飛行場跡に残る「陸軍境界杭」
太平洋戦争中(1941~1945)の稲美町域は神戸や明石などの臨海部のような空襲による被害をほとんど受けませんでした。
しかし、戦争末期の昭和20年(1945)草谷相野地区から三木市別所まちの辺りに面積約2km2の陸軍飛行場がつくられました。
これが「三木(相野)飛行場」です。
飛行場周辺では昭和20年3月から連日のようにアメリカ軍艦載機の機銃掃射を受けるようになり、飛行場に駐屯していた軍人に戦死者がありました。
その攻撃は草谷や下草谷の集落にも及び、作業中にあわてて橋の下へ逃げ込んだという人もありました。
民間人に死者・重傷者がなかったそうですが、家屋が損壊する被害がありました。
稲美町内に、今も12本が残る
三木(相野)飛行場の建設当時、陸軍は飛行場用地として買い上げた土地の周囲に写真のような杭を約130建て、軍用地の境界としました。
地元では「陸軍の境界杭」と呼ばれています。
杭の表には「陸軍」の文字が、裏面にはおそらく「1」から「130」くらいのアラビア数字が一つずつ刻まれていたようです。
今でも飛行場跡地周辺の藪の中には、このような杭がかなり残っており、稲美町内だけでも12本残っています。
*以上は、「稲美町郷土資料館」の入口にあるに説明です。
学芸員の藤戸翼氏が調査され、12本の杭を確認されています。
先日、杭について教えていただきました。
写真は、藤戸氏に教えていただいた場所の一か所(草谷のリトルリーグの球場の東の繁み)で撮影したものです。