ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(456):相野飛行場⑧・陸軍境界杭

2011-04-06 08:25:18 |  ・相野飛行場

   

   飛行場跡に残る「陸軍境界杭」

004  太平洋戦争中(19411945)の稲美町域は神戸や明石などの臨海部のような空襲による被害をほとんど受けませんでした。

しかし、戦争末期の昭和20年(1945)草谷相野地区から三木市別所まちの辺りに面積約2kmの陸軍飛行場がつくられました。

これが「三木(相野)飛行場」です。

飛行場周辺では昭和20年3月から連日のようにアメリカ軍艦載機の機銃掃射を受けるようになり、飛行場に駐屯していた軍人に戦死者がありました。

その攻撃は草谷や下草谷の集落にも及び、作業中にあわてて橋の下へ逃げ込んだという人もありました。

民間人に死者・重傷者がなかったそうですが、家屋が損壊する被害がありました。

    

   稲美町内に、今も12本が残る

三木(相野)飛行場の建設当時、陸軍は飛行場用地として買い上げた土地の周囲に写真のような杭を約130建て、軍用地の境界としました。

地元では「陸軍の境界杭」と呼ばれています。

杭の表には「陸軍」の文字が、裏面にはおそらく「1」から「130」くらいのアラビア数字が一つずつ刻まれていたようです。

今でも飛行場跡地周辺の藪の中には、このような杭がかなり残っており、稲美町内だけでも12本残っています。

*以上は、「稲美町郷土資料館」の入口にあるに説明です。

 学芸員の藤戸翼氏が調査され、12本の杭を確認されています。

 先日、杭について教えていただきました。

 写真は、藤戸氏に教えていただいた場所の一か所(草谷のリトルリーグの球場の東の繁み)で撮影したものです。 

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稲美町探訪(455):相野飛行場⑦・現在の相野飛行場跡

2011-04-05 08:44:41 |  ・相野飛行場

 

神戸新聞の「コラム(正平調)」(2011122)に、稲美町の名産の「蒸し干しダイコン」を取り上げています。

その一部を紹介します。

「・・・(蒸し干しダイコンの)

起源を聞き歩いたが、はっきりしない。

隣接する三木市にあった相野飛行場が戦後、払い下げられ、開拓に入った人が製法を伝えたとの説を聞いた。

飛行場跡には当時、ため池がなく、米作は難しかった。

栄養価の高い保存食として、神戸港に入る船員が買いに来たとも。

いずれにせよ稲美の風土に合って郷土食となった。地元では学校給食にも出る。

農協の直売店に行けば買える。ただし生産者は減り続けている。切るのも干すのも、すべて手作業だ。厳寒期の重労働は高齢化が進む農家にはきつい。・・・」

     

現在の相野飛行場跡 

021_2現在、飛行場跡は戦後の入植者により造られ多くの田畑が広がっています。

滑走路は、精密に測量され高低差のないものではなく、西に若干低い勾配を持った土を固めただけの滑走路でした。

とはいうものの、飛行場です。平らな広大な土地です。

滑走路がコンクリートでなかったため、農地にもどすことは比較的簡単なことと思われますが、肝心の池が壊されていましたので、肝心の水がありません。

土地はまたたくまに雑草が生え荒れ地になってしまいました。

そんな水の少ない荒れ地であったため、まともな収穫は期待されませんでした。

コラムの「蒸し干しダイコン」の起源の真偽はともかく、そんな状況の中から伝えられた話でしょう。

昭和38年の航空写真で「中央池」は確認できます。(昭和36年の写真では「中央池」はありません)

ですから、戦後も178年がたち中央池が造られ、飛行場跡は農地として再開発が急速に進んでいったのでしょう。

現在は、郊外型の多くの工場(写真:中央池の堤から西を撮影)が立ち並び、大型のトラックがかつての飛行場跡を行き交っています。

*この「相野飛行場①~⑥」の内容は、『三木(相野)飛行場に関する調査』(丸尾嘉宏著)をお借りしました。

 今後、丸尾氏の研究を基礎に、深めてゆきたいと考えています。

 相野飛行場についてのお話を聞かせてください。そして写真等をおもちの方はご一報ください。

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稲美町探訪(454):相野飛行場⑥・相野飛行場の戦後

2011-04-04 07:36:55 |  ・相野飛行場

    

敗 戦

10ff0575昭和20815日、戦争は終わりました。

放送は、日本の敗戦を伝えました。

この放送を聞き、相野飛行場の監督をしていた軍人は割腹自殺をしました。

軍隊は解散させられ、飛行場は連合軍(GHQ)の占領下に入りました。

この時、兵舎に残っていた兵隊の使い古しの毛布などが地域住民に配られました。

物資不足の時代で、多くの人々が詰めかけたといいます。

飛行場の警備は、昼間は米軍があたり、夜間は地元の消防団が担当しました。

物資不足の時代であり、倉庫に忍び込んで盗みを働く人もいました。

盗みに入った男性一人が射殺されたそうです。

   

相野飛行場の戦後 

翌年には農地改革により、飛行場にも開拓者が入るようになり、建造物は取り壊され米軍も立ち退きました。

この頃、戦地から引き揚げてきた人の話によると、飛行場跡地は、だだっ広い雑草の生えるにまかせた荒れ地になっていたそうです。

池も水路も埋め立てられていました。

水がありません。

この荒れ地を再び農地として利用するには、非常な努力を要したのは言うまでもありません。

飯場にいた朝鮮・韓国人は戦後10年ほど、そのまま残った人もいましたが、下草谷に家を構えて稲美町に住んだ人もいました。

*『三木(相野)飛行場に関する調査(丸尾嘉宏著)』より

◇地図・飛行場とその周辺◇

地図は、丸尾嘉宏さんの聞き取り調査により作成されたものです。

地図は拡大してご覧ください。(ダブルクリックすると拡大します)

地図中の数字は次の施設等です。

   滑走路  ⑦飯場1

   格納庫  ⑧飯場2

   整備場  ⑨境界の杭1

   炊事場  ⑩境界の杭2

   事務所  ⑪別所小学校(旧国民学校)

   兵舎

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稲美町探訪(453):相野飛行場⑤・特攻基地、そして空襲

2011-04-03 16:29:50 |  ・相野飛行場

   

特攻基地となる

013昭和20年(19451月に飛行場は一応の完成をみました。

練習機が上空を舞うようになりました。

しかし、滑走路が土であったために、雨の後の飛行では、車輪が土に埋もれてしまうこともしばしばありました。

飛行訓練も難しかったようです。

また、飛行機の数がすくなく、羽が絹張りのものまで現れるようになりました。

戦争の激化により、日本各地で神風特攻隊として若者が出撃していく中で、相野飛行場も特攻隊の中継基地となりました。

彼らは燃料を補給し、2日ほど休養した後、帰らぬ旅に出撃しました。

    

空 襲

近隣の神戸市・明石市では空襲がはげしくなりました。

相野飛行場や周辺でも米軍の襲撃がはじまり、昭和203月頃から連日、艦載機による機銃掃射をうけるようになりました。

母里国民学校に設置された空襲警報は連日のように鳴り響き、飛行場付近の住民は不安な生活を送るようになりました。

防空壕も多く掘られ、住民は警報が鳴ると、夜間でも壕へ逃げ込みました。

壕まで逃げ込む時間がない時は、近くを流れる草谷川の橋の下に身を隠しました。

連日の空襲にもかかわらず、飛行場周辺で死者も、大けがをした者も出なかったのは幸いでした。

飛行場では空襲に備え、数少ない飛行機を守るために林の中に隠しました。

また、飛行場では空襲警報が発令されると、勤労奉仕者の飛行場整備は中断され、兵隊が艦載機の襲来に備え銃を構えました。

が、銃の飛距離は短く、敵機まで弾が届きませんでした。

このような状況は続きましたが、7月格納庫が爆破されました。

*『三木(相野)飛行場に関する調査』(丸尾嘉宏著)』より、(文章は少し変えています)

◇写真◇

丸尾嘉宏氏が整備場跡を訪れた時(平成81010)には、当時のコンクリートがそのまま残されていたようですが、現在(平成234)、そこは整備され資材置き場となっています。

ただ、その辺りの民家横の作業場の隅には、写真のような施設の一部分と想像される大きなコンクリート片が残されています。

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稲美町探訪(452):相野飛行場④・滑走路は完成したが!

2011-04-02 15:37:22 |  ・相野飛行場

 滑走路は完成したが!

005 昭和19年、飛行場建設の工事は急ピッチで工進み、滑走路、格納庫、飛行機の整備場、それに兵舎、炊事場、軍の事務所などが次々と造られました。

整備場には格納庫に入りきらない飛行機がとめてあり、給油・整備が行われました。整備場で、ボロぎれで飛行機を拭く作業は主に女性により行われたようです。

格納庫や整備場に用いられるコンクリートは、ミキサーが不足していたため、鉄板上でセメントや砂などをスコップでかき混ぜるという手作業でした。

格納庫は、鉄がないため鉄骨ではなく木造でした。

兵舎も木造で、炊事場はレンガ造りでした。

そして、肝心の滑走路は、材料と時間がなかったためかコンクリートで舗装されず、土を固めただけでした。

このようにして、昭和201月には、若干、東が高く、西へ低いながらも飛行場は一応の完成をみました。

完全な完成ではなく、その後も使用しながら飛行場建設は続けられました。

滑走路は、現在田畑や道路となりその面影は残っていません。

再度、地図で確かめてください。

現在、滑走路のあった場所に沿ってまっすぐに道が伸びています。

当時の滑走路の姿が目に浮かぶようです。

写真は、中央池の北の道で滑走路に沿って伸びています。土手は四角形の中央池の北面の土手です。

*今日の報告も『三木(相野)飛行場に関する調査』(丸尾嘉宏著)をお借りしました。

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稲美町探訪(451):相野飛行場③・勤労奉仕

2011-04-02 07:50:23 |  ・相野飛行場

◇お願い◇

写真は、相野飛行場建設とは全く関係のない別の写真です。ある工事の人海作戦の写真です。

『稲美町史』では、相野飛行場についての記述がありません。

でも、ぜひ伝えておかねばならない歴史です。写真等がございましたら一報ください。

   母里小学校の生徒も勤労奉仕

F31a91ed昭和192月の中ごろより、飛行場建設計画は山林の伐採作業から始まりました。

3月には測量や起伏のある土地を平にならす作業が始まりました。

これらの労働には近隣府県の出身者が、バラック小屋に泊まりこんでの勤労奉仕や近隣の市町村や地元からの勤労奉仕で行われました。

近隣からの勤労奉仕の人々は、手弁当で自転車などによる通いが普通でした。

炊き出しなど、婦人会の勤労奉仕もありました。

女生徒は、お茶を出したり、お菓子の準備など婦人会の補佐を行いました。

炊き出し以外でも男手の不足から、多くの女性が現場の作業についています。

旧制中学や母里国民学校(現稲美町立母里小学校)の生徒・児童による勤労奉仕もありました。

当時の母里国民学校では4年生以上の児童が、朝いったん登校してから約3キロの道を歩いて建設現場まで行き、石拾いなどの作業を行いました。

     朝鮮人労働も

 その外、大きな労働力として韓国・朝鮮の人の労働がありました。

Iさんの話では、これら韓国・朝鮮人の労働者は下草谷地区の「おはやし」と呼ばれる小屋で寝泊まりしていたということです。

作業にあたった監督の軍人は、一般の労働者とは待遇が異なり、一般の民家にとまっていました。

     すべては人海戦術で

工事前にあった池の土手が取り払われ、池や谷地が埋められました。

谷地を埋める土砂は不足し、嵩(かさ)あげのために伐採された木材が土砂とともに谷地に埋められました。

そのために、相野地区では一部その木材が腐り低くなっている場所があります。

これらの作業は人海戦術で行われ、ショベル・つるはし・備中鍬・モッコなどが使われました。ショベルカーやブルドーザーなどは使われていません。

土砂運搬用の大きなトロッコが数台あっただけでした。

重いものを運ぶためにはもっぱら人の手により、労働者の肩からは血がにじむほどでした。

困難な作業でしたが、工事は進み、夏には山林伐採作業は終了しました。

これらの奉仕作業には、わずかな日当がはらわれています。

当時、1516歳だったIさんは、日に150銭をもらったそうです。

*本号の報告の内容は、ほとんど『三木(相野)飛行場に関する調査』(丸尾嘉宏著)を使わせていただきました。

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稲美町探訪(450):相野飛行場②・飛行場滑走路

2011-04-01 16:01:56 |  ・相野飛行場

Ebbb9481 昭和192月初めのころ、相野の地主は突如陸軍から集められ、その時初めて飛行場建設の話を耳にしました。

そして、1ヵ月以内に立ち退くよう、命令が出されました。

相手は「なく子も黙る陸軍」です。

命令は絶対的で、土地の買収も強制的に行われました。

母里村・別所村(三木市)、あわわせて30戸、寺1、ため池7、それに多くの田畑・山林で、面積にすると19953歩(約197ヘクタール)でした。

それが、445818円で買い上げられました。

212日に山林伐採から飛行場建設が始まりました。

    相野飛行場滑走路

もう一度、地図で相野飛行場の場所を確認ください。

(地図は、ダブルクリックすると拡大します)

地図は国土地理院の50.000分の1の地図(平成9年)です。

天満大池が目印になり、だいたいの場所はお分かりになると思います。

その地図上に「旧飛行場」の文字を見つけてください。

010_2そして、赤く塗りつぶした部分をご覧ください。

この部分は、「中央池」を挟んで、左上から南東に短冊のように伸びた地形です。

一目でわかると思いますが、ここは、かつての飛行場の滑走路に当たる部分です。

中央池の北の道を歩いてみました。

他の台地上の田畑とは異なり、バリアフリー状とはいかないまでも起伏がすくないのです。

まさしく、ここに飛行場の滑走路があったことがわかります。

写真は、中央池の土手から北西方向の風景を撮った写真です。

なお、中央池の北側の道の一部は、現在稲美町と三木市の境界ともなっています。

中央池は、三木市に属しています。

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稲美町探訪(449):相野飛行場①、飛行場はどこに?

2011-03-31 07:51:37 |  ・相野飛行場

B3f53ce2稲美町には戦時中、陸軍の飛行場がありました。

この飛行場については、人々の記憶から徐々に忘れ去られようとしています。

丸尾嘉宏氏は、「三木(相野)飛行場に関する調査」と題して稲美町にあった「三木(相野)飛行場」についてHPで報告されておられます。

「稲美町探訪」でもぜひ紹介したい研究です。

まず、丸尾氏の研究を紹介し、多くの方々から資料をお借りし、お話を集めさらに稲美町の戦争の歴史を掘り起こしたいと考えています。

今日はその一回「相野飛行場」の位置についての報告です。

*稲美町のほとんどの方はこの飛行場を「相野飛行場」と呼んでおられます。このシリーズでも「相野飛行場」として話を進めます。

     

稲美町の飛行場はどこに? 

二枚の地図をご覧ください。場所はおわかりになるでしょうか。

 (*地図はダブルクリックすると拡大します)

稲美町にお住まいでない方には少しわかりにくいと思います。

地図について少し説明します。

もうすぐ、桜の季節です。稲美町にはサクラで有名な「桜の森公園」があります。

そこから少し西へ行くと下草谷集落の愛宕神社があります。

愛宕神社の辺りは、急な坂になっていますが、その坂を上がるとすぐに平らな台地上に出ます。

台地というのは高い所にある比較的平坦な土地のことですが、それにしても「まっ平」な地形です。

このあたりの地形については、次号で散策してみましょう。

     

地図を見る

45144095まず上の地図を見てください。昭和22年の地図です。

「飛行場跡(右から書いてあります)」を赤く囲んでおきました。

ここに戦時中、「相野飛行場」が稲美町と三木市にまたがって建設されました。

下の地図は大正12年の測量で、上の地図とほとんど同じ範囲の地図です。

大正12年の地図には「飛行場跡」の場所には多くの池がありあます。

飛行場は、これらの池を埋め立て飛行場としたようです。

丸尾氏の調査によれば、戦前、ここには米(ごく少量)や野菜と共にタバコなどが栽培されていたそうです。

さらに丸尾氏の研究を続けます。

戦火が強くなり始めた昭和192月初めのころ、ここの土地を所有していた人々が、突如陸軍から召集がかかりました。

「その時、初めて飛行場建設の話を耳にした」といいます。

そして、1ヵ月の猶予と共に立ち退きの命令がだされました。

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