ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町大野探検(22) 文観を追え(3)・文観、加古川の大野で誕生

2021-06-30 08:37:34 | 加古川町大野探検

     文観、加古川の大野で誕生

 以前、「文観」というとチョットいかがわしい怪僧であり、その生まれは加古川ではなく、現在の加西市の一乗寺で勉強をした僧侶ぐらいに思っていました。

 中世史の網野善彦先生の著書では、「文観は加古川市加古川町大野の出身で、大野の常楽寺で研修を始めたということがはっきりしてきた」と指摘されています。

       文観の誕生:弘安元年(1278111

 氷丘公民館地域学講座で、兵庫大学教授の金子哲先生が「日岡の文観」というテーマで講義をされました。

 ここでは、その講義から次の史料をおかりします。史料を掲載させていただきましたが、今日のところはチラッと見るだけでけっこうです。

  (史料)

 宝連 「瑜伽伝灯商省」第九巻第二十九法務大僧正弘真条

 第廿九伝法務大僧正弘真  号小野僧正一長者座主

 左大臣雅信公十三代後胤大野源太夫重貞孫也、播州人也、弘安元年

 戊寅正月十一日乙未鬼宿金曜辰初分誕生、非母可生孝子、祈誓如意

 輪白衣二尊、(後略)

  〈史料〉からわかること

 この史料は、文観の直弟子の宝蓮の書いたもので、史料の内容は信用してよいと思われます。

 次のことを確かめておいてください。

 「弘真」は、文観のことです。「弘真」については後に説明をしましょう。

 ◇文観のお爺さんは、大野源太夫重貞です。

 文観の誕生は、弘安元年(1278)1月11日。(母に関しては、「非母可生孝子」と記しています。何か事情があるようですが、今のところはこのままにしておきます。父に関しては不明です)

 時代の状況から考えて、元関東(武士)だったのでしょう。

       文観は播州の人

 史料によれば文観は「播州の人」であり、名前が「大野」であるところから、加古川の大野の人であることが推察されます。

 史料だけでは、文観についての詳しいことは分かりません。でも、少し文観の輪郭が現れてきました。(no5126)

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加古川町大野探検(21) 文観を追え(2)・文観は、大野の人

2021-06-29 07:08:38 | 加古川町大野探検

    文観(もんかん)を追え

 「加古川探検・大野編」は、大野に生まれた文観は「文観を追え」と題して、少し詳しく紹介しましょう。

 最近の研究では、「文観は、加古川生まれ」ということが分かってきました。

 「今まで、わかっていなかった」というのが正直なところです。

 そうなるとよけいに書きたくなります。

 文観は、日本史の歯車を大きく動かした人物です。

 少し、気張って紹介しましょう。

 

        文観と後醍醐天皇

 文観・後醍醐天皇の時代(南北朝時代)は、日本人の価値観が最も大きく変化した時代です。

 でも、南北朝時代については、教科書でも簡単な紹介に終わっています。

 霞の向こうの風景のようです。

 この時代の中心になっている人物は、間違いなく後醍醐天皇です。

 その後醍醐天皇を支えている重要人物の一人が、僧の文観(もんかん)でした。

 しかし、文観は、自分のことをほとんど語っていません。

 そのため、後に後醍醐天皇の護持僧になってからの活躍はある程度分かるのですが、出生や子どもの頃の文観については謎だらけです。

 *(護持僧:御持僧とも書きます。天皇のために特設された加持祈祷をする僧職。天台・真言の高僧を選んでこれに任じられました。)

 最近の歴史学では、文観の生まれは加古川市大野であることが事実として浮かび上がってきました。

 日本史の分水嶺(日本史二つに分ける時代区分)となった南北朝時代、その中心にいたのは後醍醐天皇です。

 その後醍醐天皇を支えた文観が加古川の人であったとしたら、私たちとしても黙っておくことはできません。

 文観さん追いかけることにしましょう。(no5125) 

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加古川町大野探検(20) 文観を追え(1)・(大野)常楽寺は、法道仙人伝承の寺

2021-06-28 11:10:37 | 加古川町大野探検

    (大野)常楽寺は、法道仙人伝承の寺

 法華山(加西市)一乗寺の縁起によれば、一乗寺の開基は、天竺(インド)の人・法道仙人(ほうどうせんにん)で、雲に乗って日本にやってきたといいます。
 
(大野)常楽寺も法道仙人の開基伝承を持った寺です。
 
加古郡では、常楽寺(加古川町大野)の他に横蔵寺(平岡町)・高薗寺(稲美町)が、法道仙人を開基としています。

 『加古郡史』によれば、法道仙人は、揖保郡出身の徳道(656735)ではないかと推測していますが、法道仙人は伝承上の人物です。


   
播磨地方に法道仙人伝承が多い訳は?
 
兵庫県には、法道仙人伝承の寺院が多くあります。 そして、法道仙人は播磨地方限定の神仏です。播磨以外では、あまり見ることはありません。
 これに関して、ある学者は次のように想像されています。
 「・・・・平安時代末期に、すでに淡路の諭鶴羽山(ゆずるはさん)は、熊野修験の勢力下にはいっていたことが、ある史料からわかっている。
 たぶん、淡路島の先山(せんざん)・常隆寺山(じょうりゅうじさん)などの山岳寺院は、同じ事情にあったろう。
 
一方、但馬の三川権現も、同時代ごろ、すでに熊野の傘下にあったようだ。
 とすると、兵庫県の中央部に多く分布する山々にあった、法道伝説を持つ播磨修験集団は、南と北から、熊野の勢力にはさまれていたことになる。
 このことは、播磨は、山岳寺院の多い所になっているが、こうした修験の歴史は播磨の山岳寺院を性格づけているのではないか・・・・」と推理されています。
 
つまり、「やがて播磨は中央に近く、播磨の山岳寺院は、中央の大峰修権に併呑される。
 
が、法道仙人信仰は播磨の神仏としてしっかりと残ったのであろう・・・」と。
 *写真:法道仙人(法華山一乗寺蔵)(no5124

 

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加古川町大野探検(19) 日岡神社は、式内社(しきないしゃ)

2021-06-27 07:59:27 | 加古川町大野探検

   日岡神社は、式内社(しきないしゃ)

 日岡神社の話です。

 日岡神社は、式内社です。

 「式内社(しきないしゃ)」は、聞きなれない言葉です。

 これは10世紀のはじめ、醍醐(だいご)天皇の時代に作られた規則である延喜式(えんぎしき)に、その名が見られる神社のことです。

 古代人にとって、森や山は神々の宿る場所であり、ある時は、そこに集まり神々に感謝し、あるときは政(まつりごと)を神々と共に行った場所でした。

 時はたち、そこに社殿が造られるようになり、7世紀の後半には全国的に神社の形が完成したようです。

 中央政府は、地方の豪族と結びつきを強め、勢力をさらに強めるため、全国の有力な神社をその統制下におき、「式内社」として権威づけたのです。

 加古川市付近(加古川市・高砂市・播磨町・稲美町)で「式内社」は日岡神社だけです。

 多くの神社がそうであるように、式内社に選ばれた理由ははっきりしません。

 きっと、日岡神社は、当時このあたりで大きな勢力をもっていたため式内社に選ばれたのでしょう。(no5123

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加古川町大野探検(18) ヤマトタケル物語(9) 風土記とヤマト・タケル

2021-06-26 08:12:10 | 加古川町大野探検

     風土記とヤマト・タケル

 『古事記』(集英社)の著者・田辺聖子さんは、ヤマト・タケルについて次のように書かれています。

 ・・・

 ヤマト・タケルの物語は、さながらギリシャ神話の、ペリセウスやオデッセウスの面影の片鱗がある。

 恋と冒険に満ちた英雄の生涯を、古代の日本人はどのようにして、つくりあげたのだろう。

 ・・・

 古事記・日本書紀に書かれたヤマト・タケルは、まさに物語のクライマックスに登場します。

 

    『風土記』にヤマト・タケルが登場しない!

 それほどの人物なのですから、ほとんど時を同じくして書かれた『播磨風土記』(播磨地方の郷土誌)に登場しないわけがありません。

 不思議なことに『播磨風土記』のどこにもヤマト・タケルの姿はありません。

 あるのは、ヤマト・タケルのお母さんとお父さん・景行天皇の愛の物語ばかりです。

 これは何を物語るのでしょうか。

 『播磨風土記』の研究家である、岩坂純一郎氏は『東播磨の歴史1・古代』(神戸新聞出版センター)で、「・・・ヤマト・タケルがなぜ地元で編集された風土記に登場しないのかを考察することは重要です。

 私の認識不足かも知れませんが、これまで『播磨風土記』にヤマト・タケルが登場していないことに疑問を抱かれた研究はほとんどありません。

 ・・・・『播磨風土記』にヤマト・タケルが登場していない理由を考えていくこともこれからの課題の一つとして問題提起をさせていただきます」と書かれています。

 

 私は、「よく非常に独断的な意見を言う」とおしかりを受けますが、書かせていただきます。

 「風土記がまとめられた時代、加古川地方にはヤマト・タケルの話はなかったのではないか・・・ないものは書けないという訳です。

 ギリシャ神話に登場するような英雄が加古川に誕生したという物語は痛快な話のですが、ヤマト・タケルの話は地元にはなかったのではないかと想像するのです」

 こんなこと書くのは、少々気が重い・・・(no5122

 *写真:武人の埴輪、記事とは直接関係がありませんが、ヤマト・タケルの姿が想像されます。

 

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加古川町大野探検(17) ヤマトタケル物語(8) ヤマト・タケルの物語ること

2021-06-25 07:39:14 | 加古川町大野探検

 最近、神話が語られることも少なくなりましたが、ヤマト・タケル物語はいかがでしたか。

 加古川誕生の古代の英雄です。おもしろさも倍増します。

 でも、神話であることを頭の隅においてお読みください。 

 ヤマト・タケルの語ることを考えてみましょう。

 いろいろと想像できるのですが、ここでは、次のように考えておきます。

 

     ヤマト・タケルの物語ること

 「ヤマト・タケルは好きになれない」という人も多かったのではないかとも想像します。

 というのは、クマソ・タケルやイズモ・タケルを征伐するときに「だましうち」にしているからです。

 ここで、少し断っておかなければなりません。

 古代においては「だます(謀る)」ということは悪いことではなく、だまされる者が、それを見抜くことができなかった愚か者と考えられていたようです。

 つまり、だます(謀る)ことは、知恵(科学)の芽生えなのかもしれません。

 この物語には、やたら「タケル」という人物が登場しました。

 「タケル」というのは勇者という意味です。

 ですから、ヤマト・タケルというのは大和の勇者ということです。

 「タケル」という人は、大和に従わない地方の豪族の中にもたくさんいました。

 この物語は、四世紀の後半から五世紀の初めのころを中心としていると思われますが、この時期は、地方にも軍事組織である「健部(たけるべ)」が存在しています。

 そして、なお不思議なことに、その土地の多くは鉄の産地なのです。

 こんな事実から考えると、ヤマト・タケルの物語は、地方のタケル(地方豪族)との戦いであり、それも鉄の産する地方を支配しようとする物語なのかもしれません。

 それがいつしかヤマト・タケル一人の物語をして描かれていったのでしょう。(no5121

 *地図:図の太線は古事記によるヤマト・タケルの征服コース、細線は日本書紀の記す征服コース  

 

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加古川町大野探検(16) ヤマトタケル物語(7) タケル白鳥に

2021-06-24 05:28:10 | 加古川町大野探検

     タケル白鳥に

 大和に帰ろうとします。

 オトタチバナヒメのことが忘れられません。

 しかし、悲しんでいるばかりおれません。

 甲斐の国(今の山梨県)を過ぎ、信濃(今の長野県)に入り、そこにはびこっている悪者を従え、尾張の国(今の愛知県)に帰りつきました。

 そこには、結婚の約束をしたミヤズヒメが待っていました。

 姫の顔はなぜかさえません。

 「本当に長い年月を待っていたので、とうとう病気になってしまいました・・・・」と答えるばかりでいた。

 タケルは、剣をミヤズヒメに預けて伊吹山の賊を征伐に出かけました。

 「この山の神(賊)ぐらい素手でも捻りつぶしてやるぞ・・・」と山を登って行くと、白い大きなイノシシが現れました。

 気にもとめず、さらに登りつづけました。

 このイノシシこそ、山の神が姿を変えて現れていたのです。

 やがて、枝葉が折れるばかりの雹(ひょう)が降ってきました。

 「苦しい(寒い)・・・どうすればいいのか・・・・」タケルは歯を食いしばり、山を下り、やっと正気に戻りました。

 タケルの旅はさらに続きます。

 ある村にたどり着いた時でした。

 「ああ・・・私の足はこんなに三重に曲がってしまった。もう歩けない・・・」とつぶやくのでした。

 そのため、その地を三重(今の三重県)と呼ぶようになったといいます。

 それでも我慢して能煩野(のぼの)の野登山(ののぼりやま)というところまでたどり着きました。

 そこからはあの懐かしい大和の地が見えます。

  大和は 国のまほろば

  たたなづく 青垣

  山ごもれる 大和しうるはし

 タケルは、この歌を歌い終わると、力つき息を引き取りました。

 皆が泣き悲しんでいる時でした。

 一羽の白鳥が、海岸の方へ飛んでいくでは、ありませんか。

 タケルの魂が白鳥になり、大空に舞い上がったのです。

 王子たちは、どこまでも、どこまでも追いかけて行ったといいます。(no5120

 

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加古川町大野探検(15) ヤマトタケル物語(6) オトタチバナヒメ

2021-06-23 06:33:27 | 加古川町大野探検

   オトタチバナヒメ

 相模で敵をたおしたタケルは、さらに東へ進み、走水(はしりみず)に着き、対岸の上総(かずさ・今の千葉県の南部)に渡ろうとしました。  

 が、海は大荒れになりました。

 舟は木の葉のように揺れ、今にもしずみそうになりました。

 その時です。

 タケルに従っていた弟橘姫(オトタチバナヒメ)が、「・・・これはきっと海神のたたりです。

 私がタケル様の身代わりになって、海神の怒りを鎮めましょう。

 どうか、帝の命令を成し遂げられ、無事に大和にお帰りください・・・」と海に菅(すげ)の畳を八枚、皮の畳八枚、それに絹の畳八枚を重ねて海面に敷き、それに飛び乗りました。

 大波は、美しい姫をたちまちにのみ込んでしまいました。

 海は、嘘のように静まり、タケルは上総に向かって進むことができました。

 タケルが上総に上陸して七日目でした。

 海岸にオトタチバナヒメの櫛が流れ着きました。

 上総では、大和に従わない者どもを征服しました。

 この大任をはたしたタケルは懐かしい大和へ帰ろうとしました。

 だが・・・・(no5119

 

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加古川町大野探検(14) ヤマトタケル物語(5) タケル東国へ

2021-06-22 07:17:27 | 加古川町大野探検

    タケル東国へ

 イズモ・タケルを征伐して大和に帰ってきたとおもうや、父・景行天皇は、こんどは「東の方にらんぼうな、大和に従わない悪者がいる。

 それらを、従えて参れ・・・」とタケルに命令するのでした。

 タケルは東国への途中、伊勢の叔母のヤマトヒメを訪ね別れの挨拶をしました。

 なぜか、悲しくなり「帝(父・景行天皇)は、 東国を征服してまいれ、とおっしゃいました。

 私は、どうなってもよいとお考えなのでしょうか・・・」とヤマトヒメに泣き崩れるのでした。

 ヤマトヒメは「もしものことがあったら・・・」と、剣と袋を与え、やさしくタケルを慰めました。

 タケルは尾張(愛知県)の長官・ミヤズヒメの館にとまり、結婚の約束をして、さらに東へと進みました。

 やがて、相模(静岡県)に着きました。

 その国の長は、うまくタケルをだまし殺してしまおうと嘘を言ったのです。

 「・・・あの広い野中に、大きな沼があります。そこに人々を苦しめる悪い神が住んでいます。どうか、平らげてください・・・・」と。

 それを信じたタケルは、その野に出かけました。

 背丈ほどの枯れた草が伸びていました。しばらくするとパチパチ・・・というカヤの燃える音がしました。

 やがて、青い炎・・・

 「おや・・」と思ったときは、すでに火に囲まれ、次第にタケルにせまってきました。

 その瞬間、叔母のヤマトヒメからもらった袋のことを思い出しました。

 開いてみると、火打石がでてきました。

 タケルは、剣を抜き、枯れた草をサッ~と切り倒し、その火打石で火をつけました。

 すると、どうしたことか、たちまちに風向きが逆になり、火も反対に燃え広がっていくではありませんか。

 敵は逃げることができず、家もろとも焼き払われてしまいました。

 それ以来、その場所は「焼津(やいづ)」と呼ぶようになったということです。(no5118

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加古川町大野探検(13) ヤマトタケル物語(4) イズモ・タケル

2021-06-21 08:01:42 | 加古川町大野探検

      イズモ・タケル

 出雲(いずも)の国は歴史も古く、大和の国にも決して劣らない、誇り高い国でした。

ヤマト・タケルにとって出雲の国の主、イズモ・タケルはいつか戦わなければならない大敵でした。

 クマソ・タケルを征伐したものの、大和をでる時にいた供の勇ましい兵(つわもの)も半分ほどになり、剣も度重なる戦でボロボロになってしまいました。

 このままでは、イズモ・タケルを倒すことはできそうにもありません。

 それに、出雲は立派な剣が作られているところですから、なおさらのことです。

 ヤマト・タケルは「されど、イズモ・タケルに勝たねばならない・・・」とつぶやくのでした。

 「そうだ、謀(はかりごと)を使おう・・・まず、イズモ・タケルを味方と思わせることだ・・・」

 こう考えたヤマト・タケルは、さっそくイズモ・タケルの館を訪ねました。

 館の美しいこと、豊かな稲の稔のことを誉めたたえました。

 「オロチ退治のあった肥の川(ひのかわ)に案内してもらえないか・・・」「お望みとあれば・・・」

 二人は肥の川にでかけました。その景色は、なるほど素晴らしいものでした。

 ヤマト・タケルは言うのでした。

 「このあたりで水浴びをしようではありませんか・・・・」

 安心したイズモ・タケルは、一緒に汗を流しましたが、これが謀だったのです。

 先に水から上がったヤマト・タケルは前もって用意していた木で作った剣をイズモ・タケルの剣と取り替えました。

 そして、イズモ・タケルを待ちました。

 やがて、自ら上がったイズモ・タケルに言いました。

「あなたは、出雲で一番の勇者。ひとつ、勝負をしようではありませんか」

 イズモ・タケルは「私に勝てる者はあるものか・・・」と剣を抜こうとしました。ところが抜けません。

 ヤマト・タケルは、イズモ・タケルをなんなくやっつけることができました。no5117

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加古川町大野探検(12) ヤマトタケル物語(3) 熊襲征伐へ    

2021-06-20 09:52:18 | 加古川町大野探検

        ヤマトタケル物語()、熊襲征伐へ 

 ヤマトタケルとはどんな人物なのでしょうか。

 この物語は、小碓命(オウスノミコト)が父・景行天皇の命令を裏切った兄・大碓命(おおうすのみこと)を便所に入いるところを捕まえて、殺してしまったところから始めます。

 兄はオオウスノミコト、弟はオウスノミコトです。間違わないようにしてください。



 天皇はこの話を聞いてビックリ、「こんな気性の荒いミコトを傍においていては、どんなことがおこるかもしれない」と思い、「お前は、西の果ての九州に悪い熊襲がいる。

 これから出かけて征服してまいれ・・・」と命じました。

 オウス・ノミコトは、伊勢の叔母のヤマトヒメのところにお別れに行くと、女性の衣装と剣をくださいました。

 ミコトは、日を重ねて、熊襲の住む九州に着きました。

 その時、熊襲は新しくできた館のお祝いの準備のまっ最中でした。

 いよいよ、お祝いの日になりました。

 ミコトは、ヤマトヒメからもらった衣装を身につけ、乙女の姿に変装して宴会の出入りする女たちに混じって、首尾よくクマソ・タケルの館に入りこむことができました。

 それとも知らず、クマソ・タケル兄弟は(ヤマト)タケルを傍に座らせ、やがて歌が始まりました。

 宴会も最高潮に達したときでした。

 (ヤマト)タケルは、まず兄のクマソ・タケルを一突きにし、そして逃げる弟のタケルの背中をつかむや剣を突きさしました。

 弟のタケルは、苦しい息の下から「あなたはどなた様でしょうか・・・」と尋ねるので、ミコトは、「私はヤマトのミコトで、お前たちを征伐に来たのだ・・・」と名のると、彼は、「私より強いあなた様に私の名前のタケルをさしあげます。

 今日からあなたは、ヤマト・タケルと名にのりなさい・・・」と言うのでした。

 それを聞くや、ミコトはクマソ・タケルの弟を見事に切り殺し、これよりミコトは「ヤマト・タケル」と名のるようになりました。(no5116

 

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加古川町大野探検(11) ヤマトタケル物語(2) ヤマトタケルの伝承 

2021-06-19 07:26:25 | 加古川町大野探検

  日岡御陵は、ヤマトタケルのお母さんの墓と伝えられています。 

     ヤマトタケルの伝承

 ・・・大和(奈良)豪族にとって播磨地方は、畿外との防衛の最前線でした。

 加古川地方は4世紀ごろには奈良の勢力圏に入っており、大和地方にとっても、加古川地方は重要な地域でした。

 そのため、大和と東播磨地方の間には、さまざまな交流があったと想像されます。

 このような状況が。日岡山のヤマトタケル伝承を誕生させたと考えられます。

 伝承によれば、ヤマトタケルは、加古川市に生まれ、母は、播磨の豪族の娘:稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)です。

 *『播磨風土記』では、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)は、印南別嬢(いなびのわきいらつめ)として登場します。

    母は、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)

最近は、『古事記』・『日本書紀』のクライマックスに登場する英雄ヤマトタケルといっても、 ピンとこない人(世代)が多くなりました。

 『古代史の謎に挑む(一)』(NHK出版)は、ヤマトタケルを、次のように説明しています。

 ・・・その昔、日本に一人の英雄が登場した。それはいまからおよそ1600年前、日本の歴史の中でもっとも多くの謎につつまれている4世紀ここと言われている。

 その英雄こそ大和朝廷の日本統一に大きな役割をはたしたと伝えられているヤマトタケルである。・・・

 彼は、播磨、現在の兵庫県加古川市付近に生まれたと伝えられている。第十二代 景行天皇(けいこうてんのう)を父として、母はこの地方出身の稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)であった。

 ヤマトタケルは双子の弟であり、幼名を小碓命(おうすのみこと)と名のった・・・・

 もちろん、ヤマトタケルの物語は史実を語ったものではありません。しかし伝承であれ、加古川から日本統一にかかわった英雄が登場しているのは愉快な話です。(no5115

 *絵画:ヤマトタケル像(青木繁筆・東京国立博物館蔵)

 

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加古川町大野探検(10) ヤマトタケル物語(1) 日岡山山頂の古墳:御陵

2021-06-18 07:25:10 | 加古川町大野探検

   ヤマトタケル物語(1)

     日岡山山頂の古墳:御陵

 ・・・大和(奈良)豪族にとって播磨地方は、畿外への防衛の最前線でした。

 加古川地方は4世紀ごろには奈良の勢力圏に入っており、大和地方にとっても、加古川地方は重要な地域でした。

 そのため、大和と東播磨地方の間には、さまざまな交流があったと想像されます。

 このような状況が。日岡山のヤマトタケル伝承を誕生させたと考えられます。

 伝承によれば、ヤマトタケルは、加古川市に生まれ、母は、播磨の豪族の娘:稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)です。

 *『播磨風土記』では、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)は、印南別嬢(いなびのわきいらつめ)として登場します。

    母は、稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)

 最近は、『古事記』・『日本書紀』のクライマックスに登場する英雄ヤマトタケルといっても、 ピンとこない人(世代)が多くなりました。

 『古代史の謎に挑む(一)』(NHK出版)は、ヤマトタケルを、次のように説明しています。

 ・・・その昔、日本に一人の英雄が登場した。それはいまからおよそ1600年前、日本の歴史の中でもっとも多くの謎につつまれている4世紀のここと言われている。

 その英雄こそ大和朝廷の日本統一に大きな役割をはたしたと伝えられているヤマトタケルである。・・・

 彼は、播磨、現在の兵庫県加古川市付近に生まれたと伝えられている。第12二代 景行天皇(けいこうてんのう)を父として、母はこの地方出身の稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)であった。

 ヤマトタケルは双子の弟であり、幼名を小碓命(おうすのみこと)と名のった・・・・

 もちろん、ヤマトタケルの物語は事実を語ったものではありません。しかし、伝承であれ、加古川から日本統一にかかわった英雄が登場しているのは愉快なことです。

 ヤマトタケルを9回シリーズ(「ヤマトタケル物語」)で追ってみましょう。(no5114

 *写真:稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)の御陵



 

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加古川町大野探検(9) 同笵鏡(どうはんきょう)

2021-06-17 07:33:39 | 加古川町大野探検

      同笵鏡(どうはんきょう)

 日岡山の古墳から神獣鏡(しんじゅうきょう)が出土しています。

 これら神獣鏡は、「同笵鏡(どうはんきょう)」です。

 耳慣れない言葉です。

 「同笵鏡」とは同じ鋳型でつくられた鏡のことで、この「笵同鏡」を研究している歴史学者は、次のように結論づけています。



 力を持った豪族が、同盟関係を結んだ印として他の豪族に与えたものである。

 従って、同笵鏡の分布状態を調べることにより当時の勢力関係が分かる。



 日岡山の豪族は、どうやら大和の豪族からこの鏡を与えられたようです。

 そうすると、4・5世紀の頃、日岡豪族は大和の豪族の勢力下にあったということになります。

 日岡豪族にとっては、大和の豪族と同盟関係をむすぶ必要がありました。

 というのは、自分たちと大和の豪族が結びつくことにより自らの権威を高めることができます。

 そして、何よりもこの地方が攻撃を受けた時、大和から援軍を求める必要があったのです。

 加古川地方は、大和とそれに対する出雲・吉備地方との接点にあり、絶えず自らの軍事力を必要としました。

 日岡山の伝説には、天皇の話がしばしば登場します。これはこの地方が大和と強く結びついていたためだろうと考えられるのです。(no5113

 *写真:同笵鏡(東車塚出土の同笵鏡)

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加古川町大野探検(8) 氷丘中学校の石棺

2021-06-16 07:21:49 | 加古川町大野探検

   氷丘中学校の石棺

 氷丘中学校(加古川市加古川町大野)の正門を入ると、向かって右に石棺(写真)があります。

 この石棺は、昭和59年に、ここに設置されたものです。

 神戸新聞は、この石棺を次のように報道しました。名前等一部記事を変え転載します。



 ・・・・石棺は、ふたが失われているものの、長さが160センチ、幅53センチ、奥行き74センチの凝灰岩(竜山石)のくりぬき石棺で、重さ3トンのりっぱなもの。

 古墳時代後期(6~7世紀)に造られたとみられ、数年前に地元の郷土史家が古墳の宝庫・日岡丘陵の南麓で発見した。

 これを、I氏が見学したが、祖先の貴重な石造文化財がゴミや草に埋もれたまま放置されている姿を見て、何とか保存できる方法はないものかと、校長に相談。

 市教委文化課を通して、(土地の)持ち主のUさんに話を持ちかけた。Uさんは「教材に役立つのなら」と快く寄贈を申し出て同中での保存が実現した・・・(以下略)



 私事で申し訳ありません。文中のI氏とは、ブログを書いている私のことです。

 なお、この石棺の横に、同時代のものと思われる「組み合わせ式石棺の蓋」があります。

 これは大野の保育園の近くに、野ざらしであったもので、昭和61年にそこに建物が建つため、中学校で保存されるようになりました。(no5112

 *写真:氷丘中学校の正門横にある石棺

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