ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

宮崎奕保さんのこと(10) 小塩師匠亡くなる

2018-11-30 08:53:02 | 宮崎奕保さんのこと

    小塩師匠の死

 大学を中退した宮崎禅師は、再び京都の大徳寺に行きました。

 27歳の時のことでした。

 この時、宮崎禅師は、以前に大徳寺で修行をした時よりも、さらに一生懸命修行を行いました。

 また、歴史ある大徳寺には、古い文献が数多く残されています。宮崎禅師は、連日、書庫を訪ねては、それらの古い文献を読みあさりました。

 昭和4523日、京都で修行を行う青年のもとに電報が届きました。

 加古川からでした。

 修行の身である青年のもとに電報が送られてくることなどめったにありません。嫌な予感が的中しました。

 「シショゥ、キトク」

 青年はあわてて住職の部屋へと向かいました。

 「師匠が危篤との知らせが届きました。これから加古川へ帰ってもよろしいでしょうか」

 「すぐに行きなさい」

 京都駅に到着した青年は、駅舎にかかげられた大時計に目をやりました。1155分。

 京都から加古川に向かう汽車には何度か乗ったことがありましたが、その日は汽車の速度がいつもより遅いように感じられてしかたがありません。

 加古川に着き、寺へと急ぎました。

 青年が寺に着いた時には、師匠はすでに亡くなっていました。前日の夕方から腹痛が始まり、一晩中苦しんだ末、午後15時に亡くなったと知らされました。

 82歳でした。

 師匠と対面しました。その体に触れると、まだ温かみが残っていました。

  青年の脳裏に、師匠との思い出がよみがえってきました。

 11歳で寺にやって来た時、師匠は幼い自分を抱いて一緒に寝てくれました。また、女手のない寺での生活のため、最初は下着も師匠が洗ってくれました。

 以来、しばしば師匠に反抗しました。

 青年は、今までの自分を恥じ、改めて師匠の顔を見ました。

 80にもなっておって、雲水と同じものを食べて、雲水と同じような生活をされていました。

 そして青年は、師匠に別れの言葉を述べる代わりに、その前で最後に坐禅をすることにしました。

 本堂にいる先輩たちの声は、もう耳に入ってきません。師匠と二人きりの静かな部屋の中で、青年はひたすら坐り続けました。

 「自分は、坐禅をするよりもやることがあると思っておったけれど、それは間違いやった。

 そして不満はみんな自分のわがままやった。自分本位のことを考えておっただけやった」と反省ばかりでした。

 その後、宮崎禅師は、小塩老師が亡くなった時のことをよく語っておられました。(no4566

 *挿絵:小塩老師の死

 ◇きのう(11/29)の散歩(10.580歩)

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宮崎奕保さんのこと(9) 念願の学生生活

2018-11-29 07:17:11 | 宮崎奕保さんのこと

 

     念願の学生生活

  大正10年、宮崎禅師は満年齢で20歳になり、徴兵検査を受けました。

 この時期、宮崎禅師が戦地に赴くことはなく、そして三年間の軍隊生活を終えて24歳になった宮崎禅師は、僧侶として一人前になるための経験を積んでいました。

 最初は、大正13年の夏に行った立職(りっしよく)でした。

 禅寺には、百日修行といって、およそ三ヵ月間、雲水たちが寺に籠もって集中的に修行を行う慣わしがあります。そして、この集中修行の際には、雲水たちの先頭に立って修行を行う首座(しゆそ)と呼ばれるリーダーを立てることになっていました。

 立職とは、その首座を経験することでした。

 宮崎禅師が首座を務めたのは、神戸にある般若林福昌寺の夏の百日修行においてでした。

 首座を務めあげ立職を果たした宮崎禅師は、次に、嗣法(しほつ)といって師匠から法を受け継ぐ儀式を行いました。

 禅の世界では、釈迦の教え(法)は、師から弟子へと代々受け継がれていくものとされています。

 曹洞宗においては、たとえどれだけ修行を積んでも、師匠から法を継がない限り、寺の住職を務めることはできないことになっています。

     やはり、学校へ行きたい

 僧侶として一人前になった宮崎禅師は、その直後に師匠にある思いを伝えました。

 それは学校に行かせてほしいという積年の思いでした。そしてこの時、小塩老師は弟子の願いを聞き入れてくれました。

 さっそく名古屋の仏教専修中学に進学し、そして、大正15年3月、優秀な成績を収めて同校を卒業すると、4月に東京にある駒澤大学に入学しました。

 東京での生活は、学友三人と一緒に家を借り、新聞配達をしながら学校に通うというものでした。宮崎禅師は、念願かなって進学した大学でした。

 しかし、そのように熱心に勉強をしたものの、宮崎禅師は結局、卒業をする前に大学をやめてしまいました。その理由を、宮崎禅師はこう語っています。

 「駒澤の専門部に入学したが、実にこんなに幼稚なものかと思ったんや。(学校で習うことは)老僧が全部、わしに教育しておったことだった。

 16歳の時には、あらゆる本はみんな、すでに読んでおったからね。それで二年で、誰もやめてもいいと言わないが、一人で決めてやめたんや」

 宮崎禅師は、この時に師匠が自分に対して実に順序立てて必要なことを教えてくれていたのだと気づいたのでした。

 結局、宮崎禅師は大学を中退してしまったのですが、それにしても、なぜそれほどまでに進学にこだわったのでしょうか。後に、宮崎禅師はこう語っています。

 「出世したかったからや。たとえ僧侶として生きていくとしても、これからの時代、学歴が必要だと思ったからや。今からの時代は学校の履歴を取らないと、立派な坊主にもなれない。そう思っておったんや」

 十代の頃から禅の修行をしていた宮崎禅師も、普通の若者と同じように、この頃、将来の出世を夢見ていたようです。(no4565)

 *写真:現在の駒澤大学

 ◇きのう(1/28)の散歩(12.081歩)

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宮崎奕保さんのこと(8) 坐禅をして何になるのか

2018-11-28 07:03:13 | 宮崎奕保さんのこと

 

       坐禅をして何になるのか

 無断で寺を飛び出した弟子(奕保)に対して、小塩老師は罰を与えました。

 それは、京都にある禅の大徳寺で修行をすることでした。

 京都には臨済宗の寺が数多くありますが、中でも大徳寺には、坐禅修行を専心的に行う伝統がありました。

 大徳寺に弟子を送り出すにあたって、小塩老師はこう言ったといいます。

 「曹洞宗の坊主は、勉強・勉強と頭ばかりの仏法になって、只管打坐(しかんたざ)の実践がなくなってきた」

 「只管打坐」とは、道元禅師の教えの根本を示す言葉です。

 「とにかく、ただひたすらに坐禅に打ち込め」という道元禅師の教えでした。

  道元禅師は、「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉も残しています。

 「この世の真理や悟りの境地は、文字によって完全に言い表すことはできない」という意味です。

 しかし、学ぶことの喜びに目覚めていた宮崎禅師に、そのような師匠の考えを理解することはできませんでした。

 それでも師匠は弟子に向かって、大事なのは坐禅だと繰り返しました。

 宮崎禅師に坐禅をしろと言ったのは、師匠だけではありませんでした。時期が前後しますが、こんなエピソードがあります。

 その日、高等小学校を卒業したばかりの少年(奕保)は、神戸にある福昌寺という寺に出かけました。

 福昌寺はその日、とてもあわただしい一日でした。

 五月に永平寺(本山)の住職に就任したばかりの六十六世貫首、日置黙仙禅師がやって来ていたからです。

 少年は、禅師の応接に追われる福昌寺の僧侶たちを手伝いました。

そんな少年のもとに、福昌寺の僧侶がやって来てこう言ったのです。

「おい。禅師様がお前さんに会いたいと仰っておる。部屋でお待ちだ」

 周囲にいた者たちも、禅師はなぜこんな小僧を呼ぶのかと、不思議そうな顔で奕保を見ました。

 実は、禅師と少年の小塩師匠は、旧知の仲でした。

 「小塩老師のところの小僧が来ているなら、ぜひ会ってみたい」と、禅師は少年を部屋に呼ぶように頼んだのだのでした。

 禅師がいる部屋のふすまを開けました。

 少年は緊張して、その顔を見ることができませんでした。すると、話の中で禅師が尋ねてきました。

 「坊、お前は何坊主になる。お経坊主か。葬式坊主か。学者坊主か」と。

  突然の質問に戸惑いました。

 「坐禅坊主になれよ」

 「師匠と同じことを言う人やな」と、少年は心の中でつぶやきました。

 

 「それでも、なぜ坐禅をするのか」納得しきれずにいました。しかし、師匠に大徳寺に行けと言われて、この時ばかりはさすがに従うしかなかったのです。

 宮崎奕保氏が大徳寺で修行を行ったのは、福田寺を飛び出した翌年の18歳から21歳になるまでの三年間でした。(no4564)

  ◇きのう(11/27)の散歩(10.385歩)

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宮崎奕保さんのこと(7) 勉強がしたい

2018-11-27 09:00:50 | 宮崎奕保さんのこと

 

      勉強がしたい

 保少年は、高等小学校の二年生の時に、得度をしました。これによって初めて正式な出家僧になりました。寺に入って4年後、15歳の時のことでした。

 この得度の際に師匠から授かったのが、「突保(えきほ)」という僧名でした。

 名前である「保」に加えた「奕」の字は、小塩師匠が尊敬していた明治の傑僧、諸嶽変堂(もろたけえきどう)禅師の名前からいただいたものです。

 小塩老師は、弟子に立派な僧侶になってほしいと願っていました。

 しかし、師匠の思いとは裏腹に、奕保はこの頃、ある思いが芽生えていたのでした。「より学業を積みたい」と思うようになっていたのでした。

 しかし、師匠は、そうした弟子の願いをまったく聞き入れようとはしませんでした。

 奕保氏は、そんな師匠に対して不満を募らせました。

 そして、進学を許可してくれない師匠に業を煮やした奕保氏は、大正6年、17歳の夏についに寺を飛び出しました。

 寺を抜け出した少年は、大阪に住む親戚のもとへと向かい、ゴム会社を経営するその親戚のもとで働き、学資を稼ぐことにしたのです。

 そんなある日、少年のもとに人が訪ねてきました。幼い頃に生き別れた母親でした。少年が寺を飛び出したと聞いて、駆けつけてくれたのです。

 母親は、少年に封筒を差し出して「これを使いなさい」言ってくれました。

 お金が入っていたました。

 少年は深々と頭を下げて、そのお金を受け取り、そのお金で東京行きの切符を買うと、少年は汽車に乗り込みました。

 汽車が琵琶湖の湖畔にさしかかったところで、少年は、マンジュウを買って食べました。

 このマンジュウが悪かったのか、しばらくして少年の体に異変が生じてきました。

 トイレに駆け込こみ、腹の中のものをすべて吐きましたが、それでも気分が治りません。

 少年は名古屋でいったん汽車を降りることにしました。

 名古屋駅に着いた時はすでに夜になっていました。駅員を探すと事情を説明し、休むところはないかと尋ねました。

 すると、駅員は駅長室に連れて行ってくれ、そこで一晩休ませてもらいました。

 あくる日、自分のカバンがないことに気づきました。カバンは見つかりません。誰かに持ち去られたようでした。

 新たに切符を買う余裕はありません。少年は、大阪に引き返しました。

 しばらくして、少年のもとに一通の電報が届きました。それは、祖父の死を知らせるものでした。

 急逮(きゆうきよ)、実家のある加西へと向かいました。

 加西に到着したのは、夜の11時でした。

 その中に、一人じっと少年を見つめる人物がいました。かつて、少年を福田寺に連れて行った尼さんでした。

 そして、目を伏せた少年に向かって、「加古川に戻んなさい」と、きっぱりと言うのでした。

   学校に行くという少年の夢は、閉されてしまいました。(no4563)

   ◇きのう(11/26)の散歩(11.191歩)

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宮崎奕保さんのこと(6) 小塩老師の教育

2018-11-26 10:19:52 | 宮崎奕保さんのこと

 

       小塩老師の教育

 道元禅師が建立した永平寺は、厳しい修行の場でした。

 雲水たちは、師の説法を聞き、坐禅を行い、道元禅師が中国の禅寺で学んだ作法に則って、僧侶としての規則正しい生活を送りました。

 

 宮崎禅師が入門した福田寺も、まさに永平寺の修行と同じものでした。

 小塩老師は、雲水が手を抜くことを絶対に許しませんでした。時には、拳骨もあったといいます。

 宮崎禅師は、そんな師匠のことをこう振り返っておられます。

 「老僧はとにかく厳格な人やった。横着をするとよう叩かれた。それぐらい修行に厳しい人やった。だから、老僧のことを恐ろしいと思っておった。あまりに怖くて、師匠だけど話しかけることもできんかった」と。

 

 福田寺に入門当時まだ小学生だった宮崎保少年は、日中は学校に通いました。

 しかし、頭を剃り、雲水の格好をいつもしていなくてはならなかったのがとても嫌だったと回想しておられます。

 また、学校から帰ると先輩たちと一緒に修行を行いました。

 時々、境内から学友たちの遊ぶ声が聞こえてきて、とてもさみしい思いをしました。

 少年にとって僧堂での生活が楽しいはずはありませんでした。

 その上、師匠である小塩老師は、他の雲水に対するよりも厳しく宮崎保少年に接しました。

 師匠は、彼に漢学の書物を与えました。それは、『孝経』という孔子が弟子に示した書物です。

 これを毎日声に出して読むことを少年に命じました。

 保少年は、必死で読みました。意味は分かりません。

 が、ひたすら読みました。

 小塩老師は、とにかく早い時期から保少年に漢学の勉強をさせたのです。no4562

  ◇きのう(11/25)の散歩(11.167歩)

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宮崎奕保さんのこと(5) 余話:福田寺の層塔から

2018-11-25 07:53:03 | 宮崎奕保さんのこと

    余話:福田寺の層塔

 稲屋は、『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという場所です。

 研究者は、「鹿子の水門(かこのみなと)」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時(奈良時代)は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。

 福田寺の山門をくぐるとすぐ左(西側)に、現高355㎝の花崗岩製層塔(写真)があります。

 現在は十一重ですが、もとは十三重であったと思われます。

 塔身(初層)には、三面に如来像が浮き彫りされています。

 この反対の面の如来像両協に銘文があり、この層塔は、正和二年(1313)に、西河弥陀仏を願主として造立されたものであることがわかりました。

 大野の常楽寺の宝塔と比較すると格狭間の下端幅は福田寺噌塔の方が狭いことが判明していますが、研究者は、「この層塔の格狭間(こうざま)は、常楽寺宝塔の基礎格狭間と酷似しており、格狭問が入る区画の規模は両者でまったく共通し、かつ格狭間自体も酷似ている」と指摘しています。

 したがって、「その地理的・時期的近さを考えると福田寺層塔と常楽寺の宝塔は同じ石工(集団)によって造立されたとみなしてよい」と指摘しています。 

  福田寺の層塔も常楽寺の宝塔も奈良・西大寺の伊派(いは)石工集団の作品と言って間違いないようです。

 聞きなれない言葉ですが、伊派の石工集団は、奈良西大寺の真言律宗の抱える石工集団です。

 寺の縁起によれば、福田寺の縁起は「推古天皇からこの地を授かった聖徳太子が建立した」寺としていますが、十三重の層塔にある銘等から鎌倉時代に真言律宗の寺として建立された可能性が大きいと言えそうです。(no4561)

 *写真:福田寺の層塔

 *「東播磨の中世石塔と文観」(山川均論文)参照

 ◇きのう(11/23)の散歩(11.240歩)

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宮崎奕保さんのこと(4) 小塩闇童(こしおぎんどう)老師

2018-11-24 09:38:11 | 宮崎奕保さんのこと

 

     小塩闇童(こしおぎんどう)老師のこと

 宮崎保少年が入門した福田寺は、小さいけれど非常に歴史のある寺でしたが、それが慶長年間(1595~1615)に曹洞宗の寺になりました。

 その顛末らしきことは、次回「余話」としてお話しましょう。

 

 福田寺の本堂は、およそ三百年前、江戸時代に建てられたものです。

 宮崎保少年がやって来た時、この寺の住職を務めていたのは、小塩闇童(こしおぎんどう)老師でした。

 小塩老師はこの時、64歳。11歳の宮崎禅師とは、祖父と孫ほどの年齢差がありました。

 小塩老師は禅を究めんとする思いは非常に強い僧でした。多くの高僧たちのもとでも修行を積んだ僧でした。

 播州平野にあるこの小さな寺を、雲水たちが修行を行うための僧堂(そうどう)(修行道場)にしました。

 しかし、僧堂というのは誰でも簡単に開くことができるものではありません。そもそも雲水の指導は、師家(しけ)といって指導者としての力量を認められなければ行うことができません。

 小塩老師の場合、その力量が認められ、自坊である福田寺を僧堂とすることができるようになりました。

 なお、僧堂を開くには、寺に経済的な余裕も必要です。

 寺は雲水たちを食べさせていかなくてはなりません。

  福田寺は歴史ある寺とはいえ、決して大きな寺ではありません。

 しかし、幸い寺には、三十石以上の米がとれる田や畑がありました。

 数人の雲水を食べさせる十分な米や野菜がとれた上、余った米を売って、寺の修繕費などに当てることもできました。

 小塩老師は、そうした幸運にも恵まれて、福田寺を僧堂にすることができたのです。

 福田寺では若い雲水たちが修行をしていました。

 小塩老師は近隣に名が知られていたため、近隣の禅寺から、跡取りを一人前に育ててほしいと頼まれることも多かったのです。

 宮崎保少年がやって来た時、福田寺では若い雲水が4人ほど修行を行っていました。

 そうした先輩雲水たちに交じって、保少年の修行生活がはじまりました。(no4560)

 *写真:福田寺本堂

◇きのう(11/23)の散歩(11.123歩)

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宮崎奕保さんのこと(3) 福田寺(ふくでんじ)に入る

2018-11-23 08:41:05 | 宮崎奕保さんのこと

   福田寺(ふくでんじ、現:加古川町稲屋)に入る

 明治44825日、少年の名前は宮崎保(たもつ)です。この時、尋常小学校の四年生であった。顔にはあどけなさが残っていました。

 この日は夏休みでしたが、この日、住みなれた自分の家を出ました。

 少年の家は、兵庫県加西郡(現・加西市)の地で32代、1200年近く続いた庄屋でした。 

 宮崎保少年は、その旧家の長男で、一人っ子でした。

 少年は、この時、実は、両親と一緒に暮らしていません。

 母は、父がよそに女性を作ったため、少年が小学校に上がる前に実家に帰ってしまったのでした。

 その原因を作った父は、少年が8歳の時に亡くなりました。

 両親と暮らすことができなくなった少年は、その後、祖父と一緒に古い屋敷で暮らしていました。

 少年には、家の事情はよく分からなかったのですが、かつての繁栄が徐々に失われていっていることだけは、少年の目にも明らかでした。

 やがて、身支度を整えた少年を迎えに、年老いた尼僧(にそう)がやって来ました。

 親のいない少年の将来を案じた親戚が、少年を寺に入れてくれるようにと頼んだのです。

  少年は、わずかな荷物が入ったカバンを持ち、祖父たちに別れを告げて家を出た。

  外はまだ暗く、闇の中からは、カエルの鳴き声に混じって、鈴虫の鳴き声も聞こえてきました。

 秋の気配を感じさせる未明の田舎道を、少年は尼僧に手を引かれながら黙って歩きました。

  数キロ歩いたところで、少年と尼僧は馬車乗り場に着きました。

 少年と尼僧を乗せた馬車は、朝の日差しの中を南 へと向かいました。

 やがて日が高くなり、暑さが増してきました。 

 宮崎禅師(ぜんし)が憎侶になったのは、寺の跡取りだったわけでも、自ら発心(ほつしん)して出家したわけでもなかったのです。

 ただ、家の事情で寺に入れられただけでした。

 宮崎禅師が寺に入ったのは、今の年齢で言うと、まだ10歳の誕生日を迎える前のことでした。

 後に、「親がいないという事情があったから、寺に行くことはしかたがないことやと思っておったね」と回想しておられます。

 その寺が、加古川町稲屋の福田寺(ふくでんじ)でした。(no4559

 (お断わり)

 後の宮崎奕保禅師ですが、特別な場合を除いて「さん」と呼ばせていただきます。

 *写真:現在の福田寺(ふくでんじ)

 ◇きのう(11/22)の散歩(10.647歩)

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宮崎奕保さんのこと(2) 宮崎奕保さんを紹介する前に

2018-11-22 08:25:22 | 宮崎奕保さんのこと

 

    崎奕保さんを紹介する前に

 宮崎奕保(みやざきえきほ)さんのことを紹介したいのですが、詳しいことは知りません。

 最初にお詫びとお断わりをしておきます。

 「ちゃんと調べてから書け!・・・」というお叱りが聞こえてきそうです。

 最初に種明かしです。

 宮崎さんを紹介したいために、とりあえず宮崎奕保さんについて3冊の本を購入しました。

 その内、石川昌孝氏の書かれた『坐禅をすれば善き人となる-宮崎奕保禅師、百八歳の生涯』(講談社)を参考にして生涯を紹介します。

 著者の石川氏はNHKのディレクターで、奕保氏の修行の日々を描いた「永平寺104歳禅師」等々、永平寺そして永平寺の禅僧、特に管主の奕保氏の修行のようすについての番組を製作されています。

 そのテレビ制作の過程で奕保氏から、たくさん取材をされています。

 上記の本は、それらの貴重なお話をまとめた本です。

 「ひろかずのブログ」ではそれを、「つまみ食い」しながら断りもなく使わせていただきます。

 

 宗教者が書かれた宗教の本は、知識のない者が読めば、論理の飛躍があるみたいで読みづらいのが一般的です。

 でもこの本は、宮崎奕保氏の生涯と日常を通して具体的に描いておられます。

 この著書を基礎にして、私も少しだけ取材をしながら奕保さんを紹介します。

 それでは、次回から本論に入ることにしましょう。

 題を「宮崎奕保さんのこと」としました。(no4558)

 *写真:『坐禅をすれば善き人となる-宮崎奕保禅師、百八歳の生涯』(講談社)

 ◇きのう(11/21)の散歩(10.665歩)

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宮崎奕保さんのこと(1) 宮崎奕保さんを紹介します

2018-11-21 08:58:22 | 宮崎奕保さんのこと

 

    宮崎奕保さんを紹介します

 「ひろかずのブログ」の外にもう一つのブログ「ひろかずの日記」を書いています。

 「ひろかずのブログ」は毎日アクセスが2.500ばかりあるのですが、こちらの方は100~150のアクセスです。気楽に書いています。よろしかったら覗いてください。

 11月5日号で、宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師について書きました。

 ・・・きのう(11/4)『95歳まで生きるのは幸せですか(瀬戸内寂聴共著)』を読んで、「ビックリする話題がありました」そのビックリする話題は、次の箇所です。

     宮崎奕保(みやざきえきほ)さんのこと

 ・・・・私(瀬戸内寂聴さん)が出会った中で、もっとも尊敬しているお坊さんのひとりが、永平寺貫首(えいへいじかんしゅ)を務められた宮崎奕保禅師(みやざきえきほぜんし)さまです。

 残念ながら2008年、106歳で亡くなられました。

 私は83歳のとき、105歳だった猊下(げいか・高僧に対する敬称)と「合わせて188歳」の対談をする機会 にめぐまれました。

 猊下は生き仏さまそのものの高僧ですが、私のぶしつけな質問にも、清らかな笑みを浮かべながらお答えになります。

 私は、すっかりファンになってしまい、あれこれ長々とお話ししてしまいました。・・・(『95歳まで生きるのは幸せですか(瀬戸内寂聴共著)』より)

  その時、ビックリしたのはその内容ではなく、突如、宮崎突保氏の名前が登場したことでした。

 宮崎氏の名前だけは知っていました。でも、あまり気に留めていませんでした。

 散歩コースにある稲屋(加古川町稲屋)の福田寺(ふくでんじ)の僧侶だったからです。それだけのことでした。

 調べてみると、宮崎氏を紹介する著書も多数ありました。

 さっそく3冊ばかり注文しました。とりあえず、写真の『95歳まで生きるのは幸せですか』を読みました。素晴らしい人のようです。

 近くに偉大な人がいらっしゃったんですね。

 宮崎突保さんを紹介してみたくなりました。もちろん勉強しながらです。(no4557)

 *写真: 『95歳まで生きるのは幸せですか(瀬戸内寂聴共著)』(PHP新書)

 ◇きのう(11/20)の散歩(10.606歩)

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文観と後醍醐天皇(26) 南北朝正閏論・東播磨は「北朝方」 

2018-11-20 08:00:08 | 文観と後醍醐天皇

 前号の続きです。

 円福寺(東志方高畑)の本堂に向かって右隅に、(県指定文化財の宝筐印塔(ほうきょういんとう・写真)があります。宝筐印塔には康歴元年の銘が刻まれています。

      北朝年号(康歴元年)

 「康歴元年(1379)」は、南北朝時代の北朝年号で、南朝年号では天授五年です。

 赤松四代当主・義則が赤松家所領の五穀豊饒を願い、また「一結衆」とあるところから赤松一族の安寧祈願、さらに赤松一族の供養塔として造立したものと思われます。

 この宝筐印塔の「北朝年号」からもわかるように、赤松本家は、曲折はあったものの足利尊氏(北朝方)として活躍し、後醍醐天皇(南朝方)に敵対し、時代を乗り切ります。

 江戸時代までは、北朝側であろうが、南朝側であろうがあまり問題とならなかったのですが、明治時代となり突如「南朝正閏論(せいじゅんろん)」が声高に叫ばれるようになりました。 

 そして、日本が戦争に突き進んでゆくにつれ、北朝を支持した赤松氏の逆賊度はますます高くなり、赤松氏は歴史上、全く評価されなくなりました。

 明治時代~戦前にかけて北朝支持を色濃く残す私たちの地域の立場は微妙であったと想像します。

 戦後、そんな歴史は間違いであるとして、足利尊氏・赤松氏の再評価がなされるようになりました。

 円福寺の宝筐印塔の加古川市教育委員会の説明には「・・・基礎正面に康暦元年の銘がり南北時代の遺品であることがわかる・・・」とありますが、北朝年号であるとの説明がありません。

 「北朝年号の説明がないのは、なぜ?」。もどかしい気持ちが少し残ります。(no4556)

 *写真:文観のつもり

 「文観と後醍醐天皇」をお読みいただきありがとうございました。次回から新しい話題、「宮崎奕保(みやざきえきほ)さんのこと」をとりあげます。

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文観と後醍醐天皇(25) 南北朝正閏論

2018-11-19 08:30:07 | 文観と後醍醐天皇

 後醍醐天皇・文観は亡くなりました。激動の人生をおえました。

 シリーズ「文観と後醍醐天皇」もおわりになりますが、少しだけ余話として、「南北朝正閏論(なんちょうせいじゅんろん)」に触れておきます。

      南北朝正閏論(1)

 「南北朝正閏論(なんぼくせいじゅんろん)」、もうあまり聞かれなくなった言葉です。

 南北朝正閏論の発端は、明治44年1月15日の「読売新聞」の社説でした。

 ここでは水戸学の南朝正当論から「学校の歴史の教科書で南朝と北朝を並べているのはおかしい」という論調でした。

 第二次桂内閣の時でした。

 野党の立憲国民党はこの問題を倒閣運動に結び付けようと飛びついたのです。

 この時、桂太郎は、元老の山片有朋に相談して明治天皇の勅裁を受け、ここで法律として南朝が正当であると決められました。

 以来、足利尊氏は南朝に敵対した『逆賊』とされました。

 昭和9年には、「足利尊氏は人間的なすぐれた人物である」と書いたために斉藤実(まこと)内閣の商工大臣は辞職に追い込まれるという事件もおきました。

 戦前、足利尊氏は完全に『逆賊』とされてしまいました。

     足利・赤松一族の研究は戦後

 ことは足利一族だけにとどまりません。私たちの地域・播磨地域を支配したのは赤松一族で、播磨地域は足利の家来として活躍した武将です。

 となれば、当然赤松も逆賊扱いということになります。

 東播磨地域は赤松の勢力下にありました。つまり、北朝方でした。

 そのため、戦前赤松一族の公平な評価・研究はなされませんでした。

 赤松の研究は戦後になってからの事です。(no4555)

 *写真:北朝の年号を持つ円福寺(志方町高畑)の宝篋印塔(詳細については次号で)

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文観と後醍醐天皇(24) 文観ルート

2018-11-18 08:28:39 | 文観と後醍醐天皇

          文観ルート

 話を少し戻します。

 後醍醐帝が討幕の行動をおこした時、寺院がその都度拠点となっています。

 当初、元弘の乱によって後醍醐天皇が都を落ちていったのは笠置山であり、そこの笠置寺にこもりました。

 隠岐島から脱出、船上山に大山寺(だいせんじ)の僧兵を頼りに陣を張りました。

 「建武の新政」の失敗から再度、都を捨てて吉野蔵王堂を行在所として、後に河内へ出て金剛寺、さらに観心寺へと行宮を移しています。

 この一連の寺院と関連のある人物を探すと、当時後醍醐天皇の信任が厚かった醍醐寺座主文観僧正の名が浮き上がってくるのです。

 後醍醐帝はこの討幕挙兵の策謀が露見して、腹心の者たちが捕縛された知らせを受けると、当時、息子の護良親王が座主であった比叡山延暦寺へ逃げ込みました。

 そして、六波羅軍(鎌倉幕府軍)が、比叡山の行在所攻撃にきたという情報がはいると、今度は、山城国金胎寺へ移り、さらに3000人の僧兵を有し要塞堅固な笠置山へと行幸し、笠置寺を行在所として櫓をかまえ、柵をめぐらして城塞化しました。

 後醍醐帝の、一刻を争う事態での迅速敏捷なこの行動は、すべて、文観がかねてから非常時に対する計画をたて天皇に進言していたところによっていたようです。

 楠木正成が後醍醐天皇軍に加わりました。

 その菩提寺である観心寺の僧滝覚坊とは山伏の同業者であり、覚坊と文観と師弟の間であるので、正成と文観は前からの繋がりがありました。

 鎌倉北条軍が大挙して笠置に来攻し、笠置寺の僧兵もこれを迎撃して善戦したのですが、何分歴戦のつわもの関東武士には抵抗出来ず、笠置山も陥落し、後醍醐帝は脱出の途中敵の手におち、京都に還幸のやむなきにいたり、後醍醐帝は隠岐の島に流されたのです。

 後醍醐天皇は、山伏の武力の組織活動に期待して、文観に絶対的な信頼を寄せていました。

 「建武の新政」からの天皇の行動をたどってみると、金剛山伏と楠木正成、大山山伏と名和長年、児島山伏と児島高徳など、いずれも名もなき地方豪族であるがその背後には山伏の存在があります。

 この山伏ルートはいずれも文観とのコミュニケーションのある細胞組織であり、文観は、まさに後醍醐天皇のブレーンであったようです。(no4554)

 *写真:楠木正成像(富田林市の楠妣庵観音寺蔵)

 きのう(11/17)の散歩(10.203歩)

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文観と後醍醐天皇(23) 文観は破戒僧でない

2018-11-17 09:03:48 | 文観と後醍醐天皇

 

     文観は破戒僧でない

 足利尊氏を後(うしろ)楯(だて)とする北朝に対して、南朝方の劣勢は覆うべくもなく、延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天皇は京郡奪還の夢を果たすことなく、吉野に逃れて三年足らずで世を去りました。52歳でした。

 文観は、正平十二年(1357) 河内金剛寺大門往生院で亡くなりましたが、後醍醐天皇の死後活躍はありません。

 文観の人生は、後醍醐天皇の活躍と重なりました。

     『太平記』によりつくられた文観の評価

 文観の死後の話です。

 文観の宗教は、もっぱら「邪教」真言宗立川流の祖とされて流布されています。この宗派は、「セックスを宗教に持ち込んだ異形の信仰である」としています。

 この説は『太平記』により広がった説を言えるようです。

 後醍醐天皇が亡くなり、足利尊氏の時代が始まりました。

 足利幕府によりつくられた公認の歴史書と言える『太平記』では、後醍醐天皇の政治・文化をよく書くはずがありません。後醍醐天皇の時代を否定するのは当然のことです。

 当然のごとく文観の評価も否定され、「文観の教えは、セックスを利用した邪教であった」とされました。

 歴史学者の兵藤裕己氏は、『後醍醐天皇』(岩波新書)で、次のように述べておられます。

 ・・・従来は、『太平記』等の文観イメージたち、立川流の妖術を使う僧というものでした。

 この『太平記』によって流布した「邪魔外道」の文観のイメージは、近年大きく修正を迫られています。

 すなわち、内田啓一氏等の研究によって、碩学の真言僧としての文観の精力的な執筆活動、またその卓越した画業の全貌などがあきらかにされつつある・・・

 

 最近、従来の流布されていた文観像も改められてきました。(no4554

 ◇きのう(11/16)の散歩(11.119歩)

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文観と後醍醐天皇(22) 後醍醐天皇、吉野に死す

2018-11-16 08:29:07 | 文観と後醍醐天皇

     鎌倉幕府滅ぶ

 元弘二年(1333)五月二十二日、北条時高(31)は、鎌倉の東勝寺で最期を迎えました。

 そして、グレンの炎は次々と自害する諸将を焼き尽くしました。

 死者は600人、みな切腹して果てました。

 鎌倉幕府は滅びました。

     文観の活躍

 元弘三年(1333)六月五日、後醍醐天皇は京都へ凱旋しました。

 引き続き文観が鬼界ヶ島(硫黄島・鹿児島県)から帰ってきました。

 その後の文観の経歴は、華々しいものでした。(南朝年号)

  ・正慶二年(1333)  硫黄島から帰洛

  ・建武元年(1334)  このころまでに醍醐寺座主・東寺大勧進職

  ・建武二年(1335)  東寺一長者(真言宗のトツプ)

  ・建武三年(1336)  大僧正に任じられる

 しかし、後醍醐天皇による「新政(建武の新政)」は、前回にみたように失敗し、足利尊氏にうらぎられ、吉野に逃げ込みました。

 時代は、めまぐるしく動きました。

     後醍醐天皇、吉野に死す

後醍醐天皇は、吉野でひとすら足利尊氏の北朝打倒を目指し祈り続けました。

 しかし、足利氏を後(うしろ)楯(だて)とする北朝に対して、南朝方の劣勢は覆うべくもなく、延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天駁は京郡奪還の夢を果たすことなく、吉野に逃れて三年足らずで世を去りました。

 五十二歳でした。

 『大平記』は、後醍醐天皇の最期の言葉は「身は、たとえ、南山(吉野山のこと)の苔になろうとも、魂は京都の政権をのぞむ。足利尊氏の首を我が墓前に備えよ」であったといいます。

 後醍醐天皇の墓は、京都に足に向けて築かれています。

 このことは、かれの京都に対するはかりしれない執念を物語っています。(no4553)

 *写真:京都の足利政権と対峙した後醍醐天皇が本拠地とした吉野朝宮跡

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