秀吉・官兵衛がいない

Photo_3 (秀吉・官兵衛は)播州はしばらく織田信忠以下の諸将にまかせ、播州と呼応している北方の反織田勢力を掃蕩するため、但馬に入った。

但馬に、竹田城という山城があったが、この城は秀吉が去年(天正五年)十月に播州に入ったとき、その余力をもって抜き、弟の小一郎秀長を守将として入れておいた。

再度、秀吉が但馬に入ったのは、この年の六月下旬である。播州において、なお神吉城攻めがさかんにおこなわれている時期だった。

但馬は小国であるため、平定は早かった。

そのあと、秀吉は秀長をして、明智光秀の担当する丹波攻略を加勢させた。・・・・この活動は信長の命令による。

さらには、「播州はしばらく織田信忠にまかせよ」というのも、信長の命令によるものだった。

播州に大軍を集中して一国をひっかきまわし、小城々々を粉砕したあと、三木城を孤城にさせ、その三木城については羽柴秀吉にまかせて他の諸隊はひきあげるというのが、信長の方式だった。(以上『播磨灘物語』より)

以上のシナリオを描いたのは信長である。

(復習)秀吉軍は雑軍

「官兵衛がゆく(35):第二次上月城の戦い

・毛利軍迫る」で、秀吉軍は「雑軍」であることを紹介した。再度復習しておきたい。

・・・・

上月城へ援軍が来た。増援部隊は、(天正六年・1578)四月二十九日滝川一益、明智光秀・丹羽長秀が、五月一日に織田信忠・信雄・信孝とそうたるメンバーが出陣した。その兵二万の援軍がウンカの如く播磨へ押しよせた。

予想ができたことであったが、問題が鮮明になった。秀吉は、彼らをまとめ切れなかった。彼の命令は、全体に伝わらなかった。秀吉の戦法をバカにする武将もあった。彼らは秀吉のライバルであった。この時期、播磨の軍勢はまさに雑軍であった。

秀吉は泣きたい気持でいた。

「このままでは、毛利軍に勝てない」と秀吉はあせった。

 信長は、信長のいない播磨での秀吉軍の実態を知った。

 そこで、秀吉・官兵衛を但馬へ移し、自分の代わりに息子の信忠を神吉・志方城攻撃の指揮官にしたのである。

 信長の長男が指揮者であると、援軍の諸将たちはしたがわざるをえなかった。

 *写真:竹田城(朝来市)・ウィキペディアより

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官兵衛がゆく(39):神吉城の戦い②・2000 vs 30000

2012-12-26 00:12:36 | 黒田官兵衛

神吉城の戦い①」の内容から何点かを検討しておきたい。

今回は、神吉城を攻めた30000の兵の数である。

   2000 vs 30000

Photo天正6年(1578627日、神吉合戦が始まった。

神吉軍は三木側から数十人の援軍があっただけで、約2000人であった。

それに対し、織田軍は30000人の圧倒的な人数で押し寄せた。

   30000の兵の意味

以前、この数字について次のようなことを書いたことがある。

・・・攻撃側の大将は、信長の長男・信忠であった。神吉側2000人に対し、信長側は30000人で神吉城に攻め寄せた。

もし、「大将が信長の長男・信忠でなかったらこんなにも多くの兵士の動員がなされたか?信長の長男に対する親ばかの気持ちがあったのではなかろうか」と。

・・・・

「神吉城兵2000」「信長軍30000」「攻める信忠は信長の長男」。この事実だけを知ると「信長の親ばか」と思われてもしかたがない。

しかし、信長は、そんなやわな感情の持ち主ではない。やはり計算上の「30000」である。

一つは毛利軍にそなえる必要があった。

我々は、歴史の結果を知っている。結果は、毛利は東播磨に大軍を送らなかったが、当時としては分からない。

また、三木城からの攻撃に備えなければならない。

三木としても、援軍を送りたかったであろうが神吉城を囲む30000の兵では簡単に援軍を送れない。

もし、神吉城に多くの援軍を送れば手薄になった三木城が攻撃される可能性が高い。

そして、当面は、三木城の味方では東播磨最大の力を誇る神吉城を圧倒的な力で押しつぶす必要があった。

神吉城が落ちれば、他の東播磨の諸城に与える影響は大きい。

その後は、三木城を徐々に料理をすればよいのである。

その数が神吉城の30000である。

*図:神吉城(『加古川市史・第二巻』より)

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官兵衛がゆく(38):神吉城の戦い①・『播磨灘物語』が語る神吉城の戦い

2012-12-25 09:07:10 | 黒田官兵衛

  

  神吉城の戦い

信長の命令で、上月城から秀吉軍は軍を引いた。

そしてその軍が東播磨に押し寄せたのである。

『播磨灘物語』は、それぞれの戦争を詳細に書いているが、神吉城の戦い・志方の戦いについては詳細に語っていない。

最初から、結果が分か過ぎていた戦いであったであるのかもしれない。

なにせ、神吉城に押し寄せた信長の軍勢は三万であり、神吉軍は二千であった。戦力において十五分の一である。

勝てる方法がみつからない。

司馬氏が語る神吉城の戦いのようすを読んでみたい。

   

   『播磨灘物語』が語る神吉城の戦い

Photo(注:人物は広く知られている名前に代えています)

・・・

三木城に籠る播州兵たちも、「こういう馬鹿な戦(いくさ)あるか」と、おもったにちがいない。

かれらは戦といえばたがいに武技と勇気と戦術を競いあう場であると思っていたであろうが、織田方のやり方はちがっていた。

三木城を包囲したままで、手出しをしないのである。

一方では三木城を囲み、一方では神吉城と志方城を攻めるのだが、その攻め方も、まず神吉城の攻撃に重点を置き、志方城については押えの人数を置き、二つの城のあいだの交通を遮断してしまう。

たとえば志方城(城兵約一千)のおさえだけのために、織田信雄の兵三千、明智光秀の兵三千を使用するという費沢さだった。さらに、織田方は海上を警戒した。

海上については、毛利氏が瀬戸内海水軍を一手ににぎっているために、制海権を得ていた。

織田方としては、毛利方が軍船をつらねて播州に兵を送りこんだり、兵糧を搬入したりすることを防ぐため、織田信澄(信長の甥)の部隊を海浜警戒にのみ使用し、兵庫から明石、高砂にかけて、びっしりと兵を配置した。

神吉城攻めについても、力で平押しに押すということをせず、城壁に接して、たかだかと櫓や望楼を築き、その上から城内を見おろして鉄砲を打ちかけ、あるいは火箭(かせん)をうちこみ、ついに城楼を焼くなどして抵抗力を殺(そ)ぎに殺いだ。

神吉城主・神吉頼定は、防戦五日目であまりに勝手のちがう敵の攻撃ぶりに気が萎え、降伏を申し出たが、織田方は許さなかった。信長から、敵将を殺せ、という命令が出ていたからである。

このため、神吉城は小城ながら二十日ほど防戦し、城主頼定の叔父藤太夫が内応して、落城した。

頼定はその場で斬られた。(天正六年・1567七月十六日である。

以上が、神吉城の戦いである。次号では、以上の記述を検討してみたい。

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官兵衛がゆく(37):宇喜多直家

2012-12-24 11:15:24 | 黒田官兵衛

   

宇喜多直家

Photo_2(岡山の)直家は、第二次上月城の戦いで、秀吉側が勝った段階で信長側に走ることを考えていたようである。しかし、秀吉側は、戦わずして上月城を捨てた。

『播磨灘物語』に、司馬氏は直家のエピソードを紹介している。

・・・

第二次上月城の戦いは、ともかくも毛利方の勝利におわった。この戦いに参戦しなかった直家は「病は癒えました」と、岡山から出てきて勝利の祝賀を述べている。

そして、直家は、「後帰陣の時は、ぜひ岡山(直家のところ)にお寄りください、ささやかな酒肴整えてお待ちします・・・」といったという。

これに対し、毛利の武将、小早川隆景・吉川春元は返事をしたものの別の道を帰っている。

密告によると、「直家は、二人を岡山で謀殺し、それを手柄に織田に寝返りにしようとした」と言われている。

・・・・

真偽は定かでないが、それほど直家の信用はなかったらしい。

こんな宇喜多直家を書いておかねばならないのは、直家が支配している「岡山」と言う地理にある。

直家が信長方についた場合、岡山の西で毛利の攻め止まってしまう。つまり三木攻めの可能性はなくなるのである。

官兵衛の調略もあり、第二次上月城の戦いのときも、直家の態度は煮え切らなかった。

毛利軍としても思い切った攻撃に出られなかったのである。

後に紹介するが、信長軍の力が大きくなると、直家は毛利を裏切っている。

    

直家は愚者

次の文も、『播磨灘物語』で司馬遼太郎氏が書いている直家観である。

・・・

かつて、秀吉は官兵衛に(直家について)聞いた。

(直家は)人柄が悪く、全身が計算でできているような男で、家来に対しては倫理観を要求するが、当人はそれが悪いのか、あるいは入り組んでいて傍から見ればないも同然に見えます。

また、人から恩を受けても感傷的になるということもなく、さらに計算上必要とあれば、人の為しがたいことも平気でやってのけます、そういう男のように思われます、と官兵衛は答えている。

・・・

確かに、史料からも直家はそんな人物であったようである。

それにしても、岡山という地理が彼の値打ち(存在価値)を高めていた。

直家の態度は、三木戦にも影響した。

*写真:宇喜多直家の木像

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官兵衛がゆく(36):第二次上月城の戦い②・上月城を捨てよ

2012-12-24 09:43:25 | 黒田官兵衛

 

  上月城を捨てよ!

Photo信長は、第二次上月合戦に出陣しなかった。

そして、播磨へむかった織田信忠(信長の長男)ら信長の子どもたちの軍勢は、上月城の救援が目的ではなかつた。

三木城の監視が目的で、秀吉の応援に向かったのは滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らであり、彼らにしてみれば秀吉はライバルであり、思いは複雑で前号で書いたように信長軍は、まとまりのない軍勢で、その意味では雑軍であった。

戦線は、硬直状態となった。

たまりかねた秀吉は、ひそかに京へのぼった。

信長に上月城での戦況を説明し、信長の播磨出陣を頼んだ。

信長は、秀吉との話をさえぎり、「上月城を捨てよ・・上月城を捨て、神吉城・志方城を攻めよ。そして、三木城を囲め・・・」と命じた。

秀吉は、しばらく自分の耳を疑った。考えが止まった。

しかし、信長の命令は絶対である。

播磨へむなしく引き返した。

秀吉は、「織田氏の勢力がこれほど巨大になったにもかかわらず、なお、反織田の勢力が強く、群小の中立勢力も、織田に味方せずに反織田に味方するのは、人情のない彼の人柄にあるのではないか・・・」と、考えていたのかもしれない。

「上月城を捨てる」ことを聞いた官兵衛も、信長の命令を恨んだ。

「信長の考えは間違っている・・・今後、信用(信頼)がなくなる」と考えた。しかし、信長の命令には逆らえなかった。

  

 尼子氏再興の夢は消えた!

秀吉軍の援軍がなくなった上月城は、羽のない鳥となった。

七十余日の籠城のあげく、城主・尼子勝久は切腹し、この時、多くの城兵も勝久に殉じた。

山中鹿之助は、死なず毛利方の捕虜となった。

これは城主の命により、尼子再興の夢をつなぐためだったと言われている。

鹿之助は、捕虜として毛利方へ送られる途中、備中の高梁川と成羽川の合流点の渡にさしかかった所で、毛利の家臣に切りつけられ命をおとした。

途中で殺害するよう命令があったようである。

ここに、尼子再興の夢は、完全に断たれた。

   

   三木戦へ

天正六年(1578)六月二十六日、秀吉は陣を払って、いったん書写山へ帰えった。官兵衛も同行した。

この後、上月戦のため、三木の抑えのために播磨に駐留した三万を超える兵は、神吉城・志方城の攻撃に向かい、そして三木城に迫った。

いよいよ神吉城・志方城・三木城の戦いに入るが、その前に次号で宇喜多直家のことを少しふれておきたい。

 写真:山中鹿之助(月山富田城〈島根県〉の対岸に立つ鹿之助の像)

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官兵衛がゆく(35):第二次上月城の戦い①・毛利軍迫る

2012-12-23 00:15:59 | 黒田官兵衛

   

  毛利軍、上月城に迫る

Photo野口の戦いは、加古川城からの援軍も得て三日で終わった。

秀吉としては、早々に切り上げなければならない理由があった。

毛利が、動き出したのである。

三木城が、毛利方に走った以上、毛利としてもこれを救援しなければならない。そうしなければ、毛利の信用はなくなる。

とはいうものの、毛利は周到な準備のないままに三木への大軍を向けるわけにはいかない。補給線が延び切ってしまうのである。

毛利は、前の年に失った上月城に狙いをしぼった。

それでも秀吉は、恐れていた。「いま三木に押し入られては、秀吉の7500の軍勢では持ちこたえることはできない」と。

しかし、官兵衛は、「三木への侵略はない」と、判断した。

と言うのは、補給線の問題に加えて、備前・備中・美作(以下岡山とする)を支配する宇喜多直家を調略していた。直家は、この段階で迷っていると感じていた。

毛利としても、直家が織田方に走れば、播磨への攻めは、岡山で分断されてしまう。

毛利としては、直家を信用を置いていないが、直家を毛利にとりこんでおかねばならなかった。毛利としては時限爆弾をかかえていた。

  

   宇喜多直家は、どう動く 

「直家は、毛利を裏切る」

それはあくまで推測であり、宇喜多直家はどう転ぶかわからない。

秀吉は不安であり信長に泣きついた。

「播磨へ援軍を願いたい」と。

さすがの信長も摂津の荒木村重軍、二万を播磨へ援軍として送った。

小さな上月城の周辺に、毛利と秀吉の軍が対峙することになった。

不思議なことに両軍は動かなかった。

宇喜多直家の動きを更にみておくと、彼は、上月城の奪還を毛利に乞いながら、この戦いには病気として出陣していない。

この時、直家の弟の忠家が参戦している。

毛利の不安は、深まった。

官兵衛は「・・・やがて直家は毛利に対して謀反(むほん)をおこす。もう一息・・・」と読んだ。

直家が、寝返れば毛利の勢いは潮のように引くことになる。

それにしても、毛利の軍勢は小さな上月城をぐるぐる巻きに縛りあげている。

それでも動かない。「先に動いた方が負け」とでも言えるようなふしぎな戦いであった。

この時期、上月城内には飢餓が襲っていた。

   

  秀吉軍は雑軍

秀吉側にも問題があった。

後続の援軍が来た。

増援部隊は、(天正六年・1578四月二十九日滝川一益、明智光秀・丹羽長秀が、五月一日に織田信忠・信雄・信孝とそうたるメンバーが出陣した。その兵、二万の援軍がウンカの如く播磨へ押しよせた。

予想ができたことであったが、問題が鮮明になった。秀吉は、彼らをまとめ切れなかった。彼の命令は、全体に伝わらなかった。秀吉の戦法をバカにする武将もあった。この時期、播磨の軍勢はまさに雑軍であった。

秀吉は泣きたい気持でいた。

この雑軍を統率できるのは信長だけである。「このままでは、毛利軍に勝てない」と秀吉はあせった。

彼は、信長の播磨への出陣を必死に求めた。

写真:上月城跡(第一次上月城の戦いで滅んだ上月政範の碑)

 *第一次上月城の戦いについては「官兵衛がゆく18」をごらんください。

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官兵衛がゆく(34):野口城はどこに?

2012-12-22 08:58:42 | 黒田官兵衛

001_2野口の戦いでは、野口城がしばしば登場するが、かんじんの野口城の場所は、現在もはっきりとしていない。

野口城跡について橘川真一氏は、『別所一族の興亡』(神戸新聞総合出版センター)で、次のように書かれる。一部をお借りしたい。

文体等、若干書き変えている。

   野口城

『別所長治記』には、野口城は「播州一ノ名城」と記されているが、規模等は、遺構が残っていないのではっきりしない。

地誌『播磨鑑』(はりまかがみ)には、「野口城長43間、横21間、野口庄在寺家村(じけむら)四方沼田要害ノ城。今ハ田地ト成、村ヨリ半丁ノ方総廻リたけ藪、外ニ堀構」とあり、別の史料(『御領中組々書留』)には「古城跡、長43間、横21間、惣廻り東西に堀有、寺家村より半丁北」とある。

これでみると、野口城は長さが約77.4メートル、横が約37.7メートルあり、四方を沼地で囲まれた要害で、外郭には竹藪と堀がめぐらされていたと想像される。

江戸時代の中期に、すでに田畑になっており、痕跡をとどめていなかったようである。

いつの頃に制作されたかわからないが、「播州三木城地図」(写真下)に野口城が描かれており、「野ロノ城祉本城(三木城のこと)へ三里半、北野邑(村)此地平地也」「大手東向、 同所稲荷社アリ、有寺教信上人ノ寺」とある。

   野口城は野口神社付近か?

9812dfb3「播州三木城絵図」では、寺(教信寺)と稲荷社を抱きかかえるように曲輪(くるわ)があり、堀をめぐらせており、三方が沼地、一方が池(城ノ池)のようである。

教信寺は当時、塔頭も多く、城とともに炎上したと伝えており、城郭の一部として利用されたようで、守りの固い城のようである。

「調査報告」では、野口神社(写真上)の周辺に主郭があったと思われる「岡」をはじめ「構(おかまや)ノ谷」「竹()ノ下」「前田(通称しろのつち・しろのうえ)「古屋敷」等の地名が残されているところから、ここに野口城があったのは間違いないとしている。

しかし、城跡は確定していない。将来の発掘調査を待たざるを得ない。

 *写真上:野口神社、下:「播州三木城図」の描かれた野口城

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官兵衛がゆく(33):鎮魂の神社

2012-12-22 08:38:30 | 黒田官兵衛

   落 城

Snake_015(野口城の戦いでは、三木側からの援軍はなかった)

・・・・

三日目、野口一帯をおおう煙の海を泳ぎ渡るように、新たな兵力が攻囲軍の後方に迫った。

「待ち続けた味方、の援軍がとうとう着いたぞ」

「見殺しにされるかと案じていたが、これで助かった」

城内に一瞬生気がよみがえった。

「幾人かの兵が援兵を城内に導き入れようと裏門を開いて駆けて出た。だが、またたく間に道端に転がった。

味方と錯覚したのは、秀吉方に従って、搦め手(からめて)攻めに加わった加古川城の手勢五百であった。

・・・・

小杉隆道氏は、小説『教信』で野口城の戦いについて以上のように書いておられる。

野口城の兵は、バタバタと倒れた。

そして、戦は終わった。

   野口戦の犠牲者の魂を祭る

先日、教信寺の東の「播磨化成」に至る道を歩いた。

教信寺の東に、稲荷神社(写真上)がある。

神社の正面の少し高い所に説明がある。最近視力が弱りよく読めなかったが、野口戦の説明である。

この稲荷神社は、野口戦で亡くなった多くの兵士の魂を慰めるための神社でもある。

  <余話> 誰を祀る三基の五輪塔?

Snake_016稲荷神社の写真をとっていた時、後ろから声があった。

日ごろお世話になっている地元のTさんだった。

「あの畑の隅に古いお墓(写真下)がある・・・」と教えてくださった。

稲荷神社から南東へ100㍍程の場所である。

その場所は、野口城主であった長井家の墓所であった。

ずいぶん風化した宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、三基ある。

『加古川市史(第二巻)』は、この墓地の写真を掲載し、「野口城比定地付近」の説明がある。

それにしても、この三基の宝篋印塔は誰のものだろうか。

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官兵衛がゆく(32):野口戦④・鶴林寺に残る「禁制」

2012-12-21 07:52:04 | 黒田官兵衛

(余話)なぜ? 鶴林寺と寺宝

Photo 余話である。

前号で、教信寺は野口城と共に闘い焼かれ、多くの寺宝が焼失したことを紹介した。

当時、東播磨の領主は、三木・別所氏の支配下にあり、多くの寺院も三木方に味方し信長・秀吉方と戦った。

そのために、それらの多くの寺は焼かれ、寺宝を失っている。

しかし、鶴林寺には多くの寺宝が残っている。

もちろん、鶴林寺はもともと太子信仰の盛んな寺であり、多くの寺宝を有する寺院であったが、加古川城(加古川市加古川町)の糟谷氏と共に鶴林寺は、秀吉方に味方した理由が大きい。

鶴林寺は、攻撃の対象にならず焼失を免れたのである。

鶴林寺に残る禁制

一枚の書状「禁制」(写真)が鶴林寺に残っている。読んでみたい。(意味のみ)

    鶴林寺のうちでは次のことを禁ずる

    軍勢が一般人に乱暴を働くこと

    陣を構えたり、放火したり、竹や木を伐採すること

    田畑を荒らすこと

    これらに違反するものは速やかに厳罰に処す

         天正六年三月二五日  筑前守(*秀吉のこと) 

秀吉は、鶴林寺の調略に成功し、鶴林寺に攻撃しないことを約束した。

この禁制の日にち(三月二五日)に注目したい。四月、三木攻は、野口城の戦闘から始まった。

結果、三木城に味方した教信寺等多くの寺院は焼かれ、宝物の多くを焼失させ、略奪にあった。

こんな経過で、鶴林寺は多くの宝物を今日に伝えている。

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官兵衛がゆく(31):野口戦③・寺宝焼失

2012-12-21 07:40:54 | 黒田官兵衛

前号で書いたように、野口城の攻防では、野口城の兵はもちろん、教信寺の僧たちも共に戦った。

しかし、三木方からの援軍はなく、野口城は落城し教信寺は炎上した。

この時、教信寺の多くの宝物は焼失してしまった。

本尊の阿弥陀如来像(写真)など数点が奇跡的に残っただけである。

野口城の戦いでは、教信寺だけではなく近在の多くの寺も焼き打ちにあい、貴重な寺宝が失われた。

教信寺(常住院)の小杉隆道氏は『教信()・涅槃』で、教信寺の宝物の焼失時の状況を次のように描いておられる。

『教信(四)』から一部をお借りしたい。

    教信寺炎上

9dd192f2・・・・戦場荒しのこの雑兵どもは、重く閉ざされた扉を破って宝蔵の内部に侵入し、寺僧を切り捨て、手当たり次第に収蔵する品々を引きだした。

清和帝の詔書、崇徳帝の祈願文、五深草帝宸筆(しんぴつ)等帝、上皇の親書、勅額の外縁起(えんぎ)、過去帳,資材宝物帳や多くの古文書、記録簿冊類が経書とともに投げだされ、宝蔵の外には見る間におびただしい反故(ほご)の山となった。

だが、この種の品々は、雑兵(ぞうひょう)どもには無用のものだった。

金銀の類が手に入らないと見ると、狼にも似た男どもは、腹いせに無法な行為に出た。破り捨てた文書の山を点在する書堂の前に積み上げると、次々に火をつけた。

火焔は瞬く間に堂塔をなめ、殿堂諸門一棟も残さず焼き尽くし、仏器、宝物ことごとく灰になった。・・・(以上『教信(四)』より)

    残った阿弥陀如来像立像!

天正6年(15784月、教信寺のすべての諸堂が灰燼となったが、わずかな仏具・仏像が奇跡的に残った。

本号では、そのうち阿弥陀如来立像(写真)を紹介しておきたい。

この像は、戦国期前期から教信寺本尊であったと考えられている。

頭部を除いて大きく修理されているが、全体のお像は損なわれていない。

台座、後背、脇侍は江戸時代後期に修理されている。

台座の銘文から弘化三年(1846)に現在の台座と光背が整えられたのが確かめられた。

*『仏と神の美術(中世いなみ野の文化財)』、『小説・教信(四)』参照

*写真:阿弥陀如来立像(「平安~鎌倉時代、1213世紀」の作)

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官兵衛がゆく(30):野口戦②・援軍は来らず

2012-12-20 14:18:57 | 黒田官兵衛

E7c7f7c7今回も、『播磨灘物語』から始めたい。

官兵衛は、秀吉に野口城の地理を説明している。

・・・・

「(城の周囲には)沼が多く」と、官兵衛はその地理を説明した。

付近に沼や湿田が多く、城はそれらを囲(めぐ)らし、わすかに乾いたところにあった。

このため寄せ手にとっては、一筋程の小径(こみち)を一列になって攻めねばならず、防ぎ手としては、一列の戦闘をいちいち鉄砲で潰しているだけで済む。(以上『播磨灘物語』より)

   野口の地形

話は、すこし、野口合戦をはなれる。

野口城の南に駅ヶ池(うまやがいけ)がある。

印南野台地は、一般的に水が得にくい土地柄で開拓が遅れたが、ここばかりは、地形が西に低く、北と東が高く、水が集まる場所にあった。雨が多い時は沼地になる。

古くから人々は、ここに池を造り、水をためた。そして、田畑を潤し、生活に利用してきたのである。

池を造るための堤は、南と西に堤を防築けば完成する。北と東は、土地が高く堤防の必要がない。

それに、南の堤は、古代山陽道としてつくられ、近くには駅(うまや)が置かれた。このあたりは、古代から開けた土地であった。

   野口城落ちる

秀吉は土木工事を得意とした。沼地のような湿田はたいした問題ではなかった。

彼にすれば「埋めればいい」のである。

城主・(長井)政重は櫓で指揮をとった。勇敢に戦ったが切れ目のない激戦に兵は、徐々に疲れ、多くの兵は倒れた。

最初から、野口軍600の兵だけでは、3000の秀吉軍と勝てるとは考えていない。

三木城からの援軍があり、中と外から秀吉軍を攻めようと考えていた。

しかし、三木方からの援軍はなかった。

三日目であった。「援軍が来たらしい」と城内には一瞬生気がよみがえった。

が、援軍と思われたのは、秀吉側に加わった加古川城の糟谷の兵であった。

政重は決断した。「これ以上の兵の死は無駄である・・・」と。

自分の死と引きかえに残る兵の命を願い出た。

あっけなく、「野口城の戦い」は、三日間でおわった。

秀吉は、城主をはじめ降伏した兵士らの命を助けた。

この戦いは、秀吉・官兵衛の戦(いくさ)であり、信長の判断はなかったと思われる。信長がこの戦いにかんでいれば、城主・政重の命はなかったであろう。

秀吉・官兵衛は、余分な血をみることを好まなかった。

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官兵衛がゆく(29):野口戦①・野口

2012-12-20 11:57:39 | 黒田官兵衛

書写山に陣を構えた秀吉軍は、続く戦に疲れていた。

休養が必要であった、しかし、・・・

ここでも、『播磨灘物語』から引用したい。

  野口

2d26e596・・・信長は、自分の武将たちが懈怠(けたい)していることをもっとも嫌う。

これとは逆に武将たちが少々やり方が間違っていても信長はそれを責めず、その将が時間の無駄なく働き、くるくると隙間なく旋回していることを喜ぶ。

このことは織田家を特徴づけているもっとも強い個性と言ってよい。

・・・(援軍が来る前に抜ける城は抜いておきたかった)・・・

されば、どの城がよいか、と秀吉が官兵衛に聞くと

「左様さ、野口城が手頃でござろうか」と官兵衛は答えた。

「野口か」

「秀吉も、その村が加古川の西(注:東の誤りか)二里、山陽道に沿っているために、村のあたりの地形も記憶にあった。

野口は印南野(いなみの)の西のはしにあって多少の丘陵が起伏し、西から来る旅人にとっていかにも野の入口といった地形をなすために、そういう地名ができたのであろう・・・(以上『播磨灘物語(風の行方)』より)

「野口合戦」を播磨灘物語から引用しているが、司馬氏は時々ハッとするような知識・考え方を提供している。

ここでも、野口の地名を「印南台地(いなみのだいち)の入り」からきていることを説明している。蛇足になるが、太字に注目してほしい。「野口」である。

地元の者もあまり知らない知識である。

司馬氏の博識ぶりに驚かされる。

   野口城

この野口に、小さな平城の野口城があった。

城主は、長井四郎左衛門政重である。

そこへ、秀吉軍が手持ちの兵3000人ばかりで攻めよせた。

対抗する野口方は、軍勢380人に近在の農民、教信寺の僧兵を加えた500人が城に立てこもった。

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