ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

西井ノ口(東神吉町)の写真集(53) 元気でスタート(ツーデイ・マーチ)

2015-10-15 08:04:47 | 西井ノ口写真集

    元気でスタート(ツーデイ・マーチ)

 ツーデイ・マーチは、加古川の秋の一大イベントです。

 毎年、たくさんの人が参加されます。

 写真は、平成6年11月12・13日のものです。

 前の3人は西井ノ口の方で、なお、この写真は、ツーデイ・マーチ写真コンクールの入選作品となりました。

  <お知らせ>

 「西井ノ口の写真集」は、53号になりました。柴田圓治さんが撮影された写真は、この外にたくさんありますが、とりあえずこれまでを一部として終え、残された作品は、後日掲載することにします。

 次号から、官兵衛の時代の神吉城の戦いを中心にした「加古川城の攻防(仮題)」を掲載する予定です。

 正式の題はきょう考えます。

  お願い> 地域の宝物を紹介しましょう

 西井の口の柴田圓治の残された写真集の一部を紹介しました。

 歴史書にはない地区の記録(歴史)です。

 他にも、こんな素晴らし宝物が、紹介もされず眠ったままになっていないでしょうか。

 そんな、貴重な宝物をお知らせください。

 加古川・高砂市、稲美・播磨町の知られていない共有の文化財として記録して、紹介したいと考えています。(no2982)

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(52) 盃状穴(はいじょうけつ)か?

2015-10-13 06:38:17 | 西井ノ口写真集

    盃状穴(はいじょうけつ)か?

 写真のような穴(盃状穴)は、縄文時代からつくられています。

 もともとは、子孫繁栄や古墳時代には古墳の棺に彫られ、死者の蘇生を願ったものとされていました。

 鎌倉時代には村の入り口に魔よけの目的でつくられたり、神社の灯ろうや手水石等に彫る事が多くなりました。

 これが盃状穴(はいじょうけつ)の一般的な説明です。

 しかし、西井ノ口の「四ツ堂」の石の穴は、女の子が草を小石でついてダンゴつくった遊びでできた穴だといわれています。

 この遊びは、大正時代まで続いたそうです。

 どちらにしても、文化財として残しておきたいものです。(no2981)

 *写真上:四つ堂に遺された石穴(正面:平成6年4月8日撮影)

   写真下:  〃       (上からの写真:同) 

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(51) 雪の朝(あした)

2015-10-12 08:25:24 | 西井ノ口写真集

     雪の朝(あした)

 平成6年(1994)2月14日の朝です。

 いちめんの雪景色になりました。

 ・・・・

 最近、雪が少なくなったと思われませんか。

 天気予報によれば、今年の冬は暖冬だそうです。

 でも、1~2回は、雪の風景も見られるといいですね。

 そんな時は、子どもは雪だるまをつくるでしょうか。

 まち角に、子供がつくった雪だるまを見たいものです。

 私ごとですが。最近、孫とよく遊びます。

 子供のいる風景がメッチャ好きになりました。(no2980)

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(50) 川まつり

2015-10-11 07:40:31 | 西井ノ口写真集

    加古川まつり(川まつり)

 西井口のみなさんは「加古川まつり」に参加されました。

 二枚の写真は、平成10年の西井ノ口のみなさんの写真です。

 みなさんお元気です。美しいです。

 以下蛇足です。

   <第1回・川まつり>

 加古川は、暴れ川でしばしば洪水をひきおこしました。

 そのため、改修工事が計画され、昭和8年(1933)、16年の長期を経て加古川改修工事は完成しました。

 そして、竣工式は、昭和9年11月19日盛大に行われ、その日、加古川町内は美しく飾られ、旗行列や提灯行列などで大変な賑わいとなったといいます。

 この改修工事完成を記念して始まったのが「川まつり」です。

 したがって、第1回の加古川・川まつり」は、昭和9年です。(no2979)

 *写真:加古川祭りに参加された西井ノ口のみなさん(平成10年8月1日撮影)

 前号の「この農具はなに?」の解答です。上:米俵締め機、下:縄ない機(細い縄をつくる機械)

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(49) この農具はなに?

2015-10-10 07:01:08 | 西井ノ口写真集

     この農具はなに?

 昭和58年(1983)、長谷川新作宅が解体されました。

 その時、使われなくなったものも含めて、たくさんの農具が残されていました。

 柴田圓治さんは、それらほとんどの農具を記録されています。

 ここでは、その全部を紹介できませんので、次の2点を掲載します。

 クイズです。さて、これら2点の道具はなんでしょうか。

 若い方は、分からないのでは・・・

 答えは、次号のブログに掲載します。(no2978)

 

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(48)  西井ノ口婦人会もがんばりました

2015-10-09 07:13:50 | 西井ノ口写真集

        西井ノ口婦人会もがんばりました

 秋祭の当番の日(平成5年10月17日)西井ノ口婦人会も救護係・放送係で大活躍でした。(no2977)

 *写真:生石神社にて(平成5年10月17日)

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(47) 祭の当番

2015-10-09 07:05:38 | 西井ノ口写真集

      秋まつりの当番(平成5年)

 西井ノ口の氏神さんは、高砂市の生石神社です。

 秋祭は、10月の第3土・日曜日に行われますが、見ものは神輿の練り合わせです。勇壮です。

 祭の当番は8年ごと(現在は6年)にまわって来ます。

 平成5年、西井ノ口は当番で、赤組と黄組の若者が天神社に結集、その後生石神社に参集しました。

 なお、「西井ノ口の写真集」をスマホでごらんになっている方が多いようですが、今回は小さくて分かりにくいですので、できましたらPCでご覧ください。(no2976)

 *写真上:平成5年10月17日、天神社の境内で記念写真を撮る赤組

  写真下:同日、天神社の境内で記念写真を撮る黄組

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(46) 赤米の田植式

2015-10-08 00:37:50 | 西井ノ口写真集

 

      赤米(あかまい)の田植式

 昭和63年(1988)6月25日に行われた生石神社国恩祭に献上する「赤米田植式」の風景です。

 写真上は、西井ノ口の役員さん、下は神吉南小学校の生徒たちです。

    <赤米>

 『赤米』は、表面が赤いお米です。

 よく「古代米」と言われ、お赤飯のルーツのお米です。

 赤いといっても紅色でなく、赤褐色の色素を持った米で、胚乳の部分は白いのですが、表面は「ポリフェノール」という赤褐色の色素を含み、野生種の稲に近いお米です。

 現在のお米は、赤米を改良してつくられました。(no2975)

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(45) 町内の道(昭和56年)

2015-10-07 08:49:53 | 西井ノ口写真集

 

 

    町内の道(昭和56年6月)

 現在、西井ノ口の町中の道もきれいに舗装されました。

 この写真は、昭和56年(1981)6月に撮られた写真です。

 当時は、多くのか所は簡易舗装で、雨が降ると写真のようになりました。(no2974

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(44)  余話として・二つの井ノ口

2015-10-06 13:41:24 | 西井ノ口写真集

 いま、「ひろかずのブログ」では、西井ノ口の写真集を連載していますが、少し気になることがあります。

 「井ノ口」の名称のことです。題を「二つの井ノ口」として、写真集の余話としておきます。

 

            二つの井ノ口村

        井ノ口村から西井ノ口に改称(明治12年10月)

 江戸時代、東神吉町の地には、神吉村・天下原村・升田村・升田新村・砂部村・井ノ口村・井ノ口新村・六本松新村の8か村がありました。
 その内、井ノ口村、井口ノ新村、六本松新村は、明治11年7月に合併し井ノ口村となりました。
 明治12年10月に、上荘地区に同名の井ノ口村があり混乱を避けるため、井ノ口村を西井ノ口村に改称しました。
    東神吉村西井ノ口村誕生(明治22年4月1日)

 そして、明治22年4月1日、新しい村制により神吉村、天下原村、升田村、升田新村(明治39年8月、出河原に改称)、砂部村、西井ノ口村が合併して「東神吉村」(地図参照)が誕生しました。
 昭和31年9月30日、加古川市と合併し、加古川市東神吉町になり現在に至っています。(no2973)
 *地図は、「兵庫県市町村合併史・上」(昭和37年)より

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(43) NTTあたりの風景から

2015-10-06 08:24:53 | 西井ノ口写真集

    NTTあたりの風景(昭和52年2月)

  井ノ口の墓地あたりの風景(昭和52年2月5日撮影)で、写真の建物はNTT西日本兵庫支店宝殿分館です。

 風景は随分変わりました。

 きょうは、この辺りの歴史を紹介しておきます。

    織田信忠(信長の長男)、神吉城を攻める

 天正6年(1578)6月29日。今の暦では8月12日、真夏の太陽がぎらぎら照りつけていました。
神吉の庄の村々には、織田信忠(信長の長男)三万の大軍が満ちみち、神吉城を何重にもとりかこんでいました。
 神吉城にたてこもっている軍勢はわずか2000で、攻めよせる軍勢の十分の一にもたりなかったのです。
織田軍の主力は、西井ノ口の六本松(墓地の付近)に陣を構えました。

 神吉城(神吉町常楽寺が神吉城跡)と西井ノ口の間に戦国時代、加古川の大きな分流(荒井川)が流れていました。

 荒井川を越えての猛攻が始まりました。(no2972)

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(42)  北条街道拡幅工事

2015-10-05 08:37:59 | 西井ノ口写真集

     北条街道拡幅工事

 「西井ノ口写真集(18)・旧北条街道」と合わせてご覧ください。

 北条街道の交通量も増えました。

 そのため、昭和56年(1981)拡張工事が行われました。

 上の写真は、工事中の写真です。

 下の写真は、その前年に撮られた旧山陽道です。(no2971)

 *写真上:拡幅工事中の北条街道

   写真下:拡幅工事前の北条街道 

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(41) 井ノ口小学校の碑(長谷川亀次郎氏の旌徳碑)

2015-10-04 06:49:20 | 西井ノ口写真集

       井ノ口小学校の碑(長谷川亀次郎氏の旌徳碑)

  

  学制(明治5年)により各地に小学校は造られましたが、ほとんどは寺院を借用して校舎にあて、その設備は貧弱なものでした。
 このような時代に、西井ノ口村にピカピカの小学校ができました。立派な洋風二階造でした。

 西井ノ口の篤志家、長谷川亀次郎氏は、独力で一千円を投じて竣工させました。

  明治五年の学制令を受けて、小さな村で校舎を新築して発足したのは、井ノロ村が、県下で最初で最後でした。
 多くの「小学校」が藁屋根であった明治六年に、瓦屋根の、しかも西洋風二階建ての校合を新築したことは驚きです。(no2970)


  *写真:明治六年建設の井ノ口の小学校記念碑(昭和55年4月23日撮影)

 

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(40)  長谷川家という大家があった(2)

2015-10-03 07:00:28 | 西井ノ口写真集

 

      長谷川家という大家があった(2)

 長谷川家(長谷川亀次郎)・申義堂・井ノ口にあった小学校等については「ひろかずのブログ(さんぽ・36~52)」に詳しく説明していますので、ご覧ください。

 なお、そのうち小学校ならびに記念碑については、次号で紹介の予定です。(no2969)

 *写真:解体前の長谷川本家(昭和53年9月20日撮影) 

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(39)  長谷川家という大屋があった(1) 

2015-10-02 07:12:35 | 西井ノ口写真集

 

        長谷川家という大屋があった(1)

 江戸~明治時代にかけて長谷川家と言う大家がありました。その長谷川家の主人・長谷川亀次郎について紹介しておきます。彼の略歴です。

      長谷川亀次郎略歴

 天保9年(1838)   西井ノ口村に生まれる。
     ?年       高砂へ進出。 
 安永6年(1859)  名字帯刀を許される。
 文政元年(1861)  大判27枚を献上 大庄屋並びに五人扶持になる。
   <江戸幕府崩壊>
 明治2年(1869)   県に調達金・木綿代金を多く納める。 
 明治3年(1870)   軍事費を献金。高砂米場の預かり方・取締役に任ぜられる。
                  蒸気船安洋丸をつくり、大坂~高砂を航海する。
 明治5年(1872)   高砂南本町に物産会社をつくる。
                  姫路と三日月町で鉱石の精錬会社を設立。

  明治6年(1873)   高砂・飾磨・船場の姫路藩の御米取扱方に任ぜられる。

                    印南郡に西井ノ口村に学校を新築。福崎町で石灰製造を行う。
  明治12年(1879)   申義堂を西井ノ口に移築する。

  明治22年(1889)   死亡、戒名は釈浄脩(78)、以下略

  長谷川亀次郎は、江戸時代の終わりごろから明治にかけて、大活躍した人です。(no2968)
   *写真:解体前の長谷川本家(昭和53年9月20日撮影) 

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