ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町寺家町探検(31) 中村旅館・最後の夜

2021-03-31 08:11:56 | 加古川町寺家町探検

      中村旅館・最後の夜

 加古川飛行場(加古川市尾上町)に降り立った特攻隊員は、最後の夜を中村旅館(県道小野線の国道2号線と寺家町商店街の中ほどで、道路の西側)ですごしました。

 中村旅館は、戦時中陸軍の指定旅館でした。

 現在は、更地になっています。

 加古川から知覧(ちらん・鹿児島県)へ飛び、そこから特攻に出撃しました。

 *海軍の特攻は鹿屋から出撃しました。

 特攻隊員にとって、中村旅館の夜は、最後の安息の場所でした。

 その夜、特攻隊員は、お互いに、何を話たりあったのでしょう。・・・

 当時の様子を知るUさんの話では、「特攻の話などは全くなく、不思議なほどでした」と話しておられました。

 隊員たちは、遺品を残されています。

 写真の「断」とかかれた血染めの書もその一つです。

 誰かに宛てた書ではありません。

 「断」は、何からの断であったのでしょう。

 この世からの「断」であったのでしょうか。

 家族、あるいは恋しい人からの断であったのでしょうか。

 すべてからの「断」であったのでしょう。

 最後に書いた「断」は、彼の足跡をとどめています。(no5041)

 *特攻隊員の多くの遺品は、現在、鶴林寺で保存されています。

 *写真:特攻の碑(現在、鶴林寺)と特攻隊員の書いた「血染めの書」

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探検(30) 寺家町の一里塚の場所判明

2021-03-30 10:09:23 | 加古川町寺家町探検

       寺家町の一里塚の場所判明

 慶応2年の寺家町を描いた地図をご覧ください。

 寺家町商店街(西国街道)です。

 右(東)方に一里塚があります。



      門松は 冥土の旅の 一里塚

      めでたくもあり めでたくもなし



 これは一休さんの作だといわれています。でも、一休さんが生きた時代(13921481)には、一里塚はつくられていません。したがって、この狂歌は江戸時代の他の人の作品です。

 一里塚は慶長9年(1604)、二代将軍・秀忠が日本橋を起点として街道筋につくらせてから、次第に全国に広がりました。

 一里塚は、普通周囲が五間、高さ一丈の土を盛り上げ、そして目印に榎や松が植えられた。兵庫県の一里塚は、ほとんど松が植えられました。

 加古川市寺家町にあった一里塚は、いつの頃まであったのか、また正確な場所は分かっていませんでした。

 歴史学者の中村和男氏は、寺家町にあった一里塚のあった場所を確定されました。

 詳細については『神戸と歴史(58巻第3号)』の中村氏の論文をお読みください。

 一里塚のあったのは、現在、携帯電話の販売会社(ソフトバンク)が置かれているところと、「かご屋(食堂)」の場所です。(no5040

 *写真:一里塚があった場所(ソフトバンクとその向かいの食堂、かご屋)

  地図:一里塚の場所を示す古地図 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探検(29) 居屋河原日岡神社

2021-03-29 07:28:01 | 加古川町寺家町探検

       居屋河原日岡神社 

 加古川地域の地名を研究されていた石見完治(いわみかんじ)さん(故人)は、著書 『古地名新解』で、居屋河原(いやがわら)について、次のように「いつの頃か、はっきりしませんが、日岡山に神社がなかった昔、居屋河原(いやがわら)のこの地初めて宮を建てて、九州の「日向はん」をお迎えして祀りました。

 そして、神武天皇がここに祖神を祀り、礼(禮「いや」)をつくして、この神を崇められたので「禮ヶ原(いやがはら)」という」という地名伝承を紹介されています。

 なお、江戸時代、日岡神社は「日向(ひゅうが)神社」であり、日岡神社と呼ばれるようになったのは、明治の初めのころです。

 「居屋河原神社は、現在の日岡神社発祥の神社ではないか」とも想像されます。

 *神武天皇:日本の初代の天皇、実在の天皇ではなく伝説上の天皇です。

 なお、居屋河原日岡神社については、池田吉弘さんが『Kako-style2』 で紹介しておられるので、お借りしました。(『Kako-style2文:池田吉弘氏』より)

        居屋河原日岡神社は、

           日岡神社の境内にある大鳥居神社

 正式名は「居屋河原日岡神社」といい、昭和46 (1971)1月まで、現在の播州信用金庫加古川支店と大鳥居会館にあたる場所に建っていました。

 昭和44(1969)年に日岡神社が焼失し、その2年後の再建に伴って、大鳥居神社は、日岡神社と合併して現在の場所に。

 日岡神社の兄弟宮とされていたため、他の境内社の中でも別格扱いされており、本殿は小さいながらも格式の高さが窺えます。

 かつて神社があった居屋河原は、旧街道に面しており、江戸時代の参勤交代で諸国の大名が通るのに、鳥居があったため 一旦、馬を降りなければならず、将軍が鳥居を移転させたという話も伝えられています。[取材/池田吉弘]no5039

 *写真:移転前の居屋河原日岡神社

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探訪(28) 加古川ナンバーワンの大イチョウ ・ 龍泉寺(現:平野)のふるさと    

2021-03-28 08:24:12 | 加古川町寺家町探検

  加古川ナンバーワンの大イチョウ

     ここは、龍泉寺(現:平野)のふるさと

 この大神宮とイチョウの木について『Kako-Style2』に、ありますので一部をお借りします。

 (大神宮は)、JRの車窓からも見え、ニッケ加古川工場内にある、小さな神社「大神宮」です。

 樹齢約360年といわれる幹周り約4m85㎝のイチョウを御神木に、神明造りの社殿を持つ大神宮は、加古川工場設立と同じ明治32(1899)年に、会社の社運の繁栄と工場の安全・参拝者への加護を祈念して創建されました。

 いわば加古川の二ッケ工場を見守る存在でした。

 伊勢神宮より、天照大神の御分霊をいただく氏神の泊神社(加古川町木村)の分霊が祭神として祀られています。

 少しだけ付け加えておきます。大神宮のイチョウの木は、もともとこの神社とは関係がなかったのです。

 ニッケの進出により、立ち退きのような形で平野に移転した龍泉寺の境内にありました。

 龍泉寺の平野への移転の顛末は、『加古川町寺家町探検(22)』の「龍泉寺燃える」をご覧ください。

 ニッケ西の駐車場横の大神宮の地は、龍泉寺の故郷です。

 *写真:大神宮のイチョウ

     ここは、龍泉寺(現:平野)のふるさと

 この大神宮とイチョウの木について『Kako-Style2』に、ありますので一部をお借りします。

 (大神宮は)、JRの車窓からも見え、ニッケ加古川工場内にある、小さな神社「大神宮」です。

 樹齢約360年といわれる幹周り約4m85㎝のイチョウを御神木に、神明造りの社殿を持つ大神宮は、加古川工場設立と同じ明治32(1899)年に、会社の社運の繁栄と工場の安全・参拝者への加護を祈念して創建されました。

 いわば加古川の二ッケ工場を見守る存在でした。

 伊勢神宮より、天照大神の御分霊をいただく氏神の泊神社(加古川町木村)の分霊が祭神として祀られています。

 少しだけ付け加えておきます。大神宮のイチョウの木は、もともとこの神社とは関係がなかったのです。

 ニッケの進出により、立ち退きのような形で平野に移転した龍泉寺の境内にありました。

 龍泉寺の平野への移転の顛末は、『加古川町寺家町探検(22)』の「龍泉寺燃える」をご覧ください。

 ニッケ西の駐車場横の大神宮の地は、龍泉寺の故郷です。(no3038

 *写真:大神宮のイチョウ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探検(27) (加古郡)郡役所(2) 郡長・北条直正

2021-03-27 07:04:18 | 加古川町寺家町探検

      加古郡郡長 北条直正

 明治19年、加古郡郡役所の新庁舎は完成しました。

 今日は、郡役所の話ではありません。明治12年に加古郡の初代郡長・北条直正の話です。

 北条直正は、まさに義人でした。

 当時、県令(今の県知事に当たる)は、森岡昌純(まさずみ)でした。彼は、薩摩出身で、どこまでも明治新政府の指示に従うと言う人物でした。

 その彼が、地租改正で腕をふるいました。

 母里地区(稲美町)の税は、江戸時代に比べて一挙に3倍をこえました。稲美地区の他の多くの農民も税を払うことができません。

 特に、母里地区の197戸と総戸数の半分以上が、土地を失い破産状態となりました。

それでも、県令は、農民に税の完納をせまりました。

 郡長の北条は、農民の窮状をだまって見過ごすことはできません。

 農民は、鍬を持ち、蓑笠をかぶり県庁や加古郡郡役所に押しかけたこともありました。まさに、一揆の再現でした。

 郡長は、「いやしくも官民の間に立ち、職を奉ずる者が民情を述べるのは当然ではありませんか。無理非道な重税を課して、不納となった者を処分するなど、そのような非理非道なことは絶対に行えません」と、農民側に立って県令と対立します。

 明治15年、郡長に突然の転任の内示がありました。好ましくない人物として追われたことは明らかでした。

 明治時代、母里地区の農民の苦闘を、北条直正は『母里村難恢復史略(もりそんなんかいふくしりゃく)』として記録に残しています。(no5037

 *写真:加古郡長・北条直正

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探検(26) (加古郡)郡役所(1)

2021-03-26 08:15:44 | 加古川町寺家町探検

      加古郡の郡役所は寺家町に

 明治12年1月8日、印南郡加古川村は加古郡寺家町にならい加古川町(まち)としました。

 この日は、加古郡役所を隣町の寺家町に設置した日でした。

 加古川村は、江戸時代から印南郡よりもむしろ、川東(東岸)の加古郡つながりが深い地域でした。

 明治22年2月21日、印南郡に属していた加古村(現:本町)が地理的な関係から加古郡に編入され、同年4月1日には加古川町・寺家町・篠原町が加古郡加古川町を編成しました。

 *昭和26年1月1日、加古川町は本町に改称

 また、明治22年4月1日、鳩里村(友沢村・木村・稲屋村を含む)、氷丘村も加古郡の村として誕生しました。

    郡役所は、現:JAビルの場所に

 寺家町近辺の町村が加古郡との合併に先立つ、明治12年(1879)、加古郡の郡役所を寺家町におきました。

 最初は、常住寺の寺家町の麑松小学校(げいしょうしょうがっこう)の一部を借り郡役所としました。

 常住寺に、今でいう市役所にあたる郡役所が置かれました。

 そして、明治17年9月、新しい郡役所(写真)を同じく寺家町に建設しました。

 今の寺家町商店街の入り口(JAビル)の場所です。(no5036

 *写真:加古郡役所

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探検(25) 余話として: 加古川遷都論・寺家町あたりに政府官庁街

2021-03-25 06:26:16 | 加古川町寺家町探検

  余話として

   加古川遷都論・寺家町あたりに政府官庁街

 大正12年(192391日、東京を中心に未曾有の大震災がおきました。関東大震災です。

 そして、政府は壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおきました。

 「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に陸軍大将)によれば、国土防衛上の観点から首都移転を極秘に検討し、加古川の地を候補地の一つに挙げています。

 加古川が候補にあげられたのは、第一に災害が少ない地域であるということでしたが、その他に「中国・朝鮮への侵略に備え、日本の首都を西に移すべきである」との考えがありました。

 候補地として、加古川の他に八王子(東京都)はともかく、ソウル(韓国)が、あげられています。

 「遷都(八幡和郎著)」」(中公新書)では、加古川への遷都の理由を次のように述べています。

 「・・・(首都の候補地は)兵庫県加古川の平地である。歴史上、大地震にみまわれたこともなく、水資源も量・質ともに条件がよい。防空という観点からも理想的である。

 商工業都市としての機能は、阪神に任せ、皇室、政府機関、教育施設のみを移し、ワシントンをモデルに設計する・・・」

 この加古川遷都が実現していたら、寺家町あたりは政府の官庁街になっていたことでしょう。

 この遷都論は、やがて各方面にもれ、動揺が起こり、立ち消えになりました。

 加古川の地は、平清盛の時代にも一度首都の候補にあがったことがあります。後日、他のところで紹介しましょう。(no5035

*写真:震災後の惨状



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探検(24) 三宅周太郎(加古川名誉市民賞第1号)

2021-03-24 06:58:10 | 加古川町寺家町探検

  三宅周太郎(加古川名誉市民賞第1号)

 *以下の記事は、『新かこがわ辞典』を参照させていただきました。

 加古川名誉市民賞、第1号が贈られたのは劇評家、三宅周太郎です。

 三宅は、劇評といういささか地味な分野で健筆をふるいましたが、また、特筆すべきことは、文楽(人形良瑠璃)の救世主となったことです。

 常設小屋の火災等により衰亡の危機に陥っていた文楽の研究に本格的に取り組み、その成果が世の注目を集めるところとなり、今でも文楽を楽しむことのできるのは周太郎のおかげです。

 また、昭和5 (1930)年6月、刊行された『文楽の研究』は『続文楽の研究』とともに、初版以来版を重ねるなど、不朽の名著となっています。

 三宅は、明治25(1892)年に寺家町の「忠良」を銘柄とする酒造家に生まれました。

 生家が中心となって出資した劇場「寿座」に幼少のころから出入りし、演劇の世界が日常のものとなっていたのでした。

 この「寿座」は、のち映画館「新興座」(後の新興会館)へと変遷します。

 関東大震災ののち、一時大阪に転居しましたが、再度上京しました。

 三宅の有名な逸話として、彼は劇場や俳優から送られてくる招待券は使わず、入(券を買って観劇したことでした。

 名優であれ看板役者であれ、彼は芸を批評の対象としたので、ときには酷評することもありましたが、演ずる者と観る者は対等という立場を貫くために身銭を切って入場することを彼なりの誇りとしたのでしょう。

 昭和33(19589)年紫綬褒章受章、昭和39(1964)年9月加古川市名誉市民、昭42(1967)年5月芸術院恩賜賞受賞、三宅は、同年2月14日に死去したので同賞は没後の受賞でした。(no5034)

 *写真:三宅周太郎(京都南座を背に・昭和39年2月26日撮影)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探検(23) 検番筋・繁の家

2021-03-23 10:18:08 | 加古川町寺家町探検

       検番筋(けんばんすじ)

 ベルデモール街から寺家町通りを西に向かって、一筋目の北行き道路を通称「検番筋」と呼んでいました。

 現在の家並みからはとても想像が出来ないのですが、昭和32、3(195758)年頃までは、ダンスホールやバー・キャバレーに飲食店等がひしめく、加古川町内の一大歓楽地でした。

 検番とは、「芸者屋の取り締まり、芸妓に口のかかった時の取次などをする事務所」です。

 もう少し説明をしますと、料理屋、待合、芸妓屋の3業が集まって営業している地域を一般に「三業地」と俗称しています。

 3者が合流して同業組合を組織しているところから、そう呼んでいました。

 その営業には公安委員会(第二次大戦までは警察署)の許可が必要であり、組合の中で芸妓の斡旋や料金の決済などの事務処理をする必要が生じ、この地域の内に検番を置くことになりました。

 昭和30年(1955)前後まで、市街地の主要な遊興地帯でした。

 加古川町では昭和20年代の後半に、三業地を平野の新地に移設したため、寺家町の検番筋周辺のようすは一変しました。

 *以上は『新・かこがわ辞典』(新・かこがわ辞典編集委員会)参照

     繁の家(しげのや)

 滝沢好子さんは、「・・・往時の賑わいは今ではすっかり影を潜めてしまった検番筋ですが「繁の屋」は、創業時から同じ場所で営業を続けている最後の料亭です・・・」と当時の賑わいと繁の屋を取材されています。(『Kakostyle2』より)  (no5033

 *写真:割烹「繁の家」

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探検(22) 龍泉寺燃える

2021-03-22 10:18:41 | 加古川町寺家町探検

 龍泉寺(加古川市加古川町平野)は、今は加古川町平野ですが、元は寺家町のお寺でした。事情を説明しましょう。

 なお、龍泉寺については、「かこがわ探検シリーズ・平野編(仮称)」でさらにその詳細を紹介することにします。

      龍泉寺燃える

 江戸時代の「加古川宿絵図(部分)・慶応元年(1865)」(地図)をご覧ください。

 龍泉寺は、もともと寺家町字蔵屋敷にありました。日本毛織(ニッケ)が、加古川に進出していらい、龍泉寺はニッケに囲まれてしまいました。

 境内の大きなイチョウの樹は、現在も元のばしょを占拠しています。

 *「宿絵図」の向かって左上部に龍泉寺があります。図中の常住寺も移転しました。光念寺は、現在も絵図の場所にあるので場所は想像しただけると思います。

 当時、ニッケは日の出の勢いで、会社は龍泉寺に対して立ち退きを要求しました。

 檀家の中には、「だいたい、後から来て立ち退けとはけしからん。そんな不見識なことはできん」と強力に反対する意見も多くありました。

 そんな時でした。龍泉寺は、庫裏を残し焼け落ちたのです。丁度、ニッケ創立十周年記念(明治44年6月12日)の夜のことでした。

 出火原因は分からないままに終りました。

 その後、再建のための資材は購入されたが、檀家の中には「この際、別の場所に移転しては・・・」との意見もあり、再建問題は難航しました。

 従って、龍泉寺の再建資材は、しばらく寝かせたままの状態が続きました。

 やっと意見がまとまり、大正5年8月7日に現在の場所に再建されたのです。

 それにしても、ニッケが龍泉寺の移転を要求していたまさにその時の出火でした。

 「ニッケの誰かが放火した」という噂は、その後もしばらく囁かれました。(no5032

 *地図で龍泉寺を見つけてください。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探検(21) 大将軍(2) 大将軍(堂)は、 常住寺の鬼門か?

2021-03-21 09:40:39 | 加古川町寺家町探検

  大将軍(2)

 「将軍」と聞くとすぐに源頼朝・徳川家康等を思い浮かべ、「将軍堂には、どの将軍が祭られているのか」と考えてしまいます。

 大将軍とは柳田国男も指摘されているように「将軍」とは関係がなく、塞の神(さえのかみ)・道祖伸などとも混同されて村を様々な悪霊災厄殻守る神です。

 

 小門口(「こもんぐち」・「こもぐち」とも読む)」の祀られているのは、「増長天」であり、これは南方を護る神様です。

 地元の歴史に詳しいK氏は「昔、この地は、隣接する「常住寺」を中心としていました。

 そして、常住寺を基点として、常住寺の北東側が丑・虎の方角、すなわち「鬼門除け」となるので、ここに大将軍堂を建てたのではないかと考えても不思議ではありませんね・・・」と、言っておられます。

      ウシトラ(北東)の方向   

 昔から、「丑寅(「艮・うしとら)」の方向は、「鬼門(きもん)」として人々に恐れられていました。

 中国古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』によると、度朔山(どさくさん)という山の東北の方にたくさんの鬼が住んでいて、夜になると門から出て来て人びとを悩まし たといいます。

 そこで、鬼の出入りする東北の方向を鬼門というようになりました。

 鬼門(東北)は、災のおきる方向でした。

 

 『加古川史誌(第一巻)』(310P)も「大将軍堂は寺家町字山之内あって、大将軍は暦塞の方位をつかさどる神で、・・・古来、この町の鬼門除である」と記しています。

 

 鶴林寺と小門口は、ずいぶん離れています。

 小門口(大将軍)と鶴林寺と結びつけて考えるには、少し無理があり、常住の、小門(口)あったところと考えるのが自然と思えるのですが・・・。(no5031

 *写真:大将軍堂内部(インターネットより)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探検(20) 大将軍(1) 常住寺の伝承

2021-03-20 09:06:07 | 加古川町寺家町探検

 「大将軍」について(1) 常住寺の伝承

   郷土のおはなしとうた(第1集)より

 

 寺家町は、山陽街道の宿場町として栄えて、人馬の往来が激しかった。

ちょうど、町筋の中ほどに「常住寺」というお寺があって、庭に鹿児の松(初代)があり、その枝ぶりが、蛸の足のように伸びて、枝の先が町通りまで広がっていた、といいます。

 

 秀吉のころでした。

 加古川が氾濫して寺家町は大洪水に見舞われ、お寺のお堂も水浸しになりご本尊の阿弥陀像も流出してしまいました。

 

 水が引いて、町の人々もほっと一安心して外に出たところ、鹿児の松から光り輝くものがあるので近寄ってみると、「常住寺」のご本尊・阿弥陀様が松の枝に留まっておられたので、住職はじめ、檀徒一同大喜びで仏様の徳をたたえて、元の本堂に安置しました。

 しかし、加古川の洪水はたびたびあって、人々を困らせました。

 

 「これは、阿弥陀様をお祀りする方角が悪いからだ」だと言い出しました。

 そこで、その鬼門除けのため、常住寺山という小高い丘に神様を祀っては、ということに衆議一致しましたが、さて、神様は何神様がよいか、いろいろ議論の末、一番偉い神様の「征夷大将軍」ということで話がまとまり、お祀りすることになったのです。

 

 それ以来、『大将軍』と呼んで、町中の人々の尊敬を集め、大洪水の被害もなくなったとのことであります。(no5030
 * 写真:大将軍堂(「上高地あずさ珈琲店」裏:北隣)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探検(19) 八重食堂とカツメシ

2021-03-19 08:17:56 | 加古川町寺家町探検

     八重食堂とカツメシ

 * 『KakoStyle2』(2015年4月発行)で、池沢文隆さんは「八重食堂のカツメシ」を紹介しておられます。お借りします。

 寺家町商店街の少し南に八重食堂というお店がありました。

 「カツメシ」に関して、まかない食のようだった「カツメシ」を立派な洋食メニューとして、提供したのは同店だと言っても過言ではありません。

 廃業した今でも「八重食堂のカツメシが1番うまかったー」と言う人が大勢います。

 八重峯子さんに当時のカツメシのレシピを尋ねると、厳密なレシピなどはな<、その時々のシェフが受け継いだ味にアレンジを加えた独特のものであったそう。

 すじ肉や鳥の骨、野菜くず、肉や野菜を炒めた油、果物、さらにはバナナの皮も加え、大な鍋で一週間程煮込む伝説のたれ。

 さまざまな材料から引き出されたコクと風味が、カリっと揚がった薄めのカツに見事にマッチしていました。

 今でこそ、かつめしは加古川のご当地グルメとして広く知られるようになりましたが、決してB級ではなく、当時は最高級のごちそうだったのです。

 奇しくも加占川駅から程近い場所にある2軒の飲食「Eden」「居酒屋 山田」のご主人は、いずれも八重食堂の厨房(コック)経験者。

 秘伝のたれの手掛かりが聞けるかも。(以上、池澤文隆さんの取材より)

 

 私が就職したのは、昭和42年で、はじめて「八重食堂」のカツメシを食べました。

 たしかに、池沢さんが取材されているように「カリっと揚がった薄めのカツ」のカツメシでした。「こんなうまいものが世の中にあったのか・・・」と、いまでも、強烈な印象が残っています。(no5029

 *写真:昭和7年頃のモダンな八重食堂の外観(現在はもう営業をしておられません)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探検(18) 常住寺(4) 五ヶ井用水の完成は、戦国時代か?

2021-03-18 09:19:03 | 加古川町寺家町探検

   五ヶ井用水の完成は、戦国時代か

 平成29年度氷丘公民館地域学講座「日岡の文観(1315年前後を中心に)」、兵庫大学教授金子哲氏の講演を参照にさせていただきます。

 ・・・・

 一般論として、鎌倉時代の農業は、鋤・鍬使う農業でしたが二毛作も始まっています。

 人口も増えました。商業活動も盛んになりました。

 『加古川市史』は、「(鎌倉時代)農業生産を高まりと用水の必要性を認めながらも、この時代には、加古川という大河を利用した用水を造る技術がまだなく、五ヶ井用水の完成は、まだ無理としています。



 五ヶ井改築に関係する伝承・寺伝を有する三寺(常楽寺・鶴林寺・常住寺)には、すべてに西大寺勢力が入っています。

 西大寺勢力が加古川下流域に勢力を伸ばした鎌倉時代後期以降と考えられます。

 五ヶ井は、大規模な工事でした。

 守護所が播磨西部に移動する南北朝時代・室町時代には、かえって、このような大規模な工事は無理です。

 南北朝時代以降の加古川下流地域では小領主が散在しており、大規模工事を担当できる勢力は想定できません。

 「五ヶ井用水」の完成は、鎌倉時代としてよいようです。

   「五ヶ井(ごかい)用水」と西大寺勢力

 五ヶ井修築に関係する伝承・寺伝があるのは、加古川市加古川町大野の常楽寺、加古川市加古川町北在家の鶴林寺、そして元は加古川宿にあった寺家町にあった常住寺です。

 また、鶴林寺の応永の復興の建築物群が典型的な折衷様であり、鶴林寺の大工集団が南都系の姓であることなどから、鶴林寺に西大寺系勢力が入り込んでいたことは確実です。

 常住寺には、「五ヶ井の井堰起工の当初、(日岡の神と聖徳太子)とが常住寺で会議して本尊に祈誓し、工事が成就した」という寺伝があります。

 この伝説は、日向明神(現:日岡神社)が支配権を有していた「原五ヶ井」の抜本的改修を、大野の常楽寺が主導する農業土木技術を持った西大寺勢力が行った事実の反映と考えられます。

  *なお、「五ヶ井用水・文観・西大寺技術集団」については、「加古川市大野編」でさらに、詳細を紹介することにしましょう。(no5028
*図:五ヶ井用水の水路

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川町寺家町探検(17) 常住寺(3) 真言律宗の寺々

2021-03-17 07:55:07 | 加古川町寺家町探検

     真言律宗の寺々

 真言律宗は、中学校の歴史にはあまり登場しませんが、時代に大きな影響をあたえました。

 永仁三年(1295)、文観は西大寺に入り受戒(真言律宗の僧受戒した後の名前)しました。この時の坊号(お寺での名前)は「殊音(しゅおん)」でした。

 大野(加古川町大野)の常楽寺は、この西大寺系の真言律宗の寺としてさかえました。

*文観(もんかん):後に「大野編」で詳しく取り上げますが、ここでは文観は後醍醐天皇と共に時代を動かした加古川出身の高名な僧侶としておいてください。

    常住寺は西大寺直参末寺

 近辺の西大寺系の寺院を見ておきましょう。

  加古川市加古川町大野  常樂寺 播磨の筆頭末寺

  加古川市加古川町本町  常佳寺(元は寺家町)

  加古川市平荘町山角   報恩寺

  加古川市尾上町     成福寺(不明)

 

  兵庫大学の金子教授は西大寺流の寺院として、次の2寺を西大寺の末寺とされています。

     西大寺流寺院

  稲美町中村       円光寺(元は稲美町国安)

  加古川市加古川町稲屋  福田寺(ふくでんじ)

 加古川地域は、真言律宗西大寺とつながりが特に強固な地域でした。

 引き続き、真言律宗が私たちの地域に果たした役割を見ていきたいのですが、私たちの地域では天台律僧も活躍もしています。(no5027

 *写真:奈良西大寺

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする