文観、加古川の大野で誕生
以前、「文観」というとチョットいかがわしい怪僧であり、その生まれは加古川ではなく、現在の加西市の一乗寺で勉強をした僧侶ぐらいに思っていました。
中世史の網野善彦先生の著書では、「文観は加古川市加古川町大野の出身で、大野の常楽寺で研修を始めたということがはっきりしてきた」と指摘されています。
文観の誕生:弘安元年(1278)1月11日
氷丘公民館地域学講座で、兵庫大学教授の金子哲先生が「日岡の文観」というテーマで講義をされました。
ここでは、その講義から次の史料をおかりします。史料を掲載させていただきましたが、今日のところはチラッと見るだけでけっこうです。
(史料)
宝連 「瑜伽伝灯商省」第九巻第二十九法務大僧正弘真条
第廿九伝法務大僧正弘真 号小野僧正一長者座主
左大臣雅信公十三代後胤大野源太夫重貞孫也、播州人也、弘安元年
戊寅正月十一日乙未鬼宿金曜辰初分誕生、非母可生孝子、祈誓如意
輪白衣二尊、(後略)
〈史料〉からわかること
この史料は、文観の直弟子の宝蓮の書いたもので、史料の内容は信用してよいと思われます。
次のことを確かめておいてください。
◇「弘真」は、文観のことです。「弘真」については後に説明をしましょう。
◇文観のお爺さんは、大野源太夫重貞です。
◇文観の誕生は、弘安元年(1278)1月11日。(母に関しては、「非母可生孝子」と記しています。何か事情があるようですが、今のところはこのままにしておきます。父に関しては不明です)
◇時代の状況から考えて、元関東(武士)だったのでしょう。
文観は播州の人
史料によれば文観は「播州の人」であり、名前が「大野」であるところから、加古川の大野の人であることが推察されます。
史料だけでは、文観についての詳しいことは分かりません。でも、少し文観の輪郭が現れてきました。(no5126)