ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町探訪:イッペイ(ブラジルの国木)

2007-01-31 08:31:22 |  ・加古川市加古川町

_295    昨日は、JR加古川駅裏のロータリーの三角形のモニュメント(マリンガ市の大聖堂)を紹介した。

  そのすぐ北の歩道に沿って、心なしか少し元気のない木が植樹(写真)されている。

  「イッペイ」の木である。

  冬の植物は、おしなべて元気がないが、もともとイッペイの木は暖かい気候を好む。

  沖縄では、1970年ごろから植樹され、沖縄市のイッペイ(黄色)並木は有名とのことである。

  あまり、聞きなれない木であるが、1954年にブラジルの木として選定され、ブラジルを代表する樹木である。

  ブラジルでは、桜のような木に成長する。そして、春には黄、淡紅紫、そして白い花を咲かす。

  沖縄では、2月頃から少しづつ咲き、3・4月が盛りである。

「ippei2.jpg」をダウンロード

  ロータリーのイッペイは、昨年マリンガ市と加古川市の友好の印として植樹された。加古川市の冬に耐え、大きく育って見事な花を咲かせて欲しい。楽しみにしたい。

  マリンガ市は、緑いっぱいの都市である。春には、イッペイが街にいろどりをそえる。

  イッペイの花に埋まったマリンガ市を見てみたい。

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加古川町探訪:マリンガ市の大聖堂

2007-01-30 08:29:59 |  ・加古川市加古川町

_292   昨年、JR加古川駅が一新した。

  駅前も変わったが、それ以上に駅裏(北側)の風景の変化が大きい。

  駅北のロータリーに、三角形のタワー(写真)がある。「何を表現したオブジェかな?」と思われた人も多いのではないだろうか。

  美術作品にしては、少しダサイ感じもする。

  新聞でも紹介されたので、記憶されている方もおられるだろうがが、この塔はマリンガ市(加古川市との姉妹都市・ブラジル)にある大聖堂(教会)のミニチュア版である。

  南米でもっとも高い教会である。

Fd3b6dea  私事で申し訳ないが、25年ほど前に、一度この大聖堂に登った事がある。丁度クリスマスの頃だった。

  登りきった所から見る、緑いっぱいのマリンが市は、実に美しい都市だった。でも、階段が急で、しんどかったことを覚えている

  HPを見ると、「89才の日系の杉本さんと言われる方が、120メートル・520段のこの塔を登られ、息はあまりみだれなかった」とある。信じられない。

  マリンガ市は南半球にある。

  夏のクリスマスであった。近くの広場には、ピンク色のブーゲンビリアが見事に咲いていた。

*写真上:加古川駅北のロータリーの大聖堂のモニュメント。写真下:マリンガ市の夕暮れ時の大聖堂(加古川市国際交流教会提供)

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加古川町探訪:旧加古川町残照

2007-01-29 08:28:29 |  ・加古川市加古川町

_303   加古川町について、少し復習をしておきたい。

  明治22年4月1日、加古川村・寺家村・篠原村が合併し加古川町が誕生した。

  そして、昭和4年に鳩里村を、昭和12年に氷丘村をそれぞれ合併し、現在の加古川町の原形ができた。

  さらに、昭和25年6月1日、近隣の町を合併して加古川市となった。

*詳しくは、12月30日のブログを参照されたい。

  先日、加古川町へ行った。帰りに、近道をするため脇道に入った。

  狭い道で、屋並がせり出し、景色もよくなかったためか、地面を眺めながら歩いていた。

  よそから見たら「しょぼくれた老人の散歩」に見えただろう。

  マンホールの蓋(写真)に目がとまった。

Ad4761da_2   なんと、マークは旧加古川町(加古川市に合併される以前の)の町章である。

   さっそくデジカメにおさめた。その先にあったマンホールも旧加古川町のマークだった。

   ここから私事になるが、小生、加古川小学校・加古川中学校の卒業である。このマークの中央部を「小」にしたのが小学校、上の部分に「中」を加え図案化したのが、加古川中学校の校章であった。

  こんな物に懐かしさを感じるようでは、やはり歳かなと思ってしまう。

  どうでもよい話題であるが、ぜひ書いておきたかった。

  この旧加古川町章について『加古川市誌(第一巻)』は、「大正15年、懸賞募集したところ、121点の応募があり、加古川町の糟谷集次市の作品が選ばれた」と記している。

  蛇足であるが、町章はカコガワの「カ」を図案化したものである。

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加古川町探訪:溝之口に古代播磨の軍団が駐留か

2007-01-28 08:49:59 |  ・加古川市加古川町

C66c61aa   溝之口遺跡は、先にブログで紹介したように、弥生時代にはじまり、古墳・奈良・平安時代へと連なる複合遺跡である。

  この遺跡から、須恵器(すえき)の底に「大毅」(だいき)と書かれた墨書土器(写真)が出土した。

*軍毅(ぐんき)・・・律令制で、国司のもとで軍団を統率した将。大毅・少毅に分かれていた。(『大辞泉』小学館)より

  『加古川市史(第一巻)』は、「(墨書土器の大毅を)軍団の駐留に結びつけようとする興味ある考え方もあるが、その推進には総合的な立論を必要とする」と慎重な記述である。

  一方、『加古のながれ』(加古川市史編さん室)は、この墨書土器の「大毅」について、歴史家・今里幾次氏の意見として、ずばり次のように説明している。

  「・・・律令制の軍事組織として、諸国に軍団が置かれましたが、播磨ではその実在が、いまだ立証されていません。

  そこで、その有力候補の一つとして取り上げたいのが、加古川市加古川町の溝之口遺跡です。

  (出土物などから、溝之口遺跡は)8世紀後半を中心とする頃に、播磨の国司の傘下に置かれたことが看取されます。

  特に、「大毅」と読み取れる墨書土器が見つかっていることは重要です。・・・国司の下で軍団を統率する軍毅(ぐんき)以下の駐留説が推進されることでしょう」

*写真は、『加古のながれ』(加古川市史編さん室)より

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加古川町探訪:聖徳閣(しょうとくかく)

2007-01-27 09:05:21 |  ・加古川市加古川町

202d1867_1   聖徳閣(写真)。日岡山にあった、この建物を知る人は少数派になった。

  その日は、桜の満開の、少し風のある日だった。

  老夫婦は「聖徳閣」はどこですか・・・」と、公園で遊んでいる中学生にたずねた。

  もちろん、そんな建物があったことは知らない。心の中で思ったらしい。

  「このおっさん・・・場所まちがえたんちかうか・・・」と。そして「そんなもん、ここにあらへん」と答えたという。

  老夫婦は、久しぶりで昔の思い出を捜されていたのかもしれない。それにしても、そっけない中学生の気持ちに、さぞがっかりされたことだろう。

  昭和11年、現在の日岡山のハリマハイツの場所に聖徳閣はつくられた。

  『写真集・加古川』の説明を転載しておきたい。

  昭和11年8月、多木久米次郎氏が日岡山に建てた展望台であるが、景行天皇陵を見下すとして陸軍のお咎めを受けた。

  確か、昭和40年頃まで聖徳閣はあったように記憶している。数字には自信がない。

  聖徳閣を通りぬける風をはっきり覚えている。涼しかった。それにしても思い出すのは夏の風ばかりである。

  周りの風景もすっかり変った。加古川の町の辺りまでは家並みも少なく、随分遠くに感じた。勝手に昭和30年頃に時代を設定している。

  その時、私は加古川小学校の6年だった。

  この文章をあるところに書いたのは1994年である。

*写真(『写真集・加古川(玉岡松一郎編)』より

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加古川町探訪:日岡豪族と溝口遺跡

2007-01-26 07:46:35 |  ・加古川市加古川町

B2355ed1_1   きょうのブログは、『加古川市史(第一巻)』の記述を、大幅に借用していることをお断りしておきたい。少々気が引ける。

  日岡山には図のように多くの古墳がある。

  図中の古墳名は、次のようである。

  ①勅使塚、②南大塚、③西大塚、④北大塚、⑤狐塚、⑥西車塚(①)・②・③・④は前方後円墳、北大塚は前方部が削りとられているが、もとは前方後円墳)

  これらの古墳群は4世紀にさかのぼり、被葬者は日岡山の南に広がる平野を約200年にわたって支配していたと考えられる。

  平野部には、南西約2キロメートルの溝口遺跡をはじめ、北在家・粟津などの弥生遺跡があり、早くから開けていた。

  中でも昨日のブログで紹介した「溝口弥生遺跡」は、弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡で、古墳時代の住居跡も発見されている。

  この辺りは、加古川の氾濫原の中にあって比較的安定し、しかも水利に恵まれた場所であった。『市史』に、次のような面白い指摘がある。

  ・・・日岡山古墳群の現存する5基(前述の4基と稲日大郎姫の御陵)の前方後円墳は、すべて前方部を南に向けている。前方後円墳については、必ずしも定説があるわけではないが、前方部を平野側に向けている場合が多い。

  それはまた、被葬者が支配した土地とみなしてよさそうである。したがって、日岡山古墳群の方向と平野部の遺跡との関係は大変興味深い・・・

  つまり、溝口遺跡は、日岡豪族が支配していた村であったという。

  「溝口弥生遺跡」は、複合遺跡なので「溝口遺跡」が正しい。なお、「稲日大郎姫の墓」に関しては、1月24日のブログを参照ください。

*地図:『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)より

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加古川町探訪:溝口弥生遺跡

2007-01-25 09:18:04 |  ・加古川市加古川町

9cdbec69   「溝口弥生遺跡」(加古川市加古川町溝口)の発見は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけだった。

  調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかった。

  多数の出土品があった。

  これら出土品の一部は、加古川市文化センター(平岡町)に展示されている。

  溝口遺跡は、JR加古川駅から東へ約1キロメートルの場所で、少し高くなっており、当時の加古川の東岸の「自然堤防」上にあったと想像される。

2e272d06_1   また、調査により溝口弥生遺跡は、弥生遺跡だけでなく古墳時代・奈良時代の住居も含まれている複合遺跡であることが確かめられた。

  市内最大の複合遺跡である。しかし、溝口弥生遺跡は、調査後埋めら、その上に加古川バイパスが作られた。現在バイパスの下で眠っている。

*写真上:市域の弥生中期遺跡と生活圏(『加古川市史・第一巻』)より

*写真下:溝口遺跡出土の弥生土器(文化センターにて展示されている)

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加古川町探訪:「ひれ墓」変身?

2007-01-24 08:06:05 | ヤマトタケル

Adc5b6d4   「ひれ墓」(加古川市大野)について、気になる話がある。『考古学研究』に掲載された歴史学者の春成秀爾氏の論文の一部を紹介したい。

  ・・・この御陵(稲日大郎姫の墓)は、・・・堂々とした前方後円墳なのです。そして、戦前この陵に墓守が置かれており、毎日朝八時から夕方五時まで腰に剣をつって勤めていたといいます。

  そして、某氏宅に記録が残っており、次のようなことが書かれています。

  (一) 明治十六年(1886)宮内省により景行天皇の皇后の陵に定められた。

  (二) 明治二一年(1888)玉垣・石燈ろうを置く。

  (三) 明治三六年(1901)置き土をなす。

  (三)の「置き土をなす」の部分に注目して欲しい。この記録はどこに、どの程度の置き土をしたかのかは書いていない。ともかく置き土をしたとする記録である。

  また、戦前、考古学者の赤松啓介氏が調査中に、土地の人から「もともと円墳であったところに盛り土をした・・・」と言う話を聞いている。

  『風土記』(上田正昭編・社会思想社)で、神戸女子大学の浅田芳朗氏は、次のように書いている。

  ・・・日岡古墳の名は延喜式にも見えていない。『祖先のあしあと』の著者が言うように「一説では、明治初年に円墳だったのを天皇関係の御陵には円墳がないというので前方部分を付け加え改造したという・・・」

  その他、多数の研究結果も、そのことを指摘している。現在、地元では、この事はあまり論議されない。

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加古川町探訪:褶墓(ひれはか)

2007-01-23 17:09:55 | ヤマトタケル

825548d5_1   10月13日のブログ「ナビツマの島」と一部重なる。

  日岡山のハイライトはなんと言っても山頂のご陵である。

  そこに眠るのはヤマトタケルの母・稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)である。

*古事記では別嬢(わきいらつめ)として登場するが、同じ人物である。

  やがて、稲日大郎姫は他に比べる者もない、それは美しい女性に成長した。その噂は、時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、やがて結婚して幸せな生活を始めた。

*詳しくは、上記のブログを参照されたい。

  幸せな生活は長く続かなかった。やがて、稲日大郎姫は亡くなった。そして、日岡山に葬られることになった。

  ところが、その時事件がおこった。彼女の遺骸が加古川を渡る時、突如つむじ風がおこり、遺骸は、たちまちのうちに川にのみこまれてしまった。

  後には、櫛と「ひれ」(天女等が背からまとっている布)がみつかっただけだった。

  そのため。その櫛と「ひれ」が、ご陵に葬られた。そのため、ご陵は「ひれ墓」とも呼ばれている。

  こんな話が『播磨風土記』にある。

  「つむじ風の正体」を考えてみたい。それは、ヤマトの勢力の進出を望まない一部の抵抗であったのかもしれない。

*写真:戦前の日岡山ご陵(『写真集・加古川』玉岡松一郎編)より。現在のご陵は、1月17日のブログを参照ください。

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加古川町探訪:ヤマトタケル考(5)・ヤマトタケル in 風土記

2007-01-22 08:49:36 | ヤマトタケル

950f7de1_1     『播磨風土記』に稲日大郎姫(イナビノオオイラツメ)の話がある。日岡山山頂にある古墳が稲日大郎姫の墓だという。

*稲日大郎姫については、明日のブログで取り上げたい。

  彼女は、ヤマトタケルの母である。

  『古事記』(集英社)の著者・田辺聖子は、次のように書いている。

   「・・・ヤマトタケルの物語は、さながらギリシャ神話のペリセウスやオデッセウスの面影の片鱗がある。恋と冒険にみちた英雄の生涯を、古代の日本人はどのようにつくりあげたのだろう・・・」

  『古事記』・『日本書紀』に描かれるヤマトタケルは、まさに物語のクライマックスに登場する。

  それほどの人物であるなら、ほとんど時を同じくして書かれた『播磨風土記』に登場してもよさそうなものである。

  不思議なことに『播磨風土記』のどこにもヤマトタケルの姿はない。あるのはヤマトタケルの母と父・景行の愛の物語ばかりである。

  これは何を語るのだろうか。

  『風土記』は、地元に伝わることをまとめたものである。「ヤマトタケルの物語」は、『風土記』がつくられた時代、地元ではなかったのではないか」と想像してしまう。

  「ないものは書けない・・」と言うわけである。

  せっかく、ギリシャ神話に登場するような物語が、加古川市で誕生したと言うことは痛快なことであるが、どうも怪しい・・・

  こんなことを書くのは、地元の者としては少し気がひける・・・

*絵:「ヤマトタケルの像」 青木繁筆(東京国立博物館蔵)

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加古川町探訪:ヤマトタケル考(4)・タケル論争

2007-01-21 07:23:26 | ヤマトタケル

A17d2cb8_1   「ヤマトタケル論争」が突如が出現した。

  ことのおこりは、1980年12月、加古川駅前に加古川市のシンボルとして、日本武尊(ヤマトタケル)像の建立計画があることを「神戸新聞」(12月6日付)が報じたことにあった。

  加古川商工会議所が中心となり、この計画は進められていた。翌、81年9月には商工会議所内に「日本武尊銅像建立奉賛会」がつくられた。

  これに対して、教員組合・高等学校教員組合・「明るい加古川市をつくる市民の会」など8団体が中心になり「加古川駅前の日本武尊建立に反対する会」が結成された。

  反対の主な理由は、次のようであった。

  ①、戦前の教科書などで、日本武尊(ヤマトタケル)は戦争に駆り立てる役割を果した。

  ②、実在するかのような説明は、歴史を歪曲するものである。

  ③、加古川駅前という公共の場所が、市民の合意もえずに建設されるのは民主的でない。

  ④、駅前には、平和をイメージする明るいものを選ぶべきである。

  12月4日、加古川勤労会館で開かれた反対集会には高名な歴史家・直木考次郎氏(故人)も駆けつけた。

  この頃から、マスコミも「今、なぜヤマトタケルか?」と銅像建設反対の論調が目立つようになった。

  このような世論の高まりで、加古川市議会は「建立反対」「反対」の議案を継続審議とした。

  その後も反対の声が高まり、銅像建立の声は少なくなった。

  追い討ちをかけるように、建設推進の中心になっておられたO氏が亡くなられ、やがてヤマトタケルが駅前に建立される計画は、立ち消えとなった。

*写真:武人の埴輪は、直接文章と関係がないが、ヤマトタケルの姿を想像させる。

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加古川町探訪:ヤマトタケル考(3)・白鳥になったタケル

2007-01-20 09:22:37 | ヤマトタケル

9258a3bc    加古川市に誕生したヤマトタケルの話を続けたい。

  ヤマトタケルの物語は、異常な話からはじまる。

  ある日、父の景行天皇は、ヤマトタケルに兄を食事に呼ぶように言いつけた。しかし、なん日も兄は食事に顔を見せない。

  そのはずである。タケルは兄の体をひきちぎり、薦(こも)につつんで、捨てていたのである。

  父は、タケルの行く末を恐れて、西の熊襲(九州南部)の征伐を命じた。

  熊襲を征服して、帰途出雲に向かった。

  激しい征服戦争から帰ると、またもや、父は東国への征服を命じた。

  この時、タケルは「父は、私を戦で死んでしまえとお考えであろうか・・・」と泣き悲しんだと言う。

  やがて、東国も征服し、大和へ帰る途中であった。

  伊吹山の賊の征服に向かった。その帰途である。白い大きな猪に姿を変えた山の神が、木々の枝も折るような雹(ひょう)を降らせ、タケルの体力を奪った。

  タケルは、ある村にたどり着いた時「嗚呼・・・私の脚は疲れて、三重に曲がってしまった・・・」とつぶやいた。そのため、この地を三重(今の三重県)と呼ぶようになったと『記紀』は説明している。

  やがて、能煩野(のぼの)に着いた。そこからは、懐かしい大和の山々が見える。「もうすぐ大和だ・・・」

        大和は 国の まほろば

        たたなづく 青垣

        山ごもれる 大和しうるわし

  タケルは、この歌を最後に、力尽き亡くなった。タケルの魂は、白鳥になり西の空に飛びさった。

  タケルの征服地は、鉄の産地と重なる。タケルの物語は、地方の豪族との征服戦争であり、それも鉄の産地を支配しようとした物語かもしれない。

*写真は、ヤマトタケルの墓(大阪府羽曳野市)。この墓は「白鳥陵」と呼ばれている。

 

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加古川町探訪:ヤマトタケル考(2)・英雄加古川に生まれる

2007-01-19 11:43:09 | ヤマトタケル

1371288d    最近は、『古事記』・『日本書紀』のクライマックスに登場する英雄ヤマトタケルといっても ピンとこない世代が多くなった。

  そのため、ヤマトタケルについて少し説明しておきたい。NHK出版の『古代史の謎に挑む(一)』は、ヤマトタケルを次のように説明している。

   「・・・その昔、日本に一人の英雄が登場した。それはいまからおよそ1600年前、日本の歴史の中でもっとも多くの謎につつまれている四世紀ここと言われている。

  その英雄こそ大和朝廷の日本統一に大きな役割をはたしたと伝えられているヤマトタケルである。

  『古事記』と『日本書紀』によってヤマトタケルの一生をおってみよう。

  彼は、播磨、現在の兵庫県加古川市付近に生まれたと伝えられている。第十二代 景行天皇(けいこうてんのう)を父として、母はこの地方出身の稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)であった。

  ヤマトタケルは双子の弟であり、幼名を小碓命(おうすのみこと)と名のった・・・・」

  もちろん、ヤマトタケルの物語は事実を語ったものではない。しかし、加古川から日本統一にかかわった英雄が登場しているのは愉快なことである。

  写真は、ヤマトタケル兄弟が産湯(うぶゆ)を使ったと伝えている石のタライ。加古川市加古川町美乃利の住宅地の一角にある。

*今週のブログから英語でも説明しているが、アクセスが減少してきたので、もとに戻したい。今後は時々、加古川市から世界に英語でも発信したい。

なお、昨年『A History of Kakogawa City』(英文・A4、97 p)を作りました。ご希望の方は、次のメールにご連絡ください。一部1000円

qq7z6tn9@mist.ocn.ne.jp

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加古川町探訪:ヤマトタケル考(1)

2007-01-17 08:12:15 | ヤマトタケル

_053_1    大和(奈良)豪族にとって播磨地方は、畿外への防衛の最前線であった。

  加古川地方は、大和と同盟の傘下に入ることにより、軍事的な援助が期待できた。

  加古川地方と大和地方は、お互いに重要な地域あった。

  その他にも、さまざまな交流がったのであろう。

  このような状況が。日岡山の伝承を誕生させたのであろうと考えられる。

  『古事記』、『日本書紀』そして『播磨風土記』に面白い話が登場する。

  特に、ヤマトタケルの物語は、日本の神話の中でも、まさにクライマックスに登場する。

  彼は、加古川市に生まれた。母は、播磨の豪族の娘・稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)である。

  「ヤマトタケル考」を書いてみたい。今日はその(1)とする。

*写真は、ヤマトタケルの母・稲日大郎姫の墓といわれている。(日岡山・加古川市加古川町)

 The Legend of Hioka-yama

  There are interesting legends connected with Hioka-yama in Kojiki (the record of Ancient Matters), Nihon-syoki (the Chronicles of Japan) and Harima Fudoki (the Climate and Geography of Harima District).

  Although this legend may not the real history, there is a story concerning the Kakogawa district and one important person .

  That is a great hero,Yamato-Takeru.

* Picture is said to be the tomb of Inabino-Oiratsume, the mother of Yamato-Takeru.

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加古川町探訪:同笵鏡 (a mirror made from the same mold)

2007-01-16 09:46:11 |  ・加古川市加古川町

473ad23f   右の写真は、東車塚古墳出土の「三角縁神獣鏡」(さんかくぶちしんじゅうきょう)である。

  同じ鋳型から作られた「同笵鏡(どうはんきょう)」である。聞きなれない言葉である。

  「同笵鏡」を研究する歴史家は、この鏡を次のように説明している。

  これは、「有力な豪族が、同盟を結んだ印として地方の豪族に与えた鏡である」と。

  従って、「同笵鏡」の分布の範囲から、当時の勢力関係が分かると言うのである。

  加古川地方を支配した豪族は、大和(奈良)地方の豪族から、この鏡を与えられていた。

  加古川地方の豪族は4・5世紀には大和の豪族と同盟関係を持っていたことになる。

  大和の豪族と同盟関係を結ぶことにより、加古川地方の豪族は、自らの地位を高めることができた。敵から攻められた時は、応援を求めることができたのである。

  加古川地方は吉備(岡山)地方に備えた、大和の勢力の最前線基地でもあった。

*写真は東車塚古墳出土の神獣鏡(加古川市加古川町)

  What does One Mirror Tell?

   One mirror was excavated from the East Kuruma-zuka Burial Mound.  It is called Sankaku-buchi Shinju Kyo (a mirror of traiangular eadge drawing gods and beasts on it's furface).

   It became clear that this mirror was a copy made from same mold, Dohankyo. This is not a commonly used word.

   Historians who are studying Dohankyo concidered about them as a symbol of their alliance.

   Therefore, by investigating the distribution of these mirrors, the political relations in those days can be studied.

   The clan that ruled near Hioka-yama was given this mirror from a powerful family in Yamato (Nara) district.

   The clan of Hioka-yama was controlled by the Yamato rulers around the 4-5 century.

   Having an alliance with the Yamato clans was useful for the Hioka-yama clan.

   It enhanced their authority and they were able to seek aid from Ymato clans when they were attacked from outside.

   Kakogawa district was influenced by the Yamato clans and by the Kibi (Okayama Pref.) clans.

   Kakogawa clans could serve as a bulwark for the Yamato clans.

* Picture: Dohankyo (a mirror made from the same mold) excavated from Higasi Kurumadzuka Burial Mound.

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