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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(35) かつめし(6) かつめし復活す

2021-05-09 07:08:49 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

                 テレビ・新聞等で「かつめし」が紹介される        

 平成4の月のことでした。

 2代目の一角昌博が大阪で、ある研究会に講師として出席していた時のことでした。

 家から電話があり「すぐに帰ってほしい・・」

 事情を聞くと「かつめし」のことでした。

 「テレビの方が私(一角昌博氏)に聞きたいとカメラを据えて待っている」とのことでした。

 加古川には、珍しい食べ物「かつめし」があると聞いて取材をしていたら、その食べ物の発生のお店は「いろは食堂」の一角さんだということが分かり、発症の店を取材せず人放送できない」と私をまっておられたのです。

 そして、その年(平成11)6月に放送がありました。

 また、その年の月に今度は毎日テレビが「甘辛アベニュー」という番組で、夜のゴールデンタイムに「かつめし特集」(1時間の番組)を放送しました。

 これで、「かつめし」の名前は一挙に全国に広がり、「かつめしの店」に多くのお客が殺到するようになりました。

    厳しい修行でした(代目・一角昌史)

 4代目の一角昌史は、料理好きで、フランス料理の就業のため、京都のリバーオリエンタルに就職しました。生半端な修行ではありませんでした。

 就業時間などはあってもないのと同じで、それに手は飛ぶ、足蹴りはくるで、見習い期間は人間扱いではありませんでした。

 しかし、好きな道なので家に帰ってきても、一切不満を言いませんでした。

 京都での年間の修行の跡は、神戸のオリエンタルホテルで修業をし、最後に、自分の店の出店のために神戸のお店で年半ばかり修業をしました。

 12年の修行を終えて加古川へ帰ってきました。

      (現在の)いろは食堂(ビストロ)オープン

 昌史が、平成27年月に結婚したのを契機に代目から4代目にバトンタッチして、お店もフランス料理も出せるように出せるように大改装して、名前も初代の「いろは食堂・ビストロ」に戻し、同年月15日にオープンさせました。

 多くの方々に好評があり、テレビ等でも紹介してもらえるまでになりました。

 (no5080

  *写真:現在の「いろは食堂」

<お知らせ>

「加古川町篠原(町)・溝ノ口探検」は不十分ですが、次回から「加古川町平野・美乃利」を探検します。引き続き、よろしくお願いします。

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(34) かつめし(5) 「ニューいろはのかつめし」消える

2021-05-08 07:38:18 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

   「ニューいろはのかつめし」消える

 約20年ちかく、地域にごひいきいただいた「ニューいろは」でしたが、あまりの忙しさに追われている間に、ご夫婦は体をこわされました。

 そのため、奥さんのお父さんの忠告でいろはの総合ビルを貸しビルにし、「ニューいろは」は、加古川から姿を消すことになりました。

 当然のこととして「いろはのかつめし」も、加古川から姿を消すことになりました。

 その後は、他の数店で細々とかつめしは残っていましたが、元の味も消えだんだん愛好家も少なくなっていきました。

     加古川の商店街激変

 社会情勢も激変しました。

 車社会になり、郊外型のスーパーマーケットは非常な勢いで誕生し、加古川の商店街は時代の波に翻弄されることになりました。

 しかし、この間も一角昌博氏は、デミグラスソースのレシピを保存して、年に2回ほど「いろはの味のかつめし」を作って、親しい人に提供し、「いろはのかつめし」の味を守り続けられました。

    余話として:大型のスーパー加古川へ進出

 東加古川のスーパーマーケット進出に強く反対し、ニッケ跡地のショッピングセンター構想にも反対していた商連協が、昭和54月に提出していたニッケショッピングセンターに反対する陳情を、翠55月に取り下げました。

 また、日岡廉売市場商店会会長などから、日毛ショッピングセンター建設反対の陳情が提出されたが、すぐに月議会で不採択とされてしまいました。

 そして、商工会議所主導型と呼ばれる方式で、地元商業界との事前調整を図っていくことになりました。

 結果としては、その後怒涛のように大型スーパーが加古川に進出し、地元小規模商店をなぎ倒すことになりました。(no5079

  *写真:「ニューいろは」での宴会場風景

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(33) かつめし(4) 昭和34年、「ニューいろは」オープン 

2021-05-07 07:40:43 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

       昭和34年、「ニューいろは」オープン

 一角昌博氏は、父久雄を引き継ぎました。

 昭和34年、大学を卒業すると同時に、従来の平屋建ての「いろは食堂」を地下1階、地上階の総合ビル(1階:食堂、2階:喫茶、3階:和食)とし、名前も「ニューいろは」としてオープンさせました。

 そのころには、国鉄(現:JR)も記者から電車が走るようになり、交通は格段に便利になり、駅前の商店街も徐々に整備され、時代にあったビルが建つようになり徐々に活気を取り戻してきました。

 「かつめし」も当初の「牛かつめし」だけから「豚かつめし」もレパートリーにくわえました。

 「かつめし」は、だんだんと他の店でも提供されるようになってきました。

 「デミグラスソース」は、一子相伝で、70年後の今日も最初の味を守り続け、今日に伝えています。

 その後も、多くの方にご贔屓をいただいた「ニューいろは」は順調に業績を伸ばし、200人近い宴会場も増設し、屋上にビアガーデンも開設し、シーズンになると目の回るような忙しさでした。

      余話:電化公式試運転 明石~姫路間

 明石-姫路間の電化公式試転運は(昭和33年)2月27日関係市町村の歓喜に湧きかえるうちに行われました。

 この日早春の播州路をついて午前11時10分新装をこらした電車は小、中学生のブラスバンドに迎えられ、すべるように加古川駅に到着しました。

 まさに当地方交通史上画期的な一瞬でした。

 このように、国鉄電化の実現は市をあげて歓迎され、喜ばれましたが、商店街の一部には神戸や姫路方面に従来の客層が吸収されるのではないかという不安もありました。(no5078

  *写真:「ニューいろは」オープン(昭和34年)

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(32) かつめし(3) 「いろは食堂」のかつめし

2021-05-06 09:05:15 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

        「いろは食堂」のかつめし

 戦後間もないころ、洋食はまだはじまったばかりで、実はカツレツに使うパン粉が手に入りにくく、近所のニシカワパンの協力でパン粉を砕いて、パン粉をつくってもらったこともありました。



 当時、近くの町で商店らしいのは加古川の町ぐらいでした。

 農家の方たちの一番の楽しみは盆と正月のお休みと、そして6月の田植えが終わった後の「さなぼり市」と、秋の収穫が終わった後の「せいもん払い」に加古川の町に出て買い物をして「いろは食堂のかつめし」か「かさよしのうどん」、そして寺家町の「まるまんのうどん」を食べるのが何よりの楽しみでした。

 せいもん払い・さなぼり市の時は、近在から山のような人が加古川の町に集まり黒山の人だかりで、商店街は押すな押すなの人だかりでした。

 今では想像すらできない人出でした。

 それをあてこんで、阪神方面の商人も進出して、大いに賑わいがありました。

 日本毛織のグラウンド(現在のプラザテルあたりにあった大きなグラウンド)ではサーカス、相撲や様々な見世物とか、いろんな興行があってそれらも皆の楽しみでした。

 地元商店だけでなく、遠くは大阪からも商人が大挙して押しかけるほどの大セールでした。

 姫路・明石は空襲で焼け野原になったのですが、加古川はほとんど無傷で戦後から7・8年の盛況は今からは想像もできません。

 誓文払いと一緒にサーカスが加古川にやってきました。

   〈用語の説明〉

 *さなぶり:「さなぶり」ともいいます田植え終了後の祝いまたは休日。

 本来は、田の神が、田植えが終るのを見て帰る日と信じられ、この日に田の水口やあぜ,または床の間などに,苗を供えて田の神を祀る風習が日本各地にみられた。

 *誓文払い:もとの意味はともかく、姫路では12月1日から日間、加古川ではその後日曜日を中心に5日間が「誓文払い」でした。詳しくは、「加古川町本町探検(32)をご覧ください。no5078

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(31) かつめし(2)  かつめしの誕生・洋食を箸で・・・

2021-05-05 08:21:11 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

      「かつめし」の誕生 

 加古川が、この地域の牛肉の生産の拠点になりました。

 そんな状況に目をつけた「いろは食堂」の初代の一角久雄は「この安価で良質の牛肉を何とか地域の人に食べていただきたい」と、当時は「うどん屋さん」くらいしかなかった加古川の駅前に洋食屋・「いろは食堂」を開店しました。

 しかし、ここでひとつの問題がありました。

     洋食を箸で・・・

 農家中心で、洋食などを食べた経験のない人がほとんどの加古川で、ナイフやフォークなどを使うことになるわけです。

 「洋食ではあるけれど、食べやすい方法で洋食を提供できないものか・・・」といろいろと知恵を絞りました。

 そして、カツレツとライスをナイフとフォークで召し上がっていただくのではなくて、箸で食べていただく方法を考え出しました。

 ごはんを洋食皿にのせて、その上に一口で食べられる大きさに切ったカツレツをのせ、たっぷりとデミグラスソースをかけて、煮たキャベツを少し添えて、「かつめし」として販売することにしました。

 これが「かつめし」のスタートでした。

 洋食が箸で食べられて、それも美味しいということで、発売すると同時に多くの方に好評をいただき、爆発的にヒットして、多くのお客さんが来店下さるようになりました。(no5079

 *「いろは食堂・かつめし物語」(一角昌博)参照

 *挿絵:SY

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(30)  かつめし(1) かつめしの原形  

2021-05-04 07:27:47 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

   「かつめし」(1) かつめしの原形

 昭和22年、終戦の混乱期に、いろは食堂の初代一角久雄氏が、加古郡加古川町篠原二丁目字鳥居裏に平屋建ての「いろは食堂」をオープンさせました。

 当時、加古川町は、町とは言いながら農村に囲まれた町でした。

 近隣の産業もほとんどが農業でした。

 一角久雄氏が、どうして、かつめしのアイディアを思いつかれたのでしょう。

     戦後、加古川町に人が集まる

 東播・北播では加古川町は、比較的商店街も発達した地域でした。

 当時、工場として、日本毛織があり、町として賑わいがありました。

     姫路・明石・神戸は空襲で大打撃

 姫路・明石・神戸等、近隣の町は空襲に会い、大きな被害受けたのですが、奇跡的に加古川は、ほとんど戦火を受けずに終戦を迎えました。

 従って、加古川にあった商店もほとんど無傷の状態で残りました。

 貧しい時代であったといえ、いきおい北は西脇、社、小野、三木など、東は南は別府、高砂等から人が加古川へ集まり、買い物等を楽しむようになりました。

    戦争で神戸牛の生産もストップ

 当然、食事も楽しみです。唐突ですが、肉の話です。

 戦前から神戸ビーフは有名でしたが、戦争のため生産がストップしてしまいました。

 加古川は、神戸に代わる肉の生産地となりました。

 志方と他ともう一か所、加古川が肉の生産拠点になりました。

 場所は、現在のシルバーセンター(加古川市加古川町河原)のある周辺です。

 ここに、加古川肉・買い物客(加古川町の賑わい)・食事が結びつきます。

 かつめしの原形です。

 *内容は、いろは食堂二代目の一角昌博氏の報告を参考にさせて頂いています。(no5078

 *写真:河原で放牧されていた牛(背景の高い山は、高御位山)

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(29) 「新興座」と三宅周太郎家 

2021-05-03 09:39:45 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

 「加古川市名誉市民賞」第1号受賞者、三宅周太朗さんに関しては「ひろかずのブログ・三宅周太郎さんのこと」をお読みください。ここでは、加古川駅前にあった「新興座」と周太郎家についてについて紹介しておきます。

    「新興座」と三宅周太郎家

 明治19年頃に山陽鉄道株式会社(JR山陽線の前身)が計画され、明治20年12月23日、現在の加古川駅が開業しました。

 そして、演劇場・寿座が現在の駅前(現:ヤマトヤしキ)の場所に建設されました。

 この寿座のことは三宅周太郎さんの『半世紀』には、次のように記しています。

 「・・・私が母に別れた6才の頃から、土地の繁栄策として、株主として町へ私の家が主になって芝居小屋を建てました。・・・私の父は堅い一方の人で、そんなことは大嫌いでしたが、やむなく出資して建てさせられました。

 加古川は、藩政時代からの宿場町の名残りをとどめたこの町で、顔役や遊び人が相当住んでいたのでしょう。

 それらの人達の願望によって町の有力者が動いたとも推測出来ます。父・利平は困惑しながらも、町の有志の勧誘を無下に断ることも出来ずに「寿座」の建設にふみ切ったようです。

 周太郎は、続けています。

 母の死後、夕方になると寂しくて、たまらず出来たての小屋へ遊びに行くと、芝居は賑やかでした。村芝居同然でも小屋元の子供というのでちやほやしてくれました。

 しかし、夜その小屋から半眠りになって迎えの者につれて帰えられた時には父から「になるのか」と怒鳴られました。

 利平が怒り悲しんだのは当然でした。「道楽」の代名詞のような芝居小屋などは、三宅家とは無縁のものであり、見るも汚らわしいというのが父・利平の本音でした。

 周太郎はさらに続けています。「私の芝居好きは幼少の頃からの好みで、生れた町の加古川で「芝の好きな子」と言えば私と分かっているくらいでした。

 父・利平は70才に手のとどくばかりの彼の白髪からは、めっきりつややかな光沢が消えていました。

 厳父、利平の眼には周太郎は、「三宅家」からハミ出した異端者ともいうべき不肖の子としで映ったにちがいありません。

 そんな利平は、明治37月に他界しました。行年71才。周太郎数え年13才でした。

 次女「しやう」が多可郡日野村郷の瀬(現西脇市)の豪農から同志社大学出身のムコ養子太蔵を迎えていました。この人が利平の死亡と同時に二代目利平を襲名します。

 三宅家の戸籍の上では、周太郎はあくまで利平の長男であり、一人息子でしたが、三宅家関係者の証言によると、周太郎が貰った資産の分け前は、坂元・古新の一丁八反の田地だけだったといいます。

 利平の「三宅本家」を守るという筋を通した処遇であったのでしょう。

 周太郎は、やがて義兄利平のもとで、憧れの「芝居」からやがて演劇の道ヘと羽根を伸ばしてゆくのでした。(no5077

 *写真:新興座(加古川駅にちかくで、明治32年寿座(芝居小屋)として設立され、大正年、大成座となり、昭和年新興座と名称を変えました)

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(28)  国鉄(現:JR)、電化公式試運転 明石~姫路間

2021-05-02 08:09:20 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

    国鉄(現:JR)、電化公式試運転 明石~姫路間

 明石-姫路間の電化公式試転運は昭和33年2月27日関係市町村の歓喜に湧きかえるうちに行われました。

 この日早春の播州路をついて午前11時10分装をこらした電車は小、中学生のブラスバンドに迎えられ、すべるように加古川駅に到着。

 正に当地方交通史上画期的な一瞬でした。

 花束をうける乗務関係者の顔も感放に繋張。

 今日あるを期待して努力した関係市町村理事者、議会関係者、地方有力者及び国鉄当局の労苦もしのばれて、心中さこそとさっせられた瞬間でした。

 次で、万歳声裏に姫路に向って出発上々の成績を収めて終了しました。

      商店街からの心配の声も・・・

 このように、国鉄(現:JR電化の実現は市をあげて歓迎され、喜ばれましたが、しかし、商店街の一部には神戸や姫路方面に従来の客層が吸収されるのではないかという不安もみられました。

 ある議員は、33月市会の一般質間において、電車化に伴う中小企業振興対策を市長に質しています。

 市長は、「商店街の活性化のために、いろいろな対策が考えられるが、商工会議所や商店連合会等とよく連携して対応していきたい」と答えました(昭和33317日本会議)。

 心配は的中してしまったようです。

 市の総合計画のないままでの電化であったようです。(no5076

 *写真:西明石~姫路間の電化による運転開始(『加古川市議会史・記述編』より)

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(27) 北向きの地蔵・かき庄

2021-05-01 10:13:04 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

 今回は、『Kako-Style2』から「向きの地蔵」と「かき庄」の紹介をお借りしています。

   北向きの地蔵

 池田吉弘さんは、篠原町の「北向きの地蔵さん」を、次のように

まとめておられます。

 子どもの守り神として信仰される「お地蔵さま」ですが、北を向いている地蔵は少ないといわれています。

 しかし、篠原観音寺にある地蔵堂には、なぜか中央の一番大きな地蔵だけが北を向いています。

 江戸時代の中期から祀られ始めて300余年。

お参りした多くの人々のさまざまな願いごとを叶えてきたことが評判となり、今では「願いの叶う北向きのお地蔵さん」として、参拝に訪れる人が絶えない人気スポットになっています。

 中には、子宝に恵まれなかった3人の人が願掛けをしたところ、3人ともに子どもを授かったというエピソードも。

 また、周囲にはスナックや飲み屋が多く、商売繁盛 無病息災の願掛けにお参りするお店のママも多いそう。

      かき庄

 「北向きの地蔵」から少し西行くと、「かき庄」があります。

 「かき庄」も、『Kako-Style2』で王茂厚さんが取材をしておられますので、一部をお借りします。

 「・・・かき料理 かき庄」は、1925年の創業。2021年で95年を迎える老舗のカキ料理店です。

 カキの産地である広島県矢野町出身の高山立宝(たかやまりっぽう)さんが開いたお店です。

 九州で料理修行をしていた高山さんは、故郷のカキ料理を広めようと広めようと、京都を目指して関西へ出てきました。しかし、広島からカキを送ってもらい商売をするには、京都は離れすぎており、カキが傷んでしまうため、交通の便が良く当時ニッケで栄えていた加古川駅前に店を構えました。

 もともと京都に強いあこがれを持って関西へ出てきた。・・・料理も京風にするため白みそを使かった「土手鍋』を考案し、以来変わらぬ味を守り続けています。(no5075

 *写真上:北向きの地蔵 同下:戦前の「かき庄」内の風景

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(26) 加古川駅の空襲

2021-04-30 10:02:22 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

   1945年(昭和20)になり、米軍は中小都市への攻撃を強化しました。
 米田国民学校の日誌では、1945年7月の空襲警報発令は、15回に達し、日に11回発令されることも、稀ではなくなりました。
 この事態は、「小軍都」と化していた加古川地域にとって深刻でした。
      加古川駅の空襲
  そして、ついに恐れていた空襲が加古川地域を襲ったのです。
 『加古川市誌(第一巻)』に、月23日に、グラマン戦闘機が、加古川駅を機銃掃射したのに続いて、翌24日、米機3機が、小門口に爆弾を投下し、加古川駅に避難した急行列車を銃撃し、死者1、負傷の犠牲が出ました。
 しかし、加古川町の「昭和20年事務報告書」によれば、被害は、さらに大きかったようです。
 同報告書は、被害を死亡、重傷、全焼壊家屋1、半焼壊家屋2棟と伝えています。  「加古川小学校の学校沿革誌」も、「本町に始めて米機の機銃射撃並に小型爆弾投下あり、校舎児童共に被害なし」と記しています。
 また、氷丘小学校の「学校沿革誌」も、「空襲のため全日授業停止、加古川駅附近機銃掃射を受ける」と特筆しています。
 死者、重傷という数字は、数字だけ比べれば、神戸空襲などの悲惨さに遠く及びません。しかし、それは、一人の人間の一生を左右するのです。
 7月28日には、別府町が、米軍小型機の襲撃をうけました。
 さらに、月30日、加古川町は、二度目の空襲に見舞われました。加古川小学校の「学校沿革誌」は、「加古川町に、第二回日米機の来襲あり、被害軽微」と簡単に記しています。
 『加古川市誌』第一巻によれば、日毛加古川工場および寺家町三丁目に50キロ爆弾10数個が落下し、死者2銘、負傷者数名がでたと記しています。
 この日の空襲は、加古川町だけではなく、尾上小学校「学校沿革誌」によれば、「米艦爆機尾上村池田に小型爆弾投下、硝子25枚、講堂天井破損」と、尾上村への空襲の被害を伝えています。
 また、別府町にも、被害はなかったとはいえ、この日、前後四回、米機が機銃掃射を行なったといいます。
 加古川地域も、事実上、戦場化しつつあったのです。
 八幡小学校の「学校沿革誌」は、月の項で、以下のように記している。
 「空襲激化せしめた。初等科年以下児童のために毎に分教場を設置す」
 さらに、日にも、別府の沖合に停泊中の汽船に空襲による被害が出、加古川町でも、死者、重傷・軽傷の犠牲がありました。(no5074
 
*挿絵:グラマン機による加古川駅攻撃(挿絵を描かれた方を捜しています)

 *『加古川市誌(第一巻)』『加古川市史(第三巻)』参照

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(25) 加古川駅前の水害

2021-04-28 23:20:41 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

         加古川駅前の水害

 前号の続きとしてお読みください。

 加古川市広報(15号・昭和27年7月発行)は、加古川市内の水害を大きく取りあげています。

 以下は、「加古川市広報」からの抜粋です。(文字等一部変えています)

 写真は、昭和36年の加古川駅前通りの水害のようすです。

        根本的対策を急ぐ!

 (昭和27年)6月末から降り続いた雨は、月に入り熱帯性低気圧の影響を受けて、さらに、ものすごい豪雨となったため各河川は刻々と増水しはじめ、2日夜8時頃には徐々に低地から浸水し始め・・・・、日、ついに水は市街地へ浸水し、家屋への浸水.田畑の流失埋没等の被害があった。

 毎年、雨季に発生するこうした水害の原因は、加古郡天満村に源を発する「曇川(くもりがわ)」の最下流が、市内の灌漑用水を運ぶ五ヶ井水路に直結しているため、豪雨等によって増水し、曇川樋門を通じて加古川本流への放出が困難となった場合、この水が市内の水路で通水しきれなくなり、こうした浸水を引おすことになるのであります。

 この被害根絶の対策としては、曇川樋門の増設と、別府川に通ずる水路全体の改修工事の実施の外はないので、この点について県当局にもしばしば陳情してきたのでありますか、県財政の関係等で今日まで未解決となっているのであります。

 

 市においては、7月4日、市長.助役及び市会関係議員等が、重ねてこれが根本的な封策について早急な実現を陳情した結果、県当局においては、この水害を重要視し、14日に現地察査等を実施の上、近く具体化することになりました。

 *現在、曇川樋門と別府川に通じる水路は完成されています。

 ちなみに、先の豪爾による被害は、次の通り

    家屋の床上没水          62

     〃 床下没水         1452

    田畑冠水                 8300

     〃流夫埋没             415

      道路の決潰           4ヶ所

      橋梁流夫                   3

      堤防決潰            7ヶ所

      その他                7        (no5073

 *写真:加古川駅前通りの水害(『加古川・高砂の昭和』樹林舎より)

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(24) 明治29年の水害

2021-04-28 10:37:28 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

   明治29年の水害

 最近の加古川駅前の水害の様子を見ておきたいのですが、その前に今回は予備知識です。

 大雨の時、加古川の水位は高くなり、水の勢いは増します。

 そんな時は、加古川の水の取り入れ口へ、反対に大量に流れ込むことになります。

 そのため、取り入れ口の水門は閉じられます。

 しかし、困ったことがおこります。

 曇り川(神野町)に、それをみましょう。

 曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けれたという説まであります。

 しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となります。

 こんな時は、加古川へ排水する水門は閉じられます。

 水の行き場がなくなります。

 曇り川の濁流は、曇り川が加古川に突き当たる加古川の水門辺りから流れを南へ変え、大野・加古川・そして海岸部へと押し寄せ、水害をおこしました。

 最近の加古川の水害史のパターンは、この例が多いのです。

 『加古川市史(三巻)』を引用します。

 ・・・・1896年(明治29)、1897年(明治30)の両年、加古川流域では、水害により深刻な被害を被りました。

 明治29年には、8から9月上旬にかけて前線性降雨や台風により水害が頻発しました。

 この時の状況について、例えば、9月10日付『神戸又新日報』は、次のように伝えています。

 *以下は、その記事の一部ですが、少し書き変えています。。詳しくは『加古川市史・三巻』をご覧ください。

 ・・・6日より、曇り川が氾濫し、加古郡西部加古川町・氷丘村・鳩里村等の各村一円は浸水し、氷丘村ごときは一村450戸のうち400戸が浸水し、 茫々(ぼうぼう)たる湖の如し。

 人々は、寺院または高地に避難し、ことごとく地面は没した・・・・(no5072

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(23) 隅釜地蔵堂の地は篠原町の発祥の地か!

2021-04-27 09:15:13 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

    北篠原、隅釜地蔵尊

 おおきな招き猫の像が建物に沿って西へ10メートルほど行きます。そして、病院の集まったビルに沿って南へ少し歩き、最初の三差路を20メ―トルば西に行くと小さなお堂があります。

 そのお堂が、北篠原隅釜地蔵堂です。

 説明板には、隅釜地蔵会の説明があります。

 つまみ食いをして紹介会いましょう。

       隅釜地蔵堂の地は篠原町の発祥の地か!

 このお堂の地蔵尊三体のうち中央の両側に祀られている石仏尊は室町時代後期、天文2年(約450年前)のもので、当初は野佛と推察されます。

 地蔵堂の建立については不詳ですが、屋根の頂上の瓦には菊花の紋があり、なにやら由緒がありそうな地蔵堂です。

 人々は、霊験あらたかな地蔵尊にて諸願成就、特に子安、進学、安産の祈願をかけお授け戴いた人は多数ありました。

 当篠原町宇隅釜121番地は旧篠原村の発祥の地であり、また里道の終点で駅(うまや)跡です。

 当時この方面の米、麦、木綿、炭等を集荷して高瀬舟で年貢として上納した基点でした。

 地蔵堂の西軒下に祀られている五輪塔は一部修復していますが室町時代後期のものです。(*以上、隅釜地蔵会の概要)

 上記の説明で、次のことが気になりました。

 ・地蔵堂の地は、篠原町の発祥の地である。

 ・ここは里道の終点で、駅跡(うまやあと)である。

 ・この地方の年貢の上納の起点であった。

 記録がないので、さらに確かめなければなりませんが、史実を含んでいるように思えてきました。(no5071

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(22) 木村一夫選手(2度のオリンピック6位入賞)

2021-04-26 08:21:03 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

        木村一夫選手(2度のオリンピック6位入賞)

 写真(右)がよくなく申し訳ありません。

 左から西田周平、織田幹雄そして、木村一夫選手です。

 昭和3年8月2日、新聞はオリンピック・アムステル大会で織田幹雄選手の「三段跳び優勝」を大きく報じました。

 そして、昭和7年のロサンゼルス大会では、南部忠平選手の三段跳びを「大日章旗上がる中に感激の君が代は轟く」と大きく報じています。

 この両、オリンピック大会に、氷丘小学校出身の木村一夫選手(加古川町溝之口)がいました。

 種目は走り高跳びで、188メートル、194メートルと両オリンピックとも6位入賞でした。

 関西学院中学部に進学した木村一夫さんは、昭和2年、第8回極東選手権大会の走り高跳びに出場、1・82メートルを跳び2位に入賞しています。

 この時の表彰状は、張学良の名で発行されています。時代を感じます。

 当時、中学生(今の高校生にあたる)が国際時代に出場することは、非常にめずらしいことでした。

 関学中学から早稲田大学に進学した彼は、2度のオリンピックの他、数々の国際試合に出場し活躍しています。

 一方、国内大会の成績は、もちろん素晴らしく、全日本学生選手権大会では、全国最高記録で4年連続優勝するなど、当時日本の第一人者として活躍しました。(no5070

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(21) 幻の鉄道

2021-04-25 10:49:14 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

    

   幻の鉄道

 地図で、不思議な鉄道を探してください。

 加古川駅から溝ノ口を通り東に鉄道がまっすぐにのび、水足あたりで北へ向きを変えている鉄道です。

 この地図は、昭和25年のものです。

 この鉄道について、水足の方に聞いてみました。

 「そうそう、懐かしいですね。汽車がありましたわ・・」と、この鉄道のことを思い出してくださいましたが、それ以上のことは、分かりませんでした。

 以前に小林精男(故人・加古川線を播州鉄道といっていた時代、運輸部総務課長をされていた)に聞いたことがあります。

 「・・・日岡山にある加古川刑務所は、戦前、神野倉庫と呼んでおり、今の加古川駅からこの鉄道で火薬を運んでいたんです。

 もともと、神野倉庫のあたりは山でしたので、その土を“尾上飛行場”建設に使ったんです・・・なにせ、あの広い場所が火薬庫でしたから、外に機密がもれると大変だったのでしょう、憲兵や秘密の警察による警戒が厳しくてね・・・」

(小林さんに聞き取りをしたのは1994年)(no5069



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