ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

八幡町探訪:(余話)東沢1号墳

2008-03-31 10:59:04 |  ・加古川市八幡町

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 昨年の11月24日(土)の東沢1号墳の報告である。

 東沢1号墳の場所は、昨日のブログ(望塚移動)の地図をご覧ください。

 今日も、報告会当日いただいた説明文を読んでみたい。

 「東沢1号墳は、一辺約20mの大型の方墳であることが明らかとなりました。

 この古墳は、大正時代に行われた耕地整理により、上の部分が削平されています。

 このため、肝心の死者が埋葬された施設は残っていませんでした。

 また北側についても削平を受け、古墳自体が残っていませんでした。

 ただし、古墳の東側には造り出しがあることがこの古墳の特徴で、このような例は播磨ではあまりみられません。

 出土した土器などから、5世紀前半の古墳と考えられます。」681

 それにしても、一辺が20mの大型の古墳は、近辺では例がない。

 しかも、約5mの「造り出し」がある方墳である。

 場所も台地上にあり、北側に広がる低地部が一望できる。

 この大型の方墳に眠る死者を知りたい。

 おそらく、現在の八幡地区の平地部を支配する豪族であったのであろうと想像される。

 写真上は、東沢1号墳(説明会当日)。写真下は、現在の東沢1号墳(3月28日撮影)のあった場所の風景、やがて、この上を車が行き交うのである。

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八幡町探訪:(余話)望塚移動

2008-03-30 09:16:50 |  ・加古川市八幡町

680  昨年の11月24日(土)、東沢1号古墳の現地説明会にいった。

 *場所は下の地図をご覧ください。

 いただいた資料の最初の部分を読んでみたい。

 「兵庫県立考古博物館では、東播磨南北道路の建設に先立ち、この10月から、東沢1号墳の発掘調査を行ってきました。

 東沢1号墳は、望塚(ぼんづか)があった水田の下から新たにみつかった古墳です。

 調査の結果、5世紀前半に造られた古墳であることが明らかになりました。

 古墳の斜面には、葺石(ふきいし)が比較的良好に残存するとともに、古墳の周りを囲む周溝内からはたくさんの埴輪(はにわ)や土器が出土しています。

 この他、弥生時代(約1800年前)の竪穴住居跡もみつかっています・・・」

 少し説明を加えたい。5a0f9be7_2

 上記の説明文の「東沢1号墳は、望塚(ぼんづか)があった水田の下から新たに見つかった古墳です」のカ所に注目して欲しい。

 望塚は、加古川市内で唯一の銅鐸が発見された塚である。

 望塚については、昨年の4月3日のブログ(望塚危うし!)もあわせてご覧ください。

 銅鐸は、弥生時代の青銅器である。

 東沢1号墳は、もちろん古墳時代の塚である。

 歴史は、弥生時代から古墳時代へと移行する。

 とすると、少しおかしなことになる。

 新しい古墳時代の遺跡の上に、古い弥生時代の望塚があることになる。不思議である。

 『加古川市史(第一巻)』で、望塚についての記述を読んでみたい。

 「・・・(望塚の)銅鐸の出土した年代については諸説があり、一致しない。

 大正二年、同三、四年、同七年、同十三、四年の五つの説がある。・・・・銅鐸出土に関しては、こうした基本的なことさえわからにことが多いのである・・・」

 塚の上に「大正十四年八月、末沢隆次建立」の文字があるが、何らかの理由で当時すでに発見場所もはっきりしなくなっていたのであろう。

 そして、場所の確定のないまま、「この辺にしておこう」と土盛りをして望塚としたのが真相に近いのではないか。

 東播磨南北道路が望塚の上を通過することになり、遺跡の調査が行われて、このことが確かめられた。

 現在、望塚は少し東へ移動した。写真は新しい望塚である。

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志方町探訪:(余話)三島由紀夫の慰霊碑

2008-03-29 08:51:03 |  ・加古川市志方全般

676  今「ひろかずのブログ」では、「五ヶ井用水」を取り上げているが、ここで二・三「余話」をはさんでみたい。

 もちろん「五ヶ井用水を歩く」は、その後10回ばかり続ける予定。

 きのう(3月28日)の午後、加古川消防署志方分署の前の道の200mばかり北を、さらに細い道に分かれ、玉の緒地蔵尊に出かけた。

 目的は、この石仏ではなく、さらに奥にある「三島由紀夫の慰霊碑」(写真上)を見に出かけた。

 この碑については聞いていたが、いままで行く機会がなかった。

 三メートルはあるであろう。自然石に黒御影をはめ込んで「三島由紀夫先生 慰霊の碑」と刻んでいる。

 文字は、建立当時の知事・坂井時忠が揮毫している。

 三島由紀夫は、祖父・平岡定太郎(さだたろう)の生まれた志方町を二度訪ねている。

 由紀夫の自伝的小説『仮面の告白』に詳しい。Kakogawa_015_2

 一度は徴兵検査の時であり、二度目は、青野ヶ原戦車隊への入隊の時である。

 入隊の時は「本籍地(志方村)の田舎で検査を受けた方がひ弱さが目立ち、採用されないかもしれないという父の入智恵で、私(由紀夫)は近畿地方の本籍地のH県(兵庫県のこと)で検査を受けている。

  なおこの時、三島は加古川図書館横の松(写真下)で、地元青年たちと一緒に砂が入った米俵を持ち上げるテストを受けたが、持ちあがらなかった」と書いている。

 また入隊時については、「(入隊の日)風邪で立っていることもできないほどだった。

 青野ヶ原の検査会場で、獣のように丸裸にさせられウロウロしているうちに何度かくしゃみをした。

 風邪のために熱が高く血沈を示したので肺浸潤といわれ、即日帰郷を命じられた・・・」と、ほとんど実話を書いている。

 ともかく、由紀夫が加古川市を訪れたのは、この二回限りである。

 三島由紀夫の碑に話をもどす。

 この碑は地元食肉業界の方の私財と、その業界の賛同で建立されたと聞いた。

 加古川市議会でも、S議員が「加古川市とゆかりのある三島を顕彰し、慰霊碑のある場所を市のパンフレットなどに掲載できないか」と市の見解をただしたこともあった。

 その時は「作品に加古川市や播州に関する記述が見当たらず、今後遺品などでつながりが判明したときには検討したい」との答弁で終わっている。

 それにしても、碑はともかく碑の横に、昭和45年11月25日に自衛隊市ヶ谷駐屯地での由紀夫の檄の全文が書かれている。

 市としても、観光資源として認めにくい雰囲気があったのであろう。

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五ヶ井用水を歩く(9)・取水口

2008-03-28 10:03:33 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

2cc7b003  五ヶ井用水と新井用水の取水口

 右の写真、現在の五ヶ井用水と新井用水の取水口である。

 五ヶ井用水と新井用水の取水口は、コンクリートで仕切られ別々に取水しているが、以前は仕切りはなかった。

 取水口

 新井用水の取水口は、五ヶ井郷の了解の下に、明暦元年(1655)五ヶ井用水の隣につくられた。

 宝暦十四年(1764)の二塚村の明細帳に、明暦元年新井溝が掘られ、二塚村の本高(収量)が減ったことを記録している。

 この新井用水の水路は、五ヶ井用水の六分の一の水の配分を受けることに決められた。

 したがって新井郷の村々は、五ヶ井関係の費用も六分の一を負担した。

 新井用水には、次のような条件があった。

 ①旱魃で、五ヶ井郷の水が不足した際は、新井郷への取水口をせきとめ、水を全て五ヶ井郷に流れるようにする。

 ②五ヶ井用水の取水口から少し南の場所(字:柿木)との間の新井溝の80間(145m)は、新井郷が勝手に深く掘ったりすると、水がよけいに流れてしまうため、勝手に改修してはいけない。

 五ヶ井溝の取水口は、新井溝の取水口と比較すると五ヶ井溝の方が広いというだけでなく、勾配が異なり流れが早い。

 現在は、水量は別々に調節されているため、かつての流れとずいぶん違っている。 856679fe

 

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五ヶ井用水を歩く(8)・五ヶ井用水と新井用水(2)

2008-03-26 08:25:18 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

296ecce6_3 五ヶ井用水と新井用水(2)

 黒く塗りつぶした池に注目してほしい。 これらの池は、新井用水から取水している池である。

 新井用水は、明暦二年(1656)に完成した。 それにともない、「新井用水に沿った池は不要になった」かというと、そうではない。

 新井郷は、もともと水の得にくい土地柄であった。 そのため、これらの池の水を確保するため「新井用水」がつくられたといってもよい。

 用水が完成した後も十分な水はなかった。

 新井用水は、現在の五ヶ井用水と異なり、勾配がほとんどない。

 そのため、新井用水を満水にして水位をあげなければ、十分に流れてくれない。

 それに、「新井用水」は「五ヶ井用水」の取入口が同じである。

 従って、旱魃のときは「五ヶ井用水を優先させ、新用水の分水口をせき止める」という条件まであった。

 池をつぶして、新田をつくるという余裕はなかった。

 新井用水と池が共に稼動して、はじめて新井郷の水は辛うじて確保されたのである。

 新井用水の北側の池(黒く塗りつぶしていない池)は、新井用水より土地が高いため、新井用水から取水することができなかった。

 これらの池は、雨水や他の用水が水源になっている。

 新井用水から水を得ている黒く塗りつぶした多くの池は、記録にはないが古い時代につくられたようである

 これに比べ、五ヶ井郷には池がない。

 五ヶ井郷は水を一時的にためておく必要のないほど水に恵まれていた。

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五ヶ井用水を歩く(7)・五ヶ井用水と新井用水(1)

2008-03-25 09:10:23 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

033  五ヶ井用水と新井用水(1)

 承応三年(1654)の旱魃はひどかった。

 太陽が、大地を容赦なく照りつけた。

 秋の収穫はなかった。

 溜池にたよる現在の平岡・野口町、そして播磨町24ヶ村の百姓たちは、木の実・草の根、竹の実を、そして種籾までも食べつくし、餓死する者も少なくなかった。

 それに比べ、加古川の水を利用している五ヶ井郷(現在の加古川町・尾上町)の村々は、ほとんど被害もなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受けむしろよく実っていた。

 野口・平岡・播磨の村々の百姓たちは、食べるものがなかった。

 五ヶ井郷から食料と種籾を分けてもらった。

 古宮村(こみやむら・播磨町)の大庄屋・今里伝兵衛(いまざとでんべい)は、加古川から水を引きたかった。

 しかし、水は川より高い土地には流れてくれない。

 そのため、上流の城山(じょやま・神野町)のすぐ北の五ヶ井用水の取り入れ口から水を分けてもらえないかと考えた。

 水は百姓の命であり、五ヶ井郷の了解が得られるとは思えない。

 それに「新しい用水をつくることに古宮村以外の百姓たちの協力が得られるだろうか?」という心配があった。

 伝兵衛らは、姫路藩主に熱心に嘆願した。

 ついに藩主・榊原忠次の許しを得ることができた。難問は、いっきに解決した。

 新井用水の工事は、明暦元年(1665)正月に始まった。

 新井用水の起工式に伝兵衛は白装束で臨んだという。翌年3月に完成した。

 新井用水は、五ヶ井用水に対して新しい用水という意味である。

*写真の新井用水は、洋服の店「青山」のある国道2号線の交差点をこえたすぐ南

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五ヶ井用水を歩く(6)・五ヶ井用水の成立は戦国時代か?

2008-03-24 08:23:15 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

105  五ヶ井用水の成立は戦国時代か?

 五ヶ井用水の伝承はともかく歴史は古い。

 加古川下流の左岸(東岸)は、右岸(西岸)と比べて、流れがゆるやかで早くから安定し、聖徳太子の伝承が引き合いにだされるほど古い。

 奈良時代には、条里制が発達し開発が進んでいた。

 この頃、加古川の旧流路を利用して「五ヶ井溝」が使われていたようである。(「五ヶ井用水を歩く・4」参照)

 また、「五ヶ井用水」は、北条郷・加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄という五ヶ井郷(庄)の用水であるところからの名称である。

 これらの名称からも推測できるが溝は古くからあった。

 が、五ヶ井郷が一体の井組として成立したのは郷村制の解体しきっていない時代、つまり室町時代(戦国時代)のことと考えられる。

 というのは、庄という名称から荘園が盛んな平安時代に「五ヶ井郷」という井組が成立したと想像できるが、次のような理由から戦国時代ではなかろうかと推測される。

 加古川は暴れ川

 加古川は大河であり、暴れ川であった。古代より幾度となく洪水を引きおこした。

 こんな大河の締め切り工事をし、洪水の時にも崩れない堤や樋門を築き、大川から安定して取水できるようになるのは、技術の進歩を待って後のことである。

 すなわち、これらの土木技術の発達は戦国時代をまたねばならない。

 戦国時代を生きぬいた人は、優れた武人であると同時に,すぐれた治水土木家でもあった。

 それに、五ヶ井用水は多くの村々を貫く大きな用水である。

 これらの用水を一体のものとして利用するには、利害の対立する地域いちえんを支配する領主の出現を待たなければならない。

 天正六年(1578)三木城は、秀吉軍に敗れたが当時、加古郡は三木城の支配下にあった。

 以下は蛇足である。

 「若干飛躍し過ぎる」と、お叱りを受けそうであるが、三木・別所氏の支配の後、この地方を秀吉・信長が支配することになる。

 秀吉は、土木技術に無類の手腕を発揮した人物である。

 もっとも、「五ヶ井用水を推進したのが誰であった」かについては記録はないが「秀吉の意向があったのではないか」と想像してみるのも一考である。

 その後、江戸時代は戦争のない平和な時代であり、江戸時代の初めの頃、戦国時代に発達した土木技術が農業に転用され、一大農業開発の時代を迎えた。

 今日の農村の原風景は、江戸時代のはじめのころにつくられた。

*写真は神野町二塚で、五ヶ井用水が曇り川に流れ込む手前の橋のプレート。

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五ヶ井用水を歩く(5)・五ヶ井の村々

2008-03-23 08:00:41 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

672  五ヶ井の村々

 江戸時代、五ヶ井用水を利用する村(五ヶ井郷)は20ヶ村で、五ヶ井用水は1.1900石ほどの田畑を灌漑していた。

 この五ヶ井郷の外に、五ヶ井用水のあまり水を受ける村(垂り井郷:たりいごう)が7ヶ村、それに明暦元年(1655)に、五ヶ井用水の6分の1の水の配分を受ける新井用水の村々(新井郷)が24ヵ村あった。

 どうして「五ヶ井用水」?

 五ヶ井用水は、五つの地域に水を供給している用水という意味で「五ヶ井用水」と呼ばれた。

 その地域とは、①北条之郷、②加古之庄、③岸南之庄、④長田之庄、それに⑤今福之庄の五つの地域である。

 それでは、次にその地域に含まれる村々をみておきたい。

 ① 北条之郷

 大野村・大野新村・中津村・平野村・河原村・溝ノ口村・間形村・篠原村・寺家町

  *大野新村と間形村は、明治22年合併して美乃利村となる。

 ② 加古之庄

 北在家村・安田村・長田村・口里村・新野辺村

 *長田村は加古之庄に含まれていた。

 ③ 岸南之庄

 加古川村・木村・友沢村

 *加古川村は、現在の加古川町本町

 ④ 長田之庄

 粟津村・植田村・備後村

 *植田村は、現在北在家に含まれる。

 ⑤ 今福之庄

 今福村

 これらの地域名、郷・庄は荘園の時代にさかのぼる古い名称である。

 なお、今福村は一村で五ヶ井郷である。今福村は、石清水八幡宮の荘園であったため、独立して一地域として扱れたのであろうと思われる。

 なお、「垂り井郷」は、水足村・天王寺村・細田村・長砂村、小安村、稲屋村、養田村の各村である。

 *天王寺村・細田村は、現在の野口町良野。小安村は現在、加古川町北在家に含まれる。

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五ヶ井用水を歩く(4)・条里制と五ヶ井の水路

2008-03-22 07:55:04 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

D7559f2  条里制と五ヶ井の水路

 奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきた。

 地方には国司・里長等の地方官が置かれた。

 これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることにあった。

 政府は、税を確実にするために土地制度を整えた。これが条里制である。

 条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われる。 

 その仕組みは、六町四方(43.2ヘクタール)の大区画を縦横六等分、つまり36の小区画に分けた。

 そして、その一つをさらに36等分し、その一つひとつに一の坪・二の坪・三の坪・・・のような番号をつけた。

 条里制の遺構(上図)をみて欲しい。

 市域では五の坪(加古川町西河原)、九の坪(加古川町溝ノ口)、一の坪(尾上町長田)、十二の坪(尾上町口里)、三の坪(尾上町今福)等がその例である。

 この他にも多くの坪名と思われる小字が残っている。

  池がない

903043ce  条里制の土地があったことは確かめられている。

 しかし、土地だけでは田畑にならない。水が必要である。

 どのようにして水を得たのだろうか。

 池から得たとも考えられが、池の遺構がない。

 埋もれてしまったとも考えられるが、これだけ発達した条里制である。どこかで遺構が見つかってもよさそうなものである。

 考えられることは、加古川の水を利用することである。

  それにしても、加古川からの水が条里制の全ての田畑を潤したとも思えない。

 加古川は暴れ川だった。加古川に堰をつくり水を引いたとも考えられない。

 この時代に大規模な用水作る土木技術はまだない。

 加古川は、太古よりその流路を変えた。加古川の旧流路(下図)を見て欲しい。

 これら流路と条里制の遺構がたぶんに重なるのである。

 つまり、条里制の土地は加古川の旧流路を用水として利用したと考えるのが自然である。

 五ヶ井用水の始まりは条里制の時代まで、さかのぼることができると想像される。

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五ヶ井用水を歩く(3)・聖徳太子と五ヶ井用水

2008-03-21 09:29:42 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

068  聖徳太子と五ヶ井用水:五ヶ井用水は鶴林寺の荘園を潤す用水か?

 『日本書紀』に次のような記述がある。

 「(今から1300年以上も前のことである)聖徳太子は、叔母の33代の推古天皇のために法華経等を講義された。

 この講義に推古天皇は、おおいに感動され、その労をねぎらうため、播磨の国の良田を聖徳太子に与えた。

 太子は、これを播磨に分け法隆寺の荘園とした・・・」

 その土地は、揖保郡太子町の今の斑鳩寺(いかるがでら・はんきゅうじ)あたりで、法隆寺領荘園鵤荘(いかるがしょう)だというのが大方の説である。

 太子町の斑鳩寺は、この荘園の管理と信仰の中心として11世紀ごろに創建された。

 一方、鶴林寺であるが、『鶴林寺縁起』では、「聖徳太子が秦河勝(はたのかわかつ)に命じて堂をたてさせ、高麗(こま)の恵便(えべん)を僧とした」とある。

 しかし、寺域から飛鳥時代はもちろん、奈良時代の古瓦などが全く出土していない。

 それに、建築様式などから鶴林寺は平安時代初期の創建と考えられる。

 そして、さまざまな研究により、鶴林寺の「太子信仰」は、法隆寺より四天王寺との関係により生まれたものらしい。

 五ヶ井用水と聖徳太子のつながりは考えにくい。

 *写真は鶴林寺の太子堂。明治34年に特別保護建造物(現在の国宝)に指定され、平安時代後期の建物である。兵庫県で現存する最古の木造建築。

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五ヶ井用水を歩く(2)・五ヶ井用水の伝承

2008-03-20 09:15:23 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

087  五ヶ井用水の伝承

 加古川市内には、五ヶ井用水の他にもたくさんの用水がある。

 これらの用水については、何らかの記録があり、その歴史を知ることができる。

 ところが、五ヶ井用水については事情が違ってくる。

 というのは、五ヶ井用水は歴史が古く、かつ記録がまったくといってよいほどない。

 もちろん、『五箇井記録』(五ヶ井土地改良区所蔵)・『五ヵ井由来記』(加古川市大野荒木家・中津町内会所蔵)がある。

 ともに明暦三年(1657)に大野村の荒木重門が記したもので、ほぼ同じ内容のである。

 これらの記録は、たぶんに伝承といえる文書で、歴史の記録ではない。

   談 合 橋

 『五箇井記録』にある伝承のあらましをみておきたい。

  日向明神(日岡神社)の導きにより、神社の北西に「岩鼻之井」という井堰がつくられた。

 用明天皇(聖徳太子の父)の時代に、聖徳太子は加古川地方に田地200町歩をつくろうとされ、日向明神と相談された。

 その場所は、神社のそばの橋の所だったので、この橋を「談合橋」(写真)という。

 そして、加古川大堰の東岸の辺りから、三つの地点を結んで用水路が掘られた。

 その三点は、五ヶ井用水の取り入れ口近くにある「太子岩(上の太子岩)」と日岡神社の西にある「太子岩(下の太子岩)」、それに鶴林寺の三重の塔で、これらの三点を結ぶ線で井溝が掘られた。

 この溝のおかげで、以後この地方の人々は水に苦しむことはなくなった。

 ざっと、こんな伝承である。

 『五箇井記録』では、五ヶ井用水は、聖徳太子の時代に計画され、完成したといている。

 五ヶ井用水は日岡神社のそばを通り、鶴林寺周辺いったいまで潤している古い用水であるため、日岡神社や聖徳太子に託した物語がつくられたのだろう。

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五ヶ井用水を歩く(1)・五ヶ井用水の溝筋

2008-03-19 18:05:47 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Ef1ab31b 昨年末、悲しいことがあった。

 0.5歳の孫が亡くなった。

 「こんなことがあってよいものか・・・」と悲しかった。

 そして、ブログも後日続けるとして499号で中断させた。

 4ヶ月が過ぎた・・・

 ブログを再開させることにした。

 きょうからのブログを『2部』とします。2部では、まず「五ヶ井用水」をシリーズで取り上げてみます。

 かっこよく、「五ヶ井用水を歩く」としました。ご感想をお寄せください。

   五ヶ井用水の溝筋

 加古川は、丹波市青垣の遠坂(とうさか)付近を源流に、播磨灘に注ぐ兵庫県一の河川である。

 その幹線流路は96kmであり、兵庫県に降った雨の約4分の1は加古川に流れ込む。

 流域面積は1.732平方キロメートルで県下最大である。

 また、加古川は暴れ川であり、古代より幾度となく洪水をひきおこし、流路を変えた。

 五ヶ井郷(五ヶ井用水を利用している地域-後日説明)の人々は、そんな大河と闘い,加古川から田畑に用水として水を引いた。

 五ヶ井用水は、近世の村で言うと20ヵ村で、1.1900石ほどの田地を灌漑する。とてつもない大きな用水である。

 「五ヶ井用水を歩く」では、後日、用水の溝筋を北から南へ歩いてみたいが、きょうは五ヶ井用水の溝筋の概略を確認しておきたい。

 この図は『五ヶ井土地改良区誌』(五ヶ井土地改良区誌編さん委員会・昭和62年)からお借りした。

 

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