ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(214) 官兵衛が駆ける(30)、神吉城の戦い(4)・激しい神吉城攻めの理由とは?

2018-06-23 14:12:00 | お爺さんが語る郷土の歴史

    激しい神吉城攻めの理由とは?

 信長が、なぜ、こうまでして大部隊を神吉城(右図・木内内則作)攻めに投入したのでしょう。

 実は、権力者の体面に関わる事件が、播州で続いたのが、その主な理由でした。

 これまで友好関係にあった別所が、突如信長にそむき、毛利に走りました。

 また、尼子一族の上月城が、毛利の大軍に囲まれましたが、圧倒的な武力を誇る信長軍でも三木城(東播州)と上月城(西播磨)の二方面作戦を強いられるため、尼子一族を見捨てたことです。

 さらに、秀吉が三木城外で、東播磨の連合軍の夜襲を受け、見るも無残な惨敗を被ったこの三点が神吉城へ、大軍勢を投入した主な理由でした。

 これらの屈辱に信長の怒が爆発しました。

 (織田)信忠は何の戦果を挙げることなく、手ぶらで播州を引き上げるわけには行きません。

 見せしめのためにも神吉一族を抹殺することで、信長の体面を保ち、織田の戦力を毛利に誇示する必要が生まれたというのが本音であったのでしょう。

 ところか、父信長への手土産にと、信忠(信長の嫡男)が、気軽に攻撃した神吉城で、予想もしなかったひどい、反抗を受けることになりました。

     頼定の苦悩

 敵(織田軍)は、大軍団です。

 いたずらに時が過ぎては、神吉軍に勝ち目はありません。このまま寵城して、しばし、城は守れても、長引けば、やがては攻め落とされます。しかし、降伏はできません。

 信長に屈すれば、先例にならって、一族、家臣、領民までも虐殺を免れないかもしれないのです。

 それにしても小三郎(別所長治)より、未だ援軍の知らせがありません。

 「どうしたことか、なぜ援軍はないのか・・・」と頼定はなやみました。

 「三木や毛利は必ず来る」と、心中で繰り返すのでした。(no4497)

 *絵:神吉城の図(木内内則作)

 ◇きのう(6/22)の散歩(110.483)

  〈お願い〉

 「ひろかずの日記」 http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

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1 コメント

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Unknown (Kami)
2023-06-20 14:38:31
神吉頼定公の名前と
同じ神吉と名乗る者です。
歴史の表舞台には、出て来ない『神吉城の戦い』を読んで、神吉頼定公の奮戦には、感銘を受けました。
勇敢に戦い、最後は、一族の寝返りにあい、非業な最期を迎い。
マイナーな武将ではありますが自分にとっては、
誇らしい武将とこれからも思い続けます。

歴史にイフは、御座いませんが別所方、毛利家の援軍が来たならばと考えます。
当の神吉頼定公も悲痛な思いだったと推測します。


投稿ありがとうございました。
また、他の掲載文面を読んでいきますね。

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