ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

ぶらり散歩(25) 花崗閃緑岩(2)・風化した花崗岩

2019-03-06 08:42:15 | ぶらり散歩

     花崗閃緑岩(2)・風化した花崗岩

 加古川市周辺の山地はほとんど流紋岩(凝灰岩)です。

 その中にあって志方町大藤山(251.4メートル)付近の山容は少し違っています。

 それは山頂が平らで、その肩の部分は丸味をおび、斜面はふくよかで、その斜面は赤く厚い土壌層からなっています。

 山は風化が進んでいることを現しています。

 大藤山の近くの宮谷付近では、川原でもないのに角のとれた、ときには1、2メートルもあるような丸い岩塊が点在しています。

 このような状況が観察できる大藤山を中心にした、南北・東西それぞれ約三キロメートルには流紋岩類とは違って、岩石は花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)が広がっています。

 この岩石は中生代後期白亜紀末に地下から流紋岩の中に貫入してきた岩石です。

 花崗岩地域でよくみかけるように、この岩石は流紋岩に比べ早く激しく風化し、ときには、そのままで砂状に分解しやすい真砂土(まさつち)となり、厚い土壌を作ります。

 長楽寺を襲った岩は、そのような風化をうけた岩石や真砂土でした。

 この岩石は、流紋岩が形成されてのちに、地下から上昇してきたものです。

 いずれにしろ、この二つの岩石(凝灰岩と花崗閃緑岩)が加古川市域の基盤(土台)となっています。

 この花崗閃緑岩は、風化が激しく真砂土を作ります。

 大藤山から長楽寺を襲ったのは、この風化の進んだ花崗岩と真砂土でした。

 写真は、長楽寺を襲撃した花崗閃緑岩が災害後一時長楽寺の下の広場に集められていました。もちろん、今は撤去されています。(no4560)

 *写真:災害後、一時集められていた花崗閃緑岩

 ◇きのう(3/5)の散歩(2.450歩)

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ぶらり散歩(24) 花崗閃緑岩(1)・長楽寺の裏山が崩れた

2019-03-05 06:58:11 | ぶらり散歩

     花崗閃緑岩(1)

      大藤山(おおふじさん)の岩

 志方の長楽寺の裏山は大藤山です。竜山石に続き、大藤山を形成している岩石について紹介したいのですが、その岩・土砂が崩れました。

 岩石を紹介する前に長楽寺の山崩れについて先に書いておきます。

 大藤山の岩石は、このあたりの多い竜山石(凝灰岩)ではありません。

    長楽寺の裏山が崩れた

 2011年の9月4日、午後1時ごろでした。志方の長楽寺の裏山が崩れ長楽寺は土砂に埋まってしまいました。

 新聞は、「寺は一部が埋まってしまったが、幸いけが人はなかった・・」と長楽寺の本堂の崩壊した写真を報じました。

 地滑りは、狭い範囲で、裏山が少し崩れた程度だろう」と思い込んでいました。

 後日、長楽寺にでかけました。

 ただあぜんする光景がありました。

    記憶を風化させないために

 とくに、長楽寺さんのご住職の長女の方が書かれた、生々しい報告をHPで読み「本当に、命があってよかったですね・・・」と言いたい気持ちになりました。

 生きておられたのが奇跡のようです。

 その一部を掲載させていただきました。

    九月四日のこと  *桐山文江さんの体験

 「大丈夫やで!」せめて流されるときは子ども達と一緒に離れないようにとそれだけを思っていました。

 長女(4歳)にはリュックを背負わせ、その中に飲み物とおかしを入れました。

 もしも何かの奇跡でこの子だけ生き残ったらと思ったのです。

 下の子(2歳)はたぶん1人では無理だろうから、せめて私が離さないでおこうと思いました。

 子ども達を怖がらせないように懐中電灯を子ども達の座るソファに向かって照らし、「大丈夫やで、大丈夫やで」となんども言いました。

 それはもちろん自分に言っているようなものでした。

 2時過ぎ頃、また雨音に混じって地鳴りのような音と激しい水の流れる音がしました。確実に何かが来る!と感じました。

 「こわいよこわいよ」このときばかりは私も恐怖で子ども達を抱えながらそうつぶやいていました。(no4559)

 *写真:2011年9月4日の土砂崩れの跡

 ◇きのうの散歩(3.097歩)

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ぶらり散歩(23) 竜山の凝灰岩

2019-03-04 09:28:17 | ぶらり散歩

 今日は、『加古川市史(第一巻)』を参考にして、私たちの近辺の地質(岩石)について調べてみます。

   火山灰は、水中に堆積し凝灰岩となった

      7~8.000万年前(白亜紀)の火山活動で

 加古川付近の山地や丘陵を構成している岩石のほとんどは、有名な竜山(たつやま)石です。

 古墳時代から現在まで、この地方の人々だけではなく、ひろく畿内・但馬・丹波・岡山県域の人々にまで古くは石棺として、後には各種の土木・建築用材として利用され、親しまれてきた岩石です。

 この岩石は学術的には流絞岩質溶結凝灰岩といいますが、ここでは流紋岩と言っておきます。

 この流紋岩は、この付近だけではなく、西は上郡町(かみごおり)をこえて岡山県域から東は宝塚市付近まで、北は例えば加古川支流の杉原川の源流部の三国岳(855㍍)付近まで、そして兵庫県南半部にひろく分布している流紋岩類の一部です。

 これらの岩石は中生代の終わりの白亜紀の後期(今から7000万年から8000万年前)火山活動により造られたものです。

 その分布域は中国地方へまで続くのですから、これらの火山岩が形成されたころの多くの火山からの、すさまじいまでの噴出は、さぞや壮観であったことでしょう。

 あちこちに火山が爆発し、火山灰を放出し、溶岩を流し放出された火山灰は水中に堆積し、凝灰岩となりました。

 しかし、いまのところ、そのような火山噴火口がどこにあって、溶岩がどう流れたのか、わかっていません。(no4558)

 *写真:凝灰岩(竜山石)・・・竜山採石場の凝灰岩

 ◇きのう(3/3)の散歩(10.353歩)

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ぶらり散歩(22) 二つの遷都論(2)・印南野遷都計画

2019-03-02 08:24:22 | ぶらり散歩

    二つの遷都論(その2)・印南野遷都計画

  都で権力を握った平氏でしたが、その政治は武士であるにもかかわらず貴族のやり方に似ており、寺社や兵士にからも不満が渦巻くようになりました。

 そして、平氏は、追われるように、神戸の福原へ都をうつします。

 が、福原は土地が狭く、とても不便で伊丹の昆陽池の地が便利であると、再び論議がおこりました。

 ところが、この昆陽池遷都は清盛によりたちまちのうちにひっくり返されてしまいました。

 その間の事情は、『玉葉(藤原兼実の日記)』に記されています。

      印南野遷都は、清盛の思いつきか?

  (治承知四年・1189)6月17日、天気晴れ。

 ・・・きのうの(遷都の件に関しあちこちに問い合わせをして情報収集していた)の返事が来ました。

 すべてが、「播磨の国の印南野に遷都することになった」との結論です。

 藤原邦綱(ふじわらくにつな)からは、「厳島内侍(いつくしまのないし)が神がかりし、昆陽野ではだめだ(印南野に遷都しろ)と託宣した」などの情報がとどきました。

 

 6月17日、兼実のもとに各所から情報がもたらされました。「急に印南野遷都となった」というのです。

 突如、厳島内侍が神がかりとなり、託宣が降りたのです。

 それは、「昆陽野遷都を改め播磨国の印南野を都とせよ」という神意でした。

 厳島神社の神威はすこぶる高く、神意に反することは困難でした。

 さらに、厳島内侍は清盛の元愛人であり、この託宣は最高権力者清盛の意志そのものだったのです。

 この印南野遷都構想に対しては、「清盛の思い付き」 などの否定的評価がされてきました。

 しかし、「印南野は平清盛領大功田の中核であり、かなりの合理性を要する判断であつた」と言えます。(no4556)

 *『印南野中世』・清盛の印南野遷都構想(金子哲論文)参照。

 *写真:平清盛の福原雪見御所跡 

 ◇きのう(3/1)の散歩(10.916歩)

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ぶらり散歩(21) 二つの遷都論(1)・加古川を首都に

2019-03-01 08:35:51 | ぶらり散歩

 

   二つの加古川遷都論(その1)

      首都・加古川!

 大正12年(1923)9月1日、東京を中心に未曾有の大震災がおき、政府の一部に壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおきました。

 また、「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に陸軍大将)によれば、国土防衛上の観点から首都移転を極秘に検討し、加古川を首都候補地の一つにあげました。

 加古川は、リストの2番目(一番は八王子市)でした。

 選んだ理由は次の3点です。

  (1)  過去に大地震に見舞われていない。

  (2)  水資源に恵まれている。

  (3)  防空上の問題もない。

 とりあえず、皇居と政府機関などに限っての首都移転構想ということでした。

 その他に「中国大陸侵略に備え、日本の首都を西に移すべきである」との考えがあったようです。

 が、首都加古川は幻で終わりました。遷都論が東京で広がり動揺が起きたからです。

 東京は「国都たる地位を失わず」の詔書でやっと収まりました。

 現在、政府機関の地方移転が進んでいません。「地方創生」の看板が官公庁の抵抗で色あせてきました。

 移転コストが、国会対応が、いや省庁間の連携が・・・と、できない理由ばかりが聞こえてきます。要は、各機関・企業は東京を離れたくないのです。

 東京は、化け物のような巨大な都市になってしまいました。大震災(南海トラフ地震等)が、待ったなしで迫っています。

 このままでは、東京崩壊・日本崩壊になりかねません。

 遷都論と人口分散が日本の抱える最大の課題です。(no4555)

 *写真:関東大震災の東京の状況

 ◇きのう(2/28)の散歩(10.894歩)

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ぶらり散歩(20) 水を求めて(10)、汗と涙が稲美の大地を作った

2019-02-28 08:13:33 | ぶらり散歩

 明治22年4月1日、蛸草新村・草谷村・下草谷村・野谷新村・印南新村・野寺村の6ヵ村が合併して母里村が誕生しました。

 初代母里村村長として蛸草の岩本須三郎が選ばれました。

     初代母里村村長・岩本須三郎

 蛸草新村の庄屋の家に生まれた須三郎は、父を早く亡くし12才で庄屋の家をついでいます。

 戸長になってからは、納税の問題・疎水事業にと、おいたてられ続けの毎日でした。

 あるとき、郡長が気の毒そうに、「岩本さんもえらいときに村長になってでしたな」となぐさめたほどです。

 しかし、「村長の言うことよう分かるが、借金だけがぎょうさんできた。なんでこんな時に疎水つくるんや、もうちょうっと時期待てへんのかいな・・・わしら、土地売るしかしょうない」と不満をもらすものも多くいました。

 (岩本)「土地売ったらあかん、もうじき水が来る。疎水の仕事や鉄道の仕事で日銭かせいで、もうちょっとがんばらなあかん」

 こういうのが精一杯でした。

 明治22年は、雨が多い年になりました。そして、秋には台風にも見舞われ、できたばかりの水路の一部も崩れました。

 金が足りない。それだけではなかったのです。工事が始まると山陽鉄道の工事もはじまったため、人夫の賃金もあがりました。

 トンネルの工事の目途はついたが、工事費は、目途がつきません。

     水がきた・・・・

 明治24年4月7日ケシ山トンネルは貫通し、4月11日、検査のために水門が開かれました。

 淡河川の水は、勢いよく疎水に流れ出ました。

 練部屋の配水所の周りは、水を迎える多くの人々の熱気があふれていました。

 水は、ゆっくりと力強く5日をかけて練部屋に流れてきました。

 うれしさのあまり、水路に跳びこむ者も大勢いました。

 喜びは、練部屋からの支線水路やため池工事に大きな励みをあたえました。

     汗と涙が稲美の大地を作った

 明治24年9月20日、淡河川からの水が本格的に印南野台地に流れました。

 その喜びもつかの間でした。

 明治25年7月23日、降りだした雨は雨あしを強めました。

 次の日も雨粒は凄まじい音を立てながら台地をたたきつけました。

 村長の岩本は「疎水は、だいじょうぶか」「ケシ山のトンネルは・・」と不安になり見回りにでました。

 途中で野谷の(松尾)要蔵にあいました。

 「須三郎はんか・・えらいこっちゃ・・水路もケシ山のトンネルも、ぐちゃぐちゃにつぶれとてしもうて・・・」

 須三郎は、その風景に呆然と立ちつくすばかりでした。まるで、白いヘビがのたうっているみたいでした。

 被害は、サイフォンを除く全線で全滅でした。

     逸治はん、国会議員にならへんか

 話を少し前にもどします。

 須三郎は、はかどらぬ疎水工事に政治力の不足を感じていました。

 (岩本)「逸治はん、あんた国会議員に立候補せいへんか・・・」

 (魚住)「やぶからぼうに、何いうねん」

 (岩本)「立派な疎水つくらなあかん。そのためには政治力が必要や。わし等に欠けているのは政治力なんや」「さいわい、こっちには疎水組合がある。それだけ有利や・・・」

 逸治は迷いましたが、立候補を決断しました。

 逸治はみごと当選し、県では12名の衆議院議員の一人となりました。

     逸治はん大変や、疎水が潰れた・・・

 疎水が、大雨でこわれたという一報が須三郎から入りました。

 逸治は東京で、方法は河川復旧工事に準じる方法しかないと考えました。

 まず県会で地方補助費を決議し、ついで国庫補助を仰ぐ方法です。

 知事は、この案を県会に提出しました。

 県会では、「85.000円で造ったものを完全なものとは言いながら180.000円もの金を得て修理するとは合点がいかぬ・・・」

 県会はじまって以来のさわぎとなりました。

 時間切れの寸前に、やっと2票差で可決されました。

 舞台は、国会にうつりました。

 衆議院では、逸治が開会前から政府関係者への陳情・議員への説得にまわり、何とか可決されました。

 国庫下渡金および地方補助金は65.015円で、組合負担金は324.714円でした。

     山田川疎水

 水はたちまちに不足するようになりました。

 そして、山田川からの疎水計画が再燃しました。

 明治41年山田川疎水工事の起工を知事に願い出、用地買収や起工準備にかかり、28万円の借り入れを決め内務・大蔵大臣へ申請しました。

 明治44年(1911)に着工し、大正4年(1915)に完成させました。

 人々は、うめきながら印南野の台地を水田へ変えたのです。

 印南の台地は、まさに稲の美しく育つ大地、稲美と大変貌をとげました。

     水は来たが・・・

 不当な地租の負担に耐えられず土地を失った百姓も多くいました。

 水が来た時、彼らには耕す土地はなくなっていました。・・・(完)   (no4553)

 *写真上:岩本須三郎、同下:魚住逸治(『兵庫県淡河川・山田川疎水百年史』より)

 ◇きのう(2/27)の散歩(11.646歩)

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ぶらり散歩(19) 水を求めて(9)、取水口は、淡河川から

2019-02-27 08:57:21 | ぶらり散歩

 地図で淡河川・御坂(サイフォン)・練部屋(ねりべや)を確認ください。

     取水口は、淡河川から

 疎水に対する国の動きに、近隣の村々も参加を願い出ました。

 母里6ヵ村としても仲間が増えれば負担も軽くなります。

 双方の利害が一致して水利組合の組織は大きくなりました。

 19年には関係6ヵ村に加古新村、天満地区の10ヵ村、それに平岡の高畑村・土山村そして二見の東二見村・福里村が加わり21ヵ村となり、名前も「印南新村外20ヶ村水利組合」となりました。

 新しく組合に加わった村々の代表は、どのくらいの工事費になるのか不安でしたが、何とか各村々の負担も決めることができました。

     サイフォンって何?

 内務省に、より精密な調査を依頼しました。

 政府は、洋式土木を学んだ新進気鋭の田辺儀三郎技師を派遣してきました。

 調査の結果は、人々を困惑させるものでした。

 山田川線は、シブレ山が険しく岩がもろく、はじめに見積もった工事費ではとてもおぼつかない。

 それに、サイフォンのことに百姓は理解ができませんでした。

 地図をご覧ください。

 この路線は志染村御坂(しじみむらみさか)で、いったん低地(志染川)をこえなければならないのです。

 田辺技師は、ここを鋼鉄のサイフォンで水を通すというのです。

 人々は、「なんぼ世の中が変わったというたかて、いっぺん下ろした水が上がるやなんて、そんなええかげんな話聞いたことがないわ・・・」と不思議がるばかりでした。

 郡長は、サイフォンについて何度も何度も説明しました。

 幾多の試練をのりこえて、ついに夢が実現する日が来ました。

 明治21年1月27日、淡河川疎水工事の起工式が播磨葡萄園で行われました。

     難工事のケシ山隋道

 たやすく思われた淡河川の平地の工事は、岩は崩れやすく難工事となりました。

 また、皮肉なことに工事は、しばしば雨にたたられました。

 御坂(みさか)では、水管(サイフォン)の工事が始まりました。

 人々の疑いと心配の中を工事は予定通り進み2年間で見事に完成しました。

 御坂を越えた疎水は、御坂の少し南のケシ山へと流れ下ります。

 この部分の疎水の一部は、山を貫く隋道(682m)工事となりました。

 *隋道(ずいどう)は、トンネルのことです。

 ケシ山の隋道工事は、土地が軟弱で、湧水がおびただしく県の直営工事で、一日60mを進めるのがやっとの難工事でした。

 21年2月に取りかかり、貫通するまで3年4ヶ月を要しました。

 ケシ山を越えた水は、ついに紫合村練部屋(ゆうだむらねりべや)の配水所に水は流下りました。

 そして、配水所の噴水口から吹き上がり、5つの排水口からそれぞれのため池へ向かうのです。

 工事費は、トンネルなどの難工事などのために大幅に増えました。

 工事もさることながら地元負担金の徴収は難航しました。

 長年の日照と重税のため、疲れきった村人とから集めることは限界に達していました。(no4552)

 *地図:水は淡河川から御坂サイフォンで、そして練部屋(ねりべや)へ

 ◇きのう(2/26)の散歩(10.557歩)

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ぶらり散歩(18) 水を求めて(8)、疎水計画が動きだしたが・・・

2019-02-26 09:08:30 | ぶらり散歩

   疎水計画が動きだしたが・・・

   説得すれど

 印南新村の百姓衆が、郡役所に直訴したあくる日、郡長は上庁しました。

 なんとしても、土地の取り上げの件を県令に伝えたかったからです。

 しかし、県令からの返事は、むなしいものでした。

 (県令)「地価を修正し、増租分の延長も認めたのに、その上に郡役所まで押しかけるとはあまりにも強情者たちである。とんじゃくすることはない。処分は徹底して行なえ・・・」

 郡長は、何を説いても分かってもらえぬ上司に言いようのない怒りを覚えました。

 (郡長)「このままでは、村が潰れてしまう。当座、2000円でも納めたら急場をしのげるのだが・・・

 ともかく、今を切り抜けるために2000円が必要でした。

 郡長は、大阪のYに、土地の購入を申し込みました。

 Yは、葡萄園に興味を持ち、将来の疎水の話に目を輝かせました。

 「いまは儲けにならへんが、疎水ができたら、この地はようなる。ええ買い物かも知れへん」と考えたのでしょう。

 没収地のうち34町の契約がまとまりました。

 価格は、葡萄園の時と同じ反当り6円でした。

 その代金の2000円は戸長に渡され、そのまま地租未納分として納付されました。

     北条郡長辞任

 (明治)15年4月。突然郡長に勧業課への転任が決まりました。

 役人として好ましくない人物として、閑職へ追われたのは明らかでした。

 北条は、役人を辞任した。

     品川農商務省大輔(次官)来る

 (明治16年)12月19日、農商務省大輔(次官)の品川弥二郎が、葡萄園の視察に訪れました。この視察に県から租税課長が同行しました。

 丸尾茂平次(印南新村戸長)は、地租を納めるために土地を売ったことを話しました。

 品川は、さらに村の生活ぶりを聞きただすのでした。

 ・・・・・

 (品川)「租税課長。人民が租税を納めるために土地を売ったと言っているが、知っているのか」

 (租税課長)「はい、知っております」

 (品川)「知っていてなぜすぐに止めさせなかったのだ。第一に、土地を売って納めなければならないほどの地租を課すとはなにごとだ」

 租税課長は、するどく叱責されました。

 (品川)「これからは、なるべく土地を売らないように。土地さえあれば、その内によいことがあるであろう」

 戸長たちは、顔を見合わせるのでした。

 「よいこと?・・・、ひょっとしたら国のほうで疎水計画が具体化しているのではないのだろうか・・」

 その後も、魚住逸治さんの疎水の話に随分熱心でした。

 ・・・「国が、疎水を具体化させるのではないか」というウワサは、百姓の間で大きな波紋をよびました。

 ウワサだけではなかったのです。

 年が改まった(明治)16年、県は疎水線の実測を始めました。2月には県の土木課長と郡長が水源まで視察をしました。

 突然、疎水計画をめぐる状況が変わってきました。

 3月には、県の動きを追うかのように、農商務省の南市郎平が訪れました。

 南は、安積疎水(福島県)を手がけた人物でしたから、疎水計画のウワサは、いっそう大きく広がりました。

 県の土木課も加わり大がかりな調査もはじまりました。

 7月10日には大蔵卿(大臣)の松方正義(まつかたまさよし)の巡視があり、続いて農商務卿の西郷従道(さいごうつぐみち)の視察がありました。

 (明治)17年3月、関係村より新赤堀郡長の副申を添えて、水路開削起工願を提出しました。

 疎水計画はうごきだしましたが、喜んでばかりはおれません。

 いぜん未納地租は残ったままでした。

 (明治19年)11月、鐘が鳴らされた。人々は役場へ急ぎました。

 吏員が、地租不納処分のために村に来たのです。村人たちはたまった不満をぶちまけた。

 「疎水ができるのに殺生や、水が来るまで待てんのかいな」

 「土地買うた者が儲けて・・・、お前等金持ちの味方ばっかりするんかいな」

 郡の吏員は何も言えませんでした。

 怒りに檄した村人たちに、戸長の岩本もなだめようもなかったが、吏員と話してもらちのあく問題でもありません。

 新郡長は「疎水の話が持ち上がって土地の値段もあがったし、売りやすくなったはずだ。売って納めるのがいやなら公売にするまで・・」と手かげんをしませんでした。

 不納者440人の畑地140町が処分されてしまいました。

 この時、6ヵ村730戸の農地7分の4以上の土地を奪われてしまったのです。

 その、ほとんどが土地を営々として開墾してきた小百姓の土地でした。

    まるで牛の餌じゃ

 この時(明治19年)のひとりの農民の様が、『母里村難恢復史略』に記されています。読んでおきましょう。

 ・・・・

 (内容の一部の訳・『母里村難恢復史略』に記されてない内容も付け加えています)

 

 ・・・3畳敷ばかりの藁小屋の隅で、年老いた農夫が釜でなにやらに煮物をしていました。

 農夫は、突然の来訪者におどろいたようすでした。

 「だれじゃいな」

 「役所から来たんやが、だれもおらへんおかいな」

 吏員は、釜の中をのぞいてみたくなりました。

 老農夫は、あわててその手を押さえました。

 「見たらあかん」「中のぞかんといてくれ」

 悲鳴にも似た声でした。吏員は、一瞬ひるんだが蓋をはずしました。

 煮えた釜には麦らしいものが浮かんでいましたが、ほとんどが藁でした。

 「牛の餌やないか」

 いくら貧乏でも牛並みのものを食べているとは知られたくなかったのでしょう。

 税金の話どころではなくなりました。

 郡吏は、だまってポケットから20銭を取り出すと、そっとかまちに置いて、「これで税金はろとけ」

 そう言うと、後もみずに出ていきました・・・

 *写真:品川弥二郎(大輔・たいふ)

 ◇きのう(2/25)の散歩(11.276歩)

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ぶらり散歩(17) 水を求めて(7)、どこまでも続く苦難

2019-02-25 08:44:59 | ぶらり散歩

 

   どこまでも続く苦難

      6ヵ村(現:母里)連合会結成

 疎水の話は、いつも工事費用のことになると前へ進みません。

 しかし、山田川疎水関係の印南新村、蛸草新村、野寺村、野谷新村、草谷村、下草谷の村々で疎水を造るための連合会がつくられました。

 役員もぐっと若返りました。

 魚住逸治23才(野寺村)、松尾要蔵29才(野谷新村)、岩本須三郎35才(蛸草新村)らを中心とし、若い熱と智恵で疎水問題が進められることが決まりました。

     国からの援助消える

 しかし、行く手に暗雲が待ち受けていました。

 新政府は、西南戦争等に多額の出費があり、出費を抑えなければならなかったのです。

 新政府は、明治13年、太政官代48号をだしました。

 その3条には、府県が実施する工事の土木費のうち、国からの下げ渡し金を14年度より廃止するというものでした。

     厳しい税の取立て

 それを追うかのように「明治14年3月25日、11・12・13年の祖額不足分を一時に徴収し、不納ものは断然処分すべし」という命令が届きました。

 北条郡長は、不可能なことを県に申し入ましたが、県からの返事は「不納ものは当然のこととして、処分せよ」でした。

 郡長の抵抗もむなしく、不納者の土地が公売に出されました。

 百姓の怒りは、沸点に達しようとしていました。

     飴(地租の見直し)

 新祖額に対する不満は他の地域でもおきていました。

 かたくなな態度をとっていた政府も、一部の祖額の修正に応じざるを得ませんでした。

 14年にずれこんだ地価の修正作業でしたが、全国の15ヶ村で祖額の修正が行われることになりました。

 しかし、この修正される村の中に、なぜか蛸草新村の名前がないのでした。 

 詳しいことは分かりませんが、これは隣り合う加古新村や国岡、国安、岡村への影響を考えてのことであったのかも知れません。

 蛸草新村の戸長(村長)、岩本須三郎にとってはつらい決定でした。

 「お人よしやから、甘う見られるんや」「村のもんは、えらい迷惑や」と言う者もいました。

     鞭(より厳しい取立て)

 県の租税課は、「減税は行われたのだからもはや文句はないはずである」と、地租未納の徴収は一段と激しさを増しました。

 県の命令に郡長も従わざるを得ません。

 郡長は、印南6ヵ村の主だった者に伝えました。

 「先日、県令より命令がありました。印南新村の地祖未納者処分をせよと言うことです。

 皆さんにも地租未納分を完納してもらわねばなりません。

 しかし、「ないものはない」のでした。

 陳情の効果もなく、不納者221名の土地は公売されることになりました。

 しかし、入札者は一人も現れませんでした。買い手はありませんでした。

     印南新村の百姓たつ

 明治15年は、なんとも気の重い年明けとなりました。

 「240町の土地を農民から取り上げることは、百姓の生きる全てを奪うことになる。

 営々として積み上げた苦労を、村を一気につぶすことになる。法の定めに従うとはいえ、人間として許されるのだろうか・・・」

 郡長は、言いようのない悔いと、おののきを覚えるのでした。

 ・・・・

 数日後、印南新村の男200人あまりが郡役所を目指しました。

 郡長がその知らせを受けた時は、すでに加古川の町に迫っていました。

 午前10時。一群は寺家町の役所に着きました。

 さっそく、郡長に直訴しました。

 (百姓)「この度のこと(地券没収)は、人とも思えぬ仕打ちであり、あまりにもひどい。このような仕打ちをした県令は、おそらく真実を知らないとしか思えません。

 百姓も立たなあかん時があります。今がそのときやと思てます・・・」

 (郡長)「皆さんはお願いに行くつもりでも県令は、一揆ととるでしょう。

 その後にまっているのは、処罰だけです。どないしたらよいか、よう考えてください。・・・皆さんでよう話し合ってください」

 郡長は、いっとき部屋にこもりました。

     郡長は味方や

 ややあって、郡長は呼びだされました。

 (百姓)「・・・来る時、丸尾戸長(村長)に冷静に行動するように言われました。

そして、郡長はたとえ役人でも村のことを真剣に考えてくれはった。役人の中でたった一人の味方や。

 わし等には、まだ大事な郡長や。郡長の話をよお聞いて欲しいといわれました。話はまだ、まとまっていません」

 北条郡長は、熱いものがこみ上げてくるのでした。

 百姓は、来た道をひきあげていきました。(no4551)

 *地図:印南6ヵ村

 ◇きのう(2/24)の散歩(10.841歩)

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ぶらり散歩(16) 水を求めて(6)、北条直正、播州葡萄園にかける

2019-02-24 07:47:05 | ぶらり散歩

     北条直正、播州葡萄園にかける

 地租が高い。従って土地は売れない。そんな時でした。北条は、大阪朝日新聞に、「官営ブドウ工場をつくるため、国は土地を求めている」というニュースをみつけました。

 北条は、土地を母里地区に誘致し、土地を国に買い上げてもらう。

 その金で納税する。税を完納して、今度は疎水の誘致を確実にさせよう。

 土地を売った農民は、ブドウ園で働かせてもらう。

 北条は、これより外の方法は考えられませんでした。

     福羽逸人の来県

 数日後、政府のブドウ園担当の福羽逸人(ふくばはやと)らの来県の知らせを受け、郡長は急いで上庁し訴えました。

 (北条)印南野は台地で水がありません、そんな土地でもよろしいのでしょうか。

 (福羽)葡萄は、暖かなところであれば良いのです。あまり水は必要としません。

 郡長は福羽を印南新村へ案内しました。穏やかな師走の一日でした。

 戸長(村長)の丸尾茂平次は、少し遅れてやってきました。

 (丸尾)ご苦労様です。戸長の丸尾と申します。・・・

 (福羽)とりあえず地続きの土地を30町歩ほど買い上げたいのです。

 数日後、福羽は再度、印南新村へ向かいました。

 (福羽)私が買い上げた地土地は耕作地ではありません。1反2~3円の荒地です。

 (北条)前にもお話をしましたように、ここいらは麦をはじめ作物の生長はよくありません。土がやせていて荒地と変わらんのです。

 それでも、地租だけは外の村と同じように課せられ、百姓は土地を売るより方法がなくなってしまいました。

 しかし、近頃では、高い地租のため土地の買い手もなくなりました。ここの百姓を救っていただきたいのです。

 「農民が、地租を納めるために土地を売る。郡長は、そのために頭を下げて頼む」という、なんとも不思議な光景でした。

     地価は、23円であるのに

 今度は、百姓の理解を得るのがたいへんでした。

 (百姓)「国の役所に土地を買い上げてもらうのでっさかい、1反23円で買うてくれるんでっしゃろな・・・」

 印南新村の地価は、一反23円として地租が決められているのですから、百姓がこういうのも当然です。

 県は一反の地価を23円と決めておきながら、いま国は「2~3円で買い上げたい」というのでした。

 しかし、戸長(村長)の茂平次は、「地租を納めなければ疎水はできないこと、疎水ができなければ村は良くならないこと、葡萄園がその望みをかなえようとしてくれること、今は畑が1反2~3円でも売れないこと」などの言い訳におわれました。

     1反6円で買い上げられたが

 福羽も事情を理解してくれ、反当り6円で買い上げることまでの妥協ができました。それ以上は、予算の都合で無理でした。

 (福羽)6円以上の場合は白紙にもどします。1週間後に、戻ってきますのでそれまでに決めておいてください。

 話し合いは、6円と6円50銭のまま折り合いがつきませんでした。

 郡長は、戸長の丸尾に手紙を書きました。

 内容は、「買い上げの価格の6円と希望価格の6円50銭の差額は、郡長が私財をもって、つぐないたいから承諾欲しい」というものでした。

 郡長の気持ちを知り、地主たちもついに納得しました。

 2月、印南新村の30町2反8畝12歩の土地は、代価1816円69銭 1厘で国に買い上げられました。

 しかし、地主たちはその代金を手にすることはなく、全て地租として納付されました。

     官営、播磨葡萄園

 明治13年2月、政府は約30ヘクタールを買収し、3月播州葡萄園はスタートしました。

 明治17年には、松方正義大蔵卿(後、総理大臣)、西郷従道(さいごうつぐみち)農商務長官が葡萄園を視察しました。

 官営の播磨葡萄園の開設により政府の要人がしばしば印南新村を訪れるようになり、当地の事情が、直接中央でも知られるようになり、疎水の必要性も認められるようになりました。

    葡萄の天敵・ブドウフィロキセラ被害広がる

 明治18年6月、葡萄の天敵であるブドウフィロキセラがみつかりました。

 フィロキセラ大繁殖により、葡萄の木は衰弱して、明治20年代の後半、播州葡萄園は、閉園となってしまいました。(no4550)

 *写真:播磨葡萄園発掘現場(『播磨ブドウ園発掘調査書』より)

 ◇きのう(2/23)の散歩(10.708歩)

 

 

 

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ぶらり散歩(15) 水を求めて(5)、森岡県令 VS 北条郡長

2019-02-23 09:05:00 | ぶらり散歩

 

   貧乏神 

 丸尾茂平次は、早朝から地租の督促に家々をまわっていました。

 「松う、おるか」

 「よう見えてまっしゃろ」

 夏の熱気は朝から強く、開けっぱなしの家の中はまるみえでした。

 「そら、わしも(地租)払いたいんやが、みてのとおりなんもおまへん。泥棒かてきてくれまへんわ。

 用心がよろしおますわ。

 もうなくなるもん、なんにもあらへん。

 残っとんのは、お婆だけでっせ。そいでよかったら、地租の代わりに持っていってもろたらよろします」

     土地が売れない

 以前では一反2~3円で売れていた畑も、最近では金に換えることが難しくなりました。

 あまりに高い地租のために、土地を買ったらその負担が大きくなるので買い手がなくなってしまったからです。

     森岡県令 VS 北条郡長

 県の庁舎で郡区長会が行われた日、北条郡長は少し早めに上庁して県令に訴えました。

 (北条郡長)

 県令殿のご命令ではございますが、法の通り処分すれば、印南新村畑地はことごとく公売になります。

 そうなれば、畑はすべてよそ者の所有となり、村がなくなってしまいます。

 (県令)

 たとえ亡村になろうとも、処分すべきである。

 (郡長)

 従いかねます。

 (県令)

 なに!おいの命令が聞けんとか!

 (郡長)

 ・・・租税官が地租改正で違法の税を課したため、人民はその負担にたえられず仕方なく不納になったのです・・・

 卑しくも官民の間に立ち、職を奉ずる者が民情をのべるのは当然ではありませんか。無理理非な重税を課して、不納となった者を処分するなど、そのような非理無法なことは絶対に行えません

 (県令)

 おはん!

 その日は押し問答でおわりました。

 あくる日、北条は、昨日の言葉のいき過ぎを佗に県庁を訪れました。

 県令も思うところがあってか、態度があらたまっていました。

 北条に次のような提案をするのでした。

 「租税官が改正法の施行に間違いがあったとしても今は祖額の改めようがない。

 村民には気のどくだが、完納してもらうしかない。そのかわり、山田川疎水の建設に努力しよう。

 県令が疎水を持ち出してきました。この機を逃せば疎水事業はできないかもしれない。

 でも、納税のめどは立たない。

 この時、ブドウ園建設計画という思いがけない話が飛び出してきました。(no4549)

 ◇きのう(2/22)の散歩(10.849歩)

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ぶらり散歩(14) 水を求めて(4)、草谷新村・旧税の11.23倍(明治11年)

2019-02-22 09:42:44 | ぶらり散歩

 印南野台地は、南と西に徐々に低くなっています。

 印南野台地は雌岡山の北の山田川から水を弾けたら、水は比較的たやすく流れてくれる自然の地形となっています。

    水が欲しい

 野寺村の魚住完治等は、神出村の西村茂左衛門、藤本増右衛門を招いて山田川からの測量のことを聞くことにしました。

 魚住完治は、幾度となく測量しました。

 完治は、その費用のほとんどを私財で負担しました。

    草谷新村、旧税の11.23倍 

 新祖額の調査が遅れて、発表が11年(1878)となったため、11年の末に納める額は、9・10年度の分が加算されました。

 旧税の実に6倍という常識を超える額となりました。

 明治11年、印南東部6ヵ村(現:稲美町母里)の旧税に対する倍率を『稲美町史』からひろっておきます。(『稲美町史』426p)

 印南新村7.17倍、野谷新村7.32倍、草谷村2.7倍、野寺村6.80倍、草谷新村11.23倍、下草谷4.00倍でした。

 この数字は、なんとしたことでしょう。

 悪い時には悪いことが重なるのが常のようです。

 明治9・10年は、またもやこの地方に旱魃が襲いました。母里地区は田の植え付けは例年の40%に減らしました。畑は30~40%の植え付けとなりました。

 こんな年には、旧藩なら当然減税の上、救助米が支給されました。

 新政府の地租改正は、凶作により税の減収をなくすことを目的にしていましたから、凶作でも減税はありません。

 魚住完治の疎水計画は、動かなくなってしまってしまいました。

 完治は、村々に疎水の大切なことを説いてまわりましたが、百姓の答えは、決まったように、「魚住さんの話はよう分かります。せやけど、毎年の日照続きで、先立つものがありまへん・・」

 こんな状況を一変させたのは、ひにくにも「地租改正」でした。

 「このままでは、百姓は土地を手放し、村を出ていかなあかん」「なんとかせなあかん」

 せっぱつまった百姓の考えが徐々に変わってきました。

     初代加古郡長・北条正直の決意

 北条正直は、在職中(明治15年罷免)まさに義人でした。

 郡長(北条直正)の出身の林田藩では代々、水利開発に力を入れていまして、310年の間に大きな新田開発をたびたび行っています。

 いずれも、まず用水路をつくり、水を確保しています。

 お聞きしました山田川よりの引水は、政治をする者が率先して計画実践すべきことであります。

 「私はこのことを県令殿に申し上げ、少しでも早く着手されるようにお願いしましょう・・・」

 北条の話に、完治は目頭をおさえるのでした。(no4547)

 ◇きのう(2/21)の散歩(10.636歩)

 *写真:北条直正

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ぶらり散歩(13) 水を求めて(3)、加古郡長・北条直正

2019-02-21 08:32:15 | ぶらり散歩

   加古郡長・北条直正

 加古郡役所(加古川町・寺家町)は、明治19年に建設されました。

 場所は「人形の店・陣屋」のすぐ東です。

 郡役所の話ではなく、加古郡の初代郡長・北条直正の話です。

 小説『赤い土』(小野晴彦著)は、彼についての詳細を紹介しています。

 北条直正は、まさに義人でした。

 当時、県令(今の県知事)は、森岡昌純で、彼は薩摩出身で、どこまでも新政府の指示に忠実な人物でした。

 その彼が、地租改正で「腕をふるう」のでした。

 地租改正で、大増税になりました。母里地区(稲美町)の税は、江戸時代に比べて一挙に3倍をこえたのです。多くの農民は税を払うことができなくなりました。

 197戸と総戸数の半分以上が、土地を失い破産状態となりました。

 それでも、森岡県令は農民に税の完納をせまりました。郡長の北条は、農民の窮状をだまって見過ごすことはできませんでした。

 農民は、鍬を持ち、蓑笠をかぶり県庁に押しかけたこともありました。まさに一揆の再現でした。

 『赤い土』の著者は、北条郡長に県令(森岡)に向かって語らせています。

 「・・・いやしくも官民の間に立ち、職を奉ずる者が民情を述べるのは当然ではありませんか。無理非道な重税を課して、不納となった者を処分するなど、そのような非理非道なことは絶対に行えません」と。

 その後も、農民と郡長の苦難は続きます。

 明治15年、郡長に突然の転任の内示がありました。好ましくない人物として追われたことは明らかでした。

 明治時代前期の母里地区の苦闘を、北条直正は『母里村難恢復史略(もりそんなんかいふくしりゃく)』として残しました。

 『赤い土』はこれをベースに小野氏は小説にされました。全部を詳細を紹介できません。『赤い土』をお読みください。(no4546)

 *写真:『母里村難恢復史略(もりそんなんかいふくしりゃく)』(北条直正著)

 ◇きのう(2/20)の散歩(10.501歩)

 

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ぶらり散歩(12) 水を求めて(2)、村が潰れてしまう!

2019-02-20 09:52:40 | ぶらり散歩

        きびしい租税(租額)

 明治10年の春でした。地価を調査するための調査員が台地の村へやってきました。

   新祖額では村が潰れてしまう!

 そして、明治11年7月24日、新祖額が申し渡される日をむかえました。

 印南新村の丸尾茂平次は、気がすすまぬまま、姫路妙光寺へ出かけました。

 会場には各戸長(村長)の代表等数百人が集まっていました。

 県の掛長は、はっきりした声で述べました。

 「それでは各改正掛より新祖額をお渡しする。よく確かめて印を押されたい」

 新祖額が戸長(村長)代表に渡されました。

 茂平次は、体のふるえが止まりません。

 印南の東部6ヵ村の代表は、その不当な祖額をなじりました。

 祖額は、旧祖額(江戸時代の年貢率)と比べて蛸草新村は4.96倍、野谷新村は3.49倍、印南新村は3.44倍、野寺村は3.3倍、下草谷村は2.25倍でした。

 比較的少ない草谷村でも1.76倍です。

 掛長は、「きょうの六か村の祖額が間違いであったとしても、いずれ正される。

 だから、今日は、ひとまず調印されたい・・・」というのが精一杯でした。

 6ヵ村の戸長(村長)は、「県令」の強引なやり口をしっていました。

 印南新村を除いてしぶしぶ調印しました。

 丸尾茂平次だけは調印をことわりました。

 

 

 県は、印南東部6ヵ村(現:稲美町母里地区)に対し、とてつもない祖額を申し渡しました。

 もともと、この地域は水が少なく、収穫が少ないため、他の地域よりも年貢が少なかったのです。

 それが他の地域なみに祖額が決められたら一挙に税が高くなるのは当然のことです。

 さらに、地租改正では、祖額は地価の3%(明治10年より2.5%)で金納になりました。

 お金で納めたのですから、天候には関係がありません。収穫のないときでも容赦なく決まった税が課せられたのです。

 百姓には、たくわえなんてありません。収穫の秋に、米は暴落します。

 安くても、この時期に米を売らなければ借金は払えません。

     茂平次、新祖額に調印す

 印南新村の戸長(村長)の茂平次は「こんな祖額は、お受けできません」と、きっぱりと断わりました。

 掛長はいらだったが、茂平次は動じなかった。

 場所をかえて、茂平次への説得は続きました。

 担当官は、茂平次の宿舎までおしかけました。

 説得は深夜にまでおよび、茂平治の意識はもうろうとしてきました。

 そして、とうとう調印を承諾してしまいました。

     

 翌朝、茂平次は姫路の宿舎を出て一人村へ向かいました。

 夏の日差しは、容赦なく茂平次に照りつけました。

 昨夜から、何度も同じことを繰り返していました。

 「印を押したことは間違だった」「仕方ないことだった」「・・・・」

 村人は、茂平次を見つけ、冷たい水と手ぬぐいを差し出しました。

 集まってきた村人は、茂平次を責められません。

 昨夜からのいきさつを村人たちはよく知っていました。

 茂平次は、村に新祖額を伝えました。

 改正祖額が伝えられると、内容は広まっていたものの、村人は激怒しました。

 「役人は人殺しや」と国をののしる者もいました。

 怒りをどこへぶつけてよいのかわかりません。(no4545)

 ◇きのう(2/19)の散歩(10.756歩)

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ぶらり散歩(11) 水を求めて(1)、大増税始まる

2019-02-19 08:19:18 | ぶらり散歩

   水を求めて(1)

  大増税始まる

 19世紀前半の文化~天保期(1804~49)には、新しい商品作物として綿の栽培が急速に広がりました。

特に、綿作は水のすくない印南野台地の人々にとって、欠かすことのできない商品作物となりました。やがて、江戸幕府は終わり、日本は開国をします。

 それに伴い、安い外国綿がどっと輸入され、国内の綿生産の衰退は決定的となりました。

 印南の台地の村々は、水が少なく十分な米の収穫がありません。

 そこに、新しい税制(地租改正による大増税)でした。

   『母里村難恢復史略』

 稲美町の「郷土資料館」に『母里村難恢復史略(もりそんなんかいふくしりゃく)』(以下『難恢復史略』)が展示されています。

 著者は、北条直正(ほうじょうなおまさ)です。

 *北条直正については後に詳細を紹介します。

 明治12年、加古川の寺家町に「加古郡役所」が設置されました。北条は、県から任命された初代・加古郡の郡長です。

 彼は、水と貧困にあえいだ母里地区の状況を記録し、先人の記録を『難恢復史略』にまとめています。まさに、壮烈な先人の歴史の記録です。

    県令・森岡昌純

 飾磨県令(知事のこと)は、森岡昌純(もりおかまさずみ)で、まさに官僚主義そのもののような人物でした。

 森岡が兵庫県の地租改正の先頭にたって指導することになりました。

    県令の陣頭指揮

 さっそく、明治8年(1875)、地租改正の基礎となる地価を決める土地の測量に取りかかりました。

測量の打ち合わせの会が行われました。この時、森岡みずから出むき意見を述べています。

    県令、早期の地租改正を迫る

 森岡昌純は、飾磨県の県令でしたが、明治9年9月4日、東京・京都・大阪に次ぐ大兵庫県の初代の県令に任命されました。

 (兵庫県は、明治9年にそれまでの兵庫県・豊岡県・姫路県・名道県が一つになり、今の兵庫県が誕生しました)

 森岡は、自信と満足感でいっぱいで、心に「地租改正」の早期実施を誓うのでした。

 初登庁の日です。

 県会議員や職員が集まり、森岡は第一声を発しました。

 ・・・「さっそくであるが、いま、われわれが早急にとりくまなければならぬ仕事は「地租改正」である。

 これより直ちに、地価の評価と地租の算定を急いでもらいたい。・・・

 以後、県令の意を受けて、地租改正の作業は急ピッチで進められました。

 そして、明治11年、新地租(税率)が各村々に申しわたされたのです。

 大増税でした。(no4544)

 ◇きのう(2/18)の散歩(11.108歩)

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