ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町旧鳩里村探検(37) 粟津(10) 豊沢団平(4)・千賀女との再婚

2021-09-30 08:52:41 | 加古川町(旧鳩里村)探検

       団平、妻・八重を亡くす

 安政四年(1857)31才の時、高砂清水町に住んでいた佐藤市次郎の二女八重を娶りました。

 愛情は細やかで、常徳寺におさめられている位牌によれば、6人の子供をなしています。

 六人目に生れた女児の出産のために八重は31才で落命して母子ともなくなりました。

 団平は、芝居の出勤にも、弟子達の指導にも困って、贔屓の旦那衆より種々すすめもあったのですが、京都祇園の茶屋の女主人・沢田「ちか」を迎えて後妻としています。

        千賀女との再婚

 千賀女(ちか)は、西陣の染物業沢田安兵衛の二女で備中松山の城主板倉周防守につかえ、一人の男子をもうけたが、周囲の妬みがきびしいので、暇を乞うて京都に帰り、茶屋家業を初めていたといわれています。

 しっかりした、真の強い人であったことは間違いなさそうです。

 当時、大坂義太夫弾の名人といわれる団平が妻を失い子供をかかえて困っている話を知って、団平の性行を承知の上で、自分の仰くべき人はこの人の他にはいないと自ら進んで団平の後妻に押しかけています。

 千賀女が家に入ってからは、子どもの教育は元より、家事一切を引受けて世話をしました。

 千賀女には、創作の才がありました。壷坂の台本は千賀女の手になるものです。

 千賀女の人柄の一端は、映画「浪花女」にもえがかれており、想像はできます。

 むかし、文楽座関係の人を煩わし写真を見た人の言によれば「千賀女はよく肥った頗すこぶる大柄な女で気品もあり、十人並以上の美人」であったと伝えています。

 千賀女の死は、今で言う疫痢で、死に瀕しても便をとってもらうことを承知せず、自ら便所に通うような無理を重ねたそうです。(no5649

 *写真:壷坂寺にある「壷坂霊験記」主人公、お里と沢市の像

 

 

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加古川町旧鳩里村探検(36) 粟津(9) 豊沢団平(3)・弘化元年(1844)18才で豊沢団平を襲名 

2021-09-29 06:53:03 | 加古川町(旧鳩里村)探検

   *写真の彼岸花のある風景は本文と関係はありません。でも、団平の三味線に対する情熱と重なるように感じます。

   弘化元年(1844)18才で文楽座に出演

    そして、豊沢団平を襲名  

 団平は、平蔵の末っ子として文政10年(1827月21日、寺家町の醤油屋に生まれました。

 幼名は、丑之助とも力松といわれました。

 芸界に入った初めの名が力松で、常徳寺の記録は全部、丑之助です。

 竹本千賀太夫の養子となりましたが、千賀太夫のすすめで三代目豊沢広助に入門して三弦を始めました。

 そして、天保9年12才の春に力松を名のりました。

 一度三弦を習い始めると、人に倍して熱心であったので上達もいちじるしく、天保11年の春に天満の芝居に出、初めて三段目を弾く身になりました。

 弘化元年、18才で文楽座に出て、豊沢団平を襲名し、長門太夫の合三味線であった清七の代役をつとめています。

 清七が、遂に病に倒れたので長門太夫の所望とあって、多くの先輩をこえて名人、長門太夫の合三味線となったのです。(no5648



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加古川町旧鳩里村探検(35) 粟津(8) 豊沢団平(2)・団平は、寺家町で生まれる

2021-09-28 06:39:15 | 加古川町(旧鳩里村)探検

   団平は、寺家町で生まれる

 団平は、家寺町に生まれました。

 家は代代醤油屋であったといわれています。

 今の寺家町330番地を含む一角です。

 昭和39年当時、玉岡昌二氏によると四代前の健蔵氏の代に寺家町に出て来て、初めはその家の一部を借りて住居を初めたのですが、間もなくその家を買取ったとのことです。

 この家の裏に近年(昭和39年)まで醤油蔵であったかと思われる建物が残っていたのですが、腐朽のため倒壊して、今それをしのぶものは残っていません。

 父・平蔵は作州(岡山県)尾崎村の竹内氏の次男として生まれ、加古家に入り養子となって仁右衛門を襲名しました。

 父・平蔵は、晩年尾崎村に帰っています。

 団平の父平蔵は、当時の記録によると放埒で大酒を呑みで、遊興にふけって京の島原、大阪の新町あたりで名が知られた人物でした。

 その上に、義太夫浄瑠瑠を好み、多くの芸人を愛して、これがために家産は遂に散逸してしまったといいます。 

 団平の養父(叔父)、加古安次郎の代になって、隣なる加古川町(寺家町)へ移転しました。

 その家は、立派な大きな家でした。

 その家が、安次郎氏が加古川へ来て住んだ家、そして団平が生れた家です。(no5647

 *写真:「豊沢団平誕生之地」の碑

 

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加古川町旧鳩里村探検(34) 粟津(7) 豊沢団平(1)・豊沢団平って誰?

2021-09-27 07:34:31 | 加古川町(旧鳩里村)探検

         豊沢団平(とよさわだんぺい)って誰

 明治31年4月1日、場所は大阪の稲荷座です。

 その日、義太夫三味線の名手、豊沢団平の音色は、ことのほかさえ、き聞き入る人々を魅了していました。

 九分どおり済んだと思われた時でした。団平は、ハタとバチを落とし、前のめりにガックリ肩衣のまま倒れました。

 意識不明のまま団平は、病院に運ばれる途中絶命しました。この時、71歳でした。

 三味線界300年の歴史を通じて、その右に出るものなし、とまでいわれた団平の死は、いかにも、この人らしい終末を飾る劇的な風景でした。

 有吉佐和子は団平をモデルにして、小説「一の糸」を書いています。

 彼は、本名を加古仁兵衛(かこにへえ)といい、加古家は団平から数代前に粟津から寺家町に移転して、醤油醸造を家業としていました。

 粟津の常徳寺が加古家の菩提寺で、団平はこの境内に眠っています。

 わたしの行く、友達の理髪店の裏が常徳寺です。

 

 少しだけ余談を書いておきます。

 団平について思い出があります。小学生の時でしたが、たしか「団平羊羹(ようかん)」がありました。

 味は忘れましたが、「ダンペイ」という不思議な言葉の響きが残っています。勿論、その時は「ダンペイ」が人の名前だとは知りませんでした。

 今も「団平羊羹」は製造されているのでしょうか。

 あったら、団平羊羹を食べながら、「一の糸」を、もう一度読み返したいものです。

 話題が「粟津」を離れるかしれませんが、しばらく、団平さんを紹介しましょう。(no5646

 *写真:「豊沢団平菩提所」の碑(常徳寺山門前)

 

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加古川町旧鳩里村探検(33) 粟津(6) 旧制加古川中学(現:県立加古川東高校)の創建は大正13年 

2021-09-26 07:47:01 | 加古川町(旧鳩里村)探検

      美濃部達吉:旧制小野中学(現・県立小野高校)へ進学

 作家・司馬遼太郎氏は、昭和の敗戦までの時代を『この国のかたち(一)』で、次のように書いておられます。

 ・・・昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だったということである。

 ・・・

 「あんな時代は日本ではない」と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。

 日本史のいかなる時代ともちがうのである。

 

 司馬氏は、この時代を歴史から消してしまいたいような、衝動を感じておられるようです。

 この時代は、高砂出身の美濃部達吉の活躍した時代と重なります。

 重なるというよりも、美濃部達吉は軍部(参謀本部)の攻撃の対象になり、昭和10年、その学説(天皇機関説)は攻撃され、内閣によりその著作発禁の処分を受けています。

 戦前の極端な右傾化の荒波の中で、美濃部達吉は、まさに軍部の攻撃の対象でした。

 美濃部の天皇機関説に関しては、どの日本史の教科書にも登場します。

 

    旧制加古川中学(現:県立加古川東高校)の創建は大正13年 

  

  高砂町出身の美濃部吉は、大変な秀才でした。高砂小学校を卒業後、明治17年に小野中学校(現在の県立小野高校)へ進学します。

 

 「オヤ、どこか変だ」と思いませんか。「なぜ、(旧制)加古川中学(現:加古川東高校)へ進学しなかったのか?」と。

 

 答えは簡単です。加古川東高校の前身の旧制加古川中学が創建されたは、大正13年で達吉が進学を希望した明治17年には加古川中学はまだなかっただけの話です。

 明治17年に旧制加古川中学があれば、美濃部は当然加古川中学へ進学したことでしょうね。(no5644

  *写真:現在の加古川東高校

 

 

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加古川町旧鳩里村探検(32) 粟津(5) 粟津神社境内の稲荷神社の創建は不明

2021-09-25 07:01:48 | 加古川町(旧鳩里村)探検

  粟津神社境内の稲荷神社の創建は不明

 稲荷神社とは、稲荷神社の総本宮・伏見稲荷大社をはじめ、稲荷大神または稲荷神を主祭神としてお祀りしている神社です。

 稲荷神は、稲を象徴する穀霊神、農業と深く関係する農耕神とされています。

 江戸時代までは国民のほとんどが農業に従事していたことから一般庶民に支持され、全国 津々浦々、国内で最も普及した神社となっています。

 ちなみに「お稲荷さん」はきつねではありません。

 きつねは稲荷神のお使いであり、神様をお守りする存在として境内に置かれています。

 

 日本中で親しまれるようになった現在では、「家内安全」や「学業成就」「縁結び」など様々な願いを叶えてくれる、頼れる身近な神様として信仰を集めています。

 また、朱塗りの鳥居が連なっているのは、願い事が「通る」「通った」などの意味から、心願成就の祈念や成就の感謝を込めて鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がったためです。「願いが通りますように」と気持ちを込めて鳥居をくぐるといいですね。

 

 粟津神社境内のお稲荷さんですが、創建時期はわかりません。現在の神社は、昭和56年(198110月に新しく建て替えられました。(no5643

*写真:粟津神社境内の稲荷神社の鳥居

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加古川町旧鳩里村探検(31) 粟津(4) 戎神社(昭和34年1月、粟津神社境内に遷座)

2021-09-24 10:20:43 | 加古川町(旧鳩里村)探検

     戎神社(昭和341月、粟津神社境内に遷座)

 大正15年、出雲の国、三穂(三保)神社の分霊を賜り、出雲大社加古川教会境内に恵比寿神社をお祀りしてましたが参詣の人が多く、敷地が狭いために、広い適当な移転先を探していました。

 そんな時でした。粟津神社より「受け入れてもいい」との返事を受け、昭和34年(19591月、粟津神社本殿の東隣に遷座しました。

 戎神としての商売繁盛の神様として、また漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集めています。

 今では、加古川戎神社として19日(宵宮)、10日(本戎)、11日(残戎)二大勢の参詣がありにぎわいます。

 

 昨日(23日)、もと戎神社があった出雲大社加古川協会(南本町3丁目)の場所を古い住宅地図をたよりに訪ねました。

 なるほど、神社にしては狭い場所です。その教会跡も現在モダンなアパートの建設中でした。(no5642

*写真:加古川戎神社(粟津)

 

 

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加古川町旧鳩里村探検(30) 粟津(3) 粟津神社

2021-09-23 08:05:43 | 加古川町(旧鳩里村)探検

        粟津神社

 加古川駅から南へ国道2号線をこえて少し行くと行くと、粟津神社があります。

 氏神は天満宮で祭神は菅原道真です。

 この粟津神社は、元和元年(1615)創建とされています。

 菅原道真が大宰府に左遷中、この地に立ち寄られたという伝承、そして集落住民の発展、 五穀豊穣、学問の成就を願い、村人たちで建てられました。

 摂社として、大歳神社(農業の神様)ともう一つの菅原道真を祭る天神木神社があります。

 菅原道真を祭る神社がふたつもあるのは、不思議ですね。

 もともと、天神木神社は名前のように、寺家町の天神木(現:県加古川総合庁舎の場所)にありましたが、新しく憲兵の隊校を寺家町の天神木に新築した際、この神社は粟津神社に移転しました。

       現在の粟津神社

 11月15日には、七・五・三には数多くおまいりがあります。

 また十月中旬~十一月中旬にかけて行われる加古川菊花展も、恒例の行事となっており、数百鉢の菊が境内に埋まります。

 *粟津神社:『加古川街実記』(山脇重弘氏編纂)を参考にさせていただきました。(no5641)

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加古川町旧鳩里村探検(29) 粟津(2) 粟津弥生遺跡

2021-09-22 07:29:24 | 加古川町(旧鳩里村)探検

      粟津弥生遺跡

 話を「溝ノ口弥生遺跡」(加古川市加古川町溝口)の発見から始めます。

 この遺跡は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけでした。

 調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかりました。

 その後の調査により溝ノ口遺跡は、広範囲に広がっていることがわかりました。溝ノ口遺跡は日岡山に古墳を築いた豪族の住んでいた村だったのでしょう。

 調査の結果から、これらの遺跡は、弥生時代から平安時代の複合遺構であることが確認されました。

     粟津遺跡(集落)は日岡豪族につながる一族か

 町の開発にともない、工事で破壊される部分の調査が実施されました。

 場所は地図の丸の部分です。

 その近くに、高等学校の地図記号がありますが、加古川東高校です。場所はお分かりになると思います。 

 平成22年度に同一敷地内で実施した調査では土坑や溝のほかに弥生土器片が多く発見されました。

 調査の結果、弥生時代後期の竪穴建物の一部のほかに溝や土坑が検出されました。

 この場所は、溝ノ口遺跡の近くであり、 集落のあった時代は溝ノ口遺跡とも重なります。

 ということは、溝ノ口遺跡(集落)は、日岡豪族につながる集落であったようです。

 *土坑

地面に掘られた穴を広い意味で土坑と呼びます。

  ピットは、土坑よりも小さい穴で、柱の穴などを指す場合に使用されます。no5640

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加古川町旧鳩里村探検(28) 粟津(1) 粟津は、『風土記』の登場する古い村

2021-09-21 08:00:24 | 加古川町(旧鳩里村)探検

     粟津は、『風土記』の登場する古い村

 永正十二年(1515)八月日付の「鶴林寺文書」に粟津(加古川市加古川町)の記録があります。

 粟津村は、1515年には存在していました。しかし、それは村の始まりではありません。記録にはないのですが、粟津村の歴史は、はるか昔にさかのぼります。

 想像を交えて書いてみます。

 まず、粟津を「粟」と「津」に分けて考えてみましょう。

 「粟」ですが、「大化の改新」(645)の以後、現在の播磨町から平岡町いったいは「粟々の里(あわわのさと)」と呼ばれ、『風土記』には「コリメが、この野を耕して粟を植えた。そのため「粟々の里」といった・・・」と書かれています。

 粟の生産が盛んな土地であったのかもしれません。

 石見完次氏は、粟津の「アワ」は湿地帯で池沼の多いところの意味であると指摘されています。

 粟津には「富家(フケ)」と言う小字があります。これは湿地帯を意味しています。



 一方「津」は泊・港を意味します。粟津は旧河道の近くにあり、海の港とも考えられますが、海から少し入った港の方が可能性は大きいと思われるのです。

 図をみてください。粟津弥生遺跡が加古川東高等学校の南東に広がっています。この遺跡は昭和56年、加古川駅~市役所の新道の工事中に発見されました。

 つまり、2.000年ほど前に、粟津には既に人が生活しており、しかも、稲作をはじめていました。稲作は塩を嫌います。この地は内陸部に位置していたのでしょう。

 粟津村がはじまった時期の確かな記録はないのですが、今日のところは、「粟津村は古い歴史を持つ村である」と言うことにとどめておきます。(no5639

*●は弥生遺跡、『加古川市史(第一巻)』参照

 

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加古川町旧鳩里村探検(27) 稲屋・友沢(16) 古新堰堤(こしんえんてい)

2021-09-20 06:36:12 | 加古川町(旧鳩里村)探検

      古新堰堤(こしんえんてい)

 加古川は大きな川ですが、特に米田町古新辺りから川幅を広げて、瀬戸内海に流れ込みます。

  古新堰堤は、よく知られており、しばしば広く説明されています。

 この古新の堰堤の対岸は「友沢」なんです。「友沢」についての説明がありません。

 むかしから加古川は、大量の土砂が河口辺りで堆積させ、その流れを妨げてきました。

 そのため、浅くなった川底のためにしばしば氾濫し、水害を引き起こした暴れ川でした。

 特に、江戸時代、河口の高砂港は、この堆積により港が浅くなることが最大の問題でした。

 この堆積作用は現在も続いており、絶えず川底をさらえる必要があります。

      塩 害

 河口あたりの水のもう一つの問題は、塩水が混じった気水域であることです。

 塩水を含んだ水は直接、田畑に利用できませんし、飲料水にも適しません。

 河口から少し離れた米田町古新辺りでは塩も薄くなっているのですが、大潮のときなどは、ここで塩水を防ぎ、加古川の水をその堰の上流から取水する必要がありました。

 この塩水を防ぐために「古新堰堤」がつくられました。

     東はりま加古川・水の新百景

 古新堰堤について、「東はりま加古川・水の新百景」として説明板があったので以下に記しておきます。

 「古新堰堤(こしんえんてい)」は、河口より3.8km地点にある加古川最下流部の河川構造物です。

 河床の低下を防止するとおともに、高砂町の水源に対する塩水遡上防止のために作られました。

 この堤防は、昭和4年(1929年)に起工され、翌年竣工されましたが、丸太が基礎になっており、後に加古川を襲った度重なる出水により被害を受けました。

 現在の堤防は、上下流に鉄矢板を用いた新しい広報により、昭和32年(1957)から3年間を経て改築されたものです。

 これによって地下水の逸散を止め、防潮の役目を果たすものとなりました。

 ここでも、友沢の説明がありません。(no5638

 *写真:古新の堰堤を友沢側から撮影

 

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加古川町旧鳩里村探検(26) 稲屋・友沢(15) 県立加古川河川敷マラソンコース

2021-09-19 09:54:01 | 加古川町(旧鳩里村)探検

  「加古川河川敷マラソンコース」は「加古川みなもロード」という名称なんですね。

 このブログの説明は、インターネットから引用させていただきました。

 左上に説明があるのですが、小さくて読みずらいです。下記のような説明です。

     県立加古川河川敷マラソンコース

        加古川、「みなもロード」の概要

 このコースは、国土省が整備した緊急用河川敷ロードを活用し、平時にはジョギング・ウォーキングをはじめ本格的なマラソン大会を行うように整備しました。

 平成15年のコース開設以来、地元加古川・高砂のマラソン大会をはじめ、毎年様々な大会に利用しています。

 

 スタート・ゴール地点は「友沢」の河川敷です。スタートとゴールに選手が到着の時は、いつも大きな歓声が湧き上がりますよ。

 私の散歩は、ほとんど夕方で、ゴール・スタート地点から国道2号線のまでを往復します。

 草花が咲いています。水面に吹く涼しい風は気持ちいいです。

 今の時期は、秋の虫が鳴いています。(no5637

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加古川町旧鳩里村探検(25) 稲屋・友沢(14) 播州大橋からの風景

2021-09-18 09:51:05 | 加古川町(旧鳩里村)探検

         播州大橋からの風景 

 昨夜の台風14号の被害はなかったでしょうか。今日から、秋本番になるようです。

 散歩を楽しみましょう。

 先日も、自宅(尾上町今福)から2キロほど離れた加古川にかかる明姫幹線(播州大橋・播州大橋)の歩道を東から西(高砂)の方向に歩いています。

 東詰の少し西に歩いた場所から写真を撮りました。

 マンガ『よつばと』にある風景です。

 絵と比べていると、少しだけ違っていますが、この場面の風景であることはわかります。

 対岸の南(左)に鉄塔が描かれています。が、鉄塔は写真のように北側(右)にあります。

 そして、対岸の右側に大きなビル(スーパー)がありますが、実際は南側(左)です。

 少しだけ違って描かれていますが、それにしてもこんな景色をマンガの中で見つけるのは楽しい散歩です。

 なお、このまんが『よつばと』の作者のお住まいは高砂だそうです。

 きっと、著者の「あずまさん」が、子どものころに遊んだ近所の風景を描かれたんでしょう。no5636

 *絵:『(漫画)よつばと』(あずまきよひこ著)』(電撃コミックス) より

  写真:友沢より高砂方面と撮る

 

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加古川町旧鳩里村探検(24) 稲屋・友沢(13) 寿願寺の阿弥陀様は、洪水のことを知っている

2021-09-17 12:34:42 | 加古川町(旧鳩里村)探検

    寿願寺の阿弥陀様は、洪水のことを知っている

 文禄2年(1593)、(友沢の)福田一族は一宇の道場を建てます。

 その後、享保年(1718)、本願寺のから、「寿願寺」の寺号と「阿弥陀如来立像」を賜り今に伝えています。

 『加古郡史』には文禄2年(1593)とあり、本徳寺(姫路)年表には宝暦元年(1751)とあります。

 ともあれ、寿願寺は江戸時代の初めか、それより少し前の創建のようです。

 村(集落)自体も、あまりさかのぼらないようです。

 というのは、もともと友沢は加古川の湿原を開墾してできたようで、しばしば洪水の被害があった集落でした。

  友沢は洪水の被害の多い集落

 寿願寺が創建されたころ、しばしは洪水がおきました。

 その様子を升田堤(東神吉町)に見ておきましょう。

     升田堤完成

 万治2年(1659)8月上旬、工事がほぼ完成したころに暴風雨が襲いました。
 一夜のうちに堤は壊れ、元の河原になってしまいました。工事にあたった奉行・役人は肝を潰してしまいました。
 庄屋たちは、工事の不可能なことを訴えました。
 でも、再工事の厳しい命令でした。
 水が引くと前の二倍の人足を動員し、役人は鞭(むち)で、油断している者を打ちすえました。
 町場に住む者には、松明(たいまつ)をつくらせ、夜の工事にも動員をしました。
 この時の升田堤の完成により、ほぼ現在の加古川の流れの川になりました。
 升田堤完成により、洪水は少なくなったのですが、依然として、その後も洪水被害がありました。
 この升田堤の建設に対し、対岸(東岸)の村々の百姓は、藩主に嘆願書を出しました。
 「・・・自分等の村々は、昔から水害の時は西側と同じように被害を受けてきました。ところが、この度の工事で右岸が強くなり、左岸が弱いままですから、被害が私たちへかかってきます。
 工事を小規模にして、毎年少しずつ高くしてはいかがでしょうか・・・」と。
 この嘆願は、当然のように聞き入れられませんでした。

 寿願寺の御仏は、お百姓の洪水の歴史を全部見て(知って)おられたのでしょうね。(no5635
 *写真:寿願寺の 阿弥陀如来立像

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加古川町旧鳩里村探検(23) 稲屋・友沢(12) 友沢(村)を歩く

2021-09-16 07:06:29 | 加古川町(旧鳩里村)探検

    友沢(村)を歩く

 

 友沢村は、ふるくは加古川三角州の氾濫原で「留沢」が転化したのではないかといわれています。

 大正期のころまで加古川の右岸・印南郡古新(こしん・現在の高砂市)への渡し舟がありました。

 下の数字は、明治145年の頃の記録(『播磨地種便覧』)ですが、江戸時代の数字とほぼ同じだと思われます。当時の周辺の稲屋・木村と比べて小さな村であったようです。

 《友沢村:明治145年ころ》

 戸数 70

 人口 277

  (木村 84戸 人口 342人 ・ 稲屋 138戸  人口  487人)

 

 きのう(915日・水)午後、加古川南高校の南(友沢)を歩いてみました。新しい家並みばかりです。

 でも、新しい家並みを歩いていると「友沢」の真ん中に比較的大きな家がかたまっている一角があります。古い家がかたまっています。道はせまいんです。

 小さなお寺「寿願寺」のあたりです。

 このあたりが、旧友沢村の発祥の地なんですね。(no5634

 *写真:寿願寺

 

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