明治のはじめ、加古川町は印南郡加古川町(かこがわまち)でした。明治10年6月30日、西河原は加古川町から独立し、鳩里村に編入され西河原村が誕生しました。
他の村に編入するのですから、何らかの理由があったと思えるのですが、記録がないため分かりません。
「西河原」の名称は、加古川町の一部であった当時、加古川町の西方の川沿いに位置したところから付けられた名称です。
私は、加古川の東側にあるのに「西河原」と言うのは、てっきり「加古川の流路が変わったためだろう」と思いこんでいました。
確かに、加古川は洪水のため、幾度となく流路を変えましたが、「西河原」は明治10年の村名で、加古川町の方向から見て付けられた名称です。
私の思いこみであれば、たいしたことはないのですが、加古川市中学校社会科の副読本『私たちの郷土・加古川』に次のような記述があります。
「加古川市・高砂市全図」で「西河原」や「岸」「中津」と言う地名をさがしてみて・・・
これらの地名からも分かるように、かつて加古川は固定した流路をもたずに、今とは全然違う場所を流れていたのよ・・・
私たち、加古川市住民としては、川を中心にして考えてしまいがちです。しかし「西河原」は加古川町(かこがわまち)、つまり東の方向からみた名称です。次回の改定で訂正して欲しい。
なお、加古川町が「本町」の名称に改称したのは、昭和26年1月1日のことです。地図をご覧ください。たしかに、「西河原」は「本町」の西にある。
*地図の太い線(寺家町商店街を通る道)は旧山陽道