ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町平野・美乃利探検(21) 間形の力石(ちからいし)

2021-05-31 07:54:07 | 加古川町平野・美乃利探検

   間形の力石(ちからいし)

 間形(まがた・美乃利)に、どこにでもあるような四角い石が灯篭の前に置かれています。

 前回のブログで紹介した「大和大明神の碑」の横の灯籠の前に置かれた四角い石です。

 この石には銘もなく、ただの石のようで、地元でもその存在を知る人は多くないようです。

 古老によれば、この石は「力石(ちからいし)」です。

 「力石」とは、字のごとく、力だめしをする時に使った石のことです。

 農作業の合間に、若者が集まった。そして、力自慢をしました。

 この石を持ち上げることができると一人前の若者として認められたのです。

 何回も使われたのでしょう。

 両手で持ち上げる部分はつるつるしています。

 間形の力石にはないのですが、娯楽から始まった力石には、重い石を持ち上げた人が、年号や自分の名前を石に刻んで、神社に奉納する行事へと発展したものです。

 時代は、人の力から機械の力へと主役が交代しました。

 また、農業の衰えと共に、いつしかこの風習もなくなっていきました。

 「力石」には、若者のたくましい汗と熱がしみこんでいます。(no5100

 *写真:間形の力石

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加古川町平野・美乃利探検(20) (沼田家文書3) 大和守明矩に感謝

2021-05-30 09:11:20 | 加古川町平野・美乃利探検

   大和守明矩に感謝

 前号で「姫路藩の財政は火の車」であることを紹介しました。

 さらに、延享五年(1748)朝鮮使節の接待費などが重なりました。

 朝鮮使節は、江戸への途中姫路藩の室津に立ち寄ります。

 その接待費・二万両を姫路藩の町人・農民に負担させました。

 悪いことは重なるもので、この年に猛烈な台風が襲います。

 さらに、寛延元年(1748)十一月、明矩は急死しました。

 嫡子は、10才とまだ幼く、転封のことが噂されました。

 この知らせが、姫路に到着したのは、翌寛延二年(1749)元日でした。

 藩主の死により、政治に空白ができました。

 寛延元年(1748)も暮れようとする十二月二十一日、印南郡の農民三千人が湧き出るように市川河原に結集した後、姫路城下へなだれ込む勢いをみせました。

 この時は、かろうじて百姓の怒りは燃え上がらずに終わりました。

        位牌を拝む

 翌年(寛延二年・1749)早々のことでした・・・

 一月二十二日、西条組大庄屋沼田平九郎宅を打ち壊すことで「寛延の大一揆」の幕は切って落とされました。

 「間形村由来書送り之事」の日付に注目します。

 日付は、「寛延元辰年十二月」です。

 まさに、一揆の火が燃えあがろうとするときに出されています。

 児玉正美氏は、『鹿児(67)』(加古川史学会)で、この文書について次のように述べておられます。

「・・・“位牌を拝む”というこの文書の日付が寛延元年十二月ということ・・・この文書を作成した時点では各地では不穏な空気が藩権力と結びついた大庄屋などを脅かしてしただろう。直次郎らの狙いの一つは、減免を認めた藩主(大和守明矩)の位牌に百姓らを結集させることで、自らの権力の保全を図る、イデオロギー支配だったのではないだろうか・・・」

まさに、このような世論づくりの一環であったのでしょう。

   確実な年貢の確保を

 前号の宿題、「間形村の年貢が3割に減免された理由」に戻ります。

 間形村の土地が「上がり地」となった理由は、別の史料によれば間形の百姓が石高分を生産しきれず、「上がり地」を願い出たようです。

 とすると、藩としては、少なくなったとしても確実な年貢の確保を求めたのでしょう。

 まとめておきます。

 「間形村由来書送り之事」が語ることは、「①藩主の位牌に百姓を結集させ大地主の保身を図ったこと、②年貢が減少しても確実な年貢の確保を図ったこと」にあるのではないかと思われます。

  *写真の碑「大和大明神」は、沼田家に保存されている「間形村由来書送り之事」の歴史を語り継ぐために、先代ののお父さん(故)沼田利治さんが建立された碑です。(no5099

 

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加古川町平野・美乃利探検(19) (沼田家文書2) 間形村:免相(税率)三割に      

2021-05-29 08:03:39 | 加古川町平野・美乃利探検

  沼田家文書(2) 

      間形村:免相(税率)三割に

 沼田家文書を検討してみましょう。

 間形村の税率(免相・めんあい)は、それまで6割6分だったものが、「上がり地」となり、元文二年(1737)、上西条の沼田直次郎と加古新村と沼田九郎太夫に下げ渡しとなり税率も5割6分となりました。

 それでも村は安定せず、延享三年(1746)に3割の年貢率(免相)を藩主・松平明矩(あきのり)に願い出たところ認められました。(「間形村由来書送り之事」より)

 姫路藩は、間形村の窮状から判断して免相・3割を認めたのでしょうか?

 当時の姫路藩の財政事情をみておきます。

      姫路藩の財政は火の車

 徳川家の親戚の大名・松平明矩(あきのり)が、奥州白河藩から姫路城の城主としてやってきたのは、寛保二年(1742)のことでした。

 その時、白河藩では、借金を踏み倒すなど、ひと騒が起こっています。

 白河藩、姫路藩ともに十五万石ですが、実際の収入では米のほか、塩・木綿・皮等の産業をあわせると姫路藩の方がはるかに勝っていました。

 姫路藩への転封は、松平家にとっては喜ばしいことだったのですが、その費用をつくるため商人から多額の借金をしての姫路入りとなりました。

 明矩は、借金の返済は姫路で行うと約束して、やっとのことで姫路へ来ることができたのです。

 そのため、姫路藩への入部早々、まず増税にとりかかりました。

 そのやり口はひどいものでした。

 大庄屋を通じて百姓衆が願い出たという形式をとっての増税でした。

    間形村減税の理由は?

 姫路藩の財政は火の車で、免相を6割6分から短期間に3割にまで下げることなど、とうてい考えられる状況ではありません。

 でも、間形村の免相は3割が認められています。

 何がそうさせたのでしょう。(no5098

 

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加古川町平野・美乃利探検(18) (沼田家文書1) 間形村由来書送り之事 

2021-05-28 07:34:53 | 加古川町平野・美乃利探検

    間形村由来書送り之事

 間形の沼田家のご祖は加古新村の方で、沼田家に伝わる文書「間形村由来書送り之事」(写真)があります。

 今回は、その内容(口語訳)の紹介をさせていただきます。

 *文書の口語訳は、内容が理解しやすいようにしたため、完全な直訳ではありません。

       間形村由来書送り之事(口語訳)

 間形村というのは、溝之口村の枝村ですが、溝之口村に家があるばかりで、間形の地には家が一軒もありませんでした。

 姫路藩主・榊原式部守(政岑)の時代、元文元年(一七三六)に、七五石一斗五升が「上がり地」となり、次の年の二月十八日に残りの三一五石五升の全てが「上がり地・あがちち」となり、取り上げられました。

   *注、「上がり地」・・・藩や幕府に召し上げられた土地

 その土地は、上西条の大庄屋・沼田直次郎と加古新村庄屋・(沼田)九郎太夫に下げ渡しとなりました。

 間形村の免相(めんあい・税率のこと)は、六割六分だったものを「一つ」減じて五割六分となりました。

 当時、平野村の兵左衛門が間形村の庄屋を兼ねていましたが、同年三月二十六日に、天王寺村(現、野口町良野)の庄屋・甚五郎が間形村の庄屋を兼ねることになりました。

 しかし、それでも間形村の生産は安定しません。

 延享三年(一七四六)に「間形の免相(年貢率)を三割に減らしてほしい、そして枝村ではなく、独立した間形村として認めてほしい」と藩主・松平明矩(まつだいらあきのり)に願い出たところ、なんとこれが認められたのです。

 寛延元年(一七四八)十一月十七日、姫路藩主・大和守明矩様は亡くなられました。

 これによって、毎年十一月十七日の命日には、間形村の大恩人の明矩様に感謝して、村役人宅に集まり、その遺徳をしのび位牌を拝むことを決めました。

 このように、大和守様(松平明矩)の遺徳をおろそかにせず、いつまでも守るように。

    寛延元年(一七四八)十二月 

 加古郡間形村  九郎太夫

この事を、今後も末永く村中へ折々読み聞かせるように。  

              西条組大庄屋  直次郎

   右証                       (no5097

 *写真:間形村由来書送り之事(文書の一部)

 

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加古川町平野・美乃利探検(17) 美乃利新村(しむら)・間形村(まがたむら)

2021-05-27 08:04:37 | 加古川町平野・美乃利探検

        美乃利新村(しむら)・間形村(まがたむら)

 右の地図は、元禄播磨国絵図(部分)を分かりやすく書き直した地図です。

 この地図で、大野新村と間形(まがた)を見つけてください。

 大野新村は、大野から分かれて独立した村です。

 正保播磨絵図には出ていません。

 別の史料(荒木家文書)では、明暦二年(1656)に大野新村は、大野村から独立したとしています。大野新村は、一般的に「しむら」と呼ばれました。

 この大野新村の分離について『大野史誌(大野史誌編集委員会)』

 「・・・明暦二年本村の南に大野新村を設けた』と書くのみで、分離の理由を知ることはできません。

 しかし、大野新村は新井用水が完成した明暦二年、大野村より分離していますから、分離には新井用水と何らかのかかわりがあったのでしょう。

   明治9年、大野新村は間形と合併し、名称を「美乃利」とする

 時代は明治に変わり、多くの村で合併が行われました。

 明治9年(1876)、大野新村は、この時、理由は分かりませんが大野村と合併せず、間形と合併し、村名を「美乃利(みのり)」としました。

 従って、行政的には、大野新村・間形村の呼称はこの時消え、美乃利となりました。

 しかし、昭和45年・加古川バイパスが美乃利の中心を通り、美乃利を南北に分断した。そのため、バイパス南部の住民は、間形の名前を盛んに使うようになりました。

 くりかえしますが、現在、間形は「美乃利」のままで、行政的には存在しません。(no5096

 *正保時代(1644~1648)、元禄時代(1688~1704)

 *地図:元禄播磨絵図

 

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加古川町平野・美乃利探検(16) 新井用水

2021-05-26 07:19:11 | 加古川町平野・美乃利探検

 日岡山の裾から野口の印南野台地に沿って江戸時代の初めに新井用水がつくられました。

 美乃利村(当時は、大野村に含まれた集落でした)のそばの用水です。少しだけ、説明をしておきましょう。

     新井用水

 加古川大堰のところから野口を流れ、古宮(播磨町)の大池に達する用水(新井用水)の話です。

 承応3年(1645)の旱魃はひどく、太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。

 溜池に頼る24ヵ村の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。

 寺田池の水も完全に干上がってしまいました。

 それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(五ヶ井用水で灌漑をしている村々は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実っていました。

 野口・平岡・播磨の村々の百姓は、食べるものがありませんでした。

 五か井郷から食料と種籾を分けてもらって、やっと生活をつなぐありさまでした。

 古宮村(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛は、加古川から用水を引きたいと考えました。

 しかし、水は、川より高い土地には流れてくれません。

 そのため、上流の城山(じょやま・神野町)のすぐ北の加古川(加古川大堰の左岸)から水を引く計画たてました。

 しかし、問題は、「取水する場所は、五か井用水の取水口の近くになります。当然、五か井郷の村々は了解しないであろう。そして、他の村々の協力が得られるだろうか?」ということでした。

 藩主・榊原忠次の協力を得ることができました。藩主の命令は絶対です。

 難問は、ひとつ解決しました。新井用水の工事は明暦元年(1665)正月に始まり、翌年の月に完成しました。

 伝兵衛は新井の開通式に白装束で臨んだといいます。(no5095

 *写真:新井用水流路

 

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加古川町平野・美乃利探検(15) 五ヵ井用水(4) 西大寺技術集団

2021-05-25 08:50:48 | 加古川町平野・美乃利探検

       西大寺技術集団

 鎌倉時代の農業は、鋤・鍬使う農業でしたが二毛作も始まっています。人口も増えました。商業活動も盛んになりました。

 唐突に、鎌倉時代の西大寺派の農業技術集団が登場します。

 一般的に鎌倉時代に、大河に堰を設けるなどということは、技術的に不可能と思われていたのです。

 でも、最近の研究で、私たちの地域には、その技術があることがわかりました。

 常樂寺は、大野(加古川町大野)は、北條郷にある西大寺派の有力寺院でした。

 五ヶ井用水の改修には、この西大寺派の農業土木技術が使われたと想像されるのです。

 もう少し説明が必要ですが、五ヵ井用水が現在のような水路に改修されたのは1315年ごろ、つまり、鎌倉時代と考えられるようになりました。

 論理が飛躍しているようで、ストンと腑に落ちないでしょう。

 西大寺農業土木技術集団の話を続けましょう。



 鎌倉時代、地震・飢饉・戦争は引き続きおきました。

 その上に重い税金があり、人々の生活は、厳しさを増し、まさに末法の世のようでした。

 こんな時、人々は仏様に救いをもとめます。

 この時代、法然・親鸞といった新しい考えの宗教家がキラ星のように誕生しました。

 庶民は、救いを仏様に求めたのです。特に「仏様を信じれば救われる(死後、浄土へ行ける)」という考え方です。すさまじい勢いで広がろうとしました。

 当然、それまでの宗教(教団)と争いがおきました。

     常楽寺は、真言律宗の寺院

 「お釈迦さまが一番大切にされたのは戒律(かいりつ)を守ることである。もう一度、いまの時代に戒律を呼び興こそう」という声が高まりました。

 信者は、「戒律」を守ってこそ救われるとする教団が真言宗・天台宗を中心にして生まれました。

 特に、真言宗から規律(律)を大事にする声が上がり、奈良の西大寺を再興した叡尊(えいぞん)を中心にして真言律宗がつくられました。

 永仁3年(1295)、文観(加古川の大野の人)は、西大寺に入り受戒(真言律宗の僧として認められ戒名をもらうこと)しています。

 文観(殊音)・西大寺・常楽寺(加古川町大野)については「平野、美乃利」の後「大野探検」をとりあげるよていです。そこで、詳細を追ってみます。

 ここでは、西大寺技術集団によって五ヶ井用水は完成したと、頭の隅にとどめておいてください。(no5094

 *写真:奈良の西大寺を再興した叡尊(えいぞん)

 

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加古川町平野・美乃利探検(14) 五ヶ井用水(3) 五ヶ井の水路

2021-05-24 09:37:53 | 加古川町平野・美乃利探検

     五ヶ井用水の水路

  先に紹介したように、奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。

 地方には国司・里長等の地方官が置かれました。

 これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることにありました。

 政府は、税を確実にするために土地制度を整えたのが、条里制でした。

 条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。 



 美乃利でも条里制の土地があったことは確かめられています。

 しかし、土地だけでは田畑になりません。水が必要です。

 では、どのようにして水を得たのでしょうか。

 池から得たとも考えられが、池の遺構がありません。

 埋もれてしまったとも考えられるが、これだけ発達した条里制です。どこかで遺構が見つかってもよさそうなものです。

 考えられることは、加古川の水を利用することです。

 それにしても、加古川からの水が条里制の全ての田畑を潤したとも思えません。

 加古川は、洪水をしばしばおこす暴れ川でした。加古川に堰をつくり、水を引いたとも考えられないのです。

 この時代に大規模な用水作る土木技術はまだありません。

 加古川は、太古よりその流路をしばしば変えています。加古川の旧流路(図)を見てください。

 これら流路と条里制の遺構がたぶんに重なっています。

 つまり、条里制の土地は加古川の旧流路を用水として利用したと考えるのが自然です。

 五ヶ井用水の始まりは条里制の時代まで、さかのぼることができると想像されるのです。no5093

 *図:加古川の旧流路(北の部分)

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加古川町平野・美乃利探検(13) 五ヶ井用水(2) 条里制と五ヶ井の水路跡

2021-05-23 08:31:51 | 加古川町平野・美乃利探検

     条里制と五ヶ井の水路

 先に紹介したように、奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。

 地方には国司・里長等の地方官が置かれました。

 これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることにありました。

 政府は、税を確実にするために土地制度を整えたのが、条里制でした。

 条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。 



 美乃利でも条里制の土地があったことは確かめられています。

 しかし、土地だけでは田畑になりません。水が必要です。

 では、どのようにして水を得たのでしょうか。

 池から得たとも考えられが、池の遺構がありません。

 埋もれてしまったとも考えられるが、これだけ発達した条里制です。どこかで遺構が見つかってもよさそうなものです。

 考えられることは、加古川の水を利用することです。

 それにしても、加古川からの水が条里制の全ての田畑を潤したとも思えません。

 加古川は、洪水をしばしばおこす暴れ川でした。加古川に堰をつくり、水を引いたとも考えられないのです。

 この時代に大規模な用水作る土木技術はまだありません。

 加古川は、太古よりその流路をしばしば変えています。加古川の旧流路(図)を見てください。

 これら流路と条里制の遺構がたぶんに重なっています。

 つまり、条里制の土地は加古川の旧流路を用水として利用したと考えるのが自然です。

 五ヶ井用水の始まりは条里制の時代まで、さかのぼることができると想像されるのです。

no5093

 *図:加古川の旧流路

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加古川町平野・美乃利探検(12) 五ヶ井用水(1)

2021-05-22 07:33:33 | 加古川町平野・美乃利探検

   五ヶ井用水(1)

 大野・中津・美乃利は五ヶ井用水のど真ん中の集落(五ヶ井郷)です。

 五ヶ井用水の話をしましょう。

 

 『日本書紀(にほんしょき)に、次のような話があります。

 ・・・

   五ヶ井用水の伝承

 (今から1300年以上も前のことです)聖徳太子は、叔母君の33代・推古天皇(すいこてんのう)のために法華経(ほけきょう)の講義をしました。

 これを聞かれた推古天皇は、大いに感動され、その労をねぎらうために、播磨の国の良田、500町歩を聖徳太子に与えました。

 太子はこれをありがたくお受けして、斑鳩寺(揖保郡太子町)と鶴林寺に分け、それぞれ361町、139町を分け与え荘園としました。

 ・・・・

 そして、鶴林寺の田畑を潤すために造られたのが「五ヶ井用水」だというのです。

 しかし、加古川の本流に堰(せき)を築き、洪水の時にも崩れない、しっかりとした堤と水門をつくり加古川から取水するためには、そのための技術の進歩が必要となります。

 聖徳太子の時代には、まだそれだけの技術の発達はありません。

 それに、何よりもひろい地域を一体的に支配する権力者が出現し、村々の代表の結びつきができなければ、ひろい地域の灌漑施設できません。

 このようなことから考えて、現在の「五ヶ井用水」は、ずっと後(鎌倉時代以降)とみてよいようです。

 それ以前の水路は、加古川の古い流路を利用していたと考えられます。

   なぜ「五ヶ井用水」

 五ヶ井用水の名称は、昔の①北条郷(大野・美乃利・平野・中津・寺家町・篠原・溝口)岸南庄(加古川‐現在の本町・木村・友沢)、③長田庄(長田・安田・新野辺・口里・北在家)、④加古庄(粟津・備後・植田)それに⑤今福庄の五つの地域と集落に水路が引かれているところからつけられた名称です。

 五ヶ井用水に、昔はホタルが飛び交い、水遊びの子どもの歓声があったといいます。(no5092

 *地図:①は五ヶ井用水受益地域(②の新用水受益地域については後に説明します)

 

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加古川町平野・美乃利探検(11) 美乃利に残る条里制(じょうりせい)跡

2021-05-21 09:06:12 | 加古川町平野・美乃利探検

      美乃利に残る条里制(じょうりせい)跡

 奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。

 地方には国司・里長等の地方官が置かれました。

 これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることでした。

 政府は、税を確実にするために、まず土地制度を整えます。これが条里制です。

 条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。 

 その仕組みは、六町四方(43.2ヘクタール)の大区画を縦横六等分、つまり36の小区画に分けました。

 そして、その一つをさらに36等分し、その一つひとつに一の坪・二の坪・三の坪・・・のような番号をつけ所有者をはっきりさせました。

 美乃利の条里制の遺構(図)をご覧ください。

 以下『美乃利の本』から一部引用させていただきます。

 「・・・・やがて、そのシステム(条里制)が失われ、それから千年の時を経ても加古川下流域この条理の痕跡が多く残った地域で、現在の美乃利の土地区画も驚くほどその影響を受けているのがわかる」

「また、『美乃利の本』の筆者は条坊制の条里制の地割は、古代山陽道を配慮しつつ、加古郡の郡衙から高御座山を真正面に眺められる方向であることに注目される」と指摘されています。

 <郡衙(ぐんが)>

 律令時代の「郡」をおさめるための役所です。今で言う市役所にあたります。no5091

*挿絵:美乃利地区の条里制の痕跡(『美乃利の本』より)

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加古川町平野・美乃利探検(10) 美乃利遺跡

2021-05-20 09:24:02 | 加古川町平野・美乃利探検

   日岡豪族と溝ノ口遺跡

 美乃利遺跡の紹介の前に、溝ノ口遺跡の復習をしておきます。

 日岡山には多くの古墳があります。

 これらの多くの古墳群は4世紀にさかのぼり、被葬者は日岡山の南に広がる平野を約200年にわたって支配していたと考えられます。

 平野部には、南西約2キロメートルの溝ノ口遺跡をはじめ、北在家・粟津などの弥生遺跡があり、早くから開けていました。

 中でも「溝ノ口弥生遺跡」は、弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡で、古墳時代の住居跡も発見されています。

 『市史』に、次のような面白い指摘があります。

 

 ・・・日岡山古墳群の現存する5基(前述の4基と稲日大郎姫の御陵)の前方後円墳は、すべて前方部を南に向けています。

 前方後円墳については、必ずしも定説があるわけではありませんが、前方部を平野側に向けている場合が多い。それらは、被葬者が支配した土地とみなしてよさそうです。

 したがって、日岡山古墳群の方向と平野部の遺跡との関係は大変興味深い・・・

 つまり、日岡山の南の平野部に位置集落は、日岡豪族が支配していた村であったと指摘しています。

    美乃利遺跡

 溝ノ口遺跡の調査に引き続き、その北に広がる美乃利遺跡が平成27年11月25年から平成12年11月25日から、平成28(2016)3月18日までの間実施されました。

 2,820㎡を調査された結果、合計780基もの遺構と、たくさんの遺物が出土しました。

 美乃利遺跡も溝ノ口遺跡も弥生時代から中世にかけての複合遺跡でした。

 調査地点の北(上部)にある丘陵は、日岡山です。(no5090

 *写真:美乃利遺跡(『溝の口遺跡発掘調査報告Ⅳ・美乃利遺跡発掘調査報告書Ⅰ、(加古川市教育委員会)』より)

 

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加古川町平野・美乃利探検(9) 美乃利村は、明暦二年(1656)大野村より分村、そして間形村を合併(明治9年)

2021-05-19 09:26:59 | 加古川町平野・美乃利探検

    美乃利村は、明暦二年(1656)大野村より分村

    そして、間形村を合併(明治9年)

 

 郷土史家・岡田功氏が書かれた『かこがわ万華鏡』(木戸書店)があります。

 その本から、美乃利を紹介紹介している最初の部分をお借りします。

 

 美乃利は、江戸時代の加古郡大野新村と同郡間形(まがた)村が明治9年(1876)の合併に伴なって誕生した村名です。

 稲の稔り(みのり)がよくなるように都の願いをこめて名づけられたのでしょう。

 大野新村は、明暦二年(1656)大野村より分村した村です。

 大野新村は、大野村から独立して、大野新村は、一般的に「しむら」と呼ばれていました。

 

 一方、間形村は、元禄天保郷帳には「間方」とあります。

 寛延元年(1748)の「間形村由来書送り之事」によると、「江戸時代中期まで一軒の家もなく、延享三年(1764)一村として独立した」とあります。

 「元禄郷帳」には「溝之口村之枝村」とあり、元禄~延享(173648)のころ、人が住んだのではないかと考えられます。

 では、どうして大野村から分村したり、間方村を合併したのでしょうか。(no5089

*地図:現在の美乃利

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『加古川さんぽ上・下(市内各町の)歴史散策』 の販売のお知らせ 

2021-05-18 11:02:33 |  ・コーヒーブレイク・余話

 いま、ブログを2つ(「ひろかずのブログ」と「ひろかずの日記」)とフェイスブック(FB)を発信しています。きのうのFB下記のお願いを掲載しました。

 今日の「ひろかずのブログ」「ひろかずの日記」でも番外編として、書籍販売のお知らせをさせていただきます。

 

  『加古川さんぽ上・下(市内各町の)歴史散策』

  販売のお知らせ 



 ドジな話で申し訳ありません。

 もう半年もまえです。『加古川さんぽ』の購読申し込みがありました。

 そのとき、「完売になり申し込みありません」とお断りしました。

 一昨日、部屋(離れ)の整理をしました

 『加古川さんぽ』が40部(組)出てきたのです。

 印刷所から届いた時に保存用にと別に保管していた分でした。

 もし、お読みいただける方はお申し込みください。遠方の方には郵送します。

 <お詫び>

 500部だけの製作のため1冊が1000円(上・下で2000円)と高くついてしまいました。ご了承ください。

 お申し込は、下記のメールでか自宅電話でおねがいします。

   自宅電話:079-490-4641

   Email   7z6tn9@gmail.com

 *お申込みは、電話番号、住所(郵便番号)をお聞かせください。

  遠方(市内を含む)の方は郵送させていただきます。

 *ご近所の方は、自宅(加古川市尾上町今福9番地)でも直接販売いたします。

 

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加古川町平野・美乃利探検(8) 龍泉寺(4)・加古川宿の商人たち

2021-05-17 08:03:16 | 加古川町平野・美乃利探検

         加古川宿の商人たち

 ずいぶん前です。1993年夏、龍泉寺の墓標を調査したことがあります。蚊の大群と悪戦苦闘したことを覚えています。

 龍泉寺が元、寺家村()(ニッケパークダウン敷地内)にあったためか、墓碑の戒名の他に「かぎや治郎吉」・「たたみや七兵衛」等、生前の仕事・名前が刻まれた墓碑が見つか見つかりました。

 その時見つけた墓碑は、次のようでした。(西暦をつけておきます)

  年号(西暦)           職種・名前

  不 明                    畳屋吉右衛門

  不 明           塩屋新兵衛

  宝永7年(1710)      かぎや治郎吉

  寛保2年(1742)      たたみや七兵衛

  寛政2年(1790)      鈎屋市左衛門

  文政3年(1820)      鈎屋市左衛門

  文政8年(1825)      綿くり屋左七郎

  文政9年(1826)      帆屋喜兵衛

  天保2年(1831)      農具屋伝兵衛

  元治元年(1864)      碁座屋伝助

 鈎屋市左衛門の名前が二人ありますが、これは、父の名を継いだためと思われます。

 当時、詳しく調査していれば、江戸の商人の墓碑をさらに見つける事ができたでしょう。

 いまは、墓地は新しくなり、すっかり変っています。

 これら江戸の商人たちの墓碑は、場所を変えてあるのかもしれませんが、見つかりませんでした。

 無縁仏として、まとめられたのでしょうか。江戸の商人のざわめきが聞こえてきません。(no5088

 *写真は、龍泉寺(加古川市加古川町平野)の山門

 

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