団平、妻・八重を亡くす
安政四年(1857)31才の時、高砂清水町に住んでいた佐藤市次郎の二女八重を娶りました。
愛情は細やかで、常徳寺におさめられている位牌によれば、6人の子供をなしています。
六人目に生れた女児の出産のために八重は31才で落命して母子ともなくなりました。
団平は、芝居の出勤にも、弟子達の指導にも困って、贔屓の旦那衆より種々すすめもあったのですが、京都祇園の茶屋の女主人・沢田「ちか」を迎えて後妻としています。
千賀女との再婚
千賀女(ちか)は、西陣の染物業沢田安兵衛の二女で備中松山の城主板倉周防守につかえ、一人の男子をもうけたが、周囲の妬みがきびしいので、暇を乞うて京都に帰り、茶屋家業を初めていたといわれています。
しっかりした、真の強い人であったことは間違いなさそうです。
当時、大坂義太夫弾の名人といわれる団平が妻を失い子供をかかえて困っている話を知って、団平の性行を承知の上で、自分の仰くべき人はこの人の他にはいないと自ら進んで団平の後妻に押しかけています。
千賀女が家に入ってからは、子どもの教育は元より、家事一切を引受けて世話をしました。
千賀女には、創作の才がありました。壷坂の台本は千賀女の手になるものです。
千賀女の人柄の一端は、映画「浪花女」にもえがかれており、想像はできます。
むかし、文楽座関係の人を煩わし写真を見た人の言によれば「千賀女はよく肥った頗すこぶる大柄な女で気品もあり、十人並以上の美人」であったと伝えています。
千賀女の死は、今で言う疫痢で、死に瀕しても便をとってもらうことを承知せず、自ら便所に通うような無理を重ねたそうです。(no5649)
*写真:壷坂寺にある「壷坂霊験記」主人公、お里と沢市の像