小塩師匠の死
大学を中退した宮崎禅師は、再び京都の大徳寺に行きました。
27歳の時のことでした。
この時、宮崎禅師は、以前に大徳寺で修行をした時よりも、さらに一生懸命修行を行いました。
また、歴史ある大徳寺には、古い文献が数多く残されています。宮崎禅師は、連日、書庫を訪ねては、それらの古い文献を読みあさりました。
昭和4年5月23日、京都で修行を行う青年のもとに電報が届きました。
加古川からでした。
修行の身である青年のもとに電報が送られてくることなどめったにありません。嫌な予感が的中しました。
「シショゥ、キトク」
青年はあわてて住職の部屋へと向かいました。
「師匠が危篤との知らせが届きました。これから加古川へ帰ってもよろしいでしょうか」
「すぐに行きなさい」
京都駅に到着した青年は、駅舎にかかげられた大時計に目をやりました。11時55分。
京都から加古川に向かう汽車には何度か乗ったことがありましたが、その日は汽車の速度がいつもより遅いように感じられてしかたがありません。
加古川に着き、寺へと急ぎました。
青年が寺に着いた時には、師匠はすでに亡くなっていました。前日の夕方から腹痛が始まり、一晩中苦しんだ末、午後15時に亡くなったと知らされました。
82歳でした。
師匠と対面しました。その体に触れると、まだ温かみが残っていました。
青年の脳裏に、師匠との思い出がよみがえってきました。
11歳で寺にやって来た時、師匠は幼い自分を抱いて一緒に寝てくれました。また、女手のない寺での生活のため、最初は下着も師匠が洗ってくれました。
以来、しばしば師匠に反抗しました。
青年は、今までの自分を恥じ、改めて師匠の顔を見ました。
80にもなっておって、雲水と同じものを食べて、雲水と同じような生活をされていました。
そして青年は、師匠に別れの言葉を述べる代わりに、その前で最後に坐禅をすることにしました。
本堂にいる先輩たちの声は、もう耳に入ってきません。師匠と二人きりの静かな部屋の中で、青年はひたすら坐り続けました。
「自分は、坐禅をするよりもやることがあると思っておったけれど、それは間違いやった。
そして不満はみんな自分のわがままやった。自分本位のことを考えておっただけやった」と反省ばかりでした。
その後、宮崎禅師は、小塩老師が亡くなった時のことをよく語っておられました。(no4566)
*挿絵:小塩老師の死
◇きのう(11/29)の散歩(10.580歩)
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