華やかな歌会でした。が・・・
4月の初めのころでした。稲美町の万葉の森に出かけました。
元号「令和」の典拠となった歌碑を見学するためです。
ここへは何度も来ているのですが、こんなに華やいだ「万葉の森」は初めてでした。やはり元号(令和)に関心があるのですね。
見学に来た目的は、この歌碑を見たかったためですが、何よりもその作者が「大伴池主」になっていることを、直に確認したかったからです。
その理由は、次回にします。今日は歌の意味と当時の社会情勢を、少しだけ見ておきます。
天平二年の正月十三日に、太宰府の大伴旅人(おおとものたびと)の家に集まって、宴会(うたげ)が開かれました。
この歌会が開かれたのは、現在の暦では、西暦730年2月8日ごろだそうです。
意味は、次のようです。
時に、初春の令月にして、気淑(よ)く、風和らぐ。
梅は、鏡前の粉を披く蘭は珮後(はいご)の香を薫(くゆ)らす。
もう少し、分かりやすくしておきましょう。
折しも、初春の佳(よ)き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかく、そよいでいる。
梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香にように匂っている。
天平時代は、藤原氏の陰謀で幕を開けた
この歌を詠む限り、大伴旅人の気持ちは、穏やかで平和な春の陽気のようです。
少し年表を見ることにします。
この歌会(宴会)が行われたのは、天平二年(730)です。
この前年の神亀五年(729)に、絶大な勢力を誇っていた長屋王は、藤原氏の陰謀により亡くなりました。
(*神亀五年8月5日、天平に改元。ですから、天平元年は8月5日から12月31日まで)
長屋王は自害、妻も後を追いました。長屋王家は滅亡しました。
しかも、密告から三日という短い期間で終わった政変でした。
その後、藤原一族は、急速に勢力を拡大します。
奈良時代を代表する華麗な天平時代は、長屋王の悲劇を踏み台にした幕を開きました。
大伴旅人は、反藤原一族に属していました。
当然、このニュースは、太宰府に伝たえられていたでしょうから、大伴旅人の気持ちは、この歌どおりでは、なかったでしょう。(no4789)
*写真:ハイ一句(写真は大宰府ではありません。「いなみの万葉の森」です。撮影は1910年)