ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

8月の散歩

2018-08-31 22:08:51 |  ・コーヒーブレイク・余話

   8月は、暑い毎日でした。いかがお過ごしでしたでしょうか。

 しばらく残暑は続くようですが後しばらくの辛抱です。頑張りましょう。 

    8月の散歩

    1日(水) 11.411歩  自宅~長田公園(午前・午後2回)

    2日(木) 12.876〃  自宅~長田公園・小豆島土庄散策 

    3日(金) 12.867〃  小豆島土庄・岬の学校など散策  

    4日(土) 11.649〃    自宅~長田公園・自宅~加古川左岸      

    5日(日) 13.185〃  自宅~加古川左岸・日岡~花火会場

    6日(月) 10.301〃  自宅周辺・自宅~加古川左岸

    7日(火) 10.256〃  自宅周辺・自宅~加古川左岸

    8日(水) 10.400〃            〃

    9日(木) 11.317〃     〃

   10日(金) 10.817〃  平荘湖一周・自宅周辺

   11日(土) 13.316〃  自宅~加古川左岸・盆踊り会場周辺   

   12日(日) 12.266〃  自宅~加古川左岸・自宅~長田公園 

   13日(月) 10.395〃  自宅~加古川左岸・墓参

   14日(火) 11.230〃  自宅~長田公園・墓地 

   15日(水) 10.308〃  自宅~加古川左岸・自宅周辺

   16日(木) 11.486〃  平荘湖一周・自宅周辺 

   17日(金) 11.333〃             〃

   18日(土) 10.544〃    長田公園~自宅・自宅周辺

   19日(日) 11.685〃  長田公園~自宅・自宅~加古川左岸

   20日(月) 11.193〃  長田公園~自宅・自宅~M眼科

   21日(火) 10.642〃  平荘湖遊歩道・自宅~長田公園

   22日(水) 10.640〃     〃

   23日(木) 10.465〃  自宅~長田公園(2往復)

   24日(金) 10.478〃  平荘湖遊歩道・パークタウン(買い物) 

   25日(土) 11.525〃    自宅~加古川左岸・自宅周辺  

   26日(日) 11.814〃  自宅~紀伊国屋書店・自宅周辺

   27日(月) 10.683〃  平荘湖一周・自宅周辺

   28日(火) 11.473〃  自宅~加古川左岸・自宅周辺

   29日(水) 10.592〃  自宅~長田公園・平荘湖遊歩道

   30日(木) 10.731〃     〃

   31日(金) 10.261〃    自宅~加古川東岸・M眼科まで

    *今日(31日)は、午後10時現在の歩数です。(no4574)

 *写真:姫路飾磨港の夕暮れ(8月3日小豆島家族旅行の帰りのフェリーから撮影)

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お爺さんが語る郷土の歴史(258) 近世の加印地域 高砂篇(57)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(28)・船を持て

2018-08-31 09:36:10 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

            船を持て

 ・・・・

 多度津で、嘉兵衛が松右衛門旦那からきいた話で胆に銘じたのは、「持船船頭になれ」ということでした。

 「沖船頭(雇われ船頭)など、いくらやっても面白味にかぎりがある」ということでした。

 「嘉兵衛、いくつだ」

 「二十四でございます」

 「うらやましいのう」

 「わしなどは40から船持の身になったが、若ければ船のことがもっと身についたにちがいない、沖船頭をいくらやったところで、持船とは身につき方がちがう」ともいうのです。

 が、資金がありません。

 千石船一艘の建造費には千五百両という大金が必要でした。

 二千両といえば、それだけの現金を持っているだけで富商といわれるほどの額です。

 松右衛門の場合は、「松右衛門帆」という大発明をして、それを製造し大いに売ったればこそ、沖船頭から足をぬいて持船の身になることができました。

 「わし(嘉兵衛)には、資金がありません」といったが、松右衛門旦那は無視し、大声をあげ「持船の身になればぜひ松前地へゆけ」というのでした。

 「陸(おか)を見い。株、株、株がひしめいて、あとからきた者の割りこむすきまもないわい」ともいうのです。

 株をもつ商人以外、その商行為はできません。

 大坂に対して後発の地である兵庫でも、株制度は精密に出来てしまっています。

 ・・・・

 株という特権をもたない者は、いっさい取引に参加できません。

 もともと商人がこの制度を考え、幕府に認めさせたのですが、今度は株が、商人の自由な活動を妨げるようになっていました。

 幕府は、株を持つ特権商人と結びつき、税を搾り取るようになりました。(no4573)

 *挿絵 松右衛門と嘉兵衛の会話:マンガ『北海を翔ける男(クニ・トシロウ著)』(実業之日本社)より

 ◇きのう(8/30)の散歩(10.731歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(257) 近世の加印地域 高砂篇(56)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(27)・金毘羅大権現

2018-08-30 08:45:16 | お爺さんが語る郷土の歴史

 司馬遼太郎の小説は、読めば「かしこく」なったような気分になります。

 彼は、世間に広まっている「司馬史観」といわれる言葉を嫌がったそうですが、説には司馬氏の豊富な知識と考えがキラキラと散らばっています。

 金毘羅大権現について松右衛門に語らせています。

      金毘羅大権現

 (嘉兵衛が松右衛門以多度津であった日、嘉兵衛は松右衛門に酔いました。金毘羅大権現の話もしました)

 ・・・・松右衛門且那は、「多度津にきて、なぜ金昆羅さんが船人から大もてであるかがわかったろう」と、いわば罰があたりそうなことをいったのです。

 「金毘羅さんは、本来、ただの山である。

 象頭山(ぞうずさん)といわれる秀麗なすがたの山は、海上を走っている航海者の側からいえば類なくすばらしい目印になる。

 その山を見て、自分の船の位置を教えてもらい、また他海域から帰ってくると、ふたたびその山を見て、こんどの航海もぶじだったことをよろこびあう。

 自然、山を崇敬するようになる。

 多度津の前の海に、船乗りの輩出地としては質量ともに日本一の塩飽諸島(しあくしょとう)が浮かんでいる。

 「大むかしから、塩飽衆が朝な夕なあの山をおがんでいたのを日本中にひろめたのよ・・・」

 塩飽衆の船には金毘羅大権現がまつられている。

 「彼らが日本国の潮路という潮路に活躍しているために、いつのまにか他国の船も金毘羅大権現を崇敬することになったのよ」と松右衝門旦那はいうのでした。

     廻船とは・・・

 「もし、塩飽衆という大きな交通行動力をもった人々がいなければ、金毘羅大権現がいかに霊験があるといっても、あの山中で祠も朽ちはてているところだ。

 よきものを安く配って世に幸せをあたえるのを廻船という商(あきない)じゃ、わかったか」と松右衛門旦那はいうのでした。」

 「嘉兵衛、もっと飲め」

 ときおり松右衛門旦那が注いでくれたが、嘉兵衛は酒よりも松右衛門旦那に酔っていました。(no4572)

 *写真:丸亀城より象頭山(ぞうずさん)の遠景

 ◇きのう(8/29)の散歩(10.596歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(256) 近世の加印地域 高砂篇(55)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(26)・松右衛門と嘉兵衛のであい

2018-08-29 10:21:33 | お爺さんが語る郷土の歴史

 『菜の花の沖』(第二巻・文春文庫)に、高田屋嘉兵衛と松右衛門の出会いの場面が登場します。

 この部分は、司馬遼太郎氏がつくりあげ物語でしょうが、嘉兵衛と松右衛門の風景としては、いかにもありそうな話です。

 松右衛門と嘉兵衛の出会いの話として、史実はともかくとして自然な気分にさせてくれます。

     嘉兵衛と松右衛門の出会い

 嘉兵衛の住む兵庫港の西出町の長屋は、冬になると賑やかになります。

 冬は海が荒れ、よほどのことが無いと船は動きません。

 北前船や樽廻船が、この時期うごかないため、船乗りたちは春からの仕事に備えて岡での生活を楽しむのです。

 もっとも嘉兵衛は、暇ではありません。

 堺屋の持船のうち、二艘の船底を「たで」ねばなりません。

 「たでる」とは船底を燻して、木材を食う虫を追いだすことで、老朽あるいは損傷のカ所を修理するということも含まれています。

 兵庫の港の欠陥として、この浦が出船・入船で繁昌するあまり「船たで場」が少なかったのです。

 後に、兵庫港にも本格的な船たで場は造られますが、嘉兵衛のころにはまだそれがなかったのです。

 この年、兵庫のせまい「船たで場」が予約でいっぱいであったため、海向こうの讃岐(香川県)の多度津(たどつ)まで「船たで」に行くことになりました。

 これは、特殊な例ではなく、兵庫に籍をもつ船で多度津(香川県)まで「船たで」にゆく場合が多くありました。

 船舶の世界において、多度津は田舎ではなっく、船大工などもむしろ兵庫より人数が多く、腕のきこえた者も少なくなかったのです。

     松右衛門の船だ !

 多度津で、「船たで」の作業を監督していると、隣の「船たで場」に、兵庫の廻船問屋船が三艘「船たで」をしていました

 松右衛門の船です。

 司馬遼太郎は、この話を寛政4年(1792)と想定しています。

 嘉兵衛は、明和6年(1769)生まれですから、この時、嘉兵衛23才でした。 。松右衛門は、嘉兵衛より16才上であるので、松右衛門39才でした。

     多度津(讃岐)にて

 くどくなりますが、この嘉兵衛と松右衛門の出会いの場面は、司馬遼太郎のつくりあげた話であり物語としてお読みください。史実としては、松右衛門は、しばしば多度津を訪れています。

    ・・・・

 嘉兵衛が「船たで場」からみていると、その男はこちらへ近づいてきました。

 御影屋の「簾がこい」に入ったから、松右衛門旦那であることはまぎれもありません。

 簾がこいからもれてくる声は、船大工たちを集めて指示しているようです。

 しばらくして、松右衛門旦那は、「簾がこい」から出てきて、それが目的であるように、嘉兵衛に近づいてきました。

 嘉兵衝が、あわてて船の上から降りてくると、松右衛門旦那のさびた声が耳にとどきました。

 「嘉兵衛さんかや。お前は、おもしろい男じゃというなあ」

 松右衛門旦那の声は、「からーん」と空に吹きぬけてゆくような響きがありました。

 「お前は、船がおもしろいか」

 松右衛門旦那は船上にのぼって、船体をなでながら、嘉兵衛にきくのでした。

 嘉兵衛は、すこしあがってしまいました。

 人間としての品格が、いままでみたどの人物とまるでちがっているのです。

 「おもしろうございます」

 「なんぞききたいことがないか」

 嘉兵衛は、すこし怯えさえ感じました。

 「山ほどあるように思いますが、いまは体のなかが空っぽでございます」

 「ぼんくら」

 松右衛門旦那は、笑って嘉兵衛の背をどやしつけました。

 「今夜、わしの宿に来んか」と、松右衛門旦那はいい、船たで場のそばにある大きな網元の家をさし示しました。

 ・・・・

 嘉兵衛は、その日、松右衛門に御馳走になりました。

 「松右衛門さんが、目にかけてくれている」と思うと、震えるような嬉しさがありました。(no4571)

 *写真:舩たで場(神戸海洋博物館HPより)

 ◇きのう(8/28)の散歩(11473歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(255) 近世の加印地域 高砂篇(54)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(25)・嘉兵衛、兵庫港へ

2018-08-28 09:12:06 | お爺さんが語る郷土の歴史

       高田屋嘉兵衛・兵庫港へ

 いま、「工楽松右衛門」について紹介していますが、ここにもう一人登場します。

 『菜の花の沖』の主人公・高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)です。

 

 松右衛門は、今まで地元それも高砂市では知られていましたが、広く知られた人物ではありませんでした。

歴史的に重要な人物ではない、という意味ではありません。

 工楽松右衛門の名前を全国的に有名にしたのは、小説『菜の花の沖』です。

 小説の主人公である高田屋嘉兵衛の頭には、絶えず松右衛門の励ましの声が聞こえていたようです。

 「高田屋嘉兵衛」について紹介しておきましょう。

     高田屋嘉兵衛、淡路島を抜ける

 彼は、明和六年(1769)正月、淡路島の西海岸(西浦)都志(つし)本村(五色町)という寒村で生まれ、追われるように兵庫へ押しだされました。

 寛政二年(1790)、先に、兵庫港の堺屋で働いていた弟の嘉蔵(かぞう)のところへ乞食のような姿で転がり込みました。

 嘉兵衛が兵庫に出てきた頃は、まさに商品経済が盛な時代で、米や塩、干した海産物、酒、鉄、繊維を主として、多様な商品が日本を取り巻くように取引されていました。

    新酒番船で一番に

 兵庫港には樽廻船・菱垣廻船・北前船でにぎわい、嘉兵衛には驚き連続でした。貪欲に仕事を覚えました。

 寛政三年(1791)、嘉兵衛の乗りこんだ堺屋の樽廻船が、その年の「新酒番船」に出場して、みごと一番の栄誉をうけました。

 樽廻船としては、その年の最高の栄誉を獲得したのです。

 早春の太平洋は、まだ波が高く荒れています。

「新酒番船」とは、その年の新酒を樽廻船に積み江戸到着の順位を競い、一番はたいそう名誉なこととされました。

 嘉兵衛は、その船の事務長のような役割を果たしました。

 嘉兵衛の働く堺屋も北風家の傘下にありました。

 北風家は、嘉兵衛の将来を見込んで、兵庫港・北風家の名をあげるため、いろいろとしかけたようです。(no4570)

 *挿絵(嘉兵衛、淡路を抜けて兵庫港へ):マンガ『北海を翔ける男(クニ・トシロウ著)』(実業之日本社)より

 ◇きのう(8/27)の散歩(10.683歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(254) 近世の加印地域 高砂篇(53)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(24)・アラマキ鮭の発明

2018-08-27 09:20:04 | お爺さんが語る郷土の歴史

         蝦夷地(北海道)へ   

 江戸は、膨大な食欲を持つ消費都市であり、そこへ商品を運びこむというのが一番いいのですが、そこには菱垣廻船、樽廻船という株仲間が独占していました。

 そのため、松右衛門は「もうけ」のために、日本海、そして蝦夷地に乗り出しました。

 松右衛門帆は、蝦夷地(えぞち)との航海を容易にしました。

 松右衛門のように持船がすくなく、あたらしい商人には、既成の航路に割りことはむずかしく、松前(蝦夷地)へ行く商いの方がやりやすかったのです。

 松前の商品で最大のものは肥料用のニシン(干鰯・ほしか)で、この肥料が上方や播州などの作物としての木棉の生産を大いにふやしました。

 しかし、この商品は、株仲間が組織されていて、松右衛門のような新参が割りこめないし、割りこめても妙味が少なかったのです。

 そのため、北風荘右衛門は松右衛門に独立をすすめ、あつかう商品として、昆布と鮭をすすめました。

 松前から帰ってくる北前船の昆布を大量に上方に提供しました。

 昆布を料理のダシにつかい、昆布以前と昆布以後とでは、上方料理の味は大きく変わりました。

    松右衛門、アラマキ鮭 を発明

 さらに、松右衛門は、蝦夷地で一つの発明をしています。アラマキ鮭の発明です。

 松前(蝦夷地)から運ばれている鮭は塩鮭で、塩のかたまりを食っているようにからいものでしたが、松右衛門は松前で食った鮭の味がわすれられず、この風味をそのまま上方に届け用途考えました。

 かれは内臓やエラをのぞき、十分水洗いをしてから薄塩を加え、わらでつつんだのです。

 無論、このていどの塩では腐敗はふせげません。このアラマキ鮭だけのために早船を仕立てました。

 ハム、ソーセージ、鰹節などの食品の発明は、人々の生活に大きな影響をおよぼしたが、その発明者の名は知られていません。

 アラマキ鮭の発明者は、松右衛門であったことが記録として残っています。(no4569)

 *写真:アラマキ鮭

 ◇きのう(8/26)の散歩(11.814歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(273) 近世の加印地域 高砂篇(52)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(23)・商業を縛る株仲間

2018-08-26 09:32:25 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

   松右衛門帆(4)

       商業を縛る株仲間

 松右衛門は、松右衛門帆を独占し、個人的に利することをしませんでした。

 今回も『菜の花の沖』からの引用です。(文体は変えています)

 ・・・・

 それでも、松右衛門はいくばくかの金は得ました。

 「これで、鉛を乗りまわせる」と、松右衛門はよろこびました。

 廻船問屋は、そのきりもり(当主)が高度の能力を必要とするため、子孫が容易にそれを継げるというものではありません。

 松右衝門が少年のころ奉公した御影屋も先代の死後、能力不足で衰えていたため、帆でもうけた金でこの株をゆずってもらい、御影屋の当主になりました。

 当時、兵庫津には北国専門(北前船)の廻船問屋が13軒あり、幕法によってそれらが「株」として固定しており、勝手に新規開業することができなかったのです。

 「株仲間」が、大きな力を持ち威張っていました。

 それは、封建制度そのものといってもよいものでした。株仲間は新しい商人が入りこむことを、蹴落とす組織でした。

 幕府は、株仲間からの利益を吸い上げることのみに熱心で、変化を好まなかったのです。

 その株仲間も「蝦夷地」だけは。その組織が緩く、松右衛門はそこに目を付けたのです。

 松右衛門は、たちまち北国へ乗り出し、ついには松前まで行き商圏を確立しました。

 「わしは齢をとってから船持になった。このため、やりたいことを寿命とのかねあいで、いそぎやらねばならぬ」などといっていました。

 たしかに発明家としても航海業者としても、あるいは私費を投じての港湾築造者としても、松右衛門の活動はおもに50をすぎてからでした。(no4569)

 *挿絵:蝦夷地へ、孫(小4)が描いてくれました。

 ◇きのう(8/25)の散歩(11.525歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(272) 近世の加印地域 高砂篇(51)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(22)・ある日の会話

2018-08-25 08:38:03 | お爺さんが語る郷土の歴史

   

     松右衛門帆(3) ある日の会話

 ある日のことです。

 松右衛門は、北風家の別家の喜多二平とくつろいで話していました。

 以下は、勝手な想像で書いています。

 

 喜多二平:きのうは雨、きょうは風がきついですな。こんな日が続くと船も困りもんです。特に、帆が長持ちしまへん。

 松右衛門:そうですね。破れやすいし、それに水で腐りやすいし・・・・

 喜多二平:なんとかなりませんかね。

 松右衛門:太い糸で帆を織ったらどうでょう。

 わたしの故郷(高砂)は綿の産地です。 やってみます。

 

 こんな会話があったのでしょう。

 松右衛門の生まれた高砂辺りが、綿の生産が盛んな所でなかったら、さすがの松右衛門も「綿の太い糸で帆を織る」という発想は、生まれなかったことでしょう。

 加古川河口辺りの綿作について少し見ておきます。

       故郷は綿の生産地

 元禄十年(1697)に刊行された江戸時代の農書に『農業全書』があります。

 その中で、河内(かわち・大阪府)、和泉(いずみ、大阪府)、摂津、播磨、備後(広島県)の五ヵ国について、土地が肥沃で、綿を植えて、多大な利潤をあげたことを紹介しています。

 播州地方も、特にさかんだったのは現在の高砂・加古川市域の海岸部一帯の平野部でした。

 18世紀中ごろ、多くの村々の村明細帳(むらめいさいちょう)に綿作のことが記されるようになっています。

 畑作物として、多くの村々では綿が作付されており、それは幕末のころになっても変わっていません。

 田畑全体の50パーセントに作付される村が多く、畑にはほとんどすべて綿を植えるという村もあったほどです。

 特に、伊保崎村・荒井村(以上高砂)から別府村・池田村(以上加古川)一帯は木綿づくりが盛んで、文政期(1818~29)から幕末の頃の状況をみると、高砂の綿作付率は、畑で95.2%、全田畑面積に対しても40.1%でした。

 松右衛門は、こんな町の風景の中で少年期を過ごしました。(no4568)

 *挿絵:綿の実

 ◇きのう(8/24)の散歩(10.478歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(271) 近世の加印地域 高砂篇(50)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(21)・松右衛門帆でもうけよ

2018-08-24 10:42:50 | お爺さんが語る郷土の歴史

    松右衛門帆(2)  

      松右衛門帆でもうけよ

 この織りは、こんにちなお兵庫県の明石から加古川にかけての産業である厚織りやカンバス、ベルト生地の製造、あるいはゴムタイヤに入れる「すだれ織り」といったかたちで生きつづけています。

 松右衛帆について続けます。「松衛門帆で儲けよ

 かれは、この帆布の製作のために兵庫の佐比江に工場を設けたが、当時まだ沖船頭(雇われ船頭)でした。

 この資金は北風家、あるいはその別家の喜多家から出たのではないかと思われます。

 佐比江(さびえ)の工場では、船主や船頭が奪いあうようにして出来上がりを持ってゆくというぐあいで、生産が需要に追いつかないほどでした。

 かれは、むしろ積極的にこの技術を人に教え、帆布工場をつくることをすすめました。

 明石の前田藤兵衡という人物などは、いちはやく松右衛門から教えをうけて産をなしたといわれています。

 「金が欲しい者は、帆をつくれ」と、松右衛門はいってまわりました。

 このため弟子入りする者が多く、工場はにぎやかに稼働したが、独立してゆく者も多くいました。

 数年のうちに播州の明石、二見、加古川、阿閇(あえ)などで、それぞれ独立の工場が動きはじめ、西隣りの備前、備後までおよびました。

 この松右衛門帆は、これ以後の江戸時代を通じて用いられたばかりか、明治期までおよびました。

 ・・・・

 「人の一生はわずかなもんじゃ。わしはわが身を利することでこの世を送りとうはない」というのが松右衛門の口癖でした。

     復原された松右衛門帆でつくったカバン

 松右衛門帆でつくったカバンが欲しくなり、地元のグッズを販売している店に買いに出かけました。
 どれも高価で、安いカバンをえらんだのですが、それでも予算オーバー。
 でも、さすが松右衛門帆を復元しているだけあって、丈夫です。(no4567)

 *写真:復元された松右衛門(帆)で作られたカバン。(HPより)

 ◇きのう(8/23)の散歩(10.465歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(270) 近世の加印地域 高砂篇(49)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(20)・帆の改良

2018-08-23 07:52:20 | お爺さんが語る郷土の歴史

           松右衛門帆(1) 

 松右衛門を有名にしたのは、なんといっても、「松右衛門帆」の発明です。

 近世初期の帆はムシロ帆であり、17世紀後半に木綿の国産化により木綿帆が普及し船に利用されました。

 しかし、18世紀末までは厚い帆布を織ることができなかったので、強度を増すために、二・三枚重ねてさして、縫い合わせた剃帆(さしほ)でした。

剃帆(さしほ)は、縫合に時間と労力が必要であり、それでも強度は十分でなく破れやすい帆でした。

 松右衛門帆については『菜の花の沖』に詳しく説明されていますので、ここでも引用させていただきます。

       帆の改良

 「帆を改良しよう」と松右衛門が思いたったのは、中年をすぎてからである。

 彼は、北風家の別家の喜多二平家で話しこんでいたときに不意にヒントを得たらしい。

 幾度か試行錯誤をしたらしいが、「木綿布を幾枚も張りあわせるより、はじめから布を帆用に織ればよいではないか」と思い、ついに太い糸を撚(よ)ることに成功した。

 縦糸・横糸ともに直径一ミリ以上もあるほどの太い糸で、これをさらに撚り、新考案の織機(はた)にかけて織った。

 ・・・・できあがると、手ざわりのふわふわしたものであったが、帆としてつかうと保ちがよく、水切りもよく、性能はさし帆の及ぶところではなかった。

 かれのこの「織帆」の発明は、天明二年(1782)とも三年ともいわれる.

 ・・・・

 「松右衛門帆」とよばれたが、ふつう単に「松右衛門」とよばれた。

 さし帆より1.5倍ほど値が高かったが、たちまち船の世界を席捲(せっけん)してしまった。

 わずか7、8年のあいだに港にうかぶ大船はことごとく松右衛門帆を用いていた。

 その普及の速さはおどろくべきものであったといっていう。(以上『菜の花の沖(二)』より)(no4566)

  *写真:松右衛門帆でゆく北前舩

   ◇きのう(8/22)の散歩(10.640歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(269) 近世の加印地域 高砂篇(48)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(19)・松右衛門の発明

2018-08-22 09:18:19 | お爺さんが語る郷土の歴史

     松右衛門の発明

 松右衛門は、少年の頃から発明することが好きで、驚くほど多才な人物で多くの発明をしています。

 中でも彼の発明品としては、なんといっても船の帆「松右衛門帆」ですが、松右衛門帆については、次回紹介します。

    『農具便利論』にみる松右衛門の発明

 松右衛門の発明ついて『菜の花の沖』(司馬遼太郎)で、次のように書いています。(漢字等少し変えています)

 ・・・

 たとえば大船と大船の連絡用の快速艇を考案して「つばくろ船」と名づけたが、荒波をしのぐが便利なように潜水艦のような形をしている。

 彼が考案した船や道具のうち15点ばかりが、江戸後期の農学者大蔵永常(おおくらながつね・1768~?)の『農具便利論(三巻)』に鮮明な図付きともに掲載されている。

 轆轤(ろくろ)を用いて土砂取船、舷が戸のような開閉する土砂積船、海底をさらえるフォークのような刃の付いたジョレン、あるいは大がかりに海底をさらえる底捲船(そこまきぶね)、また水底に杭を打つ杭打船、石を運ぶ石積船、さらに巨岩を一個だけ水中にたらして運ぶ石釣船(図)、など20世紀後半の土木機械と原理的に似たものが多く、そのほとんどが松右衛門生存中に一・二の地方で実用化され、死後、ほろんだ。(以上『菜の花の沖』より)

     松右衛門の工夫

 松右衛門の発明は、当時の人々にかなりの程度知られていたテコを大型化し、滑車、浮力を組み合わせたものが多いが、知られていた原理や道具を組み合わせて異色の機具・道具をつくりだしています。

 これらの技術は、後に紹介したい箱館やシャナ(エトロフ島)の港づくり等で威力を発揮しました。(no4565)

 *大蔵永常(おおくら ながつね)・・・明和5年(1768~ ?) 江戸時代の農学者。宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の三大農学者の一人。

*図:松右衛門考案の石釣船(『農具便利論』大蔵永常より)

 ◇きのう(8/21)の散歩(10.642歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(268) 近世の加印地域 高砂篇(47)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(18)・筏で木材を江戸へ運ぶ

2018-08-21 09:25:03 | お爺さんが語る郷土の歴史

       筏(いかだ)で材木を江戸へ運ぶ

 松右衛門は、兵庫港の「御影屋」という廻船問屋で水主(かこ・船乗)をしており、ずいぶん北風家の世話になっていました。

 そこで船乗りとしての知識や技術、そして商(あきない)の仕法を覚えました。

 北風家は、松右衛門をずいぶん可愛がり援助をしたようです。もちろん、彼もそれに応えました。

 松右衛門が筏(いかだ)で材木を運んだということも、まず北風家から出た話であろうと思われます。

 誰も考えつかないようなことを行わせ、一挙に「兵庫港と松右衛門」と宣伝したのです。

 *『風を編む 海をつなぐ(高砂市教育委員会)』から引用させていただきますが、一部書き変えています。

 ・・・・

 彼が30才のころ、姫路藩から頼まれて秋田から材木を運ぶことになりました。

 しかし、当時大きな材木を積むことのできる船はありません。

 秋田の商人から工夫を頼まれた松右衛門は、材木を筏に組んで、それに帆と舵(かじ)をとりつけることを思いついたのです。

 木材の運搬を頼まれたのは、北風家であったのでしょうが、松右衛門を見込んでの事だった思われます。

 ・・・・

 筏(いかだ)は、基本的に船と同じ機能を持っています。

 この筏船で、秋田から大坂まで航海をしました。寄港する先々で「めずらしい船が来た」と注目を集めました。

 この方式で姫路から江戸まで丸太五本を運んだとき、松右衛門は「姫路の五本丸太」という大旗を掲げて航行しました。

 江戸に着いた時には多くの見物人で大騒ぎになり、この事が姫路藩と松右衛門の名を世に広めました。

 このようにして、松右衛門は船頭としての評判がたかまりました。(no4564)

 *挿絵:マンガ『北海を翔ける男(クニトシロウ著)』(実業之日本社)より

 ◇きのう(8/20)の散歩(11.193歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(267) 近世の加印地域 高砂篇(46)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(17)・迷信

2018-08-20 08:40:33 | お爺さんが語る郷土の歴史

        迷 信

 松右衛門が、すぐれた船頭であることを示すエピソードを『風を編む 海をつなぐ』(高砂教育委員会)から一部をお借りします。

   ・・・

 松右衛門、24才のときのことでした。

 松右衛門は讃岐(現在の香川県)へ通う船の船頭となっていました。

 その当時、おおみそかの夜に船を出すと災難にあうという言い伝えがあり、おおみそかの夜に航海する者はいませんでした。

 言い伝えを信じていなかった松右衛門は、おびえる水主(かこ)たちを説得してその夜出港しました。

 夜の海を航海していると、水主たちが騒ぎだしました。「山のような波が押し寄せてきた」というのです。

 それを聞いて船首で海の様子を見た松右衛門は、「山があれば谷がある。谷に向かって進め」と命じました。

 水主たちは谷を見つけ、力を合わせて船を進めました。

 すると目の前から山は消えました。

 松右衛門には最初からこの「山のようなたくさんの波」は見えませんでした。

 「言い伝えを信じおびえていた水主たちにはそのように見えた」というのが、実際のようでした。

 松右衛門は合理的に物事を考える人でした。

 おおみそかの夜に災難が起きると言われているのは本当なのか、そうだとすればそれはどうしてか。松右衛門はそれを確かめたかったのです。

 いざ海に出てみると、言い伝えには根拠がないことがわかりました。

 ただ、言い伝えを信じこんでいる水主たちには「山などない」と否定せず、「谷を行け」と命じたのです。

 松右衛門自身も山が見えたということにしておいた方が、同じ船に乗る者の気持ちが一つになると考えたからです。

 松右衛門は水主たちの気持ちを考えつつ、船を進めるため号令をかけました。

 彼の言葉により船は無事にすすみ、水主たちは冷静さをとりもどしました。(以上『風を編む 海をつなぐ』より)

    松右衛門の考えの源は?

 以上はエピソードですが、松右衛門はすべてに合理的に考える人物でした。

 松右衛門の船頭として優れたリーダーシップはともかく、彼の迷信を信じない合理的な考えは経験から得ただけとも思えません。

 兵庫港・高砂の商業活動から合理的な態度を身につけていたのでしょう。(no4563)

 *『風を編む 海をつなぐ』参照

 *挿絵:yukiko

◇きのう(8/10)の散歩(11.685歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(266) 近世の加印地域 高砂篇(45)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(16)・兵庫港、天領となり一時衰弱

2018-08-19 09:05:57 | お爺さんが語る郷土の歴史

          兵庫港、天領となり一時衰弱

 『播磨灘物語』を読んでみます。(文体を変えています)

 ・・・こんにち「阪神間」とよばれている地域は、江戸時代の中期、噴煙を噴きあげるような勢いで商業がさかんになりました。

 特に、尼崎藩は、藩の産業を保護し、特に兵庫港を繁盛させることに力を尽くしました。

 しかし、幕府はこの地の商業活動が盛んなのを見て、明和6年(1769)にここを取り上げ、天領(幕府の直轄地)としました。

 が、幕府は兵庫港の政策(運営の方針・みとうし)を少しも持ちませんでした。

繁盛しているところから運上金(うんじょうきん:税金)を取りたてると言うだけでした。

 そのため、あれほど栄えていた兵庫問屋は軒なみ衰えていきました。

 北風荘右衛門(きたかぜそうえもん)が34・5才のときでした。

 彼はまず同業の問屋に、兵庫港の復活を呼びかけました。

 北風家は大打撃を受けていましたが、それを回復したのは、北風家が船を蝦夷地(北海道)へ仕立てて、その物産を兵庫に運んで売りさばいたからです。

 莫大な利益がありました。

 十年にして、ようやく兵庫の商権と賑わいを取りもどしました。

 以後、兵庫港では、北風家の競争相手はいなくなりました。

 そして、「兵庫の北風家か、北風家の兵庫か」と呼ばれるまでになりました。 (no4562)

 *絵:兵庫港:孫(小4)が書いてくれました。

 ◇きのう(8/18)の散歩(10.544歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(265) 近世の加印地域 高砂篇(44)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(15)・北風家の祖先

2018-08-18 08:33:46 | お爺さんが語る郷土の歴史

     北風家(3)

 北風家の先祖の話です。

    北風家の祖先:南朝の味方

            そして荒木村重の家臣に

 北風家の先祖は、南北朝時代(1329~40)に南朝方に仕えた摂津の豪族であったといいます。

 南朝が衰えた時期の前後、同地(現在の阪神間)で勢力を持っていたようです。

 その後、織田信長の時代、摂津の大名になった荒木村重(あらきむらしげ)に味方しました。

 村重は有岡城(伊丹城)を居城としました。

 しかし、信長に対する謀反で村重は敗北。家来は逃げ出しました。

 この時、北風家の先祖は武士を廃業して、海運業をもとにした問屋を兵庫で起こしたのです。

 北風家は、廻船問屋として富を為しました。

 常に順調に発展したのではなかったようです。

   余話として:荒木村重の家臣は逃亡!

 以前「黒田官兵衛」で、伊丹城落城と城兵の逃亡に書いています。余話として紹介しまおきます。

 この逃亡した城兵の中に北風荘右衛門の祖先はいたらしいのです。

    有岡(伊丹)城、落城

 荒木村重が、信長に謀反をおこして、有岡城に籠ってから一年近くになろうとしていました。

 謀反にふみきったとき、彼の脳裏には、荒波をけたてて東へと進み来る毛利の援軍の勇姿がありました。

 しかし、最初から計算がまちがっていました。

 毛利が織田軍に勝利をするとなると、少なくとも兵力において信長軍をこえる七万を必要としました。

 しかし、毛利の援軍は船でした。一合戦のために送ることのできる兵力はせいぜい三千であり、この兵力では、勝負になりません。

 それでも村重は、毛利の援軍をまっじっとまちました。

  (援軍はこない)

 天正七年(1579)八月という月ほど村重にとってつらい月はありませんでした。

 八月も終わりになると「毛利はこない」ということがはっきりしてきました。

 重臣たちも「どうなさるおつもりか・・・」と村重に問いつめるのですが、「援軍は必ず来る」というばかりでした。

  捨てられた女・子どもたち、そして村重の逃亡

 家臣の中にも「村重を殺して、その首をみやげに織田方へ走る」という雰囲気もでてきました。

 村重は極度に恐れ、この恐怖の中で、村重は常の心をなくしたのか、九月二日の夜、城を抜け出してして、尼崎城に籠ってしまいました。

 それでも、落城が十一月十九日であるから、村重が城から消えて、なお二ヵ月以上戦いはだらだらと続きました。

 十一月十九日、伊丹城の城代・荒木久左衛門以下数人が城から出てきました。

 続いて丸腰の城兵がぞろぞろ出てきました。が、女・子どもは一人もいません。

 女・子どもたちは、人質でした。

 彼らは尼崎城へむかました。

 しかし、尼崎城に籠った村重は、久左衛門たちに会うことを拒否しました。城門は、開きません。 

 家臣たちは、城門の前で必死に城主・村重の名を叫び続けました。

 その日の夕日を司馬氏は『播磨灘物語』で、次のように書いています。

 「・・・落日というのは、壮観というほかない、はるか明石海峡の方角にあって、淡路の島影は紫に染まり、沖が銀色に輝いて、その中を熟れきった太陽が音をたてるように落ちてゆくのである」と。

 説得は失敗でした。このまま帰れば、彼らには死がまっています。

 途中、久左衛門たちも「殺される」という恐怖に勝てなかったのか、有岡城に妻・子どもを残したまま、すべての者が消えたのです。

 信長は、このことを許しませんでした。

 その後、待っていたのは、女(妻)たちの磔刑でした。100人を超えました。

 子ども・小者は500人以上焼き殺されました。そして、京都の人質はすべて切られました。

 ・・・

 その後、荒木村重は、尼崎城を脱出し行方が知れなくなったのです。(no4561)

 *挿絵・荒木村重(『太平記英雄伝・27』:歌川国芳筆)

 ◇きのう(8/17)の散歩(11.333歩)

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