ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

八幡町探訪:八幡町大変貌

2007-04-30 08:21:31 |  ・加古川市八幡町

Edbc5acc   今、小野市の国道176号線(小野バイパス)と加古川バイパス・国道2号線を結ぶ東播磨南北道路の工事が急ピッチで進んでいる。

  加古川市の中心部と小野市が11分でむすばれるという。

  この「東播磨南北道路」が図のように八幡町を貫く。

  それに、宗佐に第3ランプ(仮称)、中西条の台地(猫池の北隣)に第2ランプ(仮称)ができる。

  さらに、途中の神野に県立病院が移転して追加ランプ(仮称)が建設される。

  八幡町の交通の便は一挙に改善される。

  人口流入も進むだろう。

  八幡町は、加古川市の農村部ではなく、大都市圏の通勤圏に大変貌しようとしている。

  でも、単純に地域の発展とばかり喜んではいられない。

  課題は、どう変貌させるかである。将来の長期・短期のビジョンが必要になる。

  これに対し、地元からの声が聞こえてこない。

  土地ブローカーは暗躍していることだろう。ともすれば地元不在の開発が進む。

  コンクリートと大型販店の賑わいだけの町に変貌させてはならない。

  いそげ・・いそげ・・

*図はパンフ「はりま道しるべ」参照

  「八幡町探訪」をお読みくださいましてありがとうございました。

  まだ、多くの取り上げるべきテーマを残しているのですが、後日に譲り、明日から「西神吉町探訪」に出かけます。史料・楽しい思い出などがありましたら下記のメール(ひろかず)までお知らせください。

  あて先:ひろかず qq7z6tn9@mist.ocn.ne.jp

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八幡町探訪:元は、加古川線国包駅

2007-04-29 10:11:44 |  ・加古川市八幡町

_458   国包(くにかね)は、志方町の投松(ねじまつ)と共に難解地名としてよく紹介される。

  そして、加古川市の人にとっても、国包はよほど八幡地区と思われているらしく、国包には下の写真のような丁寧な説明板がある。

  国包の歴史は、「国包は、元加古川西岸の村」(3月29日のブログ)参照して欲しい。

  ここでも、JR厄神駅(加古川市上荘)を「八幡町探訪」に含めて書いておきたい。

_419   JR加古川線は、大正二年(1913)、加古川~西脇間で開業した。会社名は「播州鉄道」であった。

  開業後、経営難もあり、大正12年(1923)に播但鉄道に経営は移った。

  その後、国鉄に買収され、さらに国鉄民営化の中で、JR加古川線となって現在にいたっている。JR加古川線の歴史ついては、3月1日のブログを参照して欲しい。

  厄神駅に話をもどす。大正五年(1913)、西脇まで播州鉄道は開通した。この時、国包に「国包駅」が設けられた。

  そして、大正五年(1916)に国包と別所(三木市)間に三木鉄道が開通し、翌年、三木まで延長された。

  三木鉄道に「国包駅」が設けれらることになった。それにともなって、加古川線の「国包駅」は「厄神駅」になり現在に至っている。

 現在、三木鉄道は廃止される方針が発表されている。「国包駅」の名称はなくなりそうである。

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八幡町探訪:大日山遺跡

2007-04-28 11:09:40 |  ・加古川市八幡町

_460    弥生時代の遺跡は、沖積平野に集中する。

  これは、この社会が稲作を主な生業とする社会であるからである。

  加古川市内には下図のように、大きく四つの弥生遺跡とその生活圏が確認されている。

  いずれも、法華川・加古川・草谷川の沖積地ないし、低い段丘上に広がる。

  お互いの遺跡は、ほぼ五キロの距離において分布している。これは大阪平野・奈良平野の状況とよく似ている。

  昭和37年3月のはじめ、写真右の弥生土器が発見された。

  場所は、平野部ではなく、八幡町下村の大日山の大歳神社の付近である。

  地元の中学生と小学生が遊んでいて足を踏み込み、穴が開いて土中に土器があったことが発見のきっかけであった。

9cdbec69_1   八幡小学校の当時の校長・黒崎基一、郷土史家・永江幾久二氏らの調査により、弥生後期の大型壷で、この壷は壷棺と使用されていたことがわかった。

  なお、この壷からは何も発見されなかった。

  現在、この壷は加古川総合文化センターの歴史博物館に展示されている。

*『加古川市史(第一巻)』、『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)参照

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八幡町探訪:行者塚古墳④・日岡山から西条への移動

2007-04-27 10:04:05 |  ・加古川市八幡町

C1f403a1_1   右の地図をご覧願いたい。

  加古川市には、大きく日岡山古墳群、西条古墳群、そして平荘古墳群がある。

  もちろん、この外にもたくさんの古墳がある。

  行者塚古墳は、西条古墳群に属している。

  日岡古墳群の多くは、4世紀古墳であり、西条古墳群は5世紀古墳が中心である。

  この二つの古墳の関係が気になる。

  二つの古墳群の関係について、大阪大学の都出比呂志教授は、次のような見解をシンポジウムで述べられている。紹介しておきたい。

  「・・・加古川のこの地方では、この行者塚古墳は5世紀の古墳ですが、その前には4世紀代には、日岡山に有力な墓があったんですね。

  ところが、この行者塚古墳の時期になりますと、移動する。

  その動く時期は、ちょうど大和や河内の大きな古墳が動く時期と一緒なんです。

  ・・・・ということは、・・・大和・河内という当時の政治的な先進地である中央との動きと、地方の動きとが連動している。

  ・・・・実は、この4世紀、5世紀の時代というのは、日本列島各地の王様がお互いに誼を通じた仲良しの連合というものを作っているわけですね。

  ですから、大和東南部に非常に大きな力を持った王様の時期は、その人達と誼を通じた人達は全国にネットワークを持っていた。

  大和の東南部を4世紀に支配していた人は、日岡山の王様と仲良くしていた。5世紀になって河内を拠点とする違う人が治めた時には、西条の王様と仲良くする・・・

  つまり、都出教授は、日岡山から西条への古墳への移動は、中央の支配者の変動に連動した動きと指摘されている。

*『開かれた古墳時代のタイムカプセル』(加古川市教育委員会)参照

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八幡町探訪:行者塚古墳③・加羅への援軍

2007-04-26 14:00:54 |  ・加古川市八幡町

F08655ab_1   古代史の専門家は、行者塚出土の大量の埴輪(写真は一部)の研究等から行者塚は、5世紀初期の古墳であると結論づけている。

  ここからは、素人(私)の無責任な想像を書いてみたい。

  行者塚古墳の出土品の中には朝鮮半島南部からの遺物が多い。

  これは中央(奈良地方)の豪族が、朝鮮南部から得た品物を、地方の豪族に与えたものとも考えられるが、それにしては行者塚古墳には多すぎるのである。

  行者塚古墳の主は、中央の豪族にとって、それほど特別な豪族であったとも思えない。

  5世紀の朝鮮半島の情勢は、百済・高句麗・新羅・加羅(から)、それに中国が複雑に絡み合っている。

  つまり、お互いに相手の領土を狙っていた。

  行者塚古墳から出土品から考えて、行者塚の主は加羅(任那)と関係が深い。

  加羅は、これらの国の中でもっとも弱小の国(地方)である。

  とするなら、当然加羅は、他国と同盟を結んだり援軍を求めたりしたのではないか。

  西日本や北陸の海岸にある古墳にも、行者塚と同じく、加羅地方の遺物を多く持つ古墳がある。

  これらの古墳の主は、加羅へ直接援軍を送ったのではないか。あるいは、食料援助とも考えられる。

  そして、「その見返りとして、加羅からたくさんの宝物を得たのではないか」と考えるのである。

  あくまで、素人の推測として読んで欲しい。

*写真(行者塚古墳出土・盾形埴輪)・『加古のながれ』(加古川市史編さん室)より

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八幡町探訪:行者塚古墳②・朝鮮南部とのつながり

2007-04-25 16:03:10 |  ・加古川市八幡町

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  行者塚古墳からたくさんの遺物が発掘された。

  そのうち、前回紹介した帯金具は中国・晋(しん)の時代のもので、朝鮮半島の金海(朝鮮南部)から伝えられたと考えられている。

  中国大陸のものが交易により朝鮮に渡り、それが日本へ交易により伝えられた。

  その他、多くの種類の遺物がある。

  巴型銅器(写真)は、新羅の慶州・釜山の金海あたりの古墳でも発見されている。

  それに、馬具なども朝鮮南部製と考えられている。

  そのほか、鉄鋌(てってい・鉄の板がね)等が発見されているが、それらは朝鮮半島南部のものと思われる。

  今後、鉄の成分分析が行われると更に詳しく生産地等が特定されるだろう。

  つまり、行者塚古墳の遺物は大陸の、特に朝鮮半島南部の香りをいっぱい詰め込んだ古代のタイムカプセルである。

  それでは、行者塚古墳の築かれた時代、行者塚古墳の被葬者はどんな人物なんだろうか。

  次回からのブログで取り上げてみたい。

  お詫び:仕事の都合で4月21日から昨日までブログを発行できませんでした。お詫びします。

*『KAKOGAWA』(伊賀なほゑ著)、『開かれた古墳時代のカプセル(記録集)』(加古川市教育委員会)参照

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八幡町探訪:行者塚古墳①・古代からのタイムカプセル

2007-04-20 09:33:56 |  ・加古川市八幡町

7daea9f8   加古川市行者塚古墳(ぎょうじゃづか)古墳は、加古川左岸の丘陵に築かれた前方後円墳である。

  かつて、この辺りには、古墳時代後期の群集墳が多数存在していたが、そのほとんどは昭和38年(1963)よりはじまった宅地開発にともなって姿を消してしまった。

  今は、行者塚・人塚・尼塚が残るのみである。

  ここは、昭和48年(1973)「西条古墳群」として国の史跡指定を受けた。

  行者塚の第一次調査(1995)、第二次調査(1996)の調査は、驚くべき内容を明らかにした。

  その一部を『行者塚古墳(発掘調査報告)』(加古川教育委員会・1997)に見てみたい。

  なお、他の人塚・尼塚および西条廃寺については、後日「神野町探訪」で報告する予定である。

  行者塚古墳を「八幡町」に含めて報告したい。

  現在、行者塚古墳は、加古川市山手二丁目となっているが、山手二丁目は、元八幡町中西条と神野町西条の一部が、宅地造成に伴い、昭和58年11月21日新しく設営された地域である。

 行者塚古墳は、古代の不思議をいっぱい詰めたタイムカプセルである。

 「行者塚古墳の秘密」を、今日を含めて4回シリーズで紹介したい。

*写真は、行者塚古墳から発見された帯金具。

 『行者塚古墳(発掘調査報告)』(加古川教育委員会)・『かこがわ万華鏡』(岡田功著)参照

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八幡町探訪:虫送り

2007-04-19 09:46:48 |  ・加古川市八幡町

E056267   今は消えてしまったが、かつて農村で行われた大切な行事があった。

  「虫送り」である。

  蝗(いなご)などが大量に発生した年は、たちまち生活は破壊された。

  中西条(加古川市八幡町)の山本定次さんは、『ふるさと・やはた』に「除虫祭(虫送りまつり)」ついて寄稿されている。

  ・・・・この祭りは、氏神八幡神社で毎年七月の土用三郎(土用に入ってから三日目)の日、稲の害虫駆除を主として、一般農作物の害虫を除き豊作を祈念するお祭です。

  ・・・夕方から、各農家より麦わらの束を持ち寄って神社にあつまり、神主さんより種火をいただき、各自持っている藁束に火を点じ、その火が消えないように振り回し、「・・・虫送りせんかいなあ、さねもりさんのお供せい・・」と言いながら、一列縦隊の行列をつくり、夕闇の細いあぜ道を通って、加古川の太子岩の左岸まで送って行った。

  最後は、河川敷に掘った穴に、その火を投げ込むのであるが、その道中の有様はまことに壮観であった。

  後日、「八幡神社御祈祷御守護」と書かれ、その右に小さく「五穀豊穣」、左に「家内安全」と書いて印を捺したお守札の配布を受け、それを各田の水口に竹にさしてたてるのである・・・

  こんな虫送りの行事も、農薬の普及した現在ほとんど姿を消してしまった。

*『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)参照

 挿絵は淡路市北淡町野島の「虫送り」、『暮らしの歳時記』(のじぎく文庫)より

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八幡町探訪:雁戸井用水

2007-04-18 10:13:41 |  ・加古川市八幡町

_450   加古の大池から西方へ、舌のように台地が伸びている。

  ここは水が得にくく、ほとんどが山林のままであった。

  それでも、明治30年頃から開墾がはじまった。

  しかし、土地は平坦でなく、水源がとぼしく依然として開墾は、進まなかった。

  明治38年、耕地整理法が、改正されたのを契機に開発の機運が高まり、明治39年に「雁戸井水利組合」を発足さた。

  「雁戸井用水(がんどいようすい)」というのは、加古郡稲美町母里(もり)の通称、雁戸井に堰を設け、そこから水を引く計画のためである。

  水路と非灌漑期に水を貯めておく三つの溜池(一号池・二号池・三号池)工事は、明治45年にはじまり、工事は大正5年にほぼ完了した。

  が、三号池は、土質の関係上、特に、保水力が弱かった。

  三つの池は完成したが、毎年一号池(写真)のみの満水さえ十分でなかった。

  二号池は、下村と上西条(共に加古川市八幡町)の境界に揚水場を定め、モーターで揚水している。

  その後も改修が繰り返されされ、146へクタールの水田が得られた。

  現在、三号池は埋め立てられ、高岡住宅となている。

*『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)、『兵庫のため池誌』(兵庫県農業水産部農地整備部)

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八幡町探訪:四人小僧

2007-04-17 09:37:08 |  ・加古川市八幡町

_453   八幡神社より野村への中間に小さな野々大神社(写真下)がある。

  昔は、気持ちの悪い、淋しいところであった。

  ここに面白い、「四人小僧」という話が伝わる。

  ・・・(むかしむかし)この辺りは、昼なお暗い森であった。野村(加古川市八幡町)に住む勘助は帰りを急いでいた。

  その時、突然目の前に白装束の「四人の小僧」が行く手をふさいだ。

  「でたぁ!どうぞお助けを・・・」と、勘助は、ほうほうのていで村へ逃げ帰った。

  「いや・・・面白かったな。とんで逃げよったわ」と、森の狸たちは大喜びだった。

  狸たちのイタズラは、だんだんエスカレートした。

  村の者は、誰一人として無事に森の道を通りぬけることはできなかった。

  しかし、この道は隣村へ行く大事な道。

_451

  「何とかせんと村が大変!化け物を慰めてはどうか・・・」

  古老の提案で、道端に小さな祠(写真上)を建て、季節の作物、食べ物を供えたところ、その後、四人小僧の姿が見られなくなった。

  食べ物はなくなっていた。

  もう、人間を驚かすことに飽きたのかもしれない・・・

*『今はむかし、伝説紀行』(神戸新聞出版センター)参照

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八幡町探訪:綿作

2007-04-16 08:59:45 |  ・加古川市八幡町

C7b7410b_1   江戸時代、大坂や江戸の巨大都市が生まれた。

  交通も発達し、商品の流通は盛んになった。

  江戸時代の後半、綿花は商品として大規模に栽培された。

  特に、姫路藩は、財政改善の切り札として綿を藩の専売として奨励した。

  姫路木綿は、品質がよく、江戸で大好評を得た。木綿の多くは、加古川地方で栽培された。

  文化14年(1817)、上西条(加古川市八幡町)では全耕地面積の21.9%に綿が植えられ、新田のみでははるかに多く、本田の2倍以上を占めていた。

  ここに下村(加古川市八幡町)の綿作の記録がある。下村も畑地と新田畑に集中している。

  綿作比率は、文化4年(1807)まで、全耕地の10%に満たなかったが、文化10年後に急速に増加し17.3%を占めている。

  特に、畑における増加は著しく、享和年間の2・3倍の面積を綿花が占め幕末にいたっている。

  下村の総面積に対する綿作比率(%)の推移を挙げておきたい。

  享和元年(1801)   8.2     文化4年(1807)   8.2  

  文化10年(1813)   17.3     文政5年(1822)  17.4

  天保3年 (1832)  13.4     天保13年(1842)  16.2  

     弘化4年 (1847)  14.5 

  秋には真っ白い綿花の風景が広がっていた。

*『近世農業経営の展開(岡光夫著)』(ミネルヴァ書房)参照

 挿絵は「つんだ綿花を持ち帰り目方を懸けている図」(綿圃要務)より

  

   

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八幡町探訪:太子岩付近

2007-04-15 09:54:20 |  ・加古川市八幡町

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  中西条(加古川市八幡町中西条)の山本定次さんは、昭和20年ごろの思い出を『ふるさと・やはた』に、投稿されている。一部を引用したい。

  (太子岩付近の)比較的浅かった所では、鮎釣りをしする人や雑魚とりの好きな人が網を張り、上流から鮎を追って投網を打ってこれを捕獲していた。

  ・・・子どもは石の下に隠れているエビや雑魚をすくい取るなどして夏の間は楽しかった。

  五か井堰の水門辺りは小砂利が多かったから、シジミ貝がよくいた。じょれん鍬で石ころをすくい、「とうし」でふるとシジミが混じっているのでそれをとった。

  太子岩付近は、蛍の名所で、六月初旬になると、たくさんの大きな宇治蛍が飛び交い明滅するので、麦わらの束を持って行き、それを捕らえるのも楽しみであった。

  夏休みになると児童は、昼休みの時間に太子岩付近に泳ぎに行って、タニシを糸でくくったのや、米ぬかでつくった団子を餌にして岩に隠れているエビを歩引きだし、それを網ですくい上げて楽しんでいた・・・

  先週、太子岩へ行ってみた。写真のようなプレートが太子岩があることを示していたが、かんじんの太子岩が見つからない。

  よくみると、草に覆われ、テッペンが禿(かむろ)のように太子岩がかすかに見える。

  山本さんが遊んだ風景ではなった。

*『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)参照

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八幡町探訪:寛延一揆②・姫路藩ゆらぐ

2007-04-14 09:28:09 |  ・加古川市八幡町

4469f9c   寛延二年(1749)、西条組大庄屋・沼田平九郎宅(現:加古川市八幡町中西条)は一揆衆に打ち壊された。

  当時の状況を見ておきたい。

  1741年、奥州・白河藩(藩主・松平明距)は、姫路への転封が決まった。

  藩内の商人は、借金の返済を求めたが、借金を踏み倒しての姫路入りとなった。

  姫路への引越し費用を江戸の商人からの借金でまかなった。

  この時、商人と「借は姫路で支払う・・」という約束をした。

  姫路に入るや、年貢の引き上げ等により増収をしなければならなかった。

  その上、延享二年(1745)、家重が九代将軍を引き継ぎ、朝鮮国からお祝いのため。延享五年(1748)、477名が来朝し、途中一行は、室津(龍野市)に立ち寄った。

  幕府は、この接待を姫路藩に命じた。二万両を必要とした。

  借金まみれの姫路藩に商人は協力しなかった。

  更に、悪いことがかさなった。

  明距(あきのり)の姫路入部以来、6年に四度の暴風雨に見舞われ、凶作が続いた。

  48年も、大干ばつと台風で「稀有の凶作」となった。

  藩は、「農具を売ってでも年貢を納めよ」という強攻策にでた。

  沼田平九郎は藩に迎合した。

  年貢の減免を願い出た百姓は投獄された。

  百姓たちの不満が爆発した。

  滑(なめら・夢前町)でも、甚兵衛が中心となり大庄屋宅を打ち壊した。野谷新村と夢前(飾西郡)で燃え上がった一揆は、図のように瞬く間に姫路藩を震撼させる一揆にひろがった。

  藩から足軽部隊が出動した。亀山・船場(姫路市)本徳寺も百姓を説得した。

  やがて、一揆は終息。厳しい調べが大坂奉行所で行われた。

  寛延三年(1750)九月判決が言い渡された。

    野谷新村  伊左衛門  磔刑

    滑村     甚兵衛   磔刑     *その他、獄門三名

  伊左衛門は六月、大坂の牢で亡くなり、死体は塩漬けにされていた。

  藩は、塩漬けの伊左衛門を市川河原に引き出し磔にした。

*『兵庫県史(第四巻)』、『加古川市史(第三巻)』参照

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八幡町探訪:寛延一揆①・沼田平九郎

2007-04-13 09:31:10 |  ・加古川市八幡町

2cff2f9a   『寛延一揆」は、寛延二年(1749)正月から二月にかけて起こった。

  この一揆は、その規模の大きさ、後世への影響から見て、姫路藩政史上最大の農民闘争であったといえる。

  火の手は、野谷新村(現:加古郡稲美町)からはじまった。

  野谷新村の伊左衛門(いざえもん)は、五人組の頭を勤めていた。

  彼は、日ごろから豊かでない村への御用金や年貢の増加に反発していた。

  野谷新村は、西条組大庄屋・沼田平九郎(現:加古川市八幡町中西条)の支配下にあった。

  平九郎は、かねてから、あまりにも藩に追従しているという風聞があった。平九郎に対する不満が、「平九郎宅を打ち壊せ・・」という機運へと高まっていた。

  このような平九郎に対する不満は、本来は西条組だけの問題であるはずなのに、他の組の村々からも非難されていた。よほど目立った存在であったのだろう。

  寛延二年の正月・10日頃から「西条組大庄屋を討ち潰すべし・・」という張り紙があちこちで張り出された。

  正月16日七ッ時(午後4時ごろ)村々で早鐘がならされ、大勢の人々が鳶口や熊手を持って押し寄せた。

  まもなく、平九郎宅は散々にうちつぶされた。

  この打ち壊し計画の中心は伊左衛門であった。

  姫路全般一揆は、平九郎宅打ちこわしという一件から姫路藩を揺るがす全藩一揆へと広がった。

  一揆の後には厳しい取調べがあった。

  明日のブログでは、全般一揆の背景と経過を見たい。

*『加古川市史(第二巻)』、『加古の流れ』(加古川市史編さん室)、『マンガ・日本の歴史』(中央公論社)参照

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八幡町探訪:法華塔(下村)

2007-04-12 08:19:43 |  ・加古川市八幡町

_440   1830年12月、文政から天保へと年号が変えられた。

  天災が続くので、縁起をかついでのことだったが、皮肉なことに天保年間(1830~43)は、天候不順・凶作と飢饉の時期となった。

  とくに、天保四年(1833)以来ひどい気候不順・凶作・米価暴騰、ひいては飢饉がつづき、天保七・八年は頂点を迎えた。

  京都や大坂でさえ、餓死者がでた。

  下村(加古川市八幡町)でも、事情は同じで、さらに悪いことにハヤリ病が流行した。

  村人は困り果て、この「法華塔」(ほっけとう)を建て祈祷した。

  不思議なことに、それ以来悪疫はやんだという。

  明治30年(1897)、再びこの地に悪疫が大流行した。

  村人は、天保のころの出来事を覚えていた。法華塔を清掃し、祈祷をした。

  明治30年のようすを平岡町中野に残る記録から、その状況を見ておきたい。

  「・・・60歳になる老人も、今年のような大不作は初めてという。

  原因はウンカが異常に発生し、十分に予防できなかったため大不作になった。

  その上、加古川の堤防が、大雨のために破損し家屋も流れた・・・」と記録している。

  下村とても状況は同じだったことだろう。

  なお、法華塔が建てられたのは天保九年(1838)八月のことである。

*『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)、『中野村坪狩記録』(加古川市史編さん室)参照。

  

 

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