以下の「原村(現:志方町西志方)の一件」は、村の木を切るにも役所の許可がいる、厳しい社会でありながら、規則がガタガタと壊れている時代のようすが分かります。
また、厳しい処分をしなければならない支配者のあせりのようなものを感じる事件です。
無届けで、村の松の木を伐採
原村の山王神社境内に目の高さのところで、周囲が三尺五寸の大木が、そして同村の弁財天でも周りが三尺もある松の木が、六月二十九日の大風の時、根が浮き上がり、役所へ掘り起こしの許可を願い出ておりました。
村での相談の結果、二本の松の木は村が買い受け、仏性寺の修繕の用材に使うことになりました。
私(大庄屋)が、姫路へ御用のため出かけている八月六日の事でした。
村の六右衛門・孫右衛門・多七郎・彦兵衛・安兵衛・佐兵衛・三右衛門・佐助・与惣太夫・久七・八兵衛・久米右衛門の十二名の者と組頭・小兵衛が立ち会って、二本の松の木を切り倒してしまいました。
そして、枝葉は、参加した十二名の酒代として貰いたいと組頭に申し出ました。
組頭は「この二本の松は、村が買い取ったものであり枝葉といえども勝手にできない・・・」と十二名の者に言い聞かせました。
みなの者も一たんは承知したようでした。
ところが、組頭の小兵衛が昼飯に帰っている間に十二名は枝葉をとり散らかして処分をしていました。
注意したところ、十二名の者は不平を申し口論となっていました。
私も帰宅し、双方の者を呼びだし、「この松の処分の許可は出ていない間にこのような行いは誠に不埒なことである」と言い伝えました。
先だって、村方で相談済である思っていたようであるが不行き届きでした。
元来は、大庄屋の私に相談して役所に届け、その後に許可があり処置するのが本来ですが、全く申し訳ございませんでした。
組頭・小兵衛は代官様より退役を仰せつけられました。
もっとも、この退役は許可なく木を切り倒したことにあるのではなく、村の者と金銭
関係の不都合な処置で退役を仰せつけられたのです。
文化六年(1809)二月 西牧組原庄屋 吉左衛門 ?
大庄屋 内海太左衛門
宗門御奉行所アテ
小兵衛は現在無役の者ですが、村方まで心得違いを起こしましたことをお詫びも仕上げます。