疎水計画が動きだしたが・・・
説得すれど
印南新村の百姓衆が、郡役所に直訴したあくる日、郡長は上庁しました。
なんとしても、土地の取り上げの件を県令に伝えたかったからです。
しかし、県令からの返事は、むなしいものでした。
(県令)「地価を修正し、増租分の延長も認めたのに、その上に郡役所まで押しかけるとはあまりにも強情者たちである。とんじゃくすることはない。処分は徹底して行なえ・・・」
郡長は、何を説いても分かってもらえぬ上司に言いようのない怒りを覚えました。
(郡長)「このままでは、村が潰れてしまう。当座、2000円でも納めたら急場をしのげるのだが・・・
ともかく、今を切り抜けるために2000円が必要でした。
郡長は、大阪のYに、土地の購入を申し込みました。
Yは、葡萄園に興味を持ち、将来の疎水の話に目を輝かせました。
「いまは儲けにならへんが、疎水ができたら、この地はようなる。ええ買い物かも知れへん」と考えたのでしょう。
没収地のうち34町の契約がまとまりました。
価格は、葡萄園の時と同じ反当り6円でした。
その代金の2000円は戸長に渡され、そのまま地租未納分として納付されました。
北条郡長辞任
(明治)15年4月。突然郡長に勧業課への転任が決まりました。
役人として好ましくない人物として、閑職へ追われたのは明らかでした。
北条は、役人を辞任した。
品川農商務省大輔(次官)来る
(明治16年)12月19日、農商務省大輔(次官)の品川弥二郎が、葡萄園の視察に訪れました。この視察に県から租税課長が同行しました。
丸尾茂平次(印南新村戸長)は、地租を納めるために土地を売ったことを話しました。
品川は、さらに村の生活ぶりを聞きただすのでした。
・・・・・
(品川)「租税課長。人民が租税を納めるために土地を売ったと言っているが、知っているのか」
(租税課長)「はい、知っております」
(品川)「知っていてなぜすぐに止めさせなかったのだ。第一に、土地を売って納めなければならないほどの地租を課すとはなにごとだ」
租税課長は、するどく叱責されました。
(品川)「これからは、なるべく土地を売らないように。土地さえあれば、その内によいことがあるであろう」
戸長たちは、顔を見合わせるのでした。
「よいこと?・・・、ひょっとしたら国のほうで疎水計画が具体化しているのではないのだろうか・・」
その後も、魚住逸治さんの疎水の話に随分熱心でした。
・・・「国が、疎水を具体化させるのではないか」というウワサは、百姓の間で大きな波紋をよびました。
ウワサだけではなかったのです。
年が改まった(明治)16年、県は疎水線の実測を始めました。2月には県の土木課長と郡長が水源まで視察をしました。
突然、疎水計画をめぐる状況が変わってきました。
3月には、県の動きを追うかのように、農商務省の南市郎平が訪れました。
南は、安積疎水(福島県)を手がけた人物でしたから、疎水計画のウワサは、いっそう大きく広がりました。
県の土木課も加わり大がかりな調査もはじまりました。
7月10日には大蔵卿(大臣)の松方正義(まつかたまさよし)の巡視があり、続いて農商務卿の西郷従道(さいごうつぐみち)の視察がありました。
(明治)17年3月、関係村より新赤堀郡長の副申を添えて、水路開削起工願を提出しました。
疎水計画はうごきだしましたが、喜んでばかりはおれません。
いぜん未納地租は残ったままでした。
(明治19年)11月、鐘が鳴らされた。人々は役場へ急ぎました。
吏員が、地租不納処分のために村に来たのです。村人たちはたまった不満をぶちまけた。
「疎水ができるのに殺生や、水が来るまで待てんのかいな」
「土地買うた者が儲けて・・・、お前等金持ちの味方ばっかりするんかいな」
郡の吏員は何も言えませんでした。
怒りに檄した村人たちに、戸長の岩本もなだめようもなかったが、吏員と話してもらちのあく問題でもありません。
新郡長は「疎水の話が持ち上がって土地の値段もあがったし、売りやすくなったはずだ。売って納めるのがいやなら公売にするまで・・」と手かげんをしませんでした。
不納者440人の畑地140町が処分されてしまいました。
この時、6ヵ村730戸の農地7分の4以上の土地を奪われてしまったのです。
その、ほとんどが土地を営々として開墾してきた小百姓の土地でした。
まるで牛の餌じゃ
この時(明治19年)のひとりの農民の様が、『母里村難恢復史略』に記されています。読んでおきましょう。
・・・・
(内容の一部の訳・『母里村難恢復史略』に記されてない内容も付け加えています)
・・・3畳敷ばかりの藁小屋の隅で、年老いた農夫が釜でなにやらに煮物をしていました。
農夫は、突然の来訪者におどろいたようすでした。
「だれじゃいな」
「役所から来たんやが、だれもおらへんおかいな」
吏員は、釜の中をのぞいてみたくなりました。
老農夫は、あわててその手を押さえました。
「見たらあかん」「中のぞかんといてくれ」
悲鳴にも似た声でした。吏員は、一瞬ひるんだが蓋をはずしました。
煮えた釜には麦らしいものが浮かんでいましたが、ほとんどが藁でした。
「牛の餌やないか」
いくら貧乏でも牛並みのものを食べているとは知られたくなかったのでしょう。
税金の話どころではなくなりました。
郡吏は、だまってポケットから20銭を取り出すと、そっとかまちに置いて、「これで税金はろとけ」
そう言うと、後もみずに出ていきました・・・
*写真:品川弥二郎(大輔・たいふ)
◇きのう(2/25)の散歩(11.276歩)