ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(85) 奈良時代(9) 令和について(2)・華やかな歌会でした。が・・・

2019-11-08 08:37:28 | 大河・かこがわ

      華やかな歌会でした。が・・・

 4月の初めのころでした。稲美町の万葉の森に出かけました。

 元号「令和」の典拠となった歌碑を見学するためです。

 ここへは何度も来ているのですが、こんなに華やいだ「万葉の森」は初めてでした。やはり元号(令和)に関心があるのですね。

 見学に来た目的は、この歌碑を見たかったためですが、何よりもその作者が「大伴池主」になっていることを、直に確認したかったからです。

 その理由は、次回にします。今日は歌の意味と当時の社会情勢を、少しだけ見ておきます。

 天平二年の正月十三日に、太宰府の大伴旅人(おおとものたびと)の家に集まって、宴会(うたげ)が開かれました。

 この歌会が開かれたのは、現在の暦では、西暦730年2月8日ごろだそうです。

 意味は、次のようです。

 時に、初春の月にして、気淑(よ)く、風らぐ。

 梅は、鏡前の粉を披く蘭は珮後(はいご)の香を薫(くゆ)らす。

 もう少し、分かりやすくしておきましょう。

 折しも、初春の佳(よ)き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかく、そよいでいる。

 梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香にように匂っている。

    天平時代は、藤原氏の陰謀で幕を開けた

 この歌を詠む限り、大伴旅人の気持ちは、穏やかで平和な春の陽気のようです。

 少し年表を見ることにします。

 この歌会(宴会)が行われたのは、天平二年(730)です。

 この前年の神亀五年(729)に、絶大な勢力を誇っていた長屋王は、藤原氏の陰謀により亡くなりました。

 (*神亀五年8月5日、天平に改元。ですから、天平元年は8月5日から12月31日まで)

  長屋王は自害、妻も後を追いました。長屋王家は滅亡しました。

 しかも、密告から三日という短い期間で終わった政変でした。

 その後、藤原一族は、急速に勢力を拡大します。

 奈良時代を代表する華麗な天平時代は、長屋王の悲劇を踏み台にした幕を開きました。

 大伴旅人は、反藤原一族に属していました。

 当然、このニュースは、太宰府に伝たえられていたでしょうから、大伴旅人の気持ちは、この歌どおりでは、なかったでしょう。(no4789)

 *写真:ハイ一句(写真は大宰府ではありません。「いなみの万葉の森」です。撮影は1910年)

コメント
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